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亀田郷土地改良区へ佐野藤三郎氏を訪ねたてみた

2025年03月31日 | 旅行記・まち歩き


その日は雨の日だったが、新潟江南区にある「亀田郷土地改良区」の事務所を訪問することを思い立った。もっと早くに取り上げるべきだったが、佐野藤三郎氏を紹介するため、佐野が長く理事長を務めた土地改良区に行けば何か情報を得られるのではないか?との思いからだ。
佐野藤三郎は、1923年(大正12年)新潟市生まれ。鉄道員として新潟駅に勤務する中で農民組合に参加し、1955年、32歳の若さで亀田郷土地改良区の理事長に就任。区域内の乾田化や農業技術の確立、都市計画や国際交流の分野にも手腕を発揮した人物である。
1994年(平成6年)、農林水産大臣賞(ダイヤモンド賞)・土地改良事業功労者表彰を受賞するが、受賞したその日の夜に宿泊先のホテルで急逝、享年70。しかし、佐野の功労は新潟平野を一大穀倉地帯に押し上げるとともに、天命は脈々と後世に引き継がれ進化しているのである。



以前、新潟西蒲区には信濃川やその支川である西川・中之口川などがたびたび氾濫を起こしていて、そこには大河津分水や山を切り抜く放水路が切り開かれたことを紹介し、田沢実入、高橋竹之介、青山士などの功績を紹介したことがあったが、亀田郷(新潟江南区)には佐野藤三郎がいた!といったところ。
これも以前紹介したとおり西川(大河津分水から西蒲区・西区を流れる)は海抜ゼロメートル地帯の川。一方、亀田郷は阿賀野川と信濃川に挟まれた海抜「マイナス」地帯を形成し、毎年のように洪水に見舞われるほか、普段でも湿田として農作業は田舟を利用しなければならない地帯であった(写真上:新潟市歴史博物館「みなとぴあ」の旧河川図(再掲)と近代の断面図、写真下:船を利用しての農作業の様子)。
この湿田を乾田化に取り組んだのが佐野である。国の各省庁に湿田での農作業や農家の実情を申し立て、農業基盤整備の重要性を働きかけた。何度も何度も東京へ足を運び、中央官僚もその熱意に動かされたという。これが亀田郷の乾田化から生産性アップや多角化経営にシフトしていき、新潟の未来をも展望し提言を行ったのである(新潟県・新潟地域振興局資料から)



佐野が理事長就任前、旧栗ノ木排水機場が完成(1948年)し乾田化は進んでいたが、これに伴う農業設備・機具の更新などで土地改良区の組合員農家は組合費の滞納などもあって、土地改良区は莫大な借金を抱えていた。その財政問題もさらなる農業基盤整備によって解消したのが佐野の最初の仕事だった。
更に、旧栗ノ木排水機場は1964年の新潟地震の液状化現象により機能が低下したため、新潟市内の最低地である「鳥屋野潟」に水を集めて信濃川に排水する提案を行ったのも佐野だった。親松排水機場の建設(1968年完成)により亀田郷の乾田化は完成し、これが「未来への提言」にもなって新潟を米王国に導いたのである。
佐野は、1975年に亀田郷地域センターを設立。同年、新潟市の都市計画審議会会長への就任。その後、中国・黒竜江省の三江平原の開発を手掛け、新潟県日中友好協会の初代会長にも就いた。三江平原の開発では竜頭橋ダムの竣工(2002年)を見ないまま道半ばで他界したカリスマの銅像(見出し写真と写真下)は、土地改良区のロビーで笑顔で訪問者を迎えてくれる。
(*佐野藤三郎氏は、他界されてまだ30年であるが、一部敬称を略させていただいたことをお許しいただきたい。)


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