パオと高床

あこがれの移動と定住

今福龍太『レヴィ=ストロース 夜と音楽』(みすず書房)

2012-10-11 10:05:08 | 国内・エッセイ・評論
「旅」という言葉は使えないのかもしれない。
何度か引用されているように、『悲しき熱帯』の書き出しが「私は旅も探検も嫌いだ」であれば。

では、何と言おう。「散策」だろうか。「遊歩」だろうか。それにしては、この本は、広がりながら深まるのだ。ただ、目的地に向けて論理を積みあげていくわけではない。「逍遙」する。しかし、「逍遙」の軌跡がルートではなく像を描きだしていくのだ。作者の今福龍太が意図したように、「音楽」の流れかもしれない。音の配置に導かれながら、いつかかいま見えるように全体が現れ、そして、消える。そこには時の集積が気配を残す。その「時」はある人物に集積される。「レヴィ=ストロース」という人物に。
そしてそれは、彼から溢れ出して、零れながら、今度は、「時」の中に彼を放つ。レヴィ=ストロースは、多くの誰かと共時的な空間を作る。今福龍太は、その空間を想像し、描き出し、「逍遙」する。それは、今福龍太のレヴィ=ストロースを巡る思索の「旅」でありながら、「時」が連れだした今福龍太のレヴィ=ストロースと共に在る共時空間の描き出しなのだ。だから、ここでは今福龍太その人も、描き出されていく。

今福はあとがきで書く、「本書で私は、レヴィ=ストロースの思想を解説するというよりは、彼の静謐な声がそこここに隠し置いていった、知の贈り物としての〈種子〉を自らの五感を動員して探し求め、拾い、それを新たな未来という大地に蒔こうとした」と。
「五感を動員」して感じとりながら、知をそこに絡めていく、文化人類学者の存在が、ここにはある。決して知性が五感を妨げない、五感が取り囲んでいく知性との音楽が、ここには、ある。
この本に限らず、今福の文章は、常に、こちらの感性を刺激しながら知の愉悦をもたらしてくれる。そして、「逍遙」は、ただ逍遙するのではなく、今福自身がさらにあとがきで書いているように、「生成、倫理学、感覚的叡智、夜のなかの音楽、自己投棄、生の虚妄、大地性、ずがいの蟻塚…」といった、「各章の主張」を、指し示しながら、未来へと続く地図を描き出している。道筋の軌跡ではなく、地図であり、像を刻みだすのかもしれない。

今福龍太に連れられて、レヴィ=ストロースによって交換される知の共時性の場へと誘い込まれていった。
そこには、バッハ、ベートーベン、ワグナーらの音楽との比較、ジョイスの「ユリシーズ」、ルソーの哲学、ボードレールの「猫」、ゴダールの映画、シモーヌ・ヴェイユとのニューヨーク公共図書館石段に腰を下ろしての交流、ジャンヌ・ダルクやラマンチャの男との類似、コンゴウインコ、小猿ルシンダとの交流、エルンストやアニタ・アルブスの芸術、オクタビオ・パスの独創、スーザン・ソンタグの論考、サン=テグジュペリの「蟻塚」などなど、豊穣につながる多くの「静謐な声」が流れていた。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 坂多瑩子「豊作」と「なつの... | トップ | 莫言「長安街のロバに乗った... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

国内・エッセイ・評論」カテゴリの最新記事