Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「セカイからもっと近くに (現実から切り離された文学の諸問題)」東浩紀

2014-01-17 00:54:33 | book
セカイからもっと近くに (現実から切り離された文学の諸問題) (キー・ライブラリー)
クリエーター情報なし
東京創元社


東浩紀氏の最初で最後という文芸評論集を読みました。

世紀の変わり目のあたりに隆興したいわゆる「セカイ系」文学について、
想像力と現実社会との結びつきが希薄な文学と位置づけ、
そのようなものが作り出される時代の心性の中で文学も批評もその実践が困難になる「セカイ系の困難」を見据え、
その困難に対して作家がどのように取り組んだか、
あるいはどのような脱出口を提示したかを読み解いていく評論集です。

「困難」の要因は、いわゆる大きな物語の喪失を背景としつつ、
例えば読み手も書き手も肥大する母性の中でしか生きられない「母性のディストピア」(宇野)内の存在であること、
あるいは終わりなき日常をループ的に生きる存在であること、
などということになると思うんです。

その中で小説も評論も、社会とのつながりを見出せず、
個人の周りにある好きなものを好きなように書き論じるだけの無力なものになってしまう。
そういう危機意識があるわけです。

そのような「象徴界」を欠いたあり方から文学はどう脱却するか。


新井素子においては、出口は小説世界にキャラクター性を導入することで模索されるといいます。
キャラクターとは、人物が小説内のみの存在であることをやめ、その外側にあり続け、
必要に応じて複数の小説に取り込まれる存在です。
でも正直言って、このキャラクター性がどうして「困難」を乗り越える力となるのか、ワタシにはピンときませんでした。。


あるいは法月の小説では、小説内の父と子(実情は母性の中)の関係で展開するミステリーの中に、
子(主人公=作者)がその関係を解消して「砂漠に」歩み出す契機を導入することで困難を脱しようとしているといいます。
それは「恋愛」です。
確かに本当の恋愛は絶対的他者との出会いであり、終わりなき日常の終焉であり、
社会性との否応ない関係を迫るものですから、これはよく分かりますね。

文芸ではありませんが、押井守の諸作品においては、もうちょっと厳しい方法、すなわち、
ループの中に単なる繰り返しでない小さな差異を挟み込んでいくことで、
徹底してループの中を生き抜くことの中に希望と未来を見出すこと、が読み取られます。
こちらの方はより潔いというか、困難の中で何が可能かという解としてはなにか納得できるものがあるような気がします。
『スカイ・クロラ』を実は今しがた観たところなんですが、
あの映画の静かな感銘は確かに、過去も現在も未来も等価に曖昧な生(すなわち無限の継続)にすら
変化の希望を持ち続けることのはかない覚悟のようなものにあると思います。

論考の最後は小松左京の分析に当てられます。
重厚長大ごりごりの社会派の印象がある小松の小説にも、母性への回帰などのセカイ系の萌芽を見出し、
その後の小説でその困難をどう克服しようとしたかを読み解いていきます。
「日本沈没」での玲子(母性)との別離と、生き延びた小野寺が異国で持つかもしれない家族(子孫)に
託される困難な希望にその出口を見出す観点はなかなか面白い。

もっともワタシには家族の導入がセカイ系の困難の克服にどうつながるのか少しわからないところがあります。
まあ家族はやはり他者として否応なく関わってくる子どもやヨメさんとの対峙というのは不可避ですし、
子孫を残すということは社会の継続や変化へのコミットということでもありますから、
社会(象徴界)との濃厚な接点であるということなのでしょうか。


小松の未完の遺作においては、さらにその先を模索しようとした痕跡があるといいます。
人間との接点を失った(無性の)AI(HE2)が独自の判断で遠宇宙の構造物を探索している一方で、
女性AIが地球でその「子孫」を増やしながら、遠いHE2との出会いを夢見ているという設定で、
擬似家族やジェンダーの問題を絡めつつその出会いがもたらす変化は、
もしかしたら「困難」脱却のスマートな回答となり得たかもしれないと筆者はいいますが、
残念ながらそこまでの展開を書かずして小松は他界します。



押井守や小松左京の分析はなかなか唸らせるものがあります。
本書の著者は本当は小松が提示できたかもしれない未来のことを一番書きたかったのではないか、
そのことを踏まえて、素晴らしいSF小説である『クォンタム・ファミリーズ』『クリュセの魚』を執筆したのだろうと思います。

本書で提示されなかったのは、セカイ系を脱した後どのような文学が可能かということへの明確なビジョンです。
そこへのヒントは幾つか示されているものの、例えば本格的な恋愛小説や社会派作品あるいは家族小説の復権が
「セカイ系後」小説の形であるとはあまり思えません。
その形はこれから創作や評論において実践を積み重ねて作っていくしかないのでしょう。

あずまんの小説執筆への熱意はそういう意識に裏打ちされてもいるでしょうし、
そういう観点で彼の小説を読むのも面白いものです。



あずまんとか呼んですみませんw

それと想像界、象徴界、現実界の言葉の用法がちょっと首を傾げるようなところがありますが、
そこは著者が冒頭で言葉の定義をしているので、まあそれに従って読み替えれば問題はないでしょう。


クォンタム・ファミリーズ (河出文庫)
東 浩紀
河出書房新社


クリュセの魚 (NOVAコレクション)
クリエーター情報なし
河出書房新社

コメント
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