Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「禁色」三島由紀夫

2013-11-05 00:14:37 | book
禁色 (新潮文庫)
三島 由紀夫
新潮社


数ある三島由紀夫のなかからこれを手に取ったのは、
デビッド・シルビアンが坂本龍一の戦場のメリークリスマスに歌を乗せたもののバージョンのタイトルが
forbidden colorsだったからであります。

もちろん?というか歌の歌詞の内容を熟知していないのでなんとも言えませんが
おそらくは小説世界を歌にしようとは思ってなかっただろうなあ。

小説はあのでびしるの歌の静謐でクールな魅力とは全然ちがった
泥臭くスノッブな妄執うずまく世界でした。

豊穣の海第4巻の時代に当ると思うんだけど、
あの卑俗な世界に生きる同性愛者の生態をねっとりと描いておりまする。
むしろ豊穣の海よりもつっこんで、卑俗な中に積極的に生きることを追求しているもののように思えます。
天人五衰の透をもうちょっと高尚にして奥行きを出した感じでしょうか。



ここでも聖と俗の危うい境界線をぎりぎり保とうとする人種の
努力というか世のしのぎ方が追求されるのですが、
そういう聖の側に立とうとする人間は、同性愛的であったり
世俗の幸せを手玉に取って復讐をしようとする、
そのありかたが決して穏やかではありえない、
一種の汚れを持つ世界であることが面白いところだと思うのです。
かっこ良いことばかりでなくぎりぎりのところでかっこわるくすらあるようななかに、
微妙なバランスのこっち側に聖の領域がある。

自分が辛酸をなめさせられた女性たちに復讐しようとする老人のありかたは
なんとも薄汚いもののようですが、
それに若く美形で頭も切れる若者を仲立ちにすることで
なにか絶世の価値を与えることができる、
どちらが欠けてもそこでの絶対的な美はなりたたない。
そんな世界を同性愛の人々を通して描くわけです。



おそらくはそういう聖性の成り立ちがたさ、あるいは
「現代」における聖とはこのような形になるのだという意識で書かれたのだろうと思うのだけど、
平成の世になって読むと、このようなあり方もすでに困難になっているだろうと
実感してしまう。
今の世で聖なるものの成り立ちはどのように描かれるだろうか
そういう小説を読んでみたいです。



読んでからしばらく経つので登場人物の名前とかすでに覚えていません^^;



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