ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

世界遺産・ポルトの街歩き … ユーラシア大陸の最西端ポルトガルへの旅 15 (おわり)

2017年02月26日 | 西欧旅行……ポルトガル紀行

    ( ドウロ川の上の白い雲 )

10月3日

 今日は、「ユーラシア大陸の最西端ポルトガルへの旅」の最終日である。

 朝、6時。窓のカーテンを開けると、外はまだ暗く、ドン・ルイス1世橋は、昨夜のままにライトアップされていた。

 そして、窓の正面の空、真南の方向に、オリオン座がこぼれ落ちそうに輝いていた。

         ★

 ポルトのチンチン電車は、リスボンのそれよりさらに年代物のように見える。車体も一回り小さい。旧市街を3路線が走り、乗客はほとんど観光客で、運転手は女性。  

 

    ( チンチン電車 )

 今日の行動の始まりは、ポルトの河口から大西洋を見ること。

 そこで、カイス・ダ・リベイラから出る1番のチンチン電車にに乗った。マップで見ると、1番の電車の終点は、河口に近い。とにかくそこまで行ってみようというわけだ。

   トコトコと、ドウロ川に沿って、どこまでも走った ……。

 終点で電車を降りると、遠くに突堤が見えた。突堤の先に赤い灯台も見える。あのあたりが河口だろうと、歩き始めた。

 ヤシの木のプロムナードが続き、疲れがたまっているが、朝の光があふれて気持ちがよい。

 

  (河口へ向かうプロムナード)

 川岸で釣りをしている人がいて、さらに進み、突堤が近づくと、近所の人らしいおじいさんたちが、突堤で語り合いながら日向ぼっこをしていた。

 

  (突堤で日向ぼっこする人たち)

 大西洋と河口を隔てる長い突堤の上を沖の方へ歩いていくと、そこここに太公望たちがいた。

 ここは、イベリア半島を延々と流れてきたドウロ川の水が、大西洋の海水と混じりあうところ。魚もよく釣れることだろう。

  ( 大西洋に向かって釣りをする人たち )

 電車の終点から、突堤の端の赤い灯台を目指して歩いてきたが、その灯台の下の岩礁を大西洋の荒波が洗い、波しぶきを上げて渦を巻いている。その岩礁に身を乗り出すようにして、灯台のテラスから釣りをする人もいる。

      ( 大西洋の灯台 )

 遥か昔、フランスのブルゴーニュの野からやって来た騎士たちは、どのような思いでこの海を見たのであろう。

 ともかく、旅の最終日に、ポルトガル発祥の地のポルトの河口から、大西洋の水平線を眺めて、満足した。  

   突堤から内陸部の方へ少し歩くと、バスの停留所があった。そこからバスで旧市街へ向かった。

                      ★

 ドウロ川の北岸の丘陵部に広がる旧市街の歴史地区は、世界遺産に指定されている。

 バスは街の北側に着いたので、そこからドウロ川の方へと、歩いて見学した。

 グレリゴス教会は、18世紀に建てられたバロック様式の教会である。教会の中の祭壇は、バロックらしく、金ぴかだ。 

 

  ( グレリゴス教会の側面 )

( グレリゴス教会の祭壇 )

 この教会の塔は76mの高さがあり、狭く急ならせん状の石段255段を昇りきれば、ドン・ルイス1世橋の上からの眺めとはひと味違ったポルトの景観を眺望することができる … と、ガイドブックに書いてあった。が、敬遠した。

 ヨーロッパの旅で、「狭く、急な、石のらせん階段」を何度も昇った。フィレンツェのドゥオーモのクーポラに上がったとき、昇りきって周りをみると、20代の若者ばかりだった。翌日は筋肉痛になった。          

        ★  

 「リブラリア・レロ・イ・イルマオン」は、世界で最も美しい本屋の一つと言われている。

 今は昔、本は、神を信じる者にとっても、神を信じない者にとっては一層、未知の世界への扉であった。クラシカルならせん階段やステンドグラスは、並べられている重厚な本とともに、知的な雰囲気があって、ゆかしい。 

 

    ( 世界で最も美しい本屋 )

                        ★ 

 ポルトの旧市街の中心は、リベルダーデ広場。正面に小さく見えている塔のある建物が市庁舎で、市庁舎からこちら側(南)へ、ドウロ川までが、旧市街である。

    (リベルダーデ広場)

        ★

 昨日、トマールから乗り継いだ特急列車は、ポルト・カンパニャン駅に着いた。スーツケースが重いので、そこからタクシーでホテルに向かったが、そうでなければ、乗り換えて1駅、サン・ベント駅まで行く。サン・ベント駅が、ポルトの旧市街の中心部にある駅である。

 世界で最も美しい駅の一つと言われる。ライトアップされた姿も幻想的とか。

 しかし、ポルトを訪れるどんな観光ツアーも必ずこの駅に立ち寄るのは、駅舎の中の壁を飾るアズレージョが目的である。

         ( サン・ベント駅 )

 ひときわ目を引く2枚の大きなアズレージョがある。その1枚は、「ジョアン1世のポルト入城」。

 ( ジョアン1世と王妃フィリッパ )

 14世紀中ごろ、ポルトガルがスペインに併合されそうになったとき、リスボン市民とともに立ち上がったのが、キリスト教騎士団の団長であったジョアン。彼は市民軍を率いて、圧倒的なスペイン包囲軍を撃退し、推戴されてポルトガル王・ジョアン1世となる。

 翌年、ジョアン1世は、アルジュバロータの戦いにおいて、再度、スペイン軍を敗走させた。(バターリア修道院の建設 ──「ポルトガルへの旅7」)

 このあと、ジョアン1世は英国と同盟を結び、英国王族から王妃としてフィリッパを迎えた。

 結婚式は、ポルトガル発祥の地ポルトで行われた。この絵は、そのときの様子を描いたものであろう。

 ジョアン1世と王妃フィリッパとの間に生まれた3番目の息子が、のちの「エンリケ航海王子」である。

 もう1枚のアズレージョは、「セウタ攻略」。その中心に立つのか、若き日のエンリケ王子である。

(中央に立つのが若き日のエンリケ航海王子)

 イスラム勢を大西洋に追い落とし、レコンキスタは終了したが、そのあとも、ポルトガルの商船は、イスラムの海賊に苦しめられた。その根拠地の一つが、アフリカ大陸北岸のセウタである。セウタは、ジブラルタル海峡をはさんで、ジブラルタルの対岸にある要塞都市である。

 1414年、ジョアン1世は、数万の軍勢を船に乗せ、セウタを攻略した。この戦いが、21歳のエンリケ王子の初陣であり、彼はポルトから船に乗って、南のラゴスに集結したようだ。

         ★ 

 ボルサ宮は、19世紀に建てられたポルト商業組合の建物である。当時のポルトの経済力を誇示しているかのように立派である。

  (ポルサ宮とエンリケ航海王子の像)

 その前の広場に、エンリケ航海王子の像が建つ。

 近くに、エンリケの生家ではないかと言われている建物もある。サグレスの像と違って、まだ若々しいエンリケ航海王子である。

 白い雲が美しく、この町に生まれ育ったエンリケ王子は、希望に満ちて、まさに青空に浮かぶようである。 

   (白い雲と若き日のエンリケ航海王子)

         ★

 ポルトの大聖堂は、もともと、12世紀に要塞として建てられた。この時代に建てられたポルトガルの大聖堂や修道院は、みな要塞だ。

 17世紀に改修されたらしいが、さすがに大聖堂らしい風格を感じさせる。

    ( 大聖堂 )

 大聖堂は丘の上に建ち、テラスがあって、ドウロ川と反対方向の展望がよい。ひときわ高い塔は、グレリゴス教会の塔である。

 

  ( ポルトの街並みとグレリゴス教会の塔 )

           ★

 大聖堂のある丘から、ドウロ川に向かって一気に下りの道となる。路地へ入ると、洗濯物を干した古い家々が並ぶ。 

   (大聖堂からの下り道)

         ★

 日はかなり傾き、足腰も疲れた。

 今日一日の街歩きのフィナーレとして、ドウロ川の橋巡り遊覧船に乗った。

 上流から河口近くまでの間に、ドン・ルイス1世橋を含めて、6つの橋の下をくぐる。

 川から見上げる街の眺めも、また、いい。 

       ( 遊覧船から )

              ( 遊覧船 )

   船から見上げると、河口に近いとは言え、このあたりも、峡谷の一部であることがよくわかる。

    (崖の上のお家)

 岸辺にカフェテラスが並び、青空の下、大聖堂、サンフランシスコ教会、ボルサ宮がなどが積み木を重ねたように見える。

 

                 ★

 最後の夜は、ドン・ルイス1世橋の下のカフェテラスで、ワインを飲んだ。

 ホテルに財布を忘れ、小銭入れしかもっていなかった。オシャレでちょっと高級そうな雰囲気だったから、「10ユーロしか持っていないけど、グラスワインを飲めるか?」 と聞いたら、アフリカ系のマドモアゼルが、「大丈夫よ」と、ニコッと笑った。

 

     (カフェテラス)

       ★   ★   ★

 翌日、8時40分発のKLでポルトの空港を発った。

 ユーラシア大陸の西の果ての岬に立ってみたいと思い立った旅であり、世界史の大航海時代を切り開いたエンリケ航海王子を訪ねる旅でもあった。とても印象に残った。

 今までのヨーロッパの旅の中でも、心に残る旅になった。     ( 了 )

 

 

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ドウロ川の河口近くに開けたポルトガル発祥の地ポルト … ユーラシア大陸の最西端ポルトガルへの旅14

2017年02月20日 | 西欧旅行……ポルトガル紀行

       ( ドウロ川の流れ )

 ポルトガルには2本の大河が流れている。いずれもスペインの台地を東から西へと横断して流れ、ポルトガルに入って、やがて大西洋にそそぐ。

 その一つ、テージョ川の河口にできた町が、首都リスボン。

 そのリスボンから北へ300キロ。スペイン語でドゥエロ (Duero) 川、ポルトガル語ではドウロ (Douro) 川の河口近くにできた町が、ポルトガル第2の都市ポルトである。

   ポルトという名の由来は、古代ローマ時代の港町・ポルトゥス・カレに起源をもつという。

 ローマ時代には、その一帯をコンダドゥス・ポルトカレンシスといったそうだ。これがポルトガルという国名の由来らしい。

 1096年、イスラム勢と戦うカスティーリア・レオン連合王国 (スペイン) 国王は、フランスのブルゴーニュからやってきた騎士エンリケ・ド・ボルゴーニュの戦績をたたえ、ドウロ川の流域・コンダドゥス・ポルトカレンシスの地を与えて、伯爵とした。

 その息子アフォンソ・エンリケス (アフォンソ1世)が、 ポルトガル王国を建国する。サンタレンの戦いに勝利して、テンプル騎士団にトマールの地を与え、続いて、リスボンを奪取した。

 日本の多くの都市は、河口近くに開けた平野の中にある。

 ポルトガルの地形は、河口が近づいても、なお、峡谷の姿をとどめる。

 ゆえに、リスボンもそうだったが、ポルトも、ドウロ川の北岸から上へ上へと、峡谷の丘陵地に造られた町である。

 ゆえに、ポルトもまた、リスボン以上に坂の町である。

      ★    ★    ★

 10月2日

< ポルトのホテルのこと >

   トマール駅8時発の各駅停車に乗り、Entroncamento駅で特急に乗り換えて、11時にポルト・カンパニャン駅に着いた。

 駅に、私の名前を書いたボードを持つタクシーの運転手がいて、多分、ホテルのマダムが気を利かせたのだろうと思って、乗った。

 リスボンで4泊したホテルも、ここポルトで2泊するホテルも、実は、「民泊」である。

 民泊と言っても、日本のイメージとは違う。観光に便利な旧市街の一等地にありながら、部屋はホテルの部屋よりずっと広く、ソファセットなどの家具も置かれて、時に、キッチン、リビング、ベッドルームなど2部屋、3部屋があり、にもかかわらず、料金はホテル並み。だから、EU圏からの滞在型旅行者の間で、今やホテルより圧倒的に人気がある。

 私にとっても、徒歩で観光して回れる旧市街の一等地にあり、さらに、窓を開ければ、その街の歴史を語る大聖堂のたたずまいとか、川の流れとかを、居ながらにして望むことができれば、最高に魅力的なホテルということになる。

 しかし、欠点もある。入り口の暗証番号を教えてもらったら (現地でなく、時にはネットで) 、それでおしまい。ホテルのような24時間対応のフロントはない。スマホを盗られたと言って相談したり、日本に電話をかけたりすることもできない。つまり、リスクを負うことになる。

 ホテルに着くと、ちょっと待たされて、マダムが来てくれ、ソファーのある広々とした部屋に案内された。

 窓を開けると、目の前をドウロ川が流れ、居ながらにしてドン・ルイス1世橋も見えて、幸せな気分になった。

 窓辺に、花瓶にさした1輪の薔薇でも置けば、マチスの絵に出てきそうな構図だ。

 パリで、セーヌ川とエッフェル塔を望むことのできるホテルに泊まれば、1泊10万円だろう。

   (ホテルの窓から)

       ★

< ドン・ルイス1世橋を渡って対岸へ >

 ポルトに着いたら、何はさておいても行ってみたかったところが、ドン・ルイス1世橋。目の前の鉄の橋である。

   ( ドン・ルイス1世橋 )

 橋の手前の川岸は、カイス・ダ・リベイラと呼ばれる。さっきタクシーが着いたとき、タクシーが身動きできなくなるほど観光客で賑わっていた。カフェテラスが立ち並び、遊覧船も発着する。旧市街が丘の上へ上へと開けるドウロ川の右岸である。

 対岸の新市街とを結ぶ鉄橋が、ドン・ルイス1世橋。

 橋は2階建て構造で、パリのエッフェル塔を設計したギュスターブ・エッフェルの弟子が設計した。

 下層階には、自動車道路と歩道があり、上層階にはメトロの線路と歩道がある。

 多少、高所恐怖症気味ではあるが、あのドン・ルイス1世橋の上層階を歩いて、眼下に広がるドウロ川の流れとポルトの街並みの写真を撮りたい、というのが、私のポルト観光の第一の目的である。

 そう思って、旅行に出る前にあれこれネットで調べていたら、橋のさらにその向こうに見えるノッサ・セニョーラ・ピラール修道院 (中は公開していない) の前まで上がれば、もっと素晴らしい眺望が開けることを知った。

 で、今日は、そこを目指す。あとで後悔しないように、行きたいところから行くのが、私の旅の流儀である。

 川岸のカイス・ダ・リベイラから、橋の上を撮影した。今日は、白い雲が少しだけ青空に漂って、いい感じだ。

  ( 橋の上層階から下を見下ろす人たち )

 ( 上層階を渡る黄色のメトロ )

 橋の下層階のたもとはすぐわかったが、上層階のたもとは、助走部分がある。旧市街の方へ坂道を上っていかねばならなかった。

 下の写真は、上層階のメトロの線路と、その脇の歩道である。

 線路と歩道の境はポールが並んでいるだけで、観光客で混雑する歩道を避けて、線路を歩く人たちもいる。列車は速度を落としてゆっくりやって来るから、列車が来れば十分余裕をもって歩道へよけることができる。

 で、おまえは線路を歩いたかって?? もちろん。

 ヨーロッパは大人の社会だから、一律に機械や規則に支配されない。例えば、車の全く来ない横断歩道の赤信号で律儀に待ち続ける歩行者や、まだ歩行者が渡り切っていないのに、青信号になったからと、怒って警笛を鳴らしながら発進する車。こういうのは機械に支配されて生きている未熟な人間だ。自立した人間の判断力を大切にして生きるのがヨーロッパだ。

    ( 橋の上層階のメトロの線路と歩道 )

 鉄橋から眼下を眺望すれば、河口に向かって流れていくドウロ川 …。赤い屋根が上へと積み重なっていく街並み …。まるで絵葉書のようである。

 リスボンを流れるテージョ川よりも川幅は狭く、河口までの距離も少し遠いようだ。

    < ドン・ルイス1世橋の上から >

  ( 河口に向かって流れていくドウロ川 )

  橋の上層階を渡り終え、そのたもとからさらに石畳の道をふうふう言いながら上っていくと、ノッサ・セニョーラ・ピラール修道院の前にたどり着いた。

 そこからの眺めは、息をのむほど美しく、しばし、ぼっと見とれていた。

 

    ( ドン・ルイス1世橋の上を走るメトロ )

        ★

< 対岸はヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア >

 ドウロ川の南岸はヴィラ・ノヴァ・デ・ガイアと呼ばれ、ポートワインのワインセラーが立ち並ぶ。

 1軒のワインセラーで、女性の店員に適当なものを選んでもらった。庶民的な値段だ。

 フランスのブルゴーニュからやって来たエンリケ・ド・ボルゴーニュが、その功績により、伯爵に任じられてこの地を治めるようになったとき、故郷のブルゴーニュのブドウを取り寄せて、植えた。

 歳月を経て、ドウロ川の上流渓谷は、フランスのブルゴーニュ地方と同じように、ブドウの名産地になった。

 そこで造られたワインは、数多くの小舟に乗せられ、川下のヴィラ・ノヴァ・デ・ガイアに運ばれた。

 樽につめられたワインは地下に貯蔵されて、熟成され、甘いポートワインができあがる

 甘いが、普通のワインよりもアルコール度がかなり高いから、オンザロックにして、食前酒として飲むと美味い。

 今は、ドウロ川の峡谷に道路が通り、ワインはトラックで運搬されるようになったから、その昔ドウロ川の渓谷をワインを運んで下った小舟たちも観光用の風物詩として、川岸に係留されている。

  ( ドウロ川の渓谷をワインを運んだ小舟 )

  ( 南岸から旧市街の方を望む )

        ★

< ライトアップされたドン・ルイス1世橋 >

 日が暮れた。ライトアップされたドン・ルイス1世橋と、その向こうの修道院が美しい。 

   ( ライトアップされたドン・ルイス1世橋 )

 観光客も丘の上の旧市街のホテルに引き上げ、ドウロ川の岸辺・カイス・ダ・リベイラは、さすがに昼間の賑わいはない。しかし、それでもそぞろ歩きをする人は絶えない。

      ( 夜のカイス・ダ・リベイラ )

 わがホテルは、居ながらにして、ライトアップされた橋も、修道院も眺めることができる。

    ( ホテルの窓から )

   明日は、バスに乗って河口まで行き、大西洋を見よう。それから世界遺産のポルト旧市街を散策する。

 

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トマールとエンリケ航海王子のキリスト騎士団 … ユーラシア大陸の最西端ポルトガルへの旅13

2017年02月10日 | 西欧旅行……ポルトガル紀行

 (トマールの市庁舎と丘の上のキリスト修道院 )

   トマールは小さいが、美しい町である。

 夜、キリスト修道院のライトアップされた城壁が、丘の上に見えた。それは、町を見守るかのようであった。

 1147年、サンタレン (今はトマールを含む県) をイスラム勢から奪回したときの功績により、ポルトガルの初代の王・アフォンソⅠ世は、テンプル騎士団に、ナバオン川の流れる土地を与えた。騎士団はその丘に、要塞を兼ねた修道院を建造して、彼らの本部とした。

 12世紀の終わり、イベリア半島に対するイスラム勢の反転攻勢があったときも、テンプル騎士団はこの城塞に立てこもって持ちこたえた。

 14世紀、テンプル騎士団解散の後、修道院はそのままキリスト騎士団の本部として受け継がれた。

 15世紀、エンリケ航海王子がキリスト騎士団団長に任ぜられたとき、当然、彼も団長としてここに居を置き、首都リスボンや遠くサグレス村に通った。

     ★   ★   ★

< アズレージョのあるトマールのホテル >

 旅行に出る前、どのホテルに泊まろうかとネットを開いて調べたとき、ほんの少し足を延ばせば、旧市街のはずれに近代的でオシャレなホテルが1軒あることも知った。迷ったが、あえて旧市街のメインストリートにある、小さな古ぼけたホテルの方を選んだ。

 主人は英語を話し、朴訥な愛すべき人で、ホテル代は申し訳ないぐらいに安かった。

 だが、薄暗い階段を上がって入った部屋は、狭くて、床は明らかに傾いていた。しかし、歴史あるヨーロッパを旅する以上、こういうホテルもまた良しとすべきである。 

 通りに面したホテルの玄関横の壁には、年代物らしいアズレージョの絵が貼ってあった。アズレージョは、ポルトガルを代表する美術工芸品で、タイルにコバルトを使って絵を描く。

   ( ホテル玄関のアズレージョ )

 左側の絵は、トマールの丘の上のキリスト修道院にある、有名なマヌエル様式の窓を絵に描いたものである。下の写真が本物の窓で、頂点にキリスト騎士団のしるしである独特の形の十字架があり、その下に大航海時代を表すロープや鎖が彫られている。

  (マヌエル様式の窓)

 右側のアズレージョには、町を流れるナバオン川の、古い昔の風景が描かれている。

 ( 現在のトマールの町とナバオン川 )

   メインストリートの古い町並みのなかでも、玄関にアズレージョを飾ったホテルやレストランは他にないから、歴史あるこのホテルの自慢の一品なのだろう。 

          ★

< テンプル騎士団の築いた「城塞」へ向かう >

 キリスト修道院へ行く道は、『地球の歩き方』の小さな地図ではよくわからず、方向だけ決めて、レプブリカ広場からひたすら上へ上へと上がって行った。たちまち息が切れるほどの急坂だった。これでは、敵軍も、腰や膝の負担が大変だったろう

 やがて、えっ、これが修道院 というような、イカツイ城壁が現れ、城壁に沿って進むと、城門が見えてきた。そうか!! 修道院と言っても、戦う騎士団の修道院は、普通の修道院と違って、城塞そのものなのだ。

     ( 城門が見えてきた )

    ( 城 門 )

 城門をくぐると、目の前に巨大に建物がそびえている。歳月を経て次々と増改築されたこの修道院の中でも、最初にテンプル騎士団によって建造された礼拝堂である。「テンプル騎士団の聖堂」、或いは、その形状が16角形であったため、「円堂」とも呼ばれる。

 

    ( テンプル騎士団の聖堂 )

         ★

< 騎士団について > 

 地中海に浮かぶ島・ロードス島は、膨張を続ける超大国トルコに近づいて、匕首を突き付けたような位置にある。

 そのロードス島の要塞に籠城する聖ヨハネ騎士団と、これを殲滅せんと決意したスレイマン大帝率いる20万のトルコ軍との戦いを描いたのが、塩野七生の『ロードス島攻防記』である。16世紀初頭の話である。

 20万のトルコ側に対して、聖ヨハネ騎士団側は、騎士600人、従士1500人、ロードス島民 (ギリシャ系) の兵士3000人であった。6か月の激しい籠城戦ののち、聖ヨハネ騎士団は降伏・開城する。攻めきれず、スレイマン大帝は騎士団に、名誉ある撤退を許したのである。生き残った騎士180人は、本拠をマルタ島へ移して再興し、マルタ騎士団と呼ばれるようになる。

 この作品のなかで、塩野七生は騎士団について、このように説明している。

 「イタリア語のカデットという言葉を、百科全書は次のように解説している。

── フランスはガスコーニュ地方に生まれ、中世以降全ヨーロッパに広まった言葉。封建貴族の二男以下の男子を意味した。中世の封建制下では、家督も財産も長男一人が相続する習慣であったので、二男以下は、聖職界か軍事の世界に、自らの将来を切り開く必要があったのである」。(『ロードス島攻防記』)

 「騎士団に属す騎士たちは、貴族の血をひく者でなければならず、戦士であると同時に、一生をキリストに捧げる修道士であることも要求された」。(同)

 著名な騎士団としては、聖ヨハネ騎士団とテンプル騎士団がある。

 聖ヨハネ騎士団の起源は古く、9世紀に遡り、巡礼としてエルサレムを訪れるキリスト教徒のために、病院兼宿泊所を建設し、運営したのが始まりである。やがて、1099年に十字軍が始まると、「キリストの敵」と戦う宗教騎士集団となっていく。鎧の上に、白い十字架を描いた黒いマントをまとった。

 一方、テンプル騎士団は、1099年の第一次十字軍が引き上げたあと、聖地の守護と巡礼者の保護を目的として、1119年に創設された。テンプルという名は、創設時、本部がエルサレムのソロモン王の「神殿」跡と言われる宮殿にあったことによる。赤い十字架のついた白いマントをまとい、長剣と楯、髭を長く伸ばし、髪は短く刈って、貴族的で美々しい姿であった。しかも、イスラム軍との戦いにおける強さと勇敢さが全ヨーロッパに伝えられたから、入団者は増え、財力・土地を増やし、各国に本部を置くようになった。

 司馬遼太郎はこのように書いている。「騎士団のなかで最大のものの一つは、テンプル騎士団とよばれるもので、その最盛期には加盟騎士1万5千、所属荘園1万5百か所といわれた。荘園の多くは、ヨーロッパ諸国の王侯が寄進したものである」。(『南蛮のみちⅡ』)

 「騎士たちは、俗界での身分を捨て、修道僧と同じ規則を守る義務を課される。清貧、服従、貞潔がそれだった。妻帯は禁じられていた。彼らは、いわば僧兵であったのである」。(塩野七生・同)

 ただ、塩野七生は、このようにも書いている。

 「騎士たちの誰もが、この誓願(※貞潔、服従、清貧)を厳守していたわけではない。厳守されていると言えるのは、服従だけで、清貧は、西欧の高名な貴族の子弟の集まる聖ヨハネ騎士団では、ロードス島の現在の生活ぶりが清貧なのであった。西欧にいる兄や弟たちの、王の宮廷や自領の城での日常に比べれば、たしかにロードスでの騎士の生活は、彼らにしてみれば立派に清貧の名に値したのである。また、女も、妻帯こそ禁じられていたが、秘かに通じるのは黙認されていた。ただ、それも秘かにであって、公然と女と同棲するなどは、他の騎士は誰一人しないことだった」。(同)

 (作品のなか、主人公の一人である騎士は、命令には忠実で勇敢だが、公然とロードス島の女性と同棲していた。この騎士が戦死した翌日、彼女も甲冑を着て男装し、戦って、死ぬ)。

   エンリケ航海王子が、サグレス村の一人の女性を愛し、公然とではなく、村に通っていたとしても、不思議はない。

 聖ヨハネ騎士団は、今も存続する。映画「ローマの休日」で、ヘップバーンがアイスクリームをなめながら降りたスペイン階段のその先は、ローマで一番のブランドショップ街であるコンドッティ通り。その通りに、即ちローマの1等地に、今も聖ヨハネ騎士団の本部があるそうだ。ヴァチカンと同じ、イタリアの中の独立国で、国土なき国家として巨額の財産を持ち、世界に展開する8000人の「騎士」が今も所属して、国連のオブザーバー国にもなっている。イスラムとの「聖戦」は、さすがにもう、やっていない。現在の主たる活動は、創設時に戻って、医療活動。

 一方、テンプル騎士団は、不幸な運命をたどった。

 「この騎士団のフランスでの強大な財力と広大な領有地が、王権強化に熱心だったフランス王の関心をよんでしまったのである。これらをすべて手中にしようと決心したフランス王・フィリップⅣ世は、傀儡教皇クレメンスⅤ世を動かし、テンプル騎士団の壊滅に着手した。理由は、異端の罪、秘密結社結成の罪などである」。(同)

 「騎士たちは次々と拷問にかけられ、火あぶりの刑に処せられ、1314年、騎士団長の処刑で、テンプル騎士団は完全に壊滅した」。(同)

 余談であるが、1986年に制作された映画『薔薇の名前』。主演はショーン・コネリー。同じ時代の1327年、北部イタリアの修道院を舞台にした物語で、中世ヨーロッパのキリスト教が支配する世界や修道院の雰囲気をよく再現した映画である。異端審判にかけられた修道士たちは、恐ろしい拷問にかけられるより、異端であることを認めて、火あぶりにされることを選ぶのである。

 現代のカソリックの公式見解では、テンプル騎士団に対する疑いは完全な冤罪であり、裁判はフランス王の意図を含んだ不公正なものであったとしている。

 今ごろ、そんなことを言っても、おそい!!

 とにかくテンプル騎士団は、フランスの総本部をはじめ、全ヨーロッパの各国本部も解散させられた。だが、多くの国では、騎士に対する異端裁判において無罪とし、弾圧をしなかった。ポルトガルでは、国王が騎士団の逮捕を拒否し、数年足らずのうちに、キリスト騎士団と名を変えて復活させた。本部はやはりトマールのキリスト修道院である。

 それからおよそ1世紀後、キリスト騎士団は団長としてエンリケ王子を迎え、受け継いだ莫大な財産を使って、大航海時代を切り開いていった。

 ポルトガルにおいては、テンプル騎士団は、大海原に乗り出す航海者に変身したのである。

         ★ 

< キリスト修道院を見学する >  

 修道院の東側には、「墓の回廊」がある。エンリケ航海王子が騎士と修道士の墓所として造ったものである。修道院においては、死者の衣服や持ち物はすべて寄贈されるし、墓も簡素である。 

   ( 墓の回廊 )

 「墓の回廊」のさらに東側には、エンリケ航海王子が40年間、居所にしていたという邸宅が、廃墟となって残っていた。

         ★

 南門を入ると、すぐに礼拝堂があった。「テンプル騎士団の聖堂」である。

 テンプル騎士団の聖堂は、エルサレムのソロモン王の神殿及び聖墳墓教会をモデルにして造られる。ゆえに、十字形ではなく、16角形の円堂になっている。

 レコンキスタの戦いのころ、騎士たちはすぐに戦いに行けるように、馬上で中央の塔を回りながらミサに参加したという。

 堂内は大航海時代の16世紀の壁画で飾られ、この大修道院のなかで唯一、絢爛豪華の印象を与える。  

  (テンプル騎士団の聖堂の中央の塔)

         ★

 下の写真は、16世紀に建増しされた主回廊の上部である。黒ずんだ石柱と壁が中世的な雰囲気を漂わせるが、その装飾の船のロープや鎖は、大航海時代の特徴である。  

           ( 主回廊 )

 ホテルのアズレージョに描かれていたマヌエル様式の窓もあった。

 修道士たちの居室のある廊下は、修道院らしい静けさが保たれている。 

  ( 回廊につながる廊下 )

         ★

< エンリケ航海王子とトマールの町 >

 キリスト修道院からトマールの町へ下る途中、トマールの美しい町並みが見渡せた。

 エンリケ航海王子は、ナバオン川の治水を指示し、今日に残るトマールの市街地の設計をしたという。

     (トマールの町)

         ★

 旧市街の中心、レブプリカ広場まで下りてきた。

 広場の東側には、サン・ジョアン教会と鐘楼が建つ。とんがり屋根の鐘楼が、いい感じである。

  (レブプリカ広場の教会と鐘楼)

 教会に向かい合うこちら側には、市庁舎がある。

 並んだポールの上の赤い十字は、キリスト騎士団の徽章だ。この町の至る所にあって、この町がかつてテンプル騎士団やキリスト騎士団の町であったことを、今に伝えている。

 「騎士団にはそれぞれ徽章があり、それらはマントなどに縫いつけられた。テンプル騎士団の場合、きわめて特殊な十字だったが、その徽章こそ『ポルトガル十字』なのである。(司馬遼太郎『南蛮のみちⅡ』)

 テンプル騎士団の徽章は、キリスト騎士団に引き継がれ、大航海時代に騎士が航海者になっても受け継がれた。フランシスコ・ザヴィエルも、帆にこの赤い十字を付けた帆船に乗って、日本を訪れたのである。

         ★

 町にはいくつか教会があるが、この広場のサン・ジョアン教会が、市庁舎と向かい合って、町の中心になる教会と思われる。15~16世紀にゴシック様式で建てられた。

 ちょっと中を覗いてみると、美しい礼拝堂の中で、折しも結婚式の最中だった。

   (サン・ジョアン教会の結婚式)

 広場の一角のカフェテラスで、観光客や地元の人々に交じって、白ワインを飲んで、ひと時を過ごした。

 ヨーロッパの旧市街は、街並みそれ自体が美しいから、散策の後、街並みや人々を眺めながら、ワインを飲んで過ごすひと時は、至福のときである。それに、この小さな町の小さな広場は、どこかメルヘンチックで、印象に残る広場であった。 

  ( 白い雲と鐘楼 )

 

 (レブプリカ広場の像の周りで遊ぶ子ら)

 結婚式が終わったらしく、近くから、或いは遠くから駆け付けた一族郎党・親類縁者、この町の友人たちも、教会の外に出てきた。子どももいる。

 小さいけれどオシャレな教会の建物、美しい広場の石畳、ちょっとよそ行きの服を着た人々の談笑、空は晴れて、午後の日はやや傾き、絵になる光景だった。

  (結婚式から出てきた人々)

        ★

 夜、食事の後、もう一度広場にやってくると、午後とは少し違った物語の世界があった。

 (ライトアップされたサン・ジョアン教会)

 鐘楼は一層メルヘンチックで、サン・ジョアン教会の扉のフランボワイヤン様式の装飾は、ライトアップされて一層シックに見えた。

       ( 鐘楼 )

  ( サン・ジョアン教会の扉 )

 広場の向こうには、暗い丘の上に、キリスト修道院の城塞もライトアップされていた。

   ( 丘の上のキリスト修道院 )

  このポルトガルの旅でいくつかの修道院を見てきたが、ポルトガルの修道院というのは、かつて見て回ったフランスのロマネスクの修道院と違って、すべて、戦う騎士団の城塞として建てられた、騎士団の修道院だった。

 その違いが、歴史というものだと……旅をしながら気づいた。

  

 

 

 

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サグレスからトマールへ列車の旅… ユーラシア大陸の最西端ポルトガルへの旅12

2017年02月03日 | 西欧旅行……ポルトガル紀行

   (トマールのキリスト教修道院の城壁)

 トマールは、大西洋側から内陸部に入った小さな町だ。この町を有名にしているのは、町を見下ろす丘に建つ「トマールのキリスト教修道院」である。世界遺産。

 12世紀、まだ、リスボンがイスラム勢の手中にあったころ、イスラム勢力と激しく戦っていたポルトガルの初代の王・アフォンソ1世は、サンタレンの戦いの勝利に貢献したテンプル騎士団に領地を与えた。

 テンプル騎士団は、そこに要塞兼ねた修道院「キリスト教修道院」を建て、以後、ここを本拠としてイスラム勢と戦った。

 14世紀、テンプル騎士団は、当時のフランス王の陰険な謀略によって、本部のあったフランスをはじめ、各国の支部組織が弾圧・粛清され、壊滅する。しかし、ポルトガルでは、数年後にキリスト騎士団が創設されて、テンプル騎士団ポルトガル支部の莫大な財産を受け継がせた。

 エンリケ航海王子は、サグレスに航海学校を開設した4年後の1420年に、キリスト騎士団の団長に任命され、生涯、その地位にあった。ゆえに、彼はサグレスにいないときには、このトマールのキリスト教修道院を住まいとした。

 実は、世界で初めて大航海時代を切り開いたエンリケ航海王子の大事業の財源は、貧しいポルトガル王室の金庫から出たものではない。キリスト教騎士団がテンプル騎士団から受け継いだ莫大な財産から出ていたのである。

 つまり、ポルトガルの大航海時代は、エンリケ王子という人を得て、キリスト教騎士団の事業として展開されていったのである。

 …… では、そもそも「騎士団」とは何か、と、改めて調べ、調べているうちに、聖ヨハネ騎士団が活躍する塩野七生の『ロードス島攻防記』のことを思い出し、ページをめくっていたらついつい面白くなって再読。あげくの果てに、ロードス島に行ってみたくなって、あれこれと調べているうちに、すっかりブログの方がお留守になってしまった。この2週間ほど、心が、ポルトガルから、東地中海のロードス島へと、ふわふわ漂っていた。

 改めて、気を引き締めて、執筆を再開します

 まだ、サグレス岬にいます。

     ★   ★   ★

 10月1日 

 「明日は早いから」と遠慮していたのに、サグレスの小さなホテルは朝食を用意してくれていた。朝食はいつもちゃんと食べる習慣だから、ありがたかった。

 6時40分、スーツケースを持ってホテルの外に出て、昨日のネットタクシーを待つ。

 まだ夜は明けていない。海の音はここまで聞こえてこないが、近くに大西洋の気配を感じる。

 ずいぶん長く思えたが、5分遅れで、マダムの運転する迎えのベンツがやって来た。ラゴス発の列車に乗り遅れたら、今日の予定が根本的にくるってしまうので、心配した。何しろ、大陸の果てからもう一方の果てへ、たまたまネットでつながっただけの関係だから。

 車の中で、窓の外が明るくなっていった。

         ★

< 「市民」として >

 7時48分始発の鈍行列車が入ってきた。

 リスボンまでは昨日の逆コースで、Tunesまで各駅停車で行き、そこから特急に乗り替える。

 プラットホームには、地元の通勤客と思われる人たちに混じって、海外旅行用の大きなスーツケースを持った旅行者たちもいる。

 私の前を、ヨーロッパのどこかの国から旅してきたのだろう、女子大生と思われる二十歳ぐらいの二人づれの女性が、大きなスーツケースを持ち上げて、列車に乗った。後に続いて、列車のステップに足をかけたとき、驚いたことに、先に上がった女性の一人が、自分のスーツケースを友人に預け、列車の床にズボンの膝をついて、私のスーツケースを上から引っ張り上げようとしてくれたのだ。

 とても綺麗なお嬢さんだった。「ありがとう。大丈夫です」と言って、自分で持って上がった。

 少しばかりのショックと感動があった。

 ヨーロッパの駅のプラットホームは、かなり低い。線路の面から30~50センチぐらいしかないだろう。だから、ホームから線路に「落ちる」というような不安感は全くない。線路に降りるのは簡単だ (降りてはいけないが)。

 その分、入ってきた列車のデッキは高い。海外旅行用の大きなスーツケースを持って、狭く高いステップを上がるのは、結構大変なのである。それも、年齢とともに。

 それにしても、自分がこういうお嬢さんにいたわられるようになったということが、ちょっとショックだった。

 だが、それにもまして、ヨーロッパの若者の、こういう何気ないふるまい方に、感心した。

 日本人の民度は高い。人に迷惑をかけない。人の心を慮ることができる。

 だが、日本人は、見ず知らずの他者に対して、このように躊躇なく、かつ、当たり前のことのように、さっと手を差し伸べることはしない。

 身内(家族や学校や会社や会社の顧客)の「外」の人間に対しては、概して冷淡である。

 日本流でいえば、私は、このお嬢さんたちの「外」の人間である。にもかかわらず、ヨーロッパの、これは何だろう??

 騎士道精神の伝統 …… ではないだろう。騎士道精神なら、お姫様は、「してもらう」人だ。実際、このときの彼女は、旅行用のラフな姿に「身をやつして」いたが、お姫様のドレスも十分に似合う西洋の美女だった。

 多分、ヨーロッパに今も生きる市民精神の伝統ではないか、と思う。「良き家庭」に育った子女は、パブリックな場でそのようにふるまえるようしつけられている。

 実際、ヨーロッパを旅していると、今回のような列車の乗降りでも、或いは、駅の高い階段でも、大きな旅行用スーツケースを持って苦労している中高年の女性がいたら、付近の男性がひょいと手を伸ばして、階段の上まで持って上がってくれる。そういう光景は、よく見かける。

 パリの大きな道路を渡ろうとして信号待ちしていたら、前に、かなり高齢のよぼよぼのおばあちゃんがいた。ヨーロッパの横断歩道の青信号が赤になるのは早い。心配していたら、青信号になった途端、横にいた若い女性がおばあちゃんの手を取って、大勢の人波に抜かれながら、信号が赤になっても、おばあちゃんのペースで堂々と歩きぬいた。そして、横断歩道を渡り終えると、当たり前のことをしただけ、というふうに、おばあちゃんに小さく手を挙げて、別の方向へ別れて行ってしまった。

 街角で『地球の歩き方』の中の小さなマップを開いて思案していると、「何かお手伝いしましょうか?」と声をかけてくれる。振り向くと、買い物籠付きの自転車に乗った品の良いマダムが、自転車を止めて微笑んでいる。

 こういう「市民精神」について、以前にも、当ブログで触れた。私がヨーロッパの旅をしているのは、(及ばずながらではあるが)、「ヨーロッパとは何か」ということを知りたいためであり、それが大問だとすれば、小問の一つが「市民とは何か」「市民精神とは」ということである。

 以前、当ブログに書いたことではあるが、もう一度、部分的に再掲する。

         ★

西欧旅行…フランス・ゴシックの旅」の10「大聖堂はローマ文明の上に、自由は市民精神の上に」から

  フランスの大統領が「実質的な妻」と別れて、別の女性と同居した、などということが報道されても、ふつうのフランス人やパリっ子は、知らん顔だ。 各自の家の中は各自の勝手。人のプライバシーに立ち入ることは、ゲスのすること。 大統領の評価は、政治家として有能かどうかで決まる。

 こういう点において、フランス人は、見事な「個人主義」である。

 だが、フランスの個人主義は、「人に迷惑をかけなければ、何をしても勝手でしょう」 と、ただ自己中心的に生きることではない。

  杖をついた危なかしい足取りのおばあさんが、長い横断歩道を渡ろうとしている。 すると、横を歩いていた若い女性が、すぐにおばあさんの腕をとって、信号が赤になっても、おばあさんのペースでゆっくりと歩き、渡りきる。 おばあさんがお礼を言い、女性はにこっと笑って歩いて行く。 (フランスの横断歩道の信号はすぐに赤になるが、車は歩行者がいる限り発進しない)。

   街角で、東洋人の旅行者がガイドブックを広げて首をひねっている。 買い物かごを乗せた自転車のマダムがピュッと横に自転車を止めて、「何かお手伝いしましょうか?」 。 

   こうした光景は、地方の中都市だけでなく、大都会パリでも見る光景であり、 日本の社会で暮らしている者にとっては、新鮮に映る。

 日本では、誰もがもう少し自分の殻にこもって、「個人主義」で生きているように見える。

 フランスでは、各自の家の中は各自の自由、しかし、一歩家を出たら共同体の一員としての市民の自覚……、そういう精神が、まだ生きているように思う。

 つまり、市民精神の基盤の上に、自由や個人主義は成り立つ。 今もそういうDNAが残っているのが、フランスであり、そして西洋なのだと思う。

 以下、木村尚三郎 『パリ』 (文芸春秋社) から

 「ノートル・ダム大聖堂はパリのなかでも最も高い建物であり、……それより高い建物は認められなかった…。パリの建物が6階ないし7階にそろえられているのも、このためである」。 

 「ちなみに、パリ市内の建築・居住規制は、日本の都市などとは比べものにならないくらいに厳しい。一戸建て住宅は存在せず、大統領・首相以下、誰もがマンション暮しである 」。

 「パリが美しいと感じられるのは、建物による均整美だけではない。 洗濯物がベランダなどにまったく見えないからである。…… ベランダに洗濯物や絨毯を干したりすれば、美観を損ねるとして罰せられる」。

  「たとえ自分が所有する立木一本と言えども、市の許可なく勝手に切ることはできない。これも、中世以来の決まりである 」。

  「それは、パリに生まれ育った人たちにとってだけではなく、世界の誰にも美しいとされる普遍性が追求されているからである。そこに、世界都市パリの面目がある 」。

  「市民共同体の一員として、自ら積極的に公益を実現しつつ生きる、これなくして都市に生きる資格のないことを、パリは教えている 」。

  そして、辻邦生 『 言葉が輝くとき 』 (文藝春秋) から                              

  「そのとき、メトロがぱっとセーヌ川の上に出て、窓からパリの街が見えた。夕日のもとですごく美しかった。私はただたんに、美しいなという感嘆よりも、そこに、その風景を美しくしている意志があるなと感じた。ただ漠然と美しいのではなく、美しくあらしめよう、きちんとした街にしようという激しい秩序への意図があり、さらにそれを実現する営みがある、これがつまりヨーロッパなのだと思った。ここから、私とヨーロッパとの最初の出会いが始まったと思います」

  (セーヌ川のサン・ルイ島付近)

         ★

「西欧旅行 … フランス・ロマネスクの旅」の5「日本のロマンティシズムと永世中立国スイスのリアリズム」から。

 旅行に出る前、にわか勉強で読んだ本の中に、犬養道子『ヨーロッパの心』 (岩波新書)があった。そのなかのスイスの章には、このようなことが書かれていた。

 「九州ほどの山岳国。……22の万年雪の大きな峠、31の小さな峠。無数の非情な谷。… 見た目は緑で美しいが、実は何も産しない痩地草原地帯 (アルプ) にばらまかれた3072の共同体 (ドイツ語圏でゲマインデ、フランス語圏でコンミューン)。例えば、我が家から2キロ先のジュネーブ(市)は、38のコンミューンから成っている。一応、ジュネーブ圏内コンミューンゆえ、住人はジュネーブ人と呼ばれるが…… 」。

 「ジュネーブ市民」という市民はいない。いるのは38の各コンミューンに所属する市民。

 「万年雪の峠」や「非情な谷」に閉ざされて生きてきたスイスでは、「共同体」を作って助け合い、自己完結的に生きていかなければ生きられなかった。各家庭の中は各自の勝手(個人主義)。しかし、一歩家を出れば、そこには共同体があり、生きるために各自がその一員として責任を果たし、助け合う。

 こうして、「スイス人」の自主自立の精神、市民精神が育った。

※ 菅直人の言う西欧型「市民」── 政党や労働組合などの組織に属さず、個人として、反体制、反権力で行動する人、という「市民」イメージとは、かなりかけ離れている。

         ★

「西欧旅行…アドリア海紀行」の1「ヴェネツィアの海へ」から。

 その昔、10世紀の終わりごろから16、17世紀まで、アドリア海は「ヴェネツィアの海」であった。ヴェネツィアの商船や軍船が行き交ったアドリア海を自分の目で見たかったということである。海は海だが、そこには目に見えぬ物語がある。

 なぜヴェネツィアにこだわるのかと言えば、西欧史の中で、ヴェネツィアの歴史がいちばん好きだからである。

 イギリスやフランスやオーストリアなどのような王・貴族と農民という一方的な支配・被支配の関係によって成り立つ封建国家でもなく、フィレンツェのように一見、民主的に見えるが、市民同士の利己がぶつかり合い、絶えず政変・クーデターが起きる内紛の都市国家でもなく、ヴェネツィア800年の歴史には、市民精神(共同体精神)と、時代をタフに乗り切るリアリズム精神が貫ぬいているように思える。      

 (再掲は以上)

         ★

 市民精神は、共同体の延長としての祖国への愛につながっていく。

 ヴェネツィアは都市国家だった。人口20万人足らずの、領土というほどの領土を持たない小国が、通商国家として、大国の横暴に抗して生きていくためにとった政策は、一言で言えば、徹底した「チーム・ヴェネツィア」作戦だった。市民のロイヤリティの高さが、800年の歴史を支えたと言える。 

 3000の自立心の高い共同体から成るスイスは、永世中立国を宣言した。だが、それは美しいだけの宣言ではない。同時に、国民皆兵制度に立ち、精度の高い防衛能力を保持し、侵略国に対しては国土を焦土と化しても戦うこと、仮に侵略国によって全土を制圧されても、亡命政府を樹立し、絶対に降伏することはない、という宣言もしたのである。それは、現在の国民のことだけを考えてのことではない(「敵が攻めてきたら … 、ぼくは逃げる」)。これまでスイスをつくりあげてきた祖先たちに報い、これからこの国を引き継ぐ子や孫のことを考えての宣言であった。

         ★

閑話

 先日、NHK・BSで放映されたドキュメンタリー「激動の世界をゆく/バルト三国 ── ロシアとヨーロッパのはざま/小国のアイデンティティ」を見た。

 ベルリンの壁が崩壊したとき、弱小国のバルト3国は、数百万の人々が手と手をつなぎ、ソ連に向けて「人間の鎖」を作って、静かに独立を訴えた。その人間の列は、バルト3国の大地を貫く1本の線となって、延々と延び、今、その映像を見ても、感動する。

 だが、バルト3国の人々は、今、不安に駆られ、緊張を強いられている。ウクライナ問題のさ中、ロシアは電光石火のごとく、クリミアを併合した。大国ロシアに隣接する小国のバルト3国の立ち位置は、クリミアと同じなのだ。ひとひねりでつぶされてしまう。

 また、国を失うかもしれない、という恐怖感を、どれだけの日本人が共感的に理解できるだろう。

 弱小国バルト3国の軍事力は弱い。

 NATO軍はいる。NATO軍の存在がロシアに対する抑止力になっている。だが、NATO軍といっても、ヨーロッパの各国からの寄せ集めの軍隊で、数か月赴任したら交代する軍隊である。

 さらに、人々を不安に陥れているのはトランプ大統領の登場である。NATO軍の中心であるアメリカは、アメリカ・ファーストの立場からプーチンと取引し、我々を見捨てるかもしれない。

 最近、志願兵制を始めた。銀行を辞めて志願したある若者は言う。「自分たちが本気で自分の国を守ろうとしなかったら、どうして外国の軍隊が命を懸けて、この国を守ってくれるだろう??」。

 敗戦直後、大陸にいた何十万という日本人がシベリアに抑留され、凍りつく寒さと飢えの中、強制労働をさせられて、多くの人々が望郷の思いを抱きながら、死んでいっだ。同じことがバルト3国でもあった。反ソ連の活動をした人の家族が、家族ぐるみでシベリアに連れて行かれ、強制労働をさせられ、倒れ、凍土に葬られた。

 ある老夫婦は、そのようにして50年間をシベリアで生き、ソ連が崩壊してバルト3国が独立したとき、やっと引き上げてくることができた。

 老いた夫はNHKのニュースキャスターに向かって言った。「どうか、記録してほしい。私の父は、ラトビアの土と枯れ葉の下に葬ってほしい、と言って、彼の地で死んだ」。

 また、老いた妻は、ニュースキャスターが、「最後の質問ですが、ラトビアの若い人たちに何か言いたいことがありますか?? 」と聞いたとき、ひとこと、「ラトビアを、愛してほしい」と答えた。

 「自分たちが本気で自分の国を守ろうとしなかったら」

 「ラトビアの土と枯れ葉の下に葬ってほしい」

 「ラトビアを、愛してほしい」

 市民精神 (共同体の精神) とは、そういうことだ。祖国を愛することである。 

      ★    ★    ★

< ただし、いろんな人間がいるのがヨーロッパ >

 TUNESで、特急に乗り換えて、リスボンへ向かう。

 日本で買った特急のチケットは、22号車の、座席は15番。

   「22号車」という車両番号を心配していた。22両も連結しているはずがない。間違えて発行されたのではないか?? 自分の座席は、あるだろうか??

   しかし、ホームに入ってきた特急は数車両しか連結していなかったが、「22号車」の表示の車両は、ちゃんとあった

 座席番号も、不思議だった。日本では、端から1、2、3 … と座席番号をうっている。ところが、ポルトガルの列車の座席番号はアトランダムなのだ。

 席について落ち着いてから、つれづれのままに、何か法則性があるのかと、見える範囲の座席番号を眺めてみたが、アトランダムであることがポルトガル鉄道の規則なのだと、考えるしかなかった。所変われば、である。ちなみに「15番」は一番うしろの座席だった。

  ( 河口に臨むリスボン )

   大都会リスボンに入り、高い所を走る列車から、一瞬、リスボンの町を撮影することができた。大西洋の河口に臨む町であることが、良くわかる写真になった。

 リスボン・オリエンテ駅では、トマールへ行く列車の発車時間まで、ちょうど1時間の待ち時間があった。

 駅構内で、あまり美味しくないサンドイッチを買って食べ、プラットホームで列車を待った。

 ベンチに座りたかったが、どこもふさがっている。

 3人掛けのベンチの一つを、若い女性が一人で占領していた。女子大生の一人旅か? 横向きに、ベンチに両足を上げ、膝小僧を抱え込むようにして、ベンチを占領している。

 端っこが少し空いていたので、あえてそこに座った。すると、両足を少し引っ込め、1人分だけ空けた。「土足の足をベンチに上げるな!!」 と言いたかったが、やめた。異国で、自らトラブルを起こしてはいけない。

 私がヨーロッパを、一人一人が市民精神をもったモラルの高い国々だと、一面的に買いかぶっていると思われたらいけないので、こういうレベルの若者もいることを書いた。

 人種、民族が入り混じって自由に移動し、「身分的な格差」もあり、日本より経済的格差が大きく、モラルの格差も大きいのが、ヨーロッパである。

         ★

 リスボンからトマールへ行くには、各駅停車しかない。だが、各駅停車の、ゆっくりとした旅も楽しい。

 窓から眺めていると、昨日、首都リスボンから南へ向かいながら眺めた景色と、今日、リスボンから北へ向かう車窓風景とは、同じ国とは思えないほどに違う。リスボンの北は、地味が豊かで、人家も多い。

 大西洋に並行して北上していた列車は、やがて東へ進路をとり、いかにも草深い田舎の風景のなかを、所々の駅で停まりながら走った。

 そして、午後3時、地方の小さな駅トマールに着いた。

         ★

 小さな町だから、若ければホテルまでスーツケースを押して歩くのだが、そうもいかず、駅前からタクシーに乗った。

 ホテルは、レプブリカ広場から延びるメインストリートにあった。

 道の正面の丘の上に、キリスト教修道院の城塞のような建物が見えた。

 

(トマールのメインストリートと丘の上のキリスト教修道院)

 

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