御嶽神社 参拝の後は、南足柄市の埋蔵文化財包蔵地に登録された『石丁場』を歩いて来ました。 初めて見た時は、地元に この様な歴史遺跡の有ることにビックリしました。
どうして、江戸時代初期に石の需要が生まれたのでしょうか ❓
当時、江戸城や小田原城の大規模な土木工事が計画されていたと考えられています。
江戸城の普請の時、石垣用の石は小田原付近から伊豆半島辺りの石丁場(いしちょうば)から運ばれたと云われています。 小田原では早川石丁場が良く知られています。
南足柄市にある三か所(塚原矢佐芝石丁場、塚原上向坂(かみむこうざか)石丁場、広町平石通石丁場)の「石丁場」は、すべて標高 250m以上の山林で、沢筋に近い所で見つかっています。
本市は箱根外輪山のすそ野に位置し、箱根火山の マグマが冷えてできた石である安山岩が多いという点から「石丁場」が点在しております。
「石丁場」は石を割る場所で、主に近世、江戸時代に機能していたと考えられています。
「石丁場」という言葉は石切り場の昔の言い方で、丁場とは仕事場、作業場といった意味を持っています。
つまり、「石丁場」とは石を適当な寸法で切り出して加工するための作業場ということになり、ここで見られる石の特徴は、幾つもの小さな長方形の穴が、一定の間隔で一直線に入っていることです。
この穴を『矢穴(やあな)』 と呼びます。
鉄ノミで石の割りたい場所に沿って穴を開け、そこに水を含むと膨張する木を差し込み、作業が終わる時に水を掛けておきます。 すると、木が水を吸って膨らむことにより、次の日の朝には矢穴の線に沿って石が割れています。下記のように大きな石が綺麗な平面で割れているのです。
この様にして割った石は、沢や石を曳くための石曳道(いしびきみち)を使い、山から運び出し、江戸城や小田原城の石垣に用いたと考えられています。
ただ何故❓ この様な大変な思いをして山から石を運び出さなくてはいけなかったのか❓
江戸幕府は各大名の統制する方法として、参勤交代や大規模工事を命じました。
諸大名が競って江戸城の石垣用の石を集めなければならなかったのかは、大名の忠誠心を試すと共に資金力を削ぐために、江戸幕府が行う大規模工事に動員をかけたと考えられています。
工事の失敗は御家の取り潰しにつながるので、諸大名は命令に従い必死に作業を行いました。
私たち地元に、この様な貴重な歴史遺跡が有ることを知り、調査に向かいました。 矢穴が開いた、形の整っていない石が矢佐芝橋を中心に分布しているのです。
矢穴の開いた大石には 〇 や △ などの刻印が付けられたものがあります。
刻印の意味は 石を割った人達が作業を行う石を判別するために刻んだもの、仕事の手順に応じて刻むなど現場で石を割るために必要な刻印です。 石を割ることを江戸幕府から命じられた大名たちが、石垣とする良質な石を見つけた際に、自分たちの縄張りを主張するために刻むというものです。
上部の陽が当たっている所に、大きな 〇や △の刻印のある通称「おでん石」。
この様にして採石した石は、石垣用の大きな石であり重量もある。 山中で切り出した石を、どの様にして運び出したのか、今のように重機やトラックなど無く道路さえしっかりと整備されていない時代であり、大変な苦労が考えられます。
それでも、妻子を江戸に囚われている大名は、何が何でもやらなくてはならなかった。
この明神ヶ岳の麓にある矢佐芝地区には足柄平野の栢山で生まれ育った「二宮金次郎」が父母を助け働き、学問に励みながら栢山から矢佐芝へ薪を拾いに来たところでもあります。
矢佐芝集落では、この地域の歴史遺跡を守り続けています。
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