漢字の音符

漢字の字形には発音を表す部分が含まれています。それが漢字音符です。漢字音符および漢字に関する本を取り上げます。

漢字音符研究の魁(さきがけ) 後藤朝太郎 (下)

2021年11月10日 | 漢字音
     「支那通」作家となった後半生
 1912(明治45)年7月、31歳の時、後藤朝太郎は大学院を卒業した。大学院在学中に少壮言語学者としての評価が定まったといえる彼は、その後どうしたのだろうか。実は、その後の彼の経歴について、はっきりした資料が出てこない。昭和2年(1927)に発行された『五十年後の太平洋 大阪毎日新聞懸賞論文』(大阪毎日新聞社)には、佳作となった後藤朝太郎の略歴が以下のように記されている。

文部省国語調査員、台湾総督府高砂寮長、東洋協会大学教授へ
 「原籍は東京。明治四十年東京帝国大学文学部言語科を卒(お)へ、後同大学院学生となり、次いで文部省国語調査員、台湾総督府高砂寮長となる。大正十年『支那文化の解剖』を著し、なお多くの著書がある。」
 また、大正10年(1921)刊行の『支那文化の解剖』(大阪屋号書店)の凡例に、「自分は東洋協会の主事に兼ねて東洋協会大学の教授をしている関係上、本書の如きも協会の調査部の出版として出した訳である。」と書いている。
 そして、(上)で冒頭に挙げた劉家鑫氏の論文「『支那通』後藤朝太郎の中国認識」には、「1918年(大正7)ごろから26年(大正15)ごろまでに20数回も中国に渡り、生きた中国の現実に触れた」とし、「この時期の後藤は、東洋協会大学の主事兼教授として、あらゆる休みを利用して中国に渡った。」と書かれている。東洋協会大学とは拓殖大学の前身で、明治33年(1900)設立の台湾協会学校に始まり、旧制東洋協会大学となり、大正15年(1926)拓殖大学、昭和24年新制大学へ移行した、現在東京都文京区に本部がある私立大学である。
 こうして見ると、大学院を修了した後藤は、文部省国語調査員および台湾総督府高砂寮長となって台湾に渡ったのち、明治33年(1900)に設立されていた台湾協会学校でも教鞭をとり(ここは未確認)、次いで東京にある東洋協会大学の教授になったのではないかと思われる。なお、ウィキペディアには彼の経歴が、「文部省、台湾総督府、朝鮮総督府嘱託[4]。東京帝国大学・東京高等造園学校各講師、日本大学教授[1]、日本庭園協会・東京家庭学院各理事、日本文明協会・東洋協会各評議員などをつとめた[4]。」(出典は[1]がコトバンク。[4]が「人事興信録・第12版上」と掲載されている。

1918年(大正7)ごろから26年(大正15)ごろまでに20数回も中国に渡る
 東京帝国大学で「支那語の音韻組織」という研究テーマで学問をしてきた後藤朝太郎にとって、中国に渡り各地の方言を採集し、それを材料として古代の音韻との比較研究をすることによって支那語の音韻組織を解明したいという思いは何よりも強かったにちがいない。ましてや1910年、スエーデンの二十歳の若者カールグレンが、中国大陸にわたり方言の調査をし、1915年に『中国音韻学研究』を著している。自分も中国で調査したいという気持ちは起きて当然である。劉家鑫氏の論文にあるように後藤朝太郎は、「1918年(大正7)ごろから26年(大正15)ごろまでに20数回も中国に渡り」、方言調査などを行った。こうして、後藤朝太郎と中国の深い関係が始まったのである。

朝太郎は大学院卒業後、20年間にどんな本を出したのか
 後藤朝太郎が大学院を卒業した年の1912年(明治45)以降、1931年(昭6)までの20年間、彼がどんな本を出版したかを以下に一覧してみよう。出版物を国立国会図書館のデータから調べると、

漢字関係(書道を含む)の本
 「文字の沿革 建築編」(成美堂書店)     1915(大正4)
 「文字の起源 通俗大学文庫6」(通俗大学会) 1916(大正5)
 「文字の教え方」(二松堂)          1918(大正7)
 「国訳漢文大成11 淮南子訳注」(国民文庫刊行会)1921(大正10)
 「文字の智識」(日本大学)         1923(大正12)
 「文字の沿革」(日本大学)         1926(大正15)
 「翰墨談」(富士書房)           1929(昭和4)
 「標準漢和辞典:共編」(正和堂書店)    1929(昭和4)
 「標準ポケット漢和:共編」(聚文閣)    1931(昭和6)
 「翰墨行脚」(春陽堂)           1931(昭和6)
 これらの本のうち、「文字の沿革」「文字の起源」は彼が大学院時代に出版した本を再版したものであり、「文字の教え方」も大学院時代の「漢字の教授法」の類似版である。また、「翰墨(かんぼく)談」「翰墨行脚」は彼が書道関係の本まで執筆分野を広げたことがわかる。また「標準漢和辞典」「標準ポケット漢和」は、垣内松三氏との共編である。こうしてみると、大学院卒業後の後藤は漢字分野で特に目立つ研究業績をあげていない。

中国(支那)関係の本
 「現在の台湾」(白水社)          1920(大正9)
 「支那文化の解剖」(大阪屋号書店)     1921(大正10)
 「支那料理の前に」(大阪屋号書店)     1922(大正11)
 「長城の彼方へ」(大阪屋号書店)      1922(大正11)
 「おもしろい支那の風俗」(大阪屋号書店)  1923(大正12)
 「支那趣味の話」(大阪屋号書店)      1924(大正13)
 「支那文化の研究」(冨山房)        1925(大正14)
 「歓楽の支那」(日本郵船)         1925(大正14)
 「支那の田舎めぐり」(日本郵船)      1925(大正14)
 「支那の社会相」(雄山閣)         1926(大正15)
 「支那の国民性」(巌翠堂)         1926(大正15)
 「支那風俗の話」(大阪屋号書店)      1927(昭和2)
 「支那行脚記」(万里閣)          1927(昭和2)
 「支那今日の社会相と文化」(文明協会)   1927(昭和2)
 「支那風俗の話」(大阪屋号書店)      1927(昭和2)
 「支那国民性講話」(巌翠堂)        1927(昭和2)
 「支那遊記」(春陽堂)           1927(昭和2)
 「長久の支那」(北隆館)          1927(昭和2)
 「不老長生」(日本郵船)          1927(昭和2)
 「老朋友」(日本郵船)           1927(昭和2)
 「お隣の支那」(大阪屋号書店)       1928(昭和3)
 「支那の風景と庭園 造園叢書17」(雄山閣) 1928(昭和3)
 「阿片室:支那綺談」(万里閣書房)     1928(昭和3)
 「青龍刀 支那秘談」(万里閣書房)     1928(昭和3)
 「支那長生秘術」(富士書房)        1929(昭和4)
 「大支那体系8 風俗趣味篇」(万里閣書房) 1930(昭和5)
 「支那料理通」(四六書院)         1930(昭和5)
 「支那労農階級の生活」(三省堂)      1930(昭和5)
 「支那民情を語る」(雄山閣)        1930(昭和5)
 「哲人支那」(千倉書房)          1930(昭和5)
 「支那旅行通」(四六書院)         1930(昭和5)
 「時局を縺らす支那の民情」(千倉書房)   1931(昭和6)
 中国関連の本は大学院卒業後7年間の空白を置いて、まず1920年(大正9)に「現在の台湾」が出版され、翌年、中国本土をテーマにした「支那文化の解剖」が初めて刊行された。その後、1931年(昭和6)まで途切れることなく出版がつづき、最も多い1927年(昭和2)は9冊もの本を刊行している。こうなると流行作家なみである。以下の表は、大学院卒業後20年間に後藤朝太郎が出版した主な本の点数である。
 
中国を旅行するときのスタイルは支那帽と支那服
 こうして大学院卒業後から51歳になるまでの20年間、後藤は漢字音の研究は片手間となり、もっぱら中国大陸を行脚し、卒業後7年間の雌伏の期間をへて、中国各地の民情・風俗・文化を伝える作家に変身したのである。彼が中国を旅行するときのスタイルは支那帽と支那服であった。1942年(昭和17)に再版された「文字の研究」の口絵写真には著者の支那服姿が掲載されているが、その説明に「支那の文字金石学者や文人墨客老農禅僧を巡訪するには和服は適せず、又洋服姿はぎごちなく環境にも調和しない。清談には、こうしたシーコワピマオ(西瓜皮帽)と、マーコワル(馬褂児)に限る。似合う似合わぬは問題でなく、目的遂行の上から云ってピッタリ来るし、又なごやかに行けもする。」と書いている。
 こうして中国音韻学の専門家は各地を訪ねて方言を調査するはずが、村落の生活や庶民の暮らしに興味をもつ中国通となり、さらに支那の魅力にとりつかれてしまうのである。

支那の魅力にとりつかれた後藤朝太郎
昭和16年頃(60歳頃)の後藤朝太郎
 大学院卒業から20年をすぎ、1933年(昭和7)に52歳になった後藤朝太郎は、その後も旺盛な出版活動をおこなっている。
 まず漢字関係の主な図書としては、
 「文字の研究」(関書院)         1935(昭和10)
 「文字行脚」(知進社)          1936(昭和11)
 「改定 漢字音の系統」(関書院)     1937(昭和12)
 「文字の起源と沿革」(峯文壮)      1939(昭和14)
 「漢字の学び方教え方」(丸井書店)    1940(昭和15)
 「文字の研究」(森北書店)        1942(昭和17)
 「文字講話」(黄河書店)         1943(昭和18)
 以上の7冊である。このうち「文字の研究」は大学院在学中の1910年(明治43)に発行された本であるが、よほど評判が良かったらしく出版社を替えて2回も再版されている。昭和18年刊「文字講話」(黄河書店)の凡例に「字音の方言中に散在する訛音(なまりのある発音)の聞き取りは四十有余回にわたり各地の水村山郭を普く行脚中に努めて採集した。」とあり、中国を旅行中に調査した結果を、以前刊行した書物の再版のなかで追加しているようである。
 1936年(昭和11)の「文字行脚」は、文字についての幅広い案内書。また「改定 漢字音の系統」は、1909年(明治42)に発行されたものの改訂版である。また「文字の起源と沿革」は、大正時代に発行された「文字の起源」「文字の沿革」をまとめたもの。「漢字の学び方教え方」は、「文字の教え方」(大正7)の類書である。「文字講話」は古代文字の変遷を主に書いている。したがって後藤朝太郎の漢字学に対する成果は、主に大学院在学中の研究成果を中心にした改訂版や普及版を出したことであろう。

中国関連の図書は相変わらず多数出版
 一方、中国関連の図書は相変わらず多数出版した。「文字の研究」(森北書店)(1942・昭和17)の最後に彼の著述書目として103冊が挙げられているが、そのうち1933年(昭和8)以降は、
 1933年(昭和8)   「支那の山水」など5冊
 1934年(昭和9)   「支那庭園」など2冊
 1935年(昭和10)  「支那風土記」など3冊
 1936年(昭和11)  「支那民族の展望」など5冊
 1937年(昭和12)  「土匪村行脚」など6冊
 1938年(昭和13)  「大支那の理解」など7冊
 1939年(昭和14)  「支那の下層民」など3冊
 1940年(昭和15)  「支那の土豪」など2冊
 1941年(昭和16)  「論語と支那の実生活」など2冊
 この後を国会図書館の目録から追加すると、
 1943年(昭和18)  「支那風物志1」など3冊 
 があり、合計38冊となる。大学院卒業後20年間の32冊より多い。後藤は昭和17年刊の「文字の研究」に「支那四百余州の遊歴四十幾回に及ぶ」と書いており、先の劉家鑫氏の論文には、「1918年(大正7)ごろから26年(大正15)ごろまでに20数回も中国に渡り」、と書いているので、その後も20回ほど訪中したことになる。この飽くなき情熱で後藤朝太郎は当時の中国を題材としたルポルタージュ作家になったと言える。そして、中国の文化と人々を愛し、かの国の魅力にとりつかれてしまったのである。

突然の逝去
 劉氏論文「『支那通』後藤朝太郎の中国認識」は、昭和初期から没年(昭和20)までを彼の人生の第四段階とし、「支那通として研究者たちからは軽蔑な眼で見られながらも、中国の民族文化や民衆社会を鑑賞、描写する一方、日本の軍国主義的権力者に対して、精神的心理的に抵抗した時期であった」とする。そして、
 「日中戦争が勃発後、後藤は特高警察の尾行、憲兵の逮捕、大学講義内容の検閲、巣鴨拘置所入り等々の迫害を受けるようになり、ついに敗戦直前の1945年(昭和20)8月9日夜八時半、都立高校駅踏切で轢死を装い暗殺されるに至る」と記述している。
 昭和20年8月9日といえば終戦(8月15日)の7日前である。大変惜しいことであった。もし生存していれば、戦後の漢字音符研究ももっと進展していたに違いない。

謝辞 本稿の作成にあたり、劉家鑫氏の論文「『支那通』後藤朝太郎の中国認識」(『環日本海研究年報』第4号、1997年3月)の第一章「後藤朝太郎その人」を参照・引用させていただきました。感謝いたします。
 また、ブログ「礫川全次<コイシカワ・ゼンジ>のコラムと明言」の
「後藤朝太郎、東急東横線に轢かれ死亡」2016.1.22で、劉氏の論文の第一章「後藤朝太郎その人」の全文を公開しているので、利用させていただきました。御礼を申し上げます。



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