パオと高床

あこがれの移動と定住

梅津時比古『《セロ弾きのゴーシュ》の音楽論』(東京書籍)

2010-06-18 22:46:02 | 国内・エッセイ・評論
副題は「音楽の近代主義を超えて」となっている。宮澤賢治の童話『セロ弾きのゴーシュ』をたどりながら、演奏論、演奏家論を展開していく。
作者がプロローグで書いているように、ここには「ゴーシュのセロとともに内なるアンサンブルを奏でながら、近代主義を超えた、来たるべき演奏についての、新たな探求の旅」があるように思える。展開されるのは、作家論や作品論ではなく、音楽を響かせるその要素からアプローチされる「演奏論」であり、音楽がなる場合に、その奏でられた音楽が,どのようにして成り立っていて、響いているのか、また、それをとらえる言葉の環境がどのようなものなのかまで考えさせられる。そこには、近代合理主義への、効率性と便宜普及性に軸を置いた近代合理主義への反省と問いかけがある。

章立ては、第一章が「楽器の思想」、二章が「テクニックの思想」、三章が「音程の思想」という三部構成である。

一章の「楽器の思想」では、ゴーシュのセロの問題に触れ、宮澤賢治自体が手にしただろう穴あきセロの話から、楽器という演奏家にとっての「死活問題」に言及していく。そして、名器と呼ばれた楽器の持つ特性について語りながら、楽器を手段と見る二元性から、楽器を表現の核ととらえ、「楽器と演奏者との関係性が、音楽を表現する主体の中に組み込まれている」と転換させる。身体性と身体の関係性である「間身体性」という現象学の考えを導き出しながら、楽器の身体性を語り、そこに演奏家との間身体性、間主観性を見出していくのだ。
二章では、さらにテクニックの問題をめぐって、「表現を伝えるための技術」である「テクニック」と、「機械的な指の動きの技術」である「メカニズム」を分けて、それをめぐる従来の考えに宿る近代性を批判しながら、身体の回復を問いかけていく。と、書くと何だろうという感じだが、実際はカラヤンとフルトヴェングラーをめぐる近代性の差異を語って近代合理主義と商業主義の問題に触れたり、伝達の一元化を避ける伝達するものとされるものの多様性と発信者と受信者の相互主体的なコミュニケーション論を援用しながら、表現の相互主体性を語ったり、そこにある身体性としての演奏を知へと転倒させてしまう近代的知の問題をバタイユなどから語り明かしたりしていく。ここでは、実は感動の実際がどこにあるのかをおいかけているような気がする。
そして、三章。ボクはここが一番面白かったのだが、調律におけるピアノの平均律の限界に触れながら、ずれの存在を語り、それをなくそうとする動きと同様に、その解消の先にある微妙な音程のずらしが、いかに音を豊かにしているかが語られる。数値を大切にする音程だが、それが数値だけに限定されず「完全なる調和」のありかを求めて数値を超えていく様子がスリリングなのだ。「調律の芸術」と書かれた調律師と演奏家との音をめぐる関係は、すごい。ピタゴラスコンマと呼ばれるずれや「平均律」という訳語を誤訳とし、「快適音律」という訳や「よりよくなだめすかされた調律法」という説明をしている人の紹介なども興味深かった。

とにかく、この作者の本は面白い。
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