ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

私のヨーロッパの旅

2020年07月22日 | 西欧旅行…街並み

   ユーラシア大陸の西の果てのロカ岬には、突端に、「ここに地終わり、海始まる」(カモンイス)という碑が立っていた。

 遂にここまでやって来たという感慨があった。

    ★   ★   ★

 新型コロナウイルス下の海外旅行はムリだ。

 自分の年齢を考えると、もう二度と行けないかもしれない

 だから、ちょっと夢想して、旅立ってみる。

         ★

<一番美しい街は??>

 ヨーロッパで一番美しいと思う街はどこかと問われたら、私ならパリのセーヌ河畔を第一に挙げる。パリ全体ということではない。

 「パリの空の下セーヌは流れる」というシャンソンがある。あのちょっと哀愁を帯びた軽やかなメロディがよく似合う

 ヨーロッパのどこかの町を見学した後、シャルル・ド・ゴール空港からセーヌ河畔にやって来ると、なぜか心が浮き立つ。

 空が広いと感じる。その下をセーヌ川が流れ、1区3区5区6区などのそれぞれの界隈に似合う橋が架けられていて、街並み全体が端正で美しい。

 セーヌ川を行く遊覧船或いは水上バスに乗って眺めるパリもいい。

   (観覧車の窓からのパリ)

 歩いても、シテ島からサン・ルイ島のあたり。サン・ルイ島の並木道。ノートル・ダム大聖堂のステンドグラス。(あの火事でどうなったのだろう??)。時間が夜ならライトアップされたコンシェルジュリの2つの塔はファンタジックだ。セーヌ川に沿うチュイルリー公園。左岸のサン・ジェルマン・デ・プレ教会の尖がり帽子の塔や「カフェ・ドゥ・マゴ」。オルセー美術館。右岸のルーブル宮殿のたたずまい。そして、エッフェル塔。

 美しい町として他に挙げるとすれば、海の都ヴェネツィア。プラハのヴルタヴァ川の橋、橋、橋。それに、メルヘンチックなローテンブルグなど …… 。

 もう一度行ってみたい町なら他にもある。例えば、イスタンブールとか、グラナダなど …… 。

 もう一度行ってみたいと思う町は、歴史の重層性が奥行きとなって魅力なのだ。

 イスタンブールなら、船でボスポラス海峡をどこまでも遡りたい。

 アルハンブラ宮殿は十分に堪能したが、もう一度、アルバイシンの丘から雪のシェラ・ネバタ山脈をバックにしたアルハンブラ宮殿を眺めてみたい。あの丘で聴く「アルハンブラの思い出」は胸にしみる

  (アルハンブラ宮殿)

 歴史の町、ローマやフィレンツェは2度、自分の足で歩いたから、一応、納得している。

 美しいと思う町として挙げたパリや、ヴェネツィアや、プラハや、ローテンブルグは、実は2回或いはそれ以上、自分の足で歩いている。だから、見学はもういい。

 朝に夕にぶらぶらと歩いて、疲れたらカフェで時を過ごしながら、ただ眺めていたいのである。無為な時間がいい

     ★

 ヨーロッパの都市の多くは、その中心部に中・近世の「旧市街」を残していて、今も人々が暮らしている。人々が暮らす街並に歴史があり、街そのものが文化遺産となっている。

 世界遺産であることに絶対的な価値があるとは思わない。基準に外れていても、人々が美しく住みなしている古い街並みには価値がある。

 旧市街の、さらに中心部には、広場があり、教会が建つ。少し大きな都市なら、司教座が置かれる大聖堂だ。

 町の中心にある教会には必ず入ってみる。キリスト教への関心というよりも、そこにはこの地に暮らしてきた幾世代の人々の歓びや哀しみや思いがあるように思えるから。それが歴史である。

 天に聳えるゴシックの大聖堂を訪ねて、列車でフランスの中都市を巡る旅もした。

 鄙びた趣を残すロマネスクの大聖堂を訪ねて、ローカルなブルゴーニュの小都市を巡ったこともあった。

    (ライトアップされたフランスのヴェズレーの教会)

 イタリアやフランスなどには古代ローマの時代に起源をもつ都市も多いが、さすがに古代の街並みが今も残っているということはない。

 古代ローマの中心街フォロ・ロマーノは、現代のローマ市の中心街に、廃墟として保存されている。

 ローマより前の古代文明の廃墟は、トルコの西海岸や、エーゲ海の島や、ギリシャや、シチリア島などに残っている。

 海に臨む丘の上の草むらに、巨大な石柱が無造作に転がり、その中に野の花が咲いていたりして、それはそれで風情がある。

  (シチリアのギリシャ系遺跡)

 都市から都市へ移動する列車やバスの車窓風景も飽きることがなかった。

 小麦畑や牧草地が地平線まで広がる景色を初めて見たときは感動した。風景の中をゆったりと川が流れ、川沿いに林があり、遠くに教会の塔を囲むように小さな集落がシルエットになって見えた。夕日はその向こうに沈んでいく。

   (ブルゴーニュの野)

 湖に落ち込む急斜面を石を積んで固めた段々畑のブドウ畑。今では、〇〇ワインなどと呼ばれてブランド力があるが、日本の棚田と同様、幾世代にも渡る激しい労働の結果である。

 不毛と思われる石ころ混じりの大地に、延々と植えられたオリーブ畑の波。

 それらもまた、立派な文化だ。Cultureとは耕すの意から出た言葉という。

 その背景には、それぞれの土地の気候や地形と人間とがかかわって生み出された風土がある。風土を抜きにして、文化を語ることはできない。

 ポルトガルの人々は素朴でやさしく、日本人に似て少しはにかむ。背後に大国を感じながら、いつも海と向き合って生きてきた。

 (ポルトの路地)

 アフリカのように乾いた台地が続くスペイン。夏の太陽の下では、40℃を越えることはふつうだという。堀田善衛が言うように、こんな風土でベートーベンの「運命」を聴けば頭がおかしくなる。やはり、フラメンコの世界だ。

 地平線まで畑や牧場が広がるフランス。森の国ドイツ。ベートーベンの音楽はやはりドイツ圏の音楽だ。

 灌木しか生えない乾燥した瓦礫の山と、入り組んだ入り江が続くバルカン半島の国々。

 太陽の少ない北欧と、太陽の光あふれる地中海地方の違いはあるが、春の訪れは美しく、夏は楽しく、あっという間に秋は過ぎ、長い冬がやってくる。

 私はリタイア後の年月を、ヨーロッパの幾つもの町並みを見て歩き、車窓を通りすぎていく牧歌的な風景に歴史を思い、自然や風土の違いを感じながら旅をしてきた。

      ★

 大分県の杵築(キツキ)という小さな城下町を訪ねたとき、江戸時代の武家屋敷や大店が並ぶ街並みが大切に保存されていることを知った。

 その街並みを歩きながら、武家や町人の生活感とか、隣家への配慮とか、ものの見方・感じ方・考え方、そして美意識を、少しばかり垣間見たように感じた。

 日本には、ヨーロッパのような伝統的で美しい街並みはあまり残っていない。だが、杵築を歩いたとき、古い伝統的な文化が、自分の中になお息づいていると感じた。

 文化とはそういうもなのだと思った。

  (杵築の武家屋敷界隈)

 今、「自分の中に」と言ったが、言い変えれば「私たち日本人の中に」となる。しかし、正確に言えば、日本という国籍は、直接には関係ない。

 国籍も、人種や肌の色も、先祖が誰であったとかいうことも、遺伝子も、決定的な要因ではない。

 日本語を母語として育った人、Native speakig Japaneseということだ。言い換えれば、日本列島の「文化」の中で育った人ということである。

 国籍がアメリカであっても、人種が白人でも、黒人でも、関係ない。文化は後天的なものであって、先天的なものではない。

       ★

 ヨーロッパへ行き、都市の街並みや、大聖堂や、田園風景を眺め、帰国して本を読み、考え、またヨーロッパに出かけたのは、ヨーロッパの風土や歴史とともに、それらが育んできた文化を知りたかったからだ。

 そして、それは同時に、日本とは何か?? という問いを抱きながらの旅でもあった。

 旅は楽しい。わからなかったことを知ることも、楽しい。また

 

 

 

 

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雨のケーニヒ湖 … ロマンチック街道と南ドイツの旅(12/12)

2020年07月16日 | 西欧旅行…南ドイツの旅

     (聖バルトロメー礼拝堂) 

 10月12日。今日はミュンヘンの2日目。

 明日は帰国の途に就く。

 この日は、「アルペン街道」を東へ東へと走り、オーストリアとの国境近く、バイエルン・アルプスの岩峰に囲まれた深山幽谷の湖を訪ねた。

      ★

<深山幽谷の湖をゆく>

 ベルヒスガーデンはバイエルン・アルプスの保養の町である。列車なら、ミュンヘンから乗り継いで2時間半という。

 我々のツアーバスは、朝、ミュンヘンのホテルを出発し、アルペン街道を快調に走って、ベルヒスガーデンに着いた。

 町というべきか、村というべきか、「リゾート」というよりは、やはり「保養の町」だ。

 バスはベルヒスガーデンの閑散とした街路を抜けて、湖畔の村にたどり着いた。

 ケーニヒ湖。ドイツで最も美しい湖だという。

 天気は良くない。朝、ミュンヘンのホテルを出発したときから空はどんよりとした雲に覆われ、いつ降り出してもおかしくないような空模様だった。

 そして、ついに降りだした。

 大雨ではない。日本の時雨に似て、寒い。冷え込む。

 上着の上に綿の入ったコート。さらにマフラーも出した。あるだけ全部だ。傘も用意する。

 晴れていて、青空の下に見たらどんなに美しい景色だろう。

 だが、ヨーロッパの秋は短い。

 人々が愛する夏が終わると、短い秋のあと、長い冬がやってくる。朝はなかなか日が昇らず、沈むのは早い。どんよりと曇った空から青空がのぞくこともあるが、日に何度も冷たい小雨が降る。

 このあたりは美しいバイエルン・アルプスに囲まれて、夏には、人々が、太陽と森と湖を満喫するのだろう。

 だが、気象も風景も、まるで、「今日から冬に入ります」と言っているかのようだった。 

       ★

 遊覧船が待っていた。このツアー専用だ。屋根もあり、窓もある。寒さを防ぎ、雨に濡れないのは、ありがたい。

 今日はもう一艘が運航しており、途中ですれ違うそうだ。

 船はほとんど音を立てることなく、雨の湖を進んでいった。

 「この清冽な湖をいささかなりとも汚すことがないように、すべて手漕ぎ、または、バッテリーによる電動式になっている」そうだ。(紅山雪夫『ドイツものしり紀行』)。

 両岸は高い岩峰に囲まれ、深山幽谷の静寂の中を、奥へ奥へと進んでいく。

 太古に、巨大な氷河が岩峰の裾をえぐりながら移動していった。そのあとが湖になった。だから、奥へ奥へと、奥深い。岩峰には雪が残っている。最近降ったのだろうか。

 両岸に人工の道路はないから、太古のままの静寂が支配している。

 船は40分ほど進み、遠くに赤い屋根の小さな礼拝堂が見えてきた。

 聖バルトロメー僧院である。

       ★

 僧院の湖岸に降り立った。小雨模様の中、付近を少し歩いてみる。

 玉ねぎ型のドームをもつ礼拝堂と修道僧の住居。そのそばには牧場があった。 

 「この礼拝堂は、かつてベルヒスガーデンにあった修道院の分院であった」。

 「修道士たちは、このあたりの湖岸にわずかに広がっている扇状地を切り開いて、畑や牧草地にし、羊や山羊を飼って暮らしていた」(『ドイツものしり紀行』)。

 シーズン中なら、ここから船を乗り換えて、さらに湖の最奥部まで行くことができる。

 最奥部で船を降りて、「船着場から森の中の道を10分ほど歩くと、『上の湖』が現れる。「湖は『悪魔の角々(ツノヅノ)』と呼ばれる岩峰群に囲まれ、黒々とした森の影を浮かべて静まり返っている」(同)そうだ。

 今日はここで折り返す。

 遊覧船は静寂の中、再び出発点の船着場に向かって進んでいった。

 途中、遠くから、トランペットの音が聞こえてきた。

 もう1艘の船の船頭が、2艘の遊覧船の観光客のために吹いているのだそうだ。

 音は岩壁に跳ね返り、エコーとなって聞こえてきた。この深山幽谷にふさわしい音色だった。

 曲が終わると、自然はまたもとの静寂に戻った。

      ★

 ドイツ人やスイス人の環境保護の意識は高い。観光のためにも、自然を大切にし、環境保護を徹底する。その方が、より多くの良質なリピーターを得ることができる。使い捨て文化は、文化ではない。

 かつて、まだ若かった頃の夏、私は毎年、信州の山や高原に行っていた。

 縄文の遺跡が残る車山高原近くの森に囲まれた湖に行くと、湖畔の土産物店が大音量で演歌を流し、観光バスが何台もやってきて、バスからはこの湖にふさわしいとは思われない大量の団体客が降りてきた。

 高度経済成長の時代、日本の「観光地」はどこもそのようであった。国の象徴である富士山も、旅館や土産物店が並んだ富士五湖周辺の景観は見苦しく、山中にはゴミが散乱していた。

 「お客様は神様」は松下幸之助の言葉だが、高度経済成長からバブルの時代、多くの国民がこの言葉を口にしたものだ。

 松下幸之助ご本人がどういうつもりで言ったのかは知らない。しかし、この言葉を口にしていた当時の国民の理解は、「お客様はおカネの神様」という意味だったろう。

 そういう喧騒の歳月を経て、「失われた20年」も経験して、日本人もやっと、本来の感性を取り戻しつつあるようだ。

 まずおカネではなく、まずホンモノの自然や、ホンモノの景観や、ホンモノの文化伝統を。本当の価値を大切にしていかなければ、日本の未来はない。

 バスでベルヒスガーデンの小さな町に戻った。

       ★ 

<雨のベルヒスガーデン>

 予定では、ベルヒスガーデンからヒットラーの山荘「ケールシュタインハウス」へ行くことになっていた。ケーブルカーも使って上がる山頂からの景色は絶景らしい。だが、中止になった。今日の天気ではただ白い雲の中に入るだけで、何も見えないということだ。

 絶景かもしれないが、ヒットラーの山荘でヒットラーと同じ景色を楽しむというのは、少々悪趣味ではないかという気もする。

 予定がなくなって、ベルヒスガーデンの町で自由時間ということになった。

 ツアーのガイドは、すぐ近くにお勧めの所があると言う。かつての塩坑がテーマパークになって、年間40万人の観光客が訪れるそうだ。

 このあたり一帯に、かつての「白い黄金」の岩塩層が広がっているのだ。ザルツブルグも、ここから直線距離で30キロほどである。

 しかし、雨の中のこの寒さ。塩坑にはどうも興味をそそられなかった。

 それで、時間まで、閑散とした小さな町の中をぶらぶらと歩いた。

 しかし、見学するほどのものは何もなく、時間をもてあました。町の中を2筋の通りが通っていて、小さな土産物屋やペンションや大衆的なレストランが並んでいた。

 土産物屋の軒先では、岩塩をきれいに包んで、お土産として売っていた。

 雨は降ったりやんだりして、とにかく寒かった。ペンションは閉じている。カフェやレストランも開いていなかった。

 今日は、静まり返ったケーニヒ湖を遊覧船で奥へ奥へと進んだことを思い出としよう。

   ★   ★   ★

 翌10月13日。ミュンヘン空港を飛び立ち、フランクフルト空港で日本行きのルフトハンザに乗り換えた。

 10月14日。朝、関空に到着。

 わずか8日間の旅だったが、古城街道、ロマンチック街道、アルペン街道を堪能した。

 あえて心残りを言えば、ローテンブルグの町の中で、1日、ゆっくり過ごしたかったかな。

 

※ 今回は、2009年の旅のことを書いた。

 この当時、旅の前後に、ドイツの歴史を書いた2~3の新書を読もうとしたが、ただ、ややこしく、少しも頭に入らず、投げ出した。

 10年たって、少しはドイツの中世がわかってきたという気がする。細々した知識はどうでもいい。ざくっとイメージができたら良いのだから。

 書き始めは写真を中心にした簡単なものにしようと思っていたが、また、長いブログになってしまった。いつも、この長さを気にしています

   (この項、終わり) 

 

 

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バイエルン王国の都ミュンヘン … ロマンチック街道と南ドイツの旅(11)

2020年07月09日 | 西欧旅行…南ドイツの旅

  (ミュンヘンの街のオシャレな看板)

<バイエルン王家の夏の離宮、ニンフェンブルグ宮殿>

   ミュンヘンの中心部から北西へ約10キロほどのところに、バイエルン王国を統治したヴィッテルスバッハ家の夏の離宮、ニンフェンブルグ宮殿がある。

 夏の離宮と言ってもアルプスの麓ではない。首都の郊外である。

 ハプスブルグ家の夏の離宮であるシェーンブルン宮殿も、ウィーンの都心を少し外れただけの郊外だった。避暑しなければならないほどむし暑い夏ではないのだろう。

 このツアーでは、宮殿内の見学はなし。広大な庭園を歩いた。

 観光資源としてのこの離宮は、バイエルン州の中ではノイシュヴァンシュタイン城に次いで多くの観光客が訪れるらしい。欧米系の観光客にとって、バイエルン王家の宮殿や庭園は興味深いのであろう。

 ちなみに、所有者は今もヴィッテルスバッハ家の当主だそうだ。

 今日は日曜日。時刻は夕方である。この時間は、観光客だけでなく、若いミュンヘン市民のデートの場であり、子ども連れの家族の憩いの場にもなっているようだった。

      ★

<イーザル川のほとりの小さな修道院>

 紅山雪夫さんの『ドイツものしり紀行』(新潮文庫)によると、「バイエルン」という名の起源は、ゲルマン民族の1部族、『バイウァリイ族』に由来するそうだ。

 ゲルマン民族の大移動のときにこの地方に定着した。

 7世紀の末頃までには、フランク王国の傘下に組み込まれていた。

 「ゲルマンの諸部族を支配下におさめようとするフランク王国の動きは、片や軍事力の行使、片やキリスト教の布教という2つの政策が車の両輪のようにして推し進められ、『ゲルマンの使徒』と呼ばれたボニファティウスなどがフランク王国の意を受けて布教に活躍した」 (同上)。

 フランク王国は、新たに支配した地方の要所に、信頼できる部下を「伯(爵)」として配置した。或いはまた、司教領主を置いてその地を統治させた。

 この旅で訪ねた幾つかの都市は、司教領主を起源としていた。彼らは軍事力をもち、異教徒(異民族)の襲来があれば自ら兵を率いて戦い、徴税権も与えられていた。

 「ボニファティウス」??

 ウィキペディアで「聖ボニファティウス」を調べてみた。百科事典を引くように調べることができる。まことに便利な世の中だ。

 719年にローマ教皇からゲルマニアへの伝道と教会整備の任を与えられた。主に、ゲルマニアのキリスト教化を進めたが、754年に北海沿岸のフリースラントで宣教中、在地の部族に殺された。死後、聖人とされ、「ドイツの守護聖人」となった。

 ゲルマニアにおける彼の活動は、フランク王国、特にカロリング家の助力が大きかったらしい。

 例えば、トゥール・ポワティエの戦いで歴史上有名なカール・マルテルは、740年にフライジング、レーゲンスブルグ、パッサウ、ザルツブルグに4つの司教座を建ててボニファティウスに寄進し、彼を全ゲルマニアの大司教としている。

 このうち、レーゲンスブルグ、パッサウ、ザルツブルグは、2012年に「ドナウ川の旅」で訪ねたが、まだブログに書いていない。

 それはさておき、カール・マルテルが寄進した4つの司教座のうちの最初のフライジング大聖堂のある町は、ミュンヘンからイーザル川沿いに北へ30キロほど行った、ミュンヘン空港のあたりにある。ただし、その頃、ミュンヘンはまだ影も形もないのだが。

 聖ボニファティウスは、このフライジングを基点にして、バイエルンの各地に修道院を建てていった。

 その修道院の分院が、フライジングから南へ約30キロ、イザール川の急流の河畔、即ち、今のミュンヘンの地に建てられた。分院のそばには、ごく小さな集落が門前町のように存在していただろう。

 「そのころ、ミュンヘン一帯は、鬱蒼たる森林に僧院が立つ教会領であった」(『旅名人ブックス ドイツ・バイエルン州』)。

 ミュンヘンの名は『Monchen 修道士たち』に由来する。

 今もミュンヘン市の紋章は、「ミュンヘンの小坊主」である。かわいい僧衣の少年が、両手を広げ、左手には聖書らしきものを掲げている。一方、右手は何かを指さしているように見えるが、現代のミュンヘン市民は「あらっ。見えないの?? ビールを持っているのよ!!」と言うそうだ。

 この8世紀の小さな教会と集落が、今では人口123万人の大都市ミュンヘンに発展した。

 その礎を築いたのは ── ハインリッヒ獅子公という人物だった。

 話は一挙に400年も進んで、12世紀後半、あの「赤ひげ(バルバロッサ)皇帝」フリードリッヒ1世の時代だった。

 ロマンチック街道を旅して訪ねた中世の町で、何度も「赤ひげ皇帝」の名が出てきた。12世紀という時代は、「赤ひげ皇帝」やハインリッヒ獅子公を必要とする時代だったのだろう。

 少し本筋をそれる。

 「赤ひげ」と聞くと、髭むじゃののやたらに強い大男を想像するが、どうも少しイメージが違うようだ。

 菊池良生『神聖ローマ帝国』(講談社現代新書)によると、古い伝記に、「四肢は均整が取れ、胸板は力強く、身体は締まり、男らしかった」とあるが、続いて、「 顔は整い、物静かな表情で、どんな激しい感情の動きのなかでも傍から見ると微笑んでいるように見えた」とあり、さらに「波打つ頭髪と髭は赤みがかったブロンドで、目は明るく輝き」となる。

 感情的にならず、物静かで、しかも、明るく、男らしかったのだ。最近の「歴女」が好む信長や土方歳三のようなどこか陰のあるタイプではない。あえて言えば、伊達政宗に近いかも。

 話は12世紀に戻る。当時、フライジングの司教領主は、イーザル川に橋を架け、橋に関所を作り、ここを通る塩、その他の商品に通行税を掛けて多大の収入を得ていた。

 この時代、塩は「白い黄金」と呼ばれる貴重品だった。食卓の味付けだけでなく、肉、魚、その他の食材の保存のために大量に使われ、高値で取引された。

 南ドイツのアルプス山麓から良質な岩塩が採掘された。ミュンヘンからそう遠くないオーストリアのザルツブルグ。「ザルツ」は「ソールト」で塩のことだ。塩の集積地として発展した町である。ここも、司教領主だ。

 採掘された岩塩は製塩され、荷馬車や筏に積み込まれて、陸路や水路で北上し、ドイツの各地に売られていった。

 ドイツ北方のザクセンに領地をもつヴェルフ家のハインリッヒ獅子公は、「赤ひげ皇帝」の母方の従兄弟だった。ただし、ヴェルフ家と、「赤ひげ」のシュタウフェン家は、皇帝位をめぐって宿敵の関係でもあった。

 しかし、「赤ひげ皇帝」は、南のバイエルンを、もともとの領主だった従兄弟のハインリッヒ獅子公に返還されるよう取り計らった。その結果、ハインリッヒ獅子公は、ザクセンとバイエルンを領土として持つ大貴族となった。

 当時の皇帝は、ドイツ王で、かつ、イタリア王だ。ドイツの諸貴族たちも、ローマの教皇も、赤ひげ皇帝に敬意を払ったが、(教皇権からの独立は重要なのだ)、ミラノを中心とした北イタリアのロンバルディア都市同盟だけが皇帝に従順でなかった。そのため、赤ひげはドイツの領主たちに大号令をかけ、大軍を率いて、何回も遠征した。しかし、都市国家同盟はねばり強く、不屈だった。

 領地を安どされる代わりに皇帝の命あるときには馳せ参じる。それが、封建関係である。大貴族のハインリッヒ獅子公も皇帝の下に馳せ参じ、遠征に加わった。2人はそういう関係だったのだ。

 ハインリッヒ獅子公は時代を先んじた男で、赤ひげ皇帝のお蔭でバイエルンの領主になると、塩に目を付けた。

 彼は軍を差し向けて、フライジング司教の橋を壊してしまった。

 (司教)「何をする!! 罰当たりめ!! 司教座の橋だぞ」。(獅子公)「イザール川は、皇帝が認めたオレの領地を流れる川だ!!」…… まあ、そういう言い争いぐらいはあったかも知れない。橋は誰のものか?? 川は誰のものか?? まさにそういう争いがヨーロッパ中世である。 

 ハインリッヒ獅子公は、自分の所領内の小さな修道院のあるイーザル川に目を付けていたのだ。そこに、しっかりした新しい橋を架け、イーザル川に架かる残りの橋も全部壊してしまった。

 それで、アルプス山麓で産出された岩塩はみな、「小坊主」こと、ミュンヘンに架けられた橋を通って、ドイツ各地に向かうことになった。

 彼は橋のたもとに関所を設け、倉庫群を作り、通行税や倉庫税を徴税したが、それだけでなく、塩の仲買人や商人、手工業者も呼び寄せて、市を開設し、町をつくっていったのだ。

 領主間に法はない。力がものを言う時代だ。ただ、本当に力のある皇帝は、秩序を作ろうと調停に入る。

 赤ひげ皇帝は、フライジングの司教に税金の一部を渡すことを引換えに、ハインリッヒ獅子公に徴税権や貨幣鋳造権を認めてやった。獅子公はかつて司教が得ていた税金分ぐらいは十分に出してやっただろう。

 ミュンヘンを通る塩は3日間、ミュンヘンの倉庫に保管され、まずミュンヘンで取引しなければならないと定めたから、商人や仲買人たちが競ってミュンヘンに集まった。

 町の形はどんどん整えられ、やがて城壁で囲まれた都市となった。

 ハインリッヒ獅子公は、北ドイツのザクセン公としてはハンザ都市リューベックを建設している。

 ミュンヘンとリューベックという後世に大発展を遂げた都市を建設した上、さらに領土も広げ、ついに赤ひげ皇帝と対立するようになり、最後は皇帝に追放された。イギリスで亡命生活を送ったらしい。

 なかなかの男と思って目をかけてやったのに、皇帝もつらい仕事なのだ。

 ただ、イタリア大遠征を繰り返す赤ひげ皇帝についていけず、オレがロンバルディア都市同盟を相手にしたらもっとうまくやるよと、商売上手な獅子公は考えたかもしれない。

 しかし、ドイツ史において、赤ひげ皇帝が皇帝らしい皇帝であったこともまちがいない。(中国の専制皇帝とは意味が違う)。

 1180年、赤ひげ皇帝はハインリッヒ獅子公のあと、ヴィッテルスバッハ家をバイエルン大公に封じた。

 以後、バイエルンは、1806年に大公国から王国となり、第1次大戦後の1918年に王制が廃止されるまで、700年余りをヴィッテルスバッハ家が統治した。

 なお、赤ひげ皇帝・フリードリッヒ1世の孫がフリードリッヒ2世。

 フリードリッヒ2世 (イタリアでは、フェデリーコ2世) については、当ブログ「シチリアへの旅」の2「なぜ、シチリアへ」、10の「シラクサ散策」などに書いた。早く生まれ過ぎた皇帝、ルネッサンスを先取りした皇帝と言われる。

        ★ 

<ミュンヘンの夜>

 日の暮れかけた時間に、やっとバイエルン王国の都ミュンヘンに入った。

 マクシミリアン・ヨーゼフ広場でバスを降りる。

 立派な広場にはマクシミリアン・ヨーゼフ像がある。バイエルン王国の初代国王である。

 (マクシミリアン・ヨーゼフ広場)

 旧市街の中心はマリーエン広場。黄昏の時刻を過ぎ、バイエルン王国の都はライトアップされて、そぞろ歩く人も多い。

 その広場を圧するように聳えているのが新市庁舎だ。中世風に見えるのはネオ・ゴシック様式だから。19世紀末から20世紀初頭にかけて造られた見た目より新しい建物である。

    (新市庁舎)

 新市庁舎の正面には高い塔があり、見上げると、ドイツ最大の仕掛け人形がある。

 マリーエン広場一帯は歩行者天国で、ミュンヘンでいちばんのオシャレなショッピング街だ。行き来する老若男女の群れも、心なしかうきうきとしているようで、ロマンチック街道の牧歌的な風景が遠い夢の中のような気がする。

 (オシャレな街にトラムも)

 旧市庁舎は第二次大戦の爆撃で完全に破壊された。

 再建され、今はおもちゃ博物館になっている。 

  (旧市庁舎)

 このあたりが、900年ほど前には鬱蒼とした森で、イーザル川の急流のほとりに小さな僧院があるだけだったとは、想像すらできない。

      ★

 ホフブロイショーを見ながらの遅い夕食だった。

 まあ、バイエルン風の歌声ビアホールだ。ステージの歌手たちに合わせて、大ジョッキを飲み干しながら歌を歌う。だが、日本の皆さんも私も疲れ切って、そういう気分にはなれず、とても乗れなかった。早くホテルへ帰って、湯舟につかりたい。     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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