ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

コルマールそぞろ歩き……フランス・ゴシック大聖堂をめぐる旅 5

2013年12月31日 | 西欧旅行…フランス・ゴシックの旅

  ( コルマールの街 )

 ストラスブールに3泊し、一日、アルザス地方の小さな町コルマールを訪ねた。

 ドイツとの国境にあるにもかかわらず戦災に遭わなかったから、中世以来の古い街並みが残り、ドイツ風の木組みの家々、窓には花が飾られ、メルフェンチックな町として観光客に人気がある。

          ★

 今日は日曜日。ホテルからトラムに乗って、ストラスブールの国鉄 (SNCF) 駅(Gare) へ。

 トラムに乗るのも、駅で切符を買うのも、一つ一つが言葉の通じない国でのことだから、時間の余裕をもって行動する。

(ストラスブール駅構内・カフェから撮影)

 鈍行(Ter)に乗り、ゆったり座って約30分。コルマールに到着した。

 ヨーロッパの鉄道駅はたいてい町のはずれにある。

 ヨーロッパの都市の多くは、かつて城壁で囲まれていた。城壁の中は、とりあえず安心であるから、市庁舎や、いくつもの聖堂や、市(イチ)の立つ広場や、有力者の宮殿・邸宅のほかに、商工業者の木組みの家々もびっしりと並んでいた。そこへ、近代になって登場した蒸気機関車の線路や駅が、オレの居場所を、と言ってもムリというものなのだ。

 車社会になったのは、もっとあとだから、悲惨である。

 例えばパリの町の中で、自分のパーキングをもっている人などほとんどいないだろう。表通りを一歩入れば、5、6階建ての石造りの建物が並んだ狭い道は必ず一方通行で、道の片側が公共のパーキングとなっており、夜にでもなれば、街灯の下に車がびっしり、かつ整然と並んでいる。その車間はせいぜいが10センチ。車を出そうと思えば、前後の車をじりっ、じりっと押して、空間を作るしかない。洗車などだれもしない。ゆえに、家具調度などは古いものほど価値があるヨーロッパで、車は、BMWであれ、フォルクスワーゲンであれ、消耗品である。

        ★

 11月だというのに、おそろしく冷え込む。

 駅前広場から旧市街へ向かって、1本道の道路の歩道を延々と歩く。昨年、1か月おくれの12月にスペインに行ったが、もう少しは暖かかった。パリもそうだが、ここアルザス地方も、もともと寒い森の国なのだ。夏から、短い秋を経て、すぐに冬になる。太陽の出ない日のフランスは、陰鬱で、苦しい。

 それでも、旧市街に入ると、さすがにメルフェンの町だ。

 

 面白い看板もいろいろあったが、これ ↓ が、NO.ワンだ。

 昼食のため入ったレストランの定食を見て驚いた。豚の肩肉。のボリュームに圧倒され、半分も食べられなかった。

 日本の会席料理のように、次々と違う料理が出てくれば、腹いっぱいになっても、「これも美味しそう」と思って、食べてしまうこともあろうが、同じ味の物を延々と食べ続けるのは、かなり苦痛である。

 季節外れのために、町を一周するプチトランも、運河クルーズもなく、歩いて回っても、小さな街なので、歩き終えてしまった。

 この旅を計画していたとき、午前中にコルマールを見て、午後はワイン街道をめぐるツアーに参加したいと思った。

 ワインセラーやワインのテイスティングなどというハイカラな趣味はないのだが、バスに乗って、アルザスの田園風景、小さな村や小さなお城のある風景を眺めたいと思った。

 日本を出る前に申し込もうと思ったら、ワイン街道をめぐるツアーは10月末までで終わりだった。

 この地方は、あちこちの町のクリスマス市も有名で、12月になると、クリスマス市を巡るツアーもあるらしい。11月は端境期で、何もない。

          ★

  ストラスブールに戻り、トラムに乗って車中から街の観光をしたり、イル川の畔や旧市街の中をそぞろ歩きした。冷え込んだ。

 

※  2014年は、今年よりももっと良い年になりますように。(やはり、社会は右肩上がりでな  ければいけないと思います。)

  皆さん、良い年をお迎えください。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ストラスブールの大聖堂……フランス・ゴシック大聖堂をめぐる旅4

2013年12月27日 | 西欧旅行…フランス・ゴシックの旅

       ( ストラスブール大聖堂南側 )

 旧市街の中心に印刷術のグーテンベルグの彫像のある広場がある。グーテンベルグはドイツのマインツに生まれ育ったが、のちストラスブールに移り住んだ。

 その広場の東側の通りを北に向かって立つと、大聖堂の正面(ファーサード)が見える。街はクリスマスに向けての飾り付けが始まっている。

 大聖堂の塔の高さは142メートルとか。通りから見えるのは一部だけだ。しんと冷え込む。

  この大聖堂の特徴の一つは、ヴォージュの山から切り出した赤色砂岩で造られていて、壁面が赤っぽいことだ。

 

 (大聖堂西ファーサード)

       ( 木組みの家と右手に大聖堂 )

 キリスト教の聖堂の床平面の形は十字架の形で、キリストが両手を広げて立った姿をかたどっている。

 正面入り口 (ファーサード) はキリストの足の部分 (衣の裾の部分) になり、方位は西側になる。

 正面入り口から入って、身廊を奥へ(東へ)進むと、一番奥の半円部分がキリストの頭にあたり、祭壇がある。

 両腕の部分を、左袖廊(南側)、右袖廊(北側)と言い、ふつう、ここにも入り口がある。

  (西正面扉口)

 西正面に立つと、彫像の群れのおびただしさに驚くが、正面扉口だけでなく、ストラスブール大聖堂の外壁は無数の彫刻でおおわれている。

 ゴシック大聖堂の彫像や透かし彫りは、石を切り出し、柱や壁として積み上げていったあと、柱や壁の石に装飾として彫られたものだそうだ。先に彫刻して、その石を積み上げたのではない。それが、142メートルの尖塔の先まで、レースのように彫られている。

 中央の柱には、聖母マリア像。

 我々の世代が学んだヨーロッパ史では、ギリシャ・ローマの文明が再発見されるルネッサンスまで、ヨーロッパは「暗黒の中世」だった。

 しかし、西ヨーロッパは、民族の大移動とローマ帝国の崩壊という大激動の時代を経て、混乱と停滞の長く暗い時代を過ごすが、実は10世紀ごろから社会に大変化が起きる。農業の生産性が向上し、ゆとりが生まれ、手工業や商業が復活し、都市が興ってくる。

 財が生まれ、各地の修道院にも土地や財が寄進され、修道院は競って、これまでのみすぼらしい教会を壊し、かつてのローマ帝国時代の建築物のような聖堂を建てていった。

 10世紀末に起こり、11世紀、12世紀の前半にかけて流行したこの建築様式を、ロマネスク様式と呼ぶ。

 修道院であるからいずれも人里離れた田舎にある。今に残るロマネスクの聖堂は、石造りの素朴な重々しさ、ときに奇怪な形をした素朴な彫刻群などもあって、どこかなつかしく、日本人の感性に合う。

 ところが、12世紀から13世紀になると、都市に富が集まり、各地域の中心都市に司教座が置かれ、ロマネスクの聖堂を遥かに超える大聖堂が造られていった。天に向かって伸びる空間、その空間の壁を埋める美しいステンドグラスの窓、この二つを特徴とするゴシック様式の大聖堂の誕生である。

 時を同じくして聖母マリア崇拝が興った。

 それまでも聖母マリアは、修道の模範として尊崇の対象であったのだが、このころから神への仲介者 (本来、イエス・キリストがその役割を担って十字架に架けられたのだが) として、神のように都市の市民階級に受け入れられていったのである。 

 ゆえに、ゴシック大聖堂は、ほとんどすべてが聖母マリアに捧げられた聖堂である。パリのノートル・ダム大聖堂は有名だが、ストラスブールも、ランスも、アミアンも、ノートル・ダム大聖堂。ノートル・ダムとは、われらの貴婦人の意。

    ( 大聖堂の身廊 )

 

  ( 燭台とステンドグラス )

        ★

 大聖堂を見学した後、すぐ近くにあるロアン宮(司教の宮殿)と、大聖堂美術館を見学した。

 ロアン宮はまさに王侯貴族の宮殿で、この時代の司教がどのような存在であったかが推察される。

 大聖堂美術館は、大聖堂から移された中世の古い彫刻や美術品が展示され、興味深かった。

   (司教の館・ロアン宮)

        ★

 夜、もう一度、大聖堂へ行った。 ライトアップされた大聖堂は、金色に輝いていた。この輝きが、ストラスブール市民の誇りなのであろう。

  (ライトアップされた大聖堂 )

 中はミサの最中であった。今日は土曜日だ。

  ( 土曜日夜のミサ )

      (続く)

※  なお、本稿の大聖堂に関する知識は、

馬杉宗夫 『大聖堂のコスモロジー』 (講談社現代新書)

紅山雪夫 『ヨーロッパものしり紀行編』 (新潮文庫)

の2冊による。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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アルザス地方とストラスブールの歴史を考える……フランス・ゴシック大聖堂をめぐる旅 3

2013年12月14日 | 西欧旅行…フランス・ゴシックの旅

      ( ストラスブールの街並み )

 前々回、ドイツ・フランスの視察・研修旅行に参加したことに触れた。1995年のことである。

 そのときのドイツの視察先は、ザールランド州のホンブルグというごくごく小さな町だった。乗合バスで15分の所に、州都ザールブリュッケンがある。

 そのホンブルグから3、4キロ、州都から2キロも西に行くとフランスとの国境だと聞いて、驚いたものだ。「国境」というものが、感覚的に日本にいるときとは違う。

 重い響きというか、それに遥けさの思いも加わり、時には、ベルリンの壁であったり、スパイの暗躍であったり……。いかにもヨーロッパ、それもヨーロッパ。

 それはともかく、ザールブリュッケンを歩いていると、フランクフルトやハイデルベルグ、ローテンベルグ辺りと比べ、レストランやカフェの雰囲気も、童話の国のレストランから、どこか瀟洒で洗練された大人の雰囲気になる。 ウエイトレスの女性も、大柄でがっしりしたドイツ女性ではなく、すんなりと小柄な人が多くなり、なるほどここはフランス文化圏なのだと思う。

 ドイツとフランスの長い国境沿いは、幾世代にもわたって、両国の争いのもととなってきた。

 第二次世界大戦の後、例のごとく戦勝国が領土を拡張する、ということにピリオドが打たれ、国境沿いの各地域ごとに、住民投票によって帰属を決めることとなり (これは、偉い‼ 特に、戦勝国のフランスに拍手)、住民投票によって、ザールランド州は晴れてドイツ領となった。

         ★

 話はストラスブール。

 ストラスブールはアルザスと呼ばれる地方の州都であるが、ザールブリュッケンの南東に位置し、西からドイツに食い込んだ形になっている。実は、同じ住民投票で、この地域の住民はフランスを選んだのだ。

 以前、テレビで見たことがあるが、ストラスブールの町の郊外をライン川が流れ、橋を渡ればドイツであり、今では、毎日、橋を渡ってドイツのお店や工場に通勤する人も多いとか。

 フランス側から見れば、木組みの家並やシュークルートなど、ドイツ圏の文化の濃い地方である。我々にはわからないが、話し言葉もドイツ訛りが濃く、アルザス語として学校でわざわざ教えられる。

 それにフランスで唯一、ドイツ並みに地ビールがうまい。アルザスは、ビールも、アルザスワインも美味しい。

         ★

 戦後、フランスの賢人政治家たちは、このドイツとフランスの国境地帯に、その北に位置するオランダやベルギー、そしてもちろんドイツにも働きかけ、一つの経済圏を政治的につくろうという夢を抱き、粘り強く追求した。

 目的は、平和のため。二度と、この地方をめぐる戦争を起こさせないため。手段は、ウィン、ウィンの経済圏をつくる。

 これがEUの始まりである。

 今は、ストラスブールに欧州議会が置かれている。

 アムステルダムからストラスブールへ、昨日乗ったトンボのような小さな飛行機にも、議員、或いはその秘書、或いは議会事務員、或いはEUの予算に関係する企業関係者、そういう人の2、3人ぐらいは同乗していたかもしれない。スーツにネクタイ、黒い書類用カバンを持って、携帯電話に向かって、始終忙しそうに話している人たちもいた。のんびり旅をしながら、ホワイト・カラーもたいへんだなと、つい同情する。

       ★   ★   ★

 ただし、誤解してはいけない。

 日本国内に、EUと同じように東アジア共栄圏をつくろうという声がある。歴史を知らぬ妄想というべきであろう。

 アルザスにしぼってその歴史を見れば、8世紀に西ヨーロッパは、カール大帝という一人の王のもとに、一つの王国をつくった。

 9世紀、カール大帝の死後、ヴェルダン条約によって、フランク王国は、東、中、西に分かれる。西は現在のフランス、東は現在のドイツ、中の南は現在のイタリアの基礎となった。 イタリアの北側が不安定だったが、10世紀にオットー神聖ローマ帝国の傘下に入り、中世を通じてアルザスにはゲルマン文化が栄えた。

 しかし、30年戦争を経て、1648年、アルザスはフランス領となる。

 1870年、普仏戦争を経て、アルザスはドイツ帝国に帰す。

 1918年、第一次世界大戦を経て、再びフランスに編入される。

 第二次世界大戦中にドイツ領となり、戦後処理の住民投票でフランスに帰す。

 こうした辛い歴史を経て、再び戦争をしないために、戦勝国の賢人たちの側から握手の手が差し伸べられ、内外の反対を粘り強く乗り越えて、作り上げたのがEUである。

          ★

 EUにおいて、信仰の自由はもちろん保障されているが、文化はキリスト教だ。

   NATOの一員であるトルコが、イスラム教を世俗化し、懇願しても、EUには入れてもらえない。

 文化とは、歌舞伎や茶道のことではない。 それらは、文化という樹木の、先っぽの小枝の、その先の花のようなものだ。

 文化は、根があり、幹があり、枝がある。花を説明しても、文化の説明にはならない。

 文化とは、歴史的に形成されてきた人々のライフスタイルであり、人々のものの見方・感じ方、感性である。

 全く異なる文化を持つトルコと一つになるのはムリ、とヨーロッパは考える。経済的な「利」のあるところ、何でもひっつける、というわけにはいかないのである。

 ヨーロッパは、2千年近く、戦争ばかりしてきたのも事実だが、それ以前はローマ帝国の旗の下で、パクス・ロマーナを謳歌し繁栄した長い経験を有する。民族大移動期の混乱も、やがてフランク王国の下に西ヨーロッパは統合されたという経験も有する。

 だから、もともとは一つ国であったのだ、ということも可能なのがEUである。

 共通言語は、古代、中世、近代のつい最近までを通じて、ラテン語(ローマ帝国の言語)であった。戦争はしても、リーダーはラテン語で話し合い、ラテン語で和睦の調印書を作ってきた2千年を超える長い歴史がある。最近は英語がこれに代わった。

 肝心・要の安全保障は、第二次世界大戦以後、アメリカに依拠し、NATOに統合している。地域集団安全保障だ。NATOに共産党政権国家は参画できない。

          ★

 中華思想の大国・中国、中国に臣従しながらも準中華国を自負する韓国を相手に、どうやって譲り合い、手を差し伸べ、成熟した関係をつくり、「EU」に育て上げていくのか? 日本が中国、韓国に臣従するしか、和は保てそうもないが、それはもう「EU」 ではない。

 中国も韓国も、儒教の国である。日本は2千年近く、「儒学」を学問として学び、江戸時代にはそれを人文科学・社会科学にまで発展させた優れた儒学者も輩出したが、文化・習俗、ライフスタイルとしての「儒教」を受け入れたことはない。日本は、神と仏の国である。どちらが良い、悪いではなく、価値観が根本的に違うのである。

 早い話、ローマやフランク王国の下に一つになったような経験は、東アジアには、ない。 

 北朝鮮は言うまでもなく、中国共産党とどのようにして地域安全保障体制をつくるのか? もちろん、東アジアの「EU」化を言う鳩山、小澤らは、日米同盟からの離脱も視野に入れているのであろう。

 しかし、そもそも、いかなる根拠があって、中国共産党は、中国人民の上に君臨しているのか? いつ、中国人民が、彼らの政権の正統性を認めたのか? 国政選挙のない国に、「国民」はいない。支配する者と、支配される者がいるだけだ。支配される者たちを「人民」と言う。 

 いつの日か、中国人民が蜂起したら、日中同盟の下に、中国共産党を助けるため、自衛隊を派遣するつもりか?

 米国と距離を置き、中国と「EU」をつくりたいという政治家は、今はなりをひそめているが、実は自民党の中にも、また、エコノミストの中にもいる。目先の利益を優先し、歴史がわかっていないのだ。

 中国や韓国とは、きちんとした国と国との近代的な関係を打ち立てることが大切で、東アジアに「EU」を、などというのは、千年、早い。

      ★   ★   ★

 

   ( イル川と旧市街 )

 ヨーロッパに紅葉はない。 黄葉、落葉、枯葉……。 緑もあるから、コントラストが美しい。 風情がある。

   

     ( 橋を渡るトラム )

   ドイツでも、フランスでも、オーストリアでも、ちょっとした規模の都市には、瀟洒なトラムが走り、旧市街の景色に溶け込んで、市民と観光客の足となっている。

 道路の真ん中にあるトラムの駅の券売機の前で、幾種類もある切符の中、お得な切符はどれかと、そばにいた若い女性に聞こうかなと迷っていたら、彼女の方から「何かお手伝いしましょうか」と声をかけられた。あとには引けないので、カタコトの英語で聞くと、英語で分かりやすく、丁寧に説明してくれた。

 ヨーロッパの町を歩いていて、「何か、お手伝いしましょうか」と声をかけられることはよくある。

   そこに暮らす人々の民度の高さというか、人としてのレベルの高さを感じる。

 大都市では、旅行者をねらうスリ、かっぱらい、強盗などの犯罪もあって、被害にあったこともあるが、それをやっているのは流れ者で、そこに暮らしている人々ではない。

  

  ( イル川が分岐するプティット・フランス地区 )

 真ん中に遠く見えるのが、町のシンボルの大聖堂。手前、左右に塔があるが、かつて町は塔と城壁によって囲まれていた、その名残り。 橋の向こうに木組みの家。

 「ここ(プティット・フランス地区)には特に美しい古い木造の家々が多く、まるでアンデルセンの童話の町に入り込んだようだ。かつての染物屋、漁夫、細工師たちの住まいだったところである」「かたわらの若い男女たちの姿を見ながら、かつてストラスブール大学に学んだという若い日のゲーテの姿をそこに幻のように点景したものであった」 (饗庭孝男 『フランス四季暦』)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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世界文化遺産の町ストラスブールへ … フランス・ゴシック大聖堂をめぐる旅 2

2013年12月12日 | 西欧旅行…フランス・ゴシックの旅

 

  11月15日(金)、 KLオランダ航空で関空を出発し、アムステルダムのスキポール空港でEUへの入国審査を受け、ストラスブール行きに乗り換えた。

 関空から同じ飛行機で来た大勢の日本人はどこかへ消えてしまった。沖留めの、トンボのような形の小さな飛行機に乗り込んだのは、欧州人と中東系の人たちだけのようだ。

 ストラスブールのローカルな空港に着陸して、沖留めのバスに乗ったときから、不安顔の日本人を、多分、関空から同じ飛行機であったと思われるフランス人のマダムが、気さくな笑顔と、流ちょうな日本語で、空港を出るまで助けてくれた。

 日本のファンだと言う。 ストラスブールの大聖堂広場にある観光案内所で、ボランティアで働いているそうだ。 夫や子どもたちが迎えに来て、楽しそうだった。

 どこを回るのかと聞くから、ストラスブール→ランス→アミアン→シャルトル、そしてパリ。カテドラルを見て回るつもりだと言ったら、「すばらしい。フランスで一番、良いところです。私の考えですが」と言ってくれた。

 こちらの人は、自分の故郷、或いは、今、住み着いている場所が、世界で一番良いところだと思って、誇りにしている。そういうところが、素晴らしい。

                   *            *           *

 空港に着いたのは午後6時前だったが、日はとっくに暮れている。

 ストラスブールはもともと、イル川の中州にできた町。

 そのイル川のそばに建つホテルを予約してある。ネット予約のときに、少し値段は高いが、「窓からサン・トーマス聖堂ビューの部屋」という部屋を選んだ。サン・トーマスについては知らないし、「地球の歩き方」にも出ていなかったが、せっかくなのだから、4つ星、5つ星ホテルでなくても、観光に便利で、眺めの良いホテルを、というのがモットーだ。予約のとき、ついでに、「サン・トーマスが見えるか、イル川が見える部屋にしてもらえたら、私はハッピーである」と、念のため書き添えた。

 タクシーを降り、冷え込みに震えながらホテルの玄関を入ると、殺風景な受付には、ストラスブール大学のアルバイト学生といった感じの、モヤシのように背だけ高い、頼りなさそうな若者がいて、鍵を渡してくれた。

 部屋の窓を開けると、家並の向こうに、ライトアップされたサン・トーマスがあった。

 翌朝、もう一つの窓から見ると、落ち葉のイル川もあった。

 イル川のむこう岸は、世界遺産の街並みである。

 

  

 

※ サボっていたこともあるのですが、さらにその後、パソコンがトラブって、旅の2号目がおそくなってしまいました。

 

 

 

 

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18年前の思い出・シャルトルの大聖堂 … フランス・ゴシック大聖堂をめぐる旅1

2013年12月04日 | 西欧旅行…フランス・ゴシックの旅

    ( シャルトルの大聖堂の内陣 )

 「一鬼たちは建物の内部へはいった。巨大な建物の内部をぎっしりとおびただしい数のステンド・グラスが飾っている。一鬼は足を一歩踏み込んだ瞬間、はっと息をのむような思いにとらわれた。この世の中に、これほど異様な美しさに満たされた空間は、そうざらにはあるまいと思われた」。( 井上靖『化石』から )

        ★

 高度経済成長の時代、会社にとってなくてはならない有能なオーナー社長として、社員の人望を一身に集めて働いてきた初老の男(一鬼)が、周囲の勧めもあって、初めて休暇を取り、秘書の青年を連れて西欧旅行をする。ところが、パリのホテルで体調を崩し、病院で検査をしてもらったところ、癌の疑いがあることを知った。 当時、癌は、死を意味した。 「死」との葛藤が、この作品のテーマである。

 テレビドラマ化もされ、そういう役ならこの人をおいていないというべき山村聰が重厚に演じた。主人公がパリで知り合う富豪のフランス人の妻、中年の美しい日本人マダム役を、これまたこの人をおいていないというべき岸恵子が演じた。

 引用した一節の中の「建物」とは、パリから鈍行列車で1時間、ボース平野というフランスの穀倉地帯にあるシャルトルという小さな町の大聖堂(カテドラル)のことである。

    ★   ★   ★

 初めてシャルトルの大聖堂を訪れたのは、1995年の秋であった。それが初めてのヨーロッパ旅行であった。

 ドイツとフランスへの視察・研修旅行。 私たちの一行は、ドイツでの視察・研修を終え、スイスのジュネーブに立ち寄って1泊し、翌日、フランスの視察先、ル・マンへと向かった。ジュネーブからTGVでパリへ、パリからはチャーターしてあったバスで向かう。この日は移動日だった。

 ル・マンへ向かう途中、シャルトルの大聖堂に立ち寄ったのは、西洋史を専攻して院まで出たという、その研修旅行の添乗員氏の教養と心意気によるというべきであろう。旅の間、私は彼に、「ヨーロッパとは何か」という問いを何度もしたものだ。

 そのころ、私は、西洋に強くあこがれていたが、西洋の歴史も文化も知らなかった。せいぜいが登山家のあこがれの山、アイガー北壁のこと、或いは、イブ・モンタンの歌うシャンソン、「枯葉」ぐらいであった。

 バスの中で、シャルトルに立ち寄り、大聖堂を見学しましょうと添乗員氏が言ったとき、私の記憶の底から、井上靖の『化石』の一節がよみがえってきて、小説の世界のシャルトルに立ち寄ることに感動を覚えた。

 このとき、初めて、この大聖堂が、塔も、彫刻も、ステンドグラスもすばらしく、フランス・ゴシックを代表する大聖堂であるという、簡単な常識を知った。

 井上靖は、この大聖堂のステンドグラスの美しさについて、「(一鬼は) 足を一歩踏み入れた瞬間、はっと息をのむような思いにとらわれた」 と書いている。

 ただ、そのあと、その美しさを、「異様な美しさに満たされた空間」と表現している。 「異様な」というのが、日本人にはなじみのない宗教的な空気のようなものを言っているとしたら、このとき初めてシャルトルのステンドグラスに対面した私の感想は違った。

 ゴシック建築の特徴は、天に向かう高さであり、その高い窓に嵌め込まれたシャルトル大聖堂のステンドグラスに描かれた宗教的場面を見分けることは、その高さのゆえに不可能で、私は、ただ、宝石箱をひっくり返したような色彩の洪水に感動し、ただただその美しさに圧倒された。

 誤解を恐れずに言えば、これを造った人たちは、発注した司教様も、携わった中世の職人たちも、はじめは宗教的動機でスタートしたかもしれないが、造っているうちに、ただただ美しいものをつくりたいという風に志が変わっていき、やがて「神は美なり」「美こそ神」と、心の中で思うようになり、司教様を含めて誰もがそう思うようになっていったから、その美しさに異議を唱える者など誰もいなくて、従って、「それは反キリストだ」「不敬だ」「神の上に美を置く輩がいる」 「そのような輩は火あぶりにせよ」などと騒ぐ者もなく、敬虔なふりしてみんなで見上げて、ひたすら人間らしく感動していたのではなかろうか、と、思えるほどであった。

 私は西洋近代美術に関心があり、セザンヌやマチスやシャガールが好きだが、そのスタート地点にはルネッサンスがあるとはよく言われる。

 しかし、源流はもっと古く、ステンドグラスの光の洪水もまた、セザンヌやマチスやシャガールやさらにはあのピカソの絵の感覚の中に、DNAとして存在しているに違いない、とも思った。日本で開催される美術展で鑑賞していたのとは違って、そのように考えて初めて、彼らの絵を深くわかるのではないかと思うようになった。継承と創造。継承を忘れて、破壊的なピカソを見ても、深いところは理解できない。

        ★

 それでも、広い堂内は薄暗く、宗教的で、マリア像の前には沢山の蝋燭が灯され、その前のベンチに座って敬虔な祈りを捧げている人たちもいた。

 どのような不幸があったのか、マリア像に向かって涙とともに静かに何かを訴えている老婦人があり、その横には、その夫らしい老人が、死を宣告された人のように、虚脱しきった風情で力なく座っていた。

 ここは、生きたカソリックの聖堂なのだと思った。

        ★                

 バスがシャルトルの町を出るころには、もう太陽は西に傾いていた。

 当時、自分が書いた記録を見ると、「初めて訪れたドイツは森の国であったが、フランスは大地の国だ。日本では、太陽は山の端に沈む。フランスでは、日は地の果てに沈む。人によって耕作された大地の地平には、小さな村と教会の塔がシルエットとなって、見えていた」 と書いている。 

        ★   ★   ★

 今回の旅の動機をさかのぼれば、以上のようなことになるであろうか。(続く)

 

(シャルトルの大聖堂・シャルトルのブルー)

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

   

 

 

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