イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

訳文を作りし者の恍惚と不安 二つ我にあり その五

2008年02月03日 22時19分40秒 | 連載企画
ヒューズ落ちて闇に消えた文字に黙祷す つかの間幻見るのやめる

(解説)冬になると、ウチはヒューズがよく飛ぶ。僕は部屋でPC立ち上げて、電気ストーブを入れて、カチャカチャやっている。別な部屋ではテレビやコタツの電源が入っている。この状態で、さらに洗濯機や炊飯器やレンジのスイッチが入れられると、それだけでもうウチの電気は限界に達してしまうようだ。別に、たいしたことしてるわけじゃないのに。アホなヤツやな~と思う。人間、それくらいのことを同時にするってことがわからんのだろうか。
レンジのスイッチを入れる。すると、ウチは鈍い頭でゆっくりと電気量を計算する。そして、しばらくしてようやくああそうか、と気づく。容量、超えてまっせ、と。そして、思い出したように「バチンッ」と大きな音をさせてヒューズを飛ばすのだ。

翻訳をしているときは、ヒューズが飛ぶと同時に、最後に保存した段階からの訳文が消えてしまう。今はWordの回復機能とかがあるから、消えたと思った文字列が復活してくれる場合もあるし、Vistaはだいぶ強く賢くなってくれたみたいで、PC自体が重症を負ってしまうようなこともなくなった。だけど、やっぱりワンパラグラフとかがまるまる消えてしまうこともある。昔はよくこういうとき泣いて悔しがったものだけど、最近はオヤジ力がついたのか、あんまりこの手のことには動じなくなった(感性が鈍くなっただけ?)。で、もう一度同じところを訳すわけだけど、直前に訳したばかりだから、さっきとほぼ同じものができるかというと、そうでもなくて、不思議と違う文章ができあがる。自己同一性を疑ってしまいたくなるほど、先ほどとは微妙に異なった訳文が出来てしまう。誰でもそうなのだろうか? エントロピーの法則は、僕の訳文の中にも確かに息づいている。

バチン、とすべての電気が落ちる。夜なら真っ暗になる。何度やってもびっくりもする。ああまたか、とも思う。暗闇のなかをすぐに立ち上がる気にもなれない。だから、数秒間、黙とうしてしまう。そのとき、ふと感じる。この暗闇こそが、沈黙こそが、実は本当の、ありのままの世界なんじゃないかと。テレビもない、インターネットもない、蛍光灯もない、それが世界のそのままの姿。電化製品に囲まれて、文明の恩恵を受けている空間や時間は、たかだか人類数百年の知恵が生んだ、幻なんだと。

ヒューズが飛ぶ。わずか数秒間だけど、幻の世界を降りて、本当の世界の、本当の暗闇のなかでたたずむ。でも、数秒間しかもたない。そして、また電気をつけて、コンピューターのスイッチを入れ、訳文を作り始めるのだ。

HHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHH

出版翻訳であろうが、実務翻訳であろうが、訳文を作るときに感じる恍惚と不安は同じだ。誰かから翻訳を依頼されるということは、数多の人たちのなかから選ばれて、白羽の矢を立てられたということだ。当然嬉しい。でも、上手くできるだろうかという不安も感じる。
恍惚と不安。この二つこそが翻訳の魅力であり、よい訳文を生み出す源でもある。原文はそこにある。外国語で書かれた言葉がそこにある。だから、それと等価な内容を、日本語でもきっと書けるはずだ。と誰もが思っている。今は目に見えない訳文も、当然誰かの手によって生み出されるはずだ、と。綺麗な言葉で、美しい言葉で、澱みなく、迷いなく、きっと訳文は書かれるだろう。そうした期待に答えるべく、選ばれたあなたは、言葉を作り出していく。真っ白な紙を目の前にして。自分には、上手く訳文を作ることができるのだろうか。できる、いやできない、できる、いやできない。好き、嫌い。憎い、恋しい。めぐりめぐって、今は、できる、と思おう。やると言った以上、やるしかない。
どれだけ経験を積んでも、どれだけ年をとっても、この悦びとこの不安を同時に感じていたいと思う。ときめく心と、苦悩する心。嬉しいのだけど、恥ずかしい。このアンビバレンツのなかに、翻訳の真髄はきっとある。そしてもちろんこの恍惚と不安を感じる局面は、翻訳だけに限ったことではない。

~連載完~


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