漢字の音符

漢字の字形には発音を表す部分が含まれています。それが漢字音符です。漢字音符および漢字に関する本を取り上げます。

漢字音符研究の魁(さきがけ)  後藤朝太郎 (上)

2021年11月04日 | 漢字音
後藤朝太郎(1909年)字素数828とは?
 私が後藤朝太郎氏(以下敬称略)の名前を知ったのは最近のことである。ネットで「漢字音符」と入れて検索していたところ、ドイツ出身の日本語学者カイザー・シュテファン氏の漢字の字素数にふれた論文に「著者・後藤朝太郎(1909年)字素数828」とあるのを見つけた。

 この論文の名は「漢字学習書各種アプローチの検討(2)―字素アプローチ:形音義の狭間―」(ネットにPDFあり)という、いささか分かりにくいタイトルだが、内容は「中国では伝統的に部首で配列した字書か、字音で配列した韻書しかなかったが、中国に滞在した宣教師によって漢字の字素という要素が見いだされ、彼らによって研究書が刊行された。字素の数は研究者により違いがあるが、多いもので1689、少ないもので300である」として6名の研究者の字素数の表があり、その最後に「音符である」と注記がついて後藤朝太郎の名が含まれていたのである。音符の数が828というのは、私がこのブログで解説している音符約850字に近い。興味をもった私は「後藤朝太郎」について調べてみることにした。

後藤朝太郎の略歴
 「後藤朝太郎」の略歴は、劉家鑫氏の論文「『支那通』後藤朝太郎の中国認識」(『環日本海研究年報』第4号、1997年3月)の第一章「後藤朝太郎その人」を要約させていただく。まず、生まれから31歳までの歩みを辿ると以下のとおりである。
 後藤朝太郎(ウィキペディアより)
 「後藤朝太郎は1881年(明治14)4月、広島県人で平民の後藤栄次郎の次男として愛媛県に生まれた。五高(現熊本大学)時代、あまり目立つ生徒ではなかったらしい。1903年9月、五高から東京帝国大学文化大学言語学科に入学、同窓に橋本進吉、一年後輩に金田一京助が入学している。在学中にマックス・ミューラーの『言語学』(博文館)を翻訳、出版し、早くも識者間にその存在を知られるようになった。
 1907年(明治40)7月、大学を卒業、膨大な卒業論文「支那音韻K.T.Pの沿革と由来」を提出した。1907年9月、後藤は大学院に進学した。「支那語の音韻組織」というのがその研究テーマである。大学院に入ると、彼は言語学を武器に漢字、漢字音の大海に分け入り、旺盛な執筆活動を続け、大学院在学中の五年間に七冊もの著作を世に問うた。彼が大学院を卒業するのが1912(明治45)年7月、31歳の時であるが、少壮言語学者としての後藤の評価は、この大学院在学中に定まったといえる。こうして後藤は言語学者から出発した。」

他日、大(おおい)に世界の学者を啓発させること疑いなし・・上田萬年 
 以上が劉氏論文「後藤朝太郎その人」の前半の要旨であるが、後藤朝太郎が1909年に出版した『漢字音の系統』に東京帝國大學文科大学長や文学部長を務めた上田萬年が序文を寄せている。
「帝国大学に文学科が出来てから最早や茲(ここ)に三十年にもなり、卒業した学士も数百人になるであろうが、しかし、東洋の学術研究に志し、殊に漢字漢音の研究に一身をゆだねた者は、今迄に幾人あろう。滔々たる幾十の所謂漢学者が、夙(はや)く此に手を着けなかったのは猶更(なおさら)我輩の平素怪しんだ所である。後藤君は我が言語学科出身の学士で、素と漢学の素養ある人ではなかったが、一度此研究の上に趣味を感じてから辛苦励精せられた結果、此二、三年間に着々注目すべき成績を挙げられて居る。これはもとより、旧套を脱し新立脚地から観察された為めだとはいえ、或る点では既に世の漢学者をして、後に瞠着たらしむる所がある。況(ま)して彼の泰西の学者輩が企てても及ぶことの出来ない点が、決して尠(すくな)しではないと思われる。これから推して考えると、他日、大に世界の学者を啓発さするのも我輩の断じて疑わぬ所である。」と彼の将来に嘱望をよせている。

注目される2冊の本
 後藤朝太郎が大学院時代に出版した本で注目されるのは以下の2冊である。
『文字の研究』(昭和17(1942)の改訂版)
『漢字音の系統』六合館(1909年)と、『文字の研究』成美堂 (1910年)で、いずれも国立国会図書館のデジタルコレクションで閲覧できる。出版年は逆になるが、『文字の研究』は、後藤が学生時代から大学院を通じて書いた主要な論文がほとんど収録された1467ページに及ぶ大著である。彼の卒業論文も収録されている。この本は、よほど評判が良かったらしくのちに昭和10年と17年の2回、出版社を変えて再版されている。この本のなかに彼の漢字音に対する考え方が表れているので、『漢字音の系統』と重複する部分を除いて、まずこの本から後藤のエッセンスを紹介してみよう。

後藤の漢字音に対する考え方
 『文字の研究』(1910年)は内容が多岐に渡るが、漢字音に関して述べている基本的なことは以下に要約できる。
 「支那の文字は、その特色として、形と音と意義の三要素が備わっている。漢字は日本の仮名やヨーロッパのletter(a,b,c)の如き表音的符牒のみだけでなく意義の要素も加わったものであり、文字の資格を完全に具備している。強いて同類を西洋に求むるならば英語のcharacter(文字。表意文字)が最も近い。それ故、支那の漢字は西洋のa,b,cで綴られた単語の文字(character)と較べるべきものである。この綴られた文字(character)が、それぞれの意味を有することは、漢字が偏旁から成る組み合わせで成り立って意味を持つのと変わりない。
 しかし、両者はその文字としての趣きから云えば少なからずの相違、否、反対の性質がある。すなわち西洋文字は一目でその音の方は分かりやすいが、意義の方は表面的には分かっていない。これに反し漢字は西洋文字のように音は見えていないが意義の方は大抵わかり易く仕組まれている。少なくとも原意を汲むだけの手がかりは形の上に残っている。」

英語の綴り文字(character)と漢字の比較
 ここまで読んで、以前の私だったら英語の綴り文字(character)と漢字の比較はピンとこなかったかもしれない。しかし、近年、英単語の語源の本がブームになっており、私もこれらの本を読んで英単語の構造が始めて理解できたからである。『英単語の語源図鑑』かんき出版(2018)によると、
例えば、structは、積む意であり、
 con(共に)がつくとconstruct(建設)
 de(離れる)が付くと、destructive(破壊的な)
 ure(名詞化)が付くと、structure(構造物)と言った具合である。
これを漢字の、音符「シン」に例えてみると、
 (人偏)がつくとシン・のびる、
 (示偏)がつくとシン・かみ、
 かんむりがつくとデン・いなずま、と言った具合になる。

後藤は、ここから漢字音の特徴を指摘している。
 「音韻上、支那の文字はすべて一種の『綴音字(2つ以上の音が結合した音)なり』と云い得ないでもない」。つまり、英語の綴り文字(character)の音と同じく、漢字の音は一種の綴音字だというのである。この指摘により、日本の漢字音に、キャ・キョウ・ジュン・ミョウ・ゲン・コンなど奇妙な音がある理由が明らかになる。これらの音は、中国で漢字一字が表す意味(character)を反映した音だったのである。

説文より入りて設文を超脱すべし
 後藤はまた「説文解字」の重要さを説くとともに、それを超えるべきだとする。「文字研究の方法は、まず説文(説文解字)から入って行くべきことは言うまでもない。後漢に出来た説文の文字学入門としての価値は支那の書籍中この右に出るものはない。しかし、説文の9353字の説明を、すべて丸呑みしそのまま信仰することは考えものである。後漢は周代を去ること一千年の時代をへだて、しかも文字はすでに周初以前にかなり発達していた。著者の許慎は千年以上前の漢字の意義と構造について説明を加えたのである。
 多くの漢字を意符と音符に分け、「〇に従い〇の聲」としているが、その説明にも疑問のある文字が多い。また、それは文字だけの話であって、当時どんな発音であったかは分からない。これは後に作られた「韻書」(7世紀~)も同じである。韻書は作詞のとき、句末に同じ韻の文字を置くことから、作詞の便のため同じ韻を集めた書物であるが、発音は漢字二文字で表される半切という方法による。しかし、半切に用いる漢字は当時、実際にどんな発音をしていたのか分からないのである。その後に現れた「韻鏡」とよばれるさらに精密な発音図表(韻図。8世紀ごろ)も、発音の種類を表すのに漢字を用いているが、その漢字が実際にどんな発音だったか分からない。」

実際の言語上の音は、常に変化する
 「実際の言語上の音は、時と所を異にするのに従って常に変化するから、容易に真の発音を得ることは難しい。半切法が音韻研究法上から見ると左程の価値を有していないことになる。つまり半切の基本となる文字の音がいつも時と所を変えるに従って転々と移り動いて行くからである。
 当時の実際の発音を把握するためには、同じ時代に漢字を使って表現した外国の発音と比較する必要がある。例えば、梵語の仏典を翻訳した漢字は、当時の梵語の発音が分かるため、それに用いた漢字の発音も類推できるのである。また、支那の各方言とくに南の各地方の方言を観察することは頗(すこぶ)る必要である。このような意味で、安南(ベトナム)や朝鮮、そして日本の各時代の漢字音も参考になるのである。
 文字研究の方法は既にここまで進んで来た。この際、この漢字研究の荒野は鋭意以って開拓せられなければならぬ。」として、説文解字を超越して漢字研究の荒野を開拓すべきと意気込んでいる。

同じころスエーデンの二十歳の若者が中国で方言調査をしていた。
 若きカールグレン
https://alchetron.com/Bernhard-Karlgren
 実は後藤朝太郎が『文字の研究』を出版した1910年、言語学を学んだスエーデンの二十歳の若者が、奨学金をもらって中国大陸にわたり、24か所で方言の調査をしていた。名前はカールグレン(Bernhard Karlgren)。中国人と同じ服装で召し使いと馬だけをともない、中国北方の各地の方言を求めながら旅した。1912年にヨーロッパにもどった彼は、1915年に『中国音韻学研究』を著した。この本は半切法による音韻体系の基礎のうえに、方言による実際の音を加味して音韻体系の復元を図った画期的なものだった(大島正二『中国語の歴史』の「カールグレンの業績」より)。
 後藤朝太郎は、中国音韻史がこれから花開こうとする時期に漢字学の世界に入っていこうとしたのである。当時、後藤朝太郎が持っていた中国の古代漢字音に対する認識は、彼個人だけでなく当時の中国や西欧の研究者たちの共通する見方であった。後藤が活躍した時代は、中国古代漢字音の研究がまさに進展しようとする時代だったのである。

 次回は、「漢字音符研究の魁(さきがけ) 後藤朝太郎 (中)」として、彼の代表作『漢字音の系統』(明治42)を紹介します。

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