一篇の小説が一人の作家の手から生み出されるのと同じように、一つの作品を一人の翻訳者が訳すという構図は、基本的にまず未来永劫変わることはないだろう。一人の翻訳者が心血を注ぎ身体全体から搾り出すようにして作った訳文が、なまじっかな共同作業では到達できないほど深く、強く、完成された世界を持ちうることも間違いないだろう。書き手の数を増やすことで必ずよい文章が生まれるのだとするならば、複数名で書かれた小説が、ベストセラーリストの上位を占めているはずだ。だが、現実はそうではない。だから、僕は翻訳における翻訳者の単独性、孤独性を否定したりはしない。つきつめれば、それは人生と同じく、やはりどこまでも孤独なものなのだと思う。ネガティブな意味ではなく。
でも、問題の本質は数にあるのではない。それはたとえば、お笑い芸人の世界と似ている。エンターテイナーの面白さと、ユニットの構成員の数とは比例しない。ピン芸人であれ、漫才コンビであれ、トリオであれ、その価値は数にあるのではなく、その芸にある。当然のことだ。
つまり、翻訳という行為をすべて個人に還元してしまってよいのか、といえば、それは違うと思う。あらためて僕が声を大にする必要はないが、翻訳は、共同作業足りうるのだ。漫才としてやる翻訳があってもいいし、レッツゴー三匹としての翻訳があってもいい。問題は、数ではなく、訳文なのだ(続く)。
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/ー-ニ.._` r-' |…… 「報酬は依頼の内容よりも意味で決める」
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つまり、翻訳という行為をすべて個人に還元してしまってよいのか、といえば、それは違うと思う。あらためて僕が声を大にする必要はないが、翻訳は、共同作業足りうるのだ。漫才としてやる翻訳があってもいいし、レッツゴー三匹としての翻訳があってもいい。問題は、数ではなく、訳文なのだ(続く)。
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