イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

ゴルゴ38  Part IV

2008年09月13日 23時58分11秒 | 連載企画
一篇の小説が一人の作家の手から生み出されるのと同じように、一つの作品を一人の翻訳者が訳すという構図は、基本的にまず未来永劫変わることはないだろう。一人の翻訳者が心血を注ぎ身体全体から搾り出すようにして作った訳文が、なまじっかな共同作業では到達できないほど深く、強く、完成された世界を持ちうることも間違いないだろう。書き手の数を増やすことで必ずよい文章が生まれるのだとするならば、複数名で書かれた小説が、ベストセラーリストの上位を占めているはずだ。だが、現実はそうではない。だから、僕は翻訳における翻訳者の単独性、孤独性を否定したりはしない。つきつめれば、それは人生と同じく、やはりどこまでも孤独なものなのだと思う。ネガティブな意味ではなく。

でも、問題の本質は数にあるのではない。それはたとえば、お笑い芸人の世界と似ている。エンターテイナーの面白さと、ユニットの構成員の数とは比例しない。ピン芸人であれ、漫才コンビであれ、トリオであれ、その価値は数にあるのではなく、その芸にある。当然のことだ。

つまり、翻訳という行為をすべて個人に還元してしまってよいのか、といえば、それは違うと思う。あらためて僕が声を大にする必要はないが、翻訳は、共同作業足りうるのだ。漫才としてやる翻訳があってもいいし、レッツゴー三匹としての翻訳があってもいい。問題は、数ではなく、訳文なのだ(続く)。

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   /ー-ニ.._` r-' |……    「報酬は依頼の内容よりも意味で決める」

ゴルゴ38  Part III

2008年09月10日 22時10分23秒 | 連載企画
孤独なのは、何も翻訳の専売特許ではない。世の中には、同じように孤独にひとりで黙々と作業に打ち込む性質の仕事は、あげればキリがないほどにゴマンとある。SOHOと呼ばれる職種は基本的にすべてそうだろうし、さまざまな職人の仕事も同じだ。キオスクのおばさんだって、どんなにたくさんお客さんがいたって孤独を感じるときがあるだろう。つまり、どんな仕事にも、孤独はつきまとう。

サラリーマンも同じだ。いくらチームとして行動しているといっても、やはりある局面においては、独りで判断し、行動することが求められる(自分の判断で喫茶店にいって時間をつぶすのも自由)。査定だって、最終的には個人が対象になる。給料明細だって、その人個人の働き振りに応じて決められる。大企業の社長だって、みんな孤独を感じるというではないか。

たとえ周りに人がたくさんいたとしても、あるタスクをこなすのは最終的には個人。そういう意味では、翻訳には何も特別なところはない。大勢が働く大企業のオフィスで、経理担当者が自分に与えられた作業を独りコンピューターに向かって黙々とこなしているのと、翻訳者が自宅で独り訳文を作っているのとには、大きな違いはなにもない。経理担当者は、隣の同僚と馬鹿話をして楽しそうに仕事をしているかもしれない(あるいは、少し遠くの席で同僚が延々と答えのない議論をしているのかもしれない)、翻訳者は、自宅の仕事場で独り仕事に打ち込んでいる(猫が膝の上でまどろんでいる)。だが、このとき両者がやっている仕事の内容は、本質的には同じだ。それは、個人という単位に割り振られたタスクなのだ。

議論になんの進展もないが、今日はこのへんで。すみません......(続く)

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   /ー-ニ.._` r-' |……    「・・・・・・」


『樺山課長の七日間』浅田次郎
『遠い幻影』吉村昭
『ナショナリズムの克服』姜尚中&森巣博
『さようなら、ギャングたち』高橋源一郎


ゴルゴ38  Part II

2008年09月09日 21時58分28秒 | 連載企画
と、そんなことをふと思ってしまうのはほかでもない、翻訳という作業をしているとき、それを行なっている自分が常に「独り」(一人ではなく独り)であることを意識させられてしまうからだ。

もちろん、作業全体を俯瞰すれば、翻訳は独りでなされる行為ではない。そもそも、オリジナルの書物が生まれるまでにだって、すでにものすごくたくさんの人が関わっている。エージェント、出版社の営業担当者、編集者、校正担当者、そして、著者。謝辞には、そのほかにもたくさんの人の名前と、その人たちへの感謝の言葉が並べられている。さらに、著者は誰かに特別な思いを込めて、たとえば「いつも私を○×してくれた○×へ」などと一言、初めの真っ白なページに一言書いていたりする。一冊の書物は、たった一人の著者によって書かれたものとされることが多いとはいえ、実際はこのように数多の人々の存在なくしては成立しないものなのだ(そうでない場合もあるかもしれないけど)。それから、一番大事な存在である、読者。下手をすれば数百万人やそれ以上の人たちに読まれることを考えれば、書物と、その周辺の事象に、孤独を見ることは正しくないのかもしれない。

そしてその点から考えれば、翻訳もまったく同じだ。エージェントがいて、出版社の多数の人々がいて、翻訳会社や企業の発注者がいて、監訳者がいて、チェッカーがいて、DTPオペレーターがいて、翻訳者がいる。そのほかにもたくさんの人たちが関わっている。翻訳者は、あくまでもそのなかの一人にすぎない。チームのメンバーのなかの一員でしかない。たくさんの人に支えれることによって、翻訳者は翻訳ができる。だから、翻訳者は独りだ、なんてことをいうのは、間違っているのかもしれない。いや、実際、間違っている。

だが、ここで私が問題にしたいのは、そうした大勢の人々がかかわりを持つ、全体的なプロジェクトの流れのなかにおける翻訳者の役割についてではない。あくまでも、局所的な視点で見た場合の、翻訳という作業それ自体の孤独性についてなのである。エクリチュールとしての言葉は、あくまでも独りの人間によって世界に生み出され、そしてそこに翻訳が介在する場合、翻訳者も独りであることがまず前提とされる。そして、孤独なのは翻訳者だけではない。翻訳に関わるほとんどすべての人たちが、孤独かもしれないのだ。監訳者しかり、編集者しかり。そして、やっぱり読者しかり。なぜなら、書き、訳し、読むという行為は、基本的に独りで行なうものだからだ。

ここでいう孤独とは、独りでいて寂しい、といった類のものではない(しかし実際は、とても寂しい)。翻訳という作業がある意味において個によってしか成り立たない、個人に依存している、という意味での孤独なのだ。端的に言えば、同じ訳文を同時に二人で翻訳することはできない。そういうことだ。スポーツで言えば、個人競技。つまり、翻訳はサッカーではなく、ハンマー投げなのだ。高校の放課後のグラウンドで、サッカー部の選手がワイワイいいながらシュート練習をしたり、華麗なパス交換をしたり、ラフプレーをして胸倉をつかみ合ったり、その直後に同じ相手に激しくタックルして地面に転がせたり、倒れた相手が立ち上がろうとするのに手を差し伸べてちょっと仲直りしたり、それを見ていたマネージャーが胸をときめかせたり、そういう華やかな青春を繰り広げている横で、翻訳者は独り、グルグルと回りながら黙々とハンマーを投げたり、マイハンマーをタオルで拭き拭きしていたり、銀色のメガネをキラリと光らせながら、今日の練習日記を書いていたりするのである。

つまり翻訳者の日々の仕事は、ハンマー投げの選手が黙々と練習するそれにかなりり近い。コーチはいる。チームメイトもいる(でもハンマー投げはマイナーなので、陸上部全体でも2、3人くらいしかいない。下手したら1人しかいない)。恋人も実はいる。だけどやっぱり練習には孤独がつきまとう。山本から来たパスを笹谷がシュートする振りしてスルーし、峰山が豪快に左足を一閃、ネットを揺らす、なんてことはない。あくまで、坪内(ハンマー投げ選手、2年生、理系)の目の前にあるのは、今日も明日も明後日も、鉛色したハンマーだけなのである。あくまでも自分だけを見つめて、自分の力で繰り返しハンマーを投げなくてはならないのだ。

私は中学で陸上部、小学校と高校でサッカー部だったので、どっちのよさも知っているつもりだ。どちらが明るくてどちらが暗いとかは思わない。ハンマー投げにはハンマー投げの楽しさがあると思う(私の種目は長距離だったが)。でもやっぱり、この2つはそもそも根本的に違う。そもそもサッカーは独りじゃ試合ができないから、とにかく他者との共同作業を意識させられる。それはそれなりに気を使ったり、ぶつかったり、ライバルとの競争が激しかったりと、いろいろ大変な面もあるのだけど。でも、孤独に翻訳をやっているとどうしてもあのサッカー部の連帯感が、恋しくなることがたまにあるのだ(続く)

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   /ー-ニ.._` r-' |……    「で、それとゴルゴに何の関係が...」

ゴルゴ38  Part I

2008年09月08日 23時02分24秒 | 連載企画

ふつう、本は一人の著者によって書かれる。小説であれ、エッセイであれ、ドキュメンタリーであれ。もちろん、複数の場合もあるけど(たとえば「読売新聞社会部編」とか)、それは例外的なケースだ。それに、複数の著者がいても、章ごとに分担がわかれていたりする。つまり、実際に書いているのは、一人。一つの文章を、二人で書くなんてことは、基本的にはありえない(そんなの、気持ち悪い)。

でも、それはなぜだろうか。当たり前すぎて考えるまでもないように思えるけど、やっぱりそれは、そもそも言葉が一人の人間の口から発せられるものとして成り立っているからだとしか思えない。言葉は、一つの主体によって紡ぎだされる。一つの意味内容を、二つの主体が同時に心に浮かべて、それを共同で言葉にしようなんてことは、普通の状況ではありえない。主体が複数になったとき、そこに生み出される言葉は「モノローグ」ではなく、「対話」となる。だから、そこからは散文性が失われてしまうのだ。

音楽はどうだろう? 音楽は、言葉とは違う。複数の音色が存在しても、そこにはハーモニーが存在し得る。むしろ、様々な個性がぶつかりあうことによって、一人では創造しえない世界を作り出すことができる。ドラムがあって、ベースがあって、ギターがある。三人がせ~ので演奏を始めたら、やっぱりバンドっていいな~としか思えない迫力のある音楽が奏でられ、そして誰もが胸躍らせてしまうのだ。ところが、三人の著者がいて、せ~ので一つの文章を書き始めたら、たいへんなことになる。お互いが邪魔で邪魔でしょうがない。いくらもたたないうちに、全員が、独りにさせてくれ、と根を上げるだろう。かように、音楽の世界と言葉の世界は違うのだ(続く)

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   /ー-ニ.._` r-' |……    「突然ですが、新連載を開始してみました」


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『とかげ』よしもとばなな
『ほんとうの心の力』中村天風
『かくカク遊ブ、書く遊ぶ』大沢在昌
『アトランティスの心(上下)』スティーヴン・キング/白石朗訳

訳文を作りし者の恍惚と不安 二つ我にあり その五

2008年02月03日 22時19分40秒 | 連載企画
ヒューズ落ちて闇に消えた文字に黙祷す つかの間幻見るのやめる

(解説)冬になると、ウチはヒューズがよく飛ぶ。僕は部屋でPC立ち上げて、電気ストーブを入れて、カチャカチャやっている。別な部屋ではテレビやコタツの電源が入っている。この状態で、さらに洗濯機や炊飯器やレンジのスイッチが入れられると、それだけでもうウチの電気は限界に達してしまうようだ。別に、たいしたことしてるわけじゃないのに。アホなヤツやな~と思う。人間、それくらいのことを同時にするってことがわからんのだろうか。
レンジのスイッチを入れる。すると、ウチは鈍い頭でゆっくりと電気量を計算する。そして、しばらくしてようやくああそうか、と気づく。容量、超えてまっせ、と。そして、思い出したように「バチンッ」と大きな音をさせてヒューズを飛ばすのだ。

翻訳をしているときは、ヒューズが飛ぶと同時に、最後に保存した段階からの訳文が消えてしまう。今はWordの回復機能とかがあるから、消えたと思った文字列が復活してくれる場合もあるし、Vistaはだいぶ強く賢くなってくれたみたいで、PC自体が重症を負ってしまうようなこともなくなった。だけど、やっぱりワンパラグラフとかがまるまる消えてしまうこともある。昔はよくこういうとき泣いて悔しがったものだけど、最近はオヤジ力がついたのか、あんまりこの手のことには動じなくなった(感性が鈍くなっただけ?)。で、もう一度同じところを訳すわけだけど、直前に訳したばかりだから、さっきとほぼ同じものができるかというと、そうでもなくて、不思議と違う文章ができあがる。自己同一性を疑ってしまいたくなるほど、先ほどとは微妙に異なった訳文が出来てしまう。誰でもそうなのだろうか? エントロピーの法則は、僕の訳文の中にも確かに息づいている。

バチン、とすべての電気が落ちる。夜なら真っ暗になる。何度やってもびっくりもする。ああまたか、とも思う。暗闇のなかをすぐに立ち上がる気にもなれない。だから、数秒間、黙とうしてしまう。そのとき、ふと感じる。この暗闇こそが、沈黙こそが、実は本当の、ありのままの世界なんじゃないかと。テレビもない、インターネットもない、蛍光灯もない、それが世界のそのままの姿。電化製品に囲まれて、文明の恩恵を受けている空間や時間は、たかだか人類数百年の知恵が生んだ、幻なんだと。

ヒューズが飛ぶ。わずか数秒間だけど、幻の世界を降りて、本当の世界の、本当の暗闇のなかでたたずむ。でも、数秒間しかもたない。そして、また電気をつけて、コンピューターのスイッチを入れ、訳文を作り始めるのだ。

HHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHH

出版翻訳であろうが、実務翻訳であろうが、訳文を作るときに感じる恍惚と不安は同じだ。誰かから翻訳を依頼されるということは、数多の人たちのなかから選ばれて、白羽の矢を立てられたということだ。当然嬉しい。でも、上手くできるだろうかという不安も感じる。
恍惚と不安。この二つこそが翻訳の魅力であり、よい訳文を生み出す源でもある。原文はそこにある。外国語で書かれた言葉がそこにある。だから、それと等価な内容を、日本語でもきっと書けるはずだ。と誰もが思っている。今は目に見えない訳文も、当然誰かの手によって生み出されるはずだ、と。綺麗な言葉で、美しい言葉で、澱みなく、迷いなく、きっと訳文は書かれるだろう。そうした期待に答えるべく、選ばれたあなたは、言葉を作り出していく。真っ白な紙を目の前にして。自分には、上手く訳文を作ることができるのだろうか。できる、いやできない、できる、いやできない。好き、嫌い。憎い、恋しい。めぐりめぐって、今は、できる、と思おう。やると言った以上、やるしかない。
どれだけ経験を積んでも、どれだけ年をとっても、この悦びとこの不安を同時に感じていたいと思う。ときめく心と、苦悩する心。嬉しいのだけど、恥ずかしい。このアンビバレンツのなかに、翻訳の真髄はきっとある。そしてもちろんこの恍惚と不安を感じる局面は、翻訳だけに限ったことではない。

~連載完~


訳文を作りし者の恍惚と不安 二つ我にあり その四

2008年02月02日 23時47分13秒 | 連載企画
聞こえるのは知っている語だけと教わりし夜 耳が拾いし“true to yourself”

(解説)僕がiPodで聴くのは音楽ではなく、アメリカのpodcastの番組がほとんどだ。最近、少し日本語の番組も聞くようになったけど、だいたいは英語(もちろん、英語のほうが聴きやすいなんてことはまったくなくて、いくらやっても上達しない、英語の勉強のためです)。通勤時とランニングの最中にずっと聞いている。でも、一言ももらさず聴いているかというと残念ながらまったくそういうことはなくて、途中でついていけなくなってしまって、耳にしている言葉とは違う、妄想の世界に逝ってしまっていることが多い。

通訳学校の先生からもよく言われたことだけど、自分が知らない語は聞こえない。音としては入ってくるかもしれないけれど、意味としては入ってこない。バイスバーサ。もちろん、知っている語でも聞こえない場合が多いのだけど。

途切れ途切れの意識で英語を聞いているとき、ふと耳に飛び込んでくる語がある。やはりそれは、自分の数少ないボキャブラリにある言葉だったり、つい最近覚えたり強く意識した語だったりする。たとえば今日は、true to yourself。自分に忠実であれ。忠実であるから、あるいは忠実であろうとしているから聞こえてきたのか、それとも忠実じゃないから聞こえてきたのかは、よくわからない。でも、きっと何か理由があるはずなのだ。

OOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO

訳者は黒子であり、脇役であるわけだが、それでも著者に寄り添うことで、華やかな舞台の上に立つことができる。もちろん、華やかだと決まっているのは舞台だけなのであって、そこでパフォーマンスをする者に力量がなければ、恥をさらすことになるだけだが。ともかく、そうしてめでたく訳書を上梓することができたときの喜びといったら、もうその場で裸踊りを始めてしまいたいくらいのものであり、涙がちょちょぎれるほどのものであるわけで、だからこそ金銭的には必ずしも恵まれない場合があったとしても、訳者志望者は後を絶たないのだし、これからもそれは変わらないのだろう。もちろん、自分もその末端のうちの一人であるわけだ。

しかし、人間、背に腹は変えられない。食うことができなければ、生きていけない。そして、おそらく出版翻訳だけでは、食っていけない。それは不可能ではない。だけど、出版翻訳家になることは、公務員になるとか銀行に就職するとか、そういう風に安定して生活していける職業に就くことではない。翻訳についての「モノの本」などを読むと、一気に夢打ち砕かれ、気分が萎えるような悲惨な体験談ながミもフタもなく書かれてあったりする。実際そこで、撤退していく予備軍の人たちもいるのだろうと思う。

だけど、僕は金銭的な理由だけで、出版翻訳に対して興味を失ったりはしない。少なくとも今のところは。少し悲しいけれど、これが現実なのだ。逆に、儲かるからやろう、と純粋に思えないのは興味の対象としてよいことでもあるという気すらする。そもそも、前に書いたように。「印税で食っていけないのがつらい」なんてことを考えること自体がおこがましい。文学に身を投じて、最終的には自ら命を絶った作家だって多い。それほどの才能も気概も持たずして、印税などという収入手段に期待などしてはいけない。少なくとも僕のような凡庸な人間は。

生きるため糧を稼ぐ手段は印税だけではない。会社員としてサラリーを稼ぐことだってできるし、実務翻訳で手堅く収入を得ることだってできる(実務翻訳で稼ぐことだってとても大変なことだが)、配偶者の収入を基盤にして生活していくことだってできるだろう。飢え死にしない程度なら、しばらく働かないという手だってある。男だって、女だって関係ない。世界には、ありとあらゆる職業があり、生き方がある。世の中のひとは、誰だってそうして自分なりの方法で、生きる糧を得ているのだ。一億人がいれば、一億通りの方法で。だから、出版翻訳一本で暮らしていければ素晴らしいのだろうけど、それができなくたって素晴らしい人生が送れるはずだと思う。翻訳者は、そうした十人十色の「個人的な事柄」を水面下に押し隠しつつ、訳文を作る。報酬は様々な形で訪れる。原著者に成り変ることで、別な人生を生きることができる。自らのつむぎ出した言葉が本という形になる。そしてそれを世間の目に晒すことができる。読者には、訳者の経済事情などわからなくてよい。そして、読者がそれをよい訳文だと評価してくれたら、訳者にとってこんな嬉しいことはない。霞を食って生きていけるわけじゃないから、諸手をあげて万々歳のハッピーエンドにはならないかもしれないけど。

(明日に続きます)

OOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO

『庵野秀明のフタリシバイ』企画・構成 木俣冬
『外資の常識』藤巻健史
『スローグッドバイ』石田衣良
『来年があるさ』ドリス・カーンズ・グッドウィン著/松井みどり訳
『人生にツキを呼ぶ 黄金の一日二食』佐藤富雄




訳文を作りし者の恍惚と不安 二つ我にあり その三

2008年02月01日 23時29分43秒 | 連載企画
携帯で夢中で喋る手相師と目線交わして夜の街行く

(解説)夜の商店街を歩く。路上の少し先に、手相師がいるのが見える。どこにでもある、見慣れた光景だ。小さな机を出し、椅子に腰掛けて、占ってもらう人が近づいて来るのを待っている。けっして目立たちはしないけれど、しっかりその場に馴染んでいる。よく見ると、彼は右手に携帯を握り締め、誰かと話していた。まるでやり手のビジネスマンのように、熱心にしゃべっている。誰とどんなことを話しているのかはわからない。家族と話しているのか、誰かと仕事のことを話しているのか、あるいは、電話越しに手相を占っているのか(しかし、どうやって?)。偏見なのはわかっているけど、なんでだろう、占い師に携帯は似合わない気がする。携帯を使うなとはいわない。でも、せめて営業中は、やめた方がいいんじゃないか。大きなお世話と知りつつ、そんなことを思いながら彼の前を通り過ぎようとする。一瞬、手相師と目が会う。彼は僕の事などまったく気にせず、すぐに目線をどこか遠くにやって、話を続ける。僕も、すぐに目線をそらして、そのまま歩き続ける。僕の人生、これからどうなるんだろうか、なんてことを思いつつ。幸か不幸か、今まで一度も手相師に手相を見てもらったことはない。

AAAAAAAAAAAAAAAAAAA

本というのは凄いもので、一冊の中に著者の思想や人生すべてを閉じ込めることができる。音として語られる言葉と、文字として書かれる言葉は違う。その著者と会って、半日ほど話を聞くとする。いろんなことがわかるはずだ。その人の表情や、姿やしぐさから、生身の人間からしか伝わらない情報を得ることができる。だから、会いたい人がいて、その人に会えるのなら、相手が生きているうちに、あるいは自分が生きているうちに、会った方がいい。会えば、その人のことが一生心に残るはずだ。でも、人間、会うだけでは伝わらないものがある。相手が目の前にいても、その刹那では、伝えることも伝えられることできない何か。人には歴史がある。それをわずかな時間ですべて誰かに語りうることなどできないのだ。

書かれた言葉の中には、本の中には、そうした「今、生きている何か」的なものだけでは表現しきれないものが、すべてではないにせよ確実に存在している。誰かの歴史や考え方、思想やエートスをすくいあげて、テクストに、この世界に、それを刻み込むこことができる。そして、いったん文字になり印刷された言葉は、ほぼ永遠にこの世に残る可能性を秘めているのだ。

どんな人の人生も、一冊の本になり得るという。誰もがみな、その人にしか生きることのできない、ユニークな物語を生きている。平凡さという概念は、特定の個人のなかに具現するものではない。それでも、誰もが本を出版するわけではない。一冊の書物が生まれるまでには、様々なドラマがあり、想いがあり、必然があり、偶然があり、ユニークな運命がある。凄まじい人生を生き延びて、命をかけてそれを一冊の本に記す人がいる、特定の対象に人生のすべてをかけて、その研究の成果を書物に表す人もいる。読者は、書物を紐解くことで、それを書いた人の人生を、思想を、わずかな時間で追体験することができる。翻訳者は、数ヶ月間を一冊の書物とともに過ごす。大変な作業ではある。とはいえ、その書き手に比べれば、そんな苦労などたやすいものであるはずだ。翻訳者は、訳文の正しさや質については責任を負っているにせよ、書かれている内容そのものについて、その責を直接問われることはない。

(明日に続きます)

AAAAAAAAAAAAAAAAAAA

『犬たちの隠された生活』エリザベス・M・トーマス著/深町眞理子訳
『滅びゆく国家』立花隆
『結婚したら、もう恋はできないの?』イルマ・ラウリッセン著/中田和子訳
『無限カノン』高旨清美
『日蝕』青山光雄
『彼女』A・N・ワードスミス著/高見浩訳
『舞い上がったサル』デズモンド・モリス著/中村保男訳
BO吉祥寺店

『チャンドラー短編全集2 トライ・ザ・ガール』レイモンド・チャンドラー著/加賀山卓郎他訳
『現代短歌そのこころみ』関川夏央
『少女には向かない職業』桜庭一樹
吉祥寺の啓文堂

訳文を作りし者の恍惚と不安 二つ我にあり その二

2008年01月31日 23時46分19秒 | 連載企画
億の出会い果たし君に届け心 億光年の彼方まで

(解説)ぼくたちが生きているのは、億の時代だ。60億もの人が地球上で生きている。10億を意味するギガバイトの情報が、コンピュータの、iPodの、ハードディスクを占拠している。わずかな賃金であくせくと働いている人がいる一方で、数億の年俸を稼ぎだす人もいる。

小さいとき、億という数字を想像すると、気が遠くなった。宇宙を感じた。大人になった今でもそれは変わらない。それはあまりに膨大で巨大で、考えるだに意識が遠のいていく。実際、億なんて数を、この目で見たヤツはいるのか、その手で数えたヤツはいるのか。だって、一万×一万だ。一万人が住んでいる町が、一万もあるのだ。一万人と会って話をして、握手して仲良くなってご飯を食べて、酒飲んでケンカして、冠婚葬祭に招かれて、一緒に歌をうたったり、喫茶店でお茶飲んだり、同窓会したり、ボーリングしたり、ってやっていたら、それだけで一生が終わってしまう。それを、一万回繰り返すのだ。それが、一億。そんなの、想像できますか?

でも、よく考えてみれば、僕たちが出会う人たちはすべて、そんな想像のできない億の出会いを通してこの目の前に現れている。人の一生はあまりにも短い。人が把握できる数もあまりにも少ない。そんな限られた存在である生のなかに、無限が乱入してくるのだ。

そして、それがあなたなのだ。だから、あなたは奇跡なのだ。僕はあなたのなかに無限をみる。あなたのなかに永遠をみる。すべてがあまりにも不条理だから、ぼくはあなたを愛する。この心は、どこまで届くのだろうか。

YYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYY

自分の訳書が初めて本屋に並んだとき、嬉しくてたまらなかった。本屋を何軒もはしごした。さりげなく、他人のふりして立ち読みしてみた。それとなく、<面白い本だなこれ>、という表情を浮かべてみた。レジに持っていって、<この本がよい本だと普通に思ったので、買います>、という顔をして買ってみた。そんなことをしばらく続けた。

でも、同時に不安にもなった。よくみると、自分の訳した本の右隣に、村上龍さんの本が置いてあった。左隣は、ミスター円の榊原英資氏の本だった。やれやれ、とは思わなかった。代わりに、ヲイヲイと思った。出版翻訳の世界に出たら、こんな人たちが相手なのか。こりゃあ、大変だ。もちろん訳書は原著者が書いたものだ。誰も、ぼくの名前なんて気にもとめていない。だけど、読者が読むのは自分が訳した日本語なのだ。こりゃあ、おかしい。どう考えても、間違っとる。原著者が書いたのは素晴らしい本。だから売れて欲しい。でも、それをなぜ俺が訳してる? サッカーの試合中に、なにかのひょうしに誤ってブラジル代表のなかに紛れ込んでしまったような気がした。大観衆の前で、ロナウジーニョからパスが来て、カカとワンツーしなきゃいけない。そんな感じだ。買う側の立場にいるときは、どんな本を見てもなんとも思わないのに、いざ自分が舞台の上にあがると、そこは大変な場所だったということに気づいた。本屋の棚は、すごい。現代の作家だけじゃない。今はこの世にいない作家たちの魂が、眠っている。古今東西から集められた本が、ひしめき合っているのだ。自分の名前が記された本が書店に並ぶ。そのとき、シーソーの片側で恍惚とした悦びを味わいつつ、その反対側で、圧倒され、完膚なきまでに叩きのめされ、身の程をいやというほど思い知らされる気がしなければ、嘘だと思った。本に対するレスペクトがあれば、限られた書店のスペースの一部を自らの訳書が占めていることに対して、感謝する半面、心のどこかで自責の念に駆られているはずだ。そうでなくては、おかしい。

(明日に続きます)

YYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYY

『柴犬のツボ』」影山直美
『文学賞メッタ斬り』大森望、豊崎由美
『ネットの中の詩人だち』島 秀生著
『かんたん短歌の作り方』枡野浩一
『CRUISING PARADISE』SAM SHEPARD
荻窪店。サムシェパードの原書を初めて買った。畑中佳樹さんが訳した彼の『モーテル・クロニクルズ』は、本当に美しい本だと思う。高かったけど、衝動買い。

訳文を作りし者の恍惚と不安 二つ我にあり  その一

2008年01月30日 23時15分22秒 | 連載企画
「食えない」と言うことなかれ背表紙の訳者の名前の恍惚と不安

(解説)『選ばれし者の恍惚と不安 二つ我にあり』太宰が引用したヴェルレーヌの詩の一節だ。文字通り、誰かによって選ばれた存在であるということは、恍惚となるほど喜ばしいことでありながら、本当に自分でよかったのかという不安に苛まれるものなのだ(ちなみに、この言葉が僕の心に深く刻まれているのは、プロレスラーの前田日明がそれをリング上で口走ったからだ。そのときの前田は、格好よかったぜ本当に)。

出版翻訳は、食えないという。何ヶ月もかけて書籍を訳しても、得られる収入はごくわずかしかない場合が多いと聞く。ごく一部の例外を除けば、出版翻訳だけで生計を立てようとするよりも、普通の勤め人をしている方が経済的にはよっぽど安定しているし、稼げる額も高いというのが一般的な見解だ。

ある意味それは妥当な意見だ。実際、パイは非常に限られている。日本に限れば、本の翻訳だけで十二分に食っている人の数なんて、まず三桁はいかないだろう。儲かる仕事をそれこそ何十年にわたって続けている人なんて、下手したら限りなく一桁に近づくだろう。ともかく、だから、と人はいう。本の翻訳だけで食ってくなんて、夢物語なのだと。だから、翻訳なんて商売を目指そうというのは、まともな人間の考えることではないのだと。たしかに、そうかもしれない。僕も、だいたいはそう思ってる。よっぽどのベストセラーにでも恵まれない限り、本の翻訳だけで楽々と生活していけるなんて思っていない。

でもちょっと待って欲しい。そもそも、翻訳に限らず、印税だけでメシを食っている人なんて、どれだけいるというのか。よほどの売れっ子作家でなければ難しいということは、ちょっと考えればすぐにわかるだろう。芥川賞取ったって、印税だけでは生活していけない人だってたくさんいるのだ。出版翻訳じゃ食えないと嘆くとき、同時に世間から、じゃあいったいお前にはどれだけの才能があり、技があるのか、印税だけで世間様から食わせてもらって当然と思えるほどの、価値のある仕事をしているのか、と問われていることを想像しなければならない。「自分の訳した本がなぜか売れなくて、印税ががっぽがっぽ入ってこなくて、左団扇で生活できない。なんておかしな世の中なんだろう」、なんてことを考えているとしたら、それは本当に大きな勘違いだ。

(明日に続きます)

文学部唯野学部卒④ 傍らにいてくれるもの

2008年01月12日 22時34分12秒 | 連載企画
意表つく辞書の定義に吐息漏れ

(解説)辞書を引くといろんな発見がある。英文を読む。まったくの見ず知らずの語に出くわす。辞書を繰る。意味が載っている。おそらく英語を母国語とする人なら、誰でも知っているような言葉に違いない。だって、この英語に匹敵する日本語を知らないことなど日本で生まれ育ったひとならありえないでしょ、というような語なのだ。Oh my god. なんてこった。ぼくは、こんな基本的な語も知らない。ああ、なんでぼくはこれまでこの語に出会わなかったのだろう、なんでこの語にもっと早く出会わなかったのだろう。この期におよんで、こんな簡単な語も知らなかったなんて恥ずかしい。こんなぼくをどうか許してほしい。いや、許してください。ああ、神様。こんなぼくを、どうかお許しください。神様~。と、おもわず天に向かって懺悔をしたくなるときがある(ご清聴、ありがとうございました)。

でも一番ドキッとするのは、すでに知っているつもりだったり、文脈から考えて、おそらくこういう意味だろう、と高を括っている語に対して、念のためまあ確認しておくか、と思ってなにげなく辞書を引いたときに、自分が想像していなかったような意表をつく定義が載っていたときである。体がかすかにぴくっとする。おもわず「あっ」とちいさく吐息がもれる。危ない危ない。誤訳するところだった。でも、冷や汗と同時に、ほう、なるほどね、という小さな驚きも感じている。こりゃあ、めっけもんだ。横着せんとちゃんと辞書引いといてよかったわ。で、それがちょっとした快感なのである。そしてこの「あっ」があるかもしれないという予感が、また今日もぼくを辞書に向かわせるのである。ああ、神様~~~。

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文学部出身であること(あるいは文学的なものが好きであることと)と、世の中をどう渡っていけばよいかということに、どう折り合いをつけていけばよいのか。それは全国に300万人(まったくの推測)いる文学部出身者ひとりひとりが抱えている問題だと思うから、ぼくには何もいうことはできない。卒業してからは文学的なものと一切の決別をして生きているひともいるだろうし、文学的なものを人生の楽しみにして生きているひとも、もちろんたくさんいるだろう。あるいは、文学部的な活動そのものを生活の一部にしている人もいるだろう(直接的であれ、間接的であれ)。でも願わくば、文学的なものがその人たちの生活のなかで、わずかでもいい、役に立っていたり、彩を添えてくれていたり、心の支えになってくれていたりしてくれればいい、と思わずにはいられない。文学的なものは、ほとんどの人にとって、病をすぐに治してくれる薬ではないし、生活を支えてくれる飯の種でもない。でも、文学的なものや、それを好きであることは、きっとどこかにその存在意義があるはずだと信じたいのである。せめて、処世という文脈において役に立たなくてもいいけど(役に立てばもっといい)人生という文脈においてはスパイスとしての役割を果たしてほしい。わんぱくでもいい、たくましく育ってほしい、と思うのだ。

ぼくのやっている翻訳関連の仕事は、かならずしも世間的には文学的、とは呼べないものだ。マーケティング資料やら法律文書やらマニュアルやらの実務翻訳の世界は、企業文化という世界のお堅い文章が対象になっているわけで、ある意味文学とは対極に位置するものではある。でも、種類は違っても、扱っているのは「言葉」なのだ。たとえるならば、実務翻訳と文学の世界は肉食動物と草食動物ほどの違いがあるかもしれない。でも、同じ哺乳類であることに変わりはない。言葉を扱っているという点で、なにより「よい文章を」作って売るということを商売にしている点では、加湿器の取り扱い説明書であろうが、レズビアンの恋愛小説であろうがまったく同じだ。だから、ぼくはなかば強引に、自分の仕事は十分に文学的なものではないかと思っている。あるいは、文学的な素養が十分に「武器になる」世界ではないかと考えているである。

文学的素養、というとたいそうに聞こえるし、決して自分に文学的素養なるものがたいしてあるとも思わない。だけれども、訳文を作ったり、人の訳文をチェックしたりするときに、ぼくを支えてくれているもの、ぼくの土台となっているものは、なんといってもこれまでに読んできた数多の本なのであり、そこで出会った言葉たちなのであり、文学的なものが好きで人生を棒に振りかけた自分の過去なのである。そして、この「文学的なるもの」の存在は、翻訳作業をしているときに、とてもとても心強いのだ。

この文学的なるものは、目に見えるものではないし、資格試験みたいに証書で証明できるものでもない。でも、それがなければ、この「文学的なるもの」が自分の傍らにいつもいてくれることがなければ、決してこの仕事はやっていないだろう、と思う。そしてそういうときに、ああ、文学部的な自分でこれまで生きてきてよかったな、ムダばかりしてきたけど、ようやくいろんなことが役に立つときがきたな、あのとき、××しといてよかったな、でもやっぱり○○は△△にしておけばよかったな、そういえば石川君いま元気かな、などとこれまでの文学的な人生のいろんな思い出が走馬灯のように蘇ってくるのである。そして、こんなぼくのような人間でも好きなことを生かして世の中に小さな居場所を見つけることができたのだから、文学的な素養を生かして、もっともっと大きな活躍をしている人はたくさんいるだろうし、そういう力が求められる場面も、ぼくが知らないだけできっときっと数多くあるのだろうな、という風に思ったりもするのである。

もちろん、はしくれ翻訳者として走り始めたぼくの目の前はまだまだお先真っ暗であり、いつなんどき人生の奈落に転落するかはわからない。しかしそうなったらそうなったで、それは十分に文学的なことなのではないのだろうか、とおもったりする。ともかく、文学部万歳!
(連載完)

文学部唯野学部卒③ 活字系の生きる道

2008年01月11日 22時55分28秒 | 連載企画
往き帰り目線そらしてすれ違う

(解説)毎朝、駅までの道のりを往くときに、すれ違う人がいる。その人は男性で、年齢は30代半ばくらい。いつもきっちりとした身だしなみをした、まじめそうな人だ。彼は、ぼくの逆方向から歩いてくる。ぼくは武蔵境の駅に向かって歩いているが、彼は武蔵境の駅を出て、ぼくの家の方角にある職場に向かっている。ぼくが家を出る時間は、毎朝、数分単位で微妙に違っている。だから、彼とは通勤経路のいろんな地点ですれ違う。ちなみに、ぼくの家から駅までは徒歩20分弱。そして、彼の歩くルートは、ぼくのルートとまったく同じものを逆にたどっている。なぜそれがわかるかというと、ぼくは公団に住んでいるのだけど、エレベータを降りて表に出たとたん、彼と出くわしたことが何度かあるからだ。彼はそのままぼくの家の前を通り過ぎていき、そして、彼の勤務先である(とぼくは踏んでいる)その先の女子大の方に歩いていく。というわけで、かなりの確率で毎日彼とすれ違っているのだが、まあ、当然というか、言葉を交わしたことなどない。これが、外国なら、いつのまにか友達になったりするんだろうけど(すれ違いざまに見ず知らずの人が挨拶する文化、いいんだよな~)。でも、日本人のぼくたちは、挨拶どころか目線も合わせない。わざとらしく、お互いに前をまっすぐ見つめて、すれ違うだけ。だけど、ぼくが彼のことを認識しているように、彼もぼくのことを認識しているのは間違いない。それは、その目線の「そらし加減」でわかるのだ(あるいは、目線の微妙な泳ぎ方加減)。彼とすれ違うとき、おはよう、毎日ごくろうさん、という気持ちになることもあるけど、正直、毎日毎日同じ顔を見せられてうっとうしいな~、と思うこともある。今日もまたお前か、みたいな。俺のシマに入ってくるんじゃねえ、なんて思ったりする。動物的本能なのか。ともかく、なんだかこっちの行動がみすかされているようで、なんとなく気恥ずかしいのだ。

そして、実はそんな彼と帰り道もすれ違うことがある。今度は、逆だ。ぼくは駅を出て家までの道のりを歩いているし、彼は職場を出て駅に向かっている。遠くから彼が歩いてくるのを見かけると、やれやれ、と心の中で苦笑してしまう。また会っちゃいましたね、なんだか、バツがわるいですね。見られたくないとこ見られちゃいましたね、みたいな感じだ。別に悪いことしてるわけじゃないんだけど。彼は他所の町で寝起きして、武蔵境で日中をすごしている。そしてぼくは武蔵境で寝起きして、他所の町で日中をすごしている。まるでお互いがお互いの分身だ。ともかく、今日一日、ご苦労さん。あるいは、やっぱりまたお前かよっ!ってなことを思う。多分、相手も同じことを考えているのだろう、どことなく、ぼくを見つけたその顔がちょっと笑いをこらえているような、あるいは見たくないものを見たような、なんともいえない顔をしているのである。そして、そんなときもやっぱり、お互い目線をわざとらしくそらして、そ知らぬ顔してすれ違うのである。

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昨日と一昨日のエントリを読みかえしてみたら、文学部について「役に立たない」みたいなことをかなり直截的に、一般論として言ってしまっていることに気づいた。これはひとえにぼくが不真面目で自堕落な学生であったから、そういう刷り込みがされてしまっていることからくるわけで、あくまで自分を基準にして述べているのです。きちんと目的を持って文学部で勉強してその後の人生に役立てている人はたくさんいる、ということをあらためて付け加えさせていただきたい。

ところで、翻訳の世界にいる人たちが、どういう経緯を経てこの道を目指すようになったのか、ということを考えるとき、実はいろんなパターンがあることに気づく。語学が好きだったから入ってくるパターンもあるし、専門分野から入ってくる人もいる。あるいは、経済的な理由や労働条件などが出発点の人もいる。在宅でできるとか、フリーでできるとか、独立したかったからとか、お金が儲かりそうだったから、とか。そして、読んだり書いたりすることが好きだったから、ということから翻訳の道に進もうと考えた人も多いと思う。かくいうぼくもそうだ。先の例を語学系、専門知識系、独立系という風に分類できるとしたら、本好きが転じて翻訳を目指したタイプを活字系、とでも呼ぶことができるだろうか。ぼくの場合は、翻訳をやろう、と思ってから、やおらそれに必要なことを勉強し始めた。英語力も、専門知識も、営業面も、すべて後付けで学んできたし、今でもこれらについてはあまり自信がない。仕事の段取りをしたり、原文を苦労して読んだり、専門的な内容を勉強したり調べたり、こうしたいろいろな作業は、とても楽しいしやりがいがあるのだけれど、ぼくにとっては最終的に日本語をアウトプットするために必要な準備期間という気もする。日本語を吐き出せる瞬間を味わうために、苦労して身につけた筋肉、みたいな感覚だ。やはり活字系としては、訳文を作っているその最中が楽しく、楽しいといいつつ苦しみはしながらも、書いては消しの粘土細工をしているときが一番やりがいを感じるときなのである。でも、だからといって巷でよくいわれているように、翻訳には日本語力が一番大切だ、などとはいいたくはない。もちろん日本語は大切だ。でも、そこで鬼の首とっちゃって、日本語だけでいいと浅く見切りをつけちゃったら、語学力や専門知識を伸ばそうとする可能性が狭まってしまう。いやしくも翻訳者としての看板を掲げている以上、語学のプロであり、自分の専門分野のプロであり、仕事人としてのプロであり、そしてその上で日本語のプロである、ということが求められていることを忘れてはならないし、どれかが大切ということではなく、すべてが等しく大切なのである(と、自戒を込めて言おう)。そう、翻訳はトライアスロンなのだ。ラン、スイム、バイク、どれも大切だし、まんべんなく鍛えていかなくてはよい結果を出すことはできない。

それでも――いくら翻訳が鉄人レースであろうとも――、翻訳が言葉に関わる仕事だということには変わりがない。そして、文章を作ったり赤を入れたりしているとき、言葉をあつかっているとき、ぼくは他のことをしているときよりもはるかにアドレナリンがでるし、楽しい。こういう作業は、やはり自分に向いているのかな、と思って嬉しくなる。といっても、こういう楽しさとか嬉しさとかを仕事をしながら感じることができるようになったのは本当にここ3年くらいの話であって、翻訳者になったばかりのころは、自信がないからいつも汗タラタラだったし(その分、ものすごく真剣に仕事をしていた)、その前は翻訳会社の営業だったのだけど、一生懸命にはやっていたものの、こころから仕事が楽しいとはどうしても思えなかった。売上を上げることがいいことだと、いくら頭にいってきかせても、ハートがYESといってくれなかったのだ(あんまり文学部の話に関係なくなってきたけど明日に続きます)。

文学部唯野学部卒② 演劇って......

2008年01月10日 23時37分49秒 | 連載企画
小旅行当たったつもりで乗り過ごし

(解説)運命はいつも気まぐれだ。こちらが油断しているときを見計らっているかのように、不意打ちを食らわせてくる。帰りの電車の中で、ずっとニューズウィークの英文の記事とにらめっこしていた。通訳学校の課題だ。日本語のようにすらっと意味が入ってこないからなのだろう、いつもよりやたらと車内にいる時間が長く感じる。三鷹から武蔵境までの距離がやけに長い。おかしい、武蔵境ってこんなに遠かったけ? いや、そう感じるのはきっと英文が頭に入ってこないからだ。それとも、僕がリーディングに集中しているから? そうだ、きっと今、僕はすごい集中の世界にいるのだ。α波の宇宙を漂っているのだ。人間、意識の持ちようによって、時間が過ぎる感覚というのは変わってくるもんだ。うん。そうそう。……でも、……やっぱりちょっと長すぎないか? おかしいんではないか?

と、うすぼんやりとした英語の世界から、目が醒めるようにゆっくりと現実の電車内の世界に戻ってくると、待ってましたとばかりにアナウンスが聞こえてくる「次は~、国分寺、国分寺~」。

そう、また、間違えて特快に乗ってしまったのだ。武蔵境はすでにはるか後方に過ぎ去ってしまっている。

気分がちょっと萎える。でも、まあいい。こんなことでもなければ、国分寺に来ることもない。いいところじゃないか、国分寺って。そうだ、僕が武蔵境で降りた後で、いつもみんなこんなところに来ていたんだね。そうだったんだね。え~い、こうなったら、いっそ、立川までいっちゃったって、かまわない。ああ、かまわないともさ。そういえば、生まれてこの方、懸賞で旅行に当たったことがない。だからこういうときには、神様からボーナスをもらったのだと思えばいいじゃないか。「国分寺日帰りの旅」をプレゼントされたのだ。そう考えてみれば、この非日常の時間を楽しめるじゃないか。この機会に、肩の力を抜いて、違った角度で世界を眺めてみようじゃないか。ただし、戻りの電車にのるときは、決してまた特快に乗らないように気をつけて……。

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文学は、世間から食えないものの代名詞のように見られている。でも、それよりももっと「食えない」ものの代名詞というか、ルビを振って「名詞」として扱われてしまいかねないのが、演劇だろう。演劇の枕言葉は貧乏ではないかというくらい、演劇をしている人たちは生活が大変だ、という話をよく聞く。だけど、演劇の魔力につかまってしまった人たちは、生活のなかでも舞台を何よりも優先させ、稼ぐことは舞台を続けるための手段として考えて、アルバイトなどで糊をしのぐ。ちなみに、京都の映画館で働いていたとき、スタッフの人たちに劇団関係の人たちがたくさんいた。彼女たち(と少しの彼たち)は、関西ではかなり有名な劇団のいくつかで活躍している人たちだった。彼女たちは、さすがに表現力が豊かだった。冗談も面白いし、顔の表情も豊かだし、しゃべりも楽しい。普段から夢に向かって好きなことに打ち込んでいるからだろう、普通のカタギの集団にはない魅力を放っていた。彼女らの芝居を、何度も観にいったし、毎日一緒に仕事をして、毎晩のように酒を飲んだ。そして、やっぱり、彼女たちは世間一般からみると裕福とはいえなくて――というか芝居をしている人以外もみんな僕を含めお金はなかったのだけど――、その点は、世間が描くあまり裕福ではない劇団員を地で行くような生き方をしていた。そんな彼女たちは、年齢が僕よりも少し上だということもあって、とても格好よく映ったものだった。

そんなわけで、僕も演劇のことを、お金が儲かるとか、就職に役立つ資格を得ることができるとか、そういういわゆる「食うための何か」とは対極にあるものだと思っていた。でも、ある人との出会いを境にして、その考えは、かなりの部分、間違っていたということに気づいた。演劇は、すごい。演劇は、使えるのだ。以前いた職場に、学生時代演劇に打ち込んでいた人がいた。その人は、とても仕事ができる人だった。とにかく、他者に対してプレゼンする能力がすごいのだ。人に何かを説明するとき、うまく「演技がかって」話を盛り上げたり、冗談を織り交ぜたり、突然相手に質問をしたりして、ドラマチックに話を進めていく。話に説得力があるし、人を乗せるのが上手い。とにかく、プロジェクトを推進する力がすごかった。それは、その人にエンジニアリング的なバックグラウンドも、十分にあったからこそできたことなのだけど。で、その表現力というのは、他ならぬ演劇によって培われた。すべてではなくても、学生時代に演劇に打ち込んだそのときの経験から、身についたものだと、その当人の口から耳にした。そうだろう。舞台の上に立って、観客の前で他人を演じること。ほかの役者と協力して、一つの物語を構築すること。それには、並々ならぬエネルギー、他者に伝える力が必要になる。役者たちは、寝食を忘れて舞台に没頭することで、あるいは、なかば人生をなげうってまで、芝居にかけ、その対価として、こうした表現力を獲得するのだ。その力が、現実社会で役に立たないはずがない。営業マンになっても、先生になっても、サービス業に携わっても、うまくその力を活かせば、すごい仕事ができる。直接顧客とかかわらないとしても、仕事というのはどんなものであれ人と人との関わり合いのなかで行われるものだ。優れた演技力を持つ役者の力が生かされる場面は、ありとあらゆるところに及ぶだろう。むしろ、いまのサラリーマンなんかに一番かけているのが、演劇が一番得意とする、他者へのプレゼン能力や同僚とのコミュニケーション能力だったりするのではないだろうか。そして、役者の人たちは、こうした能力を、ただ食いっぱぐれたくないから、という理由で身につけたのではない。将来つぶしがきくから、という保身で学んだのでもない。表現することが好きだから、舞台を愛しているから、得ることができたのだ。

というわけで、演劇については件の人との出会いを境にとてもポジティブなものに考えを変えることになったのであるが、同時に、同じようなことが、読み書きの得意な人、にも言えるのではないかという風に考えてみたい、と思うようになったのである。読んだり書いたりすることが好きで、でもほかに何のとりえがないと思っている人にも、きっと世の中の役に立てる場面があるはずだ。と、希望的観測を含めて考えるようになったのである(明日に続きます)。

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諸般の事情によりしばらくブックオフはおあずけ!

文学部唯野学部卒

2008年01月09日 23時21分49秒 | 連載企画
お土産のラーメン置き去り三昼夜

(解説)年が明けて初出勤したら北海道に里帰りしていた会社の人からラーメンとチーズのお土産をもらった。うれしいやらびっくりするやらでどうお礼を言えばよいのかわからなくなる。こっちは何もしていないはずなのに、なんだか申し訳ない。彼女いわく要冷蔵だというのでさっそく会社の冷蔵庫に入れた。でも、情けないことにその日、せっかくのそのお土産を家に持って帰ることをコロっと忘れてしまっていた。そして、あろうことかさらに2日目も同じことをくりかえしてしまった。気づいたときには吉祥寺だった。というわけで、とうとう今日、2度あることは3度ある、のジンクスに打ち勝ち、3度目の正直で持ち帰りに成功したのである。しかし、情けない。お土産をもらったことはとてもとても嬉しかったのであるが、なぜ持ち帰ることを忘れてしまったのか。自己不信に陥る。僕は、日常のちょっとした変化に弱いのかもしれない。会社の冷蔵庫には普段なにも入れていないから、入れたとたんにその存在を忘れる。冷蔵庫に入れたとたんに、またすぐにいつものルーティン化された日常に埋没してしまう。いやそれは、いいわけだ。たぶん、たった一つ、ラーメンを持って帰る、ということすらインプットできないほど、頭のなかが別なことで占拠されているのだ。大したことじゃないけど、常に何かを夢想しているから。いやいや、インプットする余裕ならあるはずだ。フリーディスクスペースならたくさんある(要らないフィアルを大量に捨てたら、の話だけど)。だけど、メモリにはやっぱり余裕がない。いろんなアプリケーションを立ち上げすぎだ。CPUの性能も元々悪い。だからエラーメッセージばっかり表示されるのだ。さあ、また自分リブートしなきゃ(誰か僕に、サービスパック当ててください)。なんだかよくわかりません。

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学生時代、「どこの学部?」と聞かれて、「文学部」と答えると、たまにだが、こっちの顔をまじまじとみつめて、まるで水族館で「手長海老」でも見つけたみたいに驚いた顔する人がいた。聞いちゃいけないこと聞いちゃったみたいにオロオロする人さえいた。男で文学部って、どういうことよ? ああそっか、じゃ、将来先生になるんだ? え、違うの? わたしにはわかんない。就職とか、どうすんのさ? ――みたいな話だ。大学は、いい企業に就職するための予備機関、みたいなイデオロギーの家庭環境で育った人は、たぶんなんの実にもならない文学なんて学問をやる人間のことが解せないということなのだろう。文学部といっても、ぼくの専攻は心理学だったのだけど。

文学や映画が好きだ、というと、そんなものメシの種にならんぞ、ということを言われたこともあった。まっとうな人間というものは、公務員になったり、銀行員になったり、メーカーに勤めたり、ともかく将来そうなるために、経済だとか法律だとか電気だとか化学だとか、そういう実学をやるべきであって、愛だの性だの実存だのそういうことをぐだぐたやっとってもはじまらんだろうが、というのがそういうことをいう人たちの考え方であって、まあこんな風に「人たち」とくくってしまうのはとてもステロタイプなやり方だからあまりよろしくないのだけど、ともかくそういうことをよく言われたし、書物やテレビなんかを観ていて、世の中一般の多くの人たちがそういう考えをしているということもだんだんわかってきた。こういう世間の見切り方、っていうのは、すでに小学生とか中学生とかでもできるヤツはできていて、早くも大人になったときの処世術の訓練を着実に積んでいる風なのがいる。それはそれですごいことだと思う。だけど、まったくナイーブといえばナイーブにすぎないのだけど、僕はそういう世の中の渡り方、みたいなものに気づくのが本当に遅くて鈍くて、どうしようもない甘ちゃんだったのである。

そういうわけで、当時はそれなりにフンフンと思いながらそういう意見を聞いていたのであるが、実際自分の好きなものを止めることなどできるわけはないし、専攻だっていったん入学したら特殊な手を使わなければ変えられないし、そもそもそういうまっとうな会社員とか公務員とかになりたいなどとも不思議にまったく思っていなかったので、そういう世間の意見などどこ吹く風で自由気ままに羽毛のように軽い生活を送っていた。

結局のところ、いざ社会に出る段になって、実際には何になりたいのか、ということを煮詰めていなかったツケが大きく回ってきて、20代はものすごく遠回りしてしまうというか、無駄な苦労をしてしまうというか、辛い時代を送ることになってしまったのだけど、――つまりは、文学部なんて、といっていた人たちはやっぱりいい会社に就職していって、幸せそうな、まっとうな人生を送り始めていて、なんとも取り残されたような気がしたし、映画なんてメシのたねにならん、といった大人たちの意見はやっぱりどうみてもある意味正しかったのだ、ということが骨身にしみて分かったのだけど――、そしてそのことについてずっと強いコンプレックスを抱いたままで生きてきたのだけど、それでも最近、ようやく、この文学部、ただの学部卒、という肩書きや、本や映画がとても好きだった自分というものが、やっぱり間違っていなかったのではないかというか、実はこんな自分でも世の中の役に立っていることもあるかもしれないとか、本好きな自分が、世間ズレしていない自分の身を助けてくれているというか、そんな気がするのである。そしてそれがなんだか嬉しいのである(とても長くなってしまったので明日に続きます)。

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荻窪店

『Smart feng shui for the home』Lillian too
『Fine Things』Danielle Steel
『lonely planet Chicago』
『Visual Encyclopedia』Dorling Kindersley
『書くということ』石川九楊
『花伽藍』中山可穂
『サクラダファミリア』中山可穂
『猫背の王子』中山可穂
『白い薔薇の淵まで』中山可穂


読めるのに書けない⑧  手は訳者、目は読者

2007年11月29日 21時23分38秒 | 連載企画
「翻訳とは、結局のところ特殊な形態の読書である」と言ったのは、柴田元幸さんだった。まさしく、訳すことは読むことでもあり、そして読むことは訳すことでもある。息を吸ったら吐くように、この2つは表裏一体、お互いに強く結びついている。翻訳をする者にとって、読むことと書くことはとても大切な要素であり、そして僕はそのどちらも好きだ。うまくできないことが多くてため息をつくことも多いけど、ずっとこの作業を続けていきたいと思っている。ながながと書いてきたわりには結論めいたものにはたどり着けなかったけれど、最後に、自分に向けて、読むことと書くことへの心構えを書いてこのシリーズを終了したい。

読むこと

洋書、訳書、和書、それぞれをバランスよく読み、楽しみ、学ぼう。書籍だけではなく、新聞、雑誌、テレビ、人との会話、電車の中吊り広告まで、言葉のあるところには、常に意識を向けて、書き手の視点で文字を眺めよう。一冊の本、一本の記事、それを書いたのはどんな人で、どんな言葉で世界を描写したのか、なぜその言葉を選んだのか、興味を持って読むことに関わろう。英語がぜんぜん読めてない。だから英語力を強化しよう。


書くこと(訳すこと)

語の置き換えをするのではなく、原文の意味を汲み取って、日本語でそれを表現してみること。まずは等身大の自分の言葉で、うまく伝えることを目指そう。チャンスがあれば、これまでに使ったことのない表現を試してみよう。そうやって、少しずつ引き出しの中身を増やしていくのだ。言葉が出てこないときは、時間の許す限り、悩み、調べ、とりつくろって、せめてもの誠意を示そう。できるかぎり、辞書にはこう書いてあります、という開き直ったような訳をするのはさけよう。訳し終えたら、客観的な視線で訳文を見直そう。手は訳者、目は読者の気持ちで。

これからも読むことと書くことをずっと続けていこう。呼吸をするように、ご飯を食べるように、自然な気持ちで。

~連載完~


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『ネットと戦争』青山南
『すっぴん魂』室井滋
『なで肩の狐』花村萬月
『老人力』赤瀬川原平
『The Adventures of Huckleberry Finn』Mark Twain
駅前のブックアイランドで5冊