イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

訳文を作りし者の恍惚と不安 二つ我にあり その二

2008年01月31日 23時46分19秒 | 連載企画
億の出会い果たし君に届け心 億光年の彼方まで

(解説)ぼくたちが生きているのは、億の時代だ。60億もの人が地球上で生きている。10億を意味するギガバイトの情報が、コンピュータの、iPodの、ハードディスクを占拠している。わずかな賃金であくせくと働いている人がいる一方で、数億の年俸を稼ぎだす人もいる。

小さいとき、億という数字を想像すると、気が遠くなった。宇宙を感じた。大人になった今でもそれは変わらない。それはあまりに膨大で巨大で、考えるだに意識が遠のいていく。実際、億なんて数を、この目で見たヤツはいるのか、その手で数えたヤツはいるのか。だって、一万×一万だ。一万人が住んでいる町が、一万もあるのだ。一万人と会って話をして、握手して仲良くなってご飯を食べて、酒飲んでケンカして、冠婚葬祭に招かれて、一緒に歌をうたったり、喫茶店でお茶飲んだり、同窓会したり、ボーリングしたり、ってやっていたら、それだけで一生が終わってしまう。それを、一万回繰り返すのだ。それが、一億。そんなの、想像できますか?

でも、よく考えてみれば、僕たちが出会う人たちはすべて、そんな想像のできない億の出会いを通してこの目の前に現れている。人の一生はあまりにも短い。人が把握できる数もあまりにも少ない。そんな限られた存在である生のなかに、無限が乱入してくるのだ。

そして、それがあなたなのだ。だから、あなたは奇跡なのだ。僕はあなたのなかに無限をみる。あなたのなかに永遠をみる。すべてがあまりにも不条理だから、ぼくはあなたを愛する。この心は、どこまで届くのだろうか。

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自分の訳書が初めて本屋に並んだとき、嬉しくてたまらなかった。本屋を何軒もはしごした。さりげなく、他人のふりして立ち読みしてみた。それとなく、<面白い本だなこれ>、という表情を浮かべてみた。レジに持っていって、<この本がよい本だと普通に思ったので、買います>、という顔をして買ってみた。そんなことをしばらく続けた。

でも、同時に不安にもなった。よくみると、自分の訳した本の右隣に、村上龍さんの本が置いてあった。左隣は、ミスター円の榊原英資氏の本だった。やれやれ、とは思わなかった。代わりに、ヲイヲイと思った。出版翻訳の世界に出たら、こんな人たちが相手なのか。こりゃあ、大変だ。もちろん訳書は原著者が書いたものだ。誰も、ぼくの名前なんて気にもとめていない。だけど、読者が読むのは自分が訳した日本語なのだ。こりゃあ、おかしい。どう考えても、間違っとる。原著者が書いたのは素晴らしい本。だから売れて欲しい。でも、それをなぜ俺が訳してる? サッカーの試合中に、なにかのひょうしに誤ってブラジル代表のなかに紛れ込んでしまったような気がした。大観衆の前で、ロナウジーニョからパスが来て、カカとワンツーしなきゃいけない。そんな感じだ。買う側の立場にいるときは、どんな本を見てもなんとも思わないのに、いざ自分が舞台の上にあがると、そこは大変な場所だったということに気づいた。本屋の棚は、すごい。現代の作家だけじゃない。今はこの世にいない作家たちの魂が、眠っている。古今東西から集められた本が、ひしめき合っているのだ。自分の名前が記された本が書店に並ぶ。そのとき、シーソーの片側で恍惚とした悦びを味わいつつ、その反対側で、圧倒され、完膚なきまでに叩きのめされ、身の程をいやというほど思い知らされる気がしなければ、嘘だと思った。本に対するレスペクトがあれば、限られた書店のスペースの一部を自らの訳書が占めていることに対して、感謝する半面、心のどこかで自責の念に駆られているはずだ。そうでなくては、おかしい。

(明日に続きます)

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『柴犬のツボ』」影山直美
『文学賞メッタ斬り』大森望、豊崎由美
『ネットの中の詩人だち』島 秀生著
『かんたん短歌の作り方』枡野浩一
『CRUISING PARADISE』SAM SHEPARD
荻窪店。サムシェパードの原書を初めて買った。畑中佳樹さんが訳した彼の『モーテル・クロニクルズ』は、本当に美しい本だと思う。高かったけど、衝動買い。

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