パオと高床

あこがれの移動と定住

若松英輔『日本人にとってキリスト教とは何か—遠藤周作『深い河』から考える』(NHK出版新書2021年9月10日)

2021-12-30 21:33:18 | 国内・エッセイ・評論

若松は、遠藤周作の集大成と考える小説『深い河(ディープリバー)』を軸にして、詳細に読解しながら、
遠藤周作が語ったこと、語りたかったこと、語り得なかったこと、語るという行為の先に、
なお続こうとする〈コトバ〉の気配を考察していく。
それはキリスト教と東洋的な霊性との出会う場所に至る。そうして、それぞれの宗教が持つ神の淵源に向き合っていく。
遠藤周作の『深い河』を読んだときに、ボクが感じたスリリングな体験(?)だった。
若松英輔は、そこに思想的な背景や、この考えの特殊性と普遍性を解説してくれる。
小説を読んだときの感覚は、若松の解読によって支柱を与えられる。

若松は、『深い河』のさまざまな部分について遠藤周作の思いを読み取ろうし、また、そこに若松の思いを重ねていく。
小説は読者によって生きるし、読者は小説によって読書の意味に出会う。つまり、読者は小説によって生かされた時間に出会う。
案外それは、そのあと過ごす時間に影響を与える。過去は、現在を経て未来へとつながる。
同時に、未来は過去を可逆的に呼び覚ます。
この若松の著書の言葉にならえば、「クロノス」(生活の時間)と「カイロス」(人生の時間)に架橋すということか。

一気読み必至の小説がある。『深い河』もそうだ。でも、遠藤周作の『深い河』は、突然、一気読みしたくなくなる。
立ち止まってしまうのだ。
つまらないからではない。逆で、立ち止まらないと、見えない、感じられない、聞きとれないことがあるのではという、
ためらい=ブレーキがかかるのだ。
方法論的にはブレヒトは「異化」というのかもしれない。が、それとは違うような。
むしろ、もっと嚙まなきゃ出会えない味があるかもしれないと思わせる、やり過ごせない束の間の躊躇。
一気読みの小説は楽しい時間を過ごせていいのだけれど、一気読みしたくなる気持を、
「待ちませんか」とささやきながら、時間を脱臼させる小説っていいな。
という、読み方を示してくれる評論は、それこそ読書の快楽だ。

若松英輔の文章は、語りかけに本来性を持っている。
これは、彼が、伝達するとはどういうことか、私たちは伝え合いながらどのように他者に出会い、
また共有できるあなたに、どのように出会えるのか、
そのときに生まれる私たちの共時とは何なのかを求め続けている結果の文体だと思う。
それが、この本のこんな一節に書かれている。
遠藤周作が母から受けとったであろうことについて書かれた部分だが、
これは、単にキリスト教についてだけではない。

「遠藤にとってキリスト教は、本を開いて学ぶべきものであるよりも、人から人に伝えられるべきものだったのです。
//人から人、あるいは魂から魂へと伝わるべきもの、それは言葉になり得ないものでもあります。しかし、遠藤は、
言葉たり得ないと分かっているものを、生涯を賭して書いていったのです。」

と、若松はこう書く。
これは、遠藤周作でありながら、若松英輔の想いである。
人から人へ伝わるべきもの、言葉になり得なものを言葉で書きつづけるということ、
これは伝道者への敬意であり、作品が永遠を生きるための、必然的に取るべき態度なのかもしれない。
作品が永遠を生きるとは、作者が永遠性を作品によって付与されることかもしれないが、
作者の名のみが歴史的に刻まれるということではない。
作品の永遠性は、イエスの復活と類似的なものといえるのだろうか。
つまり、作者も含めて、作品に出会った者たちが、作品を生かし続けるという永遠性。
それを獲得したものは、つねに再来する、再帰する。
そして、語りつづけるのは、語り得ない大いなる地平を持った、今こそその時の、この束の間の、
ボクたちの立ち止まりかもしれない。
時よ、ただ流れるな、いま、このひとたびに立ち止まる時も、また、時。
時よ、振り返るな、いま、このひとたびに立ち現れる時は、また、時。

物理学的には時間の一方向性は、「?」マークがついている。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« クリスマスの約束 小田和正 | トップ | ケン・リュウ『Arcアーク... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

国内・エッセイ・評論」カテゴリの最新記事