ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

わがヨーロッパ紀行 … ドナウ川の旅・追記

2023年01月29日 | 西欧紀行…ドナウ川の旅

(ロードス島の聖ニコラス要塞の満月)

 ダイヤモンド・プリンス号事件が起きたのが2020年の2月。その2か月後に最初の緊急事態宣言が出た。

 突然、ヨーロッパは遠くなり、それから丸3年がたった。

 さらに2022年にはロシアのウクライナ侵攻。仮にコロナが完全に収束しても、関空からシベリア上空を飛ぶヨーロッパ直行便は、もうない。

 私のような高齢の人間には、コロナが5類になろうと海外旅行はためらわれる。

 それに、中東のドバイの空港ロビーで、若いバックパッカーのような一夜を明かす旅は、私の年齢では無理である。

      ★

<夢はいつも返っていった … エーゲ海のロードス島>

 最後にヨーロッパへ行ったのは、コロナ禍の前年の2019年5月。塩野七海の『ロードス島攻防記』に触発され、エーゲ海の東の果てに浮かぶロードス島まで遥々と行った。

(この島で10万のオスマン帝国軍を迎え撃った聖ヨハネ騎士団)

 その旅から帰った後、見るべきものはおおよそ見たという思いもあり、自分の年齢・体力のことも自ら自覚されるようになって、そろそろ私の旅も終わりにしなければ、という気もちをもち始めた。あと1回、それを最後に、私のヨーロッパ旅行を終わりにしよう。何事にも潮時というものがある。

 ところが、その最後の1回の行先もまだ決めかねていたとき、コロナ禍に入ってしまった。仕事はとっくにリタイアした身であるから、家に閉じこもるだけの日々が続いた。

 そうした日々 …… 最後に行ったエーゲ海の海の青と、微風吹くロードス島のことがなつかしく思い出されるようになっていった。

 (ロードスの市街)

 (海に臨むリンドスの遺跡)

 滞在中、夕方になると、ロードス島で3代続く家族経営のレストラン「ママ・ソフィア」で食事をした。その3代目の当主は日本に留学したことがあり、流暢に日本語を話した。

 最後の夕べ、お別れの挨拶をした。「明日はアテネに戻り、明後日の飛行機で日本に帰ります。ヨーロッパをあちこち旅してきましたが、こんなに美味しかった店はありません。私はもう年ですから、ロードス島を再訪することはないでしょう。お元気でこれからもお店を繁盛させていってください」。すると、彼は「また、きっとお元気なお顔を見せてください。お待ちしていますから」と言って、日本人よりも美しいお辞儀をして見送ってくれた。私には、「客」に対するというより、一家の年長者に対するような優しさと敬愛の心が感じられた。

 海岸沿いをホテルへ向かって帰る途中、微風吹くこの島へ、そして、「ママ・ソフィア」へ、もう一度来られたらいいなあと、心から思った。エーゲ海の日の暮れた空に満月が出ていた。

 伴侶の方は日本留学中に出会った日本人女性。観光しかないエーゲ海の島で、あの一家は、コロナ禍をどう凌いだろう??

 もう一度、あの海へ、そして、あの島へ行きたいと思うようになった。

(微風吹く木陰のカフェテラス)

 もうヨーロッパには行けないだろう。だが、「最後にもう1回」という考えはやめようと思うようになった。「最後に」、は良くない。いつも、また行こうと思い続けるべきだ。それが、生きるということだ。

      ★

<サン・ヴィセンテ岬の出会い>

 もう1つ、心に残る旅がある。ブログでは「ユーラシア大陸の最西端ポルトガルへの旅」(2016年9~10月)として書いている。リスボンから列車に乗って、北はポルト、南はポルトガルの最西南端のサグレス岬、そしてそこから6キロ先のサン・ヴィセント岬へ行った。

 動機は司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズの『南蛮のみちⅡ』。エンリケ王子に心ひかれた旅だった。

 さらにもう1冊。沢木耕太郎の『深夜特急』。NHKでドラマ化され、主人公を若い日の大沢たかおが好演していた。

 サグレス岬のホテルに荷物を置き、バス停でサン・ヴィセンテ岬へ行く1日2本しかないバスを待っていた。バス停の近くにエンリケ航海王子の彫像が立っていた。大西洋の彼方を指さしている。サグレス岬には、エンリケ王子がつくった航海学校の跡が残っていた。

(サグレス岬のエンリケ王子)

 その時、突然、日本語で話しかけられた。長身で、細身、少壮の日本人男性だった。バスが来るまで話をした。彼は、サンチャゴ・デ・コンポステーラの巡礼路を歩き、さらにバスを乗り継いでここまで来たと言う。私は驚き、感嘆して、「すごい旅ですねえ」と言った。すると、彼は「いえ。あなたこそ。そのお年でこんな所までよく来られましたねえ。感心します」と返された。

 (サン・ヴィセンテ岬)

 そうか。年代別オリンピックなら、沢木耕太郎賞をもらえるかもしれないなと思って、年甲斐もなくうれしかった。

 (サン・ヴィセンテ岬の灯台)

 サグレス岬もサン・ヴィセンテ岬も荒涼として、突然、大地が大西洋に落ちていた。「ここから、海、はじまる」。

 古い友人たちと一献傾けていたとき、柔道8段に昇段したという男が私のブログを読んできたらしく、「その人は、エンリケ王子の化身だったかもしれませんよ」と言った。

   …… そうか。そうだったのか …… そこには思い至らなかった。いや、まあ、少なくとも、日本流に言えば、エンリケ王子が引き合わせてくれたのかも …… 。「こんな所まで、よく来られましたねえ」。

 その会のあと、今度はユーラシア大陸の果てから、私のブログに、こんなコメントが寄せられてきた。

 「すばらしい紀行文をありがとうございました。

 今、サン・ヴィセント岬の日没からホテルへ戻ってきました。

 メキシコに馬齢を重ねること40年、1973年に『お前も来るか中近東』(注 : 当時、バックパッカーのバイブルのような本だった)で、沢木耕太郎の逆回りをした初老の男です。

 カルペディム(カルペ・ディエムの略)的な生き方をしてきましたが、貴殿のこの紀行文は素晴らしいと感じました」。

 (このあと、まどみちおさんの「海」のことを書いた詩が添えられていた)。

 こういう出会いや言葉に励まされながら、私の旅は続いてきた。

 私は『深夜特急』の沢木耕太郎や、『お前も来るか中近東』の筆者や、ブログにコメントを寄せていただいた方とは違って、若い頃にバックパッカーの旅をした経験はない。それにインドも中近東も知らない。仕事をリタイアしてから、ヨーロッパに限定して、バックパッカーの若者と比べたら、安全で贅沢な旅をしてきた。それでも「冒険心」を抑えがたく、旅に出た。

 「注意して/でも、/勇気をもって」(沢木耕太郎)

 「旅の心は遥かであり、この遥けさが旅を旅にするのである」(三木清「旅に付いて」)

              ★

<ちょっと冬眠します>

 とはいえ …… 多分、私のヨーロッパ紀行はこれで終わりになるのだろうと思います。(行きたいという気もちは捨てませんが)。

 毎回、長々しい文章を、ここまで読んで(見て)いただいた読者の皆さまには、本当にありがとうございました。心からお礼申し上げます。

 しかし、ヨーロッパ紀行はともかくとして、このブログは続けます。まだ、少々は余力がありますから。

 でも、ちょっと冬眠します。春までかな?? 2か月ぐらい。まあ、のんびりといきますので、それまでどうかお元気で …… 。 

 (あっ、それから、これがこのブログの399号です。400号は超えますから)。

また  。  

 

 

 

 

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ドナウ川の白い雲 … ドナウ川の旅11/11

2023年01月27日 | 西欧紀行…ドナウ川の旅

   (ドナウ川の白い雲)

<ゲルマンは森の民>

 最後の日の夕方になって新発見。ホテルのそばにバス停があり、くさり橋を渡って王宮の丘へ直行する。…… まあ、路線バスは、大阪市内でも手こずるから仕方ない。

 王宮の丘のレストランで、ハンガリー風の料理を注文した。

 横の席では、3人組の品のいい初老のおじさんたちが陽気にビールを飲んでいた。すっかり髪が白くなった人、頭髪の禿げかかった人、顎髭に白いものが混じっている人。今は仕事をリタイアし、青春時代にワンゲル仲間だった気の置けない友人たちと、男同士の旅に出たという感じだ。

 話しかけられた。ドイツ人だろうと思っていたが、やっぱりそうだった。

 ドイツ人はビールを飲むと開放的になり、近くの誰とでも乾杯して飲みかつ歌う。── 今日という日の花を摘め ──。

 フランス人はたとえ席がくっついていても、プライバシーには立ち入らない。英国人は紳士だから、一応慎み深い。アメリカ人は開放的だが、見知らぬ他人になれなれしくすれば、いつ二丁拳銃をぶっ放されるかわからない。日本人は自分が所属する組織の外に対しては赤の他人だ。

 陽気なおじさんたちは、遠い日本からやってきた旅人とブタペストの王宮の丘で話したことを、孫たちに話したかったのかもしれない。

 ドイツからサイクリング車で観光しながら、仲間たちでここまでやって来たそうだ。

 ドイツ人は定年退職したら郊外の森の中に家を建て、毎日、キノコ狩りなどして暮らすことを人生の究極の楽しみとしている、と聞いたことがある。

 「ワンダーフォーゲル」はドイツ起源の言葉で、ワンダーは「放浪する」。ワンダーフォーゲルは「渡り鳥」。

 ゲルマンは森の民なのだ。

 ローマ人は森の木を伐採して農場をつくり、小麦を主食とした。だが、ドナウ川の対岸はローマ人が立ち入れないような深い森。森の民たちの世界だった。

 英語でしゃべってくれたが、こちらはあまりしゃべれないので、話はそこそこ。

 テーブルの上に置いていたカメラを見て、「写真を撮ってあげよう」と写してくれた。

      ★

<草原の民だったマジャール>

 日はとっぷり暮れた。

 マーチャース教会はライトアップされ、横に建国の父・聖イシュトヴァーンの騎馬像がシルエットとなって立っている。

(マーチャース教会と聖イシュトヴァーンの騎馬像)

 この国の人たちは、もと草原の民だった。遥々とこの地までやって来て、キリスト教徒となり、この地に王国を打ち立てた。

 丘の上から見下ろすドナウ川の流れは暗く、国会議事堂のドームだけが浮かび上がっていた。

 (国会議事堂)

 ここから眺めるペストの街は暗い。

 ドナウ川の水の上やペスト側から眺めるくさり橋、その上に浮かび上がる王宮やマーチャース教会のライトアップは圧巻だ。主役はこちら側なのだ。

 遅くなったので、タクシーに乗り、一気に丘を下り、橋を渡ってホテルに帰った。

      ★

<美しい街をつくろうという意思>

(くさり橋とマーチャース教会)

 ホテルの5階の窓の正面に、王宮がくっきりと浮かび上がっていた。斜め右手には、真珠のネックレスのようなくさり橋。その上方のマーチャース教会が圧巻だ。

 ブダペストは「ドナウの真珠」。

 町を彩る建造物は古いものではない。だが、大国の圧迫をはねのけ、美しい自分たちの都をつくろうという意思が感じられた。

   ★   ★   ★

5月31日。晴れ。

 朝8時にタクシーを呼んでもらった。空港まで25ユーロ。申し訳ないくらい健全な料金だ。

 フェリヘジ空港のルフトハンザ航空の窓口でチェックイン。パスポート検査もスムーズだった。

 手続きを全て終えて、ほっとして、搭乗口ロビー近くのスタンドで朝食。空港の建物も新しくて奇麗だ。

 11時、ブダペストを離陸。

 12時40分、フランクフルトに到着。巨大空港の中を歩いて、日本便のロビーまで移動する。

 ここまで来れば日本に帰ったようなものだ。帰って来たなという安堵感の底に、充実感と心地よい疲労感がある。

 現地時間で14時5分、フランクフルト発。雲の隙間からドイツの田園風景を見下ろし、美しいヨーロッパに別れを告げた。

 飛行機は地球の自転に逆行して時速1000キロ近くで進み、たちまち夕方となり、そして、夜の帳が下りる。

 うとうとしているうちに7時間の時差を超えて、東の空が茜色になり、早朝の日本海はひとっ飛び。

 日本は、山また山の、緑の深い島国だ。

      ★

6月1日。晴れ。

 8時10分、関空到着。

 関西空港から早朝の空港連絡橋を渡るとき、今朝も真っ青な海が見えた。空港を出るといきなり海。天気が良ければ海の青が本当に美しい。

 多分、関空に到着して初めて日本に入国する外国人も、美しい国へやって来たと思うことだろう

      ★

<旅の終わりに>

 季節は5月。ヨーロッパが一番美しいときだ。

 ウィーンだけ雨で寒かったが、あとの4都市は快晴だった。

 (パッサウ付近)

 ローカルな鈍行列車に乗り、なぜかその列車が停まって、駅と駅の間をバスで走り、迎えの列車を乗り継いだ。

 ハンガリーへ入るときは、ジェームズ・ボンド氏がロシアのスパイと格闘した、あの名アクション場面を思い起こすような6人掛けのコンパートメントの列車だった。

 レーゲンスブルグやパッサウや夜のブダペストでは、ドナウ川をクルーズ船で楽しんだ。カップになみなみと注がれた白ワインは美味しかった。

 しかし、大都市ウィーンのカフェ「モーツアルト」で注文した白ワインは、大きなワイングラスの底に5分の1ぐらいしか入っていなかった。

読売俳壇から 

  軽やかなチターの調べ冬木立 (神戸市/遠藤音々さん)

 俳句で、映画『第三の男』の世界をとらえていて、秀作です

 ドナウ川は、川面に樹々の深い緑や青空が映り、遠くに白い雲が浮かんでいた。

 銀色の兜に赤いマントをなびかせたローマの巡察兵の姿はさすがにイメージしにくかったが、どの町も中世以後の歴史と文化を感じさせ、何よりも美しかった。

 鈍行列車でのんびりと旅をするヨーロッパの人たち。

 道を間違えたのではないかと不安になりながら、山の中を一緒に歩いたマダムやムッシュたち。

 「あの山の向こうはバーバリアンの地だよ」などと冗談を言ったたくましく日焼けした自転車のおじさん。

 昼はサイクリングで、夜はビールで乾杯するリタイア後のドイツ人たち。

 街角で親切に声をかけ、道を教えてくれた若い女性やマダム。

 陽春のドナウの旅は、その美しい景観とともに、人の温もりも感じた旅だった。

 季節のもつ明るさと人の温もりが、のちに、このブログの名を、「ドナウ川の白い雲」と名付けさせた。

 心に残る旅だった。

 

 (ブダペストを流れるドナウ川) 

(了) 

 

 

 

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夜空に浮き上がるドナウの真珠…ドナウ川の旅10/11

2023年01月22日 | 西欧紀行…ドナウ川の旅

 (王宮の丘のライトアップ)

(つづき)

      ★

<ナイトクルーズ、そしてホテルからの眺望>

 エルジェーベト橋の袂の「竹林」で寿司とワインの夕食をとったあと、ドナウ川の岸辺を夜風に吹かれながらくさり橋の方へと歩いて行った。

(くさり橋とマーチャース教会の塔)

 「ドナウ川ナイトクルーズ」の乗り場は、くさり橋の袂に見つけた。出発の21時には少し早かったが、船に乗り込む。

 クルーズ船のテラス席に腰掛けると、王宮の丘は息をのむほどに荘厳だった。

   (王 宮)

 日は地平に沈んで、空は限りなく澄んだ濃い青。残光が空の低いあたりを赤く染めている。

 漆黒の空になる前、ヨーロッパの空の青は美しい。このひと時の空を見るだけでも、遥々とヨーロッパまで来たかいがあると思えるほどだ。(写真では、その色がうまく出ないが)。

 夢中になって、写真を撮り続けた。

 21時。遊覧船が出航した。ドナウ川のくさり橋の上流と下流を巡るだけだが、船が水流を切って進み、川の流れの意外な力強さや波の音を真近に感じた。

 空は漆黒の闇となり、主役たちがライトアップされて映える。

 (くさり橋とマーチャース教会)

   (くさり橋と王宮)

 これまでヨーロッパのいろんな都市の夜景を見てきた。旅行社のツアーは郊外のホテルに泊まり、夜は出歩かない。だが、ヨーロッパの都市の美しさを味わおうと思えば、ライトアップされた街並みや歴史的建造物を見逃すことはできない。

 もちろん、それはディズニーランドの世界とは違う。

 パリの、シャンゼリゼのイルミネーションと瀟洒なショーウインドーの輝き。さらにエッフェル塔のライトアップも、人々の心をワクワクと浮き立たせる。パリは歩く人がみな楽しく幸せそうに見える。

 フィレンツェのミケランジェロ広場の高台から、アルノ川の向こうにライトアップされたドゥオーモを眺めたとき、ルネッサンスの時代に引き込まれるような気がした。

 ウィーンのリング周辺の華やかなライトアップ。

 チェコのプラハを流れるヴルタヴァ川は深い闇の底を流れ、川に架かる壮麗なカレル橋の袂から対岸のプラハ城を眺めたとき、まるで中世の夢の中にいる人のような気分になった。

 だが、それらに勝るとも劣らず、くさり橋や王宮やマーチャース教会のライトアップは感動的だった。

  (川岸の国会議事堂)

 十二分に満足して、船を降りた。

      ★

 船着き場からインターコンチネンタルホテルはすぐ。

 船上から見た景色と、ホテルの5階の高さから眺める景色は、角度が少し違う。

 王宮も、マーチャース教会とくさり橋も見飽きることがなく、永遠の時が流れているようだった。

 (ホテルから)

   ★   ★   ★

5月30日 今日も快晴

 今日はこの旅の最終日。明朝は帰国の飛行機に乗る。

<再び王宮の丘へ>

 朝、ホテルを出て、もう一度王宮の丘へ。王宮の丘から、ドナウ川の眺めをもう一度目に焼き付けたかった。

 それに、オーソドックスなコースで上がっておきたかった。

  (くさり橋)

 昨日は地下鉄と城バスでかなり大回りして行ったが、今朝はホテルからくさり橋を歩いて渡り、その先から出ているはずのケーブルカーに乗る。

 何しろ昨日は着いたばかりの知らない町。いきなり長い橋を渡ってケーブルカーの駅を見つけ、切符を買って乗るということに不安があった。

  (くさり橋を渡る)

 くさり橋は、真ん中が車道。両脇が歩行者や自転車用になっていた。

 橋のゲートには大きなライオンの像。

 ハンガリーは大国によって国の独立を侵害され続けた歴史をもつ。蒙古、オスマン帝国、ハプスブルグ帝国、ドイツ、ソ連。

 だか、もともと勇猛果敢な誇り高い民族。ライオン像に、「もう敵を侵入させない」という気概を感じた。

 (くさり橋から国会議事堂を望む)

 375mのくさり橋を渡ると、ケーブルカーの駅もすぐ見つかって、王宮の丘へ。意外に簡単で、時間もかからなかった。そういうものだ。しかし、ヨーロッパ旅行では、そういうものではなかったことも、しばしば経験した。

 王宮の丘から、早朝のドナウ川とペスト地区の景観をしばらく堪能した。

 (王宮の丘から国会議事堂を望む)

 また、ケーブルカーで降り、くさり橋を渡って戻った。

      ★

<初代国王イシュトヴァーンの大聖堂>

塩野七海『日本人へⅤ』から 

 「ゲーテが言ったように『肉体の眼よりも心の眼で見ること』である。それには、短時日の間に何もかも見ようとしないこと。見ながら歩くのではなく、考えながら歩くのだから、訪れた場所の数ならば少なくなることはやむをえない」。

 昨日、トラムに乗ってドナウ川に沿って走り、トラムの中からペスト側を観光した。しかし、車窓から眺めるだけでは足りないものもある。

 その一つが聖イシュトヴァーン大聖堂。ブダペスト第一の大聖堂だ。

 くさり橋の袂から東へわずか数百mの所だから、ショッピング街をウインドショップしながら歩いて行く。

 大聖堂前の広場は広々として、心落ち着く空間だった。

 大聖堂はいかにも大きく堂々として、色合いも姿もいい。

 (聖イシュトヴァーン大聖堂のファーサード)

 この大聖堂は、1851年に着工し、1905年に完成した。ハプスブルグ家のフランツ・ヨーゼフ1世(后妃はエリーザベト)の頃で、国会議事堂などと同じ時代の建造物だ。ブダペストはこの時期に、一気にハンガリー民族の都へと発展した。

  (身 廊)

 8500人を収容できるという

 身廊の正面に、イエス・キリストの磔刑像でも聖母子像でもなく、聖イシュトヴァーンの像が祀られていて、キリスト教徒でなくても少しばかり違和感を覚えた。

 イシュトヴァーン1世が自らカソリックの洗礼を受けたのは、マジャールの各部族がそれぞれの祖先神を崇めており、これを一つにまとめるにはキリスト教化しかないと考えたから。そして、AD1000年、7部族を統合してハンガリー王国を建国した。死後、ローマ教皇によって聖人に叙せられる。

 初代の王が大聖堂の中心にあることに、ハンガリーの魂が感じられた。

      ★

[ 閑話・脱線 ] 

    自分の祖先たちが歩んできた道を知り、未来の世代に行く末を託すという心は自然なものである。人も家族も民族も、それぞれの歴史と文化と言語をもつ。しかし、そういう個人や家族や民族の歴史に被害者意識の火を投げ入れると、それはたちまち紙のようにメラメラと燃え上がる。

 「ポピュリズム時代のリーダーは、怒りと不安をあおりたてるのを特技にしている」(塩野七海『日本人へⅤ』)。

 NATOの一員であるトルコや、NATOとEUの一員であるハンガリーが、プーチンや習近平に追随して、かつての帝国の最大版図と勢力圏を取り戻そうなどと考えないように願う。

 EUではドイツが一人勝ちしないことも大切である。NATOやEUがあってこそのドイツである。

 互いに手を差し伸べ、支え合わなければ、NATOもEUも加入した意味がない。ロシア圏から離脱しようとするウクライナを他山の石とすべきだ。

 世界で、ロシア圏は縮小していっているが、中国圏は膨張し続けている。

      ★

 エレベータでドームの展望台に上がってみた。空は真っ青に晴れて、王宮の丘がよく見えた。マーチャース教会の塔も、堂々と聳えている。

 (聖イシュトヴァーン大聖堂の展望台から)

 大聖堂を出て、大聖堂を正面に見る街路のテラス席で軽い昼食をとった。

 (カフェテラスが並ぶ)

 現代的なショップやレストランのテラス席が並ぶ向こうに大聖堂があって、絵になる風景だ。

      ★

<ハンガリー人の伝承を伝える騎馬像たち>

 大聖堂の脇を立派なアンドラーシ通りが通る。英雄広場まで一直線に延びるこの街路は、パリのシャンゼリゼ通りに比せられる。

 終点の英雄広場まで歩くのは遠いので、大路の下を走る地下鉄に乗った。

 (英雄広場の記念碑)

 英雄広場は市民公園の一角にある。

 この記念碑は、聖イシュトヴァーン1世による建国から一千年を記念して建造された建国一千年記念碑。

 中央に高さ36mの大円柱。天辺には大天使ガブリエルの像。

 その下に、マジャールの祖先である7人の部族長が騎馬姿で建つ。中央には大首長アールバート。聖イシュトヴァーン1世の祖である。

 いかにも強そうだ。

  (7人の部族長たち)

 日本では、この国の国名はハンガリー(Hungary)。この呼称は、遠い昔、ゲルマン人が彼らをトルコ系のオノグル族と混同して呼んだ呼称らしい。本当はオノグルではなく、マジャール人だった。正式の国名はマジャロルサーグだが、彼らの通称でマジャル(Magyar)。これも日本ではマジャールとなっている。

 遠い昔、この地は、ローマの属州パンノニアだった。

 ローマ帝国の国力が弱まった時、フン族が侵入・支配した。

 8世紀にはゲルマンの一族のフランク族が立てたフランク王国の支配下に入った。

 だが、フランク王国は分裂して後退し、9世紀にはウラル山脈の東南に起源をもつアジア系の騎馬遊牧民マジャール人がやってきた。彼らが今のオーストリア、南ドイツ、さらにイタリア北部にまで侵攻したことは、ウィーンの項で書いた。

 7部族の中の1つがアールバード家で、そこから出たイシュトヴァーンが7部族を従えて、AD1000年に王国を打ち立てた。

      ★

<国立オペラ座に寄る>

 陽射しが斜光になった。建物の蔭が濃い。

 歩き疲れ、のども渇き、オペラ座のそばのカフェテラスで一休みした。

 (カフェテラス)

 国立オペラ座の見学ツアーがあるようなので、入り口で申し込んで見学した。

 (国立オペラ座)

 ウィーンの国立オペラ座に負けてなるものかという気概が感じられる。

 一旦、ホテルに戻って、休憩した。

 夜はもう一度、王宮の丘に上り、王宮の丘の夜景を眺めて、この旅のフィナーレとする。

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「ドナウの真珠」ブダペスト…ドナウ川の旅9/11

2023年01月15日 | 西欧紀行…ドナウ川の旅

   (王宮の丘からドナウ川の上流を望む)

<国境を越えてブダペストへ>

5月29日 快晴

 ホテルで朝食の後、U3でウィーン西駅へ。ウィーンの市内交通も少し乗りこなせるようになったが、今日はブダペストへ向かう。

 西欧の国から中欧へ。ベルリンの壁の崩壊までは社会主義の国だった。

 少しばかりの国の自立と自由を求めて、ハンガリー人が立ち上がった。だが、たちまちソ連の戦車が侵攻して、蹂躙した。

 「ハンガリー事件」のことは、遠い少年の日の記憶としてかすかに残っている。まだテレビはなかったから、ニュース映画で見たのだろうか。遠い国の出来事だったが、ソ連の冷酷さと、従属国の痛ましさが、遥かな記憶の底にある。

 本題を離れるが、1968年のチェコのプラハでも、2022年のウクライナでも、歴史は繰り返された。自分の勢力圏の国だと思うから、政治的に介入し、言論も弾圧し、戦車で蹂躙する。挙句、マンションでも病院でも、平然とミサイルを撃ち込む。日本はこの種の大国の勢力圏に入ってはいけない。そのためには日米同盟を堅持すべきだ。

 ウィーン西駅の人混みの中で、わが列車は何番ホームから出発するのだろうと頭上の電光掲示板を見上げていたら、「EN467便は50分の遅れ」のサインが目に入った。

 まただ 今回の旅で3度目の列車の遅れ!!

 しかし、少しも動じない。急ぐ旅ではないのだから。ブダペストでも、ドナウ川を眺めることができたらブダペストへ行った目的は達成である。あとどこかを見学できたら、それは全て満点に加点されていく。減点方式の旅はしない。

 人生は旅。旅心定まる

   駅構内のカフェで時間をつぶした。 

 やって来た列車に大きなキャリーバックを持って乗り込む。この列車の始発駅はどこだったのだろう?? 遠くから夜行列車として走ってきた気配が残っていた。車両の片側が窓のある狭い通路で、もう一方の側にコンパートメントの扉が並んでいる。自分の座席番号の書いてあるドアを開けると、6人掛けの部屋だった。ヨーロッパを舞台にした映画を見るような感じ。

 アラブ系の若い男女と同室だった。先客に対し挨拶して入った。

 列車がハンガリーの国境を越える頃、車掌が検察に回ってきた。日本でパソコンから打ち出した印刷物(乗車チケット)を見せて、OK。

 同室のアラブ系の若者には、パスポートの提示が求められた。入念にパスポートが調べられ、何か会話のやりとりがあった。

 車掌の態度は爽やかで丁寧だったが、車掌が部屋を出て行った後、若い男の様子がおかしくなった。ふさぎ、ふてくされ、一人で歌を口ずさんだりした。明るく優しい感じの若い女性が寄り添って慰めた。事情は私たちにはわからない。

 国境を越えると、車窓の森や畑とともに流れていく農家や小屋のたたずまいが貧しくなった。オーストリアのパッチワークのような牧歌的な美しい風景とはほど遠かった。

 3時間と少し。お昼過ぎにブダペスト東駅に着く。

 駅のホームの両替所で1万円札をフォリントに両替した。ハンガリーは2004年にEUに加盟したが、通貨はフォリントのままだ。たいていの支払いはVISAカードでできるが、早速、タクシー代には現金が必要。

 駅構内の人混みの中をキャリーバッグを引いて歩くときも、タクシーに乗ってからも、緊張した。事前にネットで調べたとき、ブダペスト空港で機内預かりから出てきたスーツケースがこじ開けられていたとか、タクシーも大回りしたり、ぽったくりの請求をされたとか書いてあった。

 だが、滞在中、そのようなことはなかった。何回かタクシーに乗ったが、そういうことは1度もなかった。ショッピング街を歩いているときも、地下鉄やトラムの中でも、スリなどのアブナイ雰囲気を感じたことはなかった。アブナイ気配ならローマやパリの方がある。特にローマ。ローマ市民のことではない。ローマはあまりにも開放され、人が自由に入り過ぎている。

 ドナウ川の河畔に建つ「インターコンチネンタル・ホテル」に2泊する。私のヨーロッパ旅行では使わない系列のホテルだが、今回の旅のテーマはドナウ川。そして、ネットでいろいろ調べ、調べつくして、このホテルの5階の部屋からの眺めが最高であることを知った。もっと高級なホテルも、もっと安いホテルもあるが、このホテルのドナウ川の眺望は他に代えがたいと思った。

 ホテルのフロントにキャリーバッグを預けて、早速、未知の町へ見学に出た。

      ★

<王宮の丘をめざしてバスを間違える>

   この旅の目的はドナウ川。よって、今日の午後の予定は、まずブダ地区の王宮の丘へ登り、ドナウ川を眺望する。そして夜は、「ドナウ川ナイトクルージング」。

 Budapest。ハンガリー語の発音を片仮名で表すと、「ブダピュスト」だそうだ。

 もとは3つの町だった。オーブダとブダとペスト。

 北方(ドナウ川上流)にはオーブダという町。旧ブダの意で、歴史は古い。ドナウ川の右岸(西側)にあり、古代ローマの軍団基地や属州パンノニアの州都アクィンクムの遺跡が発掘されている。しかし、今回の旅は考古学的興味による旅ではないから、行かない。

 その南(下流)の右岸がブダ。丘陵地帯になっていて、閑静な住宅地とか。その端がドナウ川に臨み、中世以来、ハンガリー王国の王宮があった。ブダペストを観光する人々が必ず訪ねる場所。私にとってはドナウ川を眺望できる丘だ。

 ブダの対岸のドナウ左岸は、平坦な土地が広がるペストの町。かつてはドナウ川をはさんで王宮と向かい合った半径300mぐらいの半円が城壁と堀で囲まれ、商人や職人の町だった。今は市域は大きく広がり、国会議事堂、官庁、ブダペストを代表する大聖堂、企業のオフィス、そして、ハンガリー第一の華やかなショッピング街だ。

 ホテルはペスト地区のドナウ川の河畔に建っている。くさり橋がすぐそばにあり、対岸は王宮の丘だ。

 (ペスト側から眺望する王宮)

 ホテルからくさり橋とは反対方向へ少し歩けばデアーク広場。地下に降りて切符売り場で市内交通の24時間券を買い、王宮の丘を目指した。

 地下鉄はドナウ川の川底深くをくぐり、3駅目のモスクワ広場駅に到着。そこから「城バス」に乗り、一気に急坂を上がれば王宮の丘の予定だった。

 だが、バスはどんどんどんどん坂道を登って、高台の住宅地へ向かう。これは間違えたな??

    あわてていると、前の座席に座っていたおばさんが声をかけてくれた。「引き返して。城バスは16番だよ」と教えてくれる。

 いざとなれば何とか意思疎通できるものだ。

 ハンガリー語はヨーロッパ系の言葉と全く体系が異なるらしい。見た目にはわからないが、ハンガリー人(マジャール人)の祖先を訪ねれば、我々と同じアジア人なのだ。

 見知らぬバス停で降り、反対行きのバスを忍耐強く待って、モスクワ広場へ引き返した。今度は16番の「城バス」に乗る。1時間近くもロスをしてしまったが、これもまた旅。でも、疲れる。

      ★

<ハンガリーの苦難と不屈の歴史>

 東へ東へと流れたドナウ川は、ハンガリーに入って、エステルゴムという丘の町の辺りから大曲りし、南流するようになる。

 ドナウ川を見下ろすこのエステルゴムの丘が、ハンガリーの建国の地だった。

 マジャール7部族のリーダー、アールバート家のイシュトヴァーン1世は、カソリックの洗礼を受け、AD1000年に初代国王(在位1000年~1038年)となった。王宮はエステルゴムに置き、ハンガリー・カソリックの総本山となる大聖堂も建てた。

 11世紀後半から12世紀にかけて、ハンガリー王国は全盛期を迎える。東西南北に大きく領土を広げ、産業も盛んになり、都市の建設も進んだ。

 13世紀、モンゴルの襲来があった。時の王ベーラ4世(在位1235~1270)は大敗を喫してアドリア海に逃れ、国土は焦土と化した。モンゴル軍の通過したあとは、略奪と殺戮で人口が半減したという。モンゴル軍が去った後、ベーラ4世は再度のモンゴル軍の襲来に備え、王宮を下流のブダの丘に移した。そして、モンゴル軍の襲撃に何とか耐えられたのが石造りの町と知り、ブダペストにその礎を築いた。

 15世紀、マーチャーシュ1世(在位1458~1490年)はイタリアなどから文人、建築家を招いてハンガリー・ルネッサンスを花開かせた。王宮の丘も美しく装われた。

 だが、その後、ハンガリーは、南から膨張してきたオスマン帝国を迎え撃たなければならなくなり、数度の大きな戦いを経て、1526年に若きラヨシュ2世が戦死した。1541年にはブダも陥落し、オスマン軍に制圧されてしまう。

 ハンガリーは、ブダペストを含む3分の2の領土がオスマン帝国領となり、北西部の3分の1だけがハンガリー領として残った。ただし、王家は断絶したから、戦死したラヨシュ2世の妹の夫、ハプスブルグ家(オーストリア)のフェルディナントが王位を継いだ。以後、ハプスブルグ家が王位を継承していく。

 1683年、オスマン帝国は第2次ウィーン包囲に失敗し、ハプスブルグ帝国が一気に攻勢に出た。ハンガリーは全土がハプスブルグ領となる。

 その後、ハプスブルグの支配に抗するハンガリー人の運動は何度も起き、1867年にやっとハンガリーの自治が認められた。ただし、ハプスブルグ家が両国の君主として君臨するオーストリア=ハンガリー帝国いう形となった。

 第一次世界大戦でハプスブルグ帝国は崩壊し、1918年にハンガリーは独立する。そのあと、ナチスドイツに付いて第二次世界大戦を戦い、ブダペストの町はまたもや破壊された。

 戦後はドイツを破って侵攻してきたソ連の支配を受けた。

 ハンガリーが真に独立できたのは、ベルリンの壁崩壊の年の1989年である。ベルリンの壁の崩壊は、それに先んじて、ハンガリーがハンガリーの壁を壊したのをきっかけにしている。東ベルリン市民は、ハンガリーを通って、西ベルリンへ殺到したのだ。

 1999年にNATOに加盟。2004年にEUに加盟した。

 ただし、2010年に首相に再登板したオルバーンは親ロシア路線に転換し、ロシアのウクライナ侵攻にもNATOとは一線を画している。

      ★ 

<王宮の丘からの眺望 … ドナウ川、国会議事堂、くさり橋>

 王宮の丘からのドナウ川の眺望は最高だった

 上流の方角がよく見えた。

 ズームレンズを望遠にして、上流のオーブダ方向を写してみた。

 (上流のオーブダ方向)

  緑のこんもりした島がマルギット島。その手前の橋はマルギット橋。マルギット島の先にはオーブダ島。これらの島の左手(右岸)にローマの遺跡がある。

      ★

 空の青を映した美しき青きドナウ。その対岸(ペスト側)に国会議事堂。美しい

 王宮の丘から眺める景観の主役は国会議事堂だ。幾本ものゴシックの尖塔と、その中央に華のような大ドーム。

 (ペスト側の国会議事堂)

 だが、このような建造物はヨーロッパで珍しいわけではない。

 主役はやはりドナウの流れ。ドナウ川があってこその建物である。

 1884年に着工し1904年に完成した。ハプスブルグとの二重君主制とはいえ、ハンガリーが自治権を取り戻した時代である。ハンガリー国民の心意気が感じられる。

 ここには、初代国王イシュトヴァーン1世が戴冠した王冠が、ガラスケースに納められて展示されているそうだ。ハプスブルグ家の王たちも、このイシュトヴァーンの王冠を戴冠して初めて王と認められた。(それにしても、国王は勇敢でなければならないだろうが、戦死してはいけないとつくづく思う。後継ぎもなしには。蒙古に大敗して逃れたベーラ4世のように生き延びることが国民のためだったかも知れない)。

      ★

 眼下には、ブダと、ペストとを結ぶ、「くさり橋」。ブダペストの美しい景観はこの橋とともにある。

  (眼下のくさり橋)

 美しいブダペストを「ドナウの真珠」と形容するのは、ネックレスのようなこの橋のイメージによるのではなかろうかと、この夜のナイトクルーズで思った。

 橋の長さは375m。高さ48mの2基の塔に支えられている。

 1839年から10年の歳月をかけて架けられた。国会議事堂の建造と同じ時代である。今は上流にも下流にも何本もの橋があるが、「くさり橋」が架かるまでドナウ川を渡るには渡し船しかなかったそうだ。この橋によってブダとペストがつながれ、大きな新しい共同体が生まれた。

 橋の向こうに聖イシュトヴァーン大聖堂のドームが見える。王宮、くさり橋、大聖堂が一直線に並んでいるのだ。

     ★

<王宮の丘を巡る … 王宮、マーチャース教会、漁師の砦>

 王宮の建物は、丘の南半分を占めている。

 ブダに初めて王宮(城塞)が築かれたのは、モンゴル軍の再度の襲来に備えたベーラ4世(在位1235~70)のとき。

 その後、何度も破壊と建設が繰り返された。

 現在の王宮の姿が出来上がるのは、国会議事堂やくさり橋などと同じ19世紀末から20世紀初頭。その後、ハプスブルグ家も滅び、ハンガリーは共和制国家となった。

 ナチスドイツに付いた第二次世界大戦のときにまた大破され、その後大修復。今は国立美術館、歴史博物館、現代美術館、非公開の図書館などとして使われている。

 この旅では、内部の見学はしない。

      ★

 13世紀、ベーラ4世がブダの丘に首都を移したとき、王宮の北側に「聖母マリア教会」を建てた。

 教会は14世紀にゴチック様式で建て直され、15世紀にはハンガリーにルネッサンスを導入したマーチャース1世(1458~90)によって大きな塔が増築された。

 この塔はドナウ川からよく見え、王宮の丘のシンボルになっている。その景観は、この夜のナイトクルージングで体験した。今は、「マーチャース教会」と呼ばれている。

 大屋根の瓦模様が面白い。

   (マーチャーシュ教会)

 内部に入って、見学した。祭壇もステンドグラスも美しかった。 

 (マーチャース教会の祭壇)

(マーチャース教会のステンドグラス)

 オスマン帝国の時代にはモスクにされたという

 ハプスブルグの時代、ハプスブルグ家のフランツ・ヨーゼフ皇帝と后妃エリーザベトがここで戴冠式を挙げた。ハンガリー国民はハプスブルグの王には複雑な思いをもったが、美しいエリーザベトは人気があった。エリーザベトもブダペストが好きで、よく訪問したそうだ。

 くさり橋のすぐ下流の橋は清楚な白い橋で、「エルジェーベト橋」と名付けられている。

      ★

 マーチャース教会の隣には、「漁夫の砦」がある。

 砦といっても、王宮などと同時代に造られた見晴らし台だ。その昔、敵襲があり市民がブダの丘に立てこもった時、城壁のこのあたりの防備をドナウ川の漁師組合が受け持ったらしい。それで「漁師の砦」と名付けられたとか。

 数個の塔とそれらをつなぐ回廊で構成され、絶好のビューポイントだ。

  (漁夫の砦)

 (漁夫の砦からの眺望)

      ★

<トラムに乗ってドナウ川沿いを観光>

 城バスに乗り、バスを乗り継いで、くさり橋の上流のマルギット島に架かるマルギット橋まで行ってみた。

 マルギット橋からは、2番のトラムに乗って、国会議事堂、くさり橋、エルジェーベト橋、自由橋、ベドフィ橋の先まで行き、今度は逆向きのトラムに乗って、エルジェーベト橋まで引き返した。トラムに乗ってドナウ川沿いを車窓観光をしたことになる

 エルジェーベト橋の袂にある「竹林」という和食レストランへ。

 ドナウ川に臨むテラス席で、ゆっくり晩飯を食べた。寿司に白ワインがよく合って、とても美味であった。

 ゆっくり時を過ごし、そのあと、「ドナウ川ナイトクルーズ」へと向かった。

(つづく)

 

 

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雨のウィーン … ドナウ川の旅8

2022年12月31日 | 西欧紀行…ドナウ川の旅

  (シェーンブルン宮殿の庭園側)

5月28日 雨。寒い。

 朝、ホテルの部屋のテレビで天気予報を見た。晴天が続いて、ザルツブルグでは30度を越える真夏のような暑さだったが、昨日は時折小雨。そして今日は雨。気温は18度までしか上がらないようだ。ヨーロッパは寒暖の差が激しい。

<雨のシェーンブルン宮殿>

 今日の午前の予定は、シェーンブルン宮殿。

 旧市街から西南へ4キロの所にある。今は地下鉄やトラム、車が行き交う新市街の中だが、昔は「ウィーンの森」に続く森林だったそうだ。そこにハプスブルグ家の皇帝が狩猟用の館を建てた。館の近くの森の中に泉が見つかり、「シェーナー・ブルンネン(美しい泉)」と名付けられた。これがシェーンプルンの名の由来だ。18世紀後半に女帝マリア・テレジアが、狩猟用の館をバロック・ロココ風の壮麗な夏の離宮に造り替えた。

 前回のツアーでは、シェーンプルン宮殿の各部屋を日本語ガイドの案内で詳しく見て回ることができた。政務のかたわら16人の子を産み育てた女帝マリア・テレジアの夏の離宮は、ルイ14世のヴェルサイユ宮殿と比べれば、母親らしい気配りもあり、かつ堅実な家風のハプスブルグ家らしい宮殿だった。とはいえ、壮大にして贅を尽くした大宮殿であることに変わりはない。

 ヴェルサイユ宮殿の鏡の間を模した大ギャラリーは、6歳のモーツアルトが演奏をして、マリア・テレジアからお褒めの言葉をいただいた広間。のちに、「会議は踊る」の舞台となった。

 印象に残った部屋がある。アメリカのケネディ大統領とソ連のフルシチョフ首相が会談したという部屋だ。核戦争の危機(キューバ危機)をかろうじて乗り越えたあと、トップ会談が実現し、この宮殿が会談場に選ばれた。会談が行われた部屋は警備上の配慮から窓のない部屋だった。

 その部屋に入った途端、息苦しくなり閉所恐怖症になりそうになった。扉を閉ざしたこの部屋の中で、両首脳は世界の運命を決める白熱した議論をしたのだ。

 それはともかく、私にはヨーロッパの大宮殿や大邸宅はなじめない。料理人と召使い付きで差し上げると言われても、住みたいとは思わない。遠くから眺める分には、それなりに絵になるのだが。

 すっきりとむだのない、清々しい書院造り風の家屋を日本で見学すると、心が和む。

 西欧では、「自然」を人工化し(例えばルネッサンス庭園)、「文化」(例えば宮殿)の中に「自然」を取り入れる。日本では、「文化」そのものが「自然」の力を借りて造られ(例えば陶器茶碗。「おのずから~なる」という言葉)、また、「文化」(書院造の建物や庭)は大きな「自然」の中に包み込まれている。

      ★       

 今回は、シェーンプルン宮殿の広大な庭園を歩きたいと思っていた。

 広大な庭園の南端は丘になっていて、そこに回廊が建てられ、グロリエッタ(展望テラス)と呼ばれている。ただ、近く見えるが、宮殿の建物から直線距離で1.7キロぐらいあるらしい。グロリエッタを往復するだけで3.5キロ。それでも、その丘から広大な庭園越しのシェーブルん宮殿を撮影したいというのが、今日の計画だった。

 (街をゆく観光用の馬車)

 地下鉄を乗り継いでシェーンブルン宮殿へ。ホテルを出た時から雨が降っていたが、宮殿に着いた頃はかなりの雨。加えて、ひどく寒かった。

 (シェーンブルン宮殿正面)

 マリア・テレジア・イエローは雨に濡れてなお鮮やかだが、地面は既にぬかるみ、雨脚は強くなるばかり。宮殿の付属のカフェ・レストランに入って雨宿りし、コーヒーを飲んで暖を取った。しばらく様子をみたが、やみそうもない。

 結局、グロリエッタはあきらめて、宮殿の周りを少し歩いて、また地下鉄に乗って旧市街へ帰った。

      ★

<ドナウ運河の方へ旧市街を歩く>

 午後、雨が小降りになった旧市街を、昨日よりもっと北の方、旧市街の北端のドナウ運河まで歩いた。

 この辺りは、旧市街でも、ローマ軍団の城壁の中だった所だ。

 旧市庁舎が建つホーエルマルクト広場は、9世紀に、近隣から集まってくる商人たちが市を立てることができるよう開かれた広場。広場の片隅から、ローマ軍団の将校官舎の跡が発掘されている。ただ、今は、華やかなショッピング街はこの広場より南になり、この広場から北は下町のような風情がある。

 広場にアンカー時計があり、定時を前に観光客が集まって頭上を見上げる。時計から人形が登場するからくり時計だ。

 (アンカー時計)

 登場するのは、ウィーンの歴史に名をとどめた12人の人たち。

 紅山雪夫さんの『オーストリア・中欧の古都と街道』は名著だが、この12人を紹介しながらウィーン(オーストリア)の歴史を紹介している。以下はそのダイジェスト。

      ★

<ウィーンで没した皇帝マルクス・アウレリウス(在位161~180)>

 オーストリアには、先住民のケルト人が住んでいた。

 ウィーンの歴史は、ローマ帝国の第2代皇帝ティベリウス(在位AD14~37)が築かせたローマの軍団基地に遡ることができる。ローマはドナウ川を帝国の北の防衛線にしようと、軍団基地を築いていった。

 当時は「ヴィンドボーナ」と呼ばれた。

 軍団基地は、定められた規格によって建設された。

 ヴィンドボーナも1辺が約400mほどの城壁に囲まれていた。城壁の厚さは6m、高さは8~10m。さらに周囲に堀を巡らせていた。今、旧市街の高級ショップ街である「グラーベン通り」はこの基地の南の堀の跡である。基地の北側はドナウ川が流れていた。

 ここに1軍団6千人の将兵が駐屯していた。

 基地の真ん中に広場があり、広場には官庁や会議場があって、社交の場である公衆浴場や病院、下水道も完備していた。

 中心の広場から東西南北に道路が走り、城門の外のローマ街道に通じていた。

 ドナウ川に沿って、軍団基地と次の軍団基地を結ぶために、補給基地、騎兵基地、歩兵基地、見張り台などが数珠つなぎに置かれている。その間を結ぶのは街道。そして、全ての街道はローマに通じていた。中国は万里の長城を築き、ローマは街道を通した。

 地中海を中海にして、西ヨーロッパから、アフリカ大陸の北部を通り、中東に到る広大な帝国の辺境を、ローマはこのように防衛線を築いて守った。

 ローマ帝国の中に軍隊はいなかった。首都であるローマに近衛軍団がいるだけだ。パクス・ロマーナは辺境を守る最小の軍隊(最小の防衛費)と張り巡らせた街道とで効率的に守られていたのだ。

 ドナウ川の流れに沿うハンガリーのブダペストも、セルビアのベオグラードも、ローマの軍団基地を起源とした都市である。

 ウィーンのローマ軍団基地は市街地だから、考古学的発掘調査はできない。

 塩野七海『ローマ人の物語Ⅺ 終わりの始まり』によると、皇帝マルクス・アウレリウスがドナウの各軍団長を指揮するために滞在することが多かったカルヌントゥㇺ(ウィーンから50㌔下流の軍団基地)の大規模な発掘調査が行われている。それによると、カルヌントゥㇺの軍団基地(400m×500m)の背後を囲むように、軍団関係者の居住地区が広がっていた。皇帝マルクス・アウレリウスの后は、この居住地区で将兵やその妻たちの世話をして「基地の母」と呼ばれていたそうだ。さらに墓地をはさんでその後方には、地元住民や退役軍人たちの住民共同体があり、ここでは「市」も常設されていた。この2つの地域の全体が軍団基地だったらしい。その双方に、広場も、公衆浴場も、コロッセウムもあった。

 この防衛線上の基地と基地の隙間を抜いて、ゲルマンの騎馬隊が帝国内の奥深く、今のヴェネツィアの辺りまで侵入し、殺しまくり、奪いまくり、人々を恐怖に陥れた。一旦、リメスの中に入られたら、中に軍隊はいないのだ。しかも、ドナウ川の向こうのゲルマン各部族に、そういう不穏な動きがあることが、マルクスのもとに知らされた。

 第16代皇帝マルクス・アウレリウス(在位161~180)はそういう事態に直面した最初の皇帝だった。

 彼は皇帝の責務として自ら辺境の地に赴き、各軍団基地の司令官を指揮して、前期と後期の5年間、ゲルマニア戦役を戦った。そして、179年の酷寒の冬をヴィンドボーナ(ウィーン)で過ごした。これまでの戦いから、春を迎え戦闘を再開すれば決定的な勝利が得られると考え、翌春の戦闘の準備が進められていた。その矢先に、もともと病身だった皇帝は倒れた。59歳を迎えるところだった。

 そこで、アンカー時計の第1番目は、ウィーンで没した皇帝マルクス・アウレリウス。

      ★

<ウィーンに入城したカール大帝(国王在位768~814年)>

 ホーエルマルクト広場から、旧市街をさらに北の方へ歩いて行くと、道は入り組んで下町のにおいがする。マップを見るとJudengasse(ユダヤ通り)とある。ウィーンはフロイトやマーラーら優れたユダヤ人が活躍した町でもある。その先で道が下り坂になり、坂の途中に聖ルプレヒト教会があった。

 ローマ帝国は東西に分裂し、西ローマは衰えていった。防衛線に配置されていたローマ軍も撤収され混沌の時代に入る。476年、西ローマ帝国滅亡。

 混沌が少しずつ治まってくると、人々はローマ軍の軍団基地の崩れた城壁の中に徐々に戻ってきて、小さな集落をつくって暮らした。そこへ、辺境への宣教を志すカソリックの聖職者がやってくる。

 聖ルプレヒト教会はAD740年頃に創建されたと言われ、ウィーン最古の教会である。蔦がからんだ古い石造りの聖堂は11、12世紀のものらしい。その土台部分はローマ時代の城壁の一部。

 その下をドナウ運河が流れていて、急な石段を伝って下りていく。

   (ドナウ運河)

 ゲルマン諸族が次々に侵攻して混沌状態になっていた頃、その中から頭角を現したのがフランク族の王クローヴィス(在位481年~511年)。フランク王国を建国し、カソリックに改宗した。

 フランク王国は次第に勢力を大きくし、8世紀の後半、カロリング朝のカール大帝のときに、今のフランス、ドイツ、イタリアにまたがる王国をうち建てた。791年にはウィーンにも入城する。そこで、アンカー時計の2番手はカール大帝である。

 なお、前回のオーストリアツアーのときは、「ホテル・ヒルトン・ダニューブ」に泊まった。ウィーンの郊外にあり、裏をドナウ川が滔々と流れていた。だが、この流れは人工の流れ。ドナウ川はもともとウィーンの旧市街の北辺を流れていたが、幾筋にも枝分かれしてよく氾濫を起こした。そのため、19世紀に流れをまとめて、一直線の人工の大河に造り替えた。

 その流れから枝分かれしたドナウ運河が、実は古代ローマ以来、ドナウの本流が流れていた川筋である。

      ★

<ウィーン発展の礎を築いたオーストリア公レオポルト6世(在位1198年~1230年)>

 せっかく統一されたフランク王国は3分割され(ゲルマン人は嫡子相続ではなかった)、現在のフランス、ドイツ、イタリアの原型になった。(なお、スペインは、地中海を渡ってきたイスラム勢力が王国をつくっていた)。

 9世紀になると、東方から騎馬遊牧民のマジャール人が侵攻してきて、896年にはウィーンも占領された。彼らは強く、西へ西へと、南ドイツ、北イタリアまで侵攻し略奪を繰り返した。防衛の先頭に立ったバイエルン公や司教様にも戦死者が出たほどだ。

 神聖ローマ帝国の皇帝だったオットー2世は、マジャール人を防ぐために東方辺境伯を置き、バーベンベルグ家のレオポルト1世を任命した。996年の公文書に「東方の国(オスターリキ)」という言葉が登場し、オーストリアは996年をもって建国の年としている。

 さて、バーベンベルグ家は幾世代もかけて、北方のスラブ、東方のマジャールと戦いながら勢力圏を拡大し、12世紀にウィーンに到達した。そこで、時の皇帝フリードリッヒ1世は、バーベンベルグ家を「東方辺境伯」から「オーストリア公」に昇格させた。

 12世紀末、ウィーンの人口は増え、オーストリア公のレオポルト5世はウィーンの城壁を現在の旧市街の範囲まで広げた。そのための資金には、十字軍から帰国中に捕らえた英国の獅子王リチャードの身代金を使ったという。

 次のレオポルト6世は、街道を四方に通し、産業を興隆し、市民の自治を認め、ウィーンを興隆へと導いた。ケルントナー通りはこのときに造られた街道で、地中海貿易で興隆期を迎えようとしていたヴェネツィアに通じている。そこで、アンカー時計の3番手はレオポルト6世(在位1198年~1230年)。(4番手は吟遊詩人なので省略)。

      ★

<華やかなハプスブルグ帝国の都の時代(1273年~)>

 13世紀の半ば、バーベンベルグ家は後継ぎがなくなり、断絶する。

 ちょうどその頃、大空位時代を経て、神聖ローマ帝国皇帝にハプスブルグ家のルドルフが選出された。ハプスブルグ家はスイスの小豪族に過ぎなかったが、諸侯は皇帝権力を弱めるため弱小豪族を皇帝にしたのだ。

 ドイツは、フランク王国の血筋が絶えた後、諸侯による選挙で王を決めるようになっていた。

 自領を増やしたかった皇帝ルドルフ1世は、空き家となっていたウィーンに入城する。しかし、この人は気さくな人柄で、人の話をよく聞き、人気のある君主だったから、ウィーン市民は歓迎した。

 その後、ハプスブルグ家はスイスの父祖の地を失っていき(スイスの独立)、名実ともにオーストリアを本拠とするようになった。田舎町のウィーンも帝都ウィーンへと発展していく。そこで、アンカー時計の5番手はハプスブルグ家最初の皇帝ルドルフ1世(在位1273年~1291年)。

 6番手には、ウィーンのシンボル、シュテファン大聖堂を完成させた建築家が登場する。

 7番手はハプスブルグ帝国の大発展の基を開いた皇帝マクシミリアン1世(在位1493年~1519年)。

 8番手と9番手は、オスマン帝国の16万の大軍に包囲されたウィーン(第2次ウィーン包囲)(1683年)を、1万6千人の守備軍で守り抜いた市長と軍司令官。ウィーンを守り抜いているうちに、オーストリア、ドイツ諸侯、ポーランドの7万の援軍がやって来て、オスマン軍を撃破した。

 10番手は、第2次ウィーン包囲のあと、16年間に渡る対オスマン帝国との戦いで、オスマンの勢力圏を大きく後退させたプリンツ・オイゲン公。

 11番手は、マリア・テレジアとその夫(在位1740年~1780年)。12番手は音楽家ハイドンとなる。 

       ★

<リンクを1周する>

 シュヴァーデンプラッツに出て、リンク(環状道路)を回る1番と2番のトラムを乗り継ぎながら1周し、所々で下車して見学した。

  (リンクを走るトラム)

 オスマン帝国による第1次ウィーン包囲のとき、ウィーンの城壁は大砲がない時代に築かれたものだったから、オスマン軍の得意とする大砲攻撃にさらされて市民は恐怖の日々を過ごした。その年は天候が不順で、オスマン軍がウィーンに到着したときは秋も深まっており、なお雨が降り続いて、冬の到来をおそれたオスマン軍は早々に撤退した。ウィーンは気象に助けられたのだ。

 当然、第2次のオスマン軍の襲来があることが予想された。そこで、オスマンの大砲攻撃に備えて、町を囲む城壁の前面に分厚い堡塁を付け、堡塁の上には大砲を並べた。その外側に堀。さらにその外側は、建造物も樹木も取っ払い、幅500mもの空き地帯を巡らせた。当時の大砲の射程距離を考慮したもので、敵軍は敵が身を隠す遮蔽物がなく、近づけば城壁の上からは狙い撃ちされる。

 この防衛施設によって、1683年の第2次ウィーン包囲のときには、16万のオスマン軍を防いだ。

 しかし、19世紀初頭、ナポレオン軍の攻撃を受けたときは、空き地帯の遥か後方から巨砲で攻撃され、城壁も空き地帯も無用の長物になった。

 19世紀中頃、皇帝フランツ・ヨーゼフは、反対する軍部の声を退け、この防衛施設を完全に撤去させた。そして、その跡地を、広いリングシュトラーセ(環状道路)に変えた。さらに残る広大な空き地は公と、民への払い下げによって、美しく華やかな建造物や公園が造られていった。

 ルネッサンス様式の美術史美術館と自然史博物館、民主政治発祥の古代ギリシャにあやかったギリシャ神殿風の国会議事堂、市民共同体の理想としてベルギーのブリュッセルの市庁舎を模したネオゴシック様式の新市庁舎、ブルク劇場、ルネサンス様式のウィーン大学、双塔をもつネオゴシック様式のヴォティーフ教会、アール・ヌーヴォ様式の駅舎、バロック様式のカールス教会、そして市立公園など。

 市立公園のヨハン・シュトラウス像は、台座を修理中だった。

(ネオ・ゴシック様式の新市庁舎)

 ネオ・ゴシック様式の新市庁舎は壮麗だが、市の職員はここで働いていないそうだ。従って、市民も来ない。市民がこの建物を訪れるのは年に何回かの大舞踏会のときだけ。あとは、外国からの賓客があったときに使われる。いつもは市長がこちらにいらっしゃるとか。前回のツアーの時、その地下の食堂で食事した。大阪府庁の食堂をイメージしていたが、豪華に装飾された壁面をもつ宮殿風のレストランだった。もちろん、観光客用のレストランで、食事の内容までが高級というわけではない。

 (双塔のヴォティーフ教会)

 双塔が美しいヴォティーフ教会は、外観に比べて中はわびしい。教会の前に掲げられたコマーシャル用の看板には少々あきれた。

      ★

 途中、疲れて「カフェ・ラントマン」に入った。

 パリのカフェは混んでくると、テーブルとテーブルをくっつけて客を入れる。右隣の男女が雀のようにしゃべり、左隣の男女が何か熱心に議論していても、その間の小さなテーブルの小空間はわが空間だ。それに、外のテラス席が空いていたら、人々は外の席に座る。イタリア人もフランス人も、そして私たちのような旅人も、テラス席が好きなのだ。室内の席に座る人も、一人でくつろいでいる人も、常連の近所のおじさんたちも、ガラス越しに外を見ている。外を歩くオシャレなマダムや美しい街並み眺めているのだ。外を歩く人も、テラス席やガラスの中の人を眺めて行く。一言で言えば、パリのカフェは開放的なのだ。

 ウィーンのカフェは、テラス席はあまり見かけない。中に入ると、天井が高く、柱は大理石だったりして、高級感がある。そこで孤独に新聞を読んだり、時には政治情勢をディスカッションしたり。「カフェ・ラントマン」に入った時、あちこちの席にリザーブの札が置いてあった。毎日、時間になると、いつもの自分の席に座るということなのだろう。

 「私は気が向くと、ヘーレン通りの『ツェントラール』やグラーベン通りから南に入った『ハヴェルカ』に行ってほの暗い世界で時を過ごした。特に秋から冬にかけて、淡くなった窓外の陽射しを眺めながら新聞を読み、いつも携えているノートに心に浮かぶ感想を書きとめたりする」(饗庭孝男『ヨーロッパの四季』(東京書籍)から)。

 それに、特筆すべきは、ウィーンのカフェは、中央の一角にガラスケースがあって、様々なケーキが並んでいることだ。番号が付けてあり、カウンターで番号を言って注文する。マダムやマドモアゼルだけでなく、紳士も食べている。私も一度、食べてみたが、1個が大きく、それに甘すぎる。

 パリのカフェでケーキを食べている人は、まずいない。

      ★    

 古代ギリシャの神殿風の国会議事堂。

 フォルクス庭園のバラ園は見事というほかない。

  (フォルクス庭園)

 また「天満屋」で晩飯を食べ、今日の見学を終えた。

 明日は、列車に乗って国境を越え、ハンガリーのブダペストへ行く。

 ガイドブックを見ると、ウィーンほどには治安は良くないようだ。不安もあり、緊張もするが、それでも、未知へ向かうのは心楽しい。

 

※ 2022年も大晦日。来年は今年よりも朗らかな年になりますように。

 皆様がご健勝で良い年をお迎えになられることを心から祈念いたします。。来年もまた

 

 

 

 

 

 

 

 

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ウィーンでオペレッタを観賞する … ドナウ川の旅7

2022年12月26日 | 西欧紀行…ドナウ川の旅

  (シュテファン大聖堂周辺)

※ [お断り]   ウィーンのことは2012年11月に「遥けきウィーン」と題して3回に渡って書いています。今回も同じ旅を踏まえて書くことになりますので、写真も内容も一部重複することをご了承ください。

  ★   ★   ★

<遥かなるウィーン>

 オーストリアの国土は横(東西)に長く、上下(南北)の幅は狭い。それでも中央部あたりより右(東側)は、少し南北にも広がっている。右を向いた鯉に少し似ているかも。

 周りに海はない。

 左(西)はチロル地方で、スイスに接する。下(南)側はアルプス山脈を隔ててイタリアとスロベニア。上(北)は左からドイツ、そしてチェコ。右(東)側はスロバキアと、その下(南)にハンガリー。

 自然が美しい国だ。

 歴史的には、西欧の辺境の地だった。

 中世の前期、ドイツ王は、東から侵攻してくる騎馬遊牧民のマジャール人に対して、東方辺境伯を置いた。「東方の国(オスターリキ)」がオーストリアの名の起源である。

 その後、ハプスブルグ家の美しい都となった首都ウィーンは、国土の右端(東)の上端(北)にあり、チェコにも、スロバキアにも、ハンガリーにも近い。

 美しい帝都だが、歴史の中では様々な経験もした。

 1529年と1683年の2度に渡って、北上してきたオスマン帝国の大軍に首都は包囲された。

 もっとも2度目のときはオスマン帝国を敗走させ、逆にハンガリーまで併合してしまった。

 ナポレオン軍には敗北し、帝都への入城を許した。ナポレオンが敗北した後は、ウィーンのシェーンブルン宮殿で戦後処理の国際会議が開かれた。歴史の時間に、1814年「会議は踊る」と習った。

 1938年、オーストリアはナチスドイツに併合された。このとき、映画『サウンド・オブ・ミュージック』のトラップ一家は、かっこよくオーストリアを脱出した。

 ドイツ側で第二次世界大戦を戦ったオーストリアは、敗戦後、ソ連、米国、英国、フランスによって分割統治された(1945年~1955年)。瓦礫の残る戦後のウィーンを舞台にした映画『第三の男』は、この時代の話だ。

 地図の上で、日本からウィーンは、パリよりも少し近い。しかし、心理的にはより遠く感じる。異郷。遥かなるウィーン。

 この旅の目的であるドナウ川は、ドイツのレーゲンスブルグ、パッサウを経て、横に長いオーストリアの中央部の北方から流れ入り、オーストリアの北部を右(東)へ、リンツ、メルク、デュルンシュタインなどの景勝の町をつくりながら、ウィーンへと流れていく。

 シュトラウス作曲のワルツ「美しき青きドナウ」は、第2の国歌と言われるそうだ。

 ウィーンを出たドナウ川は、すぐに国境を越えてスロバキアの首都プラチスラヴァに入り、さらにハンガリーへ入って、ハンガリーの首都ブダペストの直前で流れを南に変え、滔々たる大河としてブダペストを流れていく。

 ウィーンもブダペストも、ローマ帝国の防衛線を成すドナウ川沿いの軍団基地に起源をもつ町であった。 

                  ★

<文明の交錯するウィーン>

5月27日 曇り、時々小雨。

 ザルツブルグ駅から9時1分発の特急に乗り、ウィーン西駅に11時44分に到着。

 今までの普通列車(鈍行)の旅は、春の陽だまりの中にいるようなのどかさがあった。車両の中は空いていて、乗客の多くはローカルな旅を楽しむヨーロッパ系の旅行者だった。

 特急(新幹線)に乗ると、座席はかなり埋まり、清潔でコンパクトな車内に話し声はなく、展開する車窓の景色を眺める人も少なかった。乗客の半分以上は、旅人というよりもビジネス或いは何かの所用があって、所在ない「移動」の時間を過ごす人に見えた。

 ウィーン西駅は行き止まり駅だ。

 ウィーン。英語でVienna。ドイツ語でWien(ヴィーン)。いずれの響きも美しい。響きがまだ見ぬ都市のイメージをつくり、人々のイメージが都市をそのようにつくっていくのかもしれない。

饗庭孝男『ヨーロッパの四季』から

 「このところ私は毎年のようにウィーンに来ている。パリとは趣が異なるが、心の落ち着く町である。

 かつてはよく汽車で西駅に着いた。パリとウィーンは汽車で15時間、1日に1本通っている。西駅に着くと西ヨーロッパをはるばる横切って、半ばスラヴ圏に入ったという印象を与える。ザルツブルグから東へ向かうにつれて、風景のなかにチェコスロヴァキアやポーランドで見うけるような農家や倉庫が牧場の間に見うけられるからである。窓の花々も少なくなってくる。

 またあちこちに見られるロシア正教会風の教会尖塔を眺めていると、他方でビザンチン圏に入ったとも感じられる。

 一方、不思議なことに北から入る暗いフランツ・ヨゼフ駅に着くと、スラヴ圏から西ヨーロッパの文化圏に帰ってきたという感がつよい。

 このことは、結果としてウィーンが完全に西欧でも東欧でもなく、また宗教がカトリックとしても、必ずしもイタリアやフランスのようなラテン的性格をもたず、ゲルマンとスラヴにビザンチン文化の混融する複合的な性格をもっていることを意味しよう」。

      ★

 地下鉄駅で24時間券を買う。U3で旧市街の中の「ヘレンガッセ」駅へ。

 予約していたホテルは、地下鉄駅のそばだった。旧市街の中だが、近代的なスマートなホテルで、部屋も広く快適だった。

 ホテルに荷物を置き、早速、街歩きに出る。

 前回のツアーの時、シェーブルン宮殿はガイドツアーで丁寧に見学した。その翌日はフリーの1日で、現地のツアーに参加する人も多かったが、こういう自由は私にはありがたかった。朝、ホテルを出て、晩までかけて、1人で旧市街とリンク(環状道路)沿いを歩き、見て回った。

 たいていの見どころはすでに見て回っていたから、今回は何か見学しなければいけないという強迫観念からは解放されている。ウィーンという街を味わえればよい。ただし、今夜はフォルクスオーパーにオペレッタを見に行く。新しいことに挑戦しなければ、旅の意味はない。

 小雨が降ったりやんだりしていた。ザルツブルグでは30度を越えるような暑さだったが、今日は肌寒く、上着を着て、折りたたみの傘を持って歩いた。

      ★

<華やかなウィーンの旧市街を歩く> 

 ウィーンは人口160万人の大都市である。

 だが、旧市街に限れば、南北約1キロ、東西約1.5キロ。旧市街の周りを「リンク」と呼ばれる環状道路が巡り、19世紀に建造された華麗な建造物や公園によって彩られている。その範囲の中を、世界からやってきた老若男女の観光客が歩くカラ、観光客の密度は相当に高い。

 ホテルからヘレンガッセを歩いて行くと、王宮前のミヒャエル広場は指呼の間だった。前回訪れたとき、王宮(ホーフブルグ)はこの広場から眺める姿が一番素晴らしいと思った。だが、観光客が多く写真は撮りにくい。

 13世紀から20世紀の初めまで、600年以上に渡ってハプスブルグ家の王宮だった。その間に、次々と建造物が建て増しされた。いくつもある博物館は有料だが、敷地内(庭園)は市民にも観光客にも開放されている。

 ミヒャエル広場から、トンネルのような宮門の中を潜り抜けて、王宮の敷地へ入った。

 すぐ右は皇帝の居館。左手に最も古い建物のスイス館と王宮礼拝堂。ウィーン少年合唱団はこの礼拝堂のミサで天使の歌を歌う。その横を通って、広々と開けた英雄広場に出る。

 左手に新王宮の大きな建物。広場の向こうの樹木の先に新市庁舎の尖塔がのぞいていた。

  (王 宮)

 一度、王宮の南の門であるブルグ門を出て、そのままブルグ公園を通り抜ける。絵葉書にも登場するモーツアルト像が立っている。写真右下にのぞく赤い花はト音記号。とにかくオシャレな街なのだ。左手には新王宮が見える。

 (ブルグ公園のモーツアルト像)

      ★

 ブルグ公園の東隣にはオペラ座(ウィーン国立歌劇場)。

 (オペラ座)

 音楽の都ウィーンを象徴するオペラ座の石造りの建物も、この前までわが小澤征爾氏が活躍していたと思うと、ちょっと親しみがわく。

 オペラ座の北側には、映画『第三の男』の舞台になった「カフェ・モーツアルト」がある。そのテラス席で軽い昼食をとった。

 (「カフェ・モーツアルト」)

 連合国軍に占領された敗戦国の首都ウィーンは瓦礫が残り、夜は街灯もない。「カフェ・モーツアルト」の暗く狭い店内に主人公のアメリカ人(ジョセフ・コットン)が座っている。占領下のウィーンで警察権を持つ英軍将校(トレヴァー・ハワード)に協力し、かつての友人、今は凶悪犯の男(オーソン・ウェルズ)をおびき出そうとしているのだ。多くの子どもの命を救うためと説得されたが、一方で友を売る行為でもある。

 今はオペラ座や王宮が目と鼻の先の一等地のカフェ。

 だが、ウィーンは瓦礫の残る光と陰のウィーン、そして軽やかなツィターの音色の似合う街だと思う。

      ★

 オペラ座の角を北へ向かう道はケルントナー通り。ウィーンを代表する高級ショップ街だ。

 (高級ショップ街を歩く)

 ケルントナー通りを行くと、グラーベン通りと交差する。その角に、司教座聖堂のシュテファン大聖堂が聳えている。

 グラーベン通りのグラーベンは堀のこと。ローマ軍の軍団基地は四囲を石壁と堀で囲っていた。その南側の堀の跡が今は高級ショップ街のグラーベン通り。

 軍団基地の東側はケルントナー通りの延長線上のショップ街。西の端はTiefer Grabenという名のショップ街で、北側はドナウ川(今は「ドナウ運河」)が堀の代わりをしていた。ドナウ運河の手前には石壁の一部が今も残っている。

 ウィーンの起源は、レーゲンスブルグなどと同じく、ローマ軍団の基地だった。1軍団6千人。軍隊は食料、衣類その他いろんな物を消費する。だから、商人たちも住み着く。辺境の地ドナウ川の沿岸地域にあって、これはもう立派な町である。

 5賢帝の最後の皇帝マルクス・アウレリウスは、寒い冬をこの地で越し、もうすぐ春を迎えようとする時季に、59年の生涯を終えた。在位中は、資質から言って得意とは言えない戦争に明け暮れた日々だった。

      ★

 (シュテファン広場)

 大聖堂前の広場には地下鉄の駅やタクシー乗り場があり、客待ちする観光用の馬車もいて、観光客でいっぱいだった。

 大聖堂は12世紀に建設されたが焼失し、現在の聖堂建築はハプスブルグ時代に入った1304年に着工され1523年に完成した。外観はゴシック様式だが、中の祭壇はバロック様式。南塔は世界で3番目に高いとか。ハプスブルグ家の歴代の君主の墓所であり、モーツアルトの結婚式も葬儀もここで行われた。

 北塔にはエレベータで上がれるというので、ウィーンの街並みを上空から眺めてみようと、聖堂の中へ入った。ところが、折しも雨が激しくなり、雨宿りを兼ねた観光客で聖堂の中はあふれ返って、人いきれと湿度で息苦しくなる。早々に退散した。

 付近の個性的なアクセサリー店やインテリア雑貨のオシャレな店をのぞいて、雨宿りをした。

 グラーベン通りから南へ曲がるとコールマルクト通り。このショップ街を南へ抜ければ、また王宮前のミヒャエル広場に出る。オシャレなコールマルクト通りの向こうに、クラッシックな王宮が少し覗いて、いい感じだと思ったが、人が多く写真は撮れなかった。

 ホテルに戻って、服を着替えた。

      ★

<オペレッタを見に行く>

 今夜は遅くなる。オペレッタに出発する前に夕食。

 「天満屋」で久しぶりに和食を食べた。天満屋は私が生まれ育った岡山市の一番の目抜き通りにある百貨店。その系列のウィーンの和食店だ。前回のツアーのとき、添乗員に教えてもらった。

 ヨーロッパは和食ブームで、たいていの町に和食店はある。だが、そのほとんどは中国人の店で、日本の寿司の味ではない。

 天満屋は正統な寿司の味。店員の中にウィーンの音楽学校で勉強中という日本人のアルバイト学生もいた。

 (ウィーンの「天満屋」は2014年に営業を終了したようです)。

  オペラ座の前からタクシーに乗ってフォルクスオーパーへ。

 席は一番前の端の席だった。

 (開幕前)

 (開幕を待つ楽団)

 フォルクスオーパーは、音楽の都ウィーンでオペラ座に次ぐ大きさと格式をもっている。

 今日の演目は「こうもり」。シュトラウスが「美しく青きドナウ」で成功を収めたあと作曲したオペレッタ。

 ウィーンでは、大晦日はオペラ座で「こうもり」を上演し、新年には楽友協会のホールでウィン・フィルの「ニューイヤーコンサート」というのが恒例行事になっている。「こうもり」は喜劇だから、大晦日に観賞するのに良いのだろう。

 7時開演。途中、一度休憩が入り、10時15分に終わった。

 言葉はわからないが、おおよそのストーリーは分かり、面白かった。主人公は二枚目でも英雄でもない。真面目そうな銀行家の中年のおじさん。そのおじさんの欲望、嘘と誤魔化し、その発覚が面白く描かれる。主役の男優は、風貌も演技も山崎努にとても似ていると思った。

    (フィナーレ)

 (フォルクスオーパー)

 帰りはタクシーを拾えないから、トラムを乗り継いで帰った。

 トラムの車窓から見るリンク(環状道路)の建物のライトアップが美しかった。

 

 

 

 

 

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ホーエンザルツブルグ城のコンサート … ドナウ川の旅6

2022年12月11日 | 西欧紀行…ドナウ川の旅

   (夕暮れのザルツブルグ)

      ★

<メンヒスベルクの展望台から>

 ホテルに荷物を置いて、今日の見学は旧市街の北端のメンヒスベルグ展望台から。

 旧市街を眺望できる展望台は3か所ある。

 旧市街を前方から見下ろすカプツィーナーベルクの丘。旧市街を後ろから眺望するのはホーエンザルツブルグ城。どちらも前回のツアーの折、自由時間を利用して上がった。

 今回は横からザルツブルグの街並みを眺望する。

 レジデンツ広場から、モーツアルトの生家のある賑やかなゲトライデガッセを通り抜ける。中国人観光客の多さに驚く。ここ数年、リッチになった中国人観光客の巨大なうねりがヨーロッパに押し寄せてきている。世界が変わってきつつあると感じる。(この旅の当時のことで、その後、日本にもインバウンドの波が押し寄せるようになった)。

 メンヒスベルグの北端の岩山をくり抜いたエレベータに乗って、展望台へ上がった。一般の観光客はほとんどやってこない知る人ぞ知る展望台だ。映画『サウンド・オブ・ミュージック』の中で、マリアと子どもたちが「ドレミの歌」を練習した丘。 

 (メンヒスベルクの丘から)

 この旅で見学したレーゲンスブルグやパッサウは、パステルカラーの色どりが美しい街だった。ザルツブルグは白が目立って清楚な感じだ。

 こうして横から眺めると、尖塔やドームが林立しているのがよくわかる。

 「ロマンチック街道の旅」で訪ねたローテンブルグやニュールンベルグは商工業者(市民)の町。ここは、大司教が君臨し統治してきた一種の宗教都市、「カソリックの町」なのだと、目の前の街並みを眺めながら考えた。

 文化は街並みだと思う。都市の外へ出れば、田園や森や山のたたずまいに文化は表現される。ヨーロッパと日本の違いも、まず、町並みや農村のたたずまいに表れる。

     ★

<オシャレなミラベル庭園>

 次はミラベル庭園へ。

 ザルツァッハ川に架かるマカルト橋を渡れば新市街。その新市街の川沿いにミラベル庭園はある。

 ミラベルとは美しい眺めの意。『サウンド・オブ・ミュージック』の子どもたちの歌声が聞こえてくるようなオシャレな庭園だ。バラが美しい。

(ミラベル庭園から望むホーエンザルツブルグ城)

 ここにはミラベル宮殿もあるが、前回、見学しているので、今回はパス。

 1587年に就任した大司教ディートリヒは、美しい町娘を見初め、聖職者でありながら15人の子をもうけて、愛人のための邸宅を建てた。のちにミラベル宮殿と呼ばれる。市民や信徒の呆れ顔など全く意に介さない大司教様だったが、その後、塩の利権をめぐってバイエルン大公と争い、解任、幽閉されたそうだ。

      ★

<大聖堂はバロック様式>

 大聖堂へ向かう。

 (大聖堂広場へ)

 美しい大聖堂広場には、気品のあるマリア像が立っている。

 (ザルツブルグ大聖堂)

  愛人のためにミラベル宮殿を造った大司教ディートリヒは、イタリアルネッサンスへの憧憬が深く、この町を「北のローマ」にしたいと考えた。ローマは、16世紀にバチカンも、サン・ピエトロ大聖堂も、ローマ市街地も、ミケランジェロやベルニーニの手によってルネッサンス・バロック風に一新されていた。

 ディートリヒ大司教が就任したとき、ザルツブルグ大聖堂は火災で焼失していたから、早速、イタリアから優れた建築家を招いて再建に当たらせた。

 大聖堂が完成し、今、見るような姿になったのは1628年。2代あとの大司教の時である。

 大司教ディートリヒは、大聖堂に隣接して大司教宮殿(レジデンツ)の建設にも取りかかった。完成したのは、やはり2代のちの大司教の時である。

 破天荒な大司教様だったが、こういう人がいなければ、ザルツブルグは世界から観光客が押し寄せる世界遺産の町にはならなかったのかもしれない。

 レジデンツが完成して1世紀以上も後、この町にモーツアルトが生まれた。父は大司教の宮廷楽団の一員だった。周囲を驚嘆させる神童で、少年の頃にレジデンツの広間で、大司教をはじめ並みいる殿方、貴婦人を前にして演奏し、拍手喝采を浴びた。長じてウィーンに出る。

 (大聖堂の身廊)

 大聖堂内は白い大理石がふんだんに使われ、晴朗の感がある。ローマのサン・ピエトロ大聖堂に似ていると感じた。

 円蓋までの高さ71m、身廊の長さ99m。柱や天井はフレスコ画や化粧漆喰で飾られていて、細部は装飾過多のバロック様式。

 晴朗とは明るい空気感。

 「神は光である」という。この晴朗な聖堂にいて、「光」は意識されない。

 分厚い石壁の中、高い窓から差し込む光しかない12世紀のフランスロマネスク大聖堂や、少し遅れて登場した、天を衝く森の暗闇にステンドグラスの輝きしかないフランスゴシック大聖堂の中に入ると、異教徒である私たちでさえ敬虔な思いにさせられる。

 だが、このバロックの晴朗な聖堂からは、名もなき人々の悲しみも喜びも祈りも感じられない。晴朗な美があるのみ。

      ★

<遠い昔の修道院の名残りのサンクト・ペーター教会>

 大聖堂から山(メンヒスベルク)側へ少し歩くと静かな一郭になり、サンクト・ペーター教会がある。

 7世紀、ザルツブルグ地方にキリスト教を布教した司教ルーベルトは、ここにベネディクト会の修道院を創設した。その修道院に付属する礼拝堂がサンクト・ペーター教会。

 中は金箔の装飾で飾られていて、今はすっかりバロックの教会だった。

(サンクト・ペーター教会の墓地)

 教会の庭に墓地がある。映画『サウンド・オブ・ミュージック』で、ナチスの官憲の手から逃れようとするトラップ一家が、この墓地に隠れた。

 線香の煙が漂うお寺の墓地に慣れた目には、いかにもエキゾチックである。

     ★

<ホーエンザルツブルグ城と室内楽コンサート>

 1077年、西洋史の1頁を飾る事件があった。

 神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ4世が、教皇グレゴリウス7世によって、キリスト教から破門されたのだ。(お前は地獄行きだ!!)。 ドイツ諸侯は日頃から皇帝権が強大化するのをおそれていたから、これ幸いとハインリヒ4世から離反した。(キリスト教徒でない皇帝に従う気はない!!)。ハインリヒ4世はやむなく教皇の宿泊するカノッサ城の門の前で、雪の降る中、裸足で、断食して、3日3晩立ち続けて許しを乞うた。「カノッサの屈辱」と呼ばれる。

 もちろん、このあと、ハインリヒ4世の反撃が始まる。聖職者の叙任権はローマ教皇にあるのか、皇帝にあるのか?? この世で一番偉いのは教皇か、皇帝か?? いわゆる叙任権闘争である。

 このとき、ザルツブルグ大司教は教皇を支持し、皇帝支持派の諸侯との戦いに備えてメンヒスベルグの丘の上に城塞を築いた。これがホーエンザルツブルグ城の起源である。

 それから15世紀末まで、歴代の大司教は堡塁、塔、武器庫などを増築し、強固な城塞を造っていった。15世紀末には、城内の大司教用の各部屋も豪華に改装される。

 ホテルに帰って一休みし、日沈みてなお明るい時刻、ホーエンザルツブルグ城へ向かった。

 ケーブルカーで、丘の上の城に上がる。

 城塞の中の部屋は、前回、見学していたから、カット。

 ザルツブルグで私の一押しは、この城塞からの眺望。それも、ザルツブルグの街とは反対方向(ドイツアルプスの方向)の景色。

 小雨が降り出した。ウンタースベルク山はドイツとの国境の山だ。

  (ウンタースベルク山)

 近くを見下ろせば、レオポルツクロン城が見える。

(望遠レンズでレオポルツクロン城)

 これは『サウンド・オブ・ミュージック』の世界。こういう景観を目にすると、ヨーロッパの豊かさに圧倒される。

 「ディナー付コンサート」の「ディナー」はごく庶民的で、美味しかった。

 ディナー会場からコンサート会場へ移動するとき、ザルツブルグの街を見下ろす場所を通った。

 灯(ヒ)点(トモ)し頃の小雨降る旧市街は、昼間の見学のときとは一味違う情趣があった。

 (黄昏のザルツブルグ旧市街)

 コンサート会場は、ホーエンザルツブルグ城の中でも最も立派とされる「領主の間」で。豪勢なねじり柱があった。これもバロック。

 (「領主の間」)

  コンサートは、第一バイオリンとチェロが印象的だった。

  (コンサート) 

 終了したのは午後10時。

 小雨降る中をホテルへ帰った。

 遅くなった。明日は9時1分発の特急列車でウィーンへ。乗車券はネットで既に購入済みだから、遅れるわけにはいかない。

 

 

 

 

 

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ザルツブルグは塩の城 … ドナウ川の旅5

2022年12月05日 | 西欧紀行…ドナウ川の旅

 (メンヒスベルクの展望台から)

<旅の計画のこと ─ どの町を訪ねるか>

 パッサウを出ると、列車で国境を越えてオーストリアに入る。

 この旅を計画したとき、パッサウの後、ウィーンへ行く前、どこの町を見学し1泊しようかと迷った

 オーストリアについては、この旅より10年近く前、旅行社のツアー「晩秋のオーストリア紀行」に参加して、ウィーンをはじめ各地を見て回っていた。

 ドナウ川沿いの町では、リンツ、メルク、デュルンシュタインなど。ドナウ川はこれらの小さな町を滔々と流れ、湾曲して山影に消えていった。

 ドナウ川を離れてオーストリアアルプスの北麓の町や高原 ─ ザルツブルグ、ザルツカンマーグート、ハルシュタットなども訪ねた。

 今回は観光バスではないから、こんな風にあちこちつまみ食い的に見て回るわけにはいかない。鉄道駅から近く、しかも、1泊するだけの見どころがある町でなければいけない。

 あれこれ迷って、結局、ザルツブルグにした。

 映画ファンというほどではないが、過去に感動し心に残った映画はいくつかある。ザルツブルグとその近郊を舞台にした『サウンド・オブ・ミュージック』もその一つ。それに歴史と文化遺産がある。もう一度、あの町を訪ねてみたい。

 パッサウからなら、途中、ヴェルスで乗り換えて、2時間弱で行ける。

      ★ 

<ホテルの予約> 

 前回のオーストリア・ツアーのとき、ザルツブルグでは新市街の大型ホテルに宿泊した。今回は旧市街の中のホテルを予約する。

 ヨーロッパのどこの町でも、旧市街のホテルは古くて、廊下は暗く、部屋は狭く、中にはエレベータが付いていないホテルもある。それでも、ザルツブルグは夏の音楽祭シーズンだけでなく、世界から年中観光客がやってくる。ホテルの料金は安くはない。

 ヨーロッパでは、航空券でも、列車のチケットでも、ホテル代でも、その値段はその時々の需要と供給の関係で決まる。そういう点、日本よりもさらにオープンで、ドライだ。

                      ★

<見学先をしぼる>

 ザルツブルグは前回のツアーの折、自由時間を使ってかなり丁寧に見て回った。それで、今回は思い切って対象をしぼった。

 前回のザルツブルグで一番印象に残り、もう一度訪ねたいと思うのはホーエンザルツブルグ城。それも城塞としてではなく、そこからの眺望。あのパノラマをもう一度眺めたい。

 あと一つ付け加えるなら、ザルツブルグ大聖堂。この町はザルツブルグ大司教が領主として統治し、創り上げた街だから、その中心はやはり大聖堂。

 あとは付録。時間があれば見て回ることにする。

      ★

<ホーエンザルツブルグ城の室内楽コンサート> 

 ヨーロッパ旅行をする個人旅行者にとって、この旅行の頃(2010年頃)のインターネットの普及は目覚ましかった。航空券もホテルも、旅行業者を通さず、ネットの中で自分の予算と旅の目的とスタイルに合わせて、自由に選んで購入できるようになった。

 昔は、パリとかウィーンの伝統的な会場で催されるオペラやコンサートのチケットを、旅行社に依頼し高い手数料を払って入手していた。もちろん、私はそういう贅沢、オシャレな旅行をしたことはない。しかし、今では、ヨーロッパのどこかの都市のどこかの教会で催されるちょっとした弦楽四重奏などのコンサートも、主催者はネットでPRし、日本のどこからでもネットの中で事前にチケットを入手できる。

 ということで、今回は、ホーエンザルツブルグ城の元大司教の居室で催される室内楽コンサートのチケットをゲットした。ディナー付のコンサートだ。小さなことだが、旅先での新しい挑戦。旅は自分への挑戦である。

      ★ 

<ザルツブルグは塩の城>

[お断り] コロナのお陰でオンライン化が一挙に進み、カルチャーセンターのプログラムをどこでも …… 東京の大学の若い先生のヨーロッパ中世史の講座も、受講できるようになりました。今まで、本を読んでも、ウィキペディアで調べても、隔靴掻痒の感があったヨーロッパ中世史ですが、月1回、順を追った丁寧な講義をお聴きしていると、今まで腑に落ちなかったことが、あっ、そういうことか、と胸の奥にストンと落ちてくるのです。

 で、以下、また、歴史について書きます。素人の歴史講義ですから、信用しないでください。また、興味のない方はカットして、先の項へお進みください。

      ★

 ザルツブルグは東へ流れていくドナウ川からは離れ、パッサウから直線距離にして南へ100キロほど下がった位置にある。アルプスの麓に近いドイツとの国境の町で、人口は約15万人。世界遺産の街。

 地図を眺めていてふと気づいた。一昨年参加した旅行社のツアー「ドイツ・ロマンチック街道の旅」 の、旅の終わりに訪れたケーニヒ湖に近い。ケーニヒ湖のそばのベルヒテスガーデンの町で土産物として岩塩を売っていた。

 岩塩はベルヒテスガーデンから15キロほど北上したバート・デュルンベルクの岩塩坑で採掘される。その岩塩坑からさらに15キロほど北上すれば、ザルツブルグに到るのだ。国が違い、参加したツアーが違うから、二つを関連付けることができなかった。

 「ザルツ」は塩。ザルツブルグは「塩の城」の意。

 岩塩は紀元前のケルト人の時代から採掘されていた。

 BC1世紀には、ローマが、文明とともにやってくる。アルプスより北、ドナウ川より南のこのあたり(今のオーストリア)は、ローマ時代、「属州ノリクム」と呼ばれていた。

 5世紀、ゲルマン諸族が次々に侵攻し、西ローマ帝国は滅亡して、混沌の時代に入る。

 このあたりには、ゲルマンの一族バイエルン人が侵攻・定着し、バイエルン公国をつくった。首都はレーゲンスブルグ。そこへさらにフランク族がフランク王国の版図を広げてくる。

 今のイタリア、スペイン、フランスなどは、ローマ時代にローマ化され、ローマ帝国の終わり頃にはキリスト教が国教化されていた。

 そこへ侵入してきたフランク族の王クローヴィスは、賢明にもいち早くカソリックに改宗し(497年)、既にローマ化、キリスト教化していた人々を安心させた。 

 一方、ライン川より東、ドナウ川より北の地域(ドイツ、オーストリア、チェコなど)は、もともとローマの防衛線の外にあり、ローマ化もキリスト教(カソリック)化もされていなかった。

 この混沌としたゲルマニアの地域を支配下におさめるため、フランク王国の宮宰であったカロリング家のカール・マルテル(688頃~741)は、片や軍事力の行使、片やキリスト教(カソリック)の布教という2つの政策を車の両輪にして版図を広げていった。

 のちに「ドイツの守護聖人」とされる聖ボニファティウスは、719年にローマ教皇からゲルマニアへの伝道と教会整備の任を与えられた。カール・マルテルは彼を保護し援助して、ゲルマニアのキリスト教化を押し進めさせた。

 740年には、フライジング、レーゲンスブルグパッサウザルツブルグに4つの司教座を建ててボニファティウスに寄進し、彼を全ゲルマニアの大司教とした。

 フランク王国は直属の部下を「伯」として各地に派遣し、版図を統治しようとした。だが、それだけでは広大なフランク王国を統治するに不十分。そこで、司教に領地を寄進し、司教を領主として、布教した地域を統治させていったのである。

 (文書能力があり、その下に司祭や助祭や信徒たちを組織し、いざとなれば外敵 ─ このあたりではマジャール人 ─ の襲撃に対して、人々を組織して戦うこともできるのは、キリスト教の司教だった。フランク王国の時代、近代国家のような常備軍、警察組織、官僚組織などはなかったのだから)。

 ドイツ中近世史に、諸侯と並んでしばしば司教領主が登場するのは、以上のような事情があった。

 しかし、世の中が安定してくると問題が起こる。司教の任命権はローマ教皇にあるのか、ドイツ王(神聖ローマ帝国皇帝)にあるのか。いわゆる叙任権闘争が勃発する。

 それは後のこととし、7世紀のザルツブルグについて少し付け加える。

 ザルツブルグでは、聖ボニファティウスより少し前に、バイエルン公がルーベルトという司教にザルツブルグ周辺の領地を寄進し、ドナウ川中流域への布教を促進させていた。司教ルーベルトは布教の成果として、ザルツブルグにサンクト・ペーター修道院を創設している。

 それから時代が下って、10世紀以降になると、大司教が領主であったザルツブルグは、広大な土地から上がる税収のほかに、ザルツブルグの奥地で採掘される岩塩がヨーロッパ各地に輸送され、莫大な富を蓄積していった。

 この豊富な財力によって、歴代の大司教たちは大聖堂やレジデンツ(大司教宮殿)を建設し、背後の丘の上にはホーエンザルツブルグ城を建て、ザルツブルグをバロック様式の街につくり上げていった。

 塩の財によって繁栄した町。ザルツブルグは「塩の城」であった。

      ★

<ザルツブルグへの移動>

5月26日 快晴。夏の暑さ。夜は小雨降り、気温が下がる。

 普通列車(鈍行)に乗ってパッサウを出発し、2駅目で、また、列車から降ろされた

 事情はよく分からない。言葉の通じぬ旅行者は、降りろと言われれば素直に降りるだけ。ここは先進国のドイツ、そしてオーストリア。ジタバタせず成り行きに任せる。

 昨日と違って、降りた駅には既にバスが待機していた。さすが

 乗客全員を乗せるとフルスピードで次の駅へ。速いちょっと速すぎる

 また列車に乗り、結局、8分遅れただけで乗継駅のヴェルスへ着いた。

 ヴェルスはドナウ川から30キロほど南に下がった位置にあり、ローマ帝国時代には州都だった町だ。

 ヴェルスから特急に乗り換えてザルツブルグへ。

      ★

<清流と、丘の上の城塞>

 ザルツブルグ駅からタクシーに乗り、旧市街の中心部のレジデンツ(大司教宮殿)広場まで行く。広場からは車の入れない路地を少し歩いてホテルへ。

 ザルツブルグの町は、ザルツァッハ川によって2つに分けられる。ザルツァッハ川より北東部は新市街。南西部が旧市街だ。

     (ザルツァッハ川と旧市街)

 ザルツァッハ川の清流はアルプスに源を発し、ザルツブルグを経て、ドイツとオーストリアの国境を成しながら北上。やがてイン川に流れ込む。イン川はパッサウでドナウ川に合流する。古来、ザルツブルグの奥地で採掘された岩塩は、この川を使ってヨーロッパ各地に送られて、ザルツブルグ大司教(領主)に大きな富をもたらした。

 旧市街の背後にはメンヒスベルグという丘が1.3キロに渡って続く。その丘に、この町の領主である大司教の築いたホーエンザルツブルグ城があり、町のどこからでも望むことができた。

 

 

 

 

 

 

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中の島のような地形の町パッサウ … ドナウ川の旅4

2022年11月20日 | 西欧紀行…ドナウ川の旅

(市庁舎前のドナウ川遊覧船発着場)

<中の島にいるような錯覚を覚える町>

5月25日 今日も快晴

 ドナウ川はドイツ南西部の黒い森に源を発し、レーゲンスブルグ、パッサウ、オーストリアに入ってリンツ、ウィーン、そしてハンガリーのブダペストまで、諸流を集め少しずつ川幅を広げながら、東へ東へと流れていく。

 ブダペストに到って、大きく湾曲し、南へと流れを変えて、遠く黒海を目指す。

 この旅の最終目的地はブダペスト。そこでドナウ川を見送る。

 今日の目的地は人口5万人の小さな町パッサウ。レーゲンスブルグから直線距離にして100キロ少々。ドナウ川と並行して走るDB(ドイツ鉄道)のICE(特急)に乗れば、1時間少々で行ける。オーストリアとの国境の町だ。東へ流れるドナウ川に、南から北上してきたイン川がぶつかった所にできた町である。 

 イン川はアルプス山脈に端を発し、スイス、オーストリアを経て、ドイツとオーストリアの国境をつくりながら北上。ドナウ川と合流する直前に角度を湾曲させて、ほんのしばらくドナウ川に添うように流れて合流する。

 パッサウは、イン川がドナウ川に添いながら流れて合流する所、2つの川に挟まれた細長い三角形の町である。外敵に対しては守りやすく、河川交易には恵まれている。

 合流点には、イン川と反対方向の北からイルツ川という小さな流れも流入していて、正確には3つの川の合流点ということになる。

 

 (遊覧船から眺める合流点)

 上は遊覧船から写した写真。遊覧船は今、ドナウ川の上にいる。

 地図とは逆に、右が西、左が東。川は、右から左へ(西から東へ)流れている。

 手前の流れがドナウ川(北)。小島のトン先のように見える合流点の向こう側(南)がイン川。2つの川の川幅はほぼ同じか、見た感じではイン川の方が広いくらいだ。イルツ川という小さな流れは、写真(私のいる位置)の後方でドナウ川に注いでいる。

 パッサウの街を歩いていると、2つの流れに挟まれたパッサウは、まるでセーヌ川に浮かぶシテ島のようで、しばしば「中の島」にいるような錯覚を覚えた。

 だが、ここは本土である。

 レーゲンスブルグより規模は小さいが、AD1世紀にローマ軍の基地が、北に備えてイン川の南岸に建設された。

 2世紀後半、ゲルマン諸族のドナウ川を越えようとする動きが頻発し、皇帝マルクス・アウレリウスはイン川とドナウ川の間にもう1つ前線基地を築かせ、防衛線を補強した。

 ローマ軍が駐留すればとりあえず安全が保障され、兵士たちに必要な物品を売ることもできる。当時から商工業者たちが住み着き、パッサウの村ができていった。

      ★

<トラブルも旅の面白さ>

 朝、レーゲンスブルグのホテルをチェックアウトし、呼んでもらったタクシーで駅へ。駅で、ホテルの部屋のコンセントにバッテリーチャージを差し忘れたまま来たことに気づき、タクシーで取りに戻った。

 忘れ物はすぐ見つかって同じタクシーで引き返したが、特急に乗り遅れた。

 普通列車(鈍行)で行くことにする。最初からそうしても良かった。普通列車でも1時間半少々。南ドイツの車窓風景を眺めながら、のんびり行くのは楽しい。

 レーゲンスブルグが10時01分発。40分ほど行ったPlattlingという駅で乗り換える。パッサウには11時37分に到着予定。

 パッサウの見学は、小さな町だから午後の半日で十分だろう。

 列車は予定より少し遅れて到着した。車内に乗客はまばらで、まことにローカルな気分。大きなキャリーバッグも気兼ねなく置ける。

 朝、ホテルをチェックアウトしてから、タクシーに乗ったり、忘れ物を取りに返ったり、時刻表を調べたり、切符を買ったりとあわただしかった。やっと気分が落ち着く。

 春の日差しの中、鈍行列車がとことこと走って、すぐに1駅目に着き、またのどかに走って2駅目に着いたとき、ドイツ語で車内アナウンスがあった。ヨーロッパで車内アナウンスは珍しいと思っていたら、乗客たちが連れの人と口々に話しながら、驚いたように荷物を持って降り出した。えっ?? 何!! と思っているうちに、車両に人はいなくなり、あわてて最後尾の人を追いかけて降りた。

  (プラットホーム)

※ ヨーロッパの駅のホームは低い。線路に財布を落としても、手を伸ばせば簡単に拾える。しかし、列車が入ってくると、列車の狭い乗り口に取り付けられている急な階段を3、4段上がらねばならない。大きなスーツケースを持って狭く急なステップを上がるのは、力を要する。

 名も知らぬローカルな駅のホームや駅の外の空き地に、列車から降りた30人ほどの旅行者がたむろし、連れの人と語らい、或いは孤独に立っている。見たところ、皆な旅行者で、通勤とか、所用で乗車したという人はいない。そういう人は車で移動するだろう。ヨーロッパ系の人ばかりだ。わざわざヨーロッパの外から遥々とやって来て、こんなローカル列車でローカルな旅をする人はあまりいないだろう。

 サイクリング車を脇に持ったムッシュが話しかけてきた。年の頃は60歳くらいか。定年退職して、一人で自転車の旅をしているという感じ。背丈はあまりないが、胸板は厚く、腕は太い。長旅で真っ黒に日焼けしていて、風貌はローマ時代の剣闘士みたいに怖い。

 ヨーロッパの鉄道は、自転車と共に乗車できる車両を接続している。そういう車両には自転車用のスペースも確保されている。だから、一人で、或いはグループで、自転車を携行して旅をする人も結構いる。国も、人々も、健康志向で、病院のお世話にならぬよう、まず日々、健康に生きてもらおうというのが、西欧の福祉の考え方だ。

 「ドイツ語を話せる??」「ノー」「 英語は??」「ほんの少し」。英語で、「よくわからないが、先の駅の構内で爆発事故があったらしい。ここへ迎えの車両が来るようだから待っていよう(というような内容らしい)」。「今日はどこまで行くの??」「パッサウ」「俺も同じ」。

 この人はドイツ語の分からぬ異国の旅人を気遣って、さりげなくパッサウまで行動してくれた。個人を尊重するが、困っていそうな人を見たらさっと手を差し伸べる。それが西欧流だ。

 駅で40分ほども待たされ、駅の拡声器から放送があり、皆なが歩き出した。自転車のムッシュに促され、歩いて自動車道路へ出る。そこへバスがやってきて、全員、乗車した。自転車や大きなキャリーバッグなどは床の下のスペースに入れられた。

 パッサウの見学はできないかもしれないが、宿は予約してあるから安心だ。いくら遅れても(最悪を想定しても)、夕方までにはパッサウに着くだろう  ……。

 バスの車窓風景を眺めていると、横に座っていた自転車のムッシュが「ローマ時代、あの山の向こうはバーバリアンの地だ」と笑いながら言った。

 私と同じように遥かにローマ帝国の時代を想像して、旅人として冗談を言ったのだろう。

 頭の中に地図を描いた。ドナウ川は車窓から見えないが、バスはローマ帝国の防衛線であったドナウ川沿いを東へと移動しているはずた。パッサウはオーストリアとの国境の町である。そして、左(北)の車窓から見る方向はチェコ。チェコとの国境も近いはず。あの山の向こうはチェコ。

 あなたの風貌こそ、バーバリアンのようにたくましい。

 1駅か2駅先の鉄道駅で降ろされた。

 バスを降りて、しばらく待って、迎えに来た1両だけの列車に乗り、1駅か2駅進んで、また降ろされた。ホームで待ち、また迎えに来た臨時列車に乗せられる。やっと本来の乗継駅のPlattlingに着いたのは、すでに午後1時。疲れて、腹も減った。駅の売店にサンドイッチを見つけたので買い、1箱を自転車のムッシュに上げたら感謝された。

 Plattling以後は順調で、1時40分にパッサウに到着。2時間の遅れだった。

 レーゲンスブルグから一緒に行動したほとんどの人はパッサウを目的地にしていたらしい。皆さん、文句も言わず、さすがでした。

 駅で、自転車のムッシュと笑顔で別れの挨拶した。パッサウの後、どこまで行くのだろう?? 或いは家路にあるのだろうか?? いつか孫たちに、レーゲンスブルグからパッサウへ行く道中で出会った東洋人のことを話すかもしれない。 

 「ただ目的地に着くことをのみ問題にして、途中を味わうことができない者は、旅の真の面白さを知らぬものといわれるのである」(三木清「旅について」)。

 駅から新市街のバーンホフ通り、ルートヴィヒ通りの賑わいを歩いて、ドナウ川にぶつかった所からが旧市街。『地球の歩き方』のマップを見て近いと思ったが、石畳の大通りをキャリーバッグを引きながら歩くとなかなか遠かった。明朝はタクシーにしよう。

 今夜の宿は、「ホテル・ケーニヒ」。すぐ裏手がドナウ川だ。小さな、感じの良い宿で、女将さんも気さくな人だった。

 宿に荷物を置き、残りの時間でドナウ川とパッサウの街を見学した。

      ★

<ドナウ川遊覧船に乗る>

(左に遊覧船、右端に大聖堂の青い塔)

 ホテルから街歩きに出た。

 市庁舎広場の先に「ドナウ川クルーズ」の桟橋があった。乗船場前に大きな説明の看板がある。読めないがマップもあり、どうやらドナウ川とイン川を巡って2つの川の合流点や街の名所を船から眺めることができるようだ。時間は45分。ラッキー

 15時発があるので、切符を買って乗り込んだ。

 

 (旧市庁舎広場前の遊覧船)

 眺望の良い2階のテラス席に座った。

 船内のカフェのウエイターが注文があるかと聞きに来たので、ワインを注文する。待つほどもなく、なみなみと注がれた地元産白ワインを持ってきてくれた

 船がゆっくりとドナウ川を下り始める。市庁舎の赤い尖がり屋根の塔が印象的だ。

 ものの本によると、パッサウの町は17世紀に2度も大火災があり、街は灰燼に帰した。街の再建に当たって、当時の司教領主がバロック様式で街並みを再建しようと呼びかけ、現在の街並みが造られたそうだ。

 小さな町だから、しばらく行くと街並みが尽き、2つの川の合流点にさしかかる。

  (合流点)

 セーヌ川のシテ島のトン先に似て、ミニのシテ島だ。

 こちらがドナウ川。向こう側から合流する流れがイン川。

 トン先に観光客が見える。遊覧船から降りたら、歩いてあそこまで行ってみよう。

 合流地点からさらに下った所で遊覧船は方向転換を始めた。

 イン川を合わせたドナウ川は、自然のままの茫々とした川として、さらに東へと流れてゆく。緑の丘の上には童話の世界ような赤い屋根の小さな家が見え、その上に白い雲が浮かんでいた。

  (ドナウ川の白い雲)

      ★

<パッサウを歩く>

 遊覧船から降りたあと、ドナウ川沿いの遊歩道を合流点までウォーキングした。のどかな小公園風になっていて、石碑があるほかは自然のままの景観だった。

 イン川沿いの遊歩道も歩いた。パッサウ大学の学生たちが、散歩したり、ランニングしたり、デートしたりしていた。

 (川沿いの遊歩道)

 旧市街の中に入ると、路地のように狭い道が入り組んでいた。

   (路地から望む聖シュテファン大聖堂)

 聖シュテファン大聖堂は、この町の第一の建築物である。中世のドイツによくあるが、司教がこの地の領主でもあった。

 清楚な白い壁、玉ねぎ型の帽子のような青い屋根をいただく塔が印象的だ。こういう屋根は、カソリックというよりビザンチン風。ここにはビザンチン文化の影響が及んでいる。

(聖シュテファン大聖堂の身廊)

 大聖堂の中は、大理石の白い柱がずらっと並び、清楚で気品があった。ただ全体として絢爛豪華。いかにもバロックだ。

 この大聖堂のパイプオルガンは世界一大きいそうだ。正午に演奏があるので聴いてみたかったが、残念ながら間に合わなかった。

 マップに「Innbrucke」とある橋を渡ってみた。橋の対岸の丘の向こうはオーストリアだ。橋の上から振り返ると、レーゲンスブルグのゴシックの塔とは全く異なるパッサウ大聖堂のビザンチン風の塔が堂々と聳えていた。

 午後3時頃からの街歩きだったが、よく歩いた。

 夕。「ホテル・ケーニヒ」の隣りの、ドナウ川を望む小さなレストランのテラス席で晩飯を食べた。周囲は西洋人の旅行者ばかりで、もしかしたら、パッサウの町のどこにも、今、日本人はいないかも。だが、よそよそしさを感じることはなく、料理は美味しかった。

 

 

 

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ドナウ川越しに眺めるレーゲンスブルグの町 … ドナウ川の旅3

2022年11月10日 | 西欧紀行…ドナウ川の旅

  さぼり癖が付いて、うかうかと日々を過ごしてしまいました。ブログを再開します。しかし、パソコンやスマホに向かい続けるとどうも眼精疲労気味。ぼちぼちと進みますのでよろしく願いします

  ★   ★   ★

 旅行社のツアー参加ではなく、いつか自分の足でドイツを旅してみたい、そう思いつつ拾い読みしていた『地球の歩き方 ドイツ』。その時、写真とともに、この一文を見つけた。

 「ドナウ川をはさんで眺める町の景色は息をのむばかり

 ここへ行ってみたい。

 これが、レーゲンスブルグという町との出会いだった。

  ★   ★   ★

<十字軍も渡った石橋>

   今日は5月24日。お天気は快晴。

 レーゲンスブルグに2泊して、この町で丸一日を過ごした。

 ホテルは代えた。1泊目は旧市街の大聖堂の横の小さなホテル。2泊目は大聖堂の眺めの良いドナウ川の中の島のホテル。どちらにも泊まってみたかった。

 ただし、同じ町でホテルを代えるのは面倒だから、こういうことは普通はしない。

 朝一番にホテルを移動。「ホテル・ミュンヒナー・ホーフ」をチェック・アウトし、キャリーバッグを引いてシュタイネルネ・ブリュッケ(石橋)を渡り、「ゾラート・インゼル・ホテル」へ行く。

 レセプションで、今夜宿泊を予約をしている旨を告げて、荷物を預かってもらった。チェックインはまだできない。

 身軽になって、今日の観光を始める。

 もう一度、シュタイネルネ・ブリュッケ(石橋)を渡る。橋の下の川岸にはランニングする人や自転車の人。欧米人は健康志向だ。

  (石 橋)

 橋脚は堅固で、その上、橋脚を支える土台部分が楕円形で水流を二分している。日本の新幹線のような流線形だ。1135年に工事が始まり46年に完成した。ヨーロッパ中世の橋梁建築として、白眉のものとか。日本で言えば平安時代の終わり頃だから、立派なものだ。

 昨年参加したフランス周遊ツアーの折、ローヌ川のアヴィニョンの橋を見学した。同じ12世紀に架けられたが、16世紀に崩壊し、今は残った部分が観光名所になっていた。

 この石橋を、第3次十字軍も聖地エルサレムに向けて渡ったそうだ。第3次十字軍(1189~92年)は、赤髭バルバロッサ(皇帝フリードリッヒ1世)を総司令官として出発した。だが、彼は旅の途中で事故死。仏王フィリップ2世は初戦の戦いに勝利したあと口実をつくってさっさと帰国してしまい、結局、英王リチャード1世が一人、リーダーとして戦うこととなった。「獅子心王リチャード」の「獅子」は、敵であるイスラムのサラディン軍の将兵が彼のあまりの強さにそう呼んだらしい (塩野七海『十字軍物語』)。

 日本では橋は木の橋だ。同じ12世紀、満月の夜、五条の大橋の上で、女装の牛若丸が舞うように、ひらりひらりと大男の弁慶と渡り合った。これはこれで美しい。

       ★

<遊覧船でドナウ川をゆく>

 この旅の目的の第一はドナウ川を見ること。

 事前の勉強で、レーゲンスブルグにはヴァルハラ神殿まで往復するドナウ川遊覧船があることを知った。ヴァルハラ神殿には興味がないが、船に乗ってドナウ川をゆくのはこの旅の目的に合致する。ローマ兵も船に乗って、文明の果てる地、このドナウ川をパトロールしたのだ。

 ヴァルハラ神殿は、19世紀にバイエルン王国のルートヴィヒ1世がアテネのパルテノン神殿を模して建造した。レーゲンスブルグの街から10キロほど下流の丘の上にある。大理石の巨大な神殿には、古代から近世に到るゲルマン系(ドイツ人)の英雄や著名人を顕彰する像や石板が並べられているそうだ。

 ルートヴィヒ1世の孫は、あのノイシュヴァンシュタイン城を築いたルートヴィヒ2世。ドイツの森の丘にヨーロッパ中世のメルフェンチックなお城を築くのは理解できなくもないが、ドナウ川に古代アテネのパルテノン神殿の大模造品を建造するというのはちょっと趣味が悪い。

 とにかく、そこまでの10キロほどの間、遊覧船からドナウ川を味わいたい。

 石橋を渡り、ドナウの川岸を、遊覧船の発着場を探して少し歩いた。

 (ドナウ川遊覧船に乗る)

 季節は春。快晴。日差しは暖かく、風は春の妖精のよう。遊覧船の展望席で白ワインを注文して飲んだ。

 日本のレストランで出されるような、大きなワイングラスの底にごく少量、もったいぶって注がれた白ワインではない。やや小さめのグラスとは言え、ほぼ9分程度、なみなみと満たされた地元産のワインだ。値段は500円くらい。それならコーヒーよりワインとなる。

 心楽しい。

 (ドナウ川をゆく)

 レーゲンスブルグの街並みを出れば、あとは茫々とした自然の中。何もない。

 ヴァルハラ神殿の船着き場で20人ばかりの観光客らと下船する。欧米系の中・中高年の人ばかりだ。

 河岸からいきなり大理石の大階段を上がる。映画『ベン・ハー』の凱旋式で、主人公が皇帝謁見のために上がったような大階段。1段1段がゲルマン人の歩幅なのか高く、斜度があり、手すりもなく、高くなるにつれて高度恐怖症になった。

 500段の階段を上がった神殿からの眺望は、何もない広がりだった。しばし陶然となる。

 (ヴァルハラ神殿から眺めるドナウ川)

 山ばかりの日本と違って、豊かな広がりのある国なのだ。

 これがドナウ川。オーストリア、ハンガリー、セルビア、ルーマニアなどの国々や国境を流れて、黒海までゆく。ドイツ南西部の黒い森(シュヴァルツヴァルト)に端を発して、ドナウの旅はまだ始まったばかりである。

  司馬遼太郎が言うように、「人間」を探究しようと思えば書斎だけの思索ではどうにもならない。山川草木のなかに分け入り、そこに立ってみる。そこがたとえ廃墟であったり、或いは、一塊の土くれしかなくても、「その場所にしかない天があり、風のにおいがある」。そこに立って初めて、歴史と文明とそこで生きた人間の生を感じることができる。

 下りは大階段を下りず、山の中の小道をたどって船着き場へ向かった。ハイキングしながら船着き場へ下ることができると何かに書いてあった。遊覧船の乗客の中の数人のマダム、ムッシュと道連れになった。人種、民族は異なれど、同じような発想をする人はいるものだ。

 森の中の分かれ道に道標はなく、前後して歩いていた皆も立ち止まって一つになり、互いに顔を見合わせる。一人のマダムが「こっち」と決断し、私もそう思い、皆も付いていった。樹木の蔭をたどる小道は意外に時間がかかり、視界は開けず、こんな異国のハイキングコースに入り込んだことを少し後悔し、船の出発時間に間に合うか心配になった。

 そのうち突然、下り道が平坦になり、樹木の陰にドナウ川と船着き場と停泊する遊覧船が見えた。

 互いに顔を見合わせて笑い合った。

 言葉は通じ合わなくても、互いの不安がわかり、仲間がいるから何とかなると感じ、つまりは、しばらくの間、同志だった。ローマも、ゲルマンも、ユーラシア大陸の果てのジャパニーズもない。

      ★

<ドン・ファンのこと>

 感じのよさそうなレストランに入って、昼食をとった。美味しい。

 (旧市庁舎=帝国議会の通り)

 レストランのある通りの先に旧市庁舎があり、その2階は、かつて神聖ローマ帝国の帝国議会が開催された場所だ。

 見学時間が決められたガイドツアーしかないので、入らなかった。英語とドイツ語で微に入り細を穿つ説明を聞いてもわからないし、写真で大体は想像できた。帝国議会会議場といっても、意外に素朴で、ローカルなものだ。

 帝国議会は8世紀、フランク王国のカール大帝のもとで始まり、その後、レーゲンスブルグはよく会場となった。

 12世紀にはあのフリードリッヒ1世(バルバロッサ)もやってきて議会を運営している。ちなみに、レーゲンスブルグは13世紀に帝国自由都市になった。

 1663年から1806年には、レーゲンスブルグに神聖ローマ帝国議会が常設された。ただし、常設といっても諸侯の出席はなく、代理の外交官による使節会議だった。 

 その1世紀ほど前の16世紀。ハプスブルク家が最も栄えた頃の話。

 皇帝カール5世 (スペインではカルロス1世) が帝国議会に出席した折、このレストランのすぐ近くの「黄金十字の宿」に滞在し、この地の娘との間に男子が生まれた。

 男子は大切に育てられ、後、フェリペ2世の庶弟として、オーストリア公ドン・ファンと呼ばれるようになる。

 ドン・ファンというと、プレイボーイとか女たらしの代名詞のように使われるが、本者はそうではない。

 1571年、ギリシャのレパント沖で大海戦があった。膨張するオスマン帝国の大艦隊とスペイン・ヴェネツィア連合艦隊とが激突し、初めてオスマン帝国が敗北した戦いである。このとき、スペイン・ヴェネツィア連合艦隊の総司令官に祭り上げられていたのが、まだ26歳のドン・ファンだった。

 塩野七海の『レパントの海戦』はヴェネツィア艦隊の副将を主人公にしてヴェネツィア側から描いた作品だが、総司令官ドン・ファンはいよいよ戦いの火ぶたが切られるというとき、小型の帆船に乗り、海から連合艦隊の将兵を激励して回るという、凛々しい貴公子として登場する。

      ★

<レーゲンスブルグ大聖堂に入る>

  レーゲンスブルグの大聖堂の正式の名は、聖ペテロ大聖堂。

 街角のどこからでも高い尖塔が見えるから、手元の『地球の歩き方』の小さなマップと、実際に見える大聖堂の塔の方角で、自分が今いる場所を判断できる。

 (Neupfart広場から見る大聖堂の塔)

 この大聖堂は典型的なゴシック建築。

 着工は1275年だが、尖塔以外が完成したのが1634年で、尖塔の完成は1869年という。その息の長さは、我々日本人の物づくりの「時間」を遥かに超えている。宮殿なら発注した王の「時間」を考慮せずに造ることはできないが、神の「時間」は天国へと続き、人々の創造と労働の過程は祈りであったのだろう。

 (レーゲンスブルグ大聖堂のステンドグラス)

 聖堂の中に入って見学した。

 フランスのロマネスク様式の大聖堂やゴシック様式の大聖堂を見た目には、その精神性や美意識において見劣りがした。この点は、以前にツアー参加した「ロマンチック街道と南ドイツの旅」でも感じたことだ。

 ステンドグラスも、メルヘンチックな趣にドイツらしさを感じるが、フランスの大聖堂のステンドグラスの宝石箱をひっくり返したような瀟洒な美意識にはかなわない。

 レーゲンスブルグ市議会は、16世紀、ルター派の宗教改革を受け入れた。

 一方、この聖ペテロ大聖堂はローマ・カソリックの司教座であり続けた。少数派の信者もいた。

 さらに、この町には3つの修道院があった。修道院は司教座に所属せず、ローマ教皇に直属する。

 それで、レーゲンスブルグには、市議会(市民)と、司教座大聖堂と、3つの修道院という、計5つのStatesが存在していた。そして、それらはそれぞれ帝国議会の議席と投票権を持っていた。ちょっと日本人には、(お隣のフランス人でも)、理解しがたいドイツの政体である。

 今は、それら全てを含めて1つの世界遺産になっている。

      ★

<レーゲンスブルグそぞろ歩き>

 もうこれといって見学したいと思う所はなく、夕方まで街の中をそぞろ歩いた。

 この町には大学があり、海外の留学生も積極的に受け入れているらしい。学生らしい若者をよく見かけた。

 (自転車の若者)

 (中の島で憩う人たち)

 (岸辺で憩う家族)

 川岸を歩いた。水辺に憩う人々がいる。

 ドイツ人は、自然が好きだ。高校生の夏には大きなザックに寝袋を載せてワンダーフォーゲルの旅に出る。親は漂泊の旅に出る子の巣立ちを見送る。泊めてもらう民家がなければ、森の中で野宿する。

 都会のサラリーマンは、土、日曜日、アウトバーンをぶっ飛ばして森へ行き、キノコ狩りをするのが一番の悦びらしい。リタイアしたら、都会を離れ、郊外の森の近くに家をもって、日々、森の中を散策するのが夢なのだそうだ。そういうところも、現代日本人とは少し違う。

 夜。ドナウ川の中の島のホテルの部屋からは、暗いドナウ川の向こうに、旧市街の街並みと、街並みの上に聳えるライトアップされた大聖堂がよく見えた。異国にいる、と感じた。なかなか見飽きることがなかった。

 (ライトアップのレーゲンスブルグ大聖堂)

 

 

 

 

 

 

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暮れなずむドナウの流れ … ドナウ川の旅2

2022年09月04日 | 西欧紀行…ドナウ川の旅

(レーゲンスブルグ大聖堂の白い雲)

   ★   ★   ★

<旅の不安>

 5月23日の朝、ルフトハンザ航空で関空を出発。フランクフルト空港で乗り継ぎ、ニュールンベルグへ。

 ニュールンベルグ空港から、タクシーでDB(ドイツ鉄道)のニュールンベルグ駅へ行く。

   ニュールンベルグは、「ロマンチック街道と南ドイツの旅」(2009年)で少しだけ観光し、ブログにも書いた。

 駅の券売機で切符を買い、RE(日本で言えば鈍行の次の快速)に1時間半ほど揺られて、レーゲンスブルグ駅に到着。タクシーでワンメーターの小さな宿「ミュンヒナー・ホーフ」にチェックインした。

 現地時間で夕方の7時半。日本ではもう深夜の午前2時半だ。家にいたらゆっくり寝ている時間なのになあ、とも思う。

 「旅に出ることは日常の習慣的な、従って安定した関係を脱することであり、そのために生ずる不安から漂泊の感情が湧いてくるのである」(三木清「旅について」から)

 関空で、パスポートを提示してチェックインした時から、ずっとそれなりに緊張が続いている。旅の間、初日ほどではないにしても、この緊張は続く。なにしろ、異国の旅なのだから。

 小さな部屋に荷物を置いて、黄昏の旧市街に出てみた。

      ★

<日落ちて暮るるに未だ遠し>

 今夜のホテルはレーゲンスブルグ大聖堂の傍らにある。大聖堂は旧市街の北部に位置し、街の北端をドナウ川が流れている。 

 5月のドイツの空は、午後8時というのにまだ明るい。太陽は地平に沈んだが、街には残光の明るさが残って、建物の間から見える空は未だ美しい青。

 大聖堂のゴシック様式のファーサイドは周りの建物よりも遥かに高く聳え、ごつごつと装飾された石の壁面が残光によって赤みを帯びていた(冒頭の写真)。

 欧米の観光客は宵っ張りの朝寝坊だ。彼らにとって、この時間帯はまだまだ宵の口。大聖堂前の広場に面するレストランのテラス席は、観光客で賑わっていた。

(大聖堂の前のレストランのテラス席)

 広場越しに大聖堂を見上げる位置の席に座り、簡単な料理を注文して、グラスワインを飲んだ。

 営々と石を積み上げて築かれた2つの塔をもつ古い大聖堂と、暮れなずむ青空と白い雲を眺めながら、ワインを飲む。観光客向けの料理が少々不味かろうと、テーブルが多少ガタガタしようと、この席は一等席だ。

 南ドイツの建物はパステルカラーでカラフル。お隣の国・フランスの街並みがグレーであるのとは対照的だ。どちらが良いかは別の話。

 石畳の広場に、カッコいいスポーツカーが、ブルルン、ビューンという感じて入ってきて、止まった。つるつる頭のいかつそうなおじさんが運転している。もしかしたら、春の宵を楽しむ観光客たちにカッコよさをちょっと見せびらかしたくなったのだろうか。黄昏時は、人恋しくなるものだ。

 ここは制限時速20キロですぞ。

 建物の間に広がる空の美しい青が紺青に変わり、さらに濃紺になった。地上には夕闇が漂い、目には街灯が明るさを増したように見える。

      ★

<皇帝マルクス・アウレリウスの「レーゲン川沿いの要塞」>

 レーゲンスブルグは、ドイツのバイエルン州に属する。人口は約15万人。127万人の州都ミュンヘンや50万人のニュールンベルグと比べると、こじんまりした町だ。

 中世の時代のレーゲンスブルグは、アルプス山麓で採取される貴重な岩塩をはじめとする商品流通の中継地として、ドナウ川の水運で発展した。

 13世紀には帝国自由都市となる。

 商工業都市としてミュンヘンやニュールンベルグに圧倒されるようになった16世紀以降も、帝国議会の開催都市として歴史に名を残した。

 町の起源を遡れば、AD70年頃、ローマ帝国皇帝ヴェスパシアヌスの時代に、この地に160m×140mのローマ軍の宿営地が建設された。

 それから100年ほどの後、ドナウ川を越えて侵攻してきたゲルマンの一族マルコマンニ族に襲撃され、宿営地は壊滅する。この頃、ゲルマンの諸族が頻々とドナウ川を越えて襲ってくるようになった。

 時の皇帝は、マルクス・アウレリウス (在位161~180)。ローマ史上では、「5賢帝の時代」と言われる皇帝の最後の皇帝。陣中でも、夜、灯の下で書き続けたと言われる「自省録」の著者として知られ、「哲人皇帝」と呼ばれた。

 マルコマンニ族の襲来に対して、持病をおし、皇帝の責務として自ら出陣。ドナウ川沿いに配置されていたローマの各軍団の守備と連携を強化し、南下するゲルマン諸族と戦った。

 その一環として、レーゲン川が北から流れ込むドナウ川の南岸に、第3軍団の本部となる宿営地を築かせた。基地の大きさは540m×450m。6千人の軍団兵を収容でき、「Castra Regina(カストラ・レジーナ)」即ち「レーゲン川沿いの要塞」と呼ばれた。これがレーゲンブルグ市の名の起源となった。

 マルクス・アウレリウス帝は、ゲルマン諸族の勢いを抑え込んで戦いに終止符を打つことができないまま、ドナウ川のさらに下流のウィーンの陣営で、持病が悪化して病没する。

 塩野七海の『ローマ人の物語』は、マルクス・アウレリウスの時代を、「5賢帝の時代」の章の終わりではなく、「終わりの始まり」という章の冒頭に置いている。ゲルマン諸族や、その後方にいたスラブ民族の南下は、歳月とともにとどめようもなくなり、300年ほど後の476年に西ローマ帝国は滅びる。

 6世紀にはバイエルン族がこの地に侵攻、支配し、ローマの要塞の跡に宮殿を建設した。

 8世紀には、バイエルン公国を吞み込むように、フランク族がフランク王国を広げた。

      ★

<暮れなずむドナウの流れ>

 大聖堂から100mも北へ歩けば、ドナウ川に架かる古い「石橋」がある。

 レーゲンスブルグはドナウ川の右岸(南岸)に建設されたローマ軍団の宿営地として出発した。ドナウ川よりも北(左岸)は、ローマの防衛線の外になる。もっとも、日頃、ローマ軍は、そのあたりに住む住民とも慣れ親しんでいた。マルコマンニ族はもっと奥地に居住していた。

 中世の時代に架けられた「シュタイネルネ・ブリュッケ(石橋)」は、ドイツで最古と言われる橋。

 橋の手前には、中世都市レーゲンスブルグ(旧市街)の北の境界を示す城門と塔が建っている。

  (橋の上から見た城門と塔)

 橋上に立ち、遥かに上流・西の方角を眺める。日が沈み、濃紺の美しい空はピンク色に染められていた。

  (ドナウ川上流を眺める)

 赤い屋根、白い壁の家が見える。明日の夜、予約している「ゾラート・インゼル・ホテル」。ここはドナウ川の中の島。

 「ゾラート・インゼル・ホテル」は人気ホテルではないが、ネットで調べて予約した。ホテルの部屋のテラスから、居ながらにしてライトアップされたレーゲンスブルグの夜景が眺められる。ネットに写真が載っている。これは、すごい。もちろん、石橋を渡ればすぐに旧市街で、街の見学にも便利だ。

 こうして自分の旅の目的にかなう宿をネットで探して泊まるところが、個人旅行の楽しさでもある。

 (ブリュッケン・メンヒェン=橋の小人像)

 橋の欄干に石の小人の像が立っていた。ブリュッケン・メンヒェン。手をかざして眺めているのは大聖堂の方角だ。

 (レーゲンスブルグの街と大聖堂)

 旧市街の方を眺めると、ライトアップされた大聖堂が、レーゲンスブルグの街を圧するように、一段と大きく輝いてる。

 橋の城門の塔の左手の白い建物は、中世、この町に富を呼び込んだ塩の倉庫。

 石橋も含めて、旧市街全体が世界遺産。

 9時をかなり過ぎて、大聖堂のそばの小さなホテルへ戻り、明日の観光の用意をした。

 

 

 

 

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ドナウ川の白い雲 … ドナウ川の旅1

2022年08月27日 | 西欧紀行…ドナウ川の旅

 (ドナウ川の白い雲/パッサウ)

 南ドイツの5月は晴天の日が多く、光があふれて、空気に透明感がある。その分、陰も濃く、自動で写真を撮ろうとするとコントラストが強すぎた。

 ドナウ川の川岸の森の緑が白っぽく見える。樹木に、目立たないが、小さな白い花が咲いて、ウイーンのような都会の街路を歩いていても、風が吹くと白い花びらが舞いながら無数に散り落ちてきた。

 マロニエ?? プラタナス??  ニセアカシア?? 植物のことはよくわからない。 

        ★   ★   ★ 

<読者の皆さまへ ── ドナウ川の白い雲>  

 このブログを書き始めたのは2012年の夏でした。今年で、なんと!! 満10年。我ながらよく続いたものです。これも読者の皆さまのお陰です。どなたが読んで(見て)いらっしゃるのか、私の方からはわかりません。わかるのは、前日の読者の数だけです。その人数も、人気ブログと比べると2桁も3桁も少ないのですが、それでも、PRもしていないのに、この地味なブログを読んで(見て)いただいている方がいらっしゃるということに励まされて、今日まで続けてきました

 このブログを始めた年の前年の2011年5月に、「ドナウ川の旅」に行きました。その旅の感動が残っていて、ブログの名前を「ドナウ川の白い雲」としました。

 ブログがスタートしたのは、「ドナウ川の旅」から1年以上も後でしたから、これまでこのブログに「ドナウ川の白い雲」のことは一度も出てきませんでした。

 その旅から11年もたってしまいましたが、今回、旅の様子と写真を残したいと思います。

   ★   ★   ★

 <ドナウ川の旅の行程 ─ レーゲンスブルグからブダペストまで ─ > 

 「ドナウ川の旅」と言っても、リバークルーズの優雅な旅ではありません。

 西ヨーロッパをリバークルーズで旅行するという企画は、コロナの前、欧米でも日本でもパック旅行として盛んに売り出されるようになっていた。長いものだと、アムステルダムから、ライン川、マイン川、ドナウ川を経て黒海までの3週間の旅とか。

 しかし、海であれ川であれ、クルーズ船の旅は、私にとって贅沢にすぎ、それに、もの足りない。人生1回だけの「リタイア記念旅行」とか「還暦記念旅行」ならそれも良いだろうが、私はもっとヨーロッパのことを知りたい。クルーズ船の旅は、船にいる時間が長すぎる。

 その地を自分の足で歩き、見て、歴史や文化を感じとりたい、そのためには、観光バスから下車し、或いは、船から下船して、ちょこっと見学して、また次の観光地へ向かうという旅ではなく、できたらそこに1、2泊したい。

 ということで、私の旅は列車で移動する。

 出発点はいろいろ考えた。もっと上流のシュヴァルツヴァルト地方の黒い森とか。ドナウ川の最初の1滴はどこなのかも調べた。しかし、結局、ドナウ上流はカットした。探検の旅ではない。

 「ロマンチック街道と南ドイツの旅」の折、ネルトリンゲンからアウグスブルグへ行く途中、観光バスでドナウ川を横切った。一瞬だったが、まだ大河のイメージではなかった。

 滔々と流れるドナウ川のイメージならこのあたりからでよかろうと、ドイツのレーゲンスブルグで最初の2泊をすることにした。

 そこから、ドナウの流れに沿ってローカル列車でパッサウへ。パッサウはドナウ川の川中島の町で、オーストリアとの国境だ。

 オーストリアに入って、ドナウ川の本流からは少し逸れて、2度目のザルツブルグへ行くことにした。

 実は、以前、パック旅行で「秋色のオーストリアの旅」に参加した。その折、ザルツブルグにも行ったが、リンツのドナウ河畔のホテルに1泊した。翌朝、一人で散歩に出て、流れ来て流れゆくドナウ川を眺めた。霧の中、河畔をランニングする人や犬を散歩させる人がいて、旅情を感じた。

 そのパック旅行では、ウイーンの少し上流のメルクとデュルンシュタインにも立ち寄った。ドナウ川は大きく湾曲しながら滔々と流れていた。メルクもデュルンシュタインも、ドナウ河畔の、中世風の、小さな美しい町だった。

 ということで、それらを端折って、ザルツブルグからは、オーストリア国の誇る特急列車に乗って、これも2度目のウイーンへ。

 パック旅行の時と違うのは、オーストリア周遊ではなく、ドナウ川に沿って旅すること。そして、自分で列車に乗り、ホテルにチェックインし、自分の足で主体的に歩くということだ。

 ウイーンからは、急行列車に乗って国境を越え、ハンガリーの美しい首都ブダペストで流れゆくドナウ川を見送って、この旅を終える。

 そこから先は、ドナウ川に沿って走る列車はない。

 調べれば、大きく迂回しながらも、列車や路線バスを乗り継いで、黒海の河口付近まで行けるのかもしれない。だが、それはもう若い人のバックパッカーの旅になる。列車が通らぬ地は、私にとって、「未開の地」である。

 ちなみに、ドナウ川は、全長2850キロ。ヨーロッパではヴォルガ川に次いで長い大河である。

 (流れゆくドナウ川/ブダペスト)

 旅の具体的な行程は以下のようであった。

第1日>  (5月23日)

 関空 () フランクフルト

 () ニュールンベルグ

 () レーゲンスブルグ(泊)

第2日> (5月24日)

 レーゲンスブルグ観光(泊)

第3日> (5月25日)

 レーゲンスブルグ () パッサウ

 パッサウ観光 (泊)

第4日> (5月26日)

 パッサウ () ザルツブルグ

 ザルツブルグ観光 (泊)

第5日> (5月27日)

 ザルツブルグ () ウイーン

 ウイーン観光 (泊)

第6日> (5月28日)

 ウイーン観光 (泊)

第7日> (5月29日)

 ウイーン () ブダペスト

 ブダペスト観光 (泊)

第8日> (5月30日)

 ブダペスト観光 (泊)

第9日> (5月31日)

 ブダペスト () フランクフルト (

第10日>  (6月1日)

  () 関空

      ★

<なぜ?? ── そこに立ちたいから>

   塩野七海の『ローマ人の物語』は1年に1巻ずつ書き下ろされ、最後の15巻目が刊行されたのは2006年の暮れだった。毎年、本屋で新しい巻を見つけるのが楽しみだった。

 江戸時代以前、日本の知識層は基礎教養として中国史を読んだ。

 明治以後、攘夷思想の変容として、欧米に追い付き追い越せと、西欧文明の修得に励んだ。しかし、西欧知識人の基礎教養であるローマ史まではなかなか手が回らなかった。

 もし、明治以後の日本人が、日本史や中国史やヨーロッパ近・現代史だけでなく、古代ローマ史を学んでいたなら、近代日本の内政も、対外政策も、もう少し違ったニュアンスのものになっていたかもしれないと思う。欧米知識人は、少年の頃、わくわく胸躍らせながらローマの英雄たちの歴史物語を読み、自分の血とし肉とした。為政者の統治と市民との融和、議会におけるスピーチのあり方、異民族との戦争と講和の仕方、植民政策のやり方とグローバリズム、パクス・ロマーナ … 。成熟したおとなになるための基礎教養の欠如が、日本の近代史の不幸の要因の一つであったかもしれないと思う。

 その長大なローマ史が、塩野七海という女性作家の手によって、日本語の歴史文学として完成した。これは称賛に値する。日本近代文学は「私小説」だけではない。早速、韓国でも、中国でも翻訳された。中国史には、このような歴史はない。

 『ローマ人の物語』の最終巻の末尾の1節は、「歴史」への向かい方を教えてくれる。

 「盛者は必衰だが、『諸行』も無常。これが歴史の理ならば、後世のわれわれも、襟を正してそれを見送るのが、人々の営々たる努力のつみ重ねでもある歴史への、礼儀ではないだろうか」。

 ドナウ川は、ローマ帝国の北の防衛線であった。

 「バーバリアン(蛮族)」との間に国境はない。ドナウ川はローマ帝国の北の防衛線であり、最前線だった。ローマ人にとってそこは辺境の地であり、文化果てる地でもあった。

 『ローマ人の物語』を読みながら、そこに立ってみたいと思った。

 もちろん、「ローマ帝国の遺跡」などは残っていない。ローマの巨大な遺跡を見たければ、イタリアや南仏やスペインに行けばよい。

 レーゲンスブルグも、パッサウも、ウイーンも、ブダペストも、ローマ軍の辺境の駐屯地が置かれた所だ。今は、中近世の美しい歴史の街として人々を魅了しているが、ローマの遺跡は痕跡ほどしかないし、わずかな痕跡を探して旅をしてもつまらない。

 ただ、遥かに遠い昔、銀色に輝く兜に赤いマントをなびかせたローマ軍の士卒が、滔々と流れるドナウ川の河畔をパトロールした。

 そこに自分も立って、自分の目で眺めたい。これがこの旅の動機である。

三木清「旅について」(『人生論ノート』から)

 「旅はすべての人に多かれ少なかれ漂泊の感情を抱かせる」。

 「旅の心は遥かであり、この遥けさが旅を旅にするのである」。

 

 

 

 

 

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