Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「メランコリア」ラース・フォン・トリアー(再観)

2014-01-18 00:20:13 | cinema
メランコリア [Blu-ray]
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ジェネオン・ユニバーサル

メランコリア [DVD]
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ジェネオン・ユニバーサル


映画としてどうなんだよこれはーと思いながらも
どうしても気になるし、観ちゃうし
しかも結構得意だし
またDVD借りて観ちゃうという
自分では認めたくないけどもトリアー好きなんじゃないか疑惑が。。

惑星「メランコリア」が地球に接近して、
まあ衝突はしないだろうけどももしかしたら万が一・・
という設定というか登場人物たちの認識なんだけど、
そのうえで前半はどうしようもなくぐだぐだな結婚披露宴を展開し
ジャスティンがぼろぼろになっていくまで追い続けるし、
後半は姉クレアの家族とジャスティンだけの隠遁のような生活と
惑星衝突の不安に苛まれるクレアのパニックを撮るという、
無力この上ない構成の作品ですね。

構造としてはセカイ系に近いのかも知れないが、
地球の終わりという現実に対して、クレアたちの営みはなんら関与しないし、
もうなす術もなく逃げ場もないということを
ひしひしと感じるばかりなので、
セカイ系なファンタジーの受容を満たすことは無いだろう。

映画内ではいっさいうつ病ということばは出てこないのだが
やはりメランコリーの文脈で観るのが正解なのかなあ。
ジャスティンはぼろぼろになりつつも、ときおりは低空飛行ながら元気になり、
最後の瞬間を向かえるにあたっても全く無表情で落ち着き払っている。
テラスでワインを飲みながら美しく終わりたいという姉にむかって
最低のプランね、とか言い放つし。

終焉を向かえる中でそれを受け入れて冷静になるというのは
なんとなくわかる。
どのような形であれつねにうつ病は終わりを求めているという気がする。
(まったく個人的で感覚的な話ですよ)
終わりを設定することで何かを乗り越えたり
あるいは乗り越え損ねたりしてもなんとかしのいだりしている。
都度なにかの終わりなんだということを意識しないと
やっていけないのだ。
終わりの連続。
終わって終わってまた終わる。
それが生活になるのだ。

地球の終わりはその究極の終わりなので
ジャスティンの心は澄んでいくし
なんども終わりを経験しているので
いつもの終わりとなにもかわらない

クレアは終わりを知らないから涙にくれる。

そういうことだと思う。

おわりなき日常とか
そういうことは苦痛の種なのだ。

***

冒頭の高速度撮影したらしきシークエンスで
超スローモーションで展開される戯画みたいな世界はよいと思う。
そこには後に映画で出てくるモチーフがあらかじめ含まれていて
面白い。

キーファーはドナルドにほとんど似ていないのよね。

前回観たときの記事には、メランコリアによる滅亡はクレアの願望だと書いているが、
今回はそういう風にはみえなかった。
(いいかげんなものだ)
メランコリアは「終わり」の王様であり(あずまん的現実界ね)
この映画は「終わり」は人にとってどういうものなのかを描いたものなんだろう。
と今回は思う。

屋敷の一室で書棚にあるモダンな抽象美術の本を
ジャスティンがだーっととりはらって
ブリューゲルやらミレーやらの図版に置き換えていくところが好きだね。
ワーグナーといい、そういう古典復興みたいな気分がトリアーにはあるのだろうかね。


@自宅DVD
コメント
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