イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

文学部唯野学部卒

2008年01月09日 23時21分49秒 | 連載企画
お土産のラーメン置き去り三昼夜

(解説)年が明けて初出勤したら北海道に里帰りしていた会社の人からラーメンとチーズのお土産をもらった。うれしいやらびっくりするやらでどうお礼を言えばよいのかわからなくなる。こっちは何もしていないはずなのに、なんだか申し訳ない。彼女いわく要冷蔵だというのでさっそく会社の冷蔵庫に入れた。でも、情けないことにその日、せっかくのそのお土産を家に持って帰ることをコロっと忘れてしまっていた。そして、あろうことかさらに2日目も同じことをくりかえしてしまった。気づいたときには吉祥寺だった。というわけで、とうとう今日、2度あることは3度ある、のジンクスに打ち勝ち、3度目の正直で持ち帰りに成功したのである。しかし、情けない。お土産をもらったことはとてもとても嬉しかったのであるが、なぜ持ち帰ることを忘れてしまったのか。自己不信に陥る。僕は、日常のちょっとした変化に弱いのかもしれない。会社の冷蔵庫には普段なにも入れていないから、入れたとたんにその存在を忘れる。冷蔵庫に入れたとたんに、またすぐにいつものルーティン化された日常に埋没してしまう。いやそれは、いいわけだ。たぶん、たった一つ、ラーメンを持って帰る、ということすらインプットできないほど、頭のなかが別なことで占拠されているのだ。大したことじゃないけど、常に何かを夢想しているから。いやいや、インプットする余裕ならあるはずだ。フリーディスクスペースならたくさんある(要らないフィアルを大量に捨てたら、の話だけど)。だけど、メモリにはやっぱり余裕がない。いろんなアプリケーションを立ち上げすぎだ。CPUの性能も元々悪い。だからエラーメッセージばっかり表示されるのだ。さあ、また自分リブートしなきゃ(誰か僕に、サービスパック当ててください)。なんだかよくわかりません。

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学生時代、「どこの学部?」と聞かれて、「文学部」と答えると、たまにだが、こっちの顔をまじまじとみつめて、まるで水族館で「手長海老」でも見つけたみたいに驚いた顔する人がいた。聞いちゃいけないこと聞いちゃったみたいにオロオロする人さえいた。男で文学部って、どういうことよ? ああそっか、じゃ、将来先生になるんだ? え、違うの? わたしにはわかんない。就職とか、どうすんのさ? ――みたいな話だ。大学は、いい企業に就職するための予備機関、みたいなイデオロギーの家庭環境で育った人は、たぶんなんの実にもならない文学なんて学問をやる人間のことが解せないということなのだろう。文学部といっても、ぼくの専攻は心理学だったのだけど。

文学や映画が好きだ、というと、そんなものメシの種にならんぞ、ということを言われたこともあった。まっとうな人間というものは、公務員になったり、銀行員になったり、メーカーに勤めたり、ともかく将来そうなるために、経済だとか法律だとか電気だとか化学だとか、そういう実学をやるべきであって、愛だの性だの実存だのそういうことをぐだぐたやっとってもはじまらんだろうが、というのがそういうことをいう人たちの考え方であって、まあこんな風に「人たち」とくくってしまうのはとてもステロタイプなやり方だからあまりよろしくないのだけど、ともかくそういうことをよく言われたし、書物やテレビなんかを観ていて、世の中一般の多くの人たちがそういう考えをしているということもだんだんわかってきた。こういう世間の見切り方、っていうのは、すでに小学生とか中学生とかでもできるヤツはできていて、早くも大人になったときの処世術の訓練を着実に積んでいる風なのがいる。それはそれですごいことだと思う。だけど、まったくナイーブといえばナイーブにすぎないのだけど、僕はそういう世の中の渡り方、みたいなものに気づくのが本当に遅くて鈍くて、どうしようもない甘ちゃんだったのである。

そういうわけで、当時はそれなりにフンフンと思いながらそういう意見を聞いていたのであるが、実際自分の好きなものを止めることなどできるわけはないし、専攻だっていったん入学したら特殊な手を使わなければ変えられないし、そもそもそういうまっとうな会社員とか公務員とかになりたいなどとも不思議にまったく思っていなかったので、そういう世間の意見などどこ吹く風で自由気ままに羽毛のように軽い生活を送っていた。

結局のところ、いざ社会に出る段になって、実際には何になりたいのか、ということを煮詰めていなかったツケが大きく回ってきて、20代はものすごく遠回りしてしまうというか、無駄な苦労をしてしまうというか、辛い時代を送ることになってしまったのだけど、――つまりは、文学部なんて、といっていた人たちはやっぱりいい会社に就職していって、幸せそうな、まっとうな人生を送り始めていて、なんとも取り残されたような気がしたし、映画なんてメシのたねにならん、といった大人たちの意見はやっぱりどうみてもある意味正しかったのだ、ということが骨身にしみて分かったのだけど――、そしてそのことについてずっと強いコンプレックスを抱いたままで生きてきたのだけど、それでも最近、ようやく、この文学部、ただの学部卒、という肩書きや、本や映画がとても好きだった自分というものが、やっぱり間違っていなかったのではないかというか、実はこんな自分でも世の中の役に立っていることもあるかもしれないとか、本好きな自分が、世間ズレしていない自分の身を助けてくれているというか、そんな気がするのである。そしてそれがなんだか嬉しいのである(とても長くなってしまったので明日に続きます)。

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荻窪店

『Smart feng shui for the home』Lillian too
『Fine Things』Danielle Steel
『lonely planet Chicago』
『Visual Encyclopedia』Dorling Kindersley
『書くということ』石川九楊
『花伽藍』中山可穂
『サクラダファミリア』中山可穂
『猫背の王子』中山可穂
『白い薔薇の淵まで』中山可穂


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4 コメント

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Unknown (英文科卒の男)
2008-01-09 23:55:29
学問って元々、最高に贅沢な遊び、ですよねえ...

学問を何かの役に立てようって思うのは、ちょっと「浅ましい」気がします。

でも、役に立たないつもりでやったことが後で案外、役に立ったりして...それはそれで楽しい。
(^0^)
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Unknown (iwashi)
2008-01-10 00:13:09
英文科卒さんを見ていると、翻訳者のエリートコースを歩んでいるような気がしてとてもうらやましくおもうことがあります。そしてそれはやっぱり英文科卒さんが好きなことをずっとずっとやりつづけてきたからなのだとおもいます。

ぼくも英文科卒さん(って誰だかわかってるのに白々しいですね(^^;)のように、もっともっと好きなことに時間を費やしていきたいとおもいます。ありがとうございました。
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Unknown (比較文化学類卒の女)
2008-01-10 09:59:53
学問として学んできたことが、就職にも、就職してからも、今も、直結して役立ったことは特にないような気がします。でも、それが明らかに今の私の基盤になっているのは確かだと思うんですよね。他人から見れば選択肢は他に色々あったのでしょうけれど、まぁ私にはこの生き方しかなかったのかな、なんてため息まじりに考えたりします。大袈裟ですかね。
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Unknown (iwashi)
2008-01-10 11:11:53
比較文化学類卒の女さん、そうですよね。学問、なかでも文学というのはすぐに何かの役に立つというものではないですよね。そしてだからこそ学ぶ価値があるのかもしれませんね。でも、比較文化学類卒の女さんの場合は、学んだことがしっかりと今のお仕事に役立たれているのではないでしょうか。むしろ、なかなかそこまで専攻したことと職業が一致している人って少ないのではないでしょうか。比較文化学類卒の女さんをみていると、翻訳の王道を着実に歩まれているようで、いつもすごいな~と思っています(たいへんなこともたくさん経験されていると思うので、こんなこというと無責任ですけど)。ともかく、僕にしても、じゃあ振り返ってほかのことやりたかったのか、といわれてもそうじゃなくて、やっぱりまた文学部を選んじゃうと思うんです。だから、この生き方で間違ってないんだな、って思います。小さな間違いはものすごく多いんですけど。
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