いっちょー会

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「施設か路上」の2択迫られた42歳男性の絶望 生活保護申請後の宿泊場所探しは「自己責任」?

2020-12-10 16:24:52 | Weblog
      「施設か路上」の2択迫られた42歳男性の絶望       生活保護申請後の宿泊場所探しは「自己責任」? 「施設か路上」の2択迫られた42歳男性の絶望 生活保護申請後の宿泊場所探しは「自己責任」?
https://toyokeizai.net/articles/-/393648

現代の日本は、非正規雇用の拡大により、所得格差が急速に広がっている。そこにあるのは、いったん貧困のワナに陥ると抜け出すこ
とが困難な「貧困強制社会」である。本連載では「ボクらの貧困」、つまり男性の貧困の個別ケースにフォーカスしてリポートしてい
く。

 11月のある朝、タツヤさん(仮名、42歳)は待ち合わせをした区役所前にすでに到着していた。この日の目的は生活保護の申請をする
こと。私が「早いですね」と声をかけると、「始発で来たんです。(最寄りの)駅には5時半には着いていました」とはにかんだような
笑顔を見せた。
 空気はもう冷たい季節。そんな早朝にどうして?  タツヤさんは薄手のジャンバーの襟元を掻き合わせながらこう言った。
 「3年前にくも膜下出血の手術をしてから、電車に乗ると気持ちが悪くなることがあるんです。ひどいときは何時間も動けなくなり
ます。始発で行けば、万が一にも約束の時間に遅れることはないと思って」
 このときタツヤさんは、東京都が新型コロナウイルスの感染拡大に伴う救済事業の一環として、住まいを失った人などに対して提供
している新宿のビジネスホテルで一時的に暮らしていた。生活保護を申請する区役所までは電車で約30分。朝一で出発すれば、最悪歩
いてでもたどり着けると思ったのだという。
 真面目な人なのだなと感じた。

「全財産」はビニールバッグ2つ

 数日後、今度は取材で話を聞くために再びタツヤさんと会った。タツヤさんは“全財産”である大きなビニール製バッグを2つ提げ
て現れた。事情を尋ねると、生活保護の申請中であることを理由に、都のホテルを追い出されたのだという。
 「区の担当者からは、引き続き都のホテルを利用できないか確認してくださいと言われていました。なので、てっきりそのまま泊ま
れると思っていたのに、都の担当者からは、泊まる場所は『区のほうで用意できないんですか?』と言われてしまって……。荷物もで
きるだけ早く出してくれと言われ……」
 この時点で、タツヤさんの生活保護申請はまだ受理されてはいなかった。いずれにしても、これでは都と区役所の責任の押し付け合
いではないか。タツヤさんの所持金はほとんどゼロ。服薬しなければならない降圧剤も半月間ほど飲めておらず、血圧は170前後とい
う状態が続いていた。数日前に会ったときと比べても顔がむくんでいるのがわかった。
 「血圧を測った紙を見せて体調が悪いということも伝えました。でも、都の担当者からも、区役所の担当者からも『公園とか、路上
とかに戻ってもらうしか……』と言われました。この人たち、鬼かと思いました。また路上生活かと思うと、もう死にたいです」
 不安そうなタツヤさんを前に取材どころではなくなった。まずはその日の宿泊場所を確保しなければ──。
 タツヤさんと私はネットや電話を使い、ホテル探しに奔走。生活保護を利用することを考えると、1泊当たりの費用は保護費の範囲
に収まるよう1800円以内に抑えたいところだ。ネットを検索するうちに、ネットカフェよりもGoToトラベルを利用したホテルのほうが
安いことがわかってくる。でも、タツヤさんの体調を考えると、相部屋のゲストハウスなどは避けたい。場所は、区役所までの電車移
動ができるだけ短い所がいいだろう──。
 すったもんだの末、GoToトラベルと地域共通クーポン券を組み合わせ、なんとか予算内に収まるホテルを確保。チェックインを済ま
せたときには夕方近くなっていた。安堵の表情を見せるタツヤさんと裏腹に、私はじわじわと怒りが込み上げてきた。
 なぜ、都や区役所は、お金も仕事も住まいも失い、助けを求めてきた人に向かって「路上」や「公園」などという言葉を使うのか。
 タツヤさんが自らホテルを探すことになった経緯についてもう少し説明したい。

アパートでの保護が原則のはずなのに…

 実はタツヤさんは当初、貧困問題に取り組むある市民団体に助けを求めた。これを受け、市民団体の関係者が生活保護申請に同行。
決まった住居を持たないタツヤさんが無料低額宿泊所(無低)などの施設に安易に入居させられることを防ぐためだ。
 無低とは、社会福祉法に基づく民間の入居施設。良心的な施設もある一方、劣悪な住環境や粗末な食事にもかかわらず、高額な利用
料を設定し、生活保護費のほとんどを搾取するところもある。一部の自治体では生活保護を申請した人をこうした施設に送り込む手法
が常態化。無低による貧困ビジネスを長年にわたって野放しにしてきた。
 ベニヤ板で仕切っただけの個室や、清掃や調理などの強制労働、外出の制限といった無低の劣悪さについては挙げればきりがない。
ただその実態については本連載でもリポートしてきたので、ここでこれ以上詳しく触れることはしない。
 タツヤさんは生活保護を申請した際、自分の体調を考えると施設は無理だと伝えた。区側は当初、施設入居が申請条件であるかのよ
うな対応だったが、関係者が同席したことで、かろうじて「保護費の範囲内で、自分で宿泊場所を探すことは構わない」という“譲
歩”を引き出すことができた。
 ただ、そもそもの話をするなら、生活保護法は居宅保護の原則、つまりアパートでの保護が原則との旨を定めている。本人の意思に
反して施設送りにすることなど本来もってのほかなのだ。仮の住まいとして一時利用住宅や都が提供しているビジネスホテルを用意す
るのは、区側がやるべき仕事である。少なくともタツヤさんの仕事ではない。
 行政側にも、低家賃で借りられるアパートの不足や職員のオーバーワークといった事情があることは知っている。しかし、それらは
行政の無策の果ての結果であり、住まいを失った人々に対して施設入居か、路上生活かの二者択一を強いることの言い訳にはならな
い。

後遺症で右目を失明、日当は5000円に下がり…

 タツヤさんは埼玉出身。家族とは長年音信不通だといい、生い立ちなどについて多くを語ろうとはしなかった。中学卒業後は、電柱
や電線の保守点検を行うNTTの関連子会社の現場で働いた。ほどなくして作業員の指揮監督や重機を手配する「職長」を任されるよう
なったという。
 当時の月収は40万円ほど。東日本大震災の発生後は、復旧工事のために東北地方の各都市を飛び回った。「あのころは出張続きで、
3年間ほど東京のアパートにはほとんど帰ることができませんでした」と振り返る。
 しかし、それなりに順調だった人生はくも膜下出血で倒れたことで暗転。タツヤさんとNTTの関連子会社との間には雇用関係はな
く、タツヤさんは個人事業主、いわゆる一人親方だった。会社の上司はたびたび見舞いに訪れ、タバコやジュース代を置いていっては
くれたが、今後については「体がよくなったらまた声をかけてね」と言うばかり。次第に連絡は途絶えがちになり、「個人事業主には
何の保障もないことに初めて気がつきました」。
 タツヤさんは手術の後遺症で右目を失明。その後も工事現場で働いたものの、1日当たりの報酬は5000円ほどに下がってしまった。
アパートは家賃が払えなくなり退去。ここ数年は知人の家や現場の事務所で寝泊まりする暮らしを続けてきたという。
 そこにきてコロナウイルスの感染拡大である。これにより仕事自体が激減。4月以降は、毎月の稼ぎが10万円を切るようになった。
夏に入るころには、悪天候の日やお金がある日はネットカフェを利用し、それ以外は路上で生活をするようになったという。
 タツヤさんは路上生活について「まさか自分がホームレスになるとは思ってもみませんでした」と振り返り、こう続けた。
 「(路上では)長年ホームレスをしている人たちと知り会いなりました。彼らは僕に水道が使える公園を教えてくれて、僕はお返しに
現場でもらった『塩タブレット』をあげました。熱中症予防になるから。路上はつらかったけど、役所の冷たさに比べたら、彼らのほ
うがよほど温かかった」

コロナ禍で「報酬が未払い」

 その後、さらにタツヤさんに追い打ちをかけたのは報酬の未払いだった。コロナ禍が深刻化するなか、「うちも資金繰りに困ってい
る」などの理由で、支払いが滞る現場が増えたという。「そのうちに連絡が取れなくなって、とんずらされるという繰り返し。今も
(報酬総額の)6割くらいが未払いのままです」とタツヤさん。
 建設現場において一人親方といえば聞こえはいいが、多くは一般の作業員だ。会社は社会保障費の負担もなく、いつでもクビにでき
る一人親方を個人事業主として利用しがちだが、法律的には、指揮監督下にある作業員を個人事業主扱いすることは許されない。
 こうした「名ばかり一人親方」が搾取される構造を、業界関係者であれば知らない人はいないはずだ。タツヤさんは業界の悪弊の典
型的な犠牲者であり、「現場には僕と同じ目に遭った作業員が大勢いました」と訴える。
 困窮度合いが増す中、手持ちの降圧剤もなくなり、寒さと高血圧のせいで夜も眠れなくなり、タツヤさんがようやく頼ったのが貧困
問題に取り組む市民団体だった。
 今回のコロナ禍では、「反貧困ネットワーク」や「つくろい東京ファンド」「TENOHASI」「自立生活サポートセンター・もやい」と
いったさまざまな市民団体やNPO法人が食料配布や緊急のSOS対応、生活保護申請の同行、アパート探しの支援などに奔走している。こ
うした取り組みを「自助」「共助」といった美名で語って終わらせてよいのだろうかと私は思う。「公助」はどこにいったのか、とい
う話である。
 タツヤさんは今も生活保護を利用しながら、ホテルでの生活を続けている。賃貸アパートへの転居のメドも立っていない。「年末に
なるとホテル代が高くなります。いつまでここにいられるのか……」と不安を隠さない。
 東日本大震災の後も全国各地の水害や地震の現場を飛び回り、復旧の最前線に立ってきたタツヤさん。いつか再び施設入居か、路上
生活を選べと迫られる日が来るのだろうか。