ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

陽春のセーヌ左岸を歩く……陽春のブルゴーニュ・ロマネスクの旅 12

2015年08月14日 | 西欧旅行…フランス・ロマネスクの旅

 ( チュイルリー公園とモンマルトルの丘 )

5月30日(土)   曇りのち晴れ

< ブルゴーニュのタクシードライバー >

 ヴェズレーの丘に迎えに来てくれたタクシーの運転手は、昨日の運転手より一回り年上だろうか? アヴァロンの駅まで送ってもらう。

 昨日の若い運転手は、国道だか県道だかを120キロのスピードで走って、肝をつぶした。が、今朝のタクシーは、対向1車線ずつとはいえ、野の道、林の道、畑の道を120キロで飛ばす。ひぇー

 しかし、アヴァロン駅に着くと、荷物を降ろしてくれ、「良い旅を」と手を差し出した。「ありがとう」と、握手して別れる。落ち着いた、感じのいい好青年である。

 ヨーロッパ式の車の運転と、日本の車の運転とは、かなり感覚が違うのだろう。

 さて、これで、ブルゴーニュの旅は終わった。

         ★

< アヴァロン駅で >

 田舎の駅のせいか、券売機がない。券売機があれば、英語バージョンの画面にして、操作できるのだが…。

 窓口には、身体の大きな年配のおじさんがいる。この駅で、たった1人の駅員のようだ。この旅の手製の日程表の、今日の列車の箇所を示して、「この列車の切符を」と英語で言うと、その紙に「 Age + 60 ? 」と書いて示す。「イエス。ウイ、ウイ」。

 ヨーロッパでは、アンダー18歳と、60歳以上の汽車賃は、かなり安くなる。特急列車(TGV)ではないし、1等車でもないから、たいした値段ではないのだが、わざわざ確認してチケットを作ってくれるのが、うれしい

 アヴァロン発10時46分、パリには1時54分に到着する。

 列車は、一昨日、オーセールで眺めたあのヨンヌ川に沿って北上した。

 どこかで、セーヌ川に合流する。そして、パリへ。

 

      ( 車窓風景 )

                  ★

< パリの空の下、セーヌは流れる >

 ルーブル美術館の隣の、小さなホテルの、これ以上小さくならないという部屋に荷物を置いて、ホテルを出たのは午後3時。(こんな部屋でも、この旅で泊まったホテルの中で最高の値段だ)。

 朝、ヴェズレーでタクシーに乗ったときは曇り空だったが、パリは青空と、白い雲。

 今回のパリは、明朝、帰国の飛行機に乗るためである。

 だが、せっかくだからオルセー美術館だけは行こうと、日本でオルセーのHPを開いて予約チケットをゲットしてきた。もう何度もパリに来ているのに、オルセーには一度も入っていない。

 ホテルのあるセーヌ川の右岸から、ボン・デザール橋を渡って、左岸沿いにオルセー美術館へ向かう。

 セーヌ川沿いの左岸の道も、ぞろぞろと歩く観光客で一杯で、昨日までのブルゴーニュの田舎の風景が嘘のようだ。

 

    ( ポン・ヌフ橋とシテ島) 

 パリの良さは、街の中をセーヌ川が流れ、建物すべてが5、6階建てに統一されているから、空が広く、明るく、開放感があることだ。気分がうきうきする。

 それに、どこか哀愁があって、シャンソンが似合う街でもある。しかし、最近は、アコーデオンのおじさんが弾く「パリの空の下、セーヌは流れる」の軽やかな音色を、街角で聞くことがなくなった。

 それでも、各国からやって来た観光客たちは、みんなニコニコして、幸せそうに歩いている。そう、テーマパークに入ったときの顔と同じだ。

        ★

< オシャレなオルセー美術館 >

  ( 旧駅舎を改修したオルセー美術館 )

 オルセー美術館の中は人が多く、人いきれで暑苦しかった。中国人が多い。

 しかし、駅舎を改修した美術館はなかなかオシャレで、さすがはパリのセンスである。

 

        ( 地上階を見下ろす )

 写真撮影を許可しているのも、さすがフランス。ただし、フラッシュ撮影は厳禁である。

  

                                                                                   

 オルセーで期待していたのは、印象派の絵だけではなく、屋上のテラスからの展望である。パリのど真ん中、セーヌ川を見下ろすビューポイントはあまりない。

 遠く、モンマルトルの丘が、印象的だった。

 

 ( チュイルリー公園とモンマルトルの丘 )

        ★

< ラテン地区 >

 オルセーを出ると、この旅もいよいよ終わり。あとは、付録の付録、オマケのオマケだ。

 ホテルに帰るには日はまだ高く、セーヌ左岸の5区、6区 (ラテン地区) を歩いてみる。

 ラテン地区は、ラテン語 (ローマ語) を話す人々の地区の意らしい。BC1世紀に、ユリウス・カエサルの部下ラビエヌスがローマ軍を率いてシテ島に入り、やがてセーヌ左岸に街が造られた。今でも、この地域には、小規模ながらローマの遺跡が残っている。

 中世になると、ソルボンヌ大学がつくられた。ラテン語は必須で、各国からやって来た学者や若者はラテン語を共通語として会話した。スペインのバスク地方からやってきたソルボンヌの学生フランシスコ・ザビエルも、この辺りで生活し、勉強した。

 戦後しばらくまで、長い間、普通科リセ (大学進学コースの中高一貫校) へ入学した生徒は、ラテン語が必修科目だった。今でも、普通科リセに入学する生徒は3~4割に過ぎないから、エリートであった。言い換えれば、ラテン語ができるということは、ヨーロッパ社会において、知的スノッブであることだった。

 セーヌ左岸の5区、6区とは、そういう学生、教授、文学者や思想家などの街であった。

 今も、このあたりには、パリ大学の中心ソルボンヌ大学や、高等師範学校、フランスで最難関の普通科リセなどがある。サルトルは、高等師範学校の先生をしていた。

   しかし、この街も、この20~30年の間に変容し、今ではすっかり「オシャレな街」に様変わりしてしまった。ただ、どこか知的な雰囲気を感じさせる「オシャレな街」である。どんなに商業主義化しても、元の文化の香りを残すという繊細なセンスにおいて、ヨーロッパ人、なかんずくフランス人やイタリア人は優れている。ブルドーザーとセメントで、スクラップ&ビルドするばかりが、文明ではない。

        ★

< リュクサンブール公園からサン・シュルビス教会へ >

 RER(地下高速鉄道)でリュクサンブール公園へ行き、散策した。

 この公園は、17世紀に、アンリⅣ世の妃、マリー・ド・メディシスが造らせたイタリア式庭園である。左岸 (ラテン地区) の中心であるソルボンヌ大学の西に位置する。

          ( リュクサンブール公園 )

 以前、来たときは、秋が深く、ベンチで日向ぼっこする人がわずかにいるだけだった。木々は黄葉し、枯れ葉が舞って、ここにもパリがあると感じた。

 しかし、今日は、陽春の土曜日の午後。たいへんな人出で、その落差に驚く。

 本を読む孤独な初老の男。子どもを遊ばせる若いパパ、或いは、ママ。職場の同僚、或いは、男女。いろんな人が、ただ日差しを浴びている。日本人は、この紫外線を浴びるだけの日光浴に耐えられないが、これもまたパリだ。

 正面のリュクサンブール宮殿は、今は上院となっており、建物の周辺は、そちらにもこちらにも自動小銃を持った警官が配置されて、そばを通るだけでも、緊張する

 公園を出ると、北の方、セーヌ川へ向かって歩く。街の中も、どこもかしこも、人であふれていた。

 サン・シュルビス教会へ入る。西正面扉口から入った右手の壁に、19世紀にドラクロワが描いたフレスコ画「ジャコブと天使の戦い」を見つけた。以前、来たときはわからなかった。

 さらに北へ歩いて、サン・ジェルマン大通りの手前の路地にある日本料理店「築地」へ。刺身、サラダ、寿司、味噌汁、それに茶碗蒸し、熱燗。ちょっと贅沢した。

        ★

< サン・ジェルマン・デ・プレ教会からセーヌ川へ >

 サン・ジェルマン大通りを渡ったところに、「カフェ・ド・マゴ」。そのテラス席で、サン・ジェルマン・デ・プレ教会のロマネスク風の塔を眺めながら、コーヒーを飲んだ。

   ( サン・ジェルマン・デ・プレ教会 )

 ※ このカフェについては、以前にもブログに書いた。2012年10月21日号「セーヌ川の畔で」。カテゴリーは「西欧旅行…旅の若者たち(3)」である。

 5月下旬のパリの日没は9時半。おそい黄昏れが、やっと訪れる。

 カフェ・ド・マゴから歩いてすぐ、サン・ジェルマン・デ・プレ教会の北に、ドラクロワがサン・シュルビス教会の壁画を描くために住んだという小さな家 (アトリエ) が残されている。今は、ドラクロワ記念館だ。

 その記念館のあるごくごく小さな広場、フュルスタンベール広場を過ぎて、振り返ると、広場の中心の4本の樹木の向こうに、元サン・ジェルマン・デ・プレ修道院の、修道院長の館が見える。

 カフェ・ド・マゴからのサン・ジェルマン・デ・プレ教会の眺めとともに、私の心ひかれる「パリの小さな風景」の一つである。

 

    ( フュルスタンベール広場 )

  ここからは、どの道を通っても骨董店や画廊のあるパリらしい路地裏の通りを歩いて、ひとりでにセーヌ川に出る。

        ★

< 夜のセーヌ河畔と満月 >

 疲れていたが、足腰の最後の力をふりしぼって、もう一度、夜のセーヌ河畔を散策する。今日の万歩計は、2万歩を超えるだろう。

 昼と同じくらいに人が歩いていて、若者も多く、陽気で、楽しそうである。

 セーヌ川の向こうにエッフェル塔が見える。

  パリゼロ番地のノートル・ダム大聖堂もライトアップされ、その姿は気品がある。

 

  ( ライトアップのノートル・ダム大聖堂 )

  今夜は満月なのだろうか?

  ( 大聖堂の上の月 )

 明日は、帰国の飛行機に乗る。日本の月を見たくなった。

     ★   ★   ★

旅の終わりに >

 「ブルゴーニュ・ロマネスクの旅」の紀行は、これで終わりとします。

 随分と、微に入り、細をうがつ内容となってしまいました。真面目に読んでいたら大変で、読み飛ばしていただいたと思います。

 自分の頭の整理のために書きました。もし、ブログに書き留めるという作業をしなければ、せっかく本で読んで得た知識もあいまいなままに四散霧消し、旅の記憶もたちまち忘れていったことでしょう。

 それにしても、われながら、毎回、力仕事でした。

 勉強し、計画を立て、あれこれと準備するのも結構な力仕事、旅の10日間も年とともに力仕事となり、帰ってからブログにまとめるのも、私にとってかなりの力仕事です。

 しかし、こういうことができている間は、まだ生きているということの証しだと思いましょう。

 次に、また行くとしたら、古代ギリシャやローマ時代の遺跡の残るトルコ、或いは、ユーラシア大陸の果て、ロカ岬のあるポルトガル…。

 いずれにしろ、もう少し楽な旅を工夫しなければ、ちょっと無理です。

 それはともかく、このブログは、ちょっと休憩とします。なにしろ、毎回、A4用紙に印刷して、10枚前後。疲れました。

    また 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ヴェズレーの丘は、ブルゴーニュ・ロマネスクの至宝 …… 陽春のブルゴーニュ・ロマネスクの旅 11

2015年08月10日 | 西欧旅行…フランス・ロマネスクの旅

   ( ヴェズレーの丘からの眺め )

5月29日(金) のち

< この旅の第一の目的地ヴェズレーへ >

 この旅も終わり近くなった。

 今日は、サント・マドレーヌ・パジリカ (聖堂) があるヴェズレーの丘へ向かう。

 「ブルゴーニュと言えば、ワインでしょう」、「中でも、ボージョレ・ヌーボーでしょう」などと言う日本人は、フランス通産省の海千山千の商業主義に乗せられた「お人よし日本人」である

 ブルゴーニュと言えば、ヴェズレーの丘。私の中で、そこはブルゴーニュの中心。そして、サント・マドレーヌ・パジリカは、ロマネスク様式の建築と彫刻の至宝である。

 いよいよ「ブルゴーニュ・ロマネスクの旅」も、クライマックス、佳境に入る。ただ、少々地味ではあるが…

        ★

< タクシーの若い運転手 >

 ふつうは、アヴァロンという鉄道駅からタクシーに乗り、15キロ走ってもらって、ヴェズレーに行く。明日のパリ行きは、ヴェズレーからそのコースをとるつもりだが、今日は、オーセールからタクシーで行く

 列車でオーセールからアヴァロンへ行くには、途中、乗り継いで、75分かかる。さらに、オーセール駅までと、アヴァロン駅からと、二度、タクシーを使わなければならない。

 それなら、ちょっと贅沢だが、一気にタクシーで行こうというのである。ゴージャスな五つ星ホテルに泊まったり、星付きレストランで食事したり、高級なツアーに入って贅沢旅行するよりも、おカネのちょっとした正しい使い方である。

              ★ 

 昨日、オーセール駅からホテルまで乗ったタクシーの運転手に、明朝、ヴェズレーへ行くから迎えに来てほしいと頼んだ、そのタクシーが来ない。

 荷造りして、ホテルの前で15分待ったが来ない。しびれを切らし、昨日、運転手からもらった名刺をホテルのマダムに示して、多少の英語と大部分は身振り手振りで、電話をかけてと頼んだ。事情を理解したマダムの顔色が一瞬、曇り、わがことのように申し訳なさそうな表情になった。小さな町だから、よく知っている若者なのだろう。「何やってんの、ジャック。お客さんを待たせて」、という感じだ。

 タクシーが飛んできた。若者が緊張した表情で降りてきて、マダムに一言、叱責され、神妙に荷物を積んでくれた。

 運転しながら、観光案内もしてくれる。しかし、…… パリの街の中や、パリから空港へ行く高速道路で、前を行く車を次々抜き、抜かれることは絶対ないという、ガッツあふれる運転には慣れていたが、対向一車線の田舎の国道(県道かな)を、120キロでとばす運転には慣れていなかった。

   遅い車を追い抜くとき、思わず「アッ、(危ない! ) 」と、恐怖の声が漏れたが、「えっ? どうかしましたか? 大丈夫ですか? 」と、心配して聞いてくれる。自分の運転のせいだとは、つゆ思っていない。マダムの運転する鉄道バスも速かったが、バスはバス。その比ではない

 1時間ほどで、ブルゴーニュらしい野の起伏の中に、小さな村落と、その上に聖堂の建つ丘が見えた。あれだ!!

 車は、一本の道筋に沿って小さな土産物店やレストランが並んだ、サント・マドレーヌ寺院の門前町のような通りを、丘の頂上へ向けて上る。

  

       ( ヴェズレーの村と聖堂 )

 ほどなく頂上の広場に出た。正面にはサント・マドレーヌ聖堂が建つ。パジリカの右手の建物が、今夜の宿である。世界遺産の隣にあるホテルだ。

 タクシーの若者は重い荷物をホテルへ運び、チェックインもしてくれた。

 入った所がレストランになっていて、ご近所のおじさんたちがモーニングコーヒーを楽しんでいる。若干のチップ込みでタクシー代を渡すと、恐縮して、「コーヒーを飲みませんか」と勧め、エスプレッソをご馳走してくれた。律儀な青年である。オーセールに帰ったら、ホテルのあのマダムに、もう一回叱られるかもしれない。

        ★

< マグダラのマリア伝説とサント・マドレーヌ聖堂 >

 朝、オーセールを出発して、ずっと曇り空だったが、ヴェズレーで青空になった。空気が澄んで、気持ちが良い。

 ここは、ブルゴーニュの野のど真ん中。丘の頂上に聖堂があり、それ以外に何もない。

 これから明日の朝まで、24時間ほどここで過ごす。

   ( サント・マドレーヌ聖堂。右にホテル )

 「まるで寄木細工の寺院である。四角と三角と円形とを組み合わせた単純な外形だが、独特の美しさを持っている」(井上靖『化石』から)

 ただし、この西正面は、13世紀と19世紀に改修されて、ロマネスク時代のものではない。   

 サント・マドレーヌとは、マグダラのマリアのことである。イエスの生前、12人の弟子たち以外にも、イエスに付き従った女性たちがいた。マグダラのマリアは、そのなかでもイエスに最も愛された女性であり、イエスが処刑されて岩窟に葬られたあと、復活のイエスに最初に出会ったのも、マグダラのマリアである。

 イエス昇天後、彼女がどこでどう生きたかについては、諸伝説がある。

 一説によると、彼女はラザロらとともに南仏に逃れて布教し、死後、その遺体はヴェズレーに移された。

 11世紀になると、マグダラのマリアの遺骸を持つサント・マドレーヌ聖堂は、あのクリュニー修道会の傘下に入って、スペインのサンチャゴ・デ・コンポステーラへ巡礼する巡礼路の出発点となった。聖堂前のこの広場は、遥かに遠く巡礼の旅に発つ多くの巡礼者たちの熱気に埋め尽くされた広場である。

 さらに別の一説によると、マグダラのマリアとイエスは男女の関係にあった。身ごもっていたマリアは、イエスの死後、信徒たちに守られてフランスに逃げてきた。その子孫が、フランク王国のメロヴィング朝へと続く。という話を踏まえて作られたのが、映画にもなった『ダ・ヴィンチ・コード』である。

        ★

< ルネッサンスに先んじたロマネスク美術 >  

 サント・マドレーヌ聖堂の西正面右側の扉口を入ると、ナルテックス(入口の間)と呼ばれる空間がある。

 そこにもう一つ扉口があって、その奥が身廊である。

 本来、身廊は信徒の入ることができる空間。ナルテックスは信徒と非信徒とを分ける空間だった。

 そのナルテックスから身廊に入る3つの扉口の上の半円部分 = タンパン、特に中央扉口のタンパン「使徒に使命を与えるキリスト像」が、オータンのサン・ラザール大聖堂のタンパン「最後の審判」とともに、ロマネスク美術の至宝とされる。

 身体をS字状にくねらせ、大きな両手を広げている巨大なキリスト像である。

 

    ( タンパンのキリスト像 )

 先に訪問したシトー派のフォントネー修道院は、まことに清冽で、このような彫像は一切なかった。

 同じブルゴーニュの地に起こったシトー派は、大きな聖堂建築を造り、彫像で飾り立てるクリュニー派を厳しく批判した。

 シトー派が批判するのもわかる。モーゼの十戒の一つは、このように偶像を刻み、拝むことを禁じている。

 しかし、それはキリスト教の純化を求める立場からの正義。人類の文化遺産という立場に立つ美術史家の記述では、こうなる。

馬杉宗夫『大聖堂のコスモロジー』から

 「紀元1000年を境として、ヨーロッパ中に建てはじめられたロマネスク聖堂扉口に、古代ローマ時代以来忘れられていた石による大彫刻が、奇跡のごとく、壮大な形で復活してくるのである。

 西欧美術の展開の中で、聖堂扉口を飾る壮大な大彫刻の登場ほど画期的なものはなかろう」。

 ならば、中世ロマネスク芸術は、暗黒の中世を打ち破る第一のルネッサンスであったとも言えよう。でなければ、あのオータンの大聖堂に掲げられていた「裸のイブ」像は、理解できない。

        ★

馬杉宗夫『大聖堂のコスモロジー』から

 「身廊に入るや、…… まず目につくのは、白とピンク色の交互の石による横断アーチの列である。それは、西から祭室のある東側に向かう方向性にアクセントを与えている」。「身廊部には10もの柱間があり、他の聖堂よりかなり長い身廊にされ…… 西から東へと向かう水平的方向性を強調しているのである」。

 

 

          ( 身廊部)

 ロマネスク様式の身廊には、高い窓にステンドグラスが輝くというゴシック様式の華やかさや神秘性は、ない。しかし、古い石の持つ温かみがあり、柱頭彫刻の形態の面白さとともに、どこかなつかしい、やさしさがある。

 神父さんと尼僧が何やら話をしている。その姿が、ここが今も生きた信仰の場であることを示している。

馬杉宗夫『大聖堂のコスモロジー』から

  「豊かさ。これがヴェズレーのサント・マドレーヌ聖堂の印象である。色彩にみちた華やかな石組。聖堂内の柱頭にも、主として旧約聖書から引用された物語が所狭しとばかりに刻まれ、扉口彫刻とともに、クリュニー派の豊かで大らかな形態観を見せている」(同)。

  

       ( 柱頭彫刻 )

 井上靖『化石』の主人公は、柱頭彫刻にひかれ、オペラグラスで見て回る。

井上靖『化石』から

 「これら(柱頭彫刻)を造った者は、…… この地方の名もなき石工たちであったに違いないと思われた。庶民の知恵以外からは出ないアイディアがここには生かされてあり、しかも、それが立派な芸術作品になり得ているのである」。

        ★  

< ヴェズレーの丘の白い雲と野の広がり >

 「 (丘を) のぼり切って右側奥の教会裏から眺める春のブルゴーニュの風景の何と美しいことか、杏の花が咲くサン・ピエールの村が下に見え、遠くはるかに緑の丘の起伏が連なる」(饗庭孝男『フランス四季暦』)

 こうした美しい紀行文や物語の幾つかに心ひかれて、この旅は始まった。いよいよ「ブルゴーニュ・ロマネスクの旅」の最終章、最後の目的地である。

 ここからは、井上靖 (『化石』の文章にゆだねよう。

 「建物に沿って裏手へまわって行くと、一面のマロニエの林である。…… そのマロニエの木立の向こうに城壁のような石の塀がまわっていて、そこに身を寄せている二人の女性の姿が見えた」。

  

    ( 聖堂の裏手のテラス )

 ( 聖堂の裏手に回り、野の道を行く ) 

 「…… 石の塀に身を寄せ、そこから、いま自分が立っている丘を取り巻くようにして、広がっている平原を眺め渡した。雄大な眺めであった。上から見ると、小さい丘が何十となく重なり合って波打っており、……」                

   

 「大平原ですね」

 一鬼が言うと、

 「ここからの俯瞰はみごとです。あの、ずっと向うに赤い屋根の集落が見えるでしょう」

 岸は言った。…… 家々が互いにひっそりと寄せ合っているような美しい集落の表情である。

 「あそこはサン・ペルという村です。あそこにもロマンの教会があります。お寺の塔が見えるはずですが」

 なるほど教会らしいものの塔が、玩具のそれのように小さく見えている。

 「この辺は、どこの村にも、ロマンの教会があります。……」 (以上『化石』) 

 

    ( サン・ピエールの村 )

 最後の岸の言葉が、ブルゴーニュらしくて、良い。

        ★

< ホテルの前のテラス席で白ワインを >

 心ゆくまで、、青い空と、白い雲と、その下に広がるブルゴーニュの野の広がりを見た。

 「見るべきものは見つ」。

 聖堂前の広場に戻り、村の本通りのお土産やさんを見て回る。

 一軒のワイン屋さんで、ちょっと高級な赤ワインを2本買った。ブルゴーニュを旅した以上、お土産にはワインしかない。ただし、私がブルゴーニュワインを贔屓にするのは、そこがロマネスクの里であるからだ。

 

  ( ヴェズレー村の本通り )

  ( ちょっと面白い看板 )

 旅の終わりにお土産も買って、もう、何もすることはない。それに、歩き疲れた。

 今夜泊まるホテルの前に置かれたテーブル席に座って、脚を投げ出し、聖堂のたたずまいや、雲の変化を、ぼんやりと見上げる。

 改めて、野の花のように、鄙びた風情の、いい感じの聖堂だと思う。

 聖堂の前の広場も、広すぎず、「ミケランジェロが設計した広場です」などという仰々しさもなく、春のブルゴーニュの丘の上の広場にふさわしい。

 ホテルのムッシュの息子が出てきて、「何かお飲み物をお持ちしましょうか」と聞く。「白ワインを」。

  

  大きな聖堂の右下にある、いかにも小さな扉口。そこを出入りする、さらに小さな見学者たち…。

 彼ら、彼女らの背景には、いろんな思いを抱いてここを訪れ、祈り、願い、嘆き、感謝して去って行った、千年に及ぶ人々の「生」の積み重ねがある。それが歴史というものだ。

 時折、修道僧や修道尼の姿も、扉口から出入りする。多分、この広場に面した建物のどれかが修道尼用、聖堂の裏手の建物のどれかが修道僧用の僧坊として、使われているのだろう。

 別々の高校生のグループが、2組やってきた。見ていると、中には、聖堂よりも、彼女や彼に興味がある生徒もいる。どこの国も同じだ。

  

 一般の見学者は、当然のことながら、西欧人が圧倒的に多い。夏休みではないから、それなりの年配のご夫婦、或いは、グルーブ・ツアーである。

 陽気なグループは、アメリカ人だろうか? それとも、ドイツ人?

 ドイツ人は、大ジョッキを持って歌を歌い、陽気に騒いでいるかと思えば、黄昏迫るころには「若きウェルテル」のようにメランコリックになったりする、と犬養道子さんが書いていた (『ヨーロッパの心』)。一般に誤解されているが、フランス人は明晰さを好み、悪く言えば理屈っぽい人。数学はフランス。ドイツ人は憂いの人で、人生とは何かを考える哲学タイプ。両者の違いは、清少納言と紫式部に似ている。「をかし」の清少納言から見れば、紫式部は深刻ぶったイヤな人だし、「もののあはれ」の紫式部から見れば、清少納言は理屈っぽいくせに、「軽い」人だ。 

   東洋人の姿は見かけない。パリを席巻するようになったあの中国人観光客も、ここでは見かけない。

   ただし、数は少ないが、日本人はいる。年配のおばさまたち数名のグループとか、リタイアしたご夫婦とかである。日本の旅行社のツアーは、ここには来ない。

紅山雪夫『ヨーロッパものしり紀行 ── 建築・美術工芸編』から

 「初めてヨーロッパを訪れる日本人はみな、雄大にして荘厳なゴシック建築に感嘆の声をあげる。しかし、ゴシック建築を見慣れてから、さらに古いロマネスク建築に接すると、ロマネスク式の方が好きになる人がたいへん多い。

 ゴシック式と違って、ロマネスク式には仰々しいところがなく、簡素な中に何ともいえぬ深い味わいがある。それが日本人の感性、美意識にぴったりなのだ。日本の古寺を訪れたときに似た心の安らぎを与えてくれる点で、ロマネスク式は数ある教会建築の中でも一番である。ロマネスク式独特の素朴で幻想的な彫刻にひかれる人も多い。今後もロマネスク式の愛好者はますます増えるだろう」。

 私が、この紀行で伝えたかったことは、これに尽きる。

 バロックの国ドイツで、日本人に人気があるのはロマンチック街道である。今でも、日本人が多いし、私ももう一度行きたい。メルヘンチックな雰囲気と、素朴な田舎の風景が日本人好みなのだ。

 中国人は、近くのウイーンやザルッブルグにあふれているが、ロマンチック街道ではあまり見かけない。

        ★

 < 交響楽の聞こえるヴェズレーの丘 >

 夕刻、もう一度、ブルゴーニュの野を俯瞰するテラスに行ってみた。

 暮れるになお時間があり、今日一日の最後の数刻の光が、静かに平野を満たしていた。

   空気は一層、澄み切り、透明感を増していた。

 静かであった。その静寂の中に、音楽が聞こえてくるようだった。交響楽だ。

 その荘厳な広がりは、日本人の感性とは微妙に異なるものであったが、心に沁みた。

  ( 夕刻のテラスからの眺め )

  テラスから帰ると、待つほどもなく黄昏れ時になった。空は、美しい濃い紺青となり、灯がともされ、聖堂もライトアップされた。ヨーロッパを旅していて、この時刻の空の色は本当に美しい。この青を見るために、旅をしているのかもしれない。

 やがて、月が上った。

  

 俳句が一句、浮かびかけたが、やめた。石の建物の上に出る月は、俳句では表現できない。

 俳句で表現するにしても、英語やフランス語の俳句になる。今、各国で静かなブームとなっている自国語による俳句だ。短詩型の一種である。

         ★

< サント・マドレーヌ聖堂の朝のミサ >

   翌朝、もう一度、サント・マドレーヌ聖堂へ行った。

 日の出は遅く、少し冷えた。

        ( 朝のミサ )

 聖堂の中では、オルガンが弾かれ、数名の修道僧と修道尼が、静かにミサをあげていた。他に人はいない。

 そこには、観光のサント・マドレーヌ・パジリカではなく、信仰のサント・マドレーヌ・パジリカがあった。

 それは、我々には異質のものであるが、まちがいなく、人間の営みの一端、今も生きているヨーロッパの姿である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ヨンヌ川の青い空と白い雲…… 陽春のブルゴーニュ・ロマネスクの旅10

2015年08月06日 | 西欧旅行…フランス・ロマネスクの旅

5月28日 (木) 快晴

< オーセールの二つ星ホテル >

 今日は、オーセールヘ行く。

 3泊したディジョンのホテルは、駅から遠かったが、それでも駅前ホテルを除けば一番駅に近い。駅前ホテルは、旧市街から遠いから、原則、避ける。近代的なホテルではないが、旧市街の入り口にあって落ち着ける宿だった。ディジョンではそれなりに評判のレストランを兼ねていて、結構、忙しそうだったから、3日も泊まって、その間、朝出て、夕方、帰ってくるだけの静かな客は、ありがたい存在だったかもしれない。

        ★

 ディジョン発8時29分。途中、乗り換えなしで、オーセールには10時23分に着く。同じブルゴーニュ地方の移動なのに、各駅停車の旅だから、結構、時間がかかる。

 それでも、天気が良く、ブルゴーニュの車窓風景を楽しんだ。

 

  ( ブルゴーニュの車窓風景 )

 オーセールの駅前からタクシーに乗る。

 

    ( オーセール駅 )

 途中、若い運転手に、ヴェズレーまでの料金を聞き、明朝、ホテルに迎えに来てくれるよう頼んだ。明日は、奮発して、ヴェズレーまでタクシーで行く。

 今日の宿は、二つ星だ。ふだんは四つ星クラスに泊まっている。かなり格下だ。旧市街の、ヨンヌ川に近い旧市街のホテルの中から、落ち着けそうなこの宿を選んだ。

 この町で近代的な規模と設備をもつホテルは1軒だけで、旧市街のはずれまで行かねばならない。

 こうした小さな町の旧市街 (保存地区) のホテルは、個々の建物も小さく、古ぼけて、設備も劣るが、何といっても観光に便利だし、それに、こういう古びた小さいホテルは、ヨーロッパらしい味わいがあっていい。

  

   ( ホテルの入り口 )

 「ヨーロッパを旅するとき、… 私は基本的に宿については決して大きな期待をもたない。休み、眠ることができれば十分なのである。…… 旅の宿というのは、時の流れにいて時から切り離されたような、孤独で自由で、内省的な空間である」(饗庭孝男『ヨーロッパの四季』から)。

 客の乗って来たバイクの向こう、右手の出っ張りの庇がフロントである。英語は全く通じなかった。正面の青いパラソルの先は、ホテルの経営するレストラン。その左手の建物の階段を上がれば客室である。奥まっていて、なかなかいい感じだ。

        ★

< 美しいヨンヌ川の青い空と白い雲 >

 チェックインして、まっ先に向かったのは、ヨンヌ川に架かるポール・ベール橋。事前調査では、ここがこの街の最高のビューポイントである。

 今、フランスが一番輝く季節。青空と、ヨンヌ川の上の白い雲の群れ。川の水に空が映える。

 見た瞬間に、フランス印象派が描いた空がある、と思った。光を愛し、光にこだわった印象派の画家たちが見た空は、こういう空だったに違いない。

 日本は湿潤な国だ。梅雨の時期の、雨に煙る緑はしっとりとして、同じ緑でもやわらかなグラデーションに富む。

 ヨーロッパの空気は、突き抜けるような透明感があり、ものの輪郭は鮮明で、光と陰の二元論の世界である。

 橋から川下を見ている。ヨンヌ川は、ブルゴーニュの平野を北へ向かって流れ、やがてセーヌ川となり、パリを経て、大西洋に注ぐ。

 左岸にある大きな建物がサン・テティエンヌ大聖堂。その向こうに小さく見えるのは、サン・ジェルマン修道院。教会が多く、それがオーセールの景観を豊かにしている。

 人口は4万2千人。ブルゴーニュ地方の中では、北の方、パリ寄りに位置している。     

 古来からヨンヌ川を利用した水上交通の町。中世には、サン・ジェルマン修道院や、サン・テティエンヌ大聖堂に参詣する巡礼者でにぎわった。近世になり、パリが大きくなると、不足する暖房用の木材をパリへ運ぶ、水運の拠点の一つになった。

 景色を堪能して、右岸を川下の方へ、のんびりと歩いていく。

 今日の旅の目的は、素晴らしいこの景色!! 目的は果たした。あとは、付録に過ぎない。

        ★

< 大聖堂のクリプトに残るフレスコ画 >

  聖テティエンヌはフランスでの呼び方で、聖ステパノのこと。「使徒行伝」に登場するキリスト教の最初の殉教者である。頑固な性格で、ユダヤ教を批判したため、石打の刑に処せられた。

 聖テティエンヌを冠した大聖堂は各地にあるが、オーセールの大聖堂は、13世紀~15世紀にゴシック様式で建てられた。

 今まで見学してきたロマネスク様式の大聖堂 (その後、ゴシック様式に改修されていても) と比べると、圧倒的に天井が高く、高い窓にはステンドグラスがきらめいている。

 

     ( ゴシック様式の大聖堂 )

   ( ステンドグラス )

 この大聖堂にも、ロマネスク時代のクリプト(地下祭室)があり、その天井に描かれているフレスコ画が有名である。

 「白い馬に乗るキリスト」の像。不思議な感覚の絵だった。

   ( 大聖堂のクリプト ) 

  ( 天井のフレスコ画 )

< サン・ジェルマン修道院とリセの生徒たち >

 サン・ジェルマン修道院に向かう。

 この町も丘の上の町である。紀元前の昔から、ヨーロッパで町は丘の上に造られた。敵の攻撃に絶えず備えていなければならなかったのだろう。町を歩くと、上り道か、下り道かのどちらかになる。しかも、石畳の道はウォーキングシューズでも歩きにくく、こういう街で生活する人は、よほど足腰がたくましい。

 聖ジェルマンは、ご当地・オーセールの出身だそう。448年にラヴェンナで没し、ローマ皇帝の命で、遺骸は故郷に運ばれた。そして、小さなクリプトが造られて葬られた。

 その場所に、6世紀、ベネディクト会の修道院がつくられ、9世紀にはサンジェルマン修道院になった。

 パリにも、サン・ジェルマン・デ・プレ教会がある。今はロマネスクの風貌を残す瀟洒な教会が一つあるだけだが、昔はパリを代表する大きな修道院で、広大な敷地をもっていたらしい。

 こちらのサン・ジェルマン聖堂は、今は観光用のためだけに整えられた聖堂で、受付には公務員のような女性がいて、聖堂の中はただ明るく、ガランとして、何百年に渡る人々の生きた証しである信仰のにおいは全く感じられなかった。

 聖堂の地下には、小さなクリプトとフレスコ画があるそうだが、ガイドツアーでしか見学できず、予約の必要があるというのでやめた。

         ★

 修道院の前の広場の隅に座って、一休みする。心地よいフランスの春だ。歩き疲れ、今日の旅の「目的」も既に成し遂げた。

 広場の一角に門があり、奥に美しい建物が見えた。表札を見ると、「リセ・サン・ジェルマン」とある。

 

       (  リセ・サン・ジェルマン ) 

 「リセ」は、日本で言えば、旧制中学校(女学校)に相当する。もちろん、男女共学。今の日本の学制で言えば、中学校と高校を併せた中高一貫校に近い。

 美しい校舎は、元サン・ジェルマン修道院の敷地と建物の一角を利用したものであろう。日本にも、城址に建つ高校がある。たいてい、名門校だ。

 

    ( リセの生徒たち )

  ぼんやり座っていると、突然、「こんにちわ」と、遠くから日本語で呼びかけられた。見ると、広場の向こうに、女性の先生2人に引率された20人ほどの男女の生徒たちがいて、皆、こちらを見ている。そういえば、さっきから、あれこれと呼びかけられていたのだ。英語で挨拶を返すと、「こんにちわ」と日本語で声をかけて成功した生徒が、皆の歓声と拍手に囲まれ、うれしそうだった。

 英語で二言、三言、生徒たちに向かって話しかけたが、どうも通じない。授業中だから、あまり邪魔しては先生に悪いと思って、立ち上がって、先生に挨拶して、別れた。先生は、綺麗な英語を話した。

            ★

< ニヴェルネ運河 のクルージング >

 殉教者の話や聖人の遺骸には、いささか食傷した。

 川べりを歩いていたとき見かけた、ヨンヌ川の遊覧船に乗ろう。その方が、開放感があって、何より楽だ。

 修道院のある丘から川の方へ下りていった。

 川べりは、あちこちに置かれたベンチで、旅人たちが美しい風景を楽しんでいる。本当に美しい町だ。

 

               ( ヨンヌ川の川べり )

 

    ( 遊覧船の乗り場付近 )

 遊覧船に乗って、ガイドの説明を聞くともなく聞いているうちに、気付いた。

 川から見る美しい景色をしばらく堪能しようと遊覧船に乗ったのだが、どうやらこの船は「ニヴェルネ運河」を遊覧・見学するための遊覧船のようだ。

 キャビンには国籍がばらばらの10名少々の乗客。女性ガイドが、フランス語と英語で説明し、フランス人以外の乗客のテーブルには時々足を運んで、本の写真などを示して、一生懸命説明してくれる。

 もらったリーフレットを参考にして、ほとんどわからないが、少しは分かった。

 こういうことだ。

 ニヴェルネ運河は全長174キロ。ロワール渓谷とセーヌ川を結ぶ。

 18、19世紀に、パリの人口が増え、冬、暖炉で焚く薪に不足した。そのため、ロワール渓谷のモルヴァンの森から木材を切り出し、筏に組んで、20日かけてパリへ運んだ。ところが、ヨンヌ川は暴れ川で、筏を流すのに困難があったので、ニヴェルネ運河が切り開かれた。

 今はそういう役目も終わったが、森の静寂の中を行くこの運河は、フランスに数ある運河の中でも屈指の美しさを誇り、河川・運河クルーズ愛好家の人気No1のコースになっている。

         ★

 遊覧船は、オーセールの街中を抜けるとすぐにヨンヌ川と別れ、水門のあるドックで水位の調整をし、森の中へ入っていった。

 昔は曳船用の道だったのか、運河に沿う道を、ウォーキングしたり、ランニングしたり、サイクリングしたり。いかにもヨーロッパらしい人生の楽しみ方をする人たちがいる。森の中には芸術村などもあるようだ。

 船は、徒歩でも付いて行けるぐらいのゆったりした速度で進み、時が止まったような1時間半だった。 

 

        ( ニヴェルネ運河遊覧船から )

 

 

 

 

 

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