ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

お断り … 遅々として筆進まず

2021年03月28日 | お知らせ

    (伊勢志摩の海)

    ★   ★   ★

 です。

 ブログ「ドナウ川の白い雲」を読んでくださっている皆さん。

 いつもありがとうございます。

 さて、今は「早春のイタリア紀行」を連載して、ヴェネツィア、フィレンツェ、アッシジまで書いてきました。次は、3回に渡ってローマ編を書く予定です。

 その予定ではありますが、アッシジ編からは2週間ほど間隔があき、次回は4月4日ごろとなりそうです。

 いつも、のろのろ、なかなか先へ進まず申し訳ありません。これでも、日々、焦り、もがいているのですが、なかなかチャッチャッという風にはいきません。どうかご理解のほどよろしくお願いします。

 イタリア紀行を書き終えれば、次は「フランス周遊の旅」、そして「ドナウ川紀行」と続けていきたいと思っています。

 カタツムリのごとき歩みでありますが、ながーいお付き合いをいただければ嬉しいです。

       

   (鳥羽の海)

  「ひとり来て肩の蜻蛉と海を見る」(読売俳壇から。平塚市/原道雄さん)

 いい句ですねえ。これは旅の途中でしょうか。きっとそういう句でしょう。

 こんな所にはコロナ・ウイルスはいませんね。

 それにしても、コロナ禍のなか、皆さん、(私もですが)、くれぐれもお大切に。

 でも、年を取ると、逆に自粛、自粛で、いつの間にか過度の自粛になってしまうこともあります。それもまた心身の健康によくありません。こんな愉快な句もあります。

  「苔むすが如く炬燵に入りびたる」(熊谷市/間中昭さん)

 密集、密閉、密接の多数での飲食やカラオケなどは絶対に避けつつ、しかし、それぞれの許容範囲で健康で活動的に生きたいものです。

 「お酒はぬるめの燗がいい。肴は炙ぶったイカでいい。女は(男も)無口な人がいい。灯りはぼんやりともりゃいい。しみじみ飲めばしみじみと想い出だけが行き過ぎる」。

 非難や悲観論ではなく、笑顔で

 そして、どうか末長くお付き合いください。

   

 また 

 

 

 

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丘の上の聖者の町アッシジ…早春のイタリア紀行(11)

2021年03月21日 | 西欧旅行…早春のイタリアの旅

      (春の午後の立ち話)

藤沢道郎『物語イタリアの歴史』(中公新書)から 

 「アッシジは静かな聖堂の町である。… 市庁舎横の望楼からは、絵のように美しいウンブリアの野の景色が一望に見渡せる」。

 「…… やがて日が傾き晩鐘の時刻が来て、数多い聖堂の鐘がいっせいに鳴り始める。

 胸の底まで響くように低音で鳴るのは、この広場のすぐ近くにあるサン・ルフィーノ大聖堂の鐘である。

    歌うように清らかな高音を響かせるのは、これも近くのサンタ・キアーラ聖堂、すなわちあの聖女キアーラの名を冠した聖堂の鐘だ。

 耳を澄ますと夕日の沈みゆく方角から、サン・フランチェスコ聖堂の鐘の音が何事か語りかけるように静かに響いてくるのを、聞き分けることができるだろう」。

   ★   ★   ★

<アッシジへ>

 3月12日。晴れ。

 朝、フィレンツェのホテルで、7時に朝食。

 今日はイタリア鉄道のストライキを避けて、早い列車に乗ってアッシジまで行かねばならない。

 8時7分発のR(日本で言えば、快速、或いは各駅停車の列車)は、時間どおりにフィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェラ駅のホームを滑り出た。もう安心だ。あとは2時間半ののどかな汽車旅である ……。

       ★

 列車もすいていたが、ウンブリア州のローカルな駅「アッシジ」で降りた人も少なかった。

 駅の構内で、翌朝のローマ行きのチケットを購入しておく。

 券売機の操作がうまくいかず困っていたら、日本人の青年がやって来て「この機械、自分も困ったんですけど」と言いながら、一緒にやってくれた。

 イタリアのこんなローカルな駅で、日本人の若者に出会うとは思いもよらなかった。

 聞けは、イタリアの2部リーグのサッカーチームに所属し、オファーがあってセリエAのチームのテストを受けに行く途中だという。こんな所にも、たった独りで頑張っている日本の若者がいる

 「幸運を 」と心から願った。

 タクシーで、ウンブリアの野の丘の町・アッシジへ。

  (丘の町アッシジ)

 「アッシジは高い丘の斜面に築かれた城塞都市だ。どの方面から行っても、緑野のかなたに盛り上がるように高い丘が現れ、その最高地点に城塞が見えてくる。ロッカ・マッジョーレだ」(紅山雪夫『イタリアものしり紀行』)。

 もともとアッシジは城壁に囲まれた城塞都市だった。ローマ帝国時代初期には城塞が築かれていた。いまは周辺部を合わせて人口1万8千人の小さな町である。

       ★

<ウンブリアの春>

 ホテル「SUBASIO」は小さな三ツ星ホテルだが、立地は100点満点だ。

 (ホテル「SUBASIO」とウンブリアの野)

 2階建てのホテルの屋上テラスに出ると、ウンブリアの野の眺望が素晴らしい。

 (ホテルのテラスからウンブリアの野)

 早春のイタリアの旅に出て、初めてお天気は晴れ。ぽかぽかと暖かい早春の日差しに、ウンブリアの野はやや春霞にけむって長閑かである。しばらくはベンチに座って、異国にいることも忘れ、陶然となる。

 ホテルは、アッシジの丘の西端に建つサン・フランチェスコ聖堂のすぐ横。世界遺産の聖堂を見学するのに、これ以上の立地はない。もともと巡礼者の宿だったのかもしれない。居ながらにして聖堂が見え、玄関を出て数歩歩けば、そこはすでに「境内」だ。

 (サン・フランチェスコ聖堂)

     ★

<聖フランチェスコのこと>

 聖フランチェスコは、12世紀の終わりごろ、中世自治都市アッシジの豊かな商人の家に生まれた(1182~1226)。フィレンツェがルネッサンスの最盛期を迎えるより200年ほど前のことである。

 普通の快活な青年だったが、突然、神の啓示を受け、父親の反対や友人たちの説得も聞き入れず、全ての私物を捨てて、修道生活に入った。

 西ヨーロッパでは、11世紀には一般民衆も含めてほぼキリスト教化がなされたと言われる。民衆の中にもマリア信仰や聖人崇敬が興り、聖遺物を求めて聖地への巡礼も盛んになり、遺言によって死後、全財産を教会に寄進するという人々も増えていった。

 信仰が深まり、純粋化していくと、福音書の中のイエス・キリストや使徒行伝に描かれた弟子たちのように生きたいという希求も生まれてくる。

 修道院は既に古代末期に設立され、中世の時代を通じてカソリックの権威の一つであった。修道院では私有財産を共有し、日々(ラテン語で書かれた)聖書を読解・研究し、瞑想と思索と労働の規律ある生活の中から神の啓示を得ようとした。

 フランチェスコの新しさは、そういう権威主義的な修道生活ではなく、いきなり1着の僧衣と数枚の下着、1本の帯縄以外の全ての私物を他者に与え、ただキリストを模範とし、日々、キリストのように生きることを目指すというラジカルさにあった。

 歴史家の中には、13世紀の聖フランチェスコの考え方、生き方こそ、ルネッサンス的なものの最初だと言う人もいる。意識せずにではあるが、一人の青年が、中世的・カソリック的な権威を打破したのである。

 彼のあまりの純粋さに最初は戸惑っていた人々の中から次第に共感が生まれ、フランチェスコとともに生きようという人々によって修道会が生まれた。その会員は年々ふくらんでいき、ついに5千人の組織になる。組織ができれば対立が起き、あれこれの宗教論争も生じる。

 彼は自分の修道会を離れ、孤独な隠棲生活に入った。

 「ウンブリアの山や森の中の洞窟や小屋を転々と移動しながら、彼はしだいに自然の中にのめり込んでいった。… 弟子たちは、彼が小鳥に説教しているのを見た。小鳥たちは木の枝から地上に下りてきて、さえずりを止めて彼の言葉に聞き入り、祝福を与えてもらうまで動かなかった」(藤沢道郎『物語イタリアの歴史』)。

 1226年にフランチェスコが死去すると、その2年後、バチカンは彼を「聖人」として聖別した。彼のような行動は、100年前なら、バチカンは異端裁判にかけた。聖別は一種の大衆迎合である。

 フランチェスコ修道会も、同年、「開祖が生きていたら決して承認しなかったであろう事業に着手した」(同)。フランチェスコを慕って西欧各地からやってくる巡礼者たちのために、彼の名を冠した大伽藍建立に着手したのである。

 聖堂の献堂式は1253年に行われた。

 こうしてフランチェスコ修道会はキリスト教界を代表する修道会に発展し、ローマ教皇も出すようになる。

 なお、映画『薔薇の名前』のショーン・コネリーが演じた主人公も、フランチェスコ会の修道士である。

<閑 話>

 キリスト教という一神教の教えをつき詰めていけば、結局、フランチェスコのような生き方になっていくのだろう。私も、「野の百合を見よ」という30歳の青年イエスが好きだ。

 だが、思想の純粋化は、原理主義となり、思想の先鋭化は、排他主義につながる。

 フランチェスコのような生き方からすれば、この世のあらゆるもの、科学技術も、政治も、経済活動も、美術、音楽、文学なども、人間の社会と歴史、人間存在そのものも、すべてが不純となり、非キリスト的となる。

 私は「人間」として旅をしている。聖なる大伽藍は人間が作った偉大な文化遺産であり、キリスト教の絵画や彫刻は言うまでもなく偶像であり、聖フランチェスコという人も含めて、すべてが人間の営みの一環、人間の歴史、人間の文化の一部であって、そう思うからこそ、すべてがいとおしく、美しい。

 融通無碍がこの世の真実である。

 Let it Be。

      ★

<サン・フランチェスコ聖堂を見学する>

 ひととき、ホテルのテラスのベンチに腰掛けて、ウンブリアの春のぬくもりに浸ったあと、見学に出た。まずは、目の前のサン・フランチェスコ聖堂である。

 聖堂は丘の西端の傾斜地を利用して建てられ、上の聖堂と下の聖堂の2層構造になっている。どちらからでも入れるが、ホテルの前の石畳の道は下の聖堂の回廊に囲まれた広場に続いていて、その先に下の聖堂の扉口がある。

  (下の聖堂の入口)

 入口を入ると、窓が少なく、暗く、ここが地下聖堂であることがわかる。

 身廊の周辺には幾つもの礼拝堂が並び、ほのかな明かりが灯されている。そのほの暗さの中、天井も、壁面も、フレスコ画で覆いつくされていた。イエスの受難、聖フランチェスコの生涯などの連作で、色彩はなお鮮やかである。

 身廊の奥の内陣も、袖廊も、フレスコ画の饗宴で、あたりの暗さと絵画の宗教的な重々しさで、圧迫感があり、少々息苦しい。

 身廊の中ほどに、さらに地下に降りる階段があった。そこを降りると、聖フランチェスコの遺骸を納めた石櫃がある。石櫃は頑丈な鉄格子で守られている。中世の時代、聖遺物の奪取はよくあることだ。イエスやマリアや12使徒にかかわる聖遺物は、十字軍が異郷の地から奪ってきた物だ。

 (身廊の礼拝堂)

 ありがたさより、不気味さが勝り、もとの身廊に戻って、さらに翼廊の階段を上がると、上の聖堂の内陣脇に出た。

 上の聖堂は、天井が高く、窓が大きく、採光はずっと良い。

 身廊の壁面には一面に、聖フランチェスコの生涯を描いたジョットのフレスコ画が並んでいる。1290年から95年にかけて制作されたと言われ、色彩が豊かで、清澄で、美しい。この絵を見るために、古来、多くの巡礼者が訪れ、今も世界中からキリスト教徒たちがアッシジにやってくる。

 ジョットの30歳頃の最初の大仕事とされてきたが、最近はジョットの作品ではないという説もある。

 ジョット(1267?~1337)はフィレンツェの生まれ。イタリア各地で仕事をし、その後、故郷のフィレンツェに工房を開いた。「花の聖母大聖堂」に付属する「ジョットの鐘塔」は、まちがいなく彼の晩年の作である。ゴシックの終わりごろ~ルネッサンスの前夜に活躍した人である。

 上の聖堂から外へ出ると、広々とした緑の広場だ。ファーサードが清々しい。

  (上の聖堂のファーサード)

       ★

<アッシジの町を散策する>

 石造りの建物の洞窟のようなレストランに入って、昼食をとった。テーブルに色ランブが置かれ、ちょっとロマンチックなレストランだった。

 ヨーロッパの人は、こういう穴倉風のレストランを好む。しかし、私は外気を感じ、青空を見るテラス席が好きだ。

 聖堂の見学を終えると、もう、これを見なければいけないというほどの特別な文化遺産はない。ただ、アッシジの旧市街の雰囲気を感じようと、メイン通りであるサン・フランチェスコ通りを東へ歩いた。

 マップを見ると、小さなアッシジの旧市街の中で、サン・フランチェスコ聖堂は西の端にある。メイン通りを東へ進めば、町の中ほどに旧市街の中心・コムーネ広場。そこをさらに東へ歩けば、サン・ルフィーノ大聖堂やサンタ・キアーラ教会があって、その先は、東の城門になる。

 (サン・フランチェスコ通り)

   メイン通りと言っても、車がぎりぎりすれ違えるぐらいの狭い石畳の道だ。カーブしたり、登り坂・下り坂になったり、車社会を予想して造られた街並みではない。

 建物の下のアーチをくぐる所もある。

 あちこちの石の壁には、聖人の彫像や絵がはめ込まれている。

 瀟洒なショウウインドウの小さな土産物店は、十字架や小さな天使や馬小屋と聖母の人形など、クリスマスに家庭で使うような品ぞろえだ。

 表通りから一歩横道に入ると、ローマ風のレンガに漆喰の壁が古びて、時間が止まったよう。

 丘の町だから、坂道が多く、石段もある。そうした家並みの中に立派な庭があったりする。

 (静かな横道)

 コムーネ広場は、古代ローマ時代にはフォロ(公共広場)だった所だ。

 (コムーネ広場)

 13世紀のポポロの塔が建つ。その向こうは、かつての中世自治都市であった時代の高官の邸宅。

 そして、塔のこちら側は、古代ローマ帝国初期に建てられたミネルヴァの神殿の跡。

(ミネルヴァの神殿)

 古代ギリシャ・ローマ時代の石柱の太さには、いつも圧倒される。

 広場からさらに東へ、一層狭くなった道をたどると、サン・ルフィーノ大聖堂がある。この町の司教様の聖堂だが、サン・フランチェスコ聖堂と比べるとはるかに小さい。この町は、13世紀の初めに出た聖フランチェスコのよって一変したのだ。ただ、それは本人の意図したところでは全くない。

 サンタ・キアーラ聖堂にも行ってみた。

 聖キアーラはアッシジの名門の娘で美人の誉れ高かったが、フランチェスコの生き方に共鳴し、周囲の反対を押し切って修道女となった。女子修道会をつくり、生涯、信仰と清貧と隣人愛に生きた。

 白とピンクの大理石で建てられた瀟洒な聖堂は、聖女を記念する聖堂にふさわしい。地下には聖キアーラの遺骸が納められ、翼廊にはフレスコ画「聖女キアーラの生涯」が描かれている。

       ★

 夕食の帰り、ライトアップされたサン・フランチェスコ聖堂を撮影した。

  (ライトアップされた聖堂)

   ★   ★   ★

3月13日。晴れ。

 気持よく眠り、爽やかな朝を迎えた。

 ホテルの屋上テラスに出ると、ウンブリアの野は今日の晴天を約束するかのように一面に春霞がかかっていた。

 (朝霞にけむるウンブリアの野)

 早朝の観光客のいないサン・フランチェスコ聖堂へもう一度行ってみた。 

 (下の聖堂の扉の前で)

 上の聖堂のステンドグラスやジョットの絵を静かに鑑賞。

 (聖堂へ向かう神職)

 朝の陽ざしを受けて、石造りの街は陰影が濃く、すがすがしい。

 こうして1泊してみないと、その町の雰囲気はわからないものだ。

      ★

 昨日、頼んでおいたタクシーが来た。

 アッシジ駅ではなく、「Foligno(フォリーニョ??)」という駅まで行ってもらった。ここから10時16分発の鈍行に乗れば、乗り換えなしで、ローマへ行ける。これは日本出発前の研究の成果だ。

 ローマ・テルミニ駅には12時23分に到着の予定。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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アルノ川は流れる(フィレンツェ2)…早春のイタリア紀行(10)

2021年03月14日 | 西欧旅行…早春のイタリアの旅

     (花の聖母大聖堂) 

   「フィレンツェの象徴、赤い屋根に白い稜線の走る、花の聖母教会(サンタ・マリア・デル・フィオーレ)の優雅でかつ堂々とした大円蓋(クーポラ)が、周辺を圧倒するかのようにそびえ立つ。そのかたわらには、ジョットーの鐘楼が美しく花をそえ、さらに左に視線をめぐらせば、……」(塩野七生『銀色のフィレンツェ』から)

 ホテルの4階の朝食ルームからは、大聖堂の大円蓋(クーポラ)が良く見えた。この眺望のために、このホテルを選んだ。

   ★   ★   ★

   3月11日。曇り、時々小雨。

 今日の1日は、前回のイタリア・ツアーで回らなかったフィレンツェの文化遺産を巡り歩く。だが、その数は多く、一つ一つの絵や彫刻を確かめながら見て回ったら何日もかかってしまうだろう。だから、主な聖堂や邸宅をざっと見て回ることに主眼を置いた。

       ★

<参考資料 ── フィレンツェ・ルネッサンス期の人々>

ブルネレッスキ    (1377~1446)

ドナテッロ      (1386~1466)

コジモ・デ・メディチ(1389~1464) 銀行家    

フラ・アンジェリコ  (1390?~1455)

マザッチオ      (1401~1428)

フィリッポ・リッピ  (1406~1469)

ベノッツォ・ゴッツォリ (1421~1497)

ポッティチェリ    (1445~1510)

ロレンツォ・デ・メディチ(1449~1492) コジモの孫 

ダ・ヴィンチ     (1452~1519)

サヴォナローラ   (1452~1498)修道士

ミケランジェロ    (1475~1564)

      ★

<サン・マルコ寺院とコジモ・デ・メディチ      

 町の北西にあるサン・マルコ修道院(今はサン・マルコ美術館)からスタートした。

 2つの扉がある。左側の入口はサン・マルコ教会。右側の入口はサン・マルコ修道院で、今はフラ・アンジェリコの美術館になっている。

 このドメニコ派の修道院から2人の著名な修道士が出た。

 1人は15世紀前半の画僧でフラ・アンジェリコ(~1455)。

 もう1人は、15世紀後半、メディチ家と対決し、ルネッサンスのギリシャ的な人間中心主義を、異教的・反キリスト的・享楽主義と批判して、「終わりの日は近い。神の声を聞け」と叫んだ修道院長のサヴォナローラ(1452~1498)。彼に洗脳された少年・少女隊は、夜な夜なフィレンツェ市民の邸宅に押し入り、数々の美術作品や新思潮を伝える書籍や贅沢品などを没収して広場で燃やした。

 さて、修道院(美術館)に入り、狭い階段を上がっていたとき、その絵との出会いがあった。2階へ上がる途中の踊り場で階段の向きが変わったとき、目の前の壁にフラ・アンジェリコの「受胎告知」が架けられていたのだ。写真で見て、フィレンツェに行くからにはぜひ本物を見たいと思っていた絵である。

 構成も、色合いも、マリアの表情も良い。貴族のお姫様のような美女ではない。かといって、粗野でたくましいだけの女でもない。純朴にして静謐。キリスト教徒でなくても、マリアはこういう女性だったのだと納得できる。

 私はイタリア・ルネッサンスのいかなる絵画よりも、サン・マルコ修道院の質素な壁に架けられたフラ・アンジェリコの野の花のような絵、なかんずく「受胎告知」が好きだ。

 2階は石造りの冷たく狭い廊下をはさんで、修道士たちのための小さな房が並んでいる。開いている扉があり、覗いてみると、石の壁に囲まれた質素で孤独な部屋だった。冬の冷え込みをどのように凌いだのだろう。

 階段を上がった所からまっすぐ伸びる廊下は突き当りで鍵型に曲がり、左右に計14室。一番奥が院長室で、15世紀末に修道院長だったサヴォナローラの遺品が置かれていた。彼は結局、最後はシニョーリア広場で火刑にされた。

 階段を上がった所から右へ行く廊下には左右に計10室。その一番奥は、コジモ・デ・メディチが時々籠ったという房で、いつか引退してこの修道院で晩年を静かに過ごしたいと願っていたという。

藤沢道郎『物語イタリアの歴史』から

 「コジモは学問の分野でも美術の分野でも、新しい潮流(=ルネッサンス)を積極的に擁護し、理解し、後援した。彼の後援でプラトン・アカデミーがフィレンツェに設立され、すでに内容が時世に合わなくなりつつあった大学に代わって、学術研究の中心となった。…… コジモはまた、その時代で最大の愛書家であったニッコロ・ニッコリに財政援助してギリシャ語のテキストを収集させ、死後はその蔵書800冊を大枚6000フィオリー二で買い上げ、サン・マルコ修道院の図書館に寄贈した」。

 コンスタンティノープルの陥落(1453年)前後、多くのギリシャ語の書籍群が西欧世界に流出してきて、ルネッサンスの土壌のひとつとなった。

 800冊の書籍を収納する図書館もブルネレスキの弟子のミケロッティに設計・制作させた。それは、「アンジェリコの絵がそのまま建築と化した観がある」。

 「コジモは隠居した後この修道院に住むつもりで、そのための僧房まで用意したが、結局そんな平安は彼には許されなかった。

 ブルネレッスキ(1377~1446)にはサン・ロレンツォ聖堂の工事を引き続き任せ、ドナテッロ(1386~1466)とは終生の親友となって絶えず仕事を与え、経済的援助を惜しまず、アンジェリコにはサン・マルコ修道院の壁画連作を依頼し、破戒修道士の画家フィリッポ・リッピ(1406~1469)を庇護して創作を続けさせたが、ゴシック美術には振り向きもしなかった」。

 ルネッサンスと言えば、偉大な美術家、或いは、天才として、ダ・ヴィンチ(1452~1519)やミケランジェロ(1475~1564)の名が挙がる。だが、私は彼らよりも半世紀前の、ルネッサンス前期の芸術家たち、そして、彼らを庇護し、「祖国の父」と呼ばれた銀行家のコジモ・ド・メディチに心惹かれる。

 大金持ちなら、現代のアメリカにもサウジアラビアなどにも、或いは今の中国にも、当時のコジモ・デ・メディチなど問題にならないような巨万のカネをもつ人はいくらでもいるだろう。だが、コジモは単なる大銀行家でも、フィレンツェの政治家でもない。その教養や見識、人間性の深さに私は心惹かれる。

 サン・マルコ修道院の静謐感、コジモの僧房、それらの雰囲気にふさわしいフラ・アンジェリコの野の花のような絵画の数々に接し、感動して表に出た。

 その感動のまま、すぐ南にあるアカデミア美術館はパスした。ミケランジェロのダビデ像の本物を安置して人気が高い。だが、それを見ても、立派だとは思うだろうが、感動はしないだろう。これは個人の感性、好みの問題である。

      ★

<メディチ家の邸宅とサン・ロレンツォ教会>

 さらに南へ歩いて、メディチ・リカルディ宮へ。

 コジモ・デ・メディが造らせたメディチ家の邸宅で、1459年に完成した。100年以上のちに、リカルディ家に譲渡されたから、メディチ・リカルディ宮と二つの名が付く。

 メディチ家の本流は1537年に断絶する。

 1569年に傍系のコジモ1世がトスカーナ大公となり、フィレンツェを含むトスカーナ地方の専制領主になった。彼はその後、住まいをアルノ川の南のパラッツォ・ピッティに移し、元の邸宅はリカルディ家に譲渡した。

 外観は石造りで、ごつごつとして厳つい。

 (メディチ・リッカルディ宮の中庭)

 だが、中庭に入ると、洗練されて優雅。1階は中庭を囲むように回廊があり、その上階に居住室がある。こういう中庭は地中海世界に独特なもので、ドイツやフランスなどの北方ゲルマン系建築には見られない。

 中庭の階段から直接に2階に上がれば礼拝堂があり、ゴッツォリのフレスコ画「ベツレヘムへ向かう東方の3賢人」がある。色彩豊かで、メディチ家の人々の顔や画家本人の顔も、登場人物として描き込まれている。

 ベノッツォ・ゴッツォリ(1421~1497)は、若い頃、フラ・アンジェリコの弟子で助手だった。コジモ・デ・メディチやその息子のピエロ・デ・メディチに援助され、ルネッサンス芸術の一角を彩った芸術家の一人である。

 メディチ・リカルディ宮を出て、そのすぐ南、露天が並ぶ下町の雰囲気のある広場を前に、大きなピンクのクーポラをもつサン・ロレンツォ教会がある。

 入口付近に高校生の遠足のような一群が、順番待ちなのか、群れていた。イタリアの高校生らは日本の高校生よりわかりやすい。これから見る見学の対象はそっちのけで、ガヤガヤと騒がしいのは日本と同じだが、明らかに特定の女子に関心のある男子や、その逆もいる。秘めたる恋はないようだ。

 この教会は、メディチ家の代々の菩提寺でもある。ドゥオーモ(花の聖母教会)、サンタ・クローチェ、サンタ・マリア・ノヴェッラとともに、フィレンツェの4大教会の一つ。

 (サン・ロレンツォ教会)

 もともと4世紀末にできた教会だが、今、目にする建物は3代目。ブルネッレスキの最初の作品とされる。

 紅山雪夫氏によると、ファーサードとは「顔を付ける」という意味合いをもつそうで、教会建築では最後に造られるらしい。このサン・ロレンツォ教会のファーサードは未完成のままで、レンガの芯積みが露出している。だから、我々観光客には、どこが正面入口かわからない。

 別の入口から入るメディチ家の礼拝堂には、ミケランジェロ設計の新聖具室があった。 

      ★

 昼食後、明日、予定されている鉄道ストの情報がないか、日本のツアー会社のフィレンツェ支店に電話してみた。だが、何の情報も得られなかった。日本で得ていた情報では、外国人観光客に迷惑をかけないよう、新幹線のストは回避し、ローカル線のみで行うことになっていた。だが、それは困る。明朝、ローカル線に乗ってアッシジへ行く予定なのだ。

 駅に行って、ストに入るかもしれないという時間より少し早い8時7分発の乗車券を買った。あとは出たとこ勝負だ。      

      (ドゥオーモ)

<バルジェッロ国立博物館とドナテッロのダヴィデ像>

 そのあと、さらに南へ。ドゥオーモを通り越して、バルジェッロ国立博物館へ行く。

 建物は13世紀末の建造で、中世的で、厳めしい。16世紀には、司法長官バルジェッロの役所兼邸宅として使われた。犯罪者を連行し拘留するための威圧感は十分だ。

 ただ、今は博物館として使われ、多くの文化財が陳列されている。

 (バルジェッロ国立博物館の中庭)

 メディチ・リカルディ宮と同様、一歩中に入ると、柱廊をめぐらせた中庭には彫像が置かれ、壁面には石板が飾られて、趣があった。2階の展示室には、中庭から直接に上がる石の階段がある。

 多くの展示品がある中、私が目指していたのはドナテッロ作の「ダヴィデ像」。

 シニョーリア広場に置かれた(今はアカデミア美術館)ミケランジェロのダヴィデ像は、ドナテッロのダヴィデ像が作られてから70年後の作品である。

 ミケランジェロのダヴィデ像は、巨大な石造りで、圧倒的に大きい。巨人ゴリアテに目を注ぎ、今まさに戦いに入ろうとする緊迫した若者の姿。贅肉のない引き締まった体に、無敵の巨人を倒す隆々とした筋肉が付く。

 一方、ドナテッロのダヴィデ像はずっと小さく、160cmばかりのブロンズ像である。石(巨岩)とブロンズの素材の違いは大きい。

 ドナテッロのダヴィデ像は、既に巨人ゴリアテを倒し、力を抜いて無造作に立っているように見える。剣を握った右腕はだらりと下げられ、左手は勝ち誇るがごとくわずかに腰に当てられて、やや裸体をくねらせている。

 だが、その足元を見ると、裸体のくねりの理由がわかる。左足は切り落としたゴリアテの岩のような頭を無造作に踏みつけているのだ。

 裸体だが、靴を履き、頭には月桂樹飾りの付いた兜。それは花飾りの付いた麦藁帽子のようにも見え、一瞬、少女の姿のようにも思える。しかも、その顔にはわずかに笑みが浮かんでいるようにも見える。こんな大男、何でもないよ、というような。

 ニヒルというか、倒錯的というか、耽美的というか。

 力任せの正攻法のミケランジェロよりも、私にはずっと魅力的である。

 もっとも、以上の描写は私の受けとめ方であって、ドナテッロの意図(モチーフ)がそうであったかどうかは知らない。

      ★

<サンタ・クローチェ教会> 

 冷たい小雨が降りはじめた。傘をさし、街の南西、アルノ川のこちらに建つサンタ・クローチェ教会へ向かう。

 (サンタ・クローチェ教会のファーサード)

 華やかなドゥオーモやシニョーリア広場から少し外れ、どこか庶民的で鄙びた趣のある地域だ。

 サン・フランチェスコ会修道院の聖堂として、14世紀にゴシック様式で建てられた。ただし、白大理石に色大理石を配したフィレンツェ風のファーサードは19世紀。

 堂内には、ダンテの記念碑、ミケランジェロやマキァベリやガリレオらの墓があった。高野山の奥の院みたいだ。

       ★

<アルノ川の流れ>

 この日の見学の終わりに、ブルネレッスキやドナテッロと同世代の夭逝した天才画家マザッチオ(1401~1428)の絵を見たくて、アルノ川を南へ渡ったサンタ・マリア・デル・カルミネ教会のブランカッチ礼拝堂へ向かった。

 だが、ヴェッキオ橋を渡ってから道に迷って、さ迷った結果、川下のカッライヤ橋へ出てしまった。

 朝からずっと歩きづめで、疲れて、マップを読む力も衰えている。橋の上で、今回のフィレンツェ見学はこれでおしまいにしよう、と決めた。

 (カッライヤ橋からアルノ川)

 カッライヤ橋の上から上流を見ると、トリニタ橋、その向こうは屋根付きのヴェッキオ橋。

 アルノ川は静かに流れている。

 「下を流れるアルノ川は、上流と下流の2カ所でせきとめてあるためか、湖面のような静かさをたたえて流れる」(塩野七生『銀色のフィレンツェ』から)。

 よく歩いたが、フィレンツェの見どころのほんの一部を回っただけだ。

      ★ 

饗庭孝男『ヨーロッパの四季1』(東京書籍)から

 「たとえばローマは私にとって大きすぎる。

 またミラノは何カ所かを除くと暗い町で、小雨がよく降り、霧が立つ。それなりにいいのだが、何か寂しい。

 だが、このフィレンツェは地勢がいい。真ん中に、京都の鴨川のようにアルノ河が流れ、その向こうにサン・ミニアート・アル・モンテ教会を包む丘 (注= 昨日、フィレンツェの夕景を見たミケランジェロ広場がある丘) が続いている。調和がとれていて、私には落ち着くのである」。

 明日は、アッシジへ行く。

 

 

 

 

 

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花の女神フローラの町・フィレンツェ … 早春のイタリア紀行(9)

2021年03月07日 | 西欧旅行…早春のイタリアの旅

  (アルノ川とポンテ・ヴェッキオ橋の夕景)

※ これは、2010年の旅の記録です。

    ★   ★   ★

<フィレンツェの町の起こりとルネッサンス>

 以下の歴史は例によって、紅山雪夫『イタリアものしり紀行』(新潮文庫)からの要約である。

 トスカーナ州はイタリア中西部に位置し、アペニン山脈より西、アドリア海に臨む緑豊かな地方である。州都はフィレンツェ。アルノ川が、アペニン山脈に発し、フィレンツェを流れて、アドリア海に注いでいる。 

 遠い昔、アルノ川は沼地が多く、渡りにくかったらしい。だが、現在のフィレンツェのポンテ・ヴェッキオ橋(上の写真)のあたりだけ沼地がなく、川幅が狭まり、渡りやすかった。そのため、古くから交通の要衝となった。

 初めは渡し舟だったろう。やがて、橋が架けられた。洪水のため、橋は何度も架け替えられたが、新しくなっても、ずっと「古い橋(ポンテ・ヴェッキオ)」と呼ばれてきた。

 今、我々が見るポンテ・ヴェッキオは1333年の大洪水の後に架けられたものだ。橋には屋根があり、橋上の両側には貴金属店が並んでいるから、橋の真ん中あたりの店が途切れた箇所へ行くまでは、橋の上を歩いていると思えない。

 遥かな昔、BC8世紀頃には、この地方には高度の文明をもつエトルリア人が住んでいた。BC3世紀になると、ローマが進出してくる。

 BC59年、ユリウス・カエサルが軍団の退役兵士たちにこの土地を与え、植民させた。ローマ兵たちは百戦錬磨の兵士であっただけでなく、土木や建築の優秀な技術者でもあった。彼らは、当時のローマ軍の規格に則って、東西約400m、南北約300mの碁盤目状の町をつくった。

 町の名は、花の女神フローラの町という意味で、フロレンティアと名づけられた。これがフィレンツェの名の起源である。

 彼らはそれぞれ土地の女性たちと結婚して、土着した。今もフィレンツェの町の中心部に、碁盤目状の街並みが残っている。

   その後、西ローマ帝国が滅亡し(476)、「蛮族」の侵入の時代となって、フィレンツェも一度は荒廃した。

 しかし、世の中が落ち着いてきた11世紀、12世紀になると、地の利の良いフィレンツェは、商業や手工業、特に織物業などで躍進し、北部のミラノと張り合う中世自治都市を形成するようになった。

 自他都市と言っても、内部の争いが絶えず、しばしばクーデターや血で血を洗う争いも起こった。銀行家のメディチ家、特にコジモ・デ・メディチ、その子のピエロ、孫のロレンツォの3代がフィレンツェの政治を巧みに治め、14世紀、この自治都市にヨーロッパ最初のルネッサンスが花開いた。

 下の写真の左の塔はフィレンツェの政庁であったヴェッキオ宮(今は市庁舎)。写真の右には、ドゥオーモ (サンタ・マリア・デル・フィオーレ=花の聖マリア大聖堂) とジョットの鐘楼。鐘楼の左にのぞく赤い円蓋は、メディチ家の菩提寺でもあったサン・ロレンツォ教会である。

 (フィレンツェの中心部)

 フィレンツェのドゥオーモ(大聖堂)は、13世紀にゴシック様式で設計・着工された。本堂は白大理石に緑と赤の大理石が配されて美しい。本堂の奥行きは153mある。後にローマのサン・ピエトロ、ロンドンのセイント・ポール大聖堂に抜かれるまで、当時、最大のキリスト教の聖堂だった。

 14世紀には、ジョットの設計で、本堂付属の鐘楼が完成された。鐘楼の高さは82m。414段の階段を上がれば、本堂も、フィレンツェの街並みも眺めることができる。

藤沢道郎『物語イタリアの歴史』(中公新書)から

 「あとは円蓋を制作して取り付けるだけだったが、何しろ直径50mもの大円蓋を石材で作るのは大変な難事であり、それを地上100mの高さに取り付けるのは、当時の技術では不可能と信じられていた」。

 だが、「ミラノが新しい大聖堂を無数の尖塔のそそり立つゴシック様式で建立するなら、フィレンツェ大聖堂の工事を再開し、反ミラノ・反ゴシックの象徴のような円蓋を取り付けて見せねばならぬ。それも、ミラノのように宮廷の御用美術家に任せるのでなく、市民の間から設計を募集し、市民の代表の審査によって建築家を選ぶのだ」。

 こうして、1418年に開かれたコンクールでブルネレスキが選ばれて、1420年に工事が開始、1461年に完成する。「反ミラノ、反ゴシック」のクーポラは、ヨーロッパのルネッサンスの開花であった。

      ★

 3月10日。ヴェネツィアは雪。フィレンツェは曇り、時々小雨。

   雪のサンタ・ルチア駅を出発した特急列車は、いくつもの小さな駅の積雪のホームを通過し、山懐に入って積雪は深くなり、やがて長いトンネルを過ぎると、雪のない世界に一変した。ただ、大地は早春の冷たい雨に濡れていた。

 フィレンツェの鉄道駅はサンタ・マリア・ノヴェッラ駅。ヨーロッパの駅のホームは低く、その分、列車の床面との段差が大きくて、スーツケースを降ろすのに力がいる。

 スリがいるかも知れない駅前の雑踏を避け、予習していたとおりに地下道を通って「グランドホテル・バリオーニ」へ。

 ホテルの前の小広場の向かいには、駅名になったサンタ・マリア・ノヴェッラ教会の壮麗なファーサードがそびえていた。

       ★

<花の聖母マリア大聖堂>

 ホテルの部屋にスーツケースを置いて、早速、旧市街の中を南東の方向へ400mほども歩くと、ドゥオーモに出た。ルネッサンス発祥の都市、フィレンツェを象徴する大聖堂だ。

  (ドゥオーモ)

 フィレンツェの(大)司教座聖堂(ドゥオーモ)は、「サンタ・マリア・デル・フィオーレ」と呼ばれる。「花の聖母マリア」の意。

 上の写真のファーサードが13世紀の本堂。歩く人間と比べると、大きさがわかる。左上に15世紀の赤いクーポラが少しのぞいている。

 本堂の右にのぞくのは、14世紀のジョットの鐘楼。

 右手前の建物はサン・ジョヴァンニ洗礼堂。サン・ジョバンニは洗礼者ヨハネのこと。

 イタリアでは、本堂、鐘楼、洗礼堂の3つがセットになって大聖堂となる。

 洗礼堂では、人々の頭越しにギベルディ作の扉の浮彫を見、壮大なドゥオーモに入ってウッチェルノ作の騎馬像を見た。

 1996年にイタリア・ツアーに参加したときは、午後半日の自由時間にドゥオーモの約500段の階段を上がった。身をかがめなければならない窮屈な階段や、下りの人とすれ違わねばならない危うい個所もあり、思ったより大変だった。

 だが、上りつめたクーポラの上からの眺めは、フィレンツェの赤い屋根の街並みが広がって、汗ばんだ顔に風が心地よかった。しかし、2日後、ローマで筋肉痛になった。

      ★

<政庁ヴェッキオ宮とウフィツィ美術館>

 ドゥオーモから南へ400mほど、かつてローマの退役兵たちが造った道をアルノ川の方へ歩くと、フィレンツェの政治的中心となったシニョーリア広場に出る。

 石畳の広々とした中世的な広場だ。中央に、コジモ1世の騎馬像。

  (ヴェツキオ宮)

 厳つい城塞のような建物は、14世紀初頭にゴシック様式で建てられたフィレンツェの政庁・ヴェッキオ宮。ヴェネツィアのドゥカーレ宮の瀟洒な建物とは全く対照的だ。

 入り口の上には、ドナテッロ作の楯に前足をかけた獅子の像。建物の前には、ミケランジェロ作のダビデ像(コピー。本物はアカデミア美術館)が立つ。

 時間は午後4時前。予約していないが、この時間帯ならウフィツィ美術館はあまり並ばずに入れるのではないか。そう思って行ってみると、すいっと切符を買って入ることができた。

 前回、ツアーで訪ねたときは、美術館を1周するぐらいの大行列ができていて、しかもそのほとんどが日本人のツアー客。ペアや家族でやってきた欧米の観光客があきれて引き返していた。自分もその日本人ツアーの一人だったが、こんなことをしていたら日本人は嫌われるに違いないと思った。高度経済成長でにわかに豊かになった日本人が、旅行社のツアーに入ってヨーロッパに押しかけた時代だった。

 ウフィツィ美術館の建物は、専制君主としてトスカーナ大公国を支配するようになったコジモ1世(1519~1574)が、公邸であるヴェッキオ宮の横に、メディチ家とフィレンツェ公国の事務を司る役所として建てさせた総合庁舎。ウフィツィとはオフィスの意らしい。

 『地球の歩き方』のウィッツィ美術館の見どころに沿って、3階の45室の展示をさっと一巡した。ボッティチェリの「春」「ヴィーナス誕生」はやはり美しい。

 (絵葉書から「ヴィーナス誕生」)

 ポッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロらは、ブルネレスキやドナテッロらより若い世代。この世代を庇護したメディチ家の当主は、ゴジモ・デ・メディチの孫のロレンツォ・デ・メディチ(1440~1492)。ロレンツォ・イル・マニーフィコ=偉大なるロレンツォと呼ばれた。

 昔、読んだ辻邦生『春の戴冠』は、ポッティチェリを主人公に、ダ・ヴィンチやロレンツォ、さらに修道士サヴォナローラが登場し、フィレンツェの「春」とその落日を描いた長編小説だった。サヴォナローラは、ルネッサンスを異教的・背徳的とし、「神の声を聞け!! 終わりの日は近い!!」と叫ぶ。「終わりの日は近い」 ── 終末論は形を変え、キリスト教からも離れて、しかし今もヨーロッパ人には根強い。

 2度目の見学なので、ざっと鑑賞して、そのあと、美術館のカフェでグラスワインを飲んだ。窓からヴェッキオ宮の塔が間近に眺められた。

      ★

<ミケランジェロ広場からのフィレンツェの夕景>

 ここまでは、前回のツアー旅行で一度見学していたフィレンツェ観光のお決まりコースだ。

 今回の旅の目的の一つは、アルノ川の対岸の丘のミケランジェロ広場から眺めるフィレンツェの夕景・夜景の写真撮影である。こういう望みは、ツアーではなかなかかなえられない。

 グラツィエ橋に出て、13番のバスでミケランジェロ広場へ。

 広場のテラスから、眼下にアルノ川、そしてフィレンツェの街並みが一望できた。

 日が暮れなづんでいくにつれ、しんしんと冷えてきた。ダウンコートでも冷気がしみる。何しろヴェネツィアは雪だった。寒さに耐えながらライトアップを待った。

 治安が気になったが、広場に観光客はちらほらで、少ない。これでは、スリやかっぱらいも出動しないだろうと思うことにした。

(アルノ川とヴェッキオ橋)

  (ドゥオーモ)

 次々とライトが灯り、ルネッサンスの街が浮かび上がってくる。

 上の写真の左がヴェッキオ宮、右がドゥオーモ。山並みの一部が白く見えるのは積雪だろう。

 (ドゥオーモとサンタ・クローチェ教会)

 上の写真のドゥオーモの右手前は、サンタ・クローチェ教会だ。

 寒さに震えながら写真を撮った。

      ★

 帰りは、逆方向に回るバスに乗る。バスに乗り鉄道駅へ向かったが、間違えて1つ手前で降車してしまった。ホテルは鉄道駅のそばだから、ここからそう遠くないはずだ。だが、東西南北がわからない。ほとんど日の暮れた街角の街灯の下でガイドブックのマップを見ていると、日本語で声をかけられた。さっきウイッツィ美術館で日本人観光客をガイドしていた中年の日本人女性だ。フィレンツェに住んで、ガイドをされているのだろう。私も同じ方角へ行くからと、駅まで一緒に歩いてくれた。助かった。方位磁石はめったに使わないが、いざというとき、必要になる。

 駅前のスーパーで買い物をして、ホテルに帰った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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