Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」

2006-01-26 10:43:07 | book
カラマーゾフの兄弟 上 新潮文庫 ト 1-9

新潮社


カラマーゾフの兄弟〈中〉

新潮社


カラマーゾフの兄弟 下  新潮文庫 ト 1-11

新潮社



無事読了。
でも長いので(600ページ×3巻)読んでるうちにどんどん最初の方を忘れてゆくのでありました・・・・

農奴制廃止後、社会主義革命前夜のロシア。
ある小さな町のカラマーゾフ一家(父と3兄弟)を巡る様々なエピソードと、
父フョードル殺害事件。
嫌疑は長兄ドミートリィにかけられるが、その真相は?

予想外に読みやすく、ところどころにずっしりと主題展開部が設けてあるという感じの構成。

**

たとえば末の弟アリョーシャがいた修道院のゾシマ長老の講話。ここには信仰と愛、自由についての濃厚な思いが語られていて印象深い。

欲求の拡大と充足のなかに自由を見いだすのが俗世の教えだが、その自由のなかで人間は、富める者は孤独と自殺に、貧しき者は嫉みと殺人に導かれる。
それに対し、修道僧の道は真の自由への道である。

「贖罪のための勤労とか精進とか祈祷などは、笑いものにさえされているが、実際はそれらのうちにのみ、本当の、真の自由への道が存するのである。余分な欲求を切り捨て、うぬぼれた傲慢な自己の意志を贖罪の労役によって鞭打ち鎮め、その結果神の助けをかりて精神の自由を、さらにそれとともに精神的法悦を獲ちとるのだ」

このような言葉が100ページに渡り展開され、圧倒的な愛と祈りの法悦がくりひろげられる。

しかし一方でまさにその直後に、ゾシマ長老の葬儀のシーンで、衆人の期待に反して腐臭が急速に発せられるエピソードが置かれているのも、迫力がある。聖人すら死後は自然の摂理に従う。この現実に、ゾシマ長老の聖性に疑問を持つ民衆すら現れる。

こうした両義的な構成がこの小説全体の魅力なのである。

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兄イワンの語る叙事詩「大審問官」もすごい話だ。
15世紀に再び地上に姿を現し奇跡を起こすキリストを審問する大審問官の独白という設定で、荒野で悪魔からあたえられた3つの提案を退けたという福音書の逸話を元に、キリストが守った人間の自由について、こう語る。

「人間は良心の自由などという重荷に堪えられる存在ではない。彼らは絶えず自分の自由とひきかえにパンを与えてくれる相手を探し求め、その前にひれ伏すことを望んでいるのだ。今や人々は自己の自由を放棄することによって自由になり、奇跡と神秘と権威という三つの力の上に地上の王国を築いたのだ。」

なので、いまさらキリストが出現して良心の自由を解き放つことなど不要なのだ、あのときときはなった自由の後始末をしたのは他ならぬ我々なのだ、と。

これはキリスト出現後の15世紀のあいだ、教会と国家が築きあげてきた世の権威と民衆との関係についての考察であり、権威の側が引き受けてきた「必要悪」について述べたものだ。

これもさんざん展開される後に、イワンの弟であるアレクセイによって「それはローマです。カトリックの一番悪いところです」と反論されてしまうが、ここに展開される自由と信仰のとらえ方は、先のゾシマ長老の講話と大きく対立する部分であり、対をなして小説全体の思想を形作っている。

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肝心の本筋、長兄ドミートリイが犯したとされる父親殺しを巡っては、りっぱな法廷ミステリーになっている。あらかじめ読者には真相が示され、裁判における検事と弁護士の論述が、それぞれの論理で真相を再構築しようと試みる。この構造が面白い。
読者にとっては、事実の複雑な因果律に対する、人間の思考の恣意性を感じさせて空恐ろしい。
と同時に、弁論によって左右される傍聴人の狂騒や、個々の証拠は必ずしも完全でないにも関わらず下される誤審によって、人が人を裁くことのむなしさ、滑稽さをも表現しているんだろう。

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エピローグのイリューシェチカの葬送は、子を持つ親として涙を禁じ得なかった。と同時に、人を弔うときにはたぶん一瞬でも心が清らかになるものだろう。そのときをとらえて、集まった少年たちに、このときを覚えておこう、何十年たっても覚えておこうと語りかけるアリョーシャの心の豊かさには胸をうたれた。
少年の清らかな心に精神が根ざし立ち上がること、そこに未来への希望があると言うことなのだろう。
アリョーシャの言葉から、タルコフスキーが好きそうな箇所を引用。

「これからの人生にとっては、何かすばらしい思い出、それも特に子供のころ、親の家にいるころにつくられたすばらしい思い出以上に、尊く、力強く、健康で、ためになるものは何一つないのです。・・・・少年時代から大切に保たれた、何かそういう美しい神聖な思い出こそ、おそらく、最良の教育にほかならないのです。そういう思い出をたくさん集めて人生を作り上げるなら、その人はその後一生救われるでしょう。そして、たった一つしかすばらしい思い出が心に残らなかったとしても、それがいつの日か僕たちの救いに役立ちうるのです。」

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もともと続編が構想されていたがドストエフスキーが没したため叶わなかった。
・ミーチャは結局脱走したのか?(したと思う)
・アリョーシャは暖かい心のまま成長するのか?(してほしい)
・イワンは快癒して殺人事件の真相について世に問うのか?(微妙)
などいろいろ完結しないエピソードが気になるけれど、それでも十分に読みでのある小説でした。
もう120年前に書かれたとは思えない。

あと、作中に「一本の葱」の寓話が出てくるが、この内容は芥川龍之介の「蜘蛛の糸」そっくりなのが驚いた。まあとっくにどこかで指摘されていることでしょうが。


・・長い割には内容のないエントリになってしまったな・・・・・
コメント (4)
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