ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

内戦による心の傷痕を乗り越えて……アドリア海紀行(4)

2015年11月26日 | 西欧旅行…アドリア海紀行

10月25日 

< 冬時間へ切り替える >

 今日は10月の最終日曜日。ヨーロッパ中が、午前0時をもって、サマータイムを冬時間に変える日。旅行中にこういう日に出会うのも珍しい。

 日本との時差は、7時間から8時間に。時計は、どうしたら良いのでしょう? 1時間進める? 1時間遅らせる?

 考えると、頭がこんがらがる。

 正解は、遅らせる!! これで、昨日まで7時半だった日の出が6時半に、日の入りも、18時だったのが、17時になった。

 なにしろ、旅行社から自宅に郵送されてきた日程表にも、1か所ミスがあった。1か所だけだから、かえって気づきにくい。それも、帰りの飛行機の、イスタンブールで深夜に乗り継ぐ日本便の出発時間が、夏時間のままで修正されていなかった。これは結構、ヤバい。

 今日は、首都リュブリャナのホテルに別れを告げ、観光バスで1時間のポストイナ鍾乳洞を見学する。

 昼食後は、国境を越え、クロアチアの山間部にあるプリトビチェ湖群国立公園へ向かう。午後の走行距離は231㌔。約5時間。このツアーで一番長いバスの旅だ。

        ★  

< ポストイナ鍾乳洞を見学する >

 『地球の歩き方』によると、ポストイナ鍾乳洞はヨーロッパ最大の鍾乳洞。毎年50万人の観光客がやってくるそうだ。

 (鍾乳洞の入り口付近はきれいな景色だった)

 見学は、個人やツアーのグループを適当な人数でひとまとめにして、暗い洞窟の中を、ガイドが引率する。見学時間は約90分。日本語のイヤーホーンも渡された。

 まずトロッコ列車に乗って、洞窟の中を2キロほど疾走。

 なかなか爽快で、映画『インディー・ジョーンズ』の1シーンを思い出した。もちろん、この洞窟に聖遺物はないし、聖遺物を横取りしようとする悪漢たちもいない。

 下車後は、洞窟の中を1.8キロ、ひたすら歩く。

 先頭をゆっくりと歩くガイド。その後ろを、写真を撮り、時折はイヤホーンを聞きながら、付いて歩く。

 『地球の歩き方』には、洞窟内の写真撮影は禁止されているとあるが、今はフラッシュをたかなければOK。

 数年くらい前までは、例えばルーブル美術館などでも、世界中からやってきた観光客が (日本人も含めて)、コンパクトカメラでパチパチ撮影し、あちこちでフラッシュが発光した。もちろん、あの「モナリザ」の前でも。当然のことながら係員から鋭い叱声が飛ぶ。それでも、コンパクトカメラをオートでしか扱えない人が多く、係員は一日中、怒っていなければならない。で、寛容なフランスの多くのミュージアムでも、写真撮影が禁止となった。

 それ以前はどうであったかというと、カメラを持って観光しているリッチな旅行者は、日本人だけだった。だから、スリ、かっぱらいに狙われる。時に、重いカメラを持ち、行く先々で撮影する自分の見学スタイルに疑問をもったこともある。手ぶらで、自分の目だけで観光している西欧人を見て、あれが正しい観光のスタイルではないかと……。

 しかし、今、世の中は驚くほどの速さで様変わりした。欧米人の観光客も、最近、ヨーロッパの街角にあふれるようになった中国人観光客も、みんな立派な一眼レフやタブレットを持ち歩き、行く先々で撮影しまくる。国籍・民族を超えて、若いカップルから、写してくれとカメラを差し出されることもよくある。

 現在の高級なカメラは、フラッシュなしでも、感度も良いし、手ぶれもしない。

 さて、洞窟を歩き始めたときは、その規模の大きさに驚いたが、もともと興味のない人間には、しだいに単調になる。そもそもが、奇岩絶景や謎の遺跡を求め、わが目を驚かせたくて海外旅行をしているわけではない。

 最後にまた、トロッコに乗って、地上に出た。

        ★

< 国境の検問所を越える >

 一昨日越えた国境の検問所を、再度、越える。

 出国するスロベニア側は、観光バスの運転手が書類を見せただけで、乗客はバスに乗ったまま通過した。テロリストがいても、出ていくのだから問題ない。入国するクロアチア側は、そうはいかない。検問所の係員がバスに乗り込んできて、一人一人のパスポートをチェックした。

 ところが、──  バスがクロアチア側の検問所に入った途端、ぽかぽかとあまりにお天気が好く、しかも昼食をとってまもなくだったから、それに旅の疲れもあったのだろう、どうしようもないほどの睡魔に襲われ、最後尾の座席を幸いに、パスポートを手にしたまま眠ってしまった。

 呼びかけられて、はっと目を覚ますと、検査官の若者が笑い顔で立っていた。国境を越えるというのに、「平和ボケ」でした。

 スロベニアは1991年に独立宣言し、2004年にNATOとEUに加盟した。2007年には通貨もユーロとなり、シェンゲン協定国にも入った。だから、オーストリアやイタリアからスロベニアに入国するときには、パスポート検査はない。

 一方、スロベニアと一緒に独立宣言したクロアチアは、独立を巡って激しい紛争が勃発した。紛争・内戦は、1995年まで続いた (「クロアチア紛争」) 。

 そのため、NATOへの加盟が許可されたのは2009年、EUへの加盟は2013年。通貨はまだクーナ。シェンゲン協定国に入っていないから、スロベニアとの国境で、パスポート・チェックがある。

        ★

< 「クロアチア紛争」とは、何であったのか >

 1453年、オスマン帝国が、ビザンチン帝国(東ローマ帝国)を亡ぼした。フィレンツェで、ルネッサンスの華が開いたころである。

 1526年、すでにセルビアを併合したオスマン帝国が、破竹の勢いでハンガリー王国も征服する。クロアチアはハブスブルグ帝国の庇護下に入った。

 1529年、オスマン帝国の第1回ウイーン包囲。

 こうしてクロアチアは、16世紀から18世紀の末まで、オスマン帝国とハブスブルグ帝国の激突する、文明の衝突の地となった。

 オスマン帝国は、クロアチア人が逃げ去った土地に、セルビア人など正教徒たちを入植させた。一方、ハブスブルグ帝国も、コソボ地域のセルビア人を国境警備兵として、多数入植させた(「大移住」と呼ばれる)。

 幾世代を経て、オスマン帝国も衰え、ハブスブルグ帝国も弱体化、その間隙を縫って、南スラブ民族という大きなまとまりで、セルビアをリーダーとするユーゴスラビア連邦が誕生した。

 その一番北にあったスロベニアは、13世紀に既にハブスブルグ帝国に併合されていた地域で、その文化的影響が強く、もともとスラブというくくりになじめない。民族的にもほとんどがスロベニア人であったから、ユーゴスラビア連邦が綻びかけたとき、いち早く独立した。

 一方、クロアチアには、人口の25%というセルビア人の入植者がいた。

 彼らは、クロアチアの独立に反対し、セルビアをリーダーとするユーゴスラビア連邦を支持した。

 こうして、今まで隣人として暮らしていた者同士が戦いを始め、クロアチアのセルビア人を連邦政府軍が助けて介入したから、激しい内戦になった。文字通り、昨日まで隣人として暮らしていた者同士が、憎み合い、殺し合った。

 内戦は4年間続き、最後は、総攻撃をかけられたセルビア人30万人が、今まで住んでいたクロアチアから、セルビアやボスニアに難民として脱出するという悲惨な形で、終息した。

 結果的には、一種の「民族浄化運動」ととらえられないこともない。それなら、ナチスと同じだ。しかも、虐殺などの犯罪的行為も多々あった。もちろん、双方に。

 ゆえに、NATOの加盟も、EUの加盟も、容易ではなかった。

 EU加盟の条件として、犯罪行為に対する決着や民族同士の和解が求められた。クロアチア政府は、全面的にこれを受け入れた。

 クロアチアから脱出したセルビア人30万人のうち、すでに半数がクロアチアに戻っている。

 親を殺され、子を殺され、愛する者を殺された、一人一人の心の傷痕 ── 悔しさ、恨み、怒り、憎しみ、悲しみが癒されたわけではない。まだ、20年しかたっていないのだから。

 しかし、岡崎久彦氏が言うように、歴史のくぎりは1世代、20年である。

   ( 無謀な戦争をし、国土が焦土となり、数えきれないほどの若い命を失って迎えた敗戦の日から、東京裁判を受け入れ、講和条約に調印し、経済を復興させ、技術を磨き、ついに新幹線を走らせるようになるまでが、20年である )。

 和解することが、死者への償いである。生きている者同士が許し合うこと以外に、どのような償い方ができるだろう。

        ★

< この旅の目的、ヴェネツィアの海が見えた >

 バスの中、みなさん、午睡に入る。

 しかし、私は旅に出て、乗り物の中で、めったに寝ない。旅は、「点」と「点」ではなく、移動の時間の …… 車窓風景そのものが、旅である。風景には、その国の文化・風土がある。家々の姿や、街のたたずまいや、畑や、森や、山や川や海が、その国を表現している。それを見るために旅をしているのであって、鍾乳洞の中に、スロベニアがあるとは思えない。

   ( クロアチアの田園風景 )

 のどかな田園風景が変わり、車窓右手に、わずかな時間、2度、3度、海が見えた。アドリア海である。午後の日差しの中で、眠るような海。この海が見たくて、ここまでやってきた。

    ( アドリア海が見えた )

 ヴェネツィアの商船や軍船が行き交った海。しかし、歴史を調べれば、もっと近くに、たくさんの悲しみを見てきた海でもある。

 やがてまた、バスはクロアチアの内陸部へ入っていく。

 途中、道路の脇の小さな広場に、内戦時代の遺物が置かれていた。いつかもっときちんとしたミュージアムにするという。

    ( 内戦の遺物 )

 道は田園風景から、奥へ奥へと入って行き、日は沈み、灯のない山道となる。疲れたであろうドライバーのことを気にしていたら、月が出た。驚くほど大きく、明るい満月だ。

 今夜は、プリトビチェ湖群国立公園内の、3軒しかないホテルの一つに泊まる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 


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