イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

読めるけど書けない⑦ 派生的シンドローム

2007年11月28日 23時47分45秒 | 連載企画

よくよく眺めてみると、「読めるけど書けない」シンドロームのまわりには、仲間たちがたくさんいました。みんな、それぞれの悩みを抱えているらしいです。さっそく見てみましょう。

・読んだつもりで読んでない
症状:読んでいるつもりで、読めてない。文章が意図することを、文章が本当に言いたいことを、その切実さを、感じ取れていない。文章の技を見切れていない。だから、頭に残らない。同じように書け、といわれても、一面の雪景色(つまりまっしろ)しか頭に浮かんでこない。何を読んだのか、と訊かれても答えられない。
処方箋:しょうがありません。読書なるもの、元をとってやろうなんてやましい気持ちで読んではいけません。右から左に「読み流す」。楽しければいいのではないでしょうか。だからどんどん読みましょう。浴びるほどに。そうしたら、ものすごく面白い本や、いつまでも忘れられない言葉に、運がよければ出会えるかもしれません。

・読みたいけど読めない
症状:時間がなくて本が読めません。あるいは、時間があっても本が読めません。
処方箋:本なんぞ読まなくても結構。無理しなくてもよろしい。読みたいものを、読みたいときに読めばよいのです。しかし、本当に読みたいのなら、読めるはず。読みたいけど読めないというのは、エクスキューズなのでは?(自分へのコメント)。ブック●×通いをもう少し減らしましょう。

・書けるけど読めない
症状:仕事に追われて本が読めません。書いてばっかりでインプットができません。
処方箋:なかなかよい兆候であるともいえます。なぜなら、自らが枯渇するほどに言葉を発することで、他人が書いた言葉を読むことへの飢えへとつながる可能性を秘めているからです。きっと今なら、読書をすれば乾いた砂漠に水がしみこむように多くを吸収できることでしょう。忙しさのチョモランマに登頂したら、ゆっくりと下山しながら読書を楽しめる時間がきっと訪れるはずです。仕事が追いかけてきたら、かまわず逃げましょう。それから、この症状の問題は、一生アウトプットに偏ったままで事足りてしまうようになってしまうことです。それは、ある意味言葉の使い手としての死にほかなりません。インプットが足りないと、言葉が先細りする可能性があります。気をつけましょう。

・書いたつもりで書けてない
症状:自分では文章がそこそこ上手だと思っていたのですが、よくみるとそうでもないようです。
処方箋:答えがあったらわたしが教えて欲しいです。さて、どうしましょう。たくさん読み書きすること。しかも雑にではなく心をこめて読み書きすること。きちんと生きること。恥ずかしいことをたくさん体験すること。早寝早起きすること。夜更かしてグダグダすること。ほかにもたくさんあるような気がします...。

・読めるし書ける
症状:読書もたくさんしていますし、翻訳も上手ですが何か?
処方箋:いや、じっさいこういうお方はたくさんいらっしゃると思います。翻訳のプロ足るもの、本当はそうでなくちゃいけないのですよね。人の何倍も言葉に敏感で、大量の文章に触れ、翻訳の技も絶えず研鑽している。だからこそプロであるわけで…。そう、わたしはこのプロとしての当たり前のことができていないのでした。お恥ずかしい限りです。すみません。


・読めないし書けない
症状:思うように読めないし、書けません。いっそ、誰かを雇って自分をこの世から消し去ってしまいたい。そんな誘惑にかられる今日この頃です。
処方箋:こういう風に悩んでみんな大人になるのであり、あるいは大人にはなれないかもしれないのであり、これは一人ひとりが日々抱えている問題なのであり、それぞれが自らの手で解消しなければならないわけでありまして、そしてこの苦しみがあるからこそ、光もあるというわけなのです。

最終回といいつつ、これでは収まらないので明日も続けます。

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朝、柿の皮を剥こうとして包丁でかなり思い切り左の親指を切る。瞬間、グサリと刃が刺さった。0.1秒くらいの瞬間で包丁を持つ手を引っ込める。危ない。本当に危ない。血が大量にでる。こういうとき、自分がどうなるかわかった。泣き笑い状態――痛みに顔をゆがめるのでもなく、冷静に問題に対処するのでもなく――ただひたすらに、すすり泣き、笑っている自分を発見。まるで、どこかのシーンでみたデニーロみたいに。なんなんだ?オレって?

荻窪店で15冊。買いすぎた。
『火車』宮部みゆき
『龍は眠る』宮部みゆき
『堪忍箱』宮部みゆき
『返事はいらない』宮部みゆき
『忍ぶ川』三浦哲郎
『阿修羅のごとく』向田邦子
『LOVE GO! GO!』室井佑月
『アジアの路上で溜息ひとつ』前川健一
『いくたびか、アジアの街を通りすぎ』前川健一
『笹まくら』丸谷才一
『CLOSED CIRCLE』Robert Goddard
『EVITA』W.A.Harbison
『TICKTOCK』Dean Koontz
『Sophie’s World』Jostein Gaarder
『Dave Barry’s Greatest Hits』Dave Barry

読めるけど書けない⑥  Hungry is the best sauce

2007年11月27日 22時52分12秒 | 連載企画

読めるけど書けない、というテーマで迷走を続けてきたが、よくよく考えてみると、僕が悩んでいたのは、「読めるけど書けない問題」というよりも、「書けると思っていたけど実は書けない問題」のような気がしてきた。

そしてその答えのひとつは明白だ。つまり、書いたことがないから書けないのだ。あたりまえだが、いくらインプットをしても、アウトプットをしなければアウトプットの上達にはならない。もちろんインプットはアウトプットのための栄養になるのであるからして、畑を耕し肥料を撒くような大切なものではあるが、いくら土地が豊かでも、種を撒き、芽を育てるという行為がなければ、美味しい作物は作れないのである。

普段、読書をしているときには、空気のように、そこにあるものだと感じている言葉たち。でも、いざ自分で文章を作り始めると、とたんに酸素不足に陥ってしまう。あるはずのものが、ない。とたんに、不安にある。必死で手探りするが、思うような言葉が見つからない。吸っても吐いても肺の中に空気が入ってこない。ハアハアゼイゼイ。だから、必死で深呼吸を繰り返す。そうしてなんとか文章を書き終えた後に、初めて空気のありがたみがわかる、という具合なのである。

だから、空気のある場所に出たら、嬉しくてスーハースーハー深呼吸を繰り返す。たくさん美味しい空気を吸収してやろうと思う。苦しんだ分だけ、読書をするときに、一つの言葉、一つの表現の重みを感じる。どのページを開いても、言葉がキラキラと輝いて見える。新しい表現に出会えば、いつかこれを自分も使ってやろうと思う(そう思って忘れることがほとんどだが)。

言葉を自力で出し尽くしたとき、きっと、それまでにない新しい言葉が自然に内側にしみ込んでくるのだろう。お腹が空いているときは、何を食べても美味しいし、吸収力も高まる。だから、最近、つくづく僕は自分を出し尽くす、燃え尽きるような仕事がしてみたいと考えている。言葉を搾り出しすぎて、お腹がペコペコになり、喉がカラカラになるような、そんな体験を。余裕がなくてあたふたしているのは年中だけど、上滑りしてばっかりで何も身についていないような気がして、あせっているのだ。

(収拾のつかないまま、最終回につづく)

読めるけど書けない⑤ 翻訳の一回性

2007年11月26日 23時26分12秒 | 連載企画
昨日いったことと矛盾するが、翻訳には実は二度目はない、と思う。ある訳者が同じものを二回訳すということは、まずない。訳したものを記録したファイルが消えてしまって、最初からやり直しになった、という悲しい状況なら二度目もあるのかもしれないが、それは例外的なケースである。そして、テキストの形態は無限である。まったくの他人から、同一の文章が偶然産まれる可能性は限りなく無に近い。テキストは、常にユニークであり、新しい。

だから、翻訳は常に「新しいもの」を相手にして作業をする。翻訳の面白さも難しさも、源泉はそこにあるのかもしれない。ある言葉や表現、知識を新たに得、自分のものにしたとしても、それを実際に使えるのは、独自のコンテキストを持ったテキストのなかにおいてのみである。そこは、単純な置き換えが通用しない世界だ。

たとえば、サッカーの中村俊輔のプレーを観る。彼は、さまざまなプレーのオプションを持っている。相手を抜き去るためのフェイントもたくさん持っているし、シュートの種類も多彩だ。ドリブルも、トラップも、パスも、すべての技が高度に完成されている。だが、いつも思うのだが、彼の本当の凄さはこうしたテクニックの高さではない。そのテクニックを、絶えず変化する試合の状況のなかで、味方と相手の瞬時の動きに呼応して最大限に発揮できることなのだ。相手が右に体重をかければ左、左なら右、パスかと思えばシュート、キーパーが前に出てくればループ。創造性のあるプレーとは、まさに彼のようなプレーのことを指すのだと思う。

サッカーの局面に一つとして同じものがないように、翻訳のテキストにも同じものはない。だからこそ、難しい。よく知っているはずの英単語が、二つ横に並んでいるだけで、まったく新しい意味をもった言葉が生まれている。おそらく、訳語を求めて辞書を繰っても、直接的な答えは載っていない。その意味を適切に表す日本語は何かを、自分の頭で考える。同じことを日本語の文章で読んだら、なんと書いてあるだろうか、と記憶を手繰りよせながら。。。

(続く)

読めるけど書けない④ 二度目は迷わない

2007年11月25日 22時28分28秒 | 連載企画
「この英単語を知っている」というときには、様々なレベルがある。文字通り、読めばなんとなく意味を想像できる、でも自分では使えない、というあやふやなレベルから、普段の会話や文書の中でときどき思い出したようには使える、頑張れば記憶化から湧いてくるレベル、あるいは完全に自分のものにしていて、正しい発音や語法で、自在にしゃべったり書いたりすることができるレベルまで。

おそらく読めるけど書けないという問題の根本もここにあるのかもしれない。つまり、「読み」にも様々なレベルの違いがあって、読めていると思っていて本当は完全に読みきれていないのかも知れないのである。ここで完全に読める、というのは、読んでいる文章と同じものを書いている自分を、心のどこかでシミュレーションしているような感覚である。

通訳には、リプロダクションと呼ばれる、聞いた言葉をそのまま再現するという訓練方法がある。これをやってみると、いかに自分の記憶や理解が不確かなものであるかということがわかるのだが、自分のボキャブラリーや表現方法のストックにあるものを聞いたときは、上手く再現できる可能性がかなり高まることを実感できる。逆に自分が知らない言葉は聞こえてこないし、知識のない分野の話は、理解をするのが難しい。

もちろん、様々な人が様々な事柄にについて様々な言葉を使って文章を書いているわけだから、それについてすべてを理解するなんて不可能だ。だから常に読む力の方が、書く力を上回るという図式は、よほど特殊な事情がない限り、変わることはないだろう。

たいていの言葉は、インプットされたときにはその場ではなんとなく理解されても、アウトプットの装置に装填されることなく、そのまま通り抜けてただ消えていく。ただし、何度も何度も繰り返し同じ言葉を浴び続けることによって、やがてそれは無意識というプールの中に蓄えられていく。ただし、それはきちんと整理されてはおらず、ラベル付けもなされていない。だから、とっさに取り出すことが難しいのだ。

だから問題は、喉元まで浮かんできているかもしれない言葉、そこそこ「出せる」というレベルにまで熟している言葉を、どのようにして釣り上げ、水面下から引っ張りだせるか、ということになるのだろう。

そして、おそらくは、なんども書くことを繰り返すことによって、言葉を釣り上げる力は上がっていくのだと思う。僕みたいな方向音痴でも、一度目は道に迷っても、二度目はおそらく迷わない。テレビや雑誌で何度も見たことがある場所でも、実際に自分の足で「行く」という行為をしなければ、永遠にリアルな記憶の回路は作られないのである。

(ロジックの迷路にはまりつつ、次回へつづく)

読めるけど書けない③ 訳すように読み、読むように訳す

2007年11月24日 23時31分50秒 | 連載企画
――蝶のように舞い、蜂のように刺す。モハメド・アリの華麗なボクシングスタイルを形容した、あまりにも有名な言葉だ。ヒラヒラとジグザグを刻むように軽やかにバックステップを踏みながら、リズムカルに鋭い左ジャブを突き刺すように打ち込んでいく。それが、アリのファイトの基盤だった。典型的な、アウトボクシングである。

アリは、それまでのボクシングの常識を変えた。おそらくそれは彼の強さだけではなく、パフォーマンスによるところが大きかったのだとは思うけれど、ジョー・フレイジャーやジョージ・フォアマンといったハードパンチャーを相手に、強く打つことだけがボクシングではない、ということを身体で示すかのように戦い、そのリズムとスピード、ボクシングアビリティーで観客を魅了した。

この言葉のリズムを拝借し、読めるけど書けないことへの処方箋をひとつ提案するとすれば、「訳すように読み、読むように訳す(書くように読み、読むように書く)」、ということになるだろうか。

読むときは実際に自分が訳している気持ちになって読み、読んだものをできるだけ己の血肉にするという意識を持つ。訳すときはただ手作業に埋没してしまうではなく、一読者として目の前の訳文を突き放して見る視点を忘れない。そうすることによって、インプットとアウトプットの間に横たわる巨大な溝に、なんとかして橋をかけるのである。

ただこの回路を開くことは容易ではない。おそらくそれは、ただひたすらに訳すことをやり遂げることによって少しずつ習得することができるメソッドなのだと思う。自らの手を動かしてみて初めて、訳すこととは何ということや、訳すことの手応えと難しさを確かな重みとして感じられるのであり、その体験を通してこそ、読書体験に「書き手としての自分」というメタな視点が新たに導入されるのだ。

(次回に続く)

日記:あさま組の勉強会に参加。僕が当番となり、提出した訳文について各人からそれぞれ意見をいただく。勉強になることがとても多く、有意義な時間を過ごすことができた。自分では気づいているつもりの課題がいくつもあるのだが、それがより明確になったような気がした。ナツメグミの皆様、ありがとうございました。その後、通訳学校(ちょっと遅刻しました(^^;)。ここでも課題が明確に。毎週、課題を明確にするために通っているような気がしないでもない。

蝶蜂蝶蜂蝶蜂蝶蜂蝶蜂蝶蜂蝶蜂蝶蜂蝶蜂蝶蜂蝶蜂蝶蜂蝶蜂

駅前の『ブック・アイラント』で、14冊。清水一行「詰め合わせセット」を購入(本当に、そういう見出しでパックされて売っているのです)。

『銀行の内紛』清水一行
『惨劇』清水一行
『欲望集団』清水一行
『女重役』清水一行
『すげえ奴』清水一行
『死の谷殺人事件』清水一行
『指名解雇』清水一行
『ダイアモンドの兄弟』清水一行
『兜町物語』清水一行
『最高機密』清水一行
『レッド・デス』(上下)マックス・マーロウ著/厚木淳訳
『愛しい人』(上下)ピート・ハミル著/高見浩訳



読めるけど書けない② 漢字

2007年11月23日 22時51分20秒 | 連載企画

昨日は飲み会で深夜の帰宅となってしまっため、ブログをパスしてしまった。
新宿方面から武蔵境までタクシーで帰宅したのは午前2時? 3時? よく覚えていない。
そして泥のように眠った。今日は二日酔いで、何もやる気がせず。
ほぼ一日、ダウン。激しく後悔。


さて、読めるけど書けないもののについての考察を続けよう。このお題について考え始めたのは、読めるけど書けないもののの代名詞ともいうべき、漢字のことを考えていて、漢字を書くときと翻訳しているときの間に共通点があると気づいたからだった。

あらためていうことでもないが、漢字というものは、書いてあるものは読めるけれども、いざ自分で書こうとするとなかなか書けないものである。特に僕の場合はそれが顕著である。頭のなかに悲しいくらい字のイメージが浮かんでこないのだ。間違った字を書いてしまうと、それが間違いであることはなんとなくわかる。でも、正しい答えが浮かんでこない。

辞書などで実際の字形を調べてみると、ああコレね。と思う。何百回も目にしているはずの字だから、その字をまじまじと見てもさしたる驚きはないはずなのだが、それでいて、あらためてこんな形していたんだ、としみじみ眺めてしまったりもする。それにしても、なぜ何百回も目にしている文字を書くことができないのだろう。

そして、翻訳をしているときもこれと同じ感覚を味わうことがある。いくら頭を捻ってみても、これ、という訳語や表現が浮かんでこない。そこでとりあえずベストエフォートな訳にしてみる。そして後で、誰かが同じ原文に対して、ピタっとくる表現を使っているのを知ったり、後になってふとした拍子で気づいたりして、「ああ、コレコレ」とつぶやきながらハタと膝を打つのである。

だから、訳文を作り出す作業とは、漢字を必死で思い出す作業に似ていると思う。ある原文に対しては、漢字がそれぞれユニークな意味を持っているように、これこそが相応しい、と思えるような、誰しもが腑に落ちるような、ほぼ正解とでもいうべき訳文が存在することがありうる。そして、おそらくは実際にその「正解の訳文」が表現されているのを見ても、さして驚きはしないのだけれど、(つまり、書かれてある漢字を読むことが簡単なように)、それを思い出すのは実は結構難しい、というわけなのである。

つまり、翻訳とは、原文を読み、「これ日本語ではなんていうんだっけ?」ということを考える作法であるともいえる。そして、ちょうど「"ゆううつ"ってどんな漢字だったけ?」と考えるのと同じで、答えを見ればすぐああそうか、とわかるのに、いざ自分で作り出そうとするとなかなか難しいということなのである。

では、どうすればその難しさを少しでも軽減させることができるか。
それを次回考えてみることにしたい。

読めるけど書けない① シオマネキ

2007年11月21日 23時49分30秒 | 連載企画

「読めるけど書けない」もの、はたくさんある。たとえば「美文」。たとえば「円周率」。たとえば「ドストエフスキー」。考えてみれば、テキストのほとんどは、読むことはできても、それと同じような文章を一から自分で書き起こすことはできない。持っている知識も、文章力も、人生経験も、人には限りがあるからだ。

つまり、読む力と書く力の間には大きなギャップがある。そしてこのフォッサマグナは、いたるところにある。テレビを観ている人のほとんどはテレビ番組を作ることができないだろうし、お寿司を食べている人のほとんどは板前さんのように上手に寿司を握れないだろう。まるでシオマネキ。左のハサミとミギのハサミの大きさが違う。あるいはADSL。受信するときの大域幅と、送信するときの大域幅が違うのだ。

格闘技をテレビ観戦していて、「コイツよわいな~」とビール片手につぶやく私がいる。しかし、その選手とお前が戦ってみろといわれた日には、即効でマウントを取られて秒殺されてしまうだろう。なんでもそうだが、みるのとやるのは大違いなのである。

翻訳もそうである。実際にやってみると、意外に難しいのである。普段自分が読んでいるような訳文が、なかなかすらすらと出てこないのである。訳す前は俺はヒョードルかノゲイラかという勇ましい気持ちで望むのだが、実際は一撃KO負け。お客様にお金を払ってみてもらうような戦いはできない。

しかし、そこでこの難しさに慣れてしまい、「やる側」の視点に凝り固まってしまうと危ない。あくまでも「みる側」の視点で自分の訳文をとらえる感覚が必要なのである。必死にトレーニングを積んでリングに上がったあとで、その戦いを、ビール片手の一ファンの客観的な視点で眺めることができるか。本当に強いものしか認めない、あの欲張りで冷酷なファンの眼で。

※というわけで、今日から意味もなく新シリーズを開始します。明日また続きを書きます。

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『The Beatles』Bob Spitz
『Up Country』Nelson Demille
『Jackie Ethel Joan』J.Randy Taraborrelli
『おとな二人の午後』塩野七生×五木寛之
『詩を噛む』愛敬浩一
『アングロサクソンは人間を不幸にする』ビル・トッテン
『世界が完全に思考停止する前に』森達也
『著者略歴』ジョン・コラピント/横山啓明訳

荻窪店で7冊。

電車読書考⑤ ―A Streetcar Named Desire to Read―

2007年11月12日 23時36分46秒 | 連載企画

なぜ人は山に登るのか? と聞かれたら、「そこに山があったから」と答えたくなるのが人情であるが、では、なぜ人は電車の中で本を読むのか? と聞かれても「そこに本があったから」と答える人はいない。おそらく、みんなちょっと居心地が悪そうに「他にすることがないから」とうつむき加減でつぶやくであろう。

つまり、電車の中で本を読む、という行為は、言葉は悪いが基本的にひつまぶし、じゃなくってひまつぶしというのが悲しいかな世間の相場なのである。なぜサラリーマンは電車の中で夕刊フジを読むのか、という問いは、なぜ人は病院の待合室で2ヶ月前の週刊新潮を読むのか、という問いや、なぜ人は美容室でフォーカスや女性自身を読むのか、という問いと本質的に同じなのである。

だがしかし、考えてみれば読書好きにとっては、読書以外にすることがない、という状態こそが真の幸福を実現する状況なのであって、半ば強制的に読書以外のことをする余地のない状況に追い込まれることは、ありがたい話なのである。家にいても、会社にいても、道を歩いていても、いろんな誘惑や障害があってなかなか読書をゆっくりと楽しむことができない。しかし、電車の中は違う。限定された状況のなかにあるからこそ、実現可能なことがあるのだ。自由からの逃走。本を読みたいという欲望を実現してくれる空間。それこそが電車なのである。

そもそも、考えようによっては何もすることがない、という時間ほど、贅沢なものはない。人間、本来は何もしなくても生きていけるのが素晴らしいのであって、毎日あくせく働いているのも、実は楽にゆっくりと暮らしたいという願望が心のどこかにあるからだともいえる。電車内(そしてトイレ「大」も)というのは、そういう絶え間ない日常の時の流れの中で、何もすることがないという、稀な状態を味わえる空間なのであり、だからこそ人は、そして本を愛する人は、心を弾ませながら今日も本のページを開くのだ。

電車は猛スピードでひた走っている。だが、本の世界に入り込んでいる人たちは、そのとき自分を止めているのである。

連載完

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中野坂上の文教堂で、『翻訳文学ブックカフェ』新元良一著、を買う

電車読書考④

2007年11月11日 23時01分32秒 | 連載企画
電車の中で本を読む人は世の中に星の数ほどいるわけであるが、同じ電車読書人といっても、スタイルは人それぞれ十人十色であって、観察しているとなかなか興味深いものがある。時間つぶしの雰囲気を漂わせている人もいれば(字面だけはおいかけているが頭のなかでは…)、本格的に読書に没頭している人もいる(ミステリーとか時代物のフィクションを読んでいるケース多し)。試験前なのか、傍目を気にせずとにかくひたすらに暗記に集中している人もいるし(読書とは微妙にいえないが)、ペーパバックをスラスラと読みこなしている人もいる(ホントに読んでいるのだろうか)。

「電車読書道」なるものがあるとしたら、僕が理想としたいのは、こういう人である。職業はサラリーマン。年齢は50歳以上。同じ会社に勤続30年。男性でも女性でも可。性格はちょっと地味でまじめ。ただし、堅物ではなく、冗談も通じるいい人である。健康で、毎日自分で決めたルールに従って一日を過ごすのが好き。会社は丸の内辺りにあり、実家のある高尾から東京駅まで、30年間、毎朝毎夕始発にのって各1時間半を車内で過ごしている。行きも帰りも座れるので、その間ずっと読書をしている。読書は、電車の中ですると決めている。家に帰ったらほとんど本は読まない。で、1日往復で3時間だから、1週間で15時間、1年で750時間、30年間で実に22500時間をこれまで車内での読書に費やしてきた。読んだ本は、すべて手帳につけている。現在読んでいる本で、5216冊目になる…

僕は武蔵境駅から乗るのだが、たまに、こういう電車読書道の王道を極めているお方ではないか、と思わしき人に遭遇する。確かめたわけではないのでまったくの想像なのであるが、そういう人からは、オーラを感じる。なんとなく、わかるのである。どんな世界でもそうだろうが、本読みにおいても、本物というのはそのしぐさ、顔つき、かもし出す雰囲気などがほかとはどこか違う。ああ、この人は常日ごろ本を読みなれているひとだな、というのが、ちょっとその人が本を手に取っただけでなんとなくわかる気がするである。そして、こういう人と出会うたびに、電車の中で、僕はうれしくなるのだ。

次回、いよいよ本シリーズ涙の最終回

電車読書考③

2007年11月10日 23時58分16秒 | 連載企画
はっきりとした統計を基にしたことなのかは知らないが、「アメリカ人はあまり本を読まない」と言われる。もしそれが本当なら、その理由のひとつは、通勤電車に乗っている人が少ないからではないかと思う(その代わり、アメリカ人は車に乗っているから、よくラジオを聞く)。そのくらい、電車の中の読書比率は高い。人は、電車に乗ると本が読みたくなる。電車の利用率が世界的に見てもかなり高いと思われる日本。おそらく、日本の読書人口のかなりを支えているのが、通勤読書人ではないかと思われる。

とはいえ、最近は本の代わりに携帯電話の画面に見入っている人も多い。僕は携帯に関してはかなり控えめなユーザーなので、携帯人たちが何をしているのかはよくわからないのだが、おそらくメールをしたり、ゲームをしたり、はたまた読書をしたりしているのだろう。ぶっちゃけた話、読書人と携帯人の心の間には、ちょっとしたライバル意識がめばえることがある、と思う。読書人(僕)は携帯人に対して、何をカチャカチャやってんだこの軽薄野郎、どうせ「A子ちゃん昨日は○×□だったよこんどは△☆@しようね」みたいなくだらないこと書いてるんだろうちょっとだけいやかなりうらやましいけどそんなことしてる暇があったら世界の名作を読まんかなぜ読まんのかなどと心のどこかで思わないわけでもないのだが、携帯人は携帯人で、読書人に対して、暇人、アナログ人間、ネクラ人間(死語)なんだのかんだのと思っているような気がすることもある。

こういう被害妄想に陥ってしまうのも、だんだんと読書派が少なくなっていく現状をみるにつけ、いつの日か車内全員が携帯ピコピコする日がやってくるのか、という恐怖を潜在意識に感じているからなのかもしれない。まあ、そうなったところでどうなるわけでもないのだが。

ごくたまにではあるが、電車内で誰かにメールを書く必要があるとき、僕も携帯人の側に回ることがあるのだが、そうすると目の前に座っている読書人から、無言のプレッシャーを感じてしまうことがある。感じるのは、「とうとうお前もそっち側の人間になったんかい、そういうことだったんかい」という暗黙のメッセージである。もちろん、僕が携帯に寝返るわけなどない。なので、そんなときは、これは仮の姿なんでっせ~、ゆるしておくんなはれ、と心で叫びながら、ぎこちなく親指を動かしているのである。

※明日に続く

電車読書考②

2007年11月09日 22時04分09秒 | 連載企画
この四月に仕事を変わってから、通勤時間が短くなった。前はたっぷり1時間は電車に乗っていたのだが、今は10分程度を2本乗り継いだら職場についてしまう。これは、嬉しくもあり、悲しくもある。というのも(全国2000万人の電車読書愛好家の皆様にはあえていうまでもないことなのだが)読書する時間が減ってしまったからである。前は、中身が軽い本だと(軽い本ばっかりという気もするが)速いときには行きに1冊、帰りに1冊という感じて読んでいたりした。通勤がちょっとした本格的読書タイム、電車が動く書斎だったのである。ところが、現在はちょうどノッてきたところでなんとも中途半端に打ち切られてしまう。20分ちょっとというのは、いかにも短く、ストレスを感じてしまう。きっと毎日電車を降りるたびに、僕は生殺しにされたヘビのような顔をしているに違いない。もちろん通勤時間が短くなったことで嬉しいこともいろいろあるのだが、僕と同じような境遇の人や、元勤め人で今自宅で仕事をされている方々には、同じような悩みを抱えている方がいらっしゃるのではないだろうか。

僕にとって理想的な電車読書の時間は、35分くらいという気がする。たまに長い時間電車に一人で乗ることになったりするとわくわくするが、たとえば毎日片道1時間半とかになると、ちょっと辛そうな気もする。逆に短すぎてもいけない。3分くらいしか乗っていなくてもとりあえず何か読もうとしてしまうので落ち着かないのだ。ということで、僕的には、35分くらいがちょうど短くもなく長くもなく、ちょっと後を引くような長さでよい。昔、京都の映画館で働いていたとき、滋賀県の自宅から毎日京都に通っていたのであるが、そのとき京津線という電車に乗っていて、それが行きも帰りも座れて時間もたしか35分くらいだったと思う。これが非常に読書には適していて、毎日いろんなものを読んだ。当時、雑誌や週刊誌を読むのが習慣になっていて、駅のキオスクの雑誌スタンドであれやこれやと買っていたし、帰りに本屋さんに寄るのが習慣だったから、そこで思いつくままに本を買って電車の中でじっくり読むのが無上の楽しみだった。

※この話は延々と続きそうなので、今日もオチのないままここで終了します。続きはまた明日書きます。失敬。

電車読書考①

2007年11月08日 21時42分13秒 | 連載企画

電車に乗るときは本を読む、という話の続き。とりたてて珍しいことは何もしていないが、どういう具合に僕が社内で本を読んでいるのかを説明してみる。まず電車に乗る。そして社内を見渡し、空いているスペースに進む。座れるときもあるが、座れないときもある。それはあまり気にならない(行きはまず座れない。帰りは一本だけ座れる)。で、おもむろにかばんから本を取り出して、本を読み始める。かなり混雑していても、読む。ひどいときは、おしくら饅頭状態になって、両手両足が別々の方向にはぐれていったときでも、ひときわ高く突き出した右手に本を持ち、首を捻じ曲げてその方向に視線をやり、読む。

ブックカバーをつける習慣がないので、背表紙に人の視線が集まるのを感じることもある。なかには、真剣に背表紙を読み、ぼくの顔と交互に見比べている人もいる(やめてほしいですな~こういうの。せめて眼球を動かさずに背表紙を読みたまえ)。と言いつつ、僕も結構人の読んでいる本、ちょっと気になる方である。見かけはアホそうなサラリーマンが難しそうな専門書を読んでいたりすると、ほぅ~おぬしなかなかやるじゃないの、と、思う。そのくせ、僕は恥ずかしい本を読んでいることが多い。背表紙を見られるとやっぱり恥ずかしい。

数少ないとはいえ訳書を世に出させていただいた身、とうぜんそれらを訳していたときは、翻訳対象の原書を電車内でもしつこく読んでいた。そんなときは、ちょっとドキドキする。「これ、僕が今訳してる本なんですよ~」というオーラを少し出しながら読んでいる。この快感。「面白そうな本、読んでますね」なんて誰か(隣に座った美女)から話しかけられたりしたら、どうしよう。「いや~そうなんですよこれ面白いんですよね(しかも英語ですし)、で、実はぼく今この本を訳してるんですよ、いやまいったな~」なんて言ってみたいのだが、そういう経験は一度もない。

※この話は長くなりそうなので、明日また続けることにする。失礼。


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中野坂上の文教堂で、
『走ることについて語るときに僕の語ること』村上春樹
を買う。何を隠そうハルキストな私だが、特にエッセイが好き。
しかも走ることについて彼が書くことにはとても興味がある。
これは、タイトルを見たときから、買いだと思っていた。
いま登山中につき、(生きて)下山したらゆっくり読みたい。