イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

ゴルゴ38  Part III

2008年09月10日 22時10分23秒 | 連載企画
孤独なのは、何も翻訳の専売特許ではない。世の中には、同じように孤独にひとりで黙々と作業に打ち込む性質の仕事は、あげればキリがないほどにゴマンとある。SOHOと呼ばれる職種は基本的にすべてそうだろうし、さまざまな職人の仕事も同じだ。キオスクのおばさんだって、どんなにたくさんお客さんがいたって孤独を感じるときがあるだろう。つまり、どんな仕事にも、孤独はつきまとう。

サラリーマンも同じだ。いくらチームとして行動しているといっても、やはりある局面においては、独りで判断し、行動することが求められる(自分の判断で喫茶店にいって時間をつぶすのも自由)。査定だって、最終的には個人が対象になる。給料明細だって、その人個人の働き振りに応じて決められる。大企業の社長だって、みんな孤独を感じるというではないか。

たとえ周りに人がたくさんいたとしても、あるタスクをこなすのは最終的には個人。そういう意味では、翻訳には何も特別なところはない。大勢が働く大企業のオフィスで、経理担当者が自分に与えられた作業を独りコンピューターに向かって黙々とこなしているのと、翻訳者が自宅で独り訳文を作っているのとには、大きな違いはなにもない。経理担当者は、隣の同僚と馬鹿話をして楽しそうに仕事をしているかもしれない(あるいは、少し遠くの席で同僚が延々と答えのない議論をしているのかもしれない)、翻訳者は、自宅の仕事場で独り仕事に打ち込んでいる(猫が膝の上でまどろんでいる)。だが、このとき両者がやっている仕事の内容は、本質的には同じだ。それは、個人という単位に割り振られたタスクなのだ。

議論になんの進展もないが、今日はこのへんで。すみません......(続く)

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『樺山課長の七日間』浅田次郎
『遠い幻影』吉村昭
『ナショナリズムの克服』姜尚中&森巣博
『さようなら、ギャングたち』高橋源一郎


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