ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

幻のコンスタンティノープル … トルコ紀行(2) 

2018年06月27日 | 西欧旅行…トルコ紀行

    ( 車窓から : 現代のボスポラス海峡 )

< ボスポラス海峡とイスタンブール(かつてのコンスタンティノープル) >

 ボスポラス海峡 … 響きが遥かに異郷を感じさせて、旅心を誘う。

 トルコ旅行に出る前に何か読みたいと思って、夢枕獏の『シナン 上、下』(中公文庫)を読んでみた。面白く、美しい物語だった。

 シナンは、オスマン帝国最盛期のスルタンであるスレイマン大帝の時代に活躍した建築家である。

 イスタンブールの映像、或いは、写真を見たことのある人は、金角湾の向こうの旧市街の丘の上に建つスレイマニエ・ジャーミィ(トルコではモスクをジャーミィと言う)の威容が印象に残っているかもしれない。シナンが建てたモスクである。

 (金閣湾に臨む丘の上のスレイマニエ・ジャーミィ)

 西洋ではルネッサンスの時代に当たる。ミケランジェロより少し若く、この小説のなかで2人の芸術家はヴェネツィアで出会い、語り合うという設定になっている。

         ★

 本の紹介はこれぐらいにして、この『シナン』の初めの方に、ボスポラス海峡とイスタンブールについて、簡潔にして適格な説明があるので、引用する。

 「西洋と東洋という、ふたつの概念がある。

 地理的に言えば、ユーラシア大陸を西のヨーロッパと東のアジアに分けるものであり、これはそのまま、ふたつに分けられた人種的、文化的な概念である。

 西洋と東洋 ── 

    これを、地図上において、どこで線引きするということは厳密に考えるとたいへん難しい問題となってくるのだが、古来よりボスポラス海峡をもってそのラインとするのが一般的であった。

 ポスポラス海峡 ──

 北の黒海と南のマルマラ海とをつなぐ、長さ30㎞の海峡である。最も狭いところでは幅760m 

 この海峡からマルマラ海を通り、エーゲ海、さらには地中海まで抜けるラインが、西洋と東洋の境目である」。

 イスタンブール ── コンスタンティノープルは、このボスポラス海峡のヨーロッパ側を中心にして、アジア側にもまたがって発展してきた都市である。

 古代シルクロードの東の端に、人口100万人の都長安があるなら、西への入口にこのコンスタンチノープルがあったのである。

 東と西の文化、人種、宗教、文物がこの街で混然として一体になっていた。

 混沌(カオス)の都市である」。

  ( エジプシャンバザール )

         ★

15世紀のコンスタンティノープル

   塩野七生の3部作『コンスタンティノープルの陥落』『ロードス島攻防記』『レパントの海戦』(新潮文庫)は、膨張するオスマン帝国と、都市国家ヴェネツィアをはじめとする西欧世界との「激突」を描いた壮大な歴史ロマンである。

 3部作のうち、『シナン』と同時代のスレイマン大帝の時代に当たるのは、『ロードス島攻防記』。

 1453年のコンスタンティノープルの陥落(ビザンチン帝国の滅亡)の様子を描いたのは、言うまでもなく第1作目の『コンスタンティノープルの陥落』である。

 文庫本で252頁の中編であるが、私がトルコに行ってみたいと強く思うようになったのは、この本を読んでからである。行きたかったのは、トルコではなく、イスタンブール。イスタンブールではなく、本当は幻のコンスタンティノープルである。

 以下、塩野七生の同著から。

 「6世紀から10世紀にかけてのビザンチン帝国の全盛時代、コンスタンティノープルの人口は郊外を含めて、100万と言われたものである。それが、15世紀初めになると、10万いるかどうかと言われるほどに減少する」。

 「この、領土的にはトルコに囲まれ軍事的には無も同然経済的には西欧の商人国家(*ヴェネツィアやジェノバ)に支配されている15世紀のビザンチン帝国をひきいる皇帝が、偶然にも、創立者と同じ名のコンスタンティヌス11世であった。

 東ローマ帝国最後の皇帝となるこの皇帝は、しかし、滅びゆく優雅な文明を体現するかのように、名誉を尊びながらもおだやかな性質の、49歳の洗練された紳士であった」。

        ★

『あの街をください』 >

 これに対して、時のオスマン帝国のスルタンは、若干21歳の若者だった。父である先のスルタン・ムラードは、快活で、部下と交わり、宰相のカリル・パシャの政策を受入れて、無力なビザンチン帝国とコンスタンティノープルに触れず、ただその経済力を活用しようとした。その父の急死でスルタンとなったメフメットⅡ世は、何を考えているのかわからない、孤高の、しかし、おそろしく頭の良い、古代の英雄アレキサンダーやユリウス・カエサルに関心をもつ若者だった。のちに、「征服王」と呼ばれるようになる。

 ある日の夜半過ぎ、宰相のカリル・パシャは、若きスルタン・メフメット(マホメット)Ⅱ世からの呼び出しを受けた。カリルは、いよいよ地位を追われる時が来たのかもしれないと思いつつ、金貨を山のように盛った銀盆を持って参上した。以下、引用。

 「マホメッドⅡ世は、部屋着姿のまま、寝台の上に坐っていた。老宰相は、その前の床に頭をつけて深々と礼をした後、持ってきた銀盆を捧げるように前に押しやった。若いスルタンは言った。

 『これはどういう意味ですか、先生(ラーラ)

 12歳の年に父親に(一度目に)位を譲られたとき、ムラードは息子に、カリル・パシャを師と思って彼の忠告を聞くように、と言ったのである。それ以来、マホメットは、父の死後文字どおり専制君主になってからも、公式の席以外ではカリルを、『ラーラ』、先生と呼ぶのをやめなかった。

 老宰相は答えた。

 『ご主人様、深夜に高位の家臣が主人の召し出しを受けた際、なにも持たずに御前に参じてはならないのは、慣習でございます。わたしもそれに従いましたが、ここに持参したのは、本当を申せばあなた様のもの。わたしのものではございません』

 若者は、言った。

 『あなたの持つ富は、わたしにはもう必要ではない。いや、あなたの持っているよりもずっと多い富を、贈ることもできるのです。わたしがあなたから欲しいと思うものは、ただひとつ。

 あの街をください

 2人から離れて控えていたトルサン(*小姓)にも、その瞬間、老宰相の顔が蒼白になり、そのままで硬直したのが見えた。反対にマホメットの顔が、湖のように静かなのも。マホメットⅡ世が、コンスタンティノープルという言葉を口にせず、ただあっさりと、あの街、と言ったがために、かえってカリル・パシャには、若者の決意が並々でないのを悟るしかなかったのである。

 宰相カリル・パシャは、あれほどの確信を持って進めてきた彼の(ヨーロッパとの)共存共栄の政策が、音をたてて崩れていくのを感じていた」。

※「ラーラ(先生)と呼ばれた老宰相カリル・パシャは、その後、コンスタンティノープルが陥落した3日後に、突然捕らわれて牢に入れられ、メフメットⅡ世の命によって斬首刑に処せられる。「ビザンチン側に内通した罪、ということだった」。 

        ★

ルーメリ・ヒサールの建造 > 

 松谷浩尚『イスタンブールを愛した人々』(中公新書)から

 「1452年にメフメットⅡ世は、コンスタンチノープルの攻撃を開始した。

 まずボスポラス海峡ののど元を押さえることを考えた。曾祖父のバヤジットⅠ世が築いたアナドール・ヒサールの対岸に巨大な要塞を築くため、メフメットⅡ世は3000人の職人を動員し、3人の大臣を競い合わせてわずか4か月で完成させた」。

 海峡に面した台地の斜面にそびえるこの要塞は、ルーメリ・ヒサールと呼ばれる。ヒサールはトルコ語で、要塞のこと。ヨーロッパ側の要塞の意である。ボスポラス海峡の最狭部(約760m)のヨーロッパ側(しかも、ビザンチン帝国領)に要塞を築き、大砲を据え、にらみを利かせたのである。

 ヴェネツィアをはじめ西洋の商船は、突如、要塞を築き、大砲を撃つオスマン帝国のやり方を、一方的な条約違反として無視して通行した。その結果、砲撃を受け、船を沈没させられ、岸に泳ぎ着いた船員たちもみな斬殺されるという事件が起こった。

 

  ( ボスポラス海峡とルーメリ・ヒサール )

        ★

攻守双方の陣容 >

 コンスタンティヌス11世は、オスマン帝国の攻撃を指をくわえて待っていたわけではない。プライドを捨て、ローマの教皇に、ギリシャ正教はカソリックの傘下に入ってよいと頭を垂れて援助を乞うた。有力なキリスト教国には何度も使者を送って、救援を求めた。だが、西欧諸国は互いに相争うことに忙しく、援軍を送ろうとはしなかった。わずかに、都市国家に過ぎないヴェネツィアが小規模な艦隊を、ジェノヴァが500人の傭兵隊を送ってきただけであった。

 ローマ帝国において、「皇帝=エンペラー」とは、軍勢が総司令官を称賛して叫ぶときの呼称である。もともとは「絶対君主」という響きはない。もはや戦いは避けられないとなったとき、コンスタンティヌス11世は総司令官として、陸上軍の総指揮をジェノヴァから送られてきた傭兵隊の若き隊長に委ね、海軍と海側の防衛指揮をヴェネツィア艦隊の司令官に委ねた。

 この戦いに参加した西洋人(カソリック)は、ヴェネツィアの海軍やジェノヴァの傭兵隊に加え、商業活動のためにコンスタンティノープルに居住し生活の基盤がある人、或いは、商用旅行中で義侠心にかられてこの町と運命を共にすることを決意した男たち、全て合わせて2千人だった。

 これに対して、ビザンチン帝国内の皇帝軍と住民の志願兵(ギリシャ正教)は、合わせて5千人。

 結局、守備する側の兵力は7千人である。

 7千人がたて籠もる町を包囲したのは、16万のトルコ軍だった。

 この時代、西洋の強国とされた国王でも、10万の兵を動員できる者はいなかった。

 守備する側の頼みは、地中海世界で最も堅固と言われた、この町を囲むローマ時代の城壁だった。

 半島のように海に突き出たコンステンティノーブルは、南から東をマルマラ海からボスポラス海峡、北を金角湾に囲まれ、陸続きは西側だけだった。

 そのマルマラ海に沿って9キロ、金角湾に沿っても5.5キロの高い城壁があり、西の陸側には6.5キロに渡って二重の城壁と塔と堀があって、城壁の全長は21キロに及んだ。

 マルマラ海と金角湾を結ぶ陸側の6.5キロの城壁は、「テオドシウスの城壁」と呼ばれ、この時から千年も前の5世紀に築かれたものである。内壁の厚さは5m、高さは12m。55m間隔に、18~20mの高さの塔が96もそびえていた。さらにその外側に外壁があり、その厚さは2m、高さは8.5mで、内壁の塔と交互になるように96の塔があった。さらにその外側には、深さ10m、幅20mの堀がめぐらされている。

 ( 金角湾側に残る城壁の跡 )

 だがしかし、難攻不落と言われた城壁も、わずか7千の兵士で守らねばならないとしたら、どうであろう。7千の兵の相当数を陸側の防備に配置するにしても、その長さは6.5キロもある。かつてフン族の来襲をも撃退した堅固な城壁は、100万の人口の時代ならともかく、この兵力では長すぎた。

 その町を、16万のトルコの軍勢が完全に包囲したのである。

数か月に渡る攻防戦 > 

 予想どおり、主戦場は6.5キロの陸側になった。陸側の高い城壁から見下ろすと、城壁の外は地平線まで、見渡す限りの敵の天幕であった。

 少数とはいえ、ヴェネツィアやジェノヴァの海軍が守る海側からの攻撃を、メフメットⅡ世は避けた。オスマントルコはもともと遊牧民である。海の戦いには慣れない。実際、多くの軍船も建造し、一度はマルマラ海側から攻撃を仕掛けたが、双方の将兵が高台から観戦するなか、トルコ艦隊は少数のヴェネツィア・ジェノヴァ艦隊に、みじめに翻弄されたのである。

      ( マルマラ海 )

 メフメットⅡ世は、この戦争のために巨大な大砲を造らせていた。(これ以後の歴史で、巨砲はオスマン帝国の代名詞になる)。守備側に大砲がないことを確かめるとすぐに、陸側の包囲を一気に縮めた。以後、連日、連夜、大砲の砲弾が、唸りをあげながら、高くそびえる城壁の石壁を、一方的に少しずつ壊していった。

 いくつもの方面から、堀と二重の城壁の下を通って城壁内に入るトンネルが掘られた。守備する側も、これを一つ一つ計測して、トンネルを掘り、爆薬を仕かけ、潰していった。

 トルコに征服された被征服民の軍隊が動員され、雲霞の如く高い城壁に取りついた。縄梯子をかけ、壁をよじ登る兵士の頭上から、銃や矢が放たれ、石が落とされる。しかも、彼らの背後からは、遠慮なく、城壁を壊すための砲弾が撃ち込まれた。逃げかえることはできなかった。後ろにはトルコのイェニチェリ軍団の兵が並び、逃げ帰った者を斬り殺した。

 もちろん、城壁の弱い所をねらって、集中して、攻撃がかけられた。守備側はそこに兵力を全面集中することはできなかった。どこを戦場にするかのイニシアチブは攻撃側が決定する。守備側は簡単に持ち場を離れることはできない。

 何度も波状攻撃がかけられた。おびただしい死傷者を残しながらも、敵は交替で攻撃してくる。一方、少数の守備側は交替するわけにもいかず、不眠不休になる。不眠不休にさせるのが、メフメットⅡ世の作戦であった。堅固なコンスタンティノープルを落とそうと決意した以上、どれほどの犠牲があろうとも、人海戦術で突撃命令を繰り返し、守備側をじりじりと消耗させる。結局、これしかないことを、この若者は冷静に判断していたのである。

 攻防戦は、数か月に及んだ。

        ★

ビザンチン帝国最後の朝 >

 1453年5月29日。ビザンチン帝国最後の日である。

 「夜半を、1時間ばかりまわった時刻だった。闇の中に長く赤い尾を引いて、のろしが3発あがったのが合図だった。16万の全軍を投入しての総攻撃がはじまったのである。… 市内の教会から、警鐘がけたたましく鳴りはじめた」。

 「総攻撃は、まず、不正規軍団の兵たちによって、火ぶたが切っておとされた。5万の兵が、城壁全体にわたって殺到する。… 砲撃は、この間もやまなかった。砲弾は、トルコの兵たちまで吹きとばす」。

 2時間後、不正規軍を退却させると、守備側に休む余裕を与えず、「赤いトルコ帽に白い軍服で統一した、5万を越える正規の軍団兵」が、「城壁全域に攻撃をかけると見せかけ、それによって守備兵を釘づけにしておきながら、メソティキオン城壁に戦いをいどんできた」。

 「月がたえず雲間にかくれる薄明りの中」、攻撃の第3波は、「白服に緑の帯、白い帽子」、半月刀をかかげた「スルタンが最も信頼するイェニチェリ軍団の1万5千」だった。「2キロばかりのメソティキオン城壁に、1万5千の精鋭が投入されたのだ」。

 「すさまじい白兵戦は、1時間もつづいた。勇猛で知られ、トルコ陸軍の背骨と評判の高いイェニチェリ軍団も、さすがにその間、新しい戦果をあげることはできなかった。敵も味方も入り混じって闘うかたまりが、メソティキオン城壁一帯に、渦巻きのようにいくつかできてはまた散った。それを、陽の出直前の朝の光が、はじめのうちはぼんやりと、やがて少しずつはっきりと浮かびあがらせる、激闘は、すでに5時間におよぼうとしていた」。

 きっかけは、それまで戦いの中心となっていた若いジェノヴァの傭兵隊長が、至近距離から首筋と太ももに矢を受けたことである。重症だった。この絶望的な戦いの中にあって、勇猛果敢に指揮していたこの若者は、あふれ出る自らの血を見て死の恐怖に襲われたのか、踏みとどまってほしいという皇帝の懇願にもかかわらず、部下たちに、自分を担いで逃げるよう命じたのである。そこから、総崩れになっていった。

 「城門の一つが崩壊し、そこから多量のトルコ兵がなだれこんでからは、形勢は、完全に絶望的だった。それでも闘っていたヴェネツィア人は、塔の上にひるがえっていた帝国旗とヴェネツィア旗が落下し、代わって、赤字に白の半月の旗がひるがえったのを見た時、すべてが終わったと思うしかなかった。トレヴィザン(ヴェネツィア艦隊司令官)は、大声で兵たちに、金角湾への撤退を命じた」。 

※ この塩野の作品は、義侠心からこの戦いに参加することを選択して戦い、かろうじて生き残ることができた3人の西洋の男たちの記録、特に、ヴェネツィア艦隊の軍医ニコロの精密な記録に拠って書かれている。

 ビザンチン帝国の最後の皇帝コンスタンティヌス11世は …… 自らの衣に付けられた鷲の紋章を引きちぎり、皇帝とわかる衣服を全て捨て、白刃を翻し、圧倒的な敵兵の渦の中に躍り込んだという。続いたのは、もはやわずかに2人の騎士に過ぎなかった …。

        ★

旅の動機 … 遥かなるボスポラス海峡 >

 引用が長くなったが、これが幻のコンスタンティノープルと遥かなるボスポラス海峡を見たいと思うようになった動機である。

 それはどうやら私だけではない。

 最初、ツアーに入らず、個人旅行も検討していたとき、情報を求めて、ネットでイスタンブール旅行の体験記を探した。すると、そのなかに、塩野七生の『コンスタンティノーブルの陥落』を読んで、行ってきましたという人たちもいた。それも、意外にも、女性の2、3人づれとか …。現代日本の「歴女」は、織田信長や、坂本龍馬や、土方歳三ファンばかりではないらしい。

 2015年の春、旅行社のトルコツアーに申し込んだが、情勢が悪くなってとりやめた。代わりに行ったのが、「陽春のブルゴーニュ・ロマネスクの旅」である。それはそれで、印象に残るいい旅だった。

 そのころから、旅行社のツアーから、トルコという行き先が消えていった。

 ネットに、トルコのテロ事件を調べて一覧表にしている人がいて、それによると2015年~16年の2年間に、イスタンブールという町だけに限定しても、起こったテロ事件は13件にのぼった。その頻度はパリやロンドンなどの比ではない。

 テロがやっと収まってきた2017年から、そろそろと、各社のトルコツアーが復活しはじめた。ただし、それでも、今も、イスタンブールは駆け足で観光して、カッパドキアなどに重点が置かれている。

 12日間というちょっと長いツアーに申し込んだ。うんざりするほど長いと思ったが、正直、パムッカレの石灰棚やカッパドキアの奇岩絶景には興味がなく、とにかくイスタンブールに正味2日間は滞在・観光するツアーを選んだ。もう一度訪ねることは、まずないと思うので。

    ★   ★   ★

 18

   「アドリア海紀行」の11編 (2015年11月~16年2月記) をメンテナンスしました。

 枠組をスマホ仕様にし、また、写真をリフレッシュしました。

 この旅は、アドリア海の女王と言われた海洋都市国家ヴェネツィアの商船が行き交った海を見たくてツアーに参加しました。

 実際、良港にもあり、海賊の隠れ家にもなる、島や半島だらけの紺碧のアドリア海に感動しました。

 しかし、旧ユーゴスラビアが四分五裂し、血を血で洗うような民族紛争となった1991年からのこの地域の現代史について、旅を通して、或いは、ブログを書きながら、考えさせられる旅になりました。

例えば、10番目の「サラエヴォに思う」は、今、読み返してみても、よく書けていると思います。お暇なときに、開いてみてください。 

 

 

 

 

 

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歴史の中の幻影 … トルコ紀行(1)

2018年06月19日 | 西欧旅行…トルコ紀行

 多くの興隆と、多くの滅亡があった、遥かなる人間の歴史。

 その中でも、3つの都(或いは国)の陥落・滅亡の姿が、鮮烈なイメージとして、私の想念のなかに形成されている。それは叙事詩であり、貫くのは悲壮美。

 その一つ目はトロイ城の陥落。

 二つ目は百済国の滅亡。

 そして、コンスタンチノープルの陥落、である。

        ★

トロイのヘレンの話 … ホメロスの叙事詩「イーリアス」 >

 「トロイのヘレン」の話は、中学3年の時、英語の先生から聴いた。貫禄十分、ふだんの授業ではニコリともしない怖い先生だった。教科書が最後まで終わったということで、学年の終わりの授業時間を4時間分くらい割いたであろうか?

 気の遠くなるような遠い時代の、美女や英雄が活躍するエキゾチックな話に、クラスの秀才も腕白少年も胸をときめかせて聴いたのである。

 ギリシャの神々のこと。3女神の争い。絶世の美女ヘレンとトロイの王子パリスの恋。勇者アキレスとヘクトールの一騎打ち。息子をなくした父王の嘆きとアキレスの情など、そのエピソードの一つ一つに熱中し、10年もの長い攻城戦の後、最後は(極めて卑怯な手である)木馬に兵を忍ばせるという詭計によって、あっけなくトロイ城が陥落したとき、私たちは深い落胆のため息をついたものである。

 生徒たちの反応にすっかり機嫌を良くしたのか、先生はトロイ戦争の後日譚の「オデッセウス」の話まで、語ってくれた。

 それから2年後、高校2年の時、『トロイのヘレン』という映画がきた。進学した高校はばらばらだったが、おそらくクラスの多くがそれぞれに同じ映画館に行ったのはまちがいない。

 ヘレンには何千人の中から抜擢されたというロッサナ・ポデスタという女優が扮していた。確かに美女だと思ったが、物足りなかった。女神アフロディテ或いはヴィーナスの化身のような美女は、もっと美しいはずだと思った。

 映像化されたものよりも先生の話の方が、登場人物たちの輪郭も鮮明で、もっと生き生きと躍動していた。言葉による想像力とは不思議なものである。 

 英語の授業はまったく覚えていないのに、この先生の「トロイのヘレン」の話は鮮明に覚えている。そして、中学生にそのような教養を与えてくれた先生に、今も畏敬の念を抱いている。

 教育とは、不思議なものである。

             ( トロイの遺跡とエーゲ海 )

※ トロイ城を攻めるためにおびただしい数のギリシャの軍船が浮かんだ古代の海は、もっと城跡に近かったという。

        ★

古代日本史上最大の危機 ── 百済の滅亡と白村江の大敗 >

 日本を揺るがしたこの歴史的事件については、当ブログ『玄界灘の旅』の中の第6「水城に見る古代日本と現代の東アジア情勢」の中に、「古代日本史上最大の危機…百済滅亡と白村江の大敗」と題して書いた。 

 西暦660年、膨張する唐は新羅の要請に応じる形で、水陸13万の兵を出し、百済攻撃に乗り出した。

 「百済の防衛軍は、唐・新羅連合軍のためにほとんど一撃でくずれた」(引用は司馬遼太郎『韓の国紀行』)。

   百済の義慈王は唐の捕虜になり、唐土へ連れ去られる。

 唐の主力が高句麗に向かうと、百済の遺民たちは百済国再興のために兵をあげ、日本に援軍を乞うた。百済と同盟関係にあった日本には、義慈王の王子豊璋がいた。彼らは豊璋の新王としての帰還も乞うた。

 大化の政変からまだ15年。新羅が唐に接近していたことは聞いていたが、事態は急転したのだ。多年、交流を深め、揚子江流域の南朝仏教文化をわが国に伝えてくれた (→飛鳥文化)百済が、焦土と化したのである。そして… 次はわが国かもしれない。

 662年、まず新百済王・豊璋に5千余の兵を付けて送り返し、翌年には、老いた女帝・斉明天皇が自ら筑紫に出向くという軍事行動に乗り出して、2万7千余の兵を新たに半島に送り出した。当時の日本の人口を考えれば、国を挙げての大動員であった。

 百済独立軍と日本軍の戦いは、唐軍が高句麗を攻めていた間隙を衝いて、大いにふるった。

 だが、百済独立軍に内紛が起こり、士気は一気に衰える。

 独立軍の内紛を知らず、半島の南部で新羅軍と戦っていた日本軍1万が、百済軍の立て籠もる周留城救援のため、船で白江に向かった。一方、唐・新羅軍も周留城を包囲し、唐の水軍は白江に集結した。

 日本軍が白江に着いたとき、唐の水軍は待ち構えていた。海戦は、日本軍が到着した日と翌日の2日間戦われた。

 唐の巨大な軍船に対して、日本の船は歩兵や武器の輸送用に動員した小型船で、しかも、水軍としての戦い方を知らなかった。

 唐側の記録にいわく、「四たび戦って勝ち、その (日本軍の) 舟四百艘を焼く。煙と炎、天にみなぎり、海水赤し」。

  『日本書紀』 にいわく、「ときの間に官軍敗積し、水に赴きて溺死する者多し。艪舳(ヘトモ) めぐらすを得ず」。

 陸上においても、百済独立軍が立て籠もる周留城は落ち、戦いは日本軍・百済独立軍の惨敗に終わった。

 白村江の戦場をかろうじて離脱できた日本水軍は、半島の南部に退いて、各地を転戦中の日本軍を集め、亡命を希望する百済人を乗せられるだけ乗せて、日本に帰還した。

 さらに、当時の天智政権は国をあげて、かれら亡国の士民を受け入れるべく国土を解放した。

 「百済の亡国のあと、おそらく万をもって数える百済人たちが日本に移ってきたであろう」。

 百済人ばかりではない。やがて大唐の攻撃を受けるようになった新羅からも亡命者はくるようになった。

 優れた仏教文化国家であった百済の炎上と亡国のイメージは、トロイの落城や、コンスタンチノーブルの陥落などと並んで、胸に迫るものがある。白村江における日本軍の壊滅的敗北もまた、日本古代史の悲劇的な1ページであった。

    ( 広大な大宰府庁舎の跡 )

         ★

最後の熟柿が落ちるような西ローマ帝国の滅亡 >

 西洋の歴史を古代、中世、近世 … と分けるなら、古代の終わりは、ふつう、便宜上と断りながらも476年の西ローマ帝国の滅亡をもってし、中世の終わりは、オスマン帝国に包囲された東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の首都コンスタンティノープルが陥落した1453年とする。

 476年の西ローマ帝国の滅亡は、一つだけ残った熟柿がぽとんと地に落ちるような終わり方だった。そこに悲壮美はない。

 前年、皇帝位に就いた若きロムルス・アウグストゥルスだが、既に西ローマ帝国皇帝としての力は何もなかった。まもなく東ゴード族の傭兵隊長のクーデターによって退位させられる。父の先帝は殺されたが、彼は命を奪われることはなく、家族とともにカンパーニャに送られ、恩給を支給されて余生を送った。クーデターを起こしたオドアケルは、東ローマ帝国皇帝に西ローマ帝国皇帝位を返上し、イタリア半島を統治する許可を得る。以後、西ローマ帝国皇帝は復活されることはなかったから、歴史の上では、「476年、西ローマ帝国滅亡」となった。 

 なお、東ローマ帝国皇帝は、その後、東ゴード族の族長・テオドリックにオドアケル征討を命じ、征討に成功したテオドリックがイタリア半島に東ゴード王国をつくった。このテオドリック王も、元皇帝のロムルス・アウグストゥルスに恩給を支給し続けたという。元皇帝には娘がおり、その血筋はその後もずっとたどることができるそうだ。動乱の時代に、平和で幸せな生涯だったと言えるのかもしれない。

 もっとも、ローマの皇帝は、中国の皇帝や、ロシアのツァーリや、オスマン帝国のスルタンと違って、もともと血筋で受け継ぐことを原則としていない。基本は市民と元老院の支持によって皇帝となる。ローマ帝国の末期には、皇帝はいつも異民族との戦いの前線にいる軍人皇帝だったから、兵士たちの支持によって新皇帝は決まった。

 東ゴード王国は、後に東ローマ帝国皇帝・ユスティニアヌスによって滅ぼされた。アヤ・ソフィアを造らせた大帝である。

 ユスティニアヌスの時代に、東ローマ帝国は大きく領土を回復したが、それも一時的で、やがて西ヨーロッパはフランク族のつくったフランク王国の下にゆるやかな再統一をし、その後は分裂して互いに戦争ばかりしながらも、東ローマ(ビザンチン)帝国とは別の中世ヨーロッパを形成していく。

  ( 古代ローマの中心・フォロロマーナ )

  

 

 

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