Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「赤い靴」デジタルリマスター・エディション パウエル+プレスバーガー

2011-09-03 02:31:20 | cinema
赤い靴THE RED SHOES
1948イギリス
監督:マイケル・パウエル、エメリック・プレスバーガー


小さいときにおそらくTV放映で見たのだと思うが
この映画のことはなんとなくずっと覚えていて
手塚治虫の「千一夜物語」とともに
幼き記憶に棲む心の映画のひとつに。

それが20歳くらいのときに深夜民放で放映され再会。
もちろん録画した。VHSに。
録画から音楽シーンをカセットテープに落として
自主サントラ盤を作って楽しんだ。

記憶ではほんとうに豪華な色とりどりの映画だったのだが
再会のときはそうでもないなという印象で。
それでもテクニカラーの独特の色合いにときどきハッとする場面が多々。

特におそらくはタイトルに呼応して常に鮮烈に赤の色を際立たせるところは
フルスコアの表紙に書かれた文字から始まって
最後の白いドレスに鮮血というところまで
意識下にがしがし刻印を押されるような気分であります。

それが今回はデジタルリマスターということで、
あの色彩が、あの映画がどのように甦るのかを
拙者見逃すわけにはまいらぬ。

ということで、ふたたび20年の時を経ての再々会。
スコセッシも同じくこの映画を心の映画としていたのか~とか親近感を抱きつつ。

*****

結果としては、色も輪郭もきりっと引き締まった
なつかしいイメージに近い映画がそこにありました
アーチャーズの(もちろん今は亡き)オープニングシークエンスがなつかしい

あきらかにというかベタにディアギレフを想定したであろうレルモントフの
笑えるほどの芸術至上主義者ぶり(というかその記号を演じてるわけだ)や

いまの基準では決して美しくもなくバレリーナにも見えない、
しかし実際にバレリーナだったモイラ・シエラのヴィクトリア

対置してラヴェルやストラヴィンスキーの立場を担いつつも
作る曲は結構普通な(笑)クラスター君

脇役として実質バレエシーンを充実させ、
しかし踊り以外のところで普通の演技でも健闘してくれる
本物のバレエダンサーであるレオニード・マシーンとロバート・ヘルプマン

みな生き生きとそれぞれの役割を大時代的な密度で
大仰に振り切れながら演じていて
いいなあ。

こういうリアリズムの衣を着つつも実は派手に
記号に、ステレオタイプにはみ出して
現実にはあり得んだろう的世界をぐいぐい押し付けてくる
もうこういう映画はムズカしいだろう
二度と撮られることは無いだろう
そんな思いも重なって
この1948年の映画を2011年に観ることの不思議すぎる巡り合わせに
ちょっと酔うのだ

****

芸術を志すものが直面する
芸術か人生か
という選択に関する映画である。

(要約終わり笑)

なわけだけど、そういうテーマの普遍性とか深みとかも
そこに還元して映画の意義があるかというと、そうではないんだよと言うことをも
この映画は体現しているように思う。

激しい熱情とか冒頭の観客たちの異常なイレコミ様とか
そういう過剰なメッセ-ジを満載して
全体がエンタテインメントなんだと。

テーマについてはあちこちで語られているので
(タイムリーに「ブラックスワン」との参照でもね)
ここにはそういうことよりも
あくまで過剰な演技と色彩による一大夢想時空間なのだよと
ファンタジーだったんだということを
強調しておきたい

だからこそ幼少の頃のワタシの脳に
痕跡を残したんだよと。

******

で、作中レオニード・マシーンが演じる
振付け師グリシャ・リュボフ

この役名はどの国の名前なのか
あからさまにヨーロッパのどちらかというと東欧系なのかなー
と勝手に想定しているんだけど

彼はひどくなまった英語で(ついでに容姿もかなりなまっているw)
存在を印象づけるのだが
・・・こういう存在ってどこかで見たな・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・???

と考えて、このあいだやっと思い出したんだけど、
これはあのデヴィット・リンチとマーク・フロストの
ツインピークスコンビが製作した傑作TVドラマ
「ON THE AIR」に出てくる東欧なまり演出家ブラジャじゃないか!

とね(笑)

リンチとかはいかにも『赤い靴』好きそうだし
あながちそこに引用関係があるというのは
当っているかもしれませんよ???

どうかなーー



@ユーロスペース



【追記とネタバレ】
芸術か人生かという過酷な択一と言いつつも、
実際のところは
クラスター君がよりによって
「赤い靴」再演の幕が上がるちょっと前というタイミングで
楽屋に押し掛け
「舞台を捨てて一緒に来い」とか迫るから
ああいう結末になっちゃったんじゃないの??
とか思わなくもない。

本番直前緊張で高ぶっているときになにもそんな大事な話をせんでも(笑)
本当に愛しているなら
本番終わってからゆっくり話すだろ普通(笑)

という感じがして
どうもそのテーマを描くことだけが目的だったとは思えないんだよねこの映画。
激情=過剰なモノをサービスしているんだよと。それが実は目的?という感じ。



コメント (2)
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