Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

めとろぽりす的

2006-02-16 18:35:47 | diary
今日は診察日。
単価の高いカウンセリングと診察を受ける。

カウンセリングとはその実体が非常に計りがたい、その場限りの霧や霞のようなものである。こちらが何をどう話し出すのか、自分でもわからないところにもってきて、カウンセラーもそれにどう受け答えをするのかもわからない。出たとこ勝負。この不確実さを「会話」というのだろう。事前にプログラム不可。相互の有機的作用の結果の総体としてなにが残るかわからない。実りのあるときもあればないときもある。この不確かさが楽しみでもあるし、どうも気にいらないところでもある。

会話した結果なにがのこるのか。結局会話した結果を自分がどう整理するかにかかっているのかもしれない。
会話の記憶自体には整理された実体はない。曖昧模糊とした言葉の連なりの記憶があるのみ。それを整理するのは、会話の後の自分による自分だけの作業だ。
自分が一番働いている。

で、問題のカウンセリング料××円。
いったい何に対する対価を払っているのだろう。
話しているのは自分。整理しているのも自分。払っているのも自分。
なにか釈然としないのだ・・・・

**

先日家族で横浜中華街に出向き、豚まんを食す。
土産に豚まんを買う。
純粋に豚まんのためだけに中華街へ行く。

旨かった。

帰路、新しくできた元町・中華街駅を利用する。
切符を購入し、乗り場へ続くエスカレータを降りると、いきなり左右の壁がなくなり、アーチ天井のホームの天井部分に出る。
なんだかメトロポリス的興奮を覚えるなかなかの眺めだ。
おじさんの後ろ姿もうら悲しくてよい。

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豚まんのあとは東戸塚に出て、ヴァイオリンアンサンブルのレッスンに行った。
当然なのだが、受講者はどうやらアンサンブルの経験がないようで、合奏すると、もうご勘弁願いたいほどに呼吸があわない。
旋律という旋律があわいヴェールをかぶったようにぼやけてしまい、くっきりした像を結ばない。他人の出す音を聴かない。音を小さく弾くところではなぜかテンポまで落ちてしまう。スコアの途中から弾き始めるとき、開始位置がすぐにわからない。ボウイングの変更指示が出てもすぐに内容を理解できない。
あああああぁぁ素人くさい。

あと4回のレッスンでアイネ・クライネ・ナハト・ムズィーク全4楽章を仕上げなくてはならない。
無理だろう・・・・・

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思うに、自分は常に「無理」なところにいる。
仕事もそうだった。これは無理だと思った。
いつでもいっぱいいっぱい。
こんな人生はダメだ。なんとかせねば。
コメント (5)
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