ドナウ川の白い雲

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『ロードス島攻防記』の舞台を歩く ① … わがエーゲ海の旅(12) 

2019年08月16日 | 西欧旅行 … エーゲ海の旅

   ( 聖ヨハネ騎士団長居城 )

5月18日(土)

 ロードスに滞在していながら、リンドス観光やコス島行きが先になってしまった。

 今日は土曜日。まる1日かけて、ロードスのヨハネ騎士団の要塞やアクロポリスを見学する。

聖ヨハネ騎士団の病院 >

 旧市街の北側の一帯は、騎士団長の居城、各国騎士団の館、騎士団の経営する病院などが並んで、イスラム圏のバザールのように商店やタベルナがぎっしりと身を寄せ合う旧市街の中では、西欧の風が感じられる一角である。

 そのとっかかりに考古学博物館がある。ここが今日の見学の出発点だ。今は博物館だが、もとは聖ヨハネ騎士団の病院だった建物である。

 「医療事業は、聖ヨハネ騎士団の看板である。ロードス島にととのえられた病院も、騎士団長居城に次いで立派なつくりで、… 」(塩野七生『ロードス島攻防記』)

 …… というわけで、私としては展示品よりも、聖ヨハネ病院騎士団の病院として、建物やその内部の様子に興味があった。 

 入口から見る建物は、古めかしく、頑丈そうで、中世的だった。

 13世紀末に、西欧のキリスト教勢はパレスチナの地から一掃される。

 だが、しばらくすると、エルサレムへの聖地巡礼は再開された。イスラム教徒のほうも、巡礼の落とすカネに無関心でいられなかったのだ。

 だが、西欧各地からの巡礼の途中、遠い異郷の地で大ケガをしたり、病に倒れる巡礼者も出てくる。

 そのような巡礼者にとって、イスラム圏からわずか20キロの距離にあるロードス島の病院は、いざというとき最も安全で、しかも、最も高度な治療を期待できる施設であった。

 この時代の南欧風の邸宅がみな、そうであったように、門を入ると中庭があり、中庭から2階の回廊へと直接に上がる階段がある。

 そのわきには、オスマン帝国軍の大砲の丸い石の砲弾が無造作に置かれていた。

 中庭を見下ろす2階の回廊も、質実にして静謐の趣がある。

 この雰囲気は、キリスト教の修道院のそれに似ている。

 聖ヨハネ騎士団の騎士には、修道院の僧と同じ規律が課せられていた。病院の建物も自ずから僧院の趣があるのだろう。

 病人が収容され、治療を受けた大部屋がある。

 「専属の医師団は、内科医2人と外科医4人で構成され、看護人は、1週に1日の病院勤務を義務付けられている騎士たちが受けもつ」。(同)

 「天井が高く広々した大部屋には、個人ベッドが並び、100人まで収容することができた。各ベッドのまわりには、カーテンを引けるようになっている」。

 「治療費は、患者の貧富に関係なくすべて無料で、個室でも部屋代はとられない。食事も、これまた全員平等で、しかも無料で、白パンに、葡萄酒もつく肉料理に、煮た野菜というコースで、当時ではなかなか豪勢なものであった。そのうえ、麻の敷布と銀製の食器も使える。これらは死去した騎士たちの遺物なので、敷布も銀食器も、西欧有数の名家の紋章で飾られている」。(同)

 聖ヨハネ騎士団は、西欧貴族の子弟によって構成されている。息子を騎士団に送った親は、息子を気遣って多額の寄進をする。親ばかりではない。劣勢であった対イスラムの最前線に立って戦う貴族の子弟に感動し、多くの貴族が多額の寄進をした。

 騎士団は金融業者にその資金の運用を委ねたから、彼らの資金は王もうらやむほどに豊かだった。

 21世紀の今も聖ヨハネ騎士団には8千人が所属し、国土なき国家として国連のオブザーバー国にもなっている。ただし、「聖戦」はやっていない。その豊富な資金を使って、今も医療行為や医療研究が行われている。

 大部屋の壁には小さな出入口が連なり、その中は小部屋になっていた。墓室のようだった。

 博物館としては、絵画、陶器、彫刻、墓碑などいろいろの展示品があったが、この博物館の一番の人気は通称「ロードスのビーナス」と呼ばれるビーナス像だ。

 

 

 英語版の説明によると、「アフロディーテの沐浴の小さな像」とある。

 BC3世紀の彫刻家Doidalsasの作品をBC1世紀に複製したものらしい。複製されたのはローマの共和制の時代である。このようなやや小型の彫刻は個人の邸宅に置かれたと書かれている。

  美の女神アフロディーテ(ビーナス)の像として最も有名なのは、エーゲ海のミロ島で発見された「ミロのビーナス」だろう。今、パリのルーブル美術館にある。

 だが、ミロのビーナスは端正すぎて、私などには面白みがない。私がこれは美しいと感動したのは、彫刻ではなく絵画だが、フィレンツェのウフィツィ美術館にあるボッティチェリの「ビーナス誕生」だ。美人でなく、美女。エレガンスな女性像である。

 「ロードスのビーナス」は、可愛い。ロードスのビーナスか、ミロのビーナスか、どちらかを差し上げましょう、と言われたら、躊躇なくロードスの方をいただいて、わが邸宅に飾りましょう。

 回復してきた病人が2階にある病室からそのまま足を運べるよう、趣の異なる小さな庭園もあった。

        ★

< 改めて、聖ヨハネ騎士団の略歴 >

 「いまだイェルサレムが、イスラム教徒の支配下にあった9世紀の中頃、イタリアの海洋都市国家アマルフィ、ピサ、ジェノヴァ、ヴェネツィアの中で、最も早く地中海世界で活躍し始めていたアマルフィの富裕な商人マウロが、イェルサレムを訪ねる西欧からの聖地巡礼者のために、病院も兼ねた宿泊所を建てた。

 その後聖ヨハネ騎士団の紋章になり、現代でも使われている8つの尖角をもつ変形十字は、もとはといえばアマルフィの紋章であったのである」。

 その後、1099年、第一次十字軍が、艱難辛苦の末にエルサレムを陥落させて、「エルサレム王国」を建設する。その激戦の過程で、アマルフィの商人の病院は、西欧貴族の子弟による軍事組織に変質していった。

 1103年、時の法王はこの組織を「宗教と軍事と病人治療に奉仕する宗教団体として認可した。これより、『聖ヨハネ病院騎士団』と称されるようになる」。(同)

 「聖ヨハネ病院騎士団」が正式名称。その後、法王から赤字に白の十字架を縫いとりした軍旗を授けられる。どこの国王にも貴族にも大教会にも所属しない、法王直属の自治的な組織であった。

 だが、「エルサレム王国」はイスラム勢の攻勢によって次第に追い詰められ、建国200年後の1291年に、最後まで戦い続けた聖ヨハネ騎士団も含めて、パレスチナの地から地中海へ追い落とされた。

 1308年、聖ヨハネ病院騎士団は、弱体化していたビザンチン帝国からロードス島を奪取して、ここを本拠とした。小アジアからわずか20キロ弱の距離で、キリスト教徒の対イスラムの最前線であった。

 イスラム圏ではオスマン・トルコが勢力を増し、スルタン・メフメット2世の1453年にはビザンチン帝国を滅亡させる。このあとメフメット2世は、ロードス島に10万の大軍を送って聖ヨハネ騎士団をせん滅しようとしたが、聖ヨハネ騎士団は3か月の籠城戦の末これを撃退した。

 1522年、オスマン帝国は最盛期を迎えようとしていた。若きスルタン・スレイマンは再び10万の大軍をもって自ら出陣し、ロードスを包囲する。 

       ★

騎士通りから騎士団長居城へ

 聖ヨハネ騎士団の病院を出て、西へ、小石を敷きつめたゆるやかな登り坂を行く。騎士団長の居城に向かう通りで、いつの頃からか「騎士通り」と呼ばれていた。

 

 「騎士通り」と呼ばれるのは、「イタリアとドイツ、そして普通はフランスとだけ呼ばれるイル・ド・フランス、それにアラゴンとカスティーリアが同居しているスペイン、最後にプロヴァンスと、各国の騎士館が道の両側に並び建っているからである」。

 「他に、病院の正面と対しているイギリス騎士館と、造船所に近いオーヴェルニュ騎士館があるが、2つともひどく離れたところにあるわけではなく、ために、市街では最も高所に建つ騎士団長の居城を中心としたこの一帯に、騎士団の主要建物が集中しているといえた」。(同)

 人気のない「騎士通り」のゆるやかな坂道を登りきると、騎士団長の居城の正面に出た。

 騎士団長は、騎士による選挙によって選ばれた。選ばれた歴代の騎士団長は、百戦錬磨、年齢とともに騎士たちの信望を集めるようになったベテラン騎士である。騎士たちの選挙によって選んだが、選んだあとは、騎士団長が下す判断、命令には絶対的に服従した。「服従」は騎士団の3つの徳目のなかの1つであった。

 居城の前の広場に立って、騎士団長居城の正面を見上げれば、その威容に圧倒されるばかりである。

 建物最上部には胸間城壁を備え、正門は堂々たる2つの円筒櫓によって守られている。      

 「この門をくぐりぬけると、一隊が丸ごと収容できそうな玄関になっており、その向こうに明るい陽光のふりそそぐ広い中庭が眺められた」。

 中庭から建物の中に入ると、有名な大階段がある。騎士たちが報告や連絡のために、ここを上り降りしたのであろう。また、各国騎士団の長らを集めて会議が開かれた大部屋もあり、さらに、それに続く各部屋も、置かれている調度類も、絢爛豪華であった。 

 

   ただし、この居城も、ロードス島のイタリア統治時代に修復され、ムッソリーニが別荘にしたという。皇帝気取りだったのだろう。

 だから、少なくとも、今、見ることのできる内装や調度品は、聖ヨハネ騎士団長の居城をそのまま伝えているとは言えない。

      ★

 各室をざっと見て回って、外に出ると、5月の明るい太陽がふりそそぐ旧市街があった。

 商店やタベルナが連なる街並みは観光地そのもので、騎士の鎧や兜や大槍も、今はコマーシャルベースである。

  世界のどこの観光地でも、土産屋にはその類のミニチュアの玩具が並んでいる。

 パリに行けばエッフェル塔のミニチュアが店頭に並び、奈良に行けば五重塔や鹿のミニチュアがあり、京都に行けば新選組の衣装のミニチュアがショーウインドーを飾っている。

 さて、次の行動の前に、とりあえず、どこかで昼食を食べなければならない。

 ( ②へ つづく )

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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