Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「市に虎声あらん」フィリップ・K・ディック

2013-11-09 02:41:32 | book
市に虎声あらん
クリエーター情報なし
平凡社


「市に虎声あらん」フィリップ・K・ディック
読みました。

ディック大好きなんですが、
SF的なガジェットなり仮想現実なりの仕掛けの独特な様相も好きなんだけど
それと同じくらいに、でてくる人物が厳しい現実(仮想?)のなかで
居場所のなさを感じつつも、与えられたり求めたりして得た自分の役割を
一所懸命果たそうとして、
うまくいったりいかなかったり
危うげだったり首尾よくいったり
そういう人のドラマ的な側面が切なくて好きなんだよね。

どの作品でも必ず目頭が熱くなる。
SF的にどんなに破綻している作品でも、だ。

で、この「市に虎声あらん」は、ディックの処女長編ということなのだけど
生前に出版されることは無かったもので、
SFでもない。
もともと純文学指向だったことはよく言われるけれど、
この長編は時の編集者には評価されなかったのかね。

1950年代。

ここには後のディックの作品に出てくる人物像が
しっかり出そろっているように思える。

舞台は50年代のアメリカで、初期の資本主義段階から
大資本が牛耳る成熟期に移行しようとする時期。

主人公スチュアートはその変転の時期にあって、自分が帰属するライフスタイルを見いだせず、
漠然と芸術的な生を望みつつ、それがただ根無し草であるための妄想であることも知っている。
たまさか得た電気店での仕事にまったく希望を抱けないのに
その仕事にしがみつく以外にやるべきことが見いだせない。

電気店の主ファーガスンは個人事業の維持と発展に心血をそそぐやや古いタイプの人間で、
ある面ではしっかり社会に根付いた存在でありスチュアートとは対照的なタイプだが、
やはり時代の変転のなかで存在の根底が揺らぐという点では、不安からは免れない。

スチュアートの空疎を反映するように、終末思想をかかげる新興宗教の教祖が登場するのもディック的。
誇大妄想的であるが、けっして軽々しい存在としては描いていないところもディック的。
取り憑かれたように10ページに渡って語られる終末のビジョンには、
一足飛びにのちの『ヴァリス』を思わせるオブセッションを感じる。

女性も複数登場する。後のディックでは主人公を翻弄し心を締め付けるような仕打ちをする女性が多く登場するが、
ここではその冷たい女性の原型をマーシャに見ることができるだろう。
マーシャは終盤のスチュアートの破瓜を引き起こす存在である。

他にスチュアートやファーガソンの妻が出てくるが、彼女たちは概して罪はなく優しい存在であることが
読者にとってはちょっとした救いであるけれども、その「薄さ」はそれゆえに
夫たちの心の闇を分かち合える存在ではないゆえに、
また絶望の種のひとつである。

あとはスチュアートの姉の存在が注目だろう。
親を早くになくし姉に育てられたというスチュアートの出自は
おそらく重要な要素なのだ。

姉の夫(いやなやつ)の存在も。


そうした人間たちのなかでスチュアートはなんとか皆の幸せのためにやっていこうと努力するのだが、
そして実際上手くやり抜ける見込みだってあったのだが、
しかし身中の空虚を偽ることができなかった。
このように疑問を持ちつつ頑張る人間にあるとき断層が生じるというスタイルは
ディック的。
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』のデッカードくんもしかり。
最初の長編からずっとそういうテーマを持ち続けたということに
なにやら感動するのです。



そういう人の成長/崩壊/変節の物語としてディックを分析するのはとても面白そうである。
余生があったらしようかな。





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