漢字の音符

漢字の字形には発音を表す部分が含まれています。それが漢字音符です。漢字音符および漢字に関する本を取り上げます。

漢字音符研究の魁(さきがけ) 後藤朝太郎 (下)

2021年11月10日 | 漢字音
     「支那通」作家となった後半生
 1912(明治45)年7月、31歳の時、後藤朝太郎は大学院を卒業した。大学院在学中に少壮言語学者としての評価が定まったといえる彼は、その後どうしたのだろうか。実は、その後の彼の経歴について、はっきりした資料が出てこない。昭和2年(1927)に発行された『五十年後の太平洋 大阪毎日新聞懸賞論文』(大阪毎日新聞社)には、佳作となった後藤朝太郎の略歴が以下のように記されている。

文部省国語調査員、台湾総督府高砂寮長、東洋協会大学教授へ
 「原籍は東京。明治四十年東京帝国大学文学部言語科を卒(お)へ、後同大学院学生となり、次いで文部省国語調査員、台湾総督府高砂寮長となる。大正十年『支那文化の解剖』を著し、なお多くの著書がある。」
 また、大正10年(1921)刊行の『支那文化の解剖』(大阪屋号書店)の凡例に、「自分は東洋協会の主事に兼ねて東洋協会大学の教授をしている関係上、本書の如きも協会の調査部の出版として出した訳である。」と書いている。
 そして、(上)で冒頭に挙げた劉家鑫氏の論文「『支那通』後藤朝太郎の中国認識」には、「1918年(大正7)ごろから26年(大正15)ごろまでに20数回も中国に渡り、生きた中国の現実に触れた」とし、「この時期の後藤は、東洋協会大学の主事兼教授として、あらゆる休みを利用して中国に渡った。」と書かれている。東洋協会大学とは拓殖大学の前身で、明治33年(1900)設立の台湾協会学校に始まり、旧制東洋協会大学となり、大正15年(1926)拓殖大学、昭和24年新制大学へ移行した、現在東京都文京区に本部がある私立大学である。
 こうして見ると、大学院を修了した後藤は、文部省国語調査員および台湾総督府高砂寮長となって台湾に渡ったのち、明治33年(1900)に設立されていた台湾協会学校でも教鞭をとり(ここは未確認)、次いで東京にある東洋協会大学の教授になったのではないかと思われる。なお、ウィキペディアには彼の経歴が、「文部省、台湾総督府、朝鮮総督府嘱託[4]。東京帝国大学・東京高等造園学校各講師、日本大学教授[1]、日本庭園協会・東京家庭学院各理事、日本文明協会・東洋協会各評議員などをつとめた[4]。」(出典は[1]がコトバンク。[4]が「人事興信録・第12版上」と掲載されている。

1918年(大正7)ごろから26年(大正15)ごろまでに20数回も中国に渡る
 東京帝国大学で「支那語の音韻組織」という研究テーマで学問をしてきた後藤朝太郎にとって、中国に渡り各地の方言を採集し、それを材料として古代の音韻との比較研究をすることによって支那語の音韻組織を解明したいという思いは何よりも強かったにちがいない。ましてや1910年、スエーデンの二十歳の若者カールグレンが、中国大陸にわたり方言の調査をし、1915年に『中国音韻学研究』を著している。自分も中国で調査したいという気持ちは起きて当然である。劉家鑫氏の論文にあるように後藤朝太郎は、「1918年(大正7)ごろから26年(大正15)ごろまでに20数回も中国に渡り」、方言調査などを行った。こうして、後藤朝太郎と中国の深い関係が始まったのである。

朝太郎は大学院卒業後、20年間にどんな本を出したのか
 後藤朝太郎が大学院を卒業した年の1912年(明治45)以降、1931年(昭6)までの20年間、彼がどんな本を出版したかを以下に一覧してみよう。出版物を国立国会図書館のデータから調べると、

漢字関係(書道を含む)の本
 「文字の沿革 建築編」(成美堂書店)     1915(大正4)
 「文字の起源 通俗大学文庫6」(通俗大学会) 1916(大正5)
 「文字の教え方」(二松堂)          1918(大正7)
 「国訳漢文大成11 淮南子訳注」(国民文庫刊行会)1921(大正10)
 「文字の智識」(日本大学)         1923(大正12)
 「文字の沿革」(日本大学)         1926(大正15)
 「翰墨談」(富士書房)           1929(昭和4)
 「標準漢和辞典:共編」(正和堂書店)    1929(昭和4)
 「標準ポケット漢和:共編」(聚文閣)    1931(昭和6)
 「翰墨行脚」(春陽堂)           1931(昭和6)
 これらの本のうち、「文字の沿革」「文字の起源」は彼が大学院時代に出版した本を再版したものであり、「文字の教え方」も大学院時代の「漢字の教授法」の類似版である。また、「翰墨(かんぼく)談」「翰墨行脚」は彼が書道関係の本まで執筆分野を広げたことがわかる。また「標準漢和辞典」「標準ポケット漢和」は、垣内松三氏との共編である。こうしてみると、大学院卒業後の後藤は漢字分野で特に目立つ研究業績をあげていない。

中国(支那)関係の本
 「現在の台湾」(白水社)          1920(大正9)
 「支那文化の解剖」(大阪屋号書店)     1921(大正10)
 「支那料理の前に」(大阪屋号書店)     1922(大正11)
 「長城の彼方へ」(大阪屋号書店)      1922(大正11)
 「おもしろい支那の風俗」(大阪屋号書店)  1923(大正12)
 「支那趣味の話」(大阪屋号書店)      1924(大正13)
 「支那文化の研究」(冨山房)        1925(大正14)
 「歓楽の支那」(日本郵船)         1925(大正14)
 「支那の田舎めぐり」(日本郵船)      1925(大正14)
 「支那の社会相」(雄山閣)         1926(大正15)
 「支那の国民性」(巌翠堂)         1926(大正15)
 「支那風俗の話」(大阪屋号書店)      1927(昭和2)
 「支那行脚記」(万里閣)          1927(昭和2)
 「支那今日の社会相と文化」(文明協会)   1927(昭和2)
 「支那風俗の話」(大阪屋号書店)      1927(昭和2)
 「支那国民性講話」(巌翠堂)        1927(昭和2)
 「支那遊記」(春陽堂)           1927(昭和2)
 「長久の支那」(北隆館)          1927(昭和2)
 「不老長生」(日本郵船)          1927(昭和2)
 「老朋友」(日本郵船)           1927(昭和2)
 「お隣の支那」(大阪屋号書店)       1928(昭和3)
 「支那の風景と庭園 造園叢書17」(雄山閣) 1928(昭和3)
 「阿片室:支那綺談」(万里閣書房)     1928(昭和3)
 「青龍刀 支那秘談」(万里閣書房)     1928(昭和3)
 「支那長生秘術」(富士書房)        1929(昭和4)
 「大支那体系8 風俗趣味篇」(万里閣書房) 1930(昭和5)
 「支那料理通」(四六書院)         1930(昭和5)
 「支那労農階級の生活」(三省堂)      1930(昭和5)
 「支那民情を語る」(雄山閣)        1930(昭和5)
 「哲人支那」(千倉書房)          1930(昭和5)
 「支那旅行通」(四六書院)         1930(昭和5)
 「時局を縺らす支那の民情」(千倉書房)   1931(昭和6)
 中国関連の本は大学院卒業後7年間の空白を置いて、まず1920年(大正9)に「現在の台湾」が出版され、翌年、中国本土をテーマにした「支那文化の解剖」が初めて刊行された。その後、1931年(昭和6)まで途切れることなく出版がつづき、最も多い1927年(昭和2)は9冊もの本を刊行している。こうなると流行作家なみである。以下の表は、大学院卒業後20年間に後藤朝太郎が出版した主な本の点数である。
 
中国を旅行するときのスタイルは支那帽と支那服
 こうして大学院卒業後から51歳になるまでの20年間、後藤は漢字音の研究は片手間となり、もっぱら中国大陸を行脚し、卒業後7年間の雌伏の期間をへて、中国各地の民情・風俗・文化を伝える作家に変身したのである。彼が中国を旅行するときのスタイルは支那帽と支那服であった。1942年(昭和17)に再版された「文字の研究」の口絵写真には著者の支那服姿が掲載されているが、その説明に「支那の文字金石学者や文人墨客老農禅僧を巡訪するには和服は適せず、又洋服姿はぎごちなく環境にも調和しない。清談には、こうしたシーコワピマオ(西瓜皮帽)と、マーコワル(馬褂児)に限る。似合う似合わぬは問題でなく、目的遂行の上から云ってピッタリ来るし、又なごやかに行けもする。」と書いている。
 こうして中国音韻学の専門家は各地を訪ねて方言を調査するはずが、村落の生活や庶民の暮らしに興味をもつ中国通となり、さらに支那の魅力にとりつかれてしまうのである。

支那の魅力にとりつかれた後藤朝太郎
昭和16年頃(60歳頃)の後藤朝太郎
 大学院卒業から20年をすぎ、1933年(昭和7)に52歳になった後藤朝太郎は、その後も旺盛な出版活動をおこなっている。
 まず漢字関係の主な図書としては、
 「文字の研究」(関書院)         1935(昭和10)
 「文字行脚」(知進社)          1936(昭和11)
 「改定 漢字音の系統」(関書院)     1937(昭和12)
 「文字の起源と沿革」(峯文壮)      1939(昭和14)
 「漢字の学び方教え方」(丸井書店)    1940(昭和15)
 「文字の研究」(森北書店)        1942(昭和17)
 「文字講話」(黄河書店)         1943(昭和18)
 以上の7冊である。このうち「文字の研究」は大学院在学中の1910年(明治43)に発行された本であるが、よほど評判が良かったらしく出版社を替えて2回も再版されている。昭和18年刊「文字講話」(黄河書店)の凡例に「字音の方言中に散在する訛音(なまりのある発音)の聞き取りは四十有余回にわたり各地の水村山郭を普く行脚中に努めて採集した。」とあり、中国を旅行中に調査した結果を、以前刊行した書物の再版のなかで追加しているようである。
 1936年(昭和11)の「文字行脚」は、文字についての幅広い案内書。また「改定 漢字音の系統」は、1909年(明治42)に発行されたものの改訂版である。また「文字の起源と沿革」は、大正時代に発行された「文字の起源」「文字の沿革」をまとめたもの。「漢字の学び方教え方」は、「文字の教え方」(大正7)の類書である。「文字講話」は古代文字の変遷を主に書いている。したがって後藤朝太郎の漢字学に対する成果は、主に大学院在学中の研究成果を中心にした改訂版や普及版を出したことであろう。

中国関連の図書は相変わらず多数出版
 一方、中国関連の図書は相変わらず多数出版した。「文字の研究」(森北書店)(1942・昭和17)の最後に彼の著述書目として103冊が挙げられているが、そのうち1933年(昭和8)以降は、
 1933年(昭和8)   「支那の山水」など5冊
 1934年(昭和9)   「支那庭園」など2冊
 1935年(昭和10)  「支那風土記」など3冊
 1936年(昭和11)  「支那民族の展望」など5冊
 1937年(昭和12)  「土匪村行脚」など6冊
 1938年(昭和13)  「大支那の理解」など7冊
 1939年(昭和14)  「支那の下層民」など3冊
 1940年(昭和15)  「支那の土豪」など2冊
 1941年(昭和16)  「論語と支那の実生活」など2冊
 この後を国会図書館の目録から追加すると、
 1943年(昭和18)  「支那風物志1」など3冊 
 があり、合計38冊となる。大学院卒業後20年間の32冊より多い。後藤は昭和17年刊の「文字の研究」に「支那四百余州の遊歴四十幾回に及ぶ」と書いており、先の劉家鑫氏の論文には、「1918年(大正7)ごろから26年(大正15)ごろまでに20数回も中国に渡り」、と書いているので、その後も20回ほど訪中したことになる。この飽くなき情熱で後藤朝太郎は当時の中国を題材としたルポルタージュ作家になったと言える。そして、中国の文化と人々を愛し、かの国の魅力にとりつかれてしまったのである。

突然の逝去
 劉氏論文「『支那通』後藤朝太郎の中国認識」は、昭和初期から没年(昭和20)までを彼の人生の第四段階とし、「支那通として研究者たちからは軽蔑な眼で見られながらも、中国の民族文化や民衆社会を鑑賞、描写する一方、日本の軍国主義的権力者に対して、精神的心理的に抵抗した時期であった」とする。そして、
 「日中戦争が勃発後、後藤は特高警察の尾行、憲兵の逮捕、大学講義内容の検閲、巣鴨拘置所入り等々の迫害を受けるようになり、ついに敗戦直前の1945年(昭和20)8月9日夜八時半、都立高校駅踏切で轢死を装い暗殺されるに至る」と記述している。
 昭和20年8月9日といえば終戦(8月15日)の7日前である。大変惜しいことであった。もし生存していれば、戦後の漢字音符研究ももっと進展していたに違いない。

謝辞 本稿の作成にあたり、劉家鑫氏の論文「『支那通』後藤朝太郎の中国認識」(『環日本海研究年報』第4号、1997年3月)の第一章「後藤朝太郎その人」を参照・引用させていただきました。感謝いたします。
 また、ブログ「礫川全次<コイシカワ・ゼンジ>のコラムと明言」の
「後藤朝太郎、東急東横線に轢かれ死亡」2016.1.22で、劉氏の論文の第一章「後藤朝太郎その人」の全文を公開しているので、利用させていただきました。御礼を申し上げます。



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漢字音符研究の魁(さきがけ) 後藤朝太郎 (中)

2021年11月07日 | 漢字音
漢字音符研究の魁となった『漢字音の系統』(1909年・明治42)
 前回に紹介した『文字の研究』(1910年)の前年に発行された『漢字音の系統』(六合館 1909年・明治42)の紹介をさせていただく。この本こそ、私が「漢字音符研究の魁」と位置づける本なのである。明治42年に東京の六合館から出版された228ページの本である。(この本は昭和12年(1937)にも出版社を関書院に替えて再版された。)
 
『漢字音の系統』(左は明治42年の初版、右は昭和12年の改訂版)

字音の観察には先ず字形を解剖する
 この本の前半で後藤は漢字音について、次のように書いている。
「字音の観察には、先ず字形を解剖して見るのが徑徢(ケイショウ・近道)である。例えば、今若し
  網の字は何故にモウの音を有するか。
  償の字は何故にショオの音を有するか。
 と云う問いが起これば、先ず此の字を解剖し、網は、望、盲、茫などと同じく亡、即ちモオ(一つにボオ)の音符を有するに依るもので、は、嘗、掌、常、裳、廠などと同類で尚、即ちショオの音符を有して居るからである、と云う点に着目すべきである。又
  奬の字は何故にショオの音を有するか。
  草の字は何故にソオの音を有するか。
 と云うに、は、戕、壯、將などと同じく爿ショオの音符を有するからであって、草の字は早ソウの音符を含んで居るからである。

 と云うように観て来ると大抵の文字は、殆ど其の総てが音符の方面から窺うことが出来ると云っても過言でない。
 下に漢字と、其の音符とを相対照させて、更に多くの適例を挙げてみよう。
  様の音ヨオ‥‥‥‥‥‥‥‥羊
  養の音ヨオ‥‥‥‥‥‥‥‥羊
  勇の音ユウ‥‥‥‥‥‥‥‥用
  の音ヨ‥‥‥‥‥‥‥‥‥
  軋の音アツ‥‥‥‥‥‥‥‥乙
  齒の音シ‥‥‥‥‥‥‥‥‥止
  衷の音チュウ‥‥‥‥‥‥‥中
  築の音チク‥‥‥‥‥‥‥‥竹
  托の音タク‥‥‥‥‥‥‥‥屯
  徒の音ト‥‥‥‥‥‥‥‥‥土
  究の音キュウ‥‥‥‥‥‥‥九
  懇の音コン‥‥‥‥‥‥‥‥艮
  轗の音カン‥‥‥‥‥‥‥‥咸
  錮の音コ‥‥‥‥‥‥‥‥‥古
  簿の音ボ‥‥‥‥‥‥‥‥‥甫
  嫋の音ジョオ‥‥‥‥‥‥‥弱
 音符は大略かくの如くに字面の一部分に含まって居る。

漢字音符に2種類がある
 音符には、羊、竹、土、貝の字の如く、形の方において既に標準となって居ると同時に、又、他方に於いて音の符号としても用いられて居るものがある。
 しかし、其の他の多くは上記の字とは別物である。今、字典類の画引き索引に見える、字形の標準となるものを全部音符として認めると、上記の整った音符よりはるかに多く、両方の字を合計すると実に八百余に達する。此の数は余りにも多すぎる感がするが、しかし、音の立場から字形を解剖し、帰納的に観ると、別々に立つべき音符があまた発見される。

 今ここに或る一群の漢字から、その音符を抽象して立てて見ると、例えば、
  僊、遷、韆、躚‥‥‥‥‥‥‥‥‥セン
 に於いて其のセンの音が出されて居る共通の部分は何処かと云うに、䙴であることがわかる(注:現代の新字体は字形が変化している)。然るに此の字は唯、音の標準としてのみ立てられるだけで、画引き索引の場合には決して立てられない(注:現在の漢字字典では立てられている)。いったい漢字にはセン及びゼンの音を有するものが頗(すこぶ)る多くあるが、しかし其の音符となるものを列挙すると、僅かに次の15個に帰せられる。
  先、占、戔、専、川、扇、韱、廌、羴、䙴、泉‥‥‥‥‥‥‥セン
  前、善、然、全‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ゼン
 かくの如き音符は、上述の如く漢字全体を通じて八百余に達している。

音のみを示す音符と、意味も示す音義両方面を兼ねた音符がある
 音符は一種類の音に於いて、多くは12~13個、少なくとも2~3個の音符が発達しているが、その音符には、純粋に其の字の音のみを示すものがあり、また半ば意義をも示して音義両方面を兼ねたものもある。漢字の大多数は後者に属して、其の根本に音義両方面を兼ねたものが随分ある。例えば、
  杉の字の音サン‥‥‥‥‥‥‥‥彡サン(枝振りの整然たること)
  輻の字の音フク‥‥‥‥‥‥‥‥畐フク(物が豊かに集合すること) 
  忘の字の音ボオ‥‥‥‥‥‥‥‥亡ボオ(物をなくすること)
  酣の字の音カン‥‥‥‥‥‥‥‥甘カン(味うまきこと)
  奸の字の音カン‥‥‥‥‥‥‥‥干カン(おかすこと)
  決の字の音ケツ‥‥‥‥‥‥‥‥夬ケツ(剔(えぐ)り断つこと)
  授の字の音ジュ‥‥‥‥‥‥‥‥受ジュ(うけること)
  暮の字の音ボ(古音マク)‥‥‥莫マク(かくれること)
  鳩の字の音キュウ‥‥‥‥‥‥‥九ク(鳩の鳴き声)
  鶏[鷄]の字の音ケイ‥‥‥‥‥奚ケイ(鷄の鳴き声)
  蛙の字の音ア(古音ガイ)‥‥‥圭ガイ・ケイ(蛙の鳴き声)

 以上の如きは其の好例である。要するに諧声文字(形声文字)が含む音符が単に音を現すことのみを、その役目の全部としているとは云えないのである。以上列挙した類の文字は、これを諧声に会意を兼ねた文字(現在の会意形声文字)と云い、その音符は一面より見れば音符で、他の一面より見れば意義を示して居る。

組み合わせ字も音符となる
 これまで説明した音符は漢字の中に含まれているが、字形全体で音符の役目をはたす単位となるものが少なくない。例えば、辱ジョクの字について見るに、これには何らの音符も認められない。しかし、これが音符の単位となって更に、
  ジョク、ジョク、ジョク、ジュク・ドウ、の如き諧声文字を発達させている。
 同様に、相の字は
  想ソウ、霜ソウ、孀ソウ、廂ショウ、湘ショウ、に通じており、音符の単位として見ることが出来る。

音符の代用
 音符には同音の音符を以って代用とすることがある。これは、代用となる音符の画がむずかしいものの場合に限って多く起こるようである。
  キン   禁と今 ⇒ 襟と衿
  リョオ  量と良 ⇒ 糧と粮
  リュウ  留と㐬 ⇒ 瑠と琉
  サイ   妻と西 ⇒ 棲と栖
  エン   袁と爰 ⇒ 猿と猨

字音の転換
 同じ音符を有している漢字が、同一の音を有していないのは、結局その音符の音が他の音に転じて行くからである。少なくとも其の音符の古音と、今昔の間に音韻上の変遷があったということ。これがその原因の主たるものである。以下にそれらの音符について、その諧声文字を列挙してみよう。

至シの諧声文字
  1.テツ 姪、垤
  2.チツ 窒、銍
  3.チ  致、緻、輊
  4.シツ 室、蛭、桎
  5.シ  鵄
 至の字には単独の時のシの音以外に、テツ、チツ、チ、シツの四通りの音がある。これらの音は実際に於いて、いずれもかつて至の音が取っていた古音の片見として見るべきものである。つまり至の音は最初テツの音からチツ、チ、シツ、シと順次うつり移って、シとなったものである。それ故、垤における至の音テツが、唯(ただ)の時の至の音シに符号していないからと云って、直ちに垤テツが至の音符を有する諧声文字ではないものの如くに思うは誤りである。至の字音については以上のような考え方が必要である。(注:これは貴重な提言であるが、私個人としては判断がつかない。以下の區クも同じ。)

クの諧声文字
  1.ク   嶇、軀、驅、敺
  2.チュ  
  3.スウ  
  4.ウ   
  5.オオ  漚、嘔、甌、歐、鷗、嫗
 區の諧声文字については、その単独の時のクの音が本音であって、それからチュ、スウ(又はス)、ウ、オオにと転じ移っている。それ故、これらの諸音は、區クの音がかつて経過した音と見るべきである。


字音の転換には法則がある
 字音の転換には法則があり、その転換によって色々な音の変化は秩序と統一を得ている。
1. カ行音とラ行音との転換
   各カクの諧声文字   1.カク閣   2.ラク落
   僉センの諧声文字   1.ケン險(険)2.レン斂
   林リンの諧声文字   1.キン禁   2.リン淋
2.タ行音とラ行音との転換
   龍リュウの諧声文字  1.チョオ寵  2.リョオ龍
3.ハ行音とラ行音の転換 
   聿イツの諧声文字   1.ヒツ筆   2.リツ律
   品ヒンの諧声文字   1.ヒン品   2.リン臨
4.マ行音とラ行音の転換
   萬マンの諧声文字   1.マイ邁   2.レイ厲
   里リの諧声文字    1.マイ埋   2.リ理
5.カ行音とマ行音の転換
   黒コクの諧諧声文字  1.コク黒   2.モク黙
   毎マイの諧諧声文字  1.カイ晦   2.マイ毎
   勿モチの諧諧声文字  1.コツ忽   2.モツ物

第二篇 字音系統表
 『漢字音の系統』の後半はP105~229まで125ページに渡って漢字音符が綴音の発音順に配列されている。以下の図は142ページを示している。

 上に綴音を示し、続いてその音符と、音符に所属する音符家族字を列挙している。個々の家族字で発音が音符字と異なるものは、その漢字の右辺にカタカナでルビを振っている。

 最後のページに付記として収録した漢字一覧の統計表がある。それによると、
  綴音220、音符828、収録字数の合計は現行正字5,326、俗字略字624、となっており、収録字数の合計は5,950字となる。
 この字数は後藤がこの本の第一篇「序説」で「我が小学・中学・その他諸学校の教科書・参考書類・衆議院速記録・その外諸種の新聞雑誌類などのうちから残らず漢字を拾い、網羅して見ても先ず5,950字を以って大体の限度としている」と説明しているように、当時の日本人が用いる漢字をほぼ網羅したものと云ってよい。
 これだけ多くの漢字を音符ごとに分類して一覧表にし、しかも前半でそれらの音符についてかなり理論的に解説した本書は、まさに漢字音符研究の魁(さきがけ)と云える。むしろ現在の漢字音符についての理解よりはるか先を行っている感がある。これだけの研究が明治末期になされていたことは驚嘆する。

改訂版の音符数
 なお、後藤朝太郎は昭和12年(1937)に『改訂 漢字音の研究』と題して、関書院から改訂版を発行している。内容はほぼ同じであるが、前書に加え、「漢字活用の指針」「文字研究の一端」を加えている。
 収録漢字は、綴音219、音符830、現行漢字5,186、俗字・略字657、で漢字の総数を5,843字として、最初の版より107字減らして整理している。

 今後の漢字音符研究は、後藤朝太郎が本書や『文字の研究』で提案した課題をいかに解釈し今後に生かしてゆくかが重要な課題となる。


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漢字音符研究の魁(さきがけ)  後藤朝太郎 (上)

2021年11月04日 | 漢字音
後藤朝太郎(1909年)字素数828とは?
 私が後藤朝太郎氏(以下敬称略)の名前を知ったのは最近のことである。ネットで「漢字音符」と入れて検索していたところ、ドイツ出身の日本語学者カイザー・シュテファン氏の漢字の字素数にふれた論文に「著者・後藤朝太郎(1909年)字素数828」とあるのを見つけた。

 この論文の名は「漢字学習書各種アプローチの検討(2)―字素アプローチ:形音義の狭間―」(ネットにPDFあり)という、いささか分かりにくいタイトルだが、内容は「中国では伝統的に部首で配列した字書か、字音で配列した韻書しかなかったが、中国に滞在した宣教師によって漢字の字素という要素が見いだされ、彼らによって研究書が刊行された。字素の数は研究者により違いがあるが、多いもので1689、少ないもので300である」として6名の研究者の字素数の表があり、その最後に「音符である」と注記がついて後藤朝太郎の名が含まれていたのである。音符の数が828というのは、私がこのブログで解説している音符約850字に近い。興味をもった私は「後藤朝太郎」について調べてみることにした。

後藤朝太郎の略歴
 「後藤朝太郎」の略歴は、劉家鑫氏の論文「『支那通』後藤朝太郎の中国認識」(『環日本海研究年報』第4号、1997年3月)の第一章「後藤朝太郎その人」を要約させていただく。まず、生まれから31歳までの歩みを辿ると以下のとおりである。
 後藤朝太郎(ウィキペディアより)
 「後藤朝太郎は1881年(明治14)4月、広島県人で平民の後藤栄次郎の次男として愛媛県に生まれた。五高(現熊本大学)時代、あまり目立つ生徒ではなかったらしい。1903年9月、五高から東京帝国大学文化大学言語学科に入学、同窓に橋本進吉、一年後輩に金田一京助が入学している。在学中にマックス・ミューラーの『言語学』(博文館)を翻訳、出版し、早くも識者間にその存在を知られるようになった。
 1907年(明治40)7月、大学を卒業、膨大な卒業論文「支那音韻K.T.Pの沿革と由来」を提出した。1907年9月、後藤は大学院に進学した。「支那語の音韻組織」というのがその研究テーマである。大学院に入ると、彼は言語学を武器に漢字、漢字音の大海に分け入り、旺盛な執筆活動を続け、大学院在学中の五年間に七冊もの著作を世に問うた。彼が大学院を卒業するのが1912(明治45)年7月、31歳の時であるが、少壮言語学者としての後藤の評価は、この大学院在学中に定まったといえる。こうして後藤は言語学者から出発した。」

他日、大(おおい)に世界の学者を啓発させること疑いなし・・上田萬年 
 以上が劉氏論文「後藤朝太郎その人」の前半の要旨であるが、後藤朝太郎が1909年に出版した『漢字音の系統』に東京帝國大學文科大学長や文学部長を務めた上田萬年が序文を寄せている。
「帝国大学に文学科が出来てから最早や茲(ここ)に三十年にもなり、卒業した学士も数百人になるであろうが、しかし、東洋の学術研究に志し、殊に漢字漢音の研究に一身をゆだねた者は、今迄に幾人あろう。滔々たる幾十の所謂漢学者が、夙(はや)く此に手を着けなかったのは猶更(なおさら)我輩の平素怪しんだ所である。後藤君は我が言語学科出身の学士で、素と漢学の素養ある人ではなかったが、一度此研究の上に趣味を感じてから辛苦励精せられた結果、此二、三年間に着々注目すべき成績を挙げられて居る。これはもとより、旧套を脱し新立脚地から観察された為めだとはいえ、或る点では既に世の漢学者をして、後に瞠着たらしむる所がある。況(ま)して彼の泰西の学者輩が企てても及ぶことの出来ない点が、決して尠(すくな)しではないと思われる。これから推して考えると、他日、大に世界の学者を啓発さするのも我輩の断じて疑わぬ所である。」と彼の将来に嘱望をよせている。

注目される2冊の本
 後藤朝太郎が大学院時代に出版した本で注目されるのは以下の2冊である。
『文字の研究』(昭和17(1942)の改訂版)
『漢字音の系統』六合館(1909年)と、『文字の研究』成美堂 (1910年)で、いずれも国立国会図書館のデジタルコレクションで閲覧できる。出版年は逆になるが、『文字の研究』は、後藤が学生時代から大学院を通じて書いた主要な論文がほとんど収録された1467ページに及ぶ大著である。彼の卒業論文も収録されている。この本は、よほど評判が良かったらしくのちに昭和10年と17年の2回、出版社を変えて再版されている。この本のなかに彼の漢字音に対する考え方が表れているので、『漢字音の系統』と重複する部分を除いて、まずこの本から後藤のエッセンスを紹介してみよう。

後藤の漢字音に対する考え方
 『文字の研究』(1910年)は内容が多岐に渡るが、漢字音に関して述べている基本的なことは以下に要約できる。
 「支那の文字は、その特色として、形と音と意義の三要素が備わっている。漢字は日本の仮名やヨーロッパのletter(a,b,c)の如き表音的符牒のみだけでなく意義の要素も加わったものであり、文字の資格を完全に具備している。強いて同類を西洋に求むるならば英語のcharacter(文字。表意文字)が最も近い。それ故、支那の漢字は西洋のa,b,cで綴られた単語の文字(character)と較べるべきものである。この綴られた文字(character)が、それぞれの意味を有することは、漢字が偏旁から成る組み合わせで成り立って意味を持つのと変わりない。
 しかし、両者はその文字としての趣きから云えば少なからずの相違、否、反対の性質がある。すなわち西洋文字は一目でその音の方は分かりやすいが、意義の方は表面的には分かっていない。これに反し漢字は西洋文字のように音は見えていないが意義の方は大抵わかり易く仕組まれている。少なくとも原意を汲むだけの手がかりは形の上に残っている。」

英語の綴り文字(character)と漢字の比較
 ここまで読んで、以前の私だったら英語の綴り文字(character)と漢字の比較はピンとこなかったかもしれない。しかし、近年、英単語の語源の本がブームになっており、私もこれらの本を読んで英単語の構造が始めて理解できたからである。『英単語の語源図鑑』かんき出版(2018)によると、
例えば、structは、積む意であり、
 con(共に)がつくとconstruct(建設)
 de(離れる)が付くと、destructive(破壊的な)
 ure(名詞化)が付くと、structure(構造物)と言った具合である。
これを漢字の、音符「シン」に例えてみると、
 (人偏)がつくとシン・のびる、
 (示偏)がつくとシン・かみ、
 かんむりがつくとデン・いなずま、と言った具合になる。

後藤は、ここから漢字音の特徴を指摘している。
 「音韻上、支那の文字はすべて一種の『綴音字(2つ以上の音が結合した音)なり』と云い得ないでもない」。つまり、英語の綴り文字(character)の音と同じく、漢字の音は一種の綴音字だというのである。この指摘により、日本の漢字音に、キャ・キョウ・ジュン・ミョウ・ゲン・コンなど奇妙な音がある理由が明らかになる。これらの音は、中国で漢字一字が表す意味(character)を反映した音だったのである。

説文より入りて設文を超脱すべし
 後藤はまた「説文解字」の重要さを説くとともに、それを超えるべきだとする。「文字研究の方法は、まず説文(説文解字)から入って行くべきことは言うまでもない。後漢に出来た説文の文字学入門としての価値は支那の書籍中この右に出るものはない。しかし、説文の9353字の説明を、すべて丸呑みしそのまま信仰することは考えものである。後漢は周代を去ること一千年の時代をへだて、しかも文字はすでに周初以前にかなり発達していた。著者の許慎は千年以上前の漢字の意義と構造について説明を加えたのである。
 多くの漢字を意符と音符に分け、「〇に従い〇の聲」としているが、その説明にも疑問のある文字が多い。また、それは文字だけの話であって、当時どんな発音であったかは分からない。これは後に作られた「韻書」(7世紀~)も同じである。韻書は作詞のとき、句末に同じ韻の文字を置くことから、作詞の便のため同じ韻を集めた書物であるが、発音は漢字二文字で表される半切という方法による。しかし、半切に用いる漢字は当時、実際にどんな発音をしていたのか分からないのである。その後に現れた「韻鏡」とよばれるさらに精密な発音図表(韻図。8世紀ごろ)も、発音の種類を表すのに漢字を用いているが、その漢字が実際にどんな発音だったか分からない。」

実際の言語上の音は、常に変化する
 「実際の言語上の音は、時と所を異にするのに従って常に変化するから、容易に真の発音を得ることは難しい。半切法が音韻研究法上から見ると左程の価値を有していないことになる。つまり半切の基本となる文字の音がいつも時と所を変えるに従って転々と移り動いて行くからである。
 当時の実際の発音を把握するためには、同じ時代に漢字を使って表現した外国の発音と比較する必要がある。例えば、梵語の仏典を翻訳した漢字は、当時の梵語の発音が分かるため、それに用いた漢字の発音も類推できるのである。また、支那の各方言とくに南の各地方の方言を観察することは頗(すこぶ)る必要である。このような意味で、安南(ベトナム)や朝鮮、そして日本の各時代の漢字音も参考になるのである。
 文字研究の方法は既にここまで進んで来た。この際、この漢字研究の荒野は鋭意以って開拓せられなければならぬ。」として、説文解字を超越して漢字研究の荒野を開拓すべきと意気込んでいる。

同じころスエーデンの二十歳の若者が中国で方言調査をしていた。
 若きカールグレン
https://alchetron.com/Bernhard-Karlgren
 実は後藤朝太郎が『文字の研究』を出版した1910年、言語学を学んだスエーデンの二十歳の若者が、奨学金をもらって中国大陸にわたり、24か所で方言の調査をしていた。名前はカールグレン(Bernhard Karlgren)。中国人と同じ服装で召し使いと馬だけをともない、中国北方の各地の方言を求めながら旅した。1912年にヨーロッパにもどった彼は、1915年に『中国音韻学研究』を著した。この本は半切法による音韻体系の基礎のうえに、方言による実際の音を加味して音韻体系の復元を図った画期的なものだった(大島正二『中国語の歴史』の「カールグレンの業績」より)。
 後藤朝太郎は、中国音韻史がこれから花開こうとする時期に漢字学の世界に入っていこうとしたのである。当時、後藤朝太郎が持っていた中国の古代漢字音に対する認識は、彼個人だけでなく当時の中国や西欧の研究者たちの共通する見方であった。後藤が活躍した時代は、中国古代漢字音の研究がまさに進展しようとする時代だったのである。

 次回は、「漢字音符研究の魁(さきがけ) 後藤朝太郎 (中)」として、彼の代表作『漢字音の系統』(明治42)を紹介します。

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日本漢字の綴音一覧表

2021年10月13日 | 漢字音
 私は今年(2021)6月28日のブログで、「漢字音の五十音図表」と題して、漢字の発音を中心に表す五十音図表を作成して公開した。この表は、基本的な五十音表に「濁音」「拗音」を追加して、一つにまとめた以下のような表です。

 特に、拗音ヨウオンをイ段の横に組み込んだのが、特徴といえる。拗音とは、い段の発音で語頭音のうしろにヤ・ユ・ヨがつづくとき、母音のい(i)が略されて発音され、表記が小さな「ゃ・ゅ・ょ」になることで、例をあげると、「き[ki]+や[ya]=きゃ[kya]」となる現象である。もともと、拗音は漢字の伝来とともに、その発音を表現するために生み出された音であり、漢字音と切り離すことができない。

日本の漢字音は、五十音表が基本となって構成される
 さて、日本の漢字音は、この五十音表が基本となって構成されている。例えば、この表の一字だけでも漢字音となる例として、清音のア(阿)やカ(可)、濁音のガ(我)、ザ(座)、拗音のジャ(蛇)、ニョ(如)のようなもあるが、この表のすべてが漢字音となるわけではない。例えば、清音のヘ、濁音のゾ、拗音のキュなどは漢字音とならない。また、パ行もすべての音が漢字音になっていない。(日本では「北京ペキン」と発音するが、現在の漢字字典で、ペは採用されていないので省いた)
 そして、圧倒的な漢字音は、この表の発音が結合して形声される。この結合した漢字音を綴音テツオンと言っている。(綴音は綴りの音と書く。綴りとは「つなぎあわせる」という意味であり、綴音とは基本となる最小単位の音がつなぎあわさり、一つのまとまった音になったもの、という意味である。綴音は漢字の最小単位の発音であり、これ以上分解することはできない。だから耳で聴くとき一つの音として聞こえるのである。(なお、五十音表のなかで漢字音となるものも綴音に含める)

日本漢字の綴音一覧表
 では現代日本の漢字綴音はいったい何種類あるのだろうか。この作業をするためには、漢字辞典の音訓索引から音の部分を抜き出してゆけばよい。しかし、音訓索引は音と訓が混じっているから作業しにくい。何かよい方法がないかと思案していたところ、『字通』の音訓索引は音と訓に分かれていることに思い至った。いつもは引きにくい字典だが、こんな時に役に立つとは思わなかった。
 作業は一日で済んだ。表にしてから通常の音訓索引のある漢字字典で最終確認した。出来上がったのが下記の表である。綴音のカタカナの後ろの ( ) に、その発音の漢字を入れていて分りやすくした。
 以下がその表である。上記の五十音表の配列に沿って綴音をならべている。


日本漢字の綴音は323音
 一覧表を見ていただくと分かるように、日本漢字の綴音は323音となった。これは多いといえば多いが、普通の漢字辞典に収録されている約1万字の発音が320余の綴音でまかなわれていると考えると少ない気もする。特に、カンやコウの字は多すぎるほどある。しかし、これは音の配分が偏っているせいでもある。
 ところで中国の漢字を表す綴音は、いくつあるのだろうか。現代中国の字書の発音はアルファベットを用いたピンインで表されている。約13,000字を収録する『中日辞典』(小学館)には、巻末に「中国語音節表」が付いており、声母(頭につく子音。タテ軸)と韻母(残りの母音を含む部分。ヨコ軸)に分けて、その交差点に音節(=綴音)が記入してある。その音節(=綴音)を数えると合計412音であった。日本よりかなり多い。
 しかし、中国の場合、この発音に声調といって4種類の上がり下がりの調子がある。すべての音節に4種類の声調があるわけではないが、3種類としても412×3=1,236であり、中国語の発音は日本より複雑だといえる。

日本漢字の綴音尾について
 日本漢字の綴音は最初に挙げた「漢字音の五十音図表」の中の、一音ないし二音が組み合わさって成立している。そして、上表の「日本漢字の綴音一覧表」は、いわば綴音の五十音順の表であり、先頭にくる音の順である。
 中国の漢字の発音は、声母(頭につく子音)と韻母(残りの母音を含む部分)に分けられることを紹介したが、日本漢字で二つに分けてみたらどうなるかを試したのが第2表である。


 
全体が入らないので縮小版も掲載しました。


日本漢字音の音尾は、7音と3つの拗音だけ
最初の単音は、字の頭でもあり尾でもあるので、独立した存在である。次の綴音の音尾が、漢字音の最後の音になる。これを見ると、漢字音の音尾が、イ・ウ・キ・ク・チ・ツ・ンのわずか7音と、3つの拗音(ャ・ュ・ョ)だけだったのは意外であった。この表は思いついて作ってみたので、結果が何を意味するのか、まだ分からない。
 今後は、①音尾が、イとウの母音で終わるもの。②音尾が、キ・ク・チ・ツで終わるものの起源。③音尾のンの存在に、注目して調査してみたい。(石沢誠司)







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漢字音の五十音図表

2021年06月28日 | 漢字音
 このブログでは、取り上げた音符字とその音符家族字の発音を「音の変化」と題してそれぞれの代表音をまとめて掲載している。表記はカタカナでおこなっているので、その一覧表を漢字音の五十音図としてまとめてみた。

 上の表が日本漢字の五十音図である。すべてカタカナ表記とし、拗音ヨウオン(い段の発音で語頭音のうしろにヤ・ユ・ヨがつづくとき、母音のい(i)が略されて発音され、表記が小さな「ゃ・ゅ・ょ」になること。例:き[ki]+や[ya]=きゃ[kya]。)は、い段の横に記載した。

音符「京キョウ」の場合
 実際の音符で説明させていただくと、例えば「京キョウ・ケイ・キン」の代表音の変化は、以下のようになっている。 音符「京キョウ」
音の変化  キョウ:京  ケイ:勍  ゲイ:鯨・黥  リャク:掠  リョウ:涼・椋・諒

 この変化を五十音図表で説明してみたい。まず、音符「京」は、キョウ・ケイ・キンの三つの発音があるが、キョウは漢音、ケイは呉音、キンは唐音で、いずれも語頭音のキョ・ケ・キの発音は「か行」内の変化におさまっている。
 次に代表音の分布は、語頭音が「か(が)行」内にあるものが、キョウ(キョ)・ケイ(ケ)・ゲイ(ゲ)で、残るリャク(リャ)・リョウ(リョ)は、語頭音が「ら行い段」に属している。つまり、音符「京」の発音は、一見ランダムにみるが、「か(が)行」と「い段」を交差させたT字路の中に収まっている。

音符「竜リュウ」の場合
 もうひとつ、音符「竜[龍]」をとりあげてみると、竜はリュウ・リョウの発音があり、リュウは呉音、リョウは漢音で、語頭音のリュ・リョは「ら行」内の変化に収まっている。 音符「竜」
 音符「竜リュウ」の代表音の変化は以下のとおり。
音の変化  リュウ:竜  シュウ:襲  チョウ:寵  ロウ:滝・籠・聾・朧・壟・隴

 このうち、リュウ・ロウは、語頭音(リュ・ロ)が、「ら行」内の変化で、残りの、シュウ・チョウは、語頭音がシュ・チョで、シュは「さ行い段」に、チョは「た行い段」にあり、いずれも「い段」にあることが共通している。
 音符「竜リュウ」の全体でみると、語頭音は、①「ら行」内変化。②「い段」内変化です。そして、リュウの語頭音「リュ」は「い段」ですので、全体が、「ら行」と「い段」を交差する⊥字形の中に収まっている。

「五十音図」の分布で何が分かるか
 このように音符の分布を「五十音図」に当てはめてみると、同じ行内の変化、または同じ段内の変化に収まるものが多く、さらに広がっても、同行と同段の交差する発音を介在して十字型に範囲が限られることが分かります。
 もし、これ以外の広がりがみられる音符字は、その中に会意文字を含むか、文字の形成過程でほかの字の影響を受けて変化したことが考えられます。音符の家族字すべてを「五十音図」に当てはめることによって、音符字全体の成り立ちを考察する手がかりになると考えられます。



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