ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

大聖堂はローマ文明の上に、自由は市民精神の上に(パリ)…フランス・ゴシック大聖堂をめぐる旅10(完結)

2014年02月06日 | 西欧旅行…フランス・ゴシックの旅

                ( 晩秋のパリの朝 )

 今回で9度目のパリである。

 パリには、シャンゼリゼも、エッフェル塔も、ルーブル美術館も、カルチェ・ラタンもある。

 それぞれに魅力があるが、パリに来るたびに、いつもそれらを見て回るということはない。しかし、ノートル・ダム大聖堂を訪ねなかったことはない。

 セーヌ川のそばに立つその姿も魅力的だが、何よりもこの大聖堂のステンドグラスの輝きを、パリに来た以上、確認しておきたくなるからだ。

         ★

 西正面から見るノートル・ダム大聖堂は、均整がとれて端正であり、穏やかで、暖かい。

 その前の広場はいつも賑わっている。

     ( 写真を撮る恋人たち )

 観光シーズンになると、世界から集まってきた観光客が、扉口に長蛇の列をつくる。ただし、入場料を払う窓口があるわけではないから、列はどんどん進む。堂内は広く、ごった返すというようなことはない。もっともそういう日には、スリやスリグループも大聖堂の内外で活躍しているはずだから、用心は必要である。

 そう言えば、昨日、メトロ1号線に乗っていて、突然、日本語のアナウンスがあったのに驚いた。メトロでアナウンスも珍しいが、それも日本語である。「車内にスリがいるから気を付けろ」、というアナウンスだ。初め、狙われやすい日本人だけを対象にアナウンスされているのかと思ったが、英語など他の言語でも放送されているようだった。それにしても、何度もパリに来て、メトロ内で、日本語による、「スリがいる、注意」は初めてだ。

   上の写真はアフリカ系の恋人同士。明るいブルーの襟巻の似合うチャーミングな彼女を、大聖堂の全体をバックにして何とか小さなカメラに収めようと、青年の方が石畳に這いつくばったり、カメラを地面に置いたり、20分近くも悪戦苦闘していた。その青年の愉快なしぐさに微笑みながら、彼女の方も根気よくポーズをとり続けている。互いに愛がなければ、こうはいかない。 

 突然、写真を撮ってもらえませんか、と声をかけられる。これまた、とても感じのいい青年と、はにかんで立つ美人。「奈良からですか? 僕らは北海道からです」「新婚旅行で?」「はい」。 そうでしょう。誰が見ても、爽やかでお似合いである。お幸せに。

         ★

 パリは、セーヌ川をはさんで、右岸と左岸に分かれる。

 そのセーヌ川の中の大きな中の島、シテ島に、ノートル・ダム大聖堂は立つ。

 大聖堂前の広場には、パリの番地のゼロ地点を示す印が埋め込まれている。渦巻き状に配置されたパリの番地の、渦巻きの中心点が、ノートル・ダム大聖堂なのだ。

 ここはパリの発祥の地でもある。

 紀元前3、4世紀ごろには、このシテ島に、ガリア人の一派、パリシイ人が住み着いていた。 セーヌ川を利用して、盛んに交易を行っていたらしい。パリという名の起源は、パリシイ人による。

 そこに、ローマ軍がやってくる。キリストの生まれる半世紀も前の話だ。あのユリウス・カエサルの軍団である。彼らはセーヌの左岸の丘陵部に文明を築いた。今も、大浴場跡や競技場跡など、その痕跡が残っているし、セーヌ左岸はラテン地区と呼ばれる。

 ノートル・ダム大聖堂の改修の折、大聖堂の下から見事な石の塔が発掘された。1世紀、パリシイ人が時の皇帝ティベリウスに献上したものだった。パクス・ロマーナの下、セーヌ川で交易を行うパリシイ人たちの豊かな経済力を示している。

 同時にこの発見は、キリスト教文明(大聖堂)がローマ文明(石の塔)の上に成り立っていることを象徴する発見として、有名である。シテ島こそ、パリ発祥の地なのだ。

 王都パリのノートル・ダム大聖堂は、1163年に起工し、200年近くかけて、1345年に完成した。その起工は、ストラスブール大聖堂の起工やシャルトルの再建より早く、従って初期ゴシックの様式を残し、盛期ゴシックの様式もある。

 ぐるっと大聖堂の旅をしてきて改めて思うのは、都パリの大聖堂が、その端正な姿においても、ステンドグラスの気品ある美しさにおいても、シャルトルの大聖堂と並ぶゴシック大聖堂の最高峰だということである。                

 中央扉口のティンパニム(半円部分)にはキリストが君臨し、その足元には最後の審判の場面が彫られている。(下の写真)

       ( 西正面扉口とティンパヌム )

 ティンパニムの上、バラ窓の下に水平に並ぶ彫像群は、「王たちのギャラリー」と呼ばれるが、今あるのは後世のもの。本物はフランス革命のときに革命派によって全て破壊されてしまった。

 歴代のフランス王たちだと思って破壊したのだろうが、最近の研究で、旧約聖書に描かれているキリストの祖先たち、ユダヤの王たちではないかと言われている。

          ★

 パリのノートル・ダム大聖堂のステンドグラスは誠に美しい。宝石のよう、という形容詞が当てはまるのは、ここと、シャルトルのステンドグラスだけである

     ( 薔薇窓 )

 高い薔薇窓には宝石のきらめきがあり、低い窓の絵硝子には、聖書の数々の場面が描かれて、信者の心に語りかける。

     ★   ★   ★

 さて、セーヌ川沿いの散策へ。

木村尚三郎 『パリ』 (文芸春秋社)から

   「パリを味わうには、…… 最低、3、4日、できたら1週間は滞在したい。1日、2日では、ここがコンコルド広場か、ここがチュイルリー公園かと、ガイドブックのなかにある写真と実物を照合するのが精一杯で、訳もわからず興奮しているうちにパリとおさらば、ということになってしまう。3日目くらいから少し落ち着き、少しくたびれて、その辺のカフェに腰を下ろし、ぼんやりと通る人を眺めながら、1、2時間を何となく過ごすようになる。パリが見えてくるのは、それからである」。

 16年前、1人で4日間もパリに滞在したが、見て歩くことに忙しく、全てに緊張し、ただただ疲れて帰国した。東京や大阪と変わらぬ単なる大都会ではないか、なぜ、人は、パリ、パリと言うのだろう? と思った。

 しかし、その4日間、歩き回ったお蔭で、2度目、3度目からは、もう、新しく見て回るものもなくなり、見て回らねばならないという強迫観念からも解放された。そうすると、好きな道をそぞろ歩いたり、「その辺のカフェに腰を下ろし」て昼間からグラスワインを傾けたり。そうしているうちに、だんだんとパリを美しいと感じるようになっていった。

 確かに、パリは美しい街だ。

 

   (チュイルリー公園を行く人)

 チュイルリー公園の木々の葉は落ちていたが、かろうじて残る茶や緑の葉っぱに風情があり、建物も意図的に構成されていて、絵になって、美しい。

   セーヌにはいくつも橋が架けられている。歩行者専用の橋もある。ボン・デザール、芸術橋。ルーブル美術館とフランス・アカデミー(学士院)を結ぶ。

   ( 遊覧船から、ポン・デザール )

 シルエットになった一人一人の人物の、心のときめき、哀感、人生に思いをはせれば、シャンソンの調べが聞こえてくるようである。

   (観覧車から、セーヌ川とエッフェル塔)

 遊覧船から見上げるパリの街並みも美しいが、コンコルド広場にある観覧車から俯瞰するパリもなかなかの味わいがある。ただし、軽度の高所恐怖症だから、カメラを構えていると、風に揺れてちょっと怖い。

 エッフェル塔が建設されるとき、パリに鉄の塔なんて 見苦しい パリの街並みには似合わない などと、批判の声も大きかったようだ。しかし、今は、すっかりパリの街並みになじんで、セーヌ川の風情に溶け込んでいる。 

    ( ショイヨ宮のテラスから )

 ただし、単に、高さを競って、高い塔を建てたらよいのではない。

 ショイヨ宮から、手前のトロカデロ庭園、セーヌ川をはさんでエッフェル塔、その向こうにマルス公園、さらに士官学校の建物と、きちんと計算されて景観が造られている。パリの街並みの美しさは端正な美しさである。

     ★   ★   ★

< 閑 話  >

 フランスの大統領が長年連れ添った「実質的な妻」(婚姻届けを出していない)と別れて、別の女性と同居した、などということが報道されても、ふつうのフランス人やパリっ子は、知らん顔だ。

 こういう場合、日本では、最初、週刊誌がゴシップ記事としてすっぱぬき、それは致し方ないにしても、週刊誌の掲載したゴシップを、連日、「お昼のテレビ」が取り上げて、やいのやいのと批判し、断罪する。どのチャンネルも、一様に、連日。挙句の果て、大統領が辞任せざるをえないほどに追い込む…… だろう。これでは、日本の「主婦」層の政治的劣化は避けられない。

 フランスでは、各自の家の中は各自の勝手。人のプライバシーに立ち入ることは、下司のすること。大統領の評価は、政治家として有能かどうかで決まる。

 こういう点において、フランス人は、見事な「個人主義」である。この場合の「個人主義」とは、人の家のことに関わらない。「のぞき見」しない。人の暮らしを尊重するという意である。

 だが、「人に迷惑をかけなければ、何をしても勝手でしょう」と、ただ自己中心的に生きているわけではない。もう少し積極的である。

 杖をついた危なかしい足取りのおばあさんが、長い横断歩道を渡ろうとしている。 すると、横を歩いていた若い女性が、すぐにおばあさんの腕をとって、信号が赤になっても、おばあさんのペースでゆっくりと歩き、渡りきる。おばあさんは一言お礼を言い、女性はにこっと笑ってさっさと歩いて行く。 (フランスの横断歩道の信号はすぐに赤になるが、車は歩行者がいる限り発進しない)。

   街角で、東洋人の旅行者がガイドブックを広げて首をひねっている。買い物かごを乗せた自転車のマダムがピュッと横に自転車を止めて、「何かお手伝いしましょうか?」 。 

   こうした光景は、地方だけでなく、人間関係が薄いと言われる大都会のパリでも見る光景であり、日本の都会で暮らしている者にとっては、新鮮に映る。

 日本では… 戦後の日本だが … 、誰もがもう少し自分の殻にこもって、「個人主義」で生きているように見える。人のことに関わらない。「人に迷惑をかけなければ、私の勝手でしよ」。

 フランスでは、各自の家の中は各自の自由。しかし、一歩家を出たら共同体の一員としての市民の自覚。或いは、責任。市民として関わりあう精神がまだ生きているように思う。

 「市民精神」の基盤の上に、「自由」や「個人主義」が成り立っている。

 「市民精神」の基盤の上に立たない「自由」や「個人主義」は、砂の集まりだ。手のひらから落ちる砂はサラサラのバラバラ。── 「もしどこかの国がが攻めて来たら??」「逃げる」。

  今でも、多少とも市民精神のDNAが残っているのが、フランスであり、西洋なのだと思う。

 「自由」とは何か、「市民精神」とはどういうものかについて、以下、木村尚三郎 『パリ』 (文芸春秋社) から

 「ノートル・ダム大聖堂はパリのなかでも最も高い建物であり、…… それより高い建物は認められなかった…。パリの建物が6階ないし7階にそろえられているのも、このためである」。 

 「ちなみに、パリ市内の建築・居住規制は、日本の都市などとは比べものにならないくらいに厳しい。一戸建て住宅は存在せず、大統領・首相以下、誰もがマンション暮しである」。

 「パリが美しいと感じられるのは、建物による均整美だけではない。洗濯物がベランダなどにまったく見えないからである。…… ベランダに洗濯物や絨毯を干したりすれば、美観を損ねるとして罰せられる」。

  「たとえ自分が所有する立木一本と言えども、市の許可なく勝手に切ることはできない。これも、中世以来の決まりである」。

  「それは、パリに生まれ育った人たちにとってだけではなく、世界の誰にも美しいとされる普遍性が追求されているからである。そこに、世界都市パリの面目がある」。

  「市民共同体の一員として、自ら積極的に公益を実現しつつ生きる、これなくして都市に生きる資格のないことを、パリは教えている 」。

         ★

  そして、辻邦生『言葉が輝くとき』(文藝春秋) から           

  「そのとき、メトロがぱっとセーヌ川の上に出て、窓からパリの街が見えた。夕日のもとですごく美しかった。私はただたんに、美しいなという感嘆よりも、そこに、その風景を美しくしている意志があるなと感じた。ただ漠然と美しいのではなく、美しくあらしめよう、きちんとした街にしようという激しい秩序への意図があり、さらにそれを実現する営みがある、これがつまりヨーロッパなのだと思った。ここから、私とヨーロッパとの最初の出会いが始まったと思います」

      ★   ★   ★

< 旅の終わりに  > 

 イル川の中州につくられた世界遺産の町ストラスブールは、ドイツ風の木組みの家々のある落ち着いた街並みで、赤色砂岩で造られたという大聖堂が、夜、金色に輝いていた。

 ランスの大聖堂は第一次世界大戦で破壊されたが、残されたファーサードの彫刻群の、その中でも、「微笑む天使」は最高にgood それに、シャガールの青のステンドグラスは、中世のものと一味違って、さすがにステキでした。

 ランスやアミアンの天を衝く大聖堂に入ったとき、鬱蒼と高い樹木の中にいる感じがした。確かに、ゴシック様式はゲルマン的な北方・森の文化を背景にしている。白雪姫も、ヘンデルとグレーテルも、森の中の物語だ。

 ゴシック様式発祥の地・パリ郊外のサン・ドニ修道院は、修道院長シェゼールというリアリストが面白い。

 シャルトルの大聖堂は、地平線に夕日が沈むボース平野に立つから、一層、素晴らしい。

 パリのノートル・ダム大聖堂は、セーヌの流れにその姿を映して、より感動的である。

 どちらも、その姿が端正で、ステンドグラスの輝きに気品と深みがあるが、そればかりでなく、周囲の環境に溶け込んで、美しい調べを奏でている。

 最後に。

 この旅は、馬杉宗夫『中世の聖なる空間を読む … 大聖堂のコスモロジー』 (講談社現代新書) を読んだ時から頭にあった旅で、いわばこの本に導かれて出かけたようなものである。馬杉先生とは全く面識はないが、そのご研究に敬意を表して、終わりとします。

   でも、同じ本の中に紹介されているゴシック様式の前の時代の聖堂、鄙びた味わいのあるロマネスクの聖堂を、人里離れたフランスの田舎に訪ねる旅もしたくなりました。

 

 

 

 

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王家の墓所サン・ドニ・パジリカはゴシック様式発祥の修道院…フランス・ゴシック大聖堂を巡る旅 9

2014年02月01日 | 西欧旅行…フランス・ゴシックの旅

             ( セーヌ川の川中島サン・ルイ島 )

< サン・ルイ島の小さなホテル >

 シャルトルからパリへ戻った。

 パリのホテルは、いつもセーヌ川に近いところになる。パリのセーヌ川沿いの風景は本当に美しく、歩いていて、心楽しい。

 しかし、高い。特に円安の今、パリのホテル代の高さと、にもかかわらず、その部屋のあまりの狭さに、あきれてしまう。それでも、世界中から観光客が押し寄せるのがパリ。街行く観光客も、みんな人生のこのひとときを心から楽しんでいるように見える。

 セーヌ川の川中島。パリ発祥の地であるシテ島と、それに続く小さなサン・ルイ島。今回はそのサン・ルイ島のプチホテルに2泊した。

 サン・ルイ島には、シャンゼリゼ大通りやオペラ通りのような豪華さはない。メイン通りのサン・ルイ・アン・リル通りは、狭い道に、ちょっとオシャレで小さな店が軒を連ね、カフェ、レストランやプチホテルもある。

  ( サン・ルイ・アン・リル通りの夜 )

 しかし、この界隈は、パリっ子が一度は住んでみたいと思うスノッブな一画なのだ。そう、あのマダム・ケイコ・キシも、この一画の、どこかの建物の1フロアーに住んでいる、と、ご本人のエッセイ集で読んだことがある。

 ここには、エディット・ピアフやイブ・モンタンが歩いていた古き良き時代のパリの香りがあるのかもしれない。

 16年前、初めて一人でパリに来たときの夜、うまく注文できるかと緊張して入ったレストランが今もあった。もちろん、星付きなどではない。ごく庶民的なレストランである。 シテ島からサン・ルイ島へ、橋を渡ったところにある。メニューを見て、「牛肉」という単語しか知らなかったので、その単語の入っていた料理を注文した。ステーキは、日本と違ってずいぶん噛みごたえがあったが、美味しかった。近年の日本のグルメ番組を見ていると、タレントが二言目には「柔らかいですねえ」「ジューシーですねえ」と言う。年寄りみたいな感想だ。

 

  (夜のサン・ルイ橋近くのレストラン)

 サン・ルイ橋のたもとでは、初老のおじさんがアコーデオンでシャンソンを弾き、自転車で通りかかったという感じの若い女性 (多分、今日の仕事を終えたあと、アコーデオン弾きのおじさんの応援に来たのだと思う) が、自転車に跨ったまま、エディット・ピアフのように颯爽とした良い声で歌っていて、思わず立ち止まって聞きほれてしまった。 パリにはシャンソンがよく似合う。シャンソンはアコーデオンでなければならない。

 その100mほど先の、左岸とシテ島を結ぶアルシェヴェシェ橋から、セーヌの流れとノートル・ダム大聖堂のライトアップされた姿が見える。パリを代表する風景の一つである。

          ( アルシェヴェシェ橋から )  

 島の真ん中を通るサン・ルイ・アン・リル通りのホテルから数軒先に、スーパーマーケット (食材店) の店があった。ここで、朝食用のハム、果物、野菜、ヨーグルトなどを買った。

 

         ( 小さなスーパーマーケット )

         ★

< ゴシック様式をデザインした人…修道院長シュゼール >

 聖人に列せられたドニ(サン・ドニ) は、アテネの人だと言う。まだキリスト教が異教であった3世紀半ばに、パリに伝道にやって来て殉教した。その墓に、小さな教会が建てられた。それがサン・ドニ・パジリカである。

 このパジリカは、7世紀に、大きな勢力を有するようになっていたヴェネディクト派の修道院となって拡張される。

 さらに1122年に、当時の修道院長であったシュゼールによって大改修が手掛けられ、1144年に完成した。今までの常識を打ち破った全く新しい聖堂、ゴシック様式の聖堂の誕生であった。

 修道院長のポストは、当時、普通、王侯貴族の子弟が占めていた。そういう人のなかに、学問的に優れた人もいた。日本の中世もそうだが、学問をし、学識の高い人と言えば、まずは大寺の僧侶である。ヨーロッパでも、ソルボンヌ大学をはじめ大学は、ラテン語で神学や、神学を構築するために必要な哲学を学ぶために創設された。

 シュゼールは貧農の出身だったと言う。その彼が、フランス王家の墓所でもある、格式の高い修道院の院長になれたのは、世故にたけていた面もあったかもしれないが、やはり周囲の誰もが認めざるを得ないような秀才であったからだろう。

 いや、天才かもしれない。彼は、ラテン語を読み解き神学を論じる哲学的頭脳だけでなく、数学や物理学、さらには美学にも通じる頭脳の持ち主であったと思われる。

 もちろん、優れた建築家、「石造建築の博士」と称せられたピエール・ド・モントルイユがいて、彼のビジョンを現実化してくれたのではあるが。 

 既に書いたが、シュゼールが目指した、後に「ゴシック様式」と呼ばれる聖堂は、一歩中に入ると天井が天に届くように高い。そのような壮大な「神の家」でこそ、人は初めて神を感じることができると彼は考えたのだ。それにしても、それまでのロマネスク様式の教会の何倍もの高さをもつ石の建造物をどのように造るのか?

 それだけではない。彼のビジョンにはもう一つ、重要な要素が加わる。周囲の壁は窓によってくり抜かれ、その窓に美しい色ガラスが埋められなければならない。つまり、美しいステンドグラスを通過して、神秘的な光が差し込む空間にしたい、というのが彼の構想である。「神は光なり」。シュゼールの美学は、「光の美学」である。

 かつてない大きな建物、それを覆う石の天井を支えねばならない周囲の壁に、大きな穴を開け、窓にする。天井の重みに耐えられるはずがない‼ 今までのロマネスクの聖堂でさえ、その天井の石の重みに耐えるため、壁には小窓しかなく、内部は薄明の世界だったのだ。

 この矛盾を克服するかつてない斬新な工法が創造され (尖塔アーチ、ヴォールト、バットレス)、サン・ドニ・パジリカはステンドグラスの輝く美しい聖堂として生まれ変わる。

 そして、この様式は初めにフランス、さらにイタリア中・南部を除く全西欧世界に広がり、ゴシック様式全盛の時代が到来するのである。

 ただ、シュゼールという修道院長を、美しいものにあこがれるロマンチストだと思ってはいけない。新装なったサン・ドニ修道院の扉口に刻まれた文章には、「… 愚かなる心は物質を通して真実に達し …」というフレーズがある。 (この辺り、馬杉宗夫『大聖堂のコスモロジー』を参照)。

 人間は愚かな存在であり、だからこそ、人間が神に近づくには、天をつく大聖堂や光のステンドグラスなどがの装置が必要なのだ、と彼は考える。人間性の現実を見る彼の目は、シビアーでリアルである。それが彼の素顔である。

 その後のゴシック様式の展開を見ると、ロマネスク時代の聖堂の彫刻が素朴でメルヘンチックであったのに対し、ゴシック大聖堂を飾る彫像は、聖人一人一人の顔が写実的になり、風雪に耐えた、人間的で、個性的な表情になっていく。近代人の顔である。

 西欧を旅し、また、関係する本を読んでいると、西欧の歴史は、こういうリアリストによって発展してきたのではないかと思えることもある。

         ★

< 初めてパリ郊外の町サン・ドニへ行く >

 町の名でもある「サン・ドニ」は、パリの北4キロの郊外。メトロ1号線から13号線を乗り継いで、サン・ルイ島の最寄り駅からは17駅もある。RER (高速郊外地下鉄線) を使えば駅の数も少なく、早いが、RERの車内では、時に暴力的な強盗事件も起きるというので、地下鉄にした。

 

     ( パリの地下鉄のホーム )

 フランスやドイツの学校に、日本風の「生活指導」という領域はない。最近、カウンセラーを置きだしたようだが、しつけや道徳教育は基本的に保護者の役割。学校がそれをやるとかえって親から抗議を受ける。「先生、息子が学校でタバコを吸って迷惑をかけたことは申し訳なかった。しかし、先生、私が連絡を受けて学校へ来るまでの間に、ずっと息子に説教されたそうだが、子どもに生き方を教えるのは親の仕事だ。学校は勉強を教えるところで、偏向教育をしてもらっては困る」。

 しかし、フランスでも 「荒れる学校」はある。パリの周辺部の学校だ。パリを囲むドーナツ型のリンクに移民・難民が住み着き、言語、宗教、就業の問題もあって、治安はよろしくない。だから、パリに来ても、サン・ドニへ行くことは避けてきた。だが、今回、ゴシック大聖堂を見て回ることにした以上、その発祥の地に行かないわけにはいかない。

 13号線に乗り換えてまもなく、小学校3、4年生ぐらいの男の子が、ぴょんぴょん跳ねるように車両の中をやって来て、乗客にカネをせびり、列車が駅に停車するとホームに降りて、もらった硬貨の中からセントなどの小銭を無造作に線路に投げ捨て、また車両に飛び乗って、回っていく。ニヒルに無表情で、動作はすばしっこい。

 サン・ドニ駅を出ると、通りを行く人も、レストランやカフェやその他の店で働く人も、人種のルツボだった。アフリカ系、アラブ系、東洋系。ヨーロッパ系の人はほとんどいない。メトロから地上に出て方角がわからず、カフェでコーヒーを飲みながら店のアフリカ系の青年に聞いたが、要領を得ない。カフェを出て、通りかかった若い女性に聞くと、私も同じ方へ行くのでと、教会まで連れて行ってくれた。助かった。

※  一言、フランスのために付け加える。フランスは、歴史上、難民や政治的迫害を受けた人々を 積極的に受け入れてきた国であり、自由を求める人々にとってあこがれの地であった。

        ★

< サン・ドニ修道院のステンドグラスと王家の墓 >

   ( サン・ドニパジリカ )

 ゴシック様式発祥の聖堂であるが、聖堂の扉口を飾るゴシック様式最初の聖人の彫刻群は、今はない。フランス革命の折に、革命派によって全部破壊されてしまった。だから、火災を免れたシャルトルの大聖堂の西正面の彫刻群が、今は最も古い初期ゴシック彫刻である。

 高校時代に習ったフランス革命は、自由、平等、博愛の美しい政治革命だったが、フランスを旅して気づくのは、革命の過程での人の命に対するむごさと、無茶苦茶な破壊の大きさである。善悪二元論の世界は、恐ろしい。

 聖堂に入ると、今回の旅で見てきた大聖堂と比べ、規模こそ小さいが、ゴシック様式のほぼ完成された聖堂であった。この聖堂によって、歴史のページが1枚めくられたのだ。

  

  (サン・ドニ聖堂の中)

   ゴシック様式の聖堂には必ず薔薇窓がある。それは、正面扉口から中に入って振り向いたとき、高所に咲く大輪の花のごとく目にとびこんでくる。その薔薇窓の最初のものが、ここにあった。

 明るい紫が基調になって、美しい。

      ( 薔薇窓 )

 中央の小さな円から12本の黒い箭(ヤ)が出ている。中心はキリスト。12本の箭は、世界に福音を伝える使徒たちを意味するのだそうだ。

 しかし、われわれ異教徒たちは、ただその輝きの美しさを見つめたらよい。

     ( ステンドグラス )

 サン・ドニ修道院のステンドグラスは、全体に明るく、色調も色鮮やかで、華やかである。

 その分、シャルトルの大聖堂のステンドグラスがもつ、宝石箱をひっくり返したような、深い、清純な光のきらめきはない。

         ★

 この修道院は、フランス王家の墓所でもある。

 ふつうの大聖堂は、内陣部も、周歩廊を歩いてぐるっと一巡できるようになっているが、ここでは内陣部に立ち入れないようにロープが張られていた。

 ロープの奥に、死者の横臥像が載った棺が見える。内陣部が墓所なのだ。

 その墓所は、一度、建物を出て、別の入り口から入場料を払って入るようになっていた。

紅山雪夫『ヨーロッパものしり紀行…建築・美術工芸編』新潮文庫から

 「石造りの天蓋が設けられ、天蓋の上には、華やかに盛装してひざまずき、神に祈りを捧げている王と王妃の像が置かれる。それに対し天蓋の下には、王と王妃の横臥像が置かれるのだが、こちらは死んだときの形相を赤裸々に表現してあって、思わずぎょっとするような迫真の彫刻である 」。

 

 初代フランス国王のクロービス、イベリア半島を制圧してなお東へと侵攻してくるイスラム軍をピレネーの麓で撃破したカール・マルテルなど、歴代の王や王女の棺や墓があり、まさにヨーロッパ史がここにあった。

     (フランス王家の墓)

 だが、「死んだときの形相を赤裸々に表現してあって、思わずぎょっとするような迫真の彫刻である」という、棺の並ぶなかを見て回っているうちに、空気がよどんで、悪霊がまとわりついてくるような感じが徐々にしてきて、気持が悪くなり、ここは異教徒の長居するところではないと、表へ出た。

 見るべきものは見た。もう、十分だ。外気がおいしい。塩があれば、肩から背中に振りかけたい気分だ。

 ただし、棺の中は空っぽである。フランス革命のとき、聖堂を襲った民衆によって王たちの遺体の骨は全部地下に投げ捨てられ、ごちゃ混ぜになり、今では元に戻しようがなくなった。

 いかなる理由があろうと、死者の墓をあばき、さらにこれを鞭打つようなことをしてはいけない。

         ★          

  何度もパリを訪れ、そのたびにノートル・ダム大聖堂に入ったが、ゴシック様式発祥の地、サン・ドニまで足を伸ばしたことは一度もなかった。また、ゴシック様式を興した修道院長シュゼールについても、彼の思想や偉大さは言うまでもなく、その存在すら知らなかった。

 また、少しだけ深く西欧を知ることができた。

 明日は、この旅の終着地であり、また、ある意味、出発の地でもあるパリのノートル・ダム大聖堂を再訪しよう。

 

 

 

 

 

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