ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

旅の初めは羅漢寺へ … 秋の国東半島石仏を巡る旅1

2014年11月27日 | 国内旅行…国東半島の旅

      ( 羅漢寺からの眺望 )

 11月10日~12日、大分県の国東半島へ旅行した。

  「静かな街づくりを始めたのに、観光客にたくさん来られたら困る」。

 これは、臼杵市長だった後藤國利さんの言葉。たまたまこの旅に出る前日の、讀賣新聞11月9日号の日曜版、「名言巡礼」に紹介されていた。臼杵の町で映画を撮らしてほしいと申し出た映画監督に、当時の市長として答えた言葉だ。

 こういう町づくりもあるのかと、思わず考え込まされる言葉である。

 いろんな町づくりがあっていい。安倍首相が地方創生を打ち出した。女性の活躍できる社会づくりとともに、長く閉塞状況にあった日本社会に、ぽっと希望の灯が灯った感じがする。しかも、急速に少子化に向かう日本にとって、もう待ったなしの改革だ。ぜひ、本格的にわが町づくりを。 

 高度経済成長からバブルの時代、日本中のローカルな町に、「〇〇銀座」という、あまり上質とは言えない「商店街」ができた。どの町も、ミニ東京をつくろうとした。今にして思えばあの頃、すでに「駅前シャッター街」への道を着実に歩いていたのだ。

 高度経済成長の時代とは、スクラップ&ビルドの「使い捨て文化」が席巻していく時代だった。古い、日本的な家並みは破壊され、安っぽく、けばけばしい街並みが日本国中を席巻した。「家なんて、30年たったらスクラップ。また新しく建て直したらいい。給料は倍増するんだから」。そういう時代だった。

 そういう町づくりでは精神も荒廃する。歴史や文化や伝統を捨て、自利・自我ばかり大きくしていけば、根っこはなくなり、日本人の心は宙を漂い、浮遊する。

 古いものを大切に残して、簡単には変わらない、芯のある町づくりをする。街並みも、町に残る文化も、そういう町にこそある人情も … 大切に残していく、そういう地域創生もあっていい。

 それぞれの町でよく考えて、専門家も呼んできて (だれを呼ぶかにその町の見識が表れる)、かつてのように日本国中が東京・銀座をモデルにするというようなことにならないよう、或いは、30年でスクラップしなくてよいように、地元の若者に媚びるのではなく、若者に「ふるさと意識」をしっかり植えつける、そういう町づくりを進めてほしい。

     ★   ★   ★

 国東半島の山々と谷々。そこここに残る神と仏の信仰の跡。それらを今も大切に守っている地域の人々。臼杵(ウスキ)や杵築(キツキ)という小さな城下町の街並みも含めて、すべてがひっそりと静かで、風情があった。

 ここにも、「世界遺産に」という運動があるようだが、こういう日本を残す運動なら、ぜひ応援したい。

         ★

[ 羅漢寺へ ]

 大分空港でレンタカーを借りた。列車はなく、バスの便も良いとはいえない草深い山里の神や仏を訪ねるには、車は必需品だ。

 まず目指したのは羅漢寺。空港から高速道路を経て1時間半。

 レンタルの車と、慣れない高速道路 (1車線道路)。地元車に追い上げられて緊張した。

 羅漢寺の所在地は、大分県中津市耶馬渓町。名勝・耶馬渓の一角だから、高速道路を降りると、あちこちに岩山が屹立した山と田野の中を行く。すぐ近くに、「青の洞門」も。

 それでも、中津市の中だ。

 中津は福沢諭吉の出た九州の小藩と頭の隅にあったが、最近、大河ドラマですっかり有名になった。黒田如水が秀吉から12万石を与えられ、中津城を築城した。堀に海水が引き込まれた水城である。関ヶ原のあと、黒田家は筑前52万石に転封される。そのあと、細川忠興がやって来て、中津城をさらに完成した。細川家が熊本に転封されたあとは、小笠原家、奥平家と、徳川譜代の小藩に引き継がれて幕末を迎える。

 しかし、今回、中津城下はパス。

 羅漢寺は、羅漢山の中腹にある。曹洞宗の寺院で、国内の羅漢寺の総本山だそうだ。

 パーキングから急峻な参道を歩くこと20分ということだが、足の弱い人や老人はリフトに乗った方がよいとあるので、寺の収益のためにも?リフトで上がることにした。

 リフトを降りた先にある山門も、その奥の本堂も、岩壁の洞窟に嵌め込まれたように建てられている。

 

   ( 山 門 )

 そういう岩の洞窟に、全部で3700体もの石仏があるそうだ。

   ( 岩壁の石仏 )                              

 山門をくぐると、写真撮影禁止の掲示。

 石仏の保護のためではなく、祈りの心をもちなさい、ということのようだ。うーん? 写真の心も祈りの心に近いと思うのだが、まあ、いろんな人がいるのだろう。観光バスで乗り付け、大勢でワイワイガヤガヤ、観光気分で見学し、スマホで記念撮影して帰るという人も多いのだろう。従って、写真はこの3枚だけ。肝心の五百羅漢の写真もない。

                

  ( 山門のそばの千体地蔵の小屋 )

   伝説では、645年(大化の改新の年)に、インドから来た仙人が岩壁の洞窟に籠ったのが、寺の始まりという。

   1337年、臨済宗の僧侶によって羅漢寺が開かれ、石仏・五百羅漢が安置された。その後、曹洞宗になる。

 羅漢は釈迦の高弟たちで、禅宗の寺にまつられることが多いそうだ。衆生を救済する如来や菩薩の美しいお顔と違って、まさに自分が悟りをひらくためだけに必死に修業してきたむさくるしい男たちの像である。それぞれがまことに人間くさい形相をしている。五百羅漢像を一つ一つ見ていけば、親戚のおっちゃんによく似た像が必ずあるそうだ。( 続 く )

 

 

 

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