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行き先不明人の時刻表2

何も考えずに、でも何かを求めて、鉄道の旅を続けています。今夜もmoonligh-expressが発車の時間を迎えます。

「行き先不明人の時刻表」は、「Ameba ブログ」へ引っ越しをしました!

2025年07月05日 | 日記・エッセイ・コラム
かねてからブログのトップ画面で表示されているとおり、今秋「goo blog」はサービス終了することとなっている。これに伴い、「行き先不明人の時刻表」は、このたびブログ記事の引っ越し作業を行った。

引っ越し先は「Ameba ブログ」である。→ https://ameblo.jp/jikokuhyou485/

実はこのブログデータの引っ越し作業、今回で二回目となる。いずれもプロバイダーのサービス終了に伴うもの。(OCNブログ → goo blog → Ameba ブログ)
時代の流れか、昨今はYouTubeをはじめとした動画で直接メッセージを伝えるサイトが人気。もちろん自分も時間があるときは自分もついつい見てしまうのだが、これからも「まち歩き」しながら写真と文章でその土地の魅力を探っていきたいと考えての今回の引っ越しとなった。

開設18年間で二回引っ越しは多いか少ないか分からないが、その間、実に年齢を重ねた管理者にとって、かなり作業は大変であり勇気もいる作業であった。(かなりアップロードに時間を要するとのことだったが、一両日で完了した。)
ブログが最初に引っ越しをした時に数字「2」を付したが、今回は「3」ということになる。上記のURL、または「行き先不明人の時刻表3」で検索し、お気に入り登録、今後もフォローをよろしくお願いします。

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福井空港訪問!福井に空港があること、ご存じでしたか?

2025年06月29日 | 旅行記・まち歩き


敦賀、小浜、三国など福井の各地を訪問し、特に交通の要所として栄えた町のその歴史や遺産群、不思議な光景を紹介してきた。港、鉄道、そして高速道路、あとは空路・空港ということになるが、福井県って空港ありましたっけ?
自分の中では福井県には空港は存在しないという認識だったが、福井市から三国に向かう途中で「福井空港」という看板が目に飛び込んできた。これは立ち寄らなければならないと思って県道を右折、すぐに空港ビルらしき建物が見えてくる。
決して大きいとは言えない建物、少し年数の経過も見て取れる。駐車場もさして広くないが、停めてあるクルマの数も少なく、玄関の真ん前のスペースに停めることができた。しかし、駐車場や建物付近に人影は見えない。利用されている?幻の空港なのか?



中に入っていいのか迷うくらいの静けさだが、「見学の方へ」との表示があってドアが開いていたので、そーっと中を覗いてみる。ロビーはきれいに整理されていて展示物なども掲げられている。正面にはエプロンと誘導路、その奥に滑走路が見える。これは間違いなく空港だ。
福井県土木部港湾空港課・福井空港事務所が管理する福井空港は、1200メートルの滑走路を持つF級(着陸帯の等級)空港(福井県坂井市)。1966年に竣工し東京(羽田)への定期便もあったが、1976年すべての定期便が休航となってから、飛行機が飛ばない空港と呼ばれてきた。
というのも、隣接の小松空港(石川県小松市)は1944年海軍飛行場として開設(現在も航空自衛隊と滑走路などを共用)され、2700メートルの滑走路を持つ空港へと整備が進められた。東京(羽田)をはじめとした国内便のほか、ソウル便など国際線も4路線。それを追行した福井空港は、なかなか追いつけなかったといったところか。



現在の福井空港は、県の防災ヘリ、県警ヘリ、ドクターヘリなどの基地という重要な役目を担っているとともに、グライダーの訓練場所としても活用されている。ただ、2023年度には小型機の発着を含めて、4600回の着陸機会があって、ここ数年の中では飛躍的な伸びを示した。
というのも、能登半島地震の発生(2024年1月1日)の際、救援ヘリが集結したことによる。ただ、駐機場が手狭なことが指摘されたことにより、福井県は有識者による検討委員会を開催。夜間の緊急着陸のための照明の設置、自衛隊の大型ヘリ(CH-47J・チヌーク?)を活用したD-MATの活動に資するように新空港ビルの建設などの構想を発表した。
福井県民でさえ空港があるという意識も低いようだが、防災の観点から空港の重要性は高い。また、プライベートジェットの離着陸も増えていることから観光面の活用なども盛り込んだ整備を図るということなので、新・福井空港が誕生する5年後を楽しみにしたい。



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「三国湊きたまえ通り」で歴史の面白さと冷酷さを知る

2025年06月26日 | 旅行記・まち歩き


福井の港町を紹介してきた。敦賀では、列車と港の連携により大陸とつながっていたこと。小浜では、港と鯖街道で都との交流があったこと。どれも興味深いのだが、三国港に来てエッセル堤を見学後、少し三国の町の中を歩いてみたが、ここにも魅力的な歴史や文化、風景があった。
三国港(ここでは、歴史的観点から「三国湊」と表記する。)のある三国町、正確には福井県坂井市三国町、平成の大合併により三国町を含む坂井郡の4町が合併し「坂井市」となった。三国湊は室町時代の「廻船式目」の三津七湊(さんしんしちそう)にも数えられ、古くから日本海側の重要な港町として発展してきた。
栄華を極めたのは江戸時代から明治期にかけての北前船の寄港地であったこと。エッセル堤を中心とした明治三大築港事業が施されたのも、この頃交易により富を得た豪商が港の整備やまちづくりに大きな役割を果たしたという。エッセル堤の建設費も地元商人が四分の一の工事費を負担したという。




三国の中心地である「三国湊きたまえ通り」を歩いてみた。ガイダンス施設である「マチノクラ(写真上)」を覗いてみると、ビデオやパネルなどで三国の町と港(湊)はどのような歴史をたどって発展してきたかを知ることができる。北前船の模型やエッセル堤の資料も展示してある。最初に来るべき場所だった。
このエリアは、今庄小浜若狭熊川宿のようなエリアとしての指定はないが、登録有形文化財である建造物があちこちで保存されている。マチノクラ隣接の「旧岸名家」は三国湊で材木商を営んでいた。江戸末期の「かぐら建て」の町屋で、内部を公開して当時の商家の生活を紹介してくれる(写真上)。
きたまえ通りの中心部には豪商・森田家が創業した「旧森田銀行本店」のモダンな建物がある(写真下)。1920年(大正9年)に建設されたもので、福井県内では最古の鉄筋コンクリート造り、大正モダンともいえるデザインと外観は、古い建物が多い通りの中でも異彩を放つ。抜群の存在感だ!




エッセル堤の建設には、森田家など豪商6人の存在があった。旧森田銀行の森田家もその一つだが、中心人物とされた旧内田家跡地は、旧森田銀行の斜向かいで更地(駐車場)になっていた(写真上)。森田家は鉄道の開業(現・えちぜん鉄道三国芦原線)を機に金融業にシフトし再生を果たしたものの、内田家はじめ他の豪商の多くは倒産廃業など衰退に至ったという。
三国湊は、そんな繁栄と衰退の歴史を見ることもできる場所。ただ、古い建造物をリノベーションして、ここでもカフェや宿泊施設など、観光地として賑わいを取り戻す機運がある。北前船寄港地の日本遺産登録による効果もあるだろうが、土木遺産のエッセル堤も一役買っているようだ(写真上:エッセル堤を紹介するマチノクラのパネル)。
きたまえ通りから三国駅に向かう通りからは、丘の上に「坂井市龍翔博物館」の堂々たる姿が見える。1879年(明治12年)に建設された龍翔小学校を模して1981年に建設された(写真下:市街地から見る現・龍翔博物館と、当初建設された龍翔小学校の写真)。当時の龍翔小学校は、かのエッセルがデザインしたものだと長年言われてきたが、どうやら違うという説が。歴史とは面白くもあり、その探求は時に冷酷でもある。



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福井へ来たならば三国港「エッセル堤」を見て帰らないと!

2025年06月23日 | 土木構造物・土木遺産


福井には敦賀、小浜のほか、もうひとつ北前船の寄港地として栄えた港町がある。そこは三国港(旧阪井港)。現在の福井県坂井市三国町。越前の大河・九頭竜川の河口に形成された川湊で、とても歴史のある港だ。先に紹介した野蒜港や熊本・三角港とともに「明治三大築港」のひとつである。
福井に来たからにはどうしても立ち寄ってみたい場所で、この港を日本海側随一に押し上げた土木技術・土木構造物を目の当たりにすることができる防波堤がある。これが1882年(明治15年)に完成した「エッセル堤」と呼ばれる西洋式の防波堤である。
建設当時、三国の豪商6人が発起人となり、これまでも何回か紹介してきているいわゆる「お雇い外国人」と呼ばれた土木技術者であったエッセル(G・Aエッシャー)が設計、常願寺川など何回か登場しているデレーケ(ヨハネス・デ・レイケ)が工事を担当した。港湾・海岸・河川・砂防・上下水という水を扱う分野ではオランダ人技師への信頼が厚かったんですね。(写真上:二人の功績を称えて設置されたモニュメント)



まず、この三国港だが、日本海からの波浪も激しい場所にあり、九頭竜川から流れ込む堆積物により、たびたび船の運航を妨げるとともに、川の流れも堰き止めることから沿川各所で水害をもたらしていた。そこでエッセルは、河道の法線を改良するとともに、河口に導流堤を伸ばすことを提案した。
つまり波浪から港を守る防波堤と、川からの土砂を沖合まで流す導流堤の二つの機能を持つ突堤がエッセル堤である。川の流れを直線化することで流れに勢いをつけて、河口で見事な曲線を描く堤防により沖合に吐き出すという仕組みだ。(延長は当時のものが511メートル、その後1970年にコンクリートブロック411メートルの追加工事が完成。)
オランダ伝来の「粗朶沈床(そだちんしょう)」という工法は、粗朶という木の枝で組まれた大きなカゴに石を投げ込み基礎を形成し、その上に石を積み上げていく工法。上部の巨石(写真下)は東尋坊付近で採石されたもので、冬季の高波や福井地震(1948年)の被害により補充工事が行われてきた。



三国港は現在は漁港となっていて、かの越前ガニの水揚げ港としても知られている。歴史ある街並みの中、魚市場やカニ料理を扱う飲食店の派手な看板を通り抜け、一目散にエッセル堤へ。容易に堤防の上たどり着き、心地よい海風を受けながらをその上を歩くことができる(強風や高波時は要注意!)。
エッセル堤を見渡せる場所に「東尋坊三国温泉ゆあぽーと」という温泉施設がある。突堤の全容を見るにはここのテラスや休憩室がお薦めだ(写真下)。穏やかな日の訪問だったが、日本海の冬の荒天は同じ日本海側に住む者とすれば容易に想像できるし、難工事であったことも同様だ。
1881年、ドールン設計の宮城・野蒜港は強風と高波により数年で波間に消えてしまったが、エッセル堤と三国港は今も現役。築140年以上経過しているが、福井港(※本港)を守っているのは凄いな!国の重要文化財であり、日本遺産、選奨土木遺産。
(※三国港は九頭竜川右岸にあるが、本港は左岸の三里浜砂丘部を切り開き1987年開港。管轄する敦賀港湾事務所の資料では、三国港と合わせて「福井港」としている。)


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若狭・小浜は御食国、日本遺産の鯖街道で鯖寿司を頂く

2025年06月18日 | 旅行記・まち歩き


小浜にお邪魔した目的となると「鯖街道」について知りたかったから。市街地中心にある「まちの駅旭座」の駐車場にクルマを止め、その近くにある「鯖街道ミュージアム(見出し写真、写真上)」へ。実は、前回紹介した伝統的な街並みがあるというのもここで教えてもらったネタである。
ミュージアム前の通りの歩道には「鯖街道起点」のプレート(写真下)があって、エントランスには鯖街道の途中にある宿場や峠、主要な場所を僅か数十メートル内に収めたモニュメントが配置されて、施設の中へ誘ってくれる。決して大きな建物ではないが、2020年オープンというのでまだ新しい。
鯖街道をはじめ、北前船や小浜の文化財・伝統行事など、日本遺産に選定されたことを契機に設置されたもので、私が求めていた情報を得るためののガイダンス施設としてはぴったりのもの。管理をしている初老の女性が丁寧に説明してくれた。



鯖街道は、「若狭街道」が主ルートとされている。小浜藩から都である京都への物流路線であるが、実は1本の路線ではない。管理人の女性の話によると、時代や輸送方法(人力、牛馬、琵琶湖を利用した水運、後の自動車輸送など)から東西にいくつものルートが存在していたという。
「京は遠くても十八里」、狭く険しい峠越えを伴う72キロの道のり。牛馬や荷車も峠越えには役に立たず、荷を背負ったり天秤棒によって行商人に担がれその足や肩に委ねられることになる。それが、一昼夜。なんと次の日には京都の出口・出町(左京区河原町今出川付近)にはサバが届けられていたという。
その距離からして輸送の方法・ルート設定や行商人の脚力に驚かされるところだが、小浜で水揚げされた新鮮なサバに塩をする加工技術も高かったのだ。行商人の足にも負けず、足の速い(痛むのが早い)サバのことだから「ひしこ」にする技術などもそのゆえんかもしれない。



鯖ミュージアムで仕入れた情報を基に、小浜からクルマで30分弱、鯖街道の入口にあたる「熊川宿(福井県三方上中郡若狭町)」にお邪魔する。街道そのものが日本遺産に認定されているほどその沿線には歴史・文化的にも見どころも多いのだが、この熊川宿はその中でも最大の宿場町。ここも重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
町屋や土蔵、神社仏閣、番所などの建造物に加え、名水百選の街道沿いの水路、古い建築物を利用した資料館や飲食店、土産品を扱う店など、小浜に続きタイプスリップしながらまち歩きを楽しめる。急激な人口減で旧街道が取り残されゆえ保存に至ったとされている。
宿場の一番奥(今津・京都寄り)には、「道の駅若狭熊川宿」もある。ここにも「鯖街道ミュージアム」なる資料館があるが、こちらはマンガで街道を紹介している。私はというと、まず道の駅の食事処で「鯖寿司」を頂くことに!さすが御食国の鯖街道のサバ、とても美味でした。

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福井に戻って、小浜の伝統的な街並みに吸い込まれる

2025年06月15日 | 旅行記・まち歩き


地元の味噌醤油蔵を訪問して気づく。新潟県村上市塩谷は、前回も紹介したとおり北前船の寄港地であった。北前船寄港地等のゆかりの海岸集落では、独特の景観・街並みが見れるし、有形文化財に指定される建物なども多い。新潟県内でも、佐渡の小木や出雲崎、そして昨年訪問した富山の岩瀬浜や放生津(射水市)などもそうだった。
話は、福井に戻る。敦賀からクルマで舞鶴若狭自動車道使って1時間弱、福井県の最西端にある町「小浜(おばま)」。こちらも、若狭湾(写真上)に面する入り江にある港町で、北前船の寄港地でもあった(写真上:市内「鯖街道ミュージアム」に展示されていた小浜所属の北前船の船絵馬。これほど多くの船が一堂に描かれているのは珍しい。)。若狭や越前、丹後の国は、京都にも近く、大陸にも近い、加えて若狭湾の入り江という良港立地もあって古くから港を中心として栄えたところも多い。
敦賀まで来て、時間の制約がある中、滋賀県の長浜にしようか?それとも小浜に行こうかと悩んだ末、鯖街道と若狭一宮(若狭彦神社・若狭姫神社)が気になったことから小浜を選んだのだが、今庄宿に続き、ここにも国の重要伝統的建造物群保存地区が存在していた。



敦賀や今庄と同様、小浜も古くから交通の要所とされてきた。若狭街道と丹後街道が交錯しているし、その港は北前船の時代以前から海と都(奈良・京都)を結ぶ結節点として、人や物資、そして文化の交流点として栄えた場所である。
「鯖街道」や「御食国(みけつくに)」の発祥地であるが、これらの言葉を紐解くと、都との結びつきの歴史は古代にも及ぶという。古刹と言われる寺院も多く、伝統行事や独特の食文化も地域の人々によって守り伝えられた地域でもある。
毎年三月、奈良・東大寺の「お水取り」という行事が行われるが、その行事に使う水は小浜で汲み上げられた水が奈良に送られているのだそうだ。東大寺の「お水取り」の対とされる行事で、小浜では「お水送り(毎年3月2日に実施)」という重要、かつ春を告げる行事だそうだ。




重要伝統的建造物群は中心市街地の西側(小浜西組)に位置する。「三丁町(さんちょうまち)」は北前船の交流による賑わいにより形成された茶屋町だった。狭い路地にシックな建物が並び、ベンガラ格子や袖うだつも当時の雰囲気を伝えてくれる。平日だったため、静寂の中でタイムスリップした気分を味わえた(写真上)。
そのほか、町の中心地「まちの駅・旭座」には、福井県では最古の「旭座」という明治期の芝居小屋が残されている(写真下)。というより、まちの駅の中心施設として現役の芝居小屋として落語会や映画の上映会、地域のイベントや発表会にも利用されているという。とにかく歴史的な建造物や行事が多いんです。
敦賀を大陸との玄関口と紹介したところだが、都からのアクセスを考慮すると、江戸時代以前は海の玄関口としての小浜の存在は大きい。「海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群(御食国若狭と鯖街道)」が全国唯一「日本遺産プレミアム」に選定されたことも、ここに来ると容易に理解できるのである。





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189年の歴史ある「米澤屋甚左衛門」の蔵に潜入してきた

2025年06月09日 | 食(グルメ・地酒・名物)


気になる地元のお店を紹介。今回は、お酒ではなく味噌・醤油の蔵元である「野澤食品工業」を訪ねてみた。お隣の新潟県村上市塩谷というところにある。地元の海岸線の集落などもそうであるが、日本遺産にも認定された北前船の寄港地でもあった土地だ(村上市は、日本遺産の「北前船寄港地・船主集落」に登録されているが、地元の胎内市は登録されていない。)
というのも、たまたま家内が買ってきた醤油を、高校生だった長男が気に入り、以来何年間も我が家の御用達になっている醤油が「米澤屋甚左衛門」が屋号である野澤食品工業(NOZAWA)の定番醤油で、全量木桶で仕込む昔ながらの製法で作られている「木桶仕込み丸大豆醤油」だ。
創業は天保7年?これは1836年で、今年で創業189年ということになる。建物(店舗・母屋)は明治年間のもの。今でも蔵である工場内では、今の時期には手に入れるのは難しいという直径6尺(約1.8メートル)の木桶が並んでいて、芳醇な味噌・醤油の香りが漂っている。



登録有形文化財でもあるお店の入口には小さい看板と空色の鮮やかではあるが控えめな暖簾(見出し写真)。ここが店舗・蔵元であることをひっそりと教えてくれる。町家特有の土間の通路の向こうで、店主のご夫人と思しき人が出迎えを受け、やはり土間のテーブル(写真上:木桶の蓋?)に並べられた商品を説明してくれた。
物欲しそうに奥の方をのぞき込んでいると、「見学していきますか?」との声。若い跡取り(醤油づくり三代目にあたる野澤陽祐さん)も加わり、掛け合いで説明をしてくれた。店もそうだが、蔵である工場内も年代物。そこに並ぶ木桶は店主が探しに探して、廃業した酒蔵やその他の蔵元から譲り受けているという。この木桶仕込みがこだわりなんですね!
もともと酒蔵だったが(写真下:以前、酒造りをしていた時の看板)、第二次世界大戦中の産業統制により村々にあった酒蔵は併合や廃業をしていったが、NOZAWAは酒造りに使っていた木桶を利用するとともに、それまで培った発酵や醸造技術を活かしながら味噌・醤油の蔵へと変身していった。時代の流れを敏感に捉えた先見性ですかね。



この日は、看板商品の木桶仕込み丸大豆醤油の卓上サイズがあればと手に入れたいと思っての訪問。しかし、目に留まったのは「ふたなつ」いう何ともスタイリッシュデザインのラベルが貼られた醤油。これが、「新潟ガストロノミーアワード2023」の特産品部門を受賞(写真上)した商品とのこと。
これは三代目がプロの料理人が求める味を追求・開発したものだそうで、大手メーカーとの違いを鮮明に打ち出す商品になっているという。実際、2020年のミシュランガイド新潟県版に掲載されている店のうち4店でNOZAWAの製品が使われているという。
更に進化し続けているのだが、木桶による製法は変わらない。「ふたなつ」は丸大豆で仕込むために熟成に時間がかかり夏を二回越すため名付けられた。もちろん卓上サイズをお試しに購入。てか、少しお値段も張るもので!味ですか?とにかくまろやか!(「ふたなつ」=300ml・864円税込み。蔵見学有り(要相談))、ぜひ味噌も試してみたい。




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地元の古民家カフェ「元麹屋」でゆったりとした時間を

2025年06月05日 | 食(グルメ・地酒・名物)


少し敦賀を離れて、地元のカフェを紹介したい。これまでも近くに遠くに気になる店を紹介してきたが、今回は古民家カフェ。こういうレトロなスタイルのカフェも人気であるが、前々から気になっていたので訪れてみた。
「古民家カフェ・元麹屋(もとこうじや)」は、お隣の関川村女川地区(正式な住所は朴坂(ほうさか))にある。国道290号から少し入ったところ、山あいにある農村集落の入り口に、控えめにな看板を出してひっそりとたたずむ。きれいにリノベーションされた農家といった感じだ。
入口には池を渡る木橋(木道)が掛けられていて、きれいに整備された広い庭が目に入る。奥から招き入れるように女性の声がして中に入るように促されたかと思うと、「お父さん!」と店主に初めて来店する客を接待するようにと声を上げた。



母屋は確かに歴史ある構えでその玄関から出てきたのは店主である佐藤隆平さん(写真下)。地元生まれ地元育ち、元郵便局員を退職後、自宅である古民家を改築して古民家カフェをオープンしたという。初めてか?と聞かれて「はい」と答えると、さっそく家の中を案内してくれる。
元麹屋ということであるがそれはかなり昔の話(江戸~明治初期?)のことで、この古民家が建造された明治期・佐藤さんの曽祖父の頃には農業・養蚕業を営み、そのころの間取りや農家の機能的な仕様なっていることが分かり、道具や家具なども年代を感じさせるものばかり。
ぐるっと室内の各部屋などを案内し、古い書物や古地図のようなものでこの家の成り立ちや古民家カフェまでの経緯なども紹介してくれる。話好きであるようだがくどいわけではなく、短時間の案内後好きな場所に座って注文するように案内してくれた。




入口の部分の牛小屋?(納屋だったかもしれない)の部分はフルイノベーションしてあるが(写真上)、せっかくなので古民家スタイルの母屋の庭を望める縁側に陣取る。メニューは、食事がパスタ、カレーのほか、ケーキ、ホットケーキ、ピザフリッター、そして各種ドリンク類といったところ。
パスタを注文したが、ウサギをかたどったカレーが人気のようだ(パスタも美味しかった!写真下))。地元のシンボルでもある光兎山(こうさぎさん)によるものだろう。独特の形の山で日帰り登山でも人気の光兎山は、荒川の支川である「女川」の上流部が登山口となっている。
ご夫婦二人で切り盛りする古民家カフェでひと時を過ごす。景色や古民家も魅力的だが、佐藤さんご夫妻と少し話をしながら山並みや田園など良き時代の農村の原風景に身を置くと、なぜかゆったりした時間の中でこれまでの自分の垢を落とせるような気持になります。


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北陸トンネル・急行「きたぐに」の火災事故の慰霊碑訪問

2025年05月26日 | 鉄道


敦賀に行って旧北陸線を辿ってきたが、中山峠越えの難所を回避するため、旧線より南側の木の芽峠の直下に掘られたトンネルが「北陸トンネル」である。延長は13870メートル、国内在来線では最長トンネルで、開通当初から複線・電化の北陸本線自慢の長大トンネルだ。(現在は、ハピラインふくい線)
このトンネルは1957年(昭和32年)着工、1962年(昭和37年)に完成・開通。敦賀側、今庄側の坑口のほか、中間の2か所から立坑や斜坑を掘りながら突貫工事で進められ、そのトンネル掘削方式は世界からも注目を集めるものであったとか。
このトンネルの完成により、先に紹介したとおり旧線の勾配克服やスイッチバックによる列車交換などが必要なくなり、大幅なスピードアップと輸送力の増強が図られたのである。(敦賀駅を挟んで上り方・敦賀~木ノ本間の「深坂トンネル」は1957年開通、「鳩原ループ」は1963年開通。写真上は、トンネルの敦賀口と今庄口)



このトンネル内でショッキングな鉄道事故があった。1972年(昭和47年)11月6日の深夜、大阪発・青森行の急行「きたぐに」が走行中に出火。トンネル内で緊急停車、乗務員による消火作業でも手におえず、火災車両の切り離しを試みたが架線に通電されておらず、列車をトンネルから脱出させることはできなかった。
敦賀午前1:02発、火災発生時刻はその数分後(写真上:当時の時刻表、JTB時刻表1972年12月号は事故直後に発刊されたもので、食堂車連結の記号が残っている。)深夜時間帯であり乗客は就寝中であったこと(列車は、新潟までの間、寝台車5両を連結)、トンネル内で煙が充満したことやトンネル内に明かりがなかったことなどから、死者30名という鉄道火災事故としては最悪の事故となってしまったのだ。
そんな中、同じくトンネル内を走行中の上り急行「立山」(火災発生後30分後にトンネル内に入り緊急停車)が、「きたぐに」から避難してきた乗客225人を救助したのは不幸中の幸い。まだ通電区間で停車していた「立山」は、後退しながらトンネルを脱出し今庄駅まで戻ったという。



「食堂車から出火!」となると厨房設備が火元と考えがちだが、実際は床下の電気暖房機の過熱によるものとのこと。ただ、この頃の食堂車は斜陽傾向にある中、急行列車では「きたぐに」と「十和田」だけに連結されていた食堂車は廃止となり、その後トンネル内の事故対策なども各所で施されるきっかけにもなる。
地元の羽越線では、子どもだった自分でも見ることのできる時間帯に食堂車を連結して走っていた「きたぐに」、青い12系客車(食堂車は「オシ17」)はとてもかっこよかったし、食堂車廃止後ではあったが何回か乗車したこともあった。あの列車が!と子どもながらに事故のことを記憶している。
この火災で亡くなった方の冥福を祈るため、北陸トンネルの敦賀側には慰霊碑が建立されている。こちらにもぜひ手を合わせたいと思って今回敦賀の訪問となった。(慰霊碑入り口はフェンスが張られているが、訪れる人のため施錠はされていない。写真下。もう一方は、DeAGOSTINI社の「鉄道データファイル・優等列車の系統」から。)

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歴史的宿場町・鉄道の町「今庄」に、いまも残る鉄道魂

2025年05月20日 | 鉄道


新潟から敦賀へ。先に触れた旧北陸線のトンネル群を訪ねるためには、まず今庄(南越前町)に立ち寄らなければならない。米原からの北国街道(東近江路)と、敦賀で丹後街道と合流した北陸街道(西近江路)が出会う昔からの交通の要所で宿場町として栄えた町だ。
この町は「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されており、古い宿場の街並みを色濃く残している。「旅籠・若狭屋(写真上)」をはじめ国の登録有形文化財も多く、街道沿いの町屋には「うだつ」や「虫籠(むしこ)格子」などが今でも残り風情を醸し出す。以前紹介した宿場の成り立ちは山形・楢下宿風景は徳島・脇町(美馬市)に似ている。
都(京都)から山中・木ノ芽・栃ノ木の各峠を越えてやってきた旅人が、この今庄でその疲れを癒したのだろうが、北陸線による鉄路が通って時代の流れを急速に加速させた。ただ、鉄道にとっても「北陸トンネル」が開通する以前は、山中峠に挑むための最前線基地が置かれていたのが北陸線「今庄駅」であった。



現在の今庄駅(写真上)は、宿場の東側に位置し、宿場側に駅舎が建てられている。小ぢんまりとしているが、宿場町の景観にも配慮した外観、中には観光案内所(観光協会)や「今庄まちなみ情報館」がある。この情報館が、伝統的な街並みや鉄道の町として栄えた今庄の町のことを紹介してくれる。
このガイダンス施設で旧北陸トンネル群の情報を頭に叩き込んだ後、中山峠に向かうことになるのだが、鉄道の町として賑わった今庄駅そのものにも魅力がいっぱい!旧駅の模型(写真下、1955年頃のジオラマ)を見ると魅力的な設備を有していて、その中でも当時蒸気機関車のための給水塔や給炭台が今でも残っている(写真下)。
峠越えのための補助機関車を連結・取り外すため、当時の全ての列車は今庄に数分間停車する。必然的にホームには駅弁をはじめ立ち売りが行きかい(大聖寺駅の駅弁「高野商店」は今庄が発祥の地)、この地方の名物でもある「今庄そば」の売店もあったという(「今庄そば(豊岡商店)」も福井駅構内で営業)。峠に挑み、峠を越えた機関車や鉄道マンとともに、乗客の憩いの場となって賑わったようだ。



当時は250人の鉄道員が今庄に住み、各世帯に一人は鉄道にかかわっていたといわれるほどだったが、北陸トンネルの開通により優等列車は通過するようになる。JRの民営化、北陸新幹線の開業と並行在来線化などを経て、現在今庄駅は簡易委託駅さえ外れて完全無人駅となる。
第三セクター「ハピラインふくい線」では30分に一本程度の列車運行は確保されているが、乗降客は100人(/日)ほど。日に何本か設定されている快速列車でさえほとんどが通過する駅になっていて、私が訪れた時も鉄道保線の人たちのほかには上り列車(敦賀行)を待つ乗客は一人だけ。
ただ、情報館の展示はもとより、駅の前には蒸気機関車(D51?)の動輪がドンと飾られているし、国道沿いの今庄住民センターの敷地内にはD51が状態よく静態保存されている(写真下)。旧北陸線のトンネル群の遺構整備・観光化なども考え合わせると、いまも今庄の町の「鉄道魂」が見えてくる。





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旧北陸線の経路をたどる高速・北陸道の上下線逆転の怪

2025年05月14日 | 土木構造物・土木遺産


旧北陸線のトンネル群を探訪していると、途中、高速道路・北陸道「杉津(すいづ)パーキングエリア(写真上)」に出くわす。この杉津PAには「夕日のアトリエ」という場所があって、敦賀湾を一望できる展望台があるということで立ち寄ってみることにする。
旧北陸線の路線跡地を利用した県道から、狭い急坂道路をPAに向かう。これはPAの物資搬入や従業員などの関係者が使用する裏道。ただ、高速道路利用者以外にも開放されていて、ちょっとした駐車スペースなども用意されており、PAの施設を利用することができる。
確かに、深い入り江になっている敦賀湾を確認できる。PAとしてはさほど規模が大きいわけではないが、施設内には芭蕉の句碑や展望テラスなどが設置されていて、NEXCO中日本の「ぷらっとパーク」に指定されているため人気のスポットだ。展望台から目をやると、眼下にもう一方のPAが見える。おや?なんか変だぞ!



高台にあって「夕日アトリエ」のあるこの杉津PAは、実は下り線で、金沢・新潟に向かう路線上にある。その展望テラスから下方に見えるのが上り線で敦賀・米原に向かう路線上にあるPAも確認できる(写真上)。上下線が離れていて、かつ上下線が左右逆方向になる区間なのである。
敦賀インターチェンジの北(敦賀市深山寺付近)で上下線の左右が入れ替わり(写真下:上を走るのが上り方向、下をくぐり抜けているのが下り線)、前回紹介した山中峠付近と木ノ芽峠の間の山間部を通り抜ける「敦賀トンネル」で上下線がまた交差している。その間で北陸道の上下線は、葉原トンネル付近で一旦接近するものの、10キロほどに渡って右側通行で並走するのである。
これは、進行方向により急勾配を避ける等の地形による構造的な問題克服と、トンネル内の排ガス抑制の安全面などが理由で、全国でも山間部で上下線が少し離れるということはあるが、上下線が逆転するというのは珍しい。(調べ切れていないが全国でもここだけでは?東名高速道路の大井松田と御殿場間にも上下逆になる区間があるが、これは混雑緩和のため上り線を後から(1991年)新設、旧上り線を下り線右ルートとしたことによるもの。)



この路線の計画・設計段階では、旧北陸線を建設用の資材運搬用道路として活用するという鉄道と道路との連係プレーもある。敦賀から上下逆転した下り路線は旧北陸線に沿って走り、上り線の杉津PAは旧線の杉津駅跡地に建設されている。
旧北陸線の杉津駅では、大正天皇が北陸行幸の際に、わざわざ列車を止めて敦賀湾の景色をご覧になったという話が残る。現・高速北陸道にとっても、前回紹介した旧北陸線時代においても、峠越えの難所にあった杉津の地は、敦賀湾を一望できることから一服の清涼剤的な役割があったのだろう。
ともあれ、北陸道下りの杉津PAは単に風光明媚な場所に設置されただけでなく、土木構造物の「怪」も見て取れる貴重な場所であったのだ。ここを通過する際は、ぜひPAにもクルマを止めてご覧いただきたい。夕日が見れる時間帯は最高なんだろうと。



※参考:北陸道は米原方向が上り、国道8号線は新潟方向が上り。北陸線(ハピライン福井等を含む)は米原方向が上り、しかし北陸新幹線は金沢・東京方向が上り。この地の交通インフラの複雑さが、この地の東西とっちなんだ!という立ち位置の複雑さを示している。これまた「怪」である。



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旧北陸線の鉄道遺産・トンネル群をクルマで訪問

2025年05月09日 | 鉄道
ゴールデンウィーク中、仕事が忙しくてなかなか記事をアップできなかった。「ブログサービス終了」の告知も気になるところだが、まだ敦賀の記事は途中であるから気を取り直して書き込むことにする。



さて敦賀の鉄道について触れてきたところだが、先に触れたとおり北陸本線の途中駅の敦賀だが、国際連絡列車という港のつながりとともに、山に囲まれたこの地の地形によって鉄道の町が形成・発展したという見方もできる。どうしても補助動力車の付け替えなどもあるからね。
旧北陸線は敦賀の上り方向である木ノ本~敦賀間に刀根越えの急勾配(25‰(パーミル))があり、下り方面の敦賀~湯尾の間にも中山峠(25‰)が壁のように存在していた。現在、これらの間はいずれも新線が建設され、勾配克服のため深坂トンネル、鳩原(はつはら)ループ線、北陸トンネルなどが誕生している。
これら廃線となった旧線は車道(県道)や歩道として現在も活躍していて、クルマやバイク・自転車で容易にアクセスでき、間近に鉄道遺産を見ることができる。特に、敦賀~湯尾間のトンネル群は国の登録有形文化財に指定され、土木学会選奨土木遺産でもある。(上り方の「柳ケ瀬トンネル」も土木遺産。)




新潟から福井に入り、今庄からこの旧北陸線の県道を使って敦賀を目指すことにした。今庄駅と今庄宿でかなりの時間を過ごしてしまったが、旧線にも見どころ満載!旧大桐駅跡が残っていたり、スイッチバックの中山信号所、連続トンネルにトンネルのレンガ積みの解説、扁額のレプリカなど整備・保存されている。(写真上・下)
特に中山信号所では、単線ならではの列車交換用のスイッチバックの跡がハッキリと残っていて、信号所の敦賀側の折り返し線は有効延長を延伸するため行き止まりのトンネルが掘られたという。区間内最長の中山トンネル(1194m)と隣り合わせで見ることができる。
中山トンネルは暗くて長い。直線であるが、旧線は現在の規格より狭く作られているとのことで圧迫感を感じるとともに、照明などは無し。暗いし狭い道で対向車が来ないかとついついアクセルを踏んでしまう。11か所あるトンネル群の途中には信号機が設置されているところもあるが、この区間ですれ違ったクルマは1台だけだった。




途中、敦賀に近くなると北陸自動車道と並走するこの路線だが敦賀に近い葉原トンネルを抜けると人家も見え、間もなく国道に合流する。その後、最後に現れる樫曲トンネルは遊歩道となっていて、トンネルのレンガの積み方の説明やトンネル内にはランプ、そして土木遺産や登録有形文化財のプレートなどもゆっくりと見学できる。(写真下)
旧北陸線のトンネルでは側壁に石積み(敦賀市阿曽の石材、葉原トンネル付近)、アーチ部に長手積みの施工方法のほか、樫曲トンネルなどでは側壁部に他に比べても強度が得られるレンガの長手と小口を組み合わせた「イギリス積み」が採用されていているという。様々な工法が見られるのもこのトンネル群の特徴だ。
以前、補助動力として蒸気機関車を連結し、喘ぎながら急勾配を上る列車の姿も音も今はない。そんな峠と峠の間にある敦賀駅。かつては峠に挑む緊張感と峠を克服した鉄道マンの声が飛び交っていたのは確かで、そんな環境が敦賀の町の活気を担っていたのであろう。

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新幹線開業を機に、敦賀駅の機能や役割を探ってみた

2025年04月30日 | 鉄道


昨年3月、延伸開業した北陸新幹線。終点であり起点にもなった敦賀駅の構内を探索してみた。駅に降り立つことは初めてなので、その変わりようは図り取ることはできないのだが、市街地側の西口(まちなみ口、写真上)に加え、新幹線のある東口が整備されたことは容易に予想できる。
敦賀駅は、JR西日本(金沢支社)の管轄。新幹線開業により敦賀以北の北陸線は並行在来線「ハピラインふくい線」となり、7面あるホームはJR在来線(北陸線・小浜線)と共用する形になっている。新幹線は、駅東側の旧側線があった場所に2階コンコース、3階4面ホームと新設された。
新幹線に近い東口には駅長室・JR事務室や「みどりの窓口」が西口から移転(ハピラインふくいの事務所は西口)。敦賀市は駅の橋上化を計画し、西口には観光案内所などが入る「敦賀駅交流施設オルパーク」を設置したが、新幹線との接続駅によくある光景として、新設の新幹線口に機能が移転し、在来線の出入口のとアプローチが長い通路で結ばれることになった(写真上:西口から東口へ向かう連絡橋へのエスカレーターで。写真下は新幹線コンコースとホーム。)。



まあ、JR西日本の駅でもあることから、関西との結びつきが強いのは敦賀に限らず金沢や富山も一緒。新幹線でつながったのは関東・東京ではあるが、東京直通の最速型新幹線「かがやき」は日に上下9本といったところ。一方、大阪と敦賀を結ぶ在来特急「サンダーバード」は上下25本ずつとなっている。
また、敦賀と東京の北陸新幹線直通の時間と、米原・名古屋で東海道新幹線の乗り換えで時間を比べてみると実に微妙な立ち位置にあることも確か。「しらさぎ」を使って名古屋で乗り換えると時間的には北陸新幹線が早いのだが、米原乗り換えだと東海道経由が早い場合もあるようだ。
そんな北陸各都市と関西・中京とを結ぶ旅客の需要に応えて、敦賀駅の新幹線ホームの下には、特急電車(サンダーバード・しらさぎ)専用の乗り換えホーム(31番~34番線、写真下:名古屋行・大阪行の特急が発車を待つ33番・34番ホームと。新幹線高架下を到着入線する列車)が新設された。もちろん新幹線においても、敦賀・富山間都市間との都市間列車の設定も多い。敦賀とすれば、東京に1本で行ける!というのは、まあ選択肢が一つ増えたといった感じなのかもしれない。



在来線へも足を入れてみた。7番線にはハピラインふくいの521系の芦原温泉行の電車が北陸線からの接続列車の到着を待っていた。6番線には間もなく223系の快速電車が入ってきて、あわただしく乗り換えする乗降客の姿があった(写真下、到着列車に遅延あったのかも?)。
その到着列車は、折り返し関西方面へ向かう快速(新快速)になるのだが、なんと行先は「播州赤穂」?福井県の敦賀から滋賀、京都、大阪、そして兵庫の西のはずれ赤穂線の播州赤穂まで、5県をまたぎ走行距離275.5キロ、所要時間4時間強。調べてみたところ、最長区間を走る在来普通列車とされている3323M(米原からは3523Mの新快速)列車がこれだ!
ともあれ、北陸新幹線の終点でもあり起点でもある敦賀。北陸地方と関西・中京を結ぶ路線の乗換駅としての重責や、小浜線やハピラインふくい線など地域交通のターミナルの役割も担い、国内最長区間を走る列車の始発駅でもある。再び鉄道の町としての重要性が再認識されていることは確かだ。

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敦賀市内には、鉄道にかかわる歴史と未来が存在する

2025年04月23日 | 鉄道
鉄道の町・敦賀の市街地で、鉄道の町を象徴する場所を訪ねてみることにする。



まずは、敦賀駅。駅自体については後日また紹介しようと思っているのだが、駅前(西口)の脇にひっそりと設置されている歴史を伝える記念碑を訪れてみた。「交流電化発祥之地碑(写真上)」とある。確かに北陸本線は直流・交流、しかも50Hz(ヘルツ)・60Hzと複雑な電化方式を持つ路線である。(北陸新幹線開業により、並行在来線が三セク運営となり、現在残っている北陸線の区間(米原~敦賀間)は2006年に直流に改変。)
北陸線のうち米原(旧田村)と敦賀間が1957年(昭和32年)に交流電化発祥の地であるというものなのだが、これには条件が付く。「世界最初の60Hz交流電化」ということ。交流電化だけをいえば、実用試験が行われていた仙山線(50Hz)がわずかに同年に完成していた。
今では新幹線に採用されている交流方式だが、急勾配区間を克服するために導入された北陸線や仙山線の成功により、新幹線をはじめとした日本の鉄道の発展があったと考えると、鉄道の町としては貴重なモニュメントでもある。以前、敦賀運転センターにあったこの碑は、新幹線開業により現在の地に移設されたという。



これまたひっそりだが、市街地に保存車両もあった。敦賀駅にも近い市街地のど真ん中の「本町第3公園」には、C58蒸気機関車が静態保存されている(写真上2枚)。昭和15年製造で、1971年(昭和46年)まで風光明媚な路線・小浜線で活躍していたという。C形だから旅客用だったんだろうね。
また、敦賀港近くの赤レンガ倉庫脇には、キハ28形気動車が展示されていた(写真上)。急行型として全国で活躍気動車だが、全面運転席のガラスがサイドまで回り込んでいること(パノラミックウィンドウ)や下部にスカート(排障器)があるタイプで完全な状態で保存されているのはここだけとの説明書きがあった。
保存車両のほかにも、前回紹介したように旧敦賀港駅舎(写真下)やランプ小屋(写真下:内部の展示ランプ)など、超貴重な建物や鉄道遺産が残されているのも敦賀ならでは。旧北陸線の米原方向の「柳ケ瀬トンネル」、福井方向の「葉原トンネル」の扁額(横額プレート、複製、写真下)なども展示されている(敦賀鉄道記念館脇に柳ケ瀬トンネルのもの、赤レンガ倉庫脇に葉原トンネルのものを展示)。



三方山に囲まれた敦賀。古くは欧亜国際列車の発着地で、急勾配の中に敦賀があり補助動力車の連結や交直流のデッドセクションを境に動力車の付け替えや電車の乗り換えなども存在したはず。鉄道の町として発展しない理由はないのである。
そん市内で、いたるところにモニュメント(ブロンズ像)がある。よく見ると「宇宙戦艦ヤマト」や「銀河鉄道999」のキャラクターなどの像だ。もしかすると敦賀は松本零士氏の出身地ではないか?と思わせるほどなのだが、そうではないようだ。何の因果があるのか?
敦賀市は敦賀港開港100周年(1999年)を記念し、市のイメージを「科学都市(原子力発電)」、「港(敦賀港)」、「駅(敦賀駅、敦賀港駅、北陸線などの鉄道路線)」とし、将来像と重ね合わせたところ宇宙戦艦ヤマトや銀河鉄道999に行きついたとのこと。敦賀駅から氣比(けひ)神宮までのシンボルロードに28体のモニュメントがある。(写真下:敦賀駅前の「星野鉄郎とメーテル(銀河鉄道999)」の像とモニュメントの説明、見出し写真は「佐渡酒造(宇宙戦艦ヤマト)」像)




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敦賀の町は「海を越えた鉄道」の玄関口であった

2025年04月18日 | 旅行記・まち歩き


さて、かねてから訪ねてみたいと思っていた町、それは福井県の「敦賀市」である。新潟からクルマで出かけるには少し遠いものの、春の到来とともに今年のまち巡りの最初に思い切って出かけることにした。
敦賀は三方を山で囲まれていて、北側には敦賀湾。若狭湾の東端にあたり、ここは北前船の時代からの良港でもあった。古くは若狭街道・北国街道、鉄道では北陸本線の要所として栄えてきたことは容易に想像できる。(写真上:舞鶴若狭道から見た敦賀市遠景と敦賀港「みなとオアシス敦賀」脇のモニュメント)
そう、昨年3月、北陸新幹線の金沢・敦賀が延伸開業し、福井県も新幹線の走る都道府県に仲間入りするとともに、北陸新幹線の始発(終着)駅となった敦賀の町は、再び交通の要所として注目を集めている。



鉄道は、1884年(明治17年)に長浜・敦賀間が開業。当時は東海道線の一部として、その後北陸線として福井・金沢・富山と延伸されていく。敦賀開業当初は、終点は「敦賀港(つるがみなと)駅(正確には「金ケ崎駅」が最初)」であった。
この敦賀・敦賀港の間は、福井延伸によって盲腸路線となるのだが、この路線こそ「港の町・敦賀」と「鉄道の町・敦賀」を結びつけ、名実ともに「港と鉄道の町・敦賀」を作りあげることになったのだ。
というのも敦賀港では、明治期からウラジオストク航路が開設され、その後も朝鮮半島や旧満州への玄関口となった。敦賀と敦賀港の間の支線(通称:敦賀港線)は、東京からも船との連絡を図るための「欧亜国際連絡列車」が直接乗り入れる路線だった。(写真上:敦賀駅から港に伸びる旧敦賀港線)



第二次世界大戦の影響などにより、旅客列車は廃止されるが、その後も不定期の旅客列車や貨物線(国鉄分割民営化により「JR貨物」が運用)として利用されていたが、2009年(平成21年)ここを走る列車の姿は消えた。
といっても、比較的最近まで使用されていたということもあり、廃線跡はしっかり残っている。敦賀港駅(旧金ケ崎駅)付近は金崎宮・金ケ崎城跡など金ケ崎公園として市民の憩いの場となっている。(写真上:金ケ崎公園内の金崎宮への参道と貨物駅構内にあった汽車用のランプ小屋)
また、欧亜国際連絡列車の発着駅であった旧敦賀港駅舎(1913年建設)は、敦賀港の金ケ崎緑地(敦賀市港町)に復元され「敦賀鉄道資料館(写真下)」として公開されている。これが「海を越えた鉄道」と言われている文化庁もお墨付きの鉄道遺産回廊の中心都市・敦賀なのである。

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