Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「<ポストモダン>とは何だったのか」本上まもる

2010-05-06 23:23:29 | book
“ポストモダン”とは何だったのか―1983‐2007 (PHP新書)
本上 まもる
PHP研究所

このアイテムの詳細を見る



<ポストモダン>とは何だったのか1983-2007 本上まもる



話を単純にするために、最近のネット環境の成長を背景にした音楽を巡る幅広いプレゼンテーションに限って考えてみる。

話題を集める作品(プロアマ問わず)について、最近の人々がすぐに「神」とか(ネ申ですかw)言うのにはいつも違和感があって、まあ単なる現代の常套句にすぎないのよね~とはわかっているのだけれど、そうそう神なんか現れはしないのになにをありがたがっているのだろうと字面どおりに受け取って憤慨したりする古い世代なのです。ネット上では。

彼らだって本気で神レベルを目撃していると思ってはいないのだろうけれど、でもやはり相応のインパクトを受けていることの表明であるのだろう。その神の業をこちらのか細いネットリテラシの範囲で眺めてみるに、おおまかに次の二つの方向があると思うのだ。
ひとつは、プロの職人技に限りなく接近し、商品として流通している作品にひけをとらないものの出現。
そしてもう一つは、逆にそうした既成の像を打ち破り、得体の知れない存在感を放つものの出現。

両者に対する神の称号の内実はもちろん異なっていて、文脈によって評価の度合いが異なるのはもちろんのことである。で、本当の神はいうまでもなく後者の姿をとるわけで、そういったものにも称号が与えられるのは、まあ一般論的には希望を持てることではある。
(前者について考えるのも楽しいのだが、ここからは後者について。)

ここでうまいぐあいに期せずして神の文字を冠したバンド「神聖かまってちゃん」が話題なのだが、(彼らが神とあがめられているかどうかは実は知らない)、YouTubeなどを駆使した手法や、ゲリラ的活動の過激さ(というか面白さ)を背景にしつつ、ボーカルの中性的で逝っちゃってる感は面白い、ということになるのだろう。

しかし、ワタシにはこれがちっとも面白くないのだ。手法の目新しさは面白いと思うけれどもそれはどちらかというとネットの面白さなんだ。の子さんの存在感は認めるけれども、なんだろな、激しく既視な感じがするんだな。存在感も、素人が既存のメディアに頼らず名を上げていく過程も、我々は既に知っている。

結論的に断じてしまうと、それらは我々は既に80年代のアンダーグラウンドもしくはオルタナティヴのシーンで体験済みなのだ。あの時代、我々は一斉に、与えられたものではなく自分たちのものを、与えられたルールではなくそれぞれのやり方で、作り発信した。そのとき我々が切り開いた地平とは、そういうことが可能なんだという覚醒であり、それは当時の音楽シーンでは画期的なことだったのだ。

いま道具立てはネットに変わったが、人間たちのやっていることは基本80年代に開かれたフィールドの上での変奏のままなのだ。



ということをここで実感したワタシ的には、こう思わざるを得ない。
今なにかを「神」とあがめる前に、80年代を総括しておいたほうがいいのではないのか?
あの時代の出来事を知ったうえで、なお神と呼ぶべきものが今の時代にあるのか?
と。

新しくなければいけないと言うつもりはない。ただ既知のものを新しいと勘違いしてしまうことのかっこ悪さを恥じるのだ。
なので、これからは、音楽に限らず、自分なりに80年代を捉えなおすことに努めてみたいと思う。そのことで今を見る感覚を磨けるように思うのだ。

(追記的メモ:
もちろん80年代が自分のよき時代だったということが大きく影響している。あの時代はこんなにすごかったんだと位置づけて栄光に酔いたいというごく個人的な弱い動機が自分にはある。
それに80年代もまた、過去の出来事を参照しつつ形成されたことも踏まえなければならない。特に60年代以前の出来事。寺山修二、フルクサス、ユーロロック、シュルレアリスム、ダダ、第二次世界大戦、江戸川乱歩、未来派、全体主義、共産主義、ロシアアヴァンギャルド、etc.etc.)

*****************

と、ここまでが前置きで(笑・やれやれ)

音楽についてはいろいろ調べて整理したいとは思いつつも、実は個人的にずっとひっかかっていたのは、それじゃなくあれですよ。
80年代といえばニューアカじゃないですか。当時えらくかっこいいことに見えたし表層的には行動や言動に影響を受けたもんであるが、しかし実はよくわかってなかったんだよね~
だいたいのひとはそうであったろうけれど。
なわけで、この際いまさらながらニューアカってなんだったのかを整理しておきたいなあと。(いや、整理=理解と言うこと自体ニューアカ的知とは違うアプローチなのかもしれないけどさ)

で、ここは一番、例の「構造と力」を読んでみようじゃないの。と思ったのだけれど、ちょっと荷が重い感もあり(すでに及び腰)なにげなくいろいろググっていたところ、なんとそのものズバリなタイトルの本があるじゃないですか(笑)「<ポストモダン>とは何だったのか」。

目次的にもぴったり感。83年の状況を振り返り、ニューアカの基礎となったフランス現代思想を概観し、浅田-柄谷-東と日本におけるポストモダン言説を跡付け、その後である現在の状況とそこにおけるポストモダンの意味を問い直す。
ああ、やっぱり同じように総括の必要な人がいたんだなw

さっそく購入し読んでみると、やはりそう簡単には整理総括できない問題で、(まあ当たり前だけれど)決してこれ一冊ですべてをわかった気になるようなものではない。ラカンやドゥルーズ+ガタリの思想だって結局それほど簡潔にまとめられてはいないし、浅田たちの業績もなんだかわかったようなわからんような・・・

それでもこの筆者は基本的にはポストモダンの問題系をしっかり把握しているらしいことが感じられるし、それを踏まえた現状況の描写と断罪の手つきは、バランス感覚に優れ、時流に迎合したり過度にドグマ化したりない。後半のこの著者の断罪とメッセージのなかにこそ、ポストモダンとはなんだったのかというまとめがあると思ってよい。

なつかしいスキゾ・パラノの二項と、その後の動物化した人間像の議論を踏まえて、著者はあえて図式的に現代における人間の4類型を示してみせる。(「暴力的に」要約する、と著者はよく述べる。)

現代に顕著となった「動物」としての人間は、人格形成の基礎過程とみなされたオイディプスコンプレックス的転移を経ていないかも知れず、物質的豊かさを背景に欲望は即座に充足され、ネットの発達に助けられながら個々に形成される妄想的価値体系の中を充足的に生きる。
80年代に提起されたスキゾの問題軸が、モラトリアムを助長する思想として表層的に流通し消費されそして批判されたことや、その後サブカルチャーが市民権を得ていく状況のなかで、そうした動物的なあり方が一部で新しく先進的なことのように扱われたこともある。

しかし、「動物」としての人間は結局自らを規定する価値や真理を体系的にとらえることなどできず、もちろんそうした価値をとらえて相対化することもできない。都合のよい価値を都度刹那的に受け入れて欲望のおもむくままに生きるほかない。これを退行と位置づけ、今我々に必要とされているのは、83年に提起された問題系を再度捉えなおし評価すること、すなわち過去の流行としてではなく思想的な意味でのスキゾ的人間像を捉えなおすことなのだ。未来の人間に希望があるとすると、そこへの道はいまもなおポストモダンの問題系にあるのだ。そのように著者は主張する。

ワタシは基本的にその観点には賛成である。


動物的人間の形成を反映した世相として(とは明言していないが)著者はいろいろな事例を挙げるが、印象的だったのはまず、社会の心理学化という話。「癒し」の言説がこのところ隆盛だが、このことが、社会制度の矛盾もしくは不備により生じている人格的精神的な変調さえも、個人的な「心の問題」としてとらえるとこにつながっている。高次の制度を見極めそれを変革していくという視点がそこには欠如していて、口当たりのよい癒しの言葉のみが個人の責任で解決すべきとことしてささやきかけられる。本来は心療内科以前に社会制度の改善によって打開されるべきことは、そちらから手をつけるべきなのだと。
また、心の問題があるとしてその解決は心地よい癒しなどとは本来無縁で、精神分析の過程で明らかなようにしばしば患者の思いもよらない、むしろ本当の意味で不愉快な事柄に直面することによってなされるものだとも。

それから、カルト。動物が大勢の社会においては、超越的な価値を求める者(オイディプスコンプレックスによって父権的なものに規範を求める者)が向かうべき道はほとんどなく、数少ない行き先はカルト集団くらいだという話。かつては例えば政治運動に没入したであろう人間の向かう先。学府であってももはや真理の追究の場ではない(「構造と力」の最初の章を参照のこと)。そのカルトもまた95年以降は相対化され、行き場はさらに先鋭化しているといえよう。

一方でカルトもしくはオカルト的世界観は、孤立した価値体系をそれぞれに生きているはずの個人たちが希求する仮初の一体感を与える場でもある。それは規範に基づいて一貫して追求された価値(父権的)への没入ではなく、心地よく受け入れやすく都合のいい言説(母性的)への依存である。



ちょっと長いが、本書結論の中から引用して終わろう。

「「癒し」と「オタク」と「オカルト」、これらはいずれも成熟した近代の矛盾に対するきわめて安易な処方箋であった。一方、母なるものに対抗しうるほとんど唯一の可能性が、この三つを除去したあとに残る「八三年の思想」の核心部分であった。それは西洋哲学史の総体を引き受けたうえで、批判的に乗り越え、近代の理念の徹底のうちに近代の限界を乗り越えようとするものであった。われわれは八三年の段階で到達したこの地平を再度確認し、九〇年代以降の安易な退行=母なるものへの回帰を拒まねばならない。「はじめにEXCESがあった」。EXCES=過剰こそ母なる予定調和を破る「力」であった。」

もちろん結論として80年代はよかったとか世代論におちつくことを指しているのではない。文中にあるように総体を引き受け批判的に乗り越えていくことが必要なのだ、と申し添えておく。
単純に知識本として読むといまひとつまとまっていないようでもあるが、ニューアカの問題としたところは何かを感覚的につかむにはとてもよい本だったと思う。

*************

著者は83年時点ではまだ10代前半であり80年代をティーンエイジャーとして過ごしたわけで、なかなかに早熟な人のようだ。世代的な面白さとしては、本書に「坂本龍一」で項を設けていることだ。坂本は確かに知的な面のあるミュージシャンではあったが、どういうわけかあの時代、浅田とともにニューアカのなかのさらにマテリアリズム的な側面の芸術的象徴のような存在になった。YMOや彼のソロを聞きながらスキゾキッズというキーワードを心に宿しながら、ワタシたちは日々を暮らしたのである。

その坂本もいまではディープなエコロジストとして、ほとんど宗教的な迫力さえ帯びていて、中沢新一~細野晴臣的世界に接近しているようである(笑)。
30年はやはり長い年月なのだ。

それから、東浩紀がそんなにすごい人だとは思っていなかった。オタク文化評論家程度に思っていた。「存在論的、郵便的」も読んでみよう。



人気blogランキングへ
↑なにとぞぼちっとオネガイします。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする