パオと高床

あこがれの移動と定住

斎藤茂吉「白桃」 一首一献(3)

2017-09-15 09:54:01 | 詩・戯曲その他


 ただひとつ惜(を)しみて置きし白桃(しろもも)のゆたけきを吾は食ひをはりけり

有名な歌。
斎藤茂吉。「〜界の巨人」という言い方を許される人の一人だと思う。
この短歌は第10歌集『白桃』の標題歌である。収録短歌は昭和8年から9年まで、刊行は17年である。ちょっと歴史記述をする。
昭和8年が1933年。茂吉51歳。前年が5・15事件で、この年に日本は国際連盟脱退。昭和17年は太平洋戦争を始めた翌年になる。茂吉60歳の時か。
茂吉の短歌で、中学校などでよく目にするのは、母の死を前にした『赤光』の短歌で、

 みちのくの母のいのちを一目見ん一目みんとぞただにいそげる
 死に近き母に添寝(そひね)のしんしんと遠田(とほだ)のかはづ天(そら)に聞こゆる
 のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳ねの母は死にたまふなり
 星のゐる夜ぞらのもとに赤赤とははそはの母は燃えゆきにけり

「其の一」から「其の四」までの構成の「死にたまふ母」連作である。引用は「其の三」までからだが、時系列にそって歌が並び、
茂吉の心と状況が呼応するように流れていく。松岡正剛は驚嘆すべき読書ブログ『千夜千冊』の中で、茂吉の『赤光』のこの連作に関して、

  挽歌「死にたまふ母」はなかでも大作で、一種の歌詠型ナレーションになっ
 ている。いわば“短歌による心象映画”でもある。

と書いている。「短歌による心象映画」。「こういう構成感覚は茂吉の師の伊藤左千夫にはなかったもので、すでに茂吉が徹底して新風を意識
していることが伝わってくる」と松岡正剛は続けている。茂吉の独創性の一端なのだろう。
それにしても何だか「アララギ」派という文学史的な臆断で斎藤茂吉のことを考えていたのだが、彼の歌をぱらぱらと読んでいると、なんのな
んので多様な姿に驚かされる。授業でならった「実相観入」といわれれば、例えば、

 沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ

戦後の茂吉批判の少し前にあたる歌である。この歌などに触れると、「写生」を、心や生命を対象と共に写し、客観性の枠から逸脱する「写生」
へと推し進めたといった教科書的な薄い理解をすいと越えてくれる。理論評論、美学的な視線も大切だが、実作がそれを追い越していく姿を見る
ような気がする。それこそ小林秀雄が「当麻」で書いた、美しい花がある。花の美しさというようなものはないといったような言葉を思い出す。

「白桃」に戻るが、この歌については、塚本邦雄が『茂吉秀歌「白桃」「暁紅」「寒雲」「のぼり路」百首』で書いている。彼は、

  味覚と視覚が至妙に交錯しつつ、結句で一種の法悦に近い満足感を伝へ、
 読者にも、その心理を体験させるほどの、特徴ある佳品と言ひ得る。

としたあと、果物の白桃の出自に触れていく。岡山で19世紀末に偶発的に生まれたこと。そして、この品種が当時まだ新しい品種で、「固くて酸
つぱい在来種に馴れてゐた日本人には、まさに味覚の驚異であつた」、「まことに鮮麗、純白の果肉は独特の香気を含み、くどからぬ程度の甘み
を保つ」と説明していく。この塚本の筆致がいい。
そして、茂吉は「最盛期に到来した数箇を、一つまた一つと賞味し、最後の一つを眺めて楽しんでゐたのだらう」と推察する。
で、これでこの歌への評は終わるのかと思わせておいて、塚本は茂吉が「白桃」を「しろもも」と読ませたことに触れていく。
「白桃」は「はくとう」という品種であり、銘柄だから「大和言葉にくだいて」見るのは違うだろうというのだ。茂吉が「岡山あたりの名産白桃」
と記したことから、むしろ「作者は名産白桃(はくたう)を一応考慮の外にして、外皮の白色に近い桃を白桃(しろもも)と称し、かつ歌つてゐ
た方が無難であつた」と苦言(?)を呈している。さらに「白」は「しら」と読む方が好みだとして、この歌への歌評の最後の一文を「私自身の
好みから言へば、白桃(しらもも)を採るだらう」と結んでいる。
言葉へのこだわり、話の展開、面白い。

「白桃」といえば、野呂邦暢に傑作短編があった。また、桃は様々な詩でも書かれていて、その比較もなかなか楽しい。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 井上法子『永遠でないほうの... | トップ | 岡部隆介  詩「白桃」 一首... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

詩・戯曲その他」カテゴリの最新記事