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新貧乏物語 第2部・老いて追われる

2016-03-20 10:59:13 | Weblog

               新 貧 乏 物 語 

              第2部・老いて追われる  

新貧乏物語 第2部・老いて追われる
http://www.chunichi.co.jp/article/feature/binboustory/list/index.html

(1)強制退去
http://www.chunichi.co.jp/article/feature/binboustory/list/CK2016030302000245.html

◆もう行くところない

 東京・池袋、築四十四年の木造アパート。一〇二号室に住む福井重男さん(67)=仮名=は毎日、夜明け前に目を覚ます。冬はこの時間帯が一番冷え込む。
 「寒さが目覚まし時計なんだよなぁ」
 黄ばんだ壁。隣の家が窓の外に迫り、昼間でも薄暗い。福井さんはこの部屋に六年間住んだが、今年の四月までしかいられない。
 故郷の岩手を離れたのは十五歳のときだ。実家は稲作農家で、六人きょうだいの下から二番目。家計が苦しく、中学卒業後に母の勧めで家を出た。東京五輪を半年後に控えた一九六四(昭和三十九)年の春。都会に働きに出る集団就職が盛んな時期だった。
 東京で左官職人になり、集合住宅や東京駅、日本一の高層ビルだった「サンシャイン60」などの壁を塗った。親方に腕を見込まれて、中国・上海での大きな仕事を任されたこともある。
 昭和から平成に移るバブル時代。「あのころは月に七十万円稼いだね」。結婚もした。仕事仲間と朝まで飲み明かした。でも、福井さんはその生活を失った。
 妻と別れ、五十代半ばに差しかかったとき。二〇〇近い高血圧による頭痛に悩まされて入院した。一度は現場に戻ったが、めまいが治まらず道端でも倒れるようになり、働き続けることができなくなった。
 月に約十三万円の生活保護費で暮らすようになったのはそれからだ。区役所が紹介してくれた保護施設などで過ごした後、左官時代に長く住んだ池袋で別のアパートに入った。四カ月目、大家に突然「建て替える」と告げられた。立ち退き費ももらえないまま次の住まいを探し、今のアパートをようやく見つけた。
 六畳一間で家賃五万五千円。区役所との連絡に欠かせない携帯電話の料金と光熱費が計約一万五千円。もらえる年金はない。親方との契約で働く職人は自分で国民年金を払わなければならなかったが、「岩手から出てきて誰も教えてくれなかった」。
 それでも、ぜいたくさえしなければ残り約六万円で暮らせたが、今年二月五日、アパートの管理会社から思わぬ通知書が届いた。
 「契約期間が満了となり次第、明け渡してください」
 期限は四月二十七日。理由は、たびたび遅れた家賃の支払いと、台所に生えたカビ。振り込みは確かに遅れたが、必ず払った。カビは洗剤を買って取り除いた。
 大家の事情で契約を更新しない場合、六カ月前までに通知するのが入居時の取り決めだった。だが、管理会社は三カ月を切った時点で突然通知し、「再三の注意を聞いてもらえなかった」との強い姿勢を崩さない。
 高齢者の入居に後ろ向きな大家は少なくない。日本賃貸住宅管理協会(東京)が昨年三月、全国約十四万人の大家を対象に実施したアンケートでは、「拒否感がある」という回答が六割に達した。家賃の滞納や孤独死への不安が主な理由だった。福井さんのように単身で生活保護を受けていると、さらにハードルが高くなるとの指摘もある。
 退去を迫られ、福井さんは荷物の整理を始めた。持ち続けていた左官道具を昔の仕事仲間の家にタクシーで運んだ。その料金などでお金を使い果たし、三十年身につけていた腕時計を質屋で千円に換えた。冷蔵庫には、三玉で百円のうどんと中華麺しか入っていない。
 わずかな着替えを詰めたカバンに、弟の結婚式で撮った写真が入っていた。外枠に「1983」と印字されている。家族とは二十年以上、連絡を取っていない。「ちっちゃい田舎だから、恥ずかしくて帰れない。合わせる顔もねえ」
 退去期限まで二カ月弱。夜が来て、福井さんは使い捨てカイロを張り付けた布団にもぐり込んだ。ため息が白く凍えた。
 「ここを出たら、もう行くところはない」

    ◇

 晩年を迎えて住む場所を追われる高齢者がいる。伴侶や親の介護を支え、生活に追われる家族もいる。貧しさで追い込まれる老後とは何か、その現実を見つめる。
 (取材班=青柳知敏、栗田晃、杉藤貴浩、山内晴信、西田直晃)

(2)措置控え
http://www.chunichi.co.jp/article/feature/binboustory/list/CK2016030402000219.html

◆帰る家 布団すらない

 暖房が効いた六畳ほどの個室。シーツがぴんと張られたベッドを見て、文子さん(76)=仮名=は思った。「布団があるのが、こんなにありがたいなんて」
 一月下旬、文子さんは千葉県内にある養護老人ホームに保護された。一五〇センチを超す背丈だが、体重はわずか三七キロ。車を降りても立っているのがやっとで、玄関から面談室への数メートルの廊下で何度も座り込んだ。
 ホームに来るまでは、四十代の息子と二人で暮らしていた。土木作業員だった夫を十二年前に病気で亡くし、手にする遺族年金は月に約三万円。息子はトラック運転手だが、契約社員で収入は安定していない。
 一戸建ての自宅を売ったとしても、ローンの残りが消えるかどうか。料金が払えずに水道やガスが止まり、近所からバケツで水を借りてトイレを流したこともある。虫がわいた布団を捨てても代わりを買えず、文子さんは板の間に座布団を二枚並べて眠っていた。
 親子二代の貧しさは優しかった息子を変えた。二年前にがんの手術を受け、心も体も弱った文子さんが買い物を頼むと「なんで俺が払うんだ」。そう怒りだし、熱湯入りのカップ麺を投げつけた。文子さんは歯が一本もなく、食べられるものが限られる。医者は栄養失調と診断して入院を勧めたが、息子に医療費を頼ることもできず、数日おきの点滴でしのいでいた。
 自宅にガスを止めに来た検針員にふらふらの状態で見つけられ、ホームに保護されて一カ月。文子さんの体重は四〇キロにまで戻った。困窮だけでなく虐待の恐れもあり、息子には居場所を知らせていない。
 「今日の朝ご飯はね、納豆とウズラの卵、おしんこ、みそ汁とおかゆ。できるなら、死ぬまでここのお世話になりたいね」
 ところが、地元の自治体はそう話す文子さんを正式に入所させず、自宅へ帰るよう迫っている。役所は「本人の体力が回復し、息子を説得すれば大丈夫」とホームに説明したというが、施設長(50)は行政が予算の支出を抑える「措置控え」を疑っている。
 養護老人ホームは、貧しくて身寄りの無い高齢者を受け入れる最後の公的施設だ。全国九百五十二カ所にあり、「措置」と呼ばれる入所の決定権は市町村が持っている。一人当たりの運営費は最大で年に約二百四十万円。以前は国が半分を補助していたが、二〇〇五年度の小泉改革で市町村の全額負担に切り替わった。
 国は支出が増えた分を地方交付税として市町村に手当てしているが、使い道が自由なお金のため、養護老人ホーム以外の目的にも使える。つまり、市町村が高齢者の措置を控えれば、浮いたお金を他の政策に回すことも可能だ。
 「あの改革から定員が割れるようになった」。そう実感しているのは、文子さんを預かる施設長だけでない。全国社会福祉協議会(東京)が一二年に行った調査では、回答した全国五百七十五施設の約六割が定員割れ。そして、最も多かった理由が「市町村からの入所依頼がない」だった。
 二月の終わり。このままホームに居続けられるかどうか分からないと知り、文子さんはつぶやいた。「仕方がないのかね。役所が戻れと言うならね」
 文子さんの地元の自治体は「命に関わる問題なので、生活困難な人がいれば適切に入所させる」と、措置控えを否定する。ただ、過去五年、この自治体から養護老人ホームへ入った高齢者は一人もいない。

(3)給付切り
http://www.chunichi.co.jp/article/feature/binboustory/list/CK2016030602000184.html

◆負担倍増、きしむ生活

 もう自分の顔も分からないかもしれないが、中宮(なかみや)繁さん(80)=金沢市=は今日も妻の玉子さん(88)を訪ねる。
 市内にある特別養護老人ホーム「なんぶやすらぎホーム」。七、八年前に現れた玉子さんの認知症はずいぶん進んだ。それでも、マスク姿の中宮さんは指でピストルの形をつくり、妻に向かって「強盗だ。パーン」。時々「ふふっ」と返ってくる笑顔がうれしい。
 だが今、この妻の居場所が、中宮さんに重くのしかかっている。「月額六万五千円だったのが、十三万三千円だよ。年に八十万円以上の負担増だ」
 昨年八月、中宮さんがやすらぎホームに支払う利用料が一気に二倍以上になった。介護保険法の改正で、特養などの比較的収入の低い入所者に支給している「補足給付」が制限されたためだ。夫婦の住民票を二つに分ける「世帯分離」をしたうえで、入所者本人の収入がわずかであれば支給されていたが、配偶者に住民税を課される程度の収入などがあると、給付が認められなくなった。
 中宮さん夫妻の月収は、二人の年金から税や保険料を引いて十九万円。「その中で、特養の利用料が七万円近くアップすることが、どれほどつらいか」。実際、ホームの利用料を払えば残りは五万円余り。さらに中宮さんの食費や自宅の光熱費、医療費、ガソリン代などを引いていくと、月に七、八万円のマイナスに陥った。制度変更による特養の負担増が、そのまま赤字になった形だ。
 「中流の暮らし、普通の老後のつもりだったんだが」と中宮さんは言う。
 九歳で終戦を迎えた。父親の仕事で中国にいた一家は故郷の金沢に引き揚げ、自身は二十歳のころ上京。新聞配達で稼ぐ苦しい暮らしの中、東京に呼び寄せたのが、地元で知り合っていた玉子さんだった。
 「助けにいきます」。求婚の手紙の返事に、八歳年上の妻が、そう書いてくれたのを覚えている。
 高度成長期を迎え、三十歳すぎに電線会社の正社員に。土日もなく働き、妻はパートと内職で三人の子どもを育て上げた。六十歳の定年を機に故郷へ戻って、二十年。現役時に積み上げた貯金が底をついたころ、今回の負担増にのみ込まれた。
 厚生労働省によると、昨年八月を境に、補足給付の認定者は百二十万人から八十九万人に減った。その多くが、厳しくなった給付要件で対象から外れた人たちだとみられる。担当の介護保険計画課は制度変更について「介護保険制度の持続性を高めるため」と述べ、給付費の抑制が目的の一つだったことを認める。
 「国の財政や介護保険の収支が厳しいのは分かる。でも、これでは蓄えがなくなったら死ねと言われているようなものだ」と中宮さん。月々の赤字は、次男(54)からの援助で当面しのぐが、「これ以上、子どもたちに迷惑かけられない」。
 自身も足腰が衰える中、一玉十八円のうどんを探しにスーパーへ出かけ、玉子さんの面会に足を運ぶ日々。妻をいつまで預けられるのか、そして自分にもしものことがあったら〓。
 「助けにきました」。求婚から六十年、人生を支えてくれた妻に、今はそう言える自信がない。

(4)無届け
http://www.chunichi.co.jp/article/feature/binboustory/list/CK2016030702000215.html

◆「違法だが」低額求め

 午前零時すぎ、名古屋市天白区の住宅街。寝たきりの中川正さん(81)=仮名=は介護ベッドでおむつ交換を受けていた。伸びた髪はぼさぼさで、耳に掛かって跳ねている。
 一昨年の秋、足の骨折などで入退院を繰り返していた市立病院から、この老人ホーム「ザベリオハウス」に移ってきた。二階建ての民家。板間が六部屋。行政への届け出をしていない違法状態の施設だったが、八十歳になる妻は一番安いところにお願いした。
 利用料と介護保険の自己負担分を合わせ、費用は月に約十万円。市内にある一般の有料老人ホームの半額ほどで済む。比較的安い特別養護老人ホームは待機者であふれ、入居まで二〓三年待ち。年金暮らしの妻にとっては一回千五百円の中川さんの散髪代ももったいなく、施設の職員に「一年に一回で」と伝えた。
 ザベリオハウスには、重い介護が必要な「要介護3」以上の高齢者七人が入居している。最高齢は百一歳。うち、中川さんを含む四人が公立や私立の病院からケースワーカーなどの紹介で移ってきた。
 「病院側がいつまでも患者を入院させておけないからです」。経営する岩本智秀さん(42)はそう話す。患者の入院が九十日を超えた場合、病院の収入となる診療報酬は国の規定で減額される。がんや難病など特定の患者は例外だったが、一昨年十月の見直しで特定除外が廃止された。
 名古屋市の福祉サービス会社の介護支援専門員(48)は「病院の経営陣にせかされ、無届け施設でもいいから紹介してほしい、と泣きついてくるケースワーカーは少なくない」と打ち明ける。岩本さんが二〇一一年に施設を開設したのも、退院しても行き場がない高齢者がいることを知り合いの医師に聞いたからだ。
 同じような無届け老人ホームは全国に九百六十一カ所あるとみられている。厚生労働省によると愛知県は六十八カ所で、北海道に次いで二番目に多い。無料低額宿泊所とともに「貧困ビジネスの温床」とも批判され、今年二月には警視庁が全国で初めて、都内の運営会社を老人福祉法違反などの疑いで摘発した。
 岩本さん自身は低料金での運営と入所者の居心地を最優先にしてきたが、昨年九月、抜き打ちで訪れた名古屋市の職員には通じなかった。外から招いた理髪師が寝たきりの中川さんの散髪をしようとするのを見つけ、事務所にある介護計画書と比べて「今はおむつ交換の時間のはずでしょう」。計画通りに介護サービスをしておらず、記録の記入漏れもあるとして、公費から支払われる介護保険料の返還を求めた。
 「無届けだからいじめられるのか」。そう感じた岩本さんは今年一月、有料老人ホームとしての運営を市に届け出た。国のガイドラインに従い、火災報知機や消防通報電話などを百三十万円で設置。ただ、四百万円かかるスプリンクラーはまだ整備していない。
 市には二年以内の設置を約束したが、工事費はそのまま利用料に跳ね返る。入所者は全員、年金や生活保護以外に月の収入がない。無届けのままでは確かに「違法だ」と裁かれる。でも、岩本さんは思う。
 「ここにいるのは十万円を出すのがやっとの高齢者だけ。行政や病院の人たちも、そのことを知っているじゃないですか」

(5)葛藤
http://www.chunichi.co.jp/article/feature/binboustory/list/CK2016030802000223.html

◆防げなかった死、自問

 昨年五月九日、愛知県豊田市内の河川敷で、独り暮らしだった斉藤雅夫さん=仮名、当時(74)=が自ら命を絶った。
 一報は警察から豊田市役所に届いた。二週間ほど前、家賃を滞納していた市営住宅を強制退去になっていたからだ。「ショックだった」。市生活福祉課で生活保護を担当し、斉藤さんと何度も接していた中野将さん(42)は振り返る。
 市営住宅に住み始めたのは二〇〇一年七月、それまでの住居を火災で失ってからだ。家賃は前年の収入によって変わり、三千二百〓八千円。民間のアパートに比べれば安いが、支払いがたびたび滞った。市は一四年一月、督促しても応じないとして、滞納していた二十六カ月分、計二十万六千四百円の支払いと、部屋の明け渡しを求める訴訟を起こした。
 当時、斉藤さんは裁判所に手書きの陳述書を提出している。
 「一括納入して明け渡せということは私にしては死ねということと同じです。生活保護より少ない年金で今となっては一括納入は到底できません」
 でも主張は通じず、同年五月の判決は市の訴えを全面的に認めた。
 斉藤さんは年百万円に満たない年金で暮らしていた。判決後に面談した中野さんは、生活保護を受けてアパートで暮らすよう提案した。だが、斉藤さんはかたくなに拒んだ。十三年以上暮らした部屋を追い出されるとの思いが強く、二度と市役所を信用することができなかったのかもしれない。
 ぜいたくをしていた形跡はない。中野さんには「月に五万円で生活している」と話していた。部屋を訪ねたことがある市地域福祉課主査の江崎崇さん(31)は「机の上の書類は角をそろえて重ね、服は畳んで押し入れにしまってあった。とにかくきちょうめんだな、と思った」と語る。
 中野さんも江崎さんも強制退去の当日、昨年四月二十三日まで斉藤さんの説得を続けた。一時保護できる施設があることを伝えたが「おまえらの手は借りん」。そして、「公園や河川敷で野宿する」と言い残し、自転車で消えた。連絡用の携帯電話で安否確認をしながら話をし、一度は生活保護に前向きになってくれた。でも、退去から十六日後が斉藤さんの命日になった。
 同じ市営住宅の住民は斉藤さんを覚えている。近所付き合いはほとんどなく、孤立していたという。本人は生活に困っていることを自分の口からは言わず、豊田市も明け渡しが決まるまで保護に動かなかった。
 国土交通省によると、全国の公営住宅は一四年三月現在で約二百十六万戸。うち、部屋の名義人に占める六十五歳以上の割合は47・8%で、〇四年三月の31・9%から急増した。家賃の滞納が長引くケースも多く、同省は督促の早期実施などを都道府県などに指示している。豊田市は昨年四月から、法的措置への移行を滞納十二カ月以上から六カ月以上に短縮した。
 斉藤さんがなぜ死を選んだのかは分からない。ただ、隠れた困窮にどう向き合うべきだったのか、職員たちは今も自分に問いかける。
 「強制退去になる前に何をしていれば、違う結果になったのだろうか」
 =終わり
(取材班=青柳知敏、栗田晃、杉藤貴浩、山内晴信、西田直晃)