ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

アテネ (古代ギリシャ語ではアテナイ) へ … わがエーゲ海の旅(3)

2019年06月26日 | 西欧旅行 … エーゲ海の旅

  ( アクロポリスの丘からリカヴィトスの丘を望む )

 アテネ ── 古代ギリシャ語ではアテナイ Athenai。現代ギリシャ語の口語ではアシナ Athinaというらしい。英語ではAthens。

 空港の電光掲示板は、英語表記の「Athens」だ。だが、都市アテネは、イギリスという国や英語という言語より、遥かに古い。なれない英語表記にはちょっと抵抗があった。日本語のアテネは、ラテン語からきているそうで、悪くはない。

 語感としては、やはりアテナイが良い。知の女神アテナの町だ。 

 リカヴィトスの丘は、アクロポリスの丘と向かい合うようにそびえ、市内で一番高い。街のどこからでも望むことができた。

    ★   ★   ★

ミュンヘン空港で >

 ルフトハンザ航空が、関空発、ミュンヘン経由のアテネ行きを設定したのは、たぶん、最近のことだ。このルートを見つけたときは、問題が一つ解決した、と思った。

 これまで、関空からアテネへ行こうと思うと、深夜発の中東系の飛行機に乗るしかなかった。しかも、乗り継ぎのために、アラビア半島の空港のロビーで、現地時間の深夜から明け方までの数時間を過ごさねばならない。ツアーの一員としてならまだしも、バックパッカーの若者ではないのだから、そういうちょっと危険で、体力勝負の旅はしたくない。

 だから、ルフトハンザが関空とアテネを結ぶルートをつくらなければ、今回の旅はなかっただろう。

 現地時間で午後1時半。ミュンヘンは小雨だった。肌寒い。日本はこのところ晴天で、5月らしい陽気が続いていた。乗り継ぎ時間は1時間半だ。

 空港のWi-fiにアクセスしようとしたら、ミュンヘン空港のほか、ハーウェイが2つも候補に出た。いずれも名前やメールアドレスを登録する必要がある。それで、やめた。

 たまたま2、3日前に見たテレビで、メルケル首相が、ハーウェイについては慎重に対応すべきだと言っていた。しかし、続けて登場したドイツの産業界の人物は、中国政府が世界の人々の個人情報を収集しようとしている確たる証拠がない限り、我々は安い方を使う、と言った。それなら、この空港も、ハーウェイと契約しているかもしれない。ハーウェイの側は、法に則ってやるから大丈夫だ、我々は中国政府とは一線を画すと言っているが (それは、そう言うでしょう)、法の上に君臨するのが、昔なら皇帝、今は中国共産党だ。ハーウェイのトップ(元人民軍の大物)以下幹部諸氏が中国共産党員でないという確たる証拠を示さない限り、不安は除去されない。近未来において、世界中の人々の詳細な個人情報が中国のスーパーコンピュータに積みあげられ、習近平に把握されているということになるかもしれない。そうなると、もうSFの世界だが、そういうSFの世界へ向かっているのが現代だ。

        ★ 

アテネ到着 > 

 ミュンヘン空港の出発は40分遅れ、アテネ空港には現地時間の午後7時30分に着いた。日本との時差は6時間だから、日本ではもう日が代わって午前1時半。にもかかわらず、まだ起きて、活動している。旅に出ると、若返らざるをえない。

  いつも空港からはタクシーに乗る。重いスーツケースを持って駅の階段を上がり降りしたり、石畳の道路を歩くのは大変だから。

 だが、ガイドブックを見ても、ネットの情報を見ても、アテネのタクシーはぼったくりが多いから気を付けろと書いてある。しかも、どう気を付けたらよいかは、書いてない。乗るなら、それを覚悟せよ、ということだ。ギリシャの経済危機が世界に報道され、世界の株価を下げたことは、まだ記憶に新しい。ギリシャはEUの中でも最も貧しい国なのだ。

 地下鉄もあるが、スーツケースを持っての乗り降りは大変で、車内もまたスリが多いらしい。現地の人でさえ、被害に遭うという。これはパリも同じだ。

 そういうネットの情報の中に、アテネ観光の中心・シンタグマ広場に行く空港バスの切符の買い方、乗り方まで、写真入りで詳しく書いてくれているブログがあった。空港バスはなんと24時間運行し、15分ごとに出発する。終点のシンタグマ広場から、ホテルは近い。しかも、6ユーロというのだから、安い。路線バスと違って、席も確保され、混雑していないからスリも乗ってこない。

 コピーしてきたそのブログの指示どおりに行動し、無事、国会議事堂のあるシンタグマ広場に着いた。午後9時。日没は午後8時30分だから、こちらではまだ宵の口だ。 

 この広場はアクロポリスの丘のすぐ麓で、最も観光客が多いところだ。だから、スリも多い。子どものスリグループもいる。歩いていても気を付けろと書いてあった。これも、パリと同じだ。ただ、今回は大きなスーツケースを押しながらだから、少し気を使った。気を使っているつもりだが、なにしろ長旅の疲れが大きく、頭はぼんやりしている。日本はもう午前3時だ。

 アテネで一番の繁華街だから、観光客がいっぱい歩き、レストランやショーウインドウも軒を連ねている。

 だが、パリやウィーンのどこかオシャレなレストランやカフェはなく、また、ショッピングに関心のない私でも心が浮き立つような、センスの良いショーウィンドウも並んでいない。

 紀元前の古代アテネと違って、現代のアテネは、EU圏のかなり端っこに位置するローカルな町なのだ。その上、経済危機のどん底にある。

 広場からホテルまでは徒歩で5分少々。ただし、道に迷ったから、15分ぐらいかかった。道を尋ねると、みんなとても丁寧で親切だった。

  ( アテネの街 )

         ★

パルテノン神殿のライトアップ >

 ホテルの部屋はネットで入念に調べ、パルテノン神殿を望む部屋を確保した。高級ホテルではない。しかし、こういうこと(ホテルの窓からのビュー)には、多少ならお金を使う。一期一会の旅なのだから。

  今までの旅で、ホテルの窓からの景色が最も感動的だったのは、ハンガリーの「ホテル・インターコンチネンタル・ブタペスト」だ。ドナウの川べりに立地するこのホテルの窓からは、ドナウ川に架かるくさり橋と、対岸の王宮と、その右手にマーチャーシュ教会がライトアップされて一望でき、いつまで見ても見飽きないほど美しかった。

 パルテノン神殿のライトアップは、そのようなきらびやかさはないが、夜空に自らの存在感を示していた。  

  

   ( 夜空に浮かぶパルテノン神殿 )

 

 

 

 

 

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旅のサブテーマ … わがエーゲ海の旅(2)

2019年06月21日 | 西欧旅行 … エーゲ海の旅

    ( セント・ニコラス要塞と満月 ) 

   ロードス島滞在中に、月が満月になった。マンドラキ港に昇った月下の埠頭で、少女が二人、兎のように跳びはねていた。

 もうすぐ大人よ、と言いたげなおしゃまな二人でした。

  ( マンドラキ港の埠頭 )

     ★   ★   ★

神々の伝説の海・エーゲ海 >

 前回述べたように、この旅のメインテーマは、ヨハネ騎士団のロードス島。

 だが、それとは別に、サブテーマが2つある。

 ロードス島に行くと決めてからいろいろ調べているとき、これをサブテーマの1つに、と思うようになったのが、「エーゲ海」。

 エーゲ海の海。エーゲ海の島々ではなく、海そのもの。

 かつて、ベネツィアに行ったとき、わざわざリド島を歩いて横断しアドリア海を見に行った。オーストラリアのパースに行ったときは、列車に乗ってインド洋を見に行った。スペインでも、ポルトガルでも、大西洋を見に行った。

 海は海だが、それぞれに感じるものは異なる。

 そうはいっても、日本人だけでなく世界の旅行者にとって、エーゲ海のイメージは、紺碧の海、そして、白い壁の家々がびっしりと並ぶサントリーニ島やミコノス島の景色であろう。

 私もこの旅の計画を立てはじめたとき、ロードス島以外にもう一つ、サントリーニ島かミコノス島に寄ってみたいと考えていた。

 だが、例えば、エーゲ海の島の中で一番人気のサントリーニ島は、イアの断崖から夕日を見ようと世界中の人々がやってくる。そのため、夕方のイアの断崖の上は、まるでPLの花火大会のようだ。夕日が沈み、日が暮れて、ホテルに帰るときには、路線バスに乗るのも大変らしい。…… そういうことを知るうちに、もともと人の多いところに行くのが苦手な私は、そんなにまでして見る価値のある夕日って、あるのだろうか?? と疑問に思いはじめた。海に沈む夕日の名所は、日本にもいくらでもある。名所のそばには、鄙びた温泉もある。

 それに、…… 今回はツアーに入らない自力の旅だから、『地球の歩き方』だけではとうてい情報不足で、ネットを開いて多くの旅人たちの旅のブログを参考に読んだ。読んでいると、サントリーニ島は、最近、白い家々の路地という路地を中国人観光客がぞろぞろ歩き、青いドームの小さなチャペルで結婚式を挙げているのも中国人カップル。景色を写真に写しても、カメラを構えて互いに撮り合う中国人観光客が入ってしまう、と書いてある。何しろ彼らは、周りの人に気を使うということをしない。

 今は、パリもウィーンもアムステルダムも中国人観光客だらけだ。最近、讀賣新聞に、アムステルダムの住民の中には、「ここはもうアムステルダムではない。通勤に時間がかかっても仕方ない」と、別の小都市に住居を移す人が出てきたという記事が載っていた。中国の人口はEUの人口の2倍を遥かに超える。豊かになった中国人が旅をしていけないわけではない。しかし、こちらも、中国人旅行者を見るためにヨーロッパを旅行するわけではない。

 そういうことで、他の島によることはあきらめて、ロードス島にしぼることにした。その結果、アテネとロードス島にゆっくりと連泊する、気分的にのんびりした旅になった。

 ロードス島は、日本人にとってもローカルな島である。ブログ(複数形)によれば、欧米からの観光客やリゾート客は多いが、中国人はいうまでもなく、日本人観光客にもほとんど会うことがないらしい。

 今、世界的にクルーズツアーが大流行だから、日本からのこの方面へのツアーも、サントリーニ島やミコノス島やクレタ島に寄港し、中にはロードス島にも寄る「エーゲ海クルーズ」を組み入れたツアーもある。だが、それも、朝、ロードス島に入港して、日中、ざっと観光し、夕方にはもうフェリーに戻って、夜、次の島へ向けて出航する。

 だから、わざわざロードス島を目指して訪れる数少ない日本人のほとんどは、『ロードス島攻防記』を読んだ塩野ファンらしい。ブログを読んでいると、そういうこともわかってきた。 

 私がサブテーマの1つを「エーゲ海」としたのは、奇岩絶景のエーゲ海でも、気候温暖なリゾートとしてのエーゲ海でもなく、ヨーロッパ文明の発祥の地であった歴史的な海、古代ギリシャからヘレニズム時代を経て古代ローマへと続く文明のあけぼのの海、神々の伝説の海を、ただ自分の目で見たかったからである。

 それで、旅のプランの中に、船でエーゲ海を行く日を3日間も入れた。 

 アテネの2日目、アテネに近いサロニコス諸島を船でめぐる現地の1日ツアーに参加することにした。

 また、ロードス島の2日目は、島の東海岸、路線バスで1時間半のリンドスの遺跡を見に行くことにしていたが、ロードス・タウンのマンドラキ港からリンドスを往復する船が出ているというブログが1つだけあった。現地に行ってみなければよくわからないが、古代の人々も、中世のヨハネ騎士団も、リンドスは船で行って船着場に上陸したはずだ。もし船があれば、路線バスより、船旅の方がずっと楽しい。

  ( 海からリンドスの丘を望む )

 そして、ロードス島の3日目は、ヨハネ騎士団の出先の要塞があるコス島へ、ロードス・タウンのコマーシャル・ハーバーから1日1往復の定期船に乗って、片道2時間半の船旅をすることにした。

  ( コス島の海 )

 太平洋や、大西洋や、日本海や、瀬戸内海とは違う海。トロイ戦争の後、帰国するオデッセウスが次々と危難に遭遇した神話の海。その海を訪ねよう。 

         ★

アテネのパルテノン神殿 >

 旅のサブテーマの2つ目は、定番だが、アテネのオリンパスの丘のパルテノン神殿である。 

 今まで、ツアーに参加して、古代の遺跡はいくつか見る機会があった。

 シチリア島では、セリヌンテ、アグリジェント、そしてタオルミーナの遺跡。(当ブログ「シチリアへの旅」)

 トルコのツアーでは、エーゲ海沿岸部を北から南へ、トロイ、ペルガモン、エフェソス、アフロディシアス、パムッカレと見て回った。(当ブログ「トルコ紀行」)

 世界最大級の古代都市遺跡といわれるエフェソスの遺跡はさすがに印象に残った。

 しかし、より心に残ったのは、イオニア海に臨む断崖絶壁の棚にできた町タオルミーナ。そこには、眼下に紺碧の海を見下ろす古代劇場があった。これは、素晴らしい!!

 そして、それらより規模は小さいが、それだけに牧歌的なセリヌンテの遺跡。海を見下ろす丘の原っぱに神殿の一部がかろうじて立ち、地面には石柱が思い思いに横たわって、その石と石の間には野の花が咲き、風に吹かれていた。その石に坐って微風に吹かれていると、永遠の中に抱かれているようで不思議に心が和んだ。

 だから、古代遺跡はもう十分に見た、という思いもあったのだが、アテネのパルテノン神殿は古代文明の今に残る原点のようなものだから、できれば見ておきたい。

 辻邦生は、作家を志してパリに留学していたころ、パリからアテネに旅行し、次のように書いている。

辻 邦生『言葉が輝くとき』(文藝春秋)から

  「そのあと、ギリシャに行って、パルテノン神殿を見た。すごく美しかった。この神殿も、今いったような意志の力によって、美というものを地上に実現していた。その美しさはただたんに美しいだけではない。みじめに生きている人間が、そのみじめさにもかかわらず、良きものを意志することができる。人間には、ああいう高みにまで昇ってゆく意志力と、目標とすべき一段と高い秩序が与えられているのだ。そのことを、ここにある建物をとおして見てご覧なさい、とでもいうかのように、神殿の建物がそこに置かれている。事実、パルテノン神殿を見ていると、一種の高揚感といいますか、魂が燃えあがって、一日一日、もっとよく生きようという気持ちになる。宗教的な感じにも似ていますけれども、宗教とはもちろん違います。私はそういうものを根底に置いて、文学の目的にしようと考えたのです。それはまさに一つの出会いだったと思います」。

 若いときには感動した文章だが、今は少々息苦しい。

 そういう時代の記念としても、見ておきたいと思った。

 

 ( ホテルの最上階から望むパルテノン神殿 )

 

 

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旅のテーマは『ロードス島攻防記』 … わがエーゲ海の旅(1)

2019年06月16日 | 西欧旅行 … エーゲ海の旅

   上の写真は、ロードス島の海港に臨む城壁。

   ホテルから旧市街へと歩く途中にある。昨日もここから写真を撮った。

 今日も写真を撮ろうと思ったら、先客がいた。数秒で終わると思ったが、試行錯誤して終わらない。待ちくたびれて、パチリと1枚。

 そのあと撮った風景写真が下。

 思いがけず、どちらも気に入っている。 

     ★   ★   ★

アテネへ >

   2019年5月12日(日)、乗客全員の搭乗を終え、ルフトハンザ743便は予定の時刻より20分も早く、 午前8時35分に関空を出発した。

 今日は、ドイツのミュンヘンで乗り継いで、ギリシャのアテネまで行く。

 アテネに3泊し、そのあと移動してエーゲ海のロードス島に4泊、帰りにアテネでもう1泊する。

 今回はツアーではない。自力の「わがエーゲ海の旅」である。

         ★ 

ロードス・タウン >  

 旅のテーマは、塩野七生『ロードス島攻防記』の舞台となった歴史の地を逍遥すること。

 ロードス島は、塩野さんが、「エーゲ海の東南、小アジアにいまにくっついてしまいそうな近さに位置する」と書いているように、トルコから18キロしか離れていない。天気のいい日には、トルコを望むことができるそうだ。

 地図を見ると、島は、右上から左下へ、やや斜めに置かれたさつま芋の形をしている。その北東部から南西部へかけての一番長いところで80キロ。幅は、一番長いところで38キロである。

 この島の最北端に良港がある。今もエーゲ海クルーズの巨大なフェリーが大勢の客を乗せて寄港する。

 ヨハネ騎士団の時代、港は、北側が軍港(マンドラキ港)、南側は商港(コマーシャルハーバー)だった。

 この港に臨む旧市街は、島と同じ名前で、ロードス・タウンと呼ばれる。今もぐるっと城壁に囲われている。

   ( 港から城壁を抜けるとロードス・タウン )

 城壁の中の街は、ヨハネ騎士団が撤退した後、長い年月オスマン帝国の支配下にあったから、イスラム圏のバザールを思わせる。庶民的な食堂や土産を売る店がびっしりと軒を連ね、入り組んだ路地を観光客や避暑客がぞろぞろと歩いている。住民はギリシャ正教系のギリシャ人である。

 頑丈そうな石造りの館が並ぶ騎士団通りは街の北端にあり、その先に騎士団長の宮殿が聳えて、このあたりだけヨーロッパの風が吹いている感がある。

         ★

聖ヨハネ騎士団 >

 16世紀、ロードス島からわずか18キロ先の小アジア(現在のトルコ)を支配していたのは、ビザンチン帝国を滅ぼした(1453年)オスマン帝国だった。帝国の支配は、北は小アジアからバルカン半島全域を越え、南は北アフリカ一帯まで広がって、西欧キリスト教文明に対峙していた。

 帝国の都イスタンブールから、北アフリカの政治的・経済的・文化的要衝の都市アレキサンドリアへ向かう航路上に、ロードス島はあった。

 ロードス島に陣どったヨハネ騎士団は、この航路上に立ちふさがり、オスマン帝国の商船を襲いまくったのだ。オスマン帝国にとって、ロードス島はキリストの「蛇の巣窟」であった。

 1522年、オスマン帝国はついにロードス島の攻略を決意する。

 決意したのは、父の死によってオスマン帝国のスルタンを継承したばかりのスレイマンである。この若いスルタンはその後長く帝位にあり、信望厚く、幾度か遠征して、北はハンガリーまでを攻略し、一度はハプスブルグの都ウィーンを包囲した。オスマン帝国の最盛期をつくりあげたスルタンとして、スレイマン大帝と呼ばれる。

 他方、ロードスの城壁に籠ってオスマン帝国を迎え撃ったのは、600人足らずのヨハネ騎士団であった。

 ヨハネ騎士団の歴史は、AD1099年の第一次十字軍による聖地エルサレム攻略と王国の建設の頃に遡る。

 その起源をたどれば、もともとイタリアのアマルフィーの富裕な商人が、聖地エルサレムに巡礼するキリスト教徒のために建てた病院組織であった。それが、第1回十字軍がイスラム勢力と戦ってエルサレムを攻略し、ここに王国を建てる過程で、軍事組織としての一面を強くもつようになり、宗教騎士団となっていったのである。

 ローマ教皇から与えられた正式名称は「聖ヨハネ病院騎士団」。教皇に直属し、どこの国からも独立している。なお、騎士団の名称となった「聖ヨハネ」は、人々の病を癒し、福音を伝え、イエスに洗礼を施した「洗礼者ヨハネ」のことで、12使徒のヨハネではない。

 鋼鉄の甲冑の上に、赤地に白十字の胸当てとマント、手に楯と長槍を持つ。もう一つ、同時期に設立された宗教騎士団として、「テンプル(聖堂)騎士団」があるが、その違いは、ヨハネ騎士団は病院を経営したこと、そして、貴族の子弟しか入団できなかったことであった。しかし、ともに、人数は少なかったが、キリスト教軍の最強・最精鋭の軍事組織であった。

 フランスの貴族出身者が比較的多かったらしい。もちろん、イタリア、スペイン、イギリス、ドイツなどの出身者もいて、それぞれの国ごとに部隊を構成する多国籍軍であった。

 騎士団長は、騎士による選挙で選ばれた。若い頃からいかなるときにも沈着冷静で、かつ、勇猛果敢。さらに多くの戦いを経て経験を積み、年齢とともに知恵と人望を増した人物が選ばれた。選んだあとは、全員がその指揮下に入る。

 彼らは、修道僧と同じで、妻帯は許されない。週1回は僧服を着て、看護師として病院で勤務した。戦死しても、それはキリストのしもべとしての死であり、名はどこにも残らない。使っていた遺品、例えば、高価な金銀宝石類は騎士団の財政に、衣服や食器類は病院に寄付された。

 この時代、優秀な医師のほとんどはユダヤ人だったそうだ。騎士団の病院の医師もそうであったろうという。

         ★

ロードス島の攻防 >

 ヨハネ騎士団600人足らずは、その配下の1500人ばかりの兵と、ロードス島の住民兵3000人ばかりを率いて、スレイマンの10万を超す大軍と対峙した。戦いは1522年の8月1日に始まり、12月の末までの5か月間に渡った。 

 塩野七生が『コンスタンティノープルの陥落』に描いた戦いから70年後のことである。コンスタンティノープルの戦いの経験から、攻城戦は大砲の時代に入っていた。

 この時代の砲弾は丸い石。直径20センチぐらいだろうか。この砲弾を、戦いが厳しくなると昼夜を問わず何千発も撃ち込んで、城壁を破壊していく。昼夜を問わないのは、心理戦の効果もねらったからである。

  ( 石の砲弾 )

 もう一つの方法は、地下道を掘り進めて、城壁の下に爆薬を仕掛け、城壁を破壊するという攻撃法である。

 守る側の城塞建築も対大砲用に進化していた。コンスタンティノープルの城壁のように高く聳える城壁ではなく、高さの代わりに壁の厚みが大幅に増した。その最たるものが、対イスラムの最前線に築かれたヨハネ騎士団のロードス島の城壁で、壁の幅は10mもあった。

 騎士団側の武器は、火薬を使って、今の鉄砲に似たもの、或いは、今の手榴弾に似たものであったらしい。

 だが、最後は結局、物量と、時間が決する。

 ヨーロッパのキリスト教国の王が互いに牽制し合って誰も救援軍を送らなければ、物量に任せた攻撃の前に、守る側は消耗していくだけだ。どんなに分厚い壁も次第に破壊されていく。日々、修繕するが、追い付かない。壊れて防備の弱くなった壁を大軍がよじ登り、10mの壁の上で、剣や槍を振るっての白兵戦となる。

 スレイマンの計画では、大砲と地雷で外壁を破壊した後、9月の総攻撃で決着がつくはずだった。だが、10万の兵を動かし、数時間に及んで、3波に渡った総攻撃にも、騎士団側は耐え抜いた。

 10月、11月と砲弾が撃ち込まれ、壁の下に仕掛けられた地雷が爆発し、何度も総攻撃が繰り返されても、ヨハネ騎士団は頑強に守り続けた。

 雨の降る冬の季節に入って、ついにスレイマンは、騎士団長とロードス住民に条件を提示し、名誉ある撤退を呼びかけた。騎士団もすでに多くの犠牲者を出していたが、オスマン帝国側の死傷者もすでに数万人になっていたという。 

  ( ヨハネ騎士団長の宮殿 )

         ★

 ── そこへ行ってみたい。塩野さんの本が、私の旅心を誘い続けた。

 だが、なかなか踏ん切れなかった。旅は未知に向かって一歩踏み出すまでは、大きな冒険でなる。

 行ってみようと思ってあれやこれやと調べていくと、日本ではあまり知られていないエーゲ海の島への旅は、もう若くはない私にとって、不安を覚える事柄が次々と出てくる。ツアーに入らなければ、全て自力でやり、何事が起こっても自力で処理するしかないのだから。

 長い月日を経ての逡巡の後、こういう旅ももうこれが最後かもしれないという思いが、私をつき動かした。

 そうして、思い切って出かけてみると、のどかで、心楽しく、行ってよかったと心から思える旅になった。

 以下は、その旅の記録と、写真である。

 

 

 

 

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旅果てて … 「読売俳壇・歌壇」から

2019年06月09日 | 随想…俳句と短歌

< 短 歌 >

 いつもこのブログを読んでくださっている皆様には、1か月以上のご無沙汰をしてしまいました

   その間に、平成は令和になり、さらに季節も移って、もう梅雨に ……

 がんばって、今から再開します。

 今回は、恒例の、「『読売俳壇、歌壇』から」です。この間に「読売俳壇・歌壇」に掲載された作品の中から、私が心ひかれた俳句と短歌を紹介いたします。

         ★ 

 最初の短歌は、「読売歌壇」からではなく、同紙の日曜日に掲載される奈良県版の俳句、短歌、川柳を載せた「大和よみうり文芸」からいただきました。

〇 清(スガ)すがしく新緑映ゆるこのあした

    佳き気配満ちて「令和」はじまる

   ( 三郷/藤本京子さん )

※ 「令和」という元号は、多くの国民に好感をもって受け入れられました。喜ばしい限りです。

 儒教的徳目や儒教的政治思想を意味としてもたず、この国の早春の季節感を表す言葉が選ばれました。そういう選定の仕方も、本当に良かったと思います。

   ( 鎌倉の白梅 )

 日本では、「真」や「善」を追究するよりも、どちらかといえば、「美」を大切にしてきた伝統があります。正しい生き方よりも、美しい生き方を求めてきた民族です。

 「正しい」という言葉には、絶えずうさん臭さがつきまといます。「正しい」は、絶対的なものです。しかるに、「絶対」は、この世に存在しません。

 それに引き換え、美は相対的なもので、美しさは多様です。春には春の美しさがあり、冬には冬の美があります。

 日本は四季の変化に富み、それぞれの季節にそれぞれの趣があって、万葉、古今の時代から人々は季節感の中に美を見出してきました。和歌も俳句も、そのような風土に根ざして生まれた文芸です。

 そういう文芸の伝統の中から、新しい元号が誕生したのです。

 「新緑映ゆるこのあした 佳き気配満ちて『令和』はじまる」 … 「賀の歌」ですね。「佳き気配満ちて」という表現が、お正月のように清々しく、心改まる気持ちです。

 さて、令和に生まれてくる子もいれば、平成から令和を生き、さらにその先の時代にも活躍する世代もあるでしょう。私は、どう考えても、令和を越えることはありません。

 そういう私の今の願いは、この国が、できたら美しい国として、…… いざとなれば美しくなくてもいいから、「存続」しつづけてほしいということです。

 私たちの国の国土は、1万年も続いた縄文文化の範囲とほぼ一致するそうです。

 遠い過去から継承してきたこの美しい島国を、将来においても、しっかり存続させてほしい。それが、新しい時代を迎えての私の祈りです。

         ★

 次は、若者を詠んだ歌です。

〇 がらがらの電車のドアの脇に立つ

  そんな若者だったわたしも

   (狭山市/奥薗道昭さん)

※ 座席はたくさん空いているのに、一人ドアの脇に立っているのは、10代の後半から20歳前後の若者でしょう。実景であり、「わたしも」と、作者は遠い日の自分の姿を重ね合わせています。

 人を求めながら、人の中に入れない。傷つきやすく、孤独な、しかし、ちょっと反抗的で斜交い(ハスカイ)から世を見ている若者です。

 私も、また、遠い遠い昔、そんな時代がありました。「若者たち」という歌が流行りました。

          ★ 

   次の2つの短歌は、これまた、「大和よみうり文芸」掲載の、しかも同じ作者の作品です。もちろん、新聞に載った日は違います。「大和よみうり文芸」の常連の方だと思います。

〇 紀伊山地 群れ立つ山の一山に

  我は生まれし 父母(チチハハ)の郷(サト)

   (御杖/川北泰徳さん )

※ 作者のお名前の前の「御杖(ミツエ)」は、奈良県の宇陀郡御杖村です。

 歌の初めの「紀伊山地」は、三重県、奈良県、和歌山県にまたがって、紀伊半島の脊梁を成し、畿内では、古来より、最も山深いところとされてきました。記紀の時代から神々の里であり、九州から東征してきたイハレビコの一行は、この奥深い山と谷を抜けて大和に到りました。山岳仏教のふるさとであり、神仏混交の霊場であり、今はユネスコ文化遺産の地になっています。

 ( 熊野那智大社の別宮飛龍神社 )

 話は少し横道にそれますが、もう25年も前のこと、初めて秋色に染まるヨーロッパを旅したとき、こんな文章を書いています。

 「ドイツやフランスの自動車道をバスで走破しながら、ひたすら異国の景色に見とれた。

 ドイツは森の国である。アウトバーンは森の中を通っている。シラカバなどの落葉樹が黄色、きみどり色、茶色になり、森の地面は落ち葉で深々とおおわれていた。それが小雨に煙る景色はすばらしい。一つの森が尽きると、目の覚めるような緑の牧草地や黒っぽい耕作地が広がり、赤い屋根と白壁と出窓が印象的な村があり、やがてまた、森に入る。都会に住むドイツ人は、休暇には森に行き、キノコ狩りをして過ごす。高校生たちは長期休暇になると、ワンダーフォーゲルの漂泊の旅に出る。ゴルフ場は造られず、ディズニーランドもできなかった。彼らは森の民である。

 フランスは大地の国だ。なだらかな丘陵もあるが、緑の牧草地や黒っぽい耕作地は地平まで続き、その中を、うっそうとした並木に縁どられた道路がどこまでも延びる。農家の家は石造りで、古色蒼然としている。日本では夕日は隣村との境をなす山の向こうに沈み、フランスでは畑の果ての地平に沈む。地平線に、夕日を背にしたカテドラルの塔とそれをとりまくような村落のシルエットを望むことができる」。

 初めてヨーロッパの風土に対面した旅の感動が表れている文章ですが、何度もヨーロッパに行くうちに、午後、パリとか、フランクフルトとか、アムステルダムから帰国の飛行機に乗って、日は西へ、飛行機は東へ飛んで、時間より早く日没となり、広大なシベリアの大地の上を延々と飛んで、早朝、東の空に朝焼けが見えたとき、あの向こうに私の国がある、本当に日のいづる国なのだと実感しました。そして、日本海はあっという間に越え、日本の上空にさしかかったとき、上空から見ると山また山です。その山々は、イベリア半島やバルカン半島の裸の山々とは違い、樹木に覆われています。山と山の間の無数の谷筋からは、霧が湧き出ていることもあります。そういう光景を見るにつけ、日本列島は、一つ一つの谷に神話や伝承や祭りをもつ「神々の国」なのだと納得しました。無数の谷筋はやがて集まって川となり、下っていくと、もうその先は海、というところでやっと都会が現れます。

 仮に都会に生まれたとしても、わが母なる国である日本列島は「山また山の国」であり、神々の国です。

〇 子どもゐぬ故に泳がぬ鯉のぼり

   山里の空はかくも青きに

    ( 御杖/川北泰徳さん )

※ 今、都会も少子化ですが、山里は過疎が言われるようになって久しい。若い人々は都会に出て行ってしまい、山里に子どもはいない。長い時代を経て根づいてきた伝統も産業も民俗も、その灯が消えようとしています。

 「山里の空はかくも青きに」…… 山と山の間の真っ青な空が空虚です。

         ★

 違った角度から、都会の青空を詠んだ歌をもう一首。        

ビルとビルの間の空がきれいだったと

   胴上げされし駅伝選手

    ( 土浦市/大竹淳子さん )

※ 選者の小池光さんの評を紹介します。

 「アンカーの選手がみなに胴上げされて、その感想をインタビューで聞かれてこう答えた。なかなか気の利いたセリフ。名言といっていいくらい」。(拍手)

         ★

 今の日本で、子どもは宝です。子どもを詠んだ短歌、俳句をいくつか紹介します。

着ぶくれて散歩しをれば 半袖に

   短パンの園児が手を振りてくる

    ( 五条/竹本光治さん ) 

※ これも「大和よみうり文芸」からいただきました。

 あまりに対照的で、いささか気恥ずかしい気持ち。

 私も「着ぶくれ」の年齢です。それにしても、子どもたちがいると、街も、気持ちも、明るくにぎやかになります。     

         ★ 

< 俳  句 >

 上の歌に続いて、子どもを素材にした句3句。川柳ではありませんが、とても可笑しい。俳句には、川柳より面白い句があります。「俳句」とは、その名のとおり、本来、そういう文芸だったのでしょう。元禄の芭蕉や明治の子規が真面目過ぎたのかもしれません。

昼寝覚め 大人ら何か食べており

  ( 東京都/徳山麻希子さん )

※ 3~4⃣歳ぐらいの子どもでしょうか。子どもの目線でユーモラスに作句しています。

 季語は「昼寝」で、季節は夏ですから、食べていたのは西瓜かもしれません。季語の約束事があることによって、解釈鑑賞もより具体的になります。

 「よく寝てたから、起こさなかったのよ。きみの西瓜はここにちゃんとある。泣くんじゃない」。 

おならして笑ふ赤子や うららなる

   ( 東京都/杉中元敏さん )

※ 「笑ふ赤子や」の「や」は切れ字。「うららなる」は春の季語。「うららかな春の日和」が、「おならして笑ふ赤子」と明るく溶け合って、それにしても、可笑しい。

 これは、女の赤ちゃんですね。(私の推量です)。

 赤子が笑ったのは、おならして気持ちが良かったのか、それとも、赤ちゃんなりに、自分でも可笑しいと感じたのか。意外に、後者かも。言葉はわからなくても、可笑しいことは、わかるんだ。

 季節感を含めて、私は傑作だと思います。 

二つ目はおなかの子へと柏餅

    ( 宮城県/梶原京子さん )

 ママになる女性は食欲旺盛。2つ目の柏餅はお腹の赤ちゃんのためと、周りにも、自分にも、言い訳しています。周りは、この際、寛容です。 

          ★

 「旅果てぬ」…… いい言葉です。次の句は、「旅心」を誘う句、或いは、「春愁」の句。今回とりあげた作品の中でも、一番心ひかれる作品です。

   ( 龍飛崎 )

蜂飼いの花追ひ越して旅果てぬ

    ( 東京都/戸井田英之 ) 

※ 選者の正木ゆう子さんの評を紹介します。

 「花を追って北上する養蜂家の旅が実際に花を追い越して終わるのなら、この句は完璧。しかしそうでなくても、詩的表現だとしても、暫し味わっていたい一句の世界である」。

 毎週、讀賣新聞のこの欄を拝読していて、正木ゆう子さんの選んだ俳句に共感することが多い自分に気づきました。寄せられた多くの句の中から、正木さんが選んだ句に心ひかれるのか。或いは、正木さんのところに投稿されてくる句に、私が心ひかれる句が多いのか。…… 同じことかもしれませんが。

九十六才 日向ぼっこに日が暮れぬ

    ( 秩父市/山口富江さん )

※ ほっこりとぬくもりを感じる好きな句ですが、平凡といえば平凡な句ともいえます。でも、次の正木ゆう子さんの評を読んで、胸をうたれました。

 「常連の冨江さん。自筆のこの投句葉書を枕元に置いて亡くなったという。『令和を四十七分生きました』とご家族の添え書きがある」。     

  美しい人生です(涙)。

               ★

旅果てて 家の明るさ柿若葉

    ( 川越市/横山由紀子さん  )  

※ 5月12日にギリシャのアテネとロードス島を訪ねる旅に出て、同月の21日に帰ってきました。しばらくブログに手がつかなかったのは、その旅と、旅の疲れがあったからです。

 西欧旅行も、これが最後になるかもしれないと思いつつ、出かけた旅でした。

 帰宅すると、この句のように柿の葉が緑で、毎年庭に咲く名も知らぬ野の花が、今年もいっぱい花を開いて迎えてくれました。

  ( 野の花 )

 次回から、「エーゲ海の旅」を連載します。たぶん、ぼちぼちと書き進めていきます。どうか写真だけでも、見てください。

 

    (ロードス島の満月)

 

 

 

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