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ドナウ川の白い雲

国内旅行しながら勉強したこと、ヨーロッパの旅の思い出、読んだ本のこと、日々の所感など。

不来方のお城の草に寝ころびて … 陸奥の国・岩手県平泉と盛岡の旅(7/7)

2025年04月12日 | 国内旅行…陸奥の国紀行

(盛岡の街角 … ホテルの窓から)

 盛岡は城下町らしい気品と落ち着きがある町だ。町の規模が大きすぎず、市街を川が流れ、オシャレな店も多く、歩いて楽しい。 

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 歴史は古い。なにしろ約1万3千年前の旧石器時代の槍の先が出土しているそうだ。縄文時代草創期の土器や、約5千年前の縄文中期の集落の跡、それに芸術的な縄文土器 … そういう遺跡があちこちにある。「やまとは国のまほろば」と思い込んでいた畿内人にとっては、とてつもない彼方である。

 最近の遺伝子研究の進歩で、弥生時代の始まりはBC1000年ぐらいまで遡ることがわかった。弥生土器、青銅器・鉄器、農業・コメ作りで象徴される弥生人は、北九州→山陰・瀬戸内→近畿→中部→関東→そして東北へと、それぞれの場所で100年~300年間も立ち止まりながら、ゆっくりと進出し、縄文人と混血していった。集落を接して住んだ形跡は残るが、戦いの痕跡はない。日本列島の本土に住む人の遺伝子の10%ぐらいは縄文人の遺伝子だそうだ。

 ゆっくり進んだとしても、東北の縄文文化に弥生文化が混じり合うようになったのは、私たちが想像してきたよりも遥かに古い時期のはずだ。

 ちなみに、 弥生時代の始まりがBC1000年ぐらいまで遡るにもかかわらず、魏志倭人伝に登場する邪馬台国が未だ北九州の片隅にあったとするのは、今や理解しがたい説である。魏志倭人伝は卑弥呼を3世紀前半の人だとする。彼女の死はAD250年ごろ。その頃、大和において巨大な前方後円墳の時代が始まった。その後の展開は、前方後円墳の全国への広がりに見るとおりである。

 そういう時間の流れからすれば、11世紀は「近年」と言っても良いのだが、蝦夷系のリーダーとして安倍氏が奥六郡の統率者となった。

 12世紀には、安倍氏と姻戚関係のある奥州藤原氏が東北全域を勢力圏とし、平泉文化をつくった。

 鎌倉時代になると有力御家人が地頭として配置された。

 室町から戦国時代にかけては有力豪族が競ったが、豊臣秀吉によって南部氏の盛岡藩が誕生した。

 以後、江戸時代を通じて、南部氏が藩のお殿様であった。

 南部氏は初め、北上川と中津川が合流する丘陵上に盛岡城を築いた。

 城下町の基盤をつくったのは2代藩主である。お城の周りに二重の外堀、その周りに商人や職人が住み、その外側に武士の屋敷や寺が配置された。

 戊辰戦争を経て、盛岡城は1874(明治7)年に取り壊されたが、その後、盛岡城跡公園として整備された。現在の盛岡は、城下町らしい気品と情緒があり、地方の中核都市としての役割を果たしている。

 戊辰戦争以後の近代日本の発展の中で、この城下町から優秀な人材が育ち、活躍している。例えば、平民宰相として歴史教科書に載る原敬(1856~1921)、国際連盟事務次長を務めた新渡戸稲造(1862~1933)、海軍大将、総理大臣、そして最後の海軍大臣として太平洋戦争の終結に尽力した米内光政(1880~1948)、言語学者でアイヌ語研究の金田一京助(1882~1971)、そして望郷の歌人石川啄木(1886~1912)など。米内光政、金田一京助、石川啄木らは、旧盛岡中学校、現岩手県立盛岡第一高等学校の卒業生である(ただし、啄木は最後の学年で中退している)。

      ★

 志波城柵を見学した午後、盛岡駅前から環状バスで「上の橋」へ。上の橋から中津川沿いを、途中、城跡公園に入り、また、中津川畔に戻って、北上川の合流点へと散策して歩いた。

    (中津川の上の橋)

 上の橋は2代藩主の城下建設の折に架けられた橋で、橋の欄干には京都の三条の大橋を思わせる青銅製の擬宝珠(ギボシ)が残り、城下町盛岡のシンボルとなっている。

 私は瀬戸内海の気候温暖な城下町に生まれ、高校を卒業するまで過ごした。そのせいか、こういう地方の城下町のもつ風情に心ひかれる。

 例えば、加賀百万石の城下町の金沢は、街の中を犀川と浅野川が流れ、武家屋敷街や茶屋町街が残っていて、どっしりと落ち着いた風情がある。犀川の水音が耳に残り、川音を聞いているとなぜか室生犀星の「ふるさとは遠きにありて」が浮かんでくる。

 小さな城下町もいい。例えば、大分県の杵築も、臼杵も、町並みがきよらかで、住む人々のつつしみや規律が感じられる。

  (中津川)

 中津川のこのあたりまで、毎年、サケが遡上してきたそうだ。ところが、この2、3年、気候変動のせいか姿を見せないという。遡上は今の季節である。私が行くからには、奇跡よ起これ、と期待したが、魚影はなかった

 中の橋の辺りでなおも水中の気配を覗いていたら、近所の奥さんが出てきて「いますか??」と声をかけられた。「いえ、いません」と言うとがっかりされた様子。あまり熱心に覗いていたので、もしやと思われたのかもしれない。「2年前まてはのぼって来てたんですよ」「どこから川に入るのでしょう??」と聞いてみた。「それは、北上川の河口でしょう」との返事。そうかもしれないと思っていたが、もしそうなら、川旅だけでも遥々と壮大である。

 中津川に面して小さな美術館があった。「野の花美術館」とある。

 深沢紅子(コウコ)という盛岡出身の女性画家(1903~1993)の作品を展示する個人美術館だった。紅子さんの絵は繊細でオシャレだった。「立原道造(1914~1939)の生誕110年」のリーフレットが置かれていて、つい最近、ここで講演会があったそうだ。深沢紅子さんは、戦前、堀辰雄や立原道造の本の装丁にも携わっており、その縁で立原道造が病気静養のため1か月ほど盛岡に滞在したことがあるという。

 係りの女性が「立原道造をご存じなんですか」。「遥か昔、学生時代に詩集を読んでから。好きな詩人でしたが、盛岡との縁は知りませんでした」。

 このような個人美術館を維持し続けるのは大変だろうけど、いろいろな企画を通して、町の文化の振興や人々の交流に貢献しているのだと思う。

  (岩手銀行赤レンガ館)

 「岩手銀行赤レンガ館」、「ござ九森九商店」、「啄木・賢治青春館」などは、外から建物だけ眺めた。

 そして、川べりから離れて、盛岡城跡公園の北の入り口へ向かう。

  (櫻山神社)

 お城の入り口に櫻山神社があった。南部のお殿様の神社のようだ。神社の奥に大きな烏帽子岩があった。

  (城跡公園の石垣)

 天守閣も、二の丸、三の丸もないが、東北随一の美しい石垣の残る城跡として国指定史跡となり、その後、「日本の名城100選」にも選定された。

 三の丸跡を行くと、目指す啄木の歌碑があった。

  (啄木歌碑)

「不来方(コズカタ)のお城の草に寝ころびて/空に吸はれし/十五のこころ」

 初めてこの歌を読んだとき、「不来方のお城」という言葉の響きに遥かなロマンを感じ、「みちのく」にあこがれた。

 啄木の歌集『一握の砂』の、この歌の前には

「教室の窓より遁げて/ただ一人/かの城あとに寝にゆきしかな」がある。

 優秀な成績で入学した啄木だが、学年が上がるにつれて成績は下降し、こうして学校をさぼり、定期考査では2度もカンニングをし、さらに校長排斥の校内ストライキを組織して、最終学年の途中、退学処分になった。学校のせいにし、或いは、世の中のせいにしても、結局は、本人の放埓の心、不遜の態度、不逞の行動の結果である。

 それでも、「ただ一人/かの城あとに寝にゆきしかな」という啄木の心に共感する。青春性 … かなあ。東京の学生時代は、自分もこうであった。

 予習をしてきていないと怒る教師からも、学ぶ意味を感じない日々の授業からも、権威主義的な圧迫を覚える学校からも、一家の長男として期待する親や家族からも、そういうあらゆる期待や義務、自分を束縛するものから、啄木は自由になりたかったのだ。そして、空をゆく白い雲にあこがれた … 。

 さて、「不来方(コズカタ)」という「お城」の名の由来となった地名のことである。

 「盛岡」という地名は南部氏によって命名された新しい名。もともと、この地は「不来方」という地名だった。

 南部氏以前からここに不来方城があったらしい。南部氏が入ってきて、それまでの城を基礎に城郭を拡大して、新「不来方城」を築いた。

 ただ、南部のお殿様は、「どうも不来方という名は縁起が悪い」と思ったようだ。そして、城がある丘に樹木が生い茂っていたので「森が岡」とした。さらにそれに縁起の良い文字を当てて「盛岡」とした。

 南部のお殿様は「不来方」の意味が良くないとこだわったのだが、そうだろうか?? ロマンがあり、響きもよい。それで、今は、盛岡の雅称としてあちこちで使われている。高校の名にも、橋の名にも。

 では、古くからこの地の名であった「不来方」のいわれは何か?? これについては、諸説あって面白いが、明らかではないので省略 … 。

 啄木の歌碑をあとにして、少し先に進むと、新渡戸稲造の記念碑があった。「願わくはわれ、太平洋の橋とならん」という有名な言葉が刻まれていた。

 さらに進んで、本丸跡を抜け、再度、中津川の右岸に出た。

 下の橋を渡って、新渡戸稲造誕生の地へ。

 (新渡戸稲造誕生の地)

 新渡戸稲造が英文で書いた『武士道』は、時のアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトが絶賛したという。だが、私は彼が札幌農学校の生徒であった時代の青春群像が好きである。そのことは、以前、このブログでふれた記憶がある。

 さらに進むと、北上川との合流点が近くなった。

 (北上川との合流点近く)

 朝から志波城柵を歩き、午後は盛岡を散策して、歩き疲れ … 何とか北上川に出た。

   (北上川)

 城下町の中を2本の河川が流れ、川が町と歴史と情緒をつむいでいる。

  (北上川と開運橋)

 盛岡は大正、昭和のロマンも感じさせ、ちょっと入ってみたくなるカフェもある。歩き疲れて飲んだ一杯のコーヒーは美味しかった。

  (街角の喫茶店)

 大阪の街中では、紙コップにコーヒーが機械によって注がれる。お金を払うのだから、せめて気のきいたコーヒーカップで、家で飲むよりちょっと美味しいコーヒーを、と思うのだが。

 予約なしで入った晩飯の小料理屋さんも、とても美味しかった。

 やはり、地方の城下町はいい。

 本日は13000歩。3日間、よく歩いた。

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 翌日、盛岡駅から「はやぶさ」と「のぞみ」を乗り継いで、夕方には帰宅した。

 生まれ育ったのは地方の城下町で、古い友はまだ暮らしているが、親戚はもういない。二十歳前に夜行列車に乗って故郷を出て、大学を出て職に就いてからは奈良に住み着いた。大和国は、遠い昔、「国のまほろば」であった所だが、古都とは言っても京都のような敷居の高さはなく、それでもあちこちに古代が息づき、気候温暖な地である。今は、ここを、我が「ふるさと」としている。

 

 

 

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