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地球散歩♪

いもとなおこのBLOG

モザンビークの楽園編。

プチ里親になりましたー

2006年05月30日 | rwanda
ルワンダを出るときに
8ヶ月住んだ間に溜まった家のガラクタを品物にして
チャリティ・オークションをした

大したものはなかったけど
これから独りだちする隊員さんたちと事務所の日本人スタッフが全部買ってくれた

ムラコーゼ。

貢献してくださった皆様に
どうやって使ったかを発表しまーす

売り上げ金に
友人じゅんちゃんが残していってくれたお金
あとちょっと自分で足して 全部で500ドル


やっぱり虐殺の孤児を支援したいと思いました

あんな残虐な(という言葉でも片付けられない)殺戮を生き延びて
ただでさえトラウマに苦しんでいるのに
両親が殺されたり お父さんがいなかったり
学校にも行けなくて
この先真っ暗な 何の罪もない子どもたち

誰かが手を差し伸べてあげないとね

信頼できる目ぼしい団体も知らなかったので
お友達でツチの生存者の子のお母さんが
生存者コミュニティの中ではちょっとしたリーダー格の人だったから
その人に頼んで孤児を集めてもらいました

正確には 片親の子が8人と
孤児が1人
年齢はまちまち
虐殺の間に生まれたという12歳の子どももいる

同じ金額でも
生活費でぱーっと消えてしまうのはちょっと物悲しいから
開発用語でいうと"sustainable"(持続可能な)
"productive"(建設的な)な使い方をしてもらいたいと思って
学費に使ってもらいたいと託しました

でも9人の学費で割ったら
たった1学期分くらいにしかならないのですね。。。

だから がんばって成績優秀だったら
続けて支援してあげると言い残してきました


それからもうひとつの使い道

そのうちの一人の孤児は
虐殺のときに両親を亡くして
おばさんと一緒に住んでる
でもそのおばさんはトラウマに苦しんでいて 職がない
だから近所の人たちが家賃を肩代わりしてあげてるという

だからこのおばちゃんがもう誰かのお世話にならなくてもいいように
自分のビジネスを立ち上げる軍資金(初期投資)をしてあげることにしました

何の仕事ならできるのか?

聞いてみたら「炭を売りたい」って

炭。。。 生活には必要ですもんね

あとちょっと 野菜とか 果物とかも売るって
ビジネスの方法は(お金の計算の仕方とか 価格の設定とか)
周りのおばちゃんたちに指導してもらうということで
テーブルと炭を買うことに


そのおばちゃんはすっごく喜んで
ソファーの上でも興奮がとまらず
飛び跳ねていました

うまくいくかなぁ。。。


子どもたちのお母さんも
泣き出しそうになってたけど
子どもたちは。。。

ムズング(外国人)の側によったことがないらしく 怯えていました

アタシ 怖くないのにさ!
人間不信になってるのかなぁ
まぁ こういう子どもはたまにいますが。。。


いつかは明るく笑ってて欲しい


これからも お友達が 
ちょくちょく様子を教えてくれることになっています

何の団体も通さないで
ちょっと冒険ですが
私のプチ・プロジェクト
果たしてうまくいくかな?

自分が携わってきたプロジェクトは
「投入」の段階にもよるけど
なかなか最後の裨益者のところまできちんと追えないこともあるから
すごいお金を投入しても
明確な「裨益」の実感が湧かないことが往々にしてある

このお金があの9人の子たちにどういう結果をもたらすか
しっかりモニタリングしていきたいと思います


とエラそうに言うものの
たった500ドルじゃ大したことできないですけどね

プレゼント☆

2006年05月11日 | rwanda
ガーナにいるときもそうでしたが
お別れのギフトはいつも民族衣装です

これはとってもスイートなのですが
「果たしていつ着るのかな・・・」という疑問が残ります

今回もらったものをご紹介

事務所の秘書からコレ↓


・・・パジャマ

そして事務所のドライバーからコレ↓



・・・。

マタニティ・ドレス???

これはアフリカのボボっていうドレスで
決してルワンダの民族衣装ではないんだけど
裕福なところの奥さん、大統領夫人とかもよくこういうの着てます

私もまたアフリカに着たら(来るのか?!)
結婚式とかで着ようっと

思い出に大切に大切に持ってかえります

JCC

2006年05月10日 | rwanda
これからJoint Coordination Committeeというのがあります

除隊兵士の技能訓練のプロジェクトの関係者を集めて
今までの進捗や 課題や 今後の活動計画について話し合います

1月から始まったこのプロジェクトでは
カウンターパートが留学のために3人いなくなって
ひとりで何もかもやらないといけなくて
泣かされたこともあったけど
これから体制を立て直して
きちんと運営されていくために
今日ははりきってやります

はぁ~ やっとスタートラインに立ってるって感じ


そして私のこのプロジェクトのお仕事もおしまい

除隊兵士たちに怒られながら
たくさん学びました

ありがとう ムラコーゼ チャーネ

また会えるからね

2006年05月07日 | rwanda
同僚が休暇に入ってしまいました


私は1週間後にここを離れるため
もうルワンダで会うことはない

この8ヶ月間ずっと二人でやってきて
事務所立ち上げて
何でもかんでも 暗闇の中を彷徨っているみたいにわけがわからない中
二人でブツブツいいながら走り回ってきた
「戦友」って感じ

彼女がいなかったらやってこれませんでした

もう二人で ここキガリで お昼行ってまったりしたり
何本もビールあけたりすることもないんだなぁと思うと
すごーーーーーく淋しくなっちゃって
自然に涙が。。。


でもあるルワンダ人の前で泣いてたら
驚いて こう言われました

「そんな悲しみは僕にとっては全然意味がない

だって二人はまだ生きているんだから
いつか会えるじゃないか

僕なんて何人の友達や親戚が虐殺で殺されたか・・・

友達も 叔父も 叔母も 従兄弟も・・・」


彼は本当に辛そうにそう言うのです


そうだった
この国の人たちは そんな過去を抱えた人たちばっかりだったんだ

私たちは死ぬわけじゃない
一生のお別れじゃないものね

生きているから また会える

そう思ったら すーっと軽くなった

涙も(あんまり)出なくなった



でもホント ありがとうございました
二人でいたときが 一番の思い出

Stay in touch & all the best

ウムガンダに挑戦!

2006年05月06日 | rwanda
キガリの町を初めて訪れた人は決まって
その美しさに驚く

ゴミが落ちていないのです

他のアフリカ諸国は それはもうビニール袋やら紙くずやらでゴミゴミ状態なのですが
ここキガリは アスファルトも 緑も シンプルにそれだけで
ゴミに気分を害されることがないのです


なぜ?

まず この国では環境配慮のために
ビニール袋の使用が禁止されているから

素晴らしいでしょ? 途上国なのに 

スーパーに行くときも自分の籠をもっていかないと
紙袋を買わされる羽目になります


もうひとつ 街が綺麗な理由は ウムガンダ

毎月最後の土曜に行われる
全国民によるコミュニティ奉仕の日のこと

町内会がオーガナイズして
みんなでゴミを拾ったり 草を刈ったり 道路を修理したり
コミュニティにいいことをするのです 

これはやっぱり 大虐殺でバラバラになったコミュニティを
和解させようという試みを含まれているのかな

ルワンダ人はみんなちゃんと参加するのです
サボる人も中にはいるけど
最近は罰金制になってきたらしい
昔は罰金じゃなくてもみんなやってるから
やっぱりこの国は恐ろしい
決められたことはぜったいにやるのです
独裁っぽくて嫌だと批判する外国人もいます


そこで 念願の ウムガンダに参加してみました。

最後だからね
どんなものか見ておこうと思って

ウムガンダを組織するお母さんを持つお友達の
町内会で参加してみました


そこに着くと 10人くらいの若者が
2つの鍬を代わりばんこに使って草を刈ってて
周りの人はだらだらだべってました

他の人も 道端で突っ立ってて ぜんぜん仕事してません。


さて私は 何をやればいいのですか?

「はい」と大きなシャベルを渡されました

そして塀と家の隙間にあったぼうぼうの草を刈ってるところに連れて行かれて
「やれ」

やってみました
けっこうしんどい

「ムズングがウムガンダをやっている!!!」
たちまち人だかりができました
「テレビカメラを呼べ」まで言われました
いらん いらん 騒ぎすぎ

しかし やれと言われたからやったのだけど
・・・なんのために?と聞いても 返事なし。

そして中途半端に草をどけて おしまい。次の場所へ移動。

???? まだ終わってないんですけど?!

あんまどーでもいいらしい


次の場所へぞろぞろと歩いていった

どうやら毎回のウムガンダで
目的はさほど決まっていないらしい
計画性なく リーダーが決めたことをみんなでダラダラとやるらしい

歩いていくと そこには雨でぐちゃぐちゃになった道路がありました

そこに土レンガを運んで 上に乗せていくらしい ふむふむ
これから平らにするのかな?


数人が道路際の草を刈り始めました

道路を広くするのかな???


すると刈った後の草を
誰かがさっき乗せた土レンガの上に乗せていきました
それはまたたく間に
てんこもりになりました

????? ここ道路なんですけど?!

これからどうなるのか見守っていたら

意外にも ほったらかし。

えええーーーー?

そして誰かが言い出しました

「これはあまり意味がない」


そりゃ そうだろう?!?! 早く気づいてよっ!

しかしその人だけが草をどけ出して
周りの人はみんなぼーっと突っ立ってるだけ

そんな馬鹿な・・・


そんなことをダラダラとして
2時間くらい立ってしまいました

ウムガンダっていいことしてるんだと思ったけど
こんなに無駄なことをするときもあるのでした(ていうかいつもそうなのかもしれない)

国民総出でやるのに 

なんてもったいない

みんなでもっと計画練って
あそこの道路を直そうとか 綺麗な公園を作ろうとか
いろいろできることいっぱいあるのにね

ちょっとがっかり

でもルワンダらしいや

友遠方より来る

2006年05月02日 | rwanda
高校の同級生が「ホンマに来てもうた~」といいながら
遥々ルワンダに遊びにきてくれました

ほんとに遥々

彼女がいちいち驚くことが新鮮で
私も最初はそう思ってたなぁと思いながら
いつの間にかいろんなことが当たり前で
「アフリカ化」している自分に気づく

たとえば頭の上にモノを乗せる人たち
すんごい重い おっきいモノも乗せてる
オリンピック競技になったらけっこういい線いくんじゃないかというくらい
恐るべしバランス感覚
そのせいで彼らの背筋はぴんと伸びている

彼らにしてみれば 重たいものを手でかつぐより
頭に乗せることの方が自然で
それこそ「ていうか何で手で持ってんの?」と言われそうなもんだ


たとえば ルワンダにものすごい人がいること
「なんで夜にこんな人おんねん!家帰りーやー」とブツブツいう友達

人口密度が世界有数と言われるこの国では
行くところ行くところ 常に道路に人がうじゃうじゃいる
どんな農村でも 人がいない風景というのがない
その人たちがみんな外に出て
仲間と話してたり
ぼーっと立ってたり
たまに真夜中なのになぜか走ってたり

「しかしめっちゃ多いわ ヒト」と友達
「だって家は電気ないからさ 暇なんだよ だから子どももいっぱいできちゃうというわけよ」と私


たとえば 私たち外国人を見たら じーーーーーっと見つめずにいられない人々
私は今では天皇陛下みたいか どこかのセレブみたいに 
すぐに手を振ってしまう

たとえば 道路を横断するヤギや牛
歩行者は優先しないけど ヤギは優先する


たとえば その貧しさ

土壁の家 ボロボロの服を着た裸足の子どもたち
そういえば 最初は なんて貧しいんだろう
なんでこんなに世界は不公平なんだろうって思った
いつの間にかそんなことも全然考えなくなってて
逆に この間日本に帰ったときはその発展ぶりに唖然としてしまった


そして 使用人の扱い
うちには門番と
掃除・洗濯をしてくれるハウスボーイがいて
仕事で帰りは遅いし 洗濯機もないから いつも甘えてお願いしている
友達は慣れなくて 自分で洗濯していた

私も初めてアフリカに来た頃
日本人の家にメイドさんがいて
「なんで主婦のくせにメイドを雇うのだ?!」と不満に感じた

でも門番は必要だし 
ハウスボーイは この失業率の高いルワンダで
就職口を一個増やしてあげる慈善事業みたいなものだと思って雇った

でもいつからか 私の態度は明らかに「使用人」に対するそれに変わっていった
日本だと 万人が同じレベルで 階層なんて殆どないし
清掃婦のおばちゃんだって もっと言えば乞食だって みんな平等

今では 「仕事をしてもらうのは当たり前
だってお金を払ってるんだもの」と受け入れるだけじゃなくて
いつの間にか このろくすっぽ教育を受けてなくて 
英語もフランス語もできないで
一日中ぼーっとして
私に解雇されたら路頭に迷ってしまう人たちより
自分の方があきらかに崇高な人間だと思っている

もっと怖いのは 彼らに対して
「ありがとう」という感謝の言葉が出てこなくなってしまっていることだ


そんないろんなことを気づかせてくれた友達が
こそっと隠していったお手紙を昨晩発見した
(あまり自分で掃除しないから 危うくいつまでも見逃すところだった)

アフリカを見たいと思ってくれる日本人がすごく少ない中
大切な友達が 遥々来てくれたこと
来てよかったと言ってくれたことが すごく嬉しい
普段 私に対してなんか厳しいけど(笑)
自分を認めてくれてるみたいで嬉しかったです

遥々ルワンダまで来てくれた彼女に私はぜんぜんお金を出させなかったけど
彼女はいろいろ感謝して
壱万円を残していってくれた

日本に帰ってから返そうと思ったけど
なんかそれもかっこ悪いから
大虐殺の孤児の奨学金として寄付することにしたよ じゅんちゃん

ルワンダ・ゴリラ

2006年04月30日 | rwanda
日本ではあんまり知られていないけど
ルワンダと言えば マウンテン・ゴリラ

どおぉぉぉしても見たかったわけではないけど
しかもめっちゃ見学・案内料高いし(ルワンダ在住外国人200ドル、旅行者375ドル
ルワンダにいる限りやっぱ見とかなあかんやろ
っちゅーことで行ってきましたぁー


ゴリラはキガリから2時間ほどの
ルヘンゲリというルワンダの西の方の山脈にいます
山に辿り着くまでの道がすごいのなんのって
岩でゴツゴツしてるし
雨季で道はぐちゃぐちゃだし
「そこまでして見たくないねんけど
と思うこと1時間半

近くまでいってあとは徒歩
私たちと一緒にいた南ア人カップルは
いかにも「登山慣れしてます」という感じで
登山ブーツに スティックに 軍手に

それに比べて私たちは
「ジーンズ汚れたら嫌やし」とジャージにスニーカー

あんた、どう見ても 近所のおっさんやんか!
という出で立ち

雨でぐちゃぐちゃの泥んこ道
竹やぶジャングルの中を黙々と歩きました


途中に「ゴリラのごはん」(ゴリラは草食動物なのね)だという
めっちゃとげとげの葉っぱが手に触れて
めっちゃ痛い。
っていうか痺れてるし!!!

っていうか ここまでしてゴリラ見たくないねんけど!

まだかいなー はよ出てこいやー
とブツブツ言いながら40分
この40分というのはなかなかラッキーらしい
3時間歩いた人もいるらしい
(5分で遭遇できた人もいる)

い、いたーーーーー



私たちが見たグループは
シルバーバックという背中が銀色のオスゴリラ(写真)率いる14匹のグループで
それはそれは むっちゃようけ葉っぱ食うてました
そんなに食べたらさぞ便通はいいだろうっていうくらい食べていました
(そういえば道端で見たウンチは抹茶ようかんのような緑色だった)

人間に慣れているらしく
5mくらいの至近距離で
ちょっと興奮して写真をとっている私たちに見つめられながらも
むしゃむしゃ葉っぱを食べることを止めませんでした

シルバーバックはあんまり大きくはなかったけど
でも200kgはあるらしい

ていうか 手がでかい!


そのうちすごく晴れてきて
他のゴリラが7匹くらい出てきて
子ゴリラとたわむれたり
寝転んだり
ノミとりしたり
足の裏かいたり
本当に気持ちよさそうにひなたぼっこしていました




私たちがじーっと見てても
「何がそんな珍しいねん」という風で
ほんとに無防備に仰向けに寝そべっていました


ちょっとくつろぎすぎとちゃいますか

そんな彼らを見て 
「やっぱり進化論は本当だ 私たちは大昔はマウンテン・ゴリラだったのだ」と思わざるを得ませんでした
だってこういう人間 いくらでもいるよ

そして本当に 彼らの気持ちがわかるようなな気がしたのです
心がどこかでつながっている気がしたのです


そして本当に幸せそうな彼らを見ていると
人生で本当に必要なのは家族だ

という哲学的な気持ちになったり

仕事なんてどうだっていい

彼らの仲間になりたい

などとも思ってしまいました


そしてもう帰ろうか と思ったそのとき
ある1匹のオスとメスの間で
ガイドさんも「めずらしい」というmaking loveが始まってしまったのです

まじで!
公衆の面前で!

っていうか めっちゃ腰動いてるですんけど!

い いけない
ついお下品に・・・

そして私たちの目線を釘付けにして
それはほんの30秒くらいで終わりました
っていうか 早いんちゃうん アイツ!

そしてそのあと メスの方が「めっちゃ痛い」と言っていたかどうかは定かではないのだけど
とにかくあそこをずっと見てまして
となりでオスがしゅーんとなってて
「っていうかごめんやし」と思っているのか
「ごめん・・・ちょっと早かった・・・」と思ってるのか
とにかく明らかに反省している様子


そしてメスは「もう嫌やわ」とどこかへスタスタ行ってしまいました

としか思えない光景でした


いやー さすがゴリラ 他人事 いやゴリラ事?とは思えない

そんなに見たいわけじゃなかったけど
まあ ええもん見させてもらいました
っちゅー感じでした
え 最後のじゃないよ

ちなみに私のカメラはあまりに興奮しすぎて
例の場面のときに壊れました
私のカメラは私に似て純情すぎて
ついていけなかったみたい

Japan is fragile, Australia is for real

2006年04月16日 | rwanda
今日のルワンダの新聞 NEW TIMES(約50円 隔日発売)のスポーツ面の表紙

そう 我らの中田くんです

WORLD CUP PREVIEWだそうです


この記事によると

JAPAN IS FRAGILE …BUT CAN DAZZLE IN ANY GIVEN MATCH


まあ脆いけど やるときゃやるよ みたいな
・・・よくわかりません

でも記事の内容は 中田、中村、そして大黒の3人を紹介

この記者、ちょっと渋いっす


そしてワールドカップのスタメン予想まで
ルワンダの新聞に ある意味心を躍らされました

それによると。。。
GK 川口
DF 中澤、宮本、加地、アレックス
MF 中田、中村、小笠原、小野
FW 高原、大黒

ですってよ!!!

ほんまかいな!

どこから手に入れた情報か知りませんが
きっと日本の誰かに聞いたのでしょう・・・

久保が入ってないな・・・


そして 日本をなんとなーく褒めといて

その裏面には 
Australia is for real  ・・・

(オーストラリアは本物だ)

何ですか、ソレは!!!

もう買いませんっ っと言いたいところですが
これが唯一の英語の新聞なのでそういうわけにいきません


ところでワールドカップのチケットの入手法を知っている人は教えて下さい
私ではなくて 知り合いが行きたがっているので

ジェノサイド週間

2006年04月15日 | rwanda
4月7日の記念日を出張によって逃してしまったぁぁぁと思っていたら

何のことはない

1週間は「記念週間」で

ダラダラと「喪」に服していました


その間 ギソジ記念館ではほぼ毎日何らかのセレモニーが開かれていたし
テレビ、新聞はジェノサイドのことばかり

そして驚くべきことに
スポーツ禁止
ジムもプールもゴルフ場も閉鎖
ラジオはジェノサイドに関する歌以外禁止
レストランも音楽なし


ルワンダは独裁である

どうも押し付けられている気がして仕方ない

自由や個性がない感じ

日本以上に 右向け右で
自分勝手は許されないの


せっかくなので友人に連れられ
ギソジ記念館の式典に参列してみました

誰でもウェルカムなので
政府要人から孤児から未亡人も沢山来ていました

何人かが「94年のあの日にこーなってこーなって生き延びた」
みたいな話をしていた
と思う

実際 キニヤルワンダ語で何を言っているかさっぱりわからず
2列目に座らされたにも関わらず
得意の居眠りをしてしまいました

でもルワンダ人も結構寝ていました


でも居眠りしていても
現実は辛い日々なのよね

孤児8人兄弟で 両親が殺され
一番上の18歳の子が 下の7人の面倒を見なくてはいけない子の話が新聞に載っていました
当然学校もあきらめ
仕事もバナナ売り 大した収入のわけがない
その下の兄弟たちは 物乞いをしたり

それでも物乞いには私はお金をあげない
たった20円もあげない
だってその子達がずっとそこにいてもいいと認めてしまうことになるもの

でもそこに立たなければ
他に食べていく術はないのよね

結局 何もしてあげられていないのかと思う毎日
もう8ヶ月が過ぎてしまいますー

さて、結果は。。。

2006年04月14日 | rwanda

上海での短水路世界選手権に出た うちの選手

エイマブル 50Free 30.77
パメラ   50Breast 44.95

なんと出場選手中 ビリッけつ でした

でも頑張った・・・

エイマブルは3秒くらい自己ベスト

パメラはよくわからない

パメラのお母さんにタイムを伝えたところ

「25m?50m?」

いやー 25mのわけないっしょ

「あら めちゃめちゃ頑張ったじゃないの!!!」


お母さん これでも水泳連盟副会長・・・


でも 二人とも勉強になったと思う
パメラの種目には世界記録保持者(エドミストン、豪)も出ていた
50mで15秒くらい違うのだけど
ちゃんとその目で泳ぎを見てくれてたらいいな


私は忙しさにかまけて
全然練習を見られてあげてなかったから反省

頑張ったけど やっぱビリは悔しい

ごめんよぉ


次に期待しよ

私ももういなくなっちゃうけどさ