ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

日本の恥‥‥スポーツの世界から暴力一掃を!

2013年01月31日 | 随想…スポーツ

 女子柔道の日本代表チームに対する体罰指導が発覚した。

 「園田監督は技の研究に熱心で理論に定評はあるが、熱血漢ゆえに行き過ぎてしまうタイプの指導者。関係者によると、昨年の国際大会で選手を平手打ちしながら叱る園田監督に対し、欧米のコーチが制止する場面もあった」。

 「理論に定評がある」のに、何で暴力をふるわなければ指導できないのか? 

 暴力を振るうのは、「熱血漢ゆえ」? 冗談ではない。単に自分をコントロールできない、情緒不安定なわがまま人間だというに過ぎない。

 何年か前、大相撲で弟子を死なせる事件があり、今回は桜宮高校、そしてトップアスリートの世界でもまかり通っていた。 

 普通の社会では、暴力は犯罪なのですよ。

 「科学的な指導方法」をもたないくせに、「柔道は国技。金メダルしかない」などと大見得を切るから、「殴ってでも指導」となり、それを「熱血指導のゆえ」などと弁解する。

 安易に選手を殴っている間は、正しい指導方法論など生まれるはずがない。方法論のない日本柔道は、ますますメダルから遠ざかること、間違いない。

            ☆

 見かねて「欧米のコーチが制止した」と言う。 殴られている日本選手たちは、世界トップクラスのアスリートたちですよ。 

 世界の人々が見ている前で、自国の選手に暴力を振るい、外国のコーチに制止されるわが日本の監督。

 彼女たちは、自分が殴られる痛さよりも、そういう野蛮で、情緒不安定な監督の下にいることに、日本人として、身の縮むような恥ずかしさと悔しさを覚えたに違いない。

 私は、「美しい日本」が好きだから、殴ったり、蹴ったり、「死ね」などと罵声を浴びせたりするような指導者は、絶対に許せない。スポーツは、暴力とは対極にある世界のはずだ。

 にもかかわらず、「戒告」で済ます全柔連。 自分たちが日本の恥部になっていることさえ、わかっていない。「柔道」の創始者、嘉納治五郎先生が泣いていますよ。

 男子柔道は、大丈夫? 全く大丈夫ではないでしょう。

            ☆

 自分の頭で考え、研究し、自分で自分を成長させることができるアスリートを育てなければ、世界には通用しない。

 澤穂希も、荒川静香も、福原愛も、伊達公子も、本田圭佑も、長友佑都も、室伏広治も、朝原宣治も、桑田真澄も、佐野優子も、北島康介も、太田雄貴も、トップアスリートたちは、みんなそう。

 彼ら、彼女らは、体罰監督や体罰コーチは大嫌い。自分で上手になろうと、若いときから必死で考えながら、練習した。それを助け、一緒に考え、研究し、励まし、忠告もしてくれるのがコーチという存在だ。

 この際、日本のスポーツ界から、暴力監督、暴力コーチを完全に一掃しよう。それは、日本に、グローバルスタンダードのスポーツ思想を普及するための変革である。

  

 

 

 

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旅の前に …… 冬のサンチャゴ・デ・コンポステーラへ

2013年01月26日 | 西欧旅行…サンチャゴ・デ・コンポステーラ

    ( 飛行機の窓から、ヨーロッパアルプス )

 

 このブログ 「ドナウ川の白い雲」 を、いつも読んでいただいている方々に心から感謝いたします。読んでくださっている方々が、いらっしゃるということが励みとなり、好きなことを書き続けてきました。

 さて、勝手ながら、8日間、日本を離れますので、このブログも少しお休みをいただきます。

 旅先で、ブログを書いたら良いのでしょうが、(中)高年世代としては、パソコンを持って旅をすることも、旅先で、夜、文章を書くことも、気力・体力ともに、到底不可能です。何とか無事に旅をして、せめて良い写真を撮りたいと思っています。

        ★

 旅程は、以下のとおりです。

日 12/14(金)  

 関空→アムステルダム→マドリッド→ビーゴ(スペインの大西洋側の港町)

日 12/15(土)

 ビーゴ(列車)→サンチャゴ・デ・コンポステーラ(見学)

日 12/16(日) サンチャゴ・デ・コンポステーラ(見学)             

日 12/7(月) サンチャゴ・デ・コンポステーラ→(列車)レオン(見学) 

日 12/18(火) レオン(見学)→(列車)マドリッド(見学)

日 12/19(水) マドリッド(見学)

日 12/20(木) マドリッド→アムステルダム→

日 12/21(金) →関空(朝)

       ★ 

 今、心配しているのは、第1日目に、大西洋岸の港町ビーゴまで、無事に飛行機を乗り継げるか、ということです。

 先日も、雪で、アムステルダムのスキポール空港が混乱したようです。

 マドリッドの空港も心配しています。乗り継ぎ時間が1時間20分しかなく、ヨーロッパでは列車でさえ遅れるのが当たり前で、日本のようにはいきません。人間は何とか乗り継げても、機内預けのバッゲージがビーゴに来ない可能性もあります。

 雪で飛行機が飛ばず、マドリッドでやむなく1泊、ということも、想定しています。そういうときの航空会社とのやりとりは、英語もろくに話せないのに

 でもまあ、心配してもきりがない。今は出発あるのみです。

        ★ 

 天気予報では、第1日目から第4日目までは、暖かいけれども、ずっと雨です。

 ただ、サンチャゴ・デ・コンポステーラは、もともと雨の多いところだそうで、「雨のサンチャゴ・デ・コンポステーラ」 を楽しめないようでは、行く意味がないそうです。

 今回の目的は、キリスト教の三大巡礼地の一つ、サンチャゴデ・コンポステーラ。

   それと、ユーラシア大陸の西の果て、大西洋を、列車の窓から一目見たいということです。

 以前、ヴェネツィアに行ったとき、ヴェネツィアの商船・海軍が活躍したアドリア海を一目見たいと、リド島に渡り、アドリア海の見える浜まで歩いて行ってみたら、地図上ではイタリア半島とバルカン半島にはさまれた細長い海ですが、小さな人間の視界には、太平洋と少しも違わない広大な海があったので、がっかりして帰ってきました。

 仕事で、オーストラリアのパースへ行ったときは、その先の海がインド洋だと知り、列車に乗って見に行きました。が、海に「インド洋」と書いてあるわけではなく、普通の海が遥かに広がっていました。海水をなめてみると、恐ろしく辛かったことを覚えています。

 それでも、ユーラシア大陸の向こう側の果て、大西洋につながる雨のリアス式海岸を、サンチャゴ・デ・コンポステーラへ向かう列車の窓から、見てみたいと思います。

  「 ‥‥窓にいっぱいに、大西洋‥‥」(水森かおり) です。♪♪

 スペインといえば、アンダルシア地方ですが、それは、次回、もっと良い季節にとっておきます。

         ★

  旅をすること。そのために、日ごろ、多少とも歩いたり、プールに行ったりして体調を整えること。また、インターネットで航空券を取ったり、ホテルを探したり、列車その他のチケットを確保したりすること。

  そして、旅に出ると、言葉の通じない異国を肌で感じ、未知のものを見、はらはらどきどきの冒険もし、帰ってからは、見たもの、感動したものについて、あれは何だったのかと歴史の本を読み、それらを記録する。

 そういうことが、リタイア後の第一の自己活性法であり、健康法です。

  それではまた、このブログで。

 

 

 

 

 

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大西洋を見た!…… 冬のサンチャゴ・デ・コンポステーラへ

2013年01月24日 | 西欧旅行…サンチャゴ・デ・コンポステーラ

 とりあえずの旅の報告です。

 予定どおり21日に帰ってきました。しかし、まだ疲れています。

 フランス、ドイツ、イタリアなど、もう10数回もヨーロッパへは行っているのですが、スペインは初めて。それにしても、サンチャゴ・デ・コンポステーラは、遠い。

 第1日目。KLオランダ航空で関空を出発して、アムステルダムで乗り継ぎ、マドリッドで乗り継いで、大西洋側の港町ビーゴに着き、雨の中タクシーでホテルに着いたのは、現地時間で夜の11時ごろ。日本時間では翌日の午前7時です。

 家を出たのが前日の午前8時だから、実に23時間の旅でした。

 まずは反省‥‥。若者ではないのだから、これは、いきなり過酷でした。

 案の定、5日目と6日目のマドリッドで体調をくずし、絶食をしました。外国旅行へ出ると元気になるのに、このように体調をくずしたのは初めてです。年のせいかもしれません。

         ★

 この旅のハイライトは、3日目でした。

 この日、1日、タクシーを頼んで、サンチャゴ・デ・コンポステーラからフィニステレというスペインの最西端の、大西洋に臨む灯台のある断崖まで行きました。

 1日、タクシーを雇うなんて贅沢ですが、ホテルのお兄さんに聞くと、225ユーロで行ってくれるというのです。25000円くらい。ここまでやってきて、2万5千円を惜しむようでは、人生は暗いというものです。 

 タクシーの運転手は初老の、ちょっとサッカーの日本代表監督ザックに似ていて、途中、風光明媚な港町に立ち寄って貝の養殖や採り方を説明してくれたり、ガリシヤ地方の民俗的な文化遺産を案内してくれたりと、ガイドとしてもプロフェショナルでした。もちろん、スペイン語で。

 身振り、手振り、紙に絵をかいたり、スマホで写真を探して示してくれたり、あらゆる努力をして、本当に丁寧に、一生懸命、説明してくれるのです。人柄を感じました

 そして、灯台のある断崖の上に立って茫々と広がる大西洋を見ていたら、雨もあがり、日も射してきました。

 ユーラシア大陸の東の果てから、ユーラシア大陸の西の果てまで、遥々とやってきたという感慨をもちました。

           ★

 今回の旅は、往復を含めて8日間。現地にいたのは、正味、5日間だけで、あっというまの、短い旅だしたが、また、写真入りで報告します。 

 「雨のサンチャゴ・デ・コンポステーラ」が今回の旅のテーマでしたが、行っている間、ほとんど雨。青空に浮かぶドナウ川の白い雲もすてきですが、雨と霧のスペイン・ガリシア地方の風景もなかなかのものでした。

 でも、晴れた日の大西洋も見たかったなあ。                                                  

(了)

 

 

 

 

 

 

 

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冬のサンチャゴ・デ・コンポステーラ紀行 1 

2013年01月19日 | 西欧旅行…サンチャゴ・デ・コンポステーラ

 

  ( カテドラルの塔を飾るロマネスク様式の素朴な像 )

 

< 冬のサンチャゴ・デ・コンポステーラの旅へ >

 2011年の陽春の5月、このブログの題となる「ドナウ川の旅」へ出かけた。その旅の満足度が高く、感動が緒を引いたせいか、以来、1年半もヨーロッパ旅行から遠ざかってしまった。

 そして、急に旅心抑えがたくなり、2012年の師走の14日に関空を出発した。「冬のサンチャゴ・デ・コンポステーラの旅」である。

 太陽の国・スペインとは言え、そこはユーラシア大陸の最西端、イベリア半島の北西部に半島のように突き出したガリシア州のローカルな町である。しかも、中世以来のキリスト教の巡礼の地となれば、いかにも寒々として陰鬱だ。にもかかわらず、秋が深まるにつれて、そぞろ心ひかれるのである。

         ★

< サンチャゴ・デ・コンポステーラとは?? >

 キリスト教に、三大巡礼地がある。遥々と旅をして参詣すれば、全ての罪が免罪されるという。

 一つは、聖ペテロの殉教の地に建てられ、全ての教会の礎となった、ローマのヴァチカン。二つ目は、十字軍以来、異教徒との間に争奪戦が続く、イエス・キリストの殉教の地・エルサレム。そして、三つ目が、サンチャゴ・デ・コンポステーラ。

 今、スペインで最も活気のあるバルセロナや、首都マドリッドからは遥かに遠く、イベリア半島の北西の果て、あと少しで大西洋という、鄙びた宗教都市である。

 9世紀に聖ヤコブ(サンチャゴ)の墓が見つかり、爾来、数々の奇跡も起こったとされる。もちろんヤコブの遺骸と実証されたわけではないのだが。

 中世も後半に入ると、多くの人々が巡礼者となって旅に出た。

 例えば、パリを出て、フランス・ブルゴーニュ地方のヴェズレーの丘の、マグダラのマリアの遺骸があるというサント・マドレーヌ聖堂に参詣し、さらに歩き続けて、ピレネー山脈を越え、イベリア半島を横断して、サンチャゴ・デ・コンポステーラのカテドラル (大聖堂) に安置されている聖ヤコブの遺骸に遭うのである。

 800キロに及ぶこの巡礼路は、今は世界遺産に登録されている。

 そして今も、ヨーロッパ各地、アメリカ、オーストラリアなどからやって来た巡礼者たちが、徒歩で、或いは、自転車で、巡礼する。ある人にとって、それは、自己の心の罪をあがなう旅であり、またある人にとっては、愛する人を喪った傷心を癒やす旅であり、また、青年や時に40歳を過ぎてからの自分探しの旅であり、さらには、「山のあなたの空遠く」へ行ってみたいというロマンチックなあこがれや冒険心にかき立てられての旅である。

 日本人もまた、今、四国88箇所の旅や、熊野詣での旅に出る人は多い。外国人までが、それらの巡礼路にやってくる。

 洋の東西や、時代の違いによって、また、人それぞれによって、その動機は異なり、決して同心円ではない。

 同心円ではないが、旅をするのが、人間である。

 ユーラシア大陸の西の果てに近く、大西洋までもうすぐというサンチャゴ・デ・コンポステーラ。

 人口8万人少々の、石造りの、鄙びた、古い、宗教都市である。雨の似合う街、と誰かがブログに書いていた。

          ★

< 旅の行程 >

第1日 ( KLMオランダ航空で ) 大阪 → アムステルダム → マドリッド → ヴィーゴ

第2日 ( 列車で ) ヴィーゴ → サンチャゴ・デ・コンポステーラ

    <サンチャゴ・デ・コンポステーラ観光>

第3日  <大西洋の岬・フィステリアヘ>

第4日 ( 列車で ) サンチャゴ・デ・コンポステーラ → レオン

    <レオン観光>

第5日 ( 列車で ) レオン → マドリッド

    <マドリッド観光>

第6日  <マドリッド観光>

第7日 ( KLMオランダ航空で ) マドリッド → アムステルダム →

第8日 → 大阪 

 スペインのほとんど最北西端のサンチャゴ・デ・コンポステーラへ行くのに、どうしたらよいか?? いろいろ調べて、見つけた。

 関空から、KLオランダ航空で、アムステルダム、マドリッドと乗り継いで、その日のうちに (時差はあるが)、スペインの、大西洋に臨む港湾都市ヴィーゴまで飛ぶ。2度も乗り換えるのは大変だが、初日がんばれば、翌朝、ヴィーゴから鈍行列車で北上し、1時間半でサンチャゴ・デ・コンポステーラに着く。

 これ以上に簡潔で、早い方法は、ない。

 サンチャゴ・デ・コンポステーラからの帰りは、マドリッドまで列車の旅とする。

 ただ、サンチャゴ・デ・コンポステーラからマドリッドまでの列車は、日に2本しかない。ゆえに、途中、レオンというスペイン北部の都市に1泊することにする。

 イベリア半島の大部分がイスラム勢力に支配され、西ゴード王国の残党のキリスト教徒がイベリア半島の北部に逼塞していたころ、レオンを都としていた。レコンキスタ (国土回復運動) は、ここから起こったと言ってもよい。

 また、サンチャゴ・デ・コンポステーラへの巡礼が行われるようになると、レオンは巡礼路の要衝の地となった。  

                        ★  

< 第1日 ── ヴィーゴへ >      

 午前に、関空を出発した飛行機は、冬晴れ、積雪の日本列島を縦に北上し、新潟のあたりで日本海に出て、大陸へ向かった。

 思い立ってから出発までの日数が少なく、あわただしい旅立ちだった。

     ( 雪の日本列島を北上した )

  ヨーロッパ時間の15時25分にアムステルダム空港に到着し、16時50分発のマドリッド行きに乗り継いだ。

 ベルギー、フランスの上空を越え、すでにとっぷりと日の暮れた、冬のマドリッド空港に着いたのが19時20分。

 アムステルダム空港などと比べると、どこかローカルな趣のあるマドリッド空港のベンチで、家にいれば今ごろは暖かい布団の中だったのに、などと思いながら時間を過ごし、20時50分発のヴィーゴ行きに乗る。

 ヴィーゴ到着は22時。日本時間では、もう朝の6時だ。24時間も寝ずに活動したことになる。

 リフト・バッケージで、案の定、スーツケースが出て来なかった。

 ロスト・バッケージの窓口で手続きする。こちらは英語をほとんど話せないのに、窓口のおじさんの英語は、ほとんどスペイン語だ。それでもとにかく、「明日の午後には、サンチャゴ・デ・コンポステーラのホテルへ届けられるだろう」とのこと。

 ただ、2度も乗り換えたのだから、ロスト・パッケージは想定内。今晩の着替えぐらいは、手荷物に入れてある。

 ヴィーゴは、スペインの大西洋に臨む港町だ。人口27万人。スペインのガリシヤ地方では最も大きな町である。

 空港を出ると暗く、タクシーに乗って、暗い道路を走り、予約していたホテルへ。疲れた!!

                                ★

< 第2日 ── 小雨降るサンチャゴ・デ・コンポステーラ >

   ヨーロッパの冬の夜明けはおそい。

 夜が明けて、ホテルの窓から見ると、ヴィーゴ港があった。知らない港町の朝だ。

          ( 夜明けのヴィーゴ港 )

 ホテルから徒歩で数分の鉄道駅に行き、9時40分発の鈍行列車で、サンチャゴ・デ・コンポステーラへ向かった。

   逆方向の列車に乗れば、ポルトガルに入り、ポルトへ向かう。だが、列車の便は悪い。

 車窓から見る小雨降る景色は、大西洋の入り江が入り込んで湖沼のようになり、漁村や農家の小さな家々が彩りを添えて異国的であるが、地形は、今まで見てきた西ヨーロッパのものと異なり、日本に似ていた。低い山々があり、山は緑で、海岸線は入り組んで繊細であった。

 

          ( 鈍行列車の車窓風景 )

                ★ 

 キリスト教の三大巡礼地の一つとはいえ、サンチャゴ・デ・コンポステーラは、スペインのはずれの人口8万人のローカルな街である。

 旧市街も小さい。それでも、かつては、7つの門をもつ城壁に囲まれていたそうだ。旧市街全体が、車の乗り入れ禁止地区になっている。

 旧市街の中心は、オブラロイド広場である。

 さすがに三大巡礼地の一つにふさわしく、長い旅を終えた巡礼者たちが、思わず跪き、涙を流して喜び合う、石畳の重厚な広場である。

 広場の東側に、巡礼者たちを迎える巨大なカテドラル (大聖堂) がそびえている。聖ヤコブの棺は、いかにも歳月を経たこの花崗岩の大聖堂の中に納められている。

 

   ( オブラドイロ広場とカテドラル )   

 広場を挟んで、カテドラルの向かいには、これも立派な市庁舎が建つ。

 クリスマスが近く、市庁舎の清掃が行われていた。

 

      ( 市庁舎の清掃 )

 広場の北側には、これも壮麗な旧王立病院の建物がある。15世紀に、巡礼者の保護のために建てられた。今は、五つ星のパラドールになっている。

 五つ星ホテルに泊まるという贅沢は初めてだが、広場に面し、目の前がカテドラルという立地と、その文化遺産としての価値に心ひかれて、今日と明日の2日間、このホテルに泊まる。

 カテドラルを見学する前に、旧市街の路地の庶民的なレストランで、観光客や現代の巡礼者の中に混じって昼食を食べた。

 街のもつ重厚で陰鬱な感じから、内陸的なイメージがあるが、ここは大西洋に近く、街の飲食店のウリは、アサリ、海老、蛸、イカなどの魚介類である。いずれも安く、素材を生かして、美味しかった。

 腹ごしらえをして、カテドラルに向かう。

        ★ 

 改めて広場に立つと、重く垂れこめた冬の雲の下、何世紀にもわたって世界の巡礼者の目的地であったカテドラルは、圧倒的な存在感をもって迫ってくる。

 11世紀~12世紀に建てられた、ロマネスク様式の大聖堂である。

 ロマネスク様式の聖堂は、ゴシック様式のそれと比べて、石の持つ重厚さともに、石のもつぬくもりが感じられ、どこか野の花のようななつかしさを感じさせる。

 

      ( 身廊の列柱 )

 中に入ると、身廊に列柱が並び、装飾性はなく、正面にヤコブの像をまつる金色の祭壇があった。

 饗場孝男が『石と光の思想』の中でロマネスク教会について書いた文章は、このカテドラルにも当てはまるように思われる。

 「 … 内部にもほとんど装飾はない。石の厚みはしかし圧倒的である。だが、そうした物質性は、… 逆に深い沈黙と瞑想をよびさまし、天上へむかっての祈りをつねに支える、大地への自覚をうながすように思われる」。

 「ゴシック教会では、内部で色彩が歌っているが、ロマネスク教会では石の壁が瞑想しているのである」。

 さて、ここまで来た以上はと、祭壇の左手を回って、階段を降りる。その先の薄暗い地下通路の奥に、「聖ヤコブの棺」を垣間見ることができた。

 また、祭壇の右側から階段を上がると、聖ヤコブ像の裏側に出た。信者は聖ヤコブのマントにキスするのだが、額だけ付けて、異教徒としての敬意を示した。

 「神はなくとも、信仰は美しい」とは、ボードレールの言葉とか。

        ( 中央祭壇の聖ヤコブ像 )

                 ★ 

 旧市街のはずれに、アラメダ公園がある。旧市街やカテドラルの眺めが良いと書かれているので、行ってみた。

 雨の多い地方らしく、公園の樹木は苔でおおわれている。

      ( アラメダ公園の樹木の苔 )

   オブラドイロ広場から見上げたときはわからなかったが、街並みの上にカテドラルの幾本もの塔が、圧倒するようにそびえている。

    ( 旧市街とカテドラルの塔を望む )

 時に霧雨が降る旧市街を歩くと、街そのものがカテドラルと同じ花崗岩で造られていることがわかる。それが古びて、小雨に濡れ、鄙びた、ケルト的風情をつくっている。

 サンチャゴ・デ・コンポステーラは、雨の似合う街である。

    ( 石段の上のカテドラル )

 旧市街の家の窓には、クリスマスを迎えるための、こんな飾りも。   

 

   (もうすぐクリスマス)

   古い噴水のあるキンターナ広場は、カテドラルの裏側にある、やや小ぶりの広場だ。サンチャゴ・デ・コンポステーラは宗教都市であるとともに、古い大学のある町で、学生らしいお嬢さんが二人、楽しそうに話をしていた。

       ( キンターナ広場 )

                     ★  

 今夜の宿は、1499年に巡礼者のために建てられた王立の壮麗な病院兼宿舎。今はホテルとして使われている。

 ホテル自体が文化遺産で、回廊に置かれた家具や美術品も素晴らしい。

      ( 廊下に置かれたクリスマスの置物 )

 また、4つの趣の異なるパティオ (中庭)がある。

 

       ( パティオ )

 

  ( 回廊の上にカテドラルの塔 )

      ★

 夜。ホテルの玄関を出て、時に強い雨の降るオプラドイロ広場に立ってみた。

 カテドラルがライトアップされていた。ローカルな宗教都市らしく、照明もひっそりしていた。 

   ( ライトアップされたカテドラル )

                                                

 

 

 

 

 

 

  

 

 

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Fisterra岬に立ち、大西洋を望む … 冬のサンチャゴ・デ・コンポステーラ紀行 2

2013年01月17日 | 西欧旅行…サンチャゴ・デ・コンポステーラ

              ( 大西洋を見た!! )

 冬のサンチャゴ・デ・コンポステーラへの旅を考えたとき、そこまで行くなら、ぜひ行ってみたいと思う所があった。

 フィニステレ岬。… 「陸の終わり」 を意味するそうだ。つまり、ユーラシア大陸の終わりの岬である。その先は大西洋が広がるのみ。

 その岬は、サンチャゴ・デ・コンポステーラから西へ90キロの地にある。

 聖ヤコブの大聖堂までたどり着き、歓喜の礼拝を終えた巡礼者たちは、さらにこの岬を目指して旅を続ける。そして、ついに到達した陸の終わる崖の上で、大西洋の波濤を見下ろしながら、旅の間着ていた服やブーツを燃やして、自らの旅を終わらせるのである。

 フィニステレ岬に立ち、ユーラシア大陸の果てを見たい、という思いに駆られて、そこへ行く手立てを調べたが、 サンチャゴ・デ・コンポステーラからは路線バス以外に交通手段はなく、バスを降りてからも、丘に向かってかなり歩くと知り、断念した。「陸の終わり」は、あまりに遠い …。

 それで、サンチャゴ・デ・コンポステーラの2日目も、このケルト的な雰囲気をもつ町の中で過ごすつもりでいたが、念のため、五つ星ホテルのフロントに行って、フィニステレまでタクシーが行ってくれるかどうか、行ってくれるとして、どれくらいの時間と料金がかかるか、聞いてみた。

 フロントの青年は即座に、「とても良い人 (運転手) がいますよ」と言って、電話で問い合わせてくれた。

   翌朝から夕方まで、1日かけて案内して、225ユーロだと言う。それならOKだ。すぐに頼んでもらった。こんなラッキーなことはない

          ★

< 第3日 ── 巡礼が旅を終えるフィステーラ岬ヘ >   

   朝、ホテルのドアを開けると、天が裂けたような雨。広いオブラドイロ広場は雨に霞んで、石畳の上を雨水が流れ、浅い池のようになっていた。

 だが、しばらくすると、小雨になった。

 この日は、小雨になったり、霧雨になったり、横なぐりの風とともに降る強い雨となったり、雨がやんで少し青空がのぞいたりする1日だった。

 イベリア半島の大西洋に臨むガリシア地方は、海洋性の気候で、雨が多く、冬の冷え込みはゆるく、太陽が照り付けて40度を超す赤茶けて乾燥したイベリア半島のイメージと異なり、緑も豊かであると書かれていた。 

 

         ( 雨のカテドラル )

                 ★

< ガイド兼ドライバーの Jose さん >  

 タクシーの運転手の Jose さんは、初老の、朴訥で、いかにも誠実一筋に生きてきたような感じの人で、体型も人柄も年齢も、サッカーの日本代表監督アルベルト・ザッケローニ (ザック) に似ていると思った。

   タクシーの運転手というよりは、ガイド兼ドライバーという感じで、よく勉強していて、ガイドとしてもプロフェショナルだ。

 もちろん、スペイン語である。ただ、身振り・手振りに加えて、紙に絵をかいたり、スマホを検索して写真を示してくれたり、あらゆる努力をして、本当に丁寧に、一生懸命、説明してくれ、その人柄を感じた

 途中、風光明媚な港町に立ち寄って、貝の養殖や、採取する船の構造などを説明してくれた。

  (養殖の貝を採取する小型の船)

  「リアス式海岸」という言葉の出自はこのあたりだと、旅行に出る前に、何かで読んだ。「リアス」とはガリシア語で 「入り江 (リア) 」の複数形。当然、漁業が盛んなのだ。

              ★

< 村の墓地教会 >

   ガリシア地方の民俗的な、「村の教会」にも立ち寄った。

 それはいかにも古びた石造りの、塔のある教会で、教会の横の庭には墓石が並び、村の墓所として整えられていた。

 日本とはやや趣を異とするキリスト教式の墓石の群れを見ていると、世界の片隅で、名もなく、静かに生きて死んでいった人々の、人の一生ということに、ぼんやりと想いを馳せてしまう。

饗庭孝男『石と光の思想』から

 私がロマネスク建築の教会をはじめて見たのは、ピレネーの麓にあるヴァルカブレェールの「サン・ジュスト教会」であった。それは … 寒村の、とうもろこし畑のひろびろした中に、青空をくっきりと切った糸杉にかこまれた墓地教会である。柵をとおして墓地に入ると、白い十字架や墓石が崩れかかり、蔦がそれにからみ、…

   (墓石のある村の教会)

 教会に入ると、大きな平面の台の上に、人形や小屋や羊が配置され、イエス降誕の場面の飾りつけが進められていた。おそらく、何日もかけて、作られていくのだろう。

 そのような風習は日本から遠いが、純朴な田舎の「景色」という点では同じである。

 村を少し歩くと、奇妙な建物があった。

 読書百遍ではないが、Joseさんのスペイン語の説明を一生懸命聞いていると、少しわかってくるから不思議だ。

 これは、1世紀以上も前の穀物倉庫で、風が通るように造られている。高床式になっているのは、ネズミの害から守るためだ。

              ( 穀物倉庫 )

        ★

< ガリシア地方のこと >

 山の中の一筋の道を走り、峠を越え、野を走り、集落の横を通り、海岸に出てカーブの連続する漁村の家々を見ながら走った。

 赤い屋根に、白、もしくはイエローの壁。

 漁村に見えるが、都会に住む人たちの別荘地でもあるようだ。

    

               ( 別荘地 )

 ふと、疑問に思う。今、向かっている岬のことである。『地球の歩き方』では、「フィニステレ (Finisterre)」。ところが、ホテルでもらった地図では、「 Fisterra 」だ。

 後部座席で、「あれっ、何でや??」と、二つの単語を繰り返しつぶやいていたら、気づいてJoseさんが説明してくれた。

 言葉はよくわからないのだが、その説明は、( 間違っているかもしれないが )、多分、こんな内容だ。

 イスパニアは、実は4つの国でできている。

   その一つは、イスパニア? スペインの大きな部分を占め、マドリッドを首都とするカスティーリアと呼ばれる土地がその中心。

 もう一つは、バルセロナを中心とする、フランスに近いカタルーニア地方。言語が違う。( スペインの中では経済的に豊かで、独立したがっていると聞いていた )。

 もう一つは北東部のバスク。( 最近、おさまってきたが、かなり過激な独立運動をしてきた。フランシスコ・ザビエルの故郷 )。

 そして、もう一つが、今、訪れているガリシヤ地方。言語も違うのだそうだ。

 『地球の歩き方』 の 「フィニステレ (Finisterre)」 は、カスティーリア語。ホテルでもらった地図の「Fisterra」がガリシア語。(帰国して調べたら、ガリシア語も公用語として日常使われ、学校では両方の言葉が教えられているようだ)。

 ガリシヤ地方 … ポルトガルに接して、その北に位置する。大西洋に臨んで、スペインの中ではごくごく小さな、ローカルな地方に過ぎない。だが、イスパニアとは違う国なのだと Jose さんは言う。

 ガリシアは、スペインの一つの州である。だが、住民の意識は違う。一昨日、飛行機で到着した港湾都市ビーゴが、ガリシア州の最大の都市で、人口は27万人。州都は、サンチャゴ・デ・コンポステーラで、人口は8万人。

 翌朝、レオンに行くために、サンチャゴ・デ・コンポステーラの鉄道駅に行った。ホームの掲示を見たら、上下に二つの駅名が書いてあった。どちらかがカスティーリア語で、どちらかがガリシヤ語だ。

 「 Fisterra の岬は近いよ。ちょっと大西洋の浜辺に降りてみようか」と Joseさん。

 車を降り、浜辺へと向かう。海の方から、草をちぎるような強風が吹き、角を曲がると、突然、大西洋が目の前に現れた。

 荒々しい

 海が盛り上がって、押し寄せてくるように見え、恐ろしいほどだった。

    ( 大西洋の海岸 )   

        ★

< Fisterra岬に立ち、大西洋を望む >

 Fisterra岬は、海抜238mの山頂である。

 車はヘアピンカーブを登っていく。

 道路わきに巡礼者の像があった。

 やがて前方に灯台の家屋が見え、車をおいて、歩いた。

 曇天ではあるが、雨は上がり、灯台の向こうに大西洋が広がった。 

  ( 灯台の向こうに大西洋 )

 ここは、「陸終わる地」。遥々と巡礼の旅をしてきた人たちの終着点だ。

      ( 大西洋に向かって建つ十字架 )

 ここまでやって来た巡礼者が、長い旅の間、着ていた衣服を燃やした跡が、岩の上に残っている。 

 そのとき、厚い雲が切れ、青空が覗き、広がった。

 空も、海も、美しいブルーに変身した。 

 

 これが大西洋だ。 遥々と来た甲斐があった。 

 ただ、感動し、ユーラシア大陸の東の果てからやって来た異邦人を、心を込めて案内してくれた、初老のタクシーの運転手 Joseさんに感謝した。

       ★

  ( 帰途、山中で出会った巡礼者 )

 夜、食事に行き、少しサンチャゴ・デ・コンポステーラの街を歩いた。

 ローカルな宗教都市は、異教徒の目にも、鄙びて、どこかなつかしく感じられた。

(ライトアップされたカテドラルの塔)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「行き過ぎた」体罰

2013年01月11日 | 随想…スポーツ

 「行き過ぎた」体罰があった。 ‥‥ これは、桜の宮高校校長のインタビューでの言葉である。

 テレビでこれを聞いて、「これは、だめだ」、と思った。 事、ここに至って、なお、「行き過ぎた」とは!

 行き過ぎなければ、体罰もまた指導。この校長は、そう思っているのだ。 

 トップが、こういう言い方をしている間は、この学校から、絶対に体罰はなくならない。

  「体罰は、許さない」。学校のトップである校長は、そういう断固とした態度を持し、絶対にぶれてはいけない。

  絶対にぶれてはいけないとは、他の面でどんなに優秀だと思う教員でも、もし体罰があれば、断固、厳罰に処する、その覚悟が必要である、ということだ。

 駄目教員の中にも、優れた教員の中にも、体罰をする教員はいる。 

 校長が彼らに注意すると、「はい、はい」と答える。しかし、実は馬耳東風なのだ。

  殴ったり蹴ったりして人間を従わせることを覚えた人間は、癖になる。自分をたいした人間だと無意識のうちに感じるようになる。他の教員を指導力がないと思う。困った生徒がいたら俺の所につれて来い、などと不遜な思いを抱くようになる。癖となり、習慣となると、タバコと同じで、口頭の注意などでやめられるものではない。

  だから、校長は、体罰を、「教員による対生徒暴力」ととらえ、断固、これを否定しなければいけない。もし他の面で優秀だと思う教員であれば、なおさらである。事を明らかにし、生徒・保護者に対して謝罪させ、全教員に知らせ、公的処分を行う。そうすることによって、全教員が、体罰は教員としての失格行為なのだと知る。今回のような大事件にならないうちに、(体罰があったことを知ったらすぐに)、そうする。そうすることが、結局、一人の教員を、将来の破滅から救うことになる。

 今回の件について、この教員を知る歴代の校長は、自分が何もしなかったこと、体罰を見逃してきたこと、自らの体罰に関する認識が甘かったこと、そのことによって、一人の教員を破滅へと追いやった、ということ、何よりも一人の生徒を死に至らしめたということを認識すべきである。

 この教員の資質の問題はあろう。しかし、今回は、あえて、気の毒ではあるが、校長の姿勢を問うた。多分、この学校は、部活動で手柄を立てたい教員の、体罰の巣だと察する。

          ☆

 橋下大阪市長が、今回の件について、断固として、立ち上がった。

 今まで、体罰について、これほど毅然と立ち上がった首長や教育委員会や教育長がいただろうか?

 上に立つ者が毅然としなかったから、「行き過ぎた」体罰などという、ふやけた言葉が、事ここに至ってなお、校長からさえ、出る。

 この一点でも、橋下徹は、偉いやつだと思う。単なる体育会系ではない。

 

 

 

 

 

 

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若者に職を! 成長していく国に

2013年01月06日 | エッセイ

( 昔、神様が、舟をこいで岩礁のあたりに行き、魚たちと遊んだという。その岩礁を聖なる岩として、海に向けて鳥居が立つ。出雲の国・美保関灯台付近である。)

( 前回の続き‥‥)

読売新聞 ── 曽野綾子氏と橋本五郎氏の対談から

曽野> 

  例えば無農薬野菜。これは「反原発」と同じで、いいに決まっているけど、そう言っている人にいっぺん1個ずつ、春キャベツを植えさせたらいいんです。私もやったことがありますが、朝昼晩と青虫をつぶしても、結局、育てられなかった。涼しい土地とか、冬ならできるのかもしれないが、春はできない。日本人が食べる量のキャベツは無農薬ではまかないきれない。同じ論理ですよ。

 無農薬キャベツしか食べたくないと思う人たちは、冬キャベツ以外は食べないか、農薬で育てたキャベツをよく洗うかすればいい。これで全部OKというのはない。だから、無農薬野菜を食べようと思ったら、実に高くつきます。

 まさに原発をなくす場合も同じです。やってみないから、論理だけ言えるんです。

橋本>

   この世に誰かが100%正しくて、誰かが0なんてものはありえないんです。せいぜい51対49。それが人間の社会だと思う。

曽野> 

 それが人間の原理だということを教えないから、幼稚になる。善だけでやろうと思っても、できない。だから、せめて次善か、次々善の策を取るんです。

          ☆

 … 昨年後半から、反原発のデモが国会に押し寄せ、そのなかには、孫の世代のために参加するという「年金おじさん」も結構混じっていたようだ。

 放射能が怖いと、茨城県あたりから関西に逃げてきて、関西の自治体が東北のガレキを受け入れようとすると、役所に押しかけて「反対!!」を叫ぶ若い母親もいた。

 今の日本は、「ちぢみ志向」と、身勝手なエゴイズムが渦巻いている。

  自身は豊かな年金生活を確保してその上に胡坐をかき、或いは、自分の夫がリストラされる可能性などは全くないと信じきっている。

  何よりも、日本が今程度にはずっと豊かだと、不遜な思いを抱いている人たちだ。 

     ☆    ☆    ☆ 

組閣発表後の安倍首相の記者会見のスピーチから

  最後にくり返しますが、この政権に課せられた使命は、まず強い経済を取り戻していくことであります。

 人口が減少していくから成長はむずかしい。確かにむずかしいでしょう。しかし、成長をあきらめた国、成長していこうという精神を失った国には、未来はないと思います。

 我々は決断し、そして正しい政策を実行していくことによって成長していく。明るい未来を目指して進んでいく、そういう国づくりを国民とともに目指していきたいと考えております。

          ☆

 今、日本の抱えている最大の課題は、新卒者(高卒、大卒者)に対して、(それぞれの力に応じて、ではあるが)、仕事を選択できるだけの求人数を提供できる社会を取り戻すことである。ここ数年、それができていない。( 「3Kの仕事はイヤ」という若者のことは、また別の次元の話である)。

 そのために、経済を建て直すこと。経済が停滞し、国内産業が疲弊し、税収がますます落ち込めば、10%、20%の消費税を上げても、水の泡と消えてしまう。ギリシャがそれを証明している。日本の国家財政は、二度と立ち直れない泥沼に落ち込むだろう。 

 まずは再稼動できる原発は再稼動し、電力を安定的に提供し、経済を活性化して、若者に前を向かせる。経済を活性化しなければ、そもそも東北地方の思い切った復興策も、全く軌道に乗らない。

 脱原発のことは、ゆっくり腰を落ち着けて、取り組んだら良いのです。

 「名もなく、貧しく、美しく」 は、日本人らしい生き方で、私もそのように生きたい。 

   しかし、肉やバターは栄養価が高すぎて健康に良くない。魚は、絶滅するから保護すべきだ。野菜は無農薬でなきゃだめだ、と言っていたら、行き着く先は仙人だ。そういう馬鹿なジイサンや若い母親や、何とかといういきり立った俳優の主張に乗るわけにはいかない。

          ☆ 

 お正月の最後にもう一言。

 あの巨大で、無機質で、低周波を発する風車を、日本列島の山々や海に林立させるのか?

 休耕田を、あの黒々としたパネルで埋め尽くすのか?

 神々のすむ山や、海や、里を、再び田中角栄の「日本列島改造論」のように、破壊するつもりか?

 そういうことをして、何割の電力が賄えるというのか?

 その莫大な費用を、誰が出すのか?

 神々がすむ山や川や海や里だということを、決して忘れてはいけない。 そう簡単にはいかないのです。

  

  

 

 

 

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自分を支えてくれる人がどれだけいるか‥‥リーダー論

2013年01月05日 | エッセイ

           ( 大阪城の梅 )

 読売新聞の元旦号から連載した橋本五郎氏 ( 読売新聞の元論説委員 )と曽野綾子氏の対談は、示唆に富んで興味深かった。

        ☆

橋本> (政治家、リーダーについて ) 一人ではできませんから、自分を支えてくれる人たちがどれだけいるかということが大切です。広い意味で人徳がなければいけない。

曽野> 「お友達内閣」って、いけないんですか? 私はそうは思いません。

橋本> 当たり前じゃないですか。問題はいい友達か、悪い友達か、です。

曽野> だから、首相がどんないいお友達をお持ちかって、試されていますね。野田前首相はあまりにもお友達の質が悪すぎた。

橋本> 民主党政権では、みんなで支えようとする意識がなかった。

曽野> それは民主党の独特の状況なんですか?

橋本> どの党でもありがちですが、民主党は「俺が、俺が」が強すぎた。一方で、支えられるほうも支えられるだけの人格を錬磨してこないと。

曽野> 支えてもらったことをきちんと感じてなきゃいけませんね。

橋本> 民主党が再建できるかどうかは、「自分たちは支えられなかった」「自分は支えられるに値するほどの人間じゃなかった」と反省するところから全てのスタートがある。国を統治するということを簡単に考えすぎていましたね。

        ☆

 これは、政治家だけの話ではない。

 企業でも、病院でも、学校でも、政党でも、これからリーダーになろうとする人は、肝に銘じなければならないことである。また、次世代のリーダーを指名する立場にある人も、よくよく考えなければならない。

 リーダーとして一番大切なものは何か? 先見性だとか、発想力だとか、政策立案能力だとか、組織する能力だとか、いろいろ言われる。しかし、そのような能力は、リーダーを支える部下がもっていれば済むことだ。

 昔も、今も、トップに求められる絶対不可欠なもの、それは、人徳である。

 人徳のある人間なら、皆が支える。

 また、人徳のある人間なら、自分が支えてもらっていることをきちんと感じとることができる。そういうヒューマンな感性が、すなわち人徳でもある。

 リーダーたらんとするものは、支えられるに値する人間になるよう、人格を練磨することだ。

 「俺が、俺が」の組織は、滅びる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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外から考えるのも、大切かと … 松井秀樹

2013年01月01日 | 随想…スポーツ

        ( 宮島の海 )

 皆さん、明けましておめでとうございます。 月並みですが、本年もどうかよろしくお願いします。

 元日の読売新聞から、松井秀樹へのインタビュー。

     ☆      ☆      ☆

  「しばらくの間、米国に残るつもり。なにせ、勉強したいんだよ。勉強、得意じゃないけど、嫌いじゃないし。あれ、好きと言えないな(冗談)」。

  「あくまで野球人でありたい。でも、その前に、生まれ育った国が周りの目にどう映っているのか、どう他国と違うのか、日本人として子どもたちに何を伝えなきゃなんないのか、それを外から考えるのも、大切だと思う」。

            ☆

  「いっぱいもらった年俸で、少年野球専用の球場を作るの。で、年を取ったら毎日、試合を見に行くわけ。観客席に座っていると、『誰?あのじいさん』って子どもの声が聞こえるけれど、もちろん名乗らない。野球が素晴らしいスポーツとして受け継がれている、それを確かめながら生きていけたらいいな」。

     ☆      ☆      ☆

  立派な野球選手だ。

   鏡がなければ自分の顔はわからない。「外」を知って、初めてわが祖国が見え、祖国を愛することができるようになる。

 阪神タイガースに入っていたら良かったのに、とずっと思い続けてきたが、今朝は、阪神タイガースだったら、こんな風に育たなかったかもしれないな、と、ふと思った。

 

 

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