ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

世界遺産・ポルトの街歩き … ユーラシア大陸の最西端ポルトガルへの旅 15 (おわり)

2017年02月26日 | 西欧旅行……ポルトガル紀行

    ( ドウロ川の上の白い雲 )

10月3日

 今日は、「ユーラシア大陸の最西端ポルトガルへの旅」の最終日である。

 朝、6時。窓のカーテンを開けると、外はまだ暗く、ドン・ルイス1世橋は、昨夜のままにライトアップされていた。

 そして、窓の正面の空、真南の方向に、オリオン座がこぼれ落ちそうに輝いていた。

         ★

 ポルトのチンチン電車は、リスボンのそれよりさらに年代物のように見える。車体も一回り小さい。旧市街を3路線が走り、乗客はほとんど観光客で、運転手は女性。  

 

    ( チンチン電車 )

 今日の行動の始まりは、ポルトの河口から大西洋を見ること。

 そこで、カイス・ダ・リベイラから出る1番のチンチン電車にに乗った。マップで見ると、1番の電車の終点は、河口に近い。とにかくそこまで行ってみようというわけだ。

   トコトコと、ドウロ川に沿って、どこまでも走った ……。

 終点で電車を降りると、遠くに突堤が見えた。突堤の先に赤い灯台も見える。あのあたりが河口だろうと、歩き始めた。

 ヤシの木のプロムナードが続き、疲れがたまっているが、朝の光があふれて気持ちがよい。

 

  (河口へ向かうプロムナード)

 川岸で釣りをしている人がいて、さらに進み、突堤が近づくと、近所の人らしいおじいさんたちが、突堤で語り合いながら日向ぼっこをしていた。

 

  (突堤で日向ぼっこする人たち)

 大西洋と河口を隔てる長い突堤の上を沖の方へ歩いていくと、そこここに太公望たちがいた。

 ここは、イベリア半島を延々と流れてきたドウロ川の水が、大西洋の海水と混じりあうところ。魚もよく釣れることだろう。

  ( 大西洋に向かって釣りをする人たち )

 電車の終点から、突堤の端の赤い灯台を目指して歩いてきたが、その灯台の下の岩礁を大西洋の荒波が洗い、波しぶきを上げて渦を巻いている。その岩礁に身を乗り出すようにして、灯台のテラスから釣りをする人もいる。

      ( 大西洋の灯台 )

 遥か昔、フランスのブルゴーニュの野からやって来た騎士たちは、どのような思いでこの海を見たのであろう。

 ともかく、旅の最終日に、ポルトガル発祥の地のポルトの河口から、大西洋の水平線を眺めて、満足した。  

   突堤から内陸部の方へ少し歩くと、バスの停留所があった。そこからバスで旧市街へ向かった。

                      ★

 ドウロ川の北岸の丘陵部に広がる旧市街の歴史地区は、世界遺産に指定されている。

 バスは街の北側に着いたので、そこからドウロ川の方へと、歩いて見学した。

 グレリゴス教会は、18世紀に建てられたバロック様式の教会である。教会の中の祭壇は、バロックらしく、金ぴかだ。 

 

  ( グレリゴス教会の側面 )

( グレリゴス教会の祭壇 )

 この教会の塔は76mの高さがあり、狭く急ならせん状の石段255段を昇りきれば、ドン・ルイス1世橋の上からの眺めとはひと味違ったポルトの景観を眺望することができる … と、ガイドブックに書いてあった。が、敬遠した。

 ヨーロッパの旅で、「狭く、急な、石のらせん階段」を何度も昇った。フィレンツェのドゥオーモのクーポラに上がったとき、昇りきって周りをみると、20代の若者ばかりだった。翌日は筋肉痛になった。          

        ★  

 「リブラリア・レロ・イ・イルマオン」は、世界で最も美しい本屋の一つと言われている。

 今は昔、本は、神を信じる者にとっても、神を信じない者にとっては一層、未知の世界への扉であった。クラシカルならせん階段やステンドグラスは、並べられている重厚な本とともに、知的な雰囲気があって、ゆかしい。 

 

    ( 世界で最も美しい本屋 )

                        ★ 

 ポルトの旧市街の中心は、リベルダーデ広場。正面に小さく見えている塔のある建物が市庁舎で、市庁舎からこちら側(南)へ、ドウロ川までが、旧市街である。

    (リベルダーデ広場)

        ★

 昨日、トマールから乗り継いだ特急列車は、ポルト・カンパニャン駅に着いた。スーツケースが重いので、そこからタクシーでホテルに向かったが、そうでなければ、乗り換えて1駅、サン・ベント駅まで行く。サン・ベント駅が、ポルトの旧市街の中心部にある駅である。

 世界で最も美しい駅の一つと言われる。ライトアップされた姿も幻想的とか。

 しかし、ポルトを訪れるどんな観光ツアーも必ずこの駅に立ち寄るのは、駅舎の中の壁を飾るアズレージョが目的である。

         ( サン・ベント駅 )

 ひときわ目を引く2枚の大きなアズレージョがある。その1枚は、「ジョアン1世のポルト入城」。

 ( ジョアン1世と王妃フィリッパ )

 14世紀中ごろ、ポルトガルがスペインに併合されそうになったとき、リスボン市民とともに立ち上がったのが、キリスト教騎士団の団長であったジョアン。彼は市民軍を率いて、圧倒的なスペイン包囲軍を撃退し、推戴されてポルトガル王・ジョアン1世となる。

 翌年、ジョアン1世は、アルジュバロータの戦いにおいて、再度、スペイン軍を敗走させた。(バターリア修道院の建設 ──「ポルトガルへの旅7」)

 このあと、ジョアン1世は英国と同盟を結び、英国王族から王妃としてフィリッパを迎えた。

 結婚式は、ポルトガル発祥の地ポルトで行われた。この絵は、そのときの様子を描いたものであろう。

 ジョアン1世と王妃フィリッパとの間に生まれた3番目の息子が、のちの「エンリケ航海王子」である。

 もう1枚のアズレージョは、「セウタ攻略」。その中心に立つのか、若き日のエンリケ王子である。

(中央に立つのが若き日のエンリケ航海王子)

 イスラム勢を大西洋に追い落とし、レコンキスタは終了したが、そのあとも、ポルトガルの商船は、イスラムの海賊に苦しめられた。その根拠地の一つが、アフリカ大陸北岸のセウタである。セウタは、ジブラルタル海峡をはさんで、ジブラルタルの対岸にある要塞都市である。

 1414年、ジョアン1世は、数万の軍勢を船に乗せ、セウタを攻略した。この戦いが、21歳のエンリケ王子の初陣であり、彼はポルトから船に乗って、南のラゴスに集結したようだ。

         ★ 

 ボルサ宮は、19世紀に建てられたポルト商業組合の建物である。当時のポルトの経済力を誇示しているかのように立派である。

  (ポルサ宮とエンリケ航海王子の像)

 その前の広場に、エンリケ航海王子の像が建つ。

 近くに、エンリケの生家ではないかと言われている建物もある。サグレスの像と違って、まだ若々しいエンリケ航海王子である。

 白い雲が美しく、この町に生まれ育ったエンリケ王子は、希望に満ちて、まさに青空に浮かぶようである。 

   (白い雲と若き日のエンリケ航海王子)

         ★

 ポルトの大聖堂は、もともと、12世紀に要塞として建てられた。この時代に建てられたポルトガルの大聖堂や修道院は、みな要塞だ。

 17世紀に改修されたらしいが、さすがに大聖堂らしい風格を感じさせる。

    ( 大聖堂 )

 大聖堂は丘の上に建ち、テラスがあって、ドウロ川と反対方向の展望がよい。ひときわ高い塔は、グレリゴス教会の塔である。

 

  ( ポルトの街並みとグレリゴス教会の塔 )

           ★

 大聖堂のある丘から、ドウロ川に向かって一気に下りの道となる。路地へ入ると、洗濯物を干した古い家々が並ぶ。 

   (大聖堂からの下り道)

         ★

 日はかなり傾き、足腰も疲れた。

 今日一日の街歩きのフィナーレとして、ドウロ川の橋巡り遊覧船に乗った。

 上流から河口近くまでの間に、ドン・ルイス1世橋を含めて、6つの橋の下をくぐる。

 川から見上げる街の眺めも、また、いい。 

       ( 遊覧船から )

              ( 遊覧船 )

   船から見上げると、河口に近いとは言え、このあたりも、峡谷の一部であることがよくわかる。

    (崖の上のお家)

 岸辺にカフェテラスが並び、青空の下、大聖堂、サンフランシスコ教会、ボルサ宮がなどが積み木を重ねたように見える。

 

                 ★

 最後の夜は、ドン・ルイス1世橋の下のカフェテラスで、ワインを飲んだ。

 ホテルに財布を忘れ、小銭入れしかもっていなかった。オシャレでちょっと高級そうな雰囲気だったから、「10ユーロしか持っていないけど、グラスワインを飲めるか?」 と聞いたら、アフリカ系のマドモアゼルが、「大丈夫よ」と、ニコッと笑った。

 

     (カフェテラス)

       ★   ★   ★

 翌日、8時40分発のKLでポルトの空港を発った。

 ユーラシア大陸の西の果ての岬に立ってみたいと思い立った旅であり、世界史の大航海時代を切り開いたエンリケ航海王子を訪ねる旅でもあった。とても印象に残った。

 今までのヨーロッパの旅の中でも、心に残る旅になった。     ( 了 )

 

 

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ドウロ川の河口近くに開けたポルトガル発祥の地ポルト … ユーラシア大陸の最西端ポルトガルへの旅14

2017年02月20日 | 西欧旅行……ポルトガル紀行

       ( ドウロ川の流れ )

 ポルトガルには2本の大河が流れている。いずれもスペインの台地を東から西へと横断して流れ、ポルトガルに入って、やがて大西洋にそそぐ。

 その一つ、テージョ川の河口にできた町が、首都リスボン。

 そのリスボンから北へ300キロ。スペイン語でドゥエロ (Duero) 川、ポルトガル語ではドウロ (Douro) 川の河口近くにできた町が、ポルトガル第2の都市ポルトである。

   ポルトという名の由来は、古代ローマ時代の港町・ポルトゥス・カレに起源をもつという。

 ローマ時代には、その一帯をコンダドゥス・ポルトカレンシスといったそうだ。これがポルトガルという国名の由来らしい。

 1096年、イスラム勢と戦うカスティーリア・レオン連合王国 (スペイン) 国王は、フランスのブルゴーニュからやってきた騎士エンリケ・ド・ボルゴーニュの戦績をたたえ、ドウロ川の流域・コンダドゥス・ポルトカレンシスの地を与えて、伯爵とした。

 その息子アフォンソ・エンリケス (アフォンソ1世)が、 ポルトガル王国を建国する。サンタレンの戦いに勝利して、テンプル騎士団にトマールの地を与え、続いて、リスボンを奪取した。

 日本の多くの都市は、河口近くに開けた平野の中にある。

 ポルトガルの地形は、河口が近づいても、なお、峡谷の姿をとどめる。

 ゆえに、リスボンもそうだったが、ポルトも、ドウロ川の北岸から上へ上へと、峡谷の丘陵地に造られた町である。

 ゆえに、ポルトもまた、リスボン以上に坂の町である。

      ★    ★    ★

 10月2日

< ポルトのホテルのこと >

   トマール駅8時発の各駅停車に乗り、Entroncamento駅で特急に乗り換えて、11時にポルト・カンパニャン駅に着いた。

 駅に、私の名前を書いたボードを持つタクシーの運転手がいて、多分、ホテルのマダムが気を利かせたのだろうと思って、乗った。

 リスボンで4泊したホテルも、ここポルトで2泊するホテルも、実は、「民泊」である。

 民泊と言っても、日本のイメージとは違う。観光に便利な旧市街の一等地にありながら、部屋はホテルの部屋よりずっと広く、ソファセットなどの家具も置かれて、時に、キッチン、リビング、ベッドルームなど2部屋、3部屋があり、にもかかわらず、料金はホテル並み。だから、EU圏からの滞在型旅行者の間で、今やホテルより圧倒的に人気がある。

 私にとっても、徒歩で観光して回れる旧市街の一等地にあり、さらに、窓を開ければ、その街の歴史を語る大聖堂のたたずまいとか、川の流れとかを、居ながらにして望むことができれば、最高に魅力的なホテルということになる。

 しかし、欠点もある。入り口の暗証番号を教えてもらったら (現地でなく、時にはネットで) 、それでおしまい。ホテルのような24時間対応のフロントはない。スマホを盗られたと言って相談したり、日本に電話をかけたりすることもできない。つまり、リスクを負うことになる。

 ホテルに着くと、ちょっと待たされて、マダムが来てくれ、ソファーのある広々とした部屋に案内された。

 窓を開けると、目の前をドウロ川が流れ、居ながらにしてドン・ルイス1世橋も見えて、幸せな気分になった。

 窓辺に、花瓶にさした1輪の薔薇でも置けば、マチスの絵に出てきそうな構図だ。

 パリで、セーヌ川とエッフェル塔を望むことのできるホテルに泊まれば、1泊10万円だろう。

   (ホテルの窓から)

       ★

< ドン・ルイス1世橋を渡って対岸へ >

 ポルトに着いたら、何はさておいても行ってみたかったところが、ドン・ルイス1世橋。目の前の鉄の橋である。

   ( ドン・ルイス1世橋 )

 橋の手前の川岸は、カイス・ダ・リベイラと呼ばれる。さっきタクシーが着いたとき、タクシーが身動きできなくなるほど観光客で賑わっていた。カフェテラスが立ち並び、遊覧船も発着する。旧市街が丘の上へ上へと開けるドウロ川の右岸である。

 対岸の新市街とを結ぶ鉄橋が、ドン・ルイス1世橋。

 橋は2階建て構造で、パリのエッフェル塔を設計したギュスターブ・エッフェルの弟子が設計した。

 下層階には、自動車道路と歩道があり、上層階にはメトロの線路と歩道がある。

 多少、高所恐怖症気味ではあるが、あのドン・ルイス1世橋の上層階を歩いて、眼下に広がるドウロ川の流れとポルトの街並みの写真を撮りたい、というのが、私のポルト観光の第一の目的である。

 そう思って、旅行に出る前にあれこれネットで調べていたら、橋のさらにその向こうに見えるノッサ・セニョーラ・ピラール修道院 (中は公開していない) の前まで上がれば、もっと素晴らしい眺望が開けることを知った。

 で、今日は、そこを目指す。あとで後悔しないように、行きたいところから行くのが、私の旅の流儀である。

 川岸のカイス・ダ・リベイラから、橋の上を撮影した。今日は、白い雲が少しだけ青空に漂って、いい感じだ。

  ( 橋の上層階から下を見下ろす人たち )

 ( 上層階を渡る黄色のメトロ )

 橋の下層階のたもとはすぐわかったが、上層階のたもとは、助走部分がある。旧市街の方へ坂道を上っていかねばならなかった。

 下の写真は、上層階のメトロの線路と、その脇の歩道である。

 線路と歩道の境はポールが並んでいるだけで、観光客で混雑する歩道を避けて、線路を歩く人たちもいる。列車は速度を落としてゆっくりやって来るから、列車が来れば十分余裕をもって歩道へよけることができる。

 で、おまえは線路を歩いたかって?? もちろん。

 ヨーロッパは大人の社会だから、一律に機械や規則に支配されない。例えば、車の全く来ない横断歩道の赤信号で律儀に待ち続ける歩行者や、まだ歩行者が渡り切っていないのに、青信号になったからと、怒って警笛を鳴らしながら発進する車。こういうのは機械に支配されて生きている未熟な人間だ。自立した人間の判断力を大切にして生きるのがヨーロッパだ。

    ( 橋の上層階のメトロの線路と歩道 )

 鉄橋から眼下を眺望すれば、河口に向かって流れていくドウロ川 …。赤い屋根が上へと積み重なっていく街並み …。まるで絵葉書のようである。

 リスボンを流れるテージョ川よりも川幅は狭く、河口までの距離も少し遠いようだ。

    < ドン・ルイス1世橋の上から >

  ( 河口に向かって流れていくドウロ川 )

  橋の上層階を渡り終え、そのたもとからさらに石畳の道をふうふう言いながら上っていくと、ノッサ・セニョーラ・ピラール修道院の前にたどり着いた。

 そこからの眺めは、息をのむほど美しく、しばし、ぼっと見とれていた。

 

    ( ドン・ルイス1世橋の上を走るメトロ )

        ★

< 対岸はヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア >

 ドウロ川の南岸はヴィラ・ノヴァ・デ・ガイアと呼ばれ、ポートワインのワインセラーが立ち並ぶ。

 1軒のワインセラーで、女性の店員に適当なものを選んでもらった。庶民的な値段だ。

 フランスのブルゴーニュからやって来たエンリケ・ド・ボルゴーニュが、その功績により、伯爵に任じられてこの地を治めるようになったとき、故郷のブルゴーニュのブドウを取り寄せて、植えた。

 歳月を経て、ドウロ川の上流渓谷は、フランスのブルゴーニュ地方と同じように、ブドウの名産地になった。

 そこで造られたワインは、数多くの小舟に乗せられ、川下のヴィラ・ノヴァ・デ・ガイアに運ばれた。

 樽につめられたワインは地下に貯蔵されて、熟成され、甘いポートワインができあがる

 甘いが、普通のワインよりもアルコール度がかなり高いから、オンザロックにして、食前酒として飲むと美味い。

 今は、ドウロ川の峡谷に道路が通り、ワインはトラックで運搬されるようになったから、その昔ドウロ川の渓谷をワインを運んで下った小舟たちも観光用の風物詩として、川岸に係留されている。

  ( ドウロ川の渓谷をワインを運んだ小舟 )

  ( 南岸から旧市街の方を望む )

        ★

< ライトアップされたドン・ルイス1世橋 >

 日が暮れた。ライトアップされたドン・ルイス1世橋と、その向こうの修道院が美しい。 

   ( ライトアップされたドン・ルイス1世橋 )

 観光客も丘の上の旧市街のホテルに引き上げ、ドウロ川の岸辺・カイス・ダ・リベイラは、さすがに昼間の賑わいはない。しかし、それでもそぞろ歩きをする人は絶えない。

      ( 夜のカイス・ダ・リベイラ )

 わがホテルは、居ながらにして、ライトアップされた橋も、修道院も眺めることができる。

    ( ホテルの窓から )

   明日は、バスに乗って河口まで行き、大西洋を見よう。それから世界遺産のポルト旧市街を散策する。

 

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トマールとエンリケ航海王子のキリスト騎士団 … ユーラシア大陸の最西端ポルトガルへの旅13

2017年02月10日 | 西欧旅行……ポルトガル紀行

 (トマールの市庁舎と丘の上のキリスト修道院 )

   トマールは小さいが、美しい町である。

 夜、キリスト修道院のライトアップされた城壁が、丘の上に見えた。それは、町を見守るかのようであった。

 1147年、サンタレン (今はトマールを含む県) をイスラム勢から奪回したときの功績により、ポルトガルの初代の王・アフォンソⅠ世は、テンプル騎士団に、ナバオン川の流れる土地を与えた。騎士団はその丘に、要塞を兼ねた修道院を建造して、彼らの本部とした。

 12世紀の終わり、イベリア半島に対するイスラム勢の反転攻勢があったときも、テンプル騎士団はこの城塞に立てこもって持ちこたえた。

 14世紀、テンプル騎士団解散の後、修道院はそのままキリスト騎士団の本部として受け継がれた。

 15世紀、エンリケ航海王子がキリスト騎士団団長に任ぜられたとき、当然、彼も団長としてここに居を置き、首都リスボンや遠くサグレス村に通った。

     ★   ★   ★

< アズレージョのあるトマールのホテル >

 旅行に出る前、どのホテルに泊まろうかとネットを開いて調べたとき、ほんの少し足を延ばせば、旧市街のはずれに近代的でオシャレなホテルが1軒あることも知った。迷ったが、あえて旧市街のメインストリートにある、小さな古ぼけたホテルの方を選んだ。

 主人は英語を話し、朴訥な愛すべき人で、ホテル代は申し訳ないぐらいに安かった。

 だが、薄暗い階段を上がって入った部屋は、狭くて、床は明らかに傾いていた。しかし、歴史あるヨーロッパを旅する以上、こういうホテルもまた良しとすべきである。 

 通りに面したホテルの玄関横の壁には、年代物らしいアズレージョの絵が貼ってあった。アズレージョは、ポルトガルを代表する美術工芸品で、タイルにコバルトを使って絵を描く。

   ( ホテル玄関のアズレージョ )

 左側の絵は、トマールの丘の上のキリスト修道院にある、有名なマヌエル様式の窓を絵に描いたものである。下の写真が本物の窓で、頂点にキリスト騎士団のしるしである独特の形の十字架があり、その下に大航海時代を表すロープや鎖が彫られている。

  (マヌエル様式の窓)

 右側のアズレージョには、町を流れるナバオン川の、古い昔の風景が描かれている。

 ( 現在のトマールの町とナバオン川 )

   メインストリートの古い町並みのなかでも、玄関にアズレージョを飾ったホテルやレストランは他にないから、歴史あるこのホテルの自慢の一品なのだろう。 

          ★

< テンプル騎士団の築いた「城塞」へ向かう >

 キリスト修道院へ行く道は、『地球の歩き方』の小さな地図ではよくわからず、方向だけ決めて、レプブリカ広場からひたすら上へ上へと上がって行った。たちまち息が切れるほどの急坂だった。これでは、敵軍も、腰や膝の負担が大変だったろう

 やがて、えっ、これが修道院 というような、イカツイ城壁が現れ、城壁に沿って進むと、城門が見えてきた。そうか!! 修道院と言っても、戦う騎士団の修道院は、普通の修道院と違って、城塞そのものなのだ。

     ( 城門が見えてきた )

    ( 城 門 )

 城門をくぐると、目の前に巨大に建物がそびえている。歳月を経て次々と増改築されたこの修道院の中でも、最初にテンプル騎士団によって建造された礼拝堂である。「テンプル騎士団の聖堂」、或いは、その形状が16角形であったため、「円堂」とも呼ばれる。

 

    ( テンプル騎士団の聖堂 )

         ★

< 騎士団について > 

 地中海に浮かぶ島・ロードス島は、膨張を続ける超大国トルコに近づいて、匕首を突き付けたような位置にある。

 そのロードス島の要塞に籠城する聖ヨハネ騎士団と、これを殲滅せんと決意したスレイマン大帝率いる20万のトルコ軍との戦いを描いたのが、塩野七生の『ロードス島攻防記』である。16世紀初頭の話である。

 20万のトルコ側に対して、聖ヨハネ騎士団側は、騎士600人、従士1500人、ロードス島民 (ギリシャ系) の兵士3000人であった。6か月の激しい籠城戦ののち、聖ヨハネ騎士団は降伏・開城する。攻めきれず、スレイマン大帝は騎士団に、名誉ある撤退を許したのである。生き残った騎士180人は、本拠をマルタ島へ移して再興し、マルタ騎士団と呼ばれるようになる。

 この作品のなかで、塩野七生は騎士団について、このように説明している。

 「イタリア語のカデットという言葉を、百科全書は次のように解説している。

── フランスはガスコーニュ地方に生まれ、中世以降全ヨーロッパに広まった言葉。封建貴族の二男以下の男子を意味した。中世の封建制下では、家督も財産も長男一人が相続する習慣であったので、二男以下は、聖職界か軍事の世界に、自らの将来を切り開く必要があったのである」。(『ロードス島攻防記』)

 「騎士団に属す騎士たちは、貴族の血をひく者でなければならず、戦士であると同時に、一生をキリストに捧げる修道士であることも要求された」。(同)

 著名な騎士団としては、聖ヨハネ騎士団とテンプル騎士団がある。

 聖ヨハネ騎士団の起源は古く、9世紀に遡り、巡礼としてエルサレムを訪れるキリスト教徒のために、病院兼宿泊所を建設し、運営したのが始まりである。やがて、1099年に十字軍が始まると、「キリストの敵」と戦う宗教騎士集団となっていく。鎧の上に、白い十字架を描いた黒いマントをまとった。

 一方、テンプル騎士団は、1099年の第一次十字軍が引き上げたあと、聖地の守護と巡礼者の保護を目的として、1119年に創設された。テンプルという名は、創設時、本部がエルサレムのソロモン王の「神殿」跡と言われる宮殿にあったことによる。赤い十字架のついた白いマントをまとい、長剣と楯、髭を長く伸ばし、髪は短く刈って、貴族的で美々しい姿であった。しかも、イスラム軍との戦いにおける強さと勇敢さが全ヨーロッパに伝えられたから、入団者は増え、財力・土地を増やし、各国に本部を置くようになった。

 司馬遼太郎はこのように書いている。「騎士団のなかで最大のものの一つは、テンプル騎士団とよばれるもので、その最盛期には加盟騎士1万5千、所属荘園1万5百か所といわれた。荘園の多くは、ヨーロッパ諸国の王侯が寄進したものである」。(『南蛮のみちⅡ』)

 「騎士たちは、俗界での身分を捨て、修道僧と同じ規則を守る義務を課される。清貧、服従、貞潔がそれだった。妻帯は禁じられていた。彼らは、いわば僧兵であったのである」。(塩野七生・同)

 ただ、塩野七生は、このようにも書いている。

 「騎士たちの誰もが、この誓願(※貞潔、服従、清貧)を厳守していたわけではない。厳守されていると言えるのは、服従だけで、清貧は、西欧の高名な貴族の子弟の集まる聖ヨハネ騎士団では、ロードス島の現在の生活ぶりが清貧なのであった。西欧にいる兄や弟たちの、王の宮廷や自領の城での日常に比べれば、たしかにロードスでの騎士の生活は、彼らにしてみれば立派に清貧の名に値したのである。また、女も、妻帯こそ禁じられていたが、秘かに通じるのは黙認されていた。ただ、それも秘かにであって、公然と女と同棲するなどは、他の騎士は誰一人しないことだった」。(同)

 (作品のなか、主人公の一人である騎士は、命令には忠実で勇敢だが、公然とロードス島の女性と同棲していた。この騎士が戦死した翌日、彼女も甲冑を着て男装し、戦って、死ぬ)。

   エンリケ航海王子が、サグレス村の一人の女性を愛し、公然とではなく、村に通っていたとしても、不思議はない。

 聖ヨハネ騎士団は、今も存続する。映画「ローマの休日」で、ヘップバーンがアイスクリームをなめながら降りたスペイン階段のその先は、ローマで一番のブランドショップ街であるコンドッティ通り。その通りに、即ちローマの1等地に、今も聖ヨハネ騎士団の本部があるそうだ。ヴァチカンと同じ、イタリアの中の独立国で、国土なき国家として巨額の財産を持ち、世界に展開する8000人の「騎士」が今も所属して、国連のオブザーバー国にもなっている。イスラムとの「聖戦」は、さすがにもう、やっていない。現在の主たる活動は、創設時に戻って、医療活動。

 一方、テンプル騎士団は、不幸な運命をたどった。

 「この騎士団のフランスでの強大な財力と広大な領有地が、王権強化に熱心だったフランス王の関心をよんでしまったのである。これらをすべて手中にしようと決心したフランス王・フィリップⅣ世は、傀儡教皇クレメンスⅤ世を動かし、テンプル騎士団の壊滅に着手した。理由は、異端の罪、秘密結社結成の罪などである」。(同)

 「騎士たちは次々と拷問にかけられ、火あぶりの刑に処せられ、1314年、騎士団長の処刑で、テンプル騎士団は完全に壊滅した」。(同)

 余談であるが、1986年に制作された映画『薔薇の名前』。主演はショーン・コネリー。同じ時代の1327年、北部イタリアの修道院を舞台にした物語で、中世ヨーロッパのキリスト教が支配する世界や修道院の雰囲気をよく再現した映画である。異端審判にかけられた修道士たちは、恐ろしい拷問にかけられるより、異端であることを認めて、火あぶりにされることを選ぶのである。

 現代のカソリックの公式見解では、テンプル騎士団に対する疑いは完全な冤罪であり、裁判はフランス王の意図を含んだ不公正なものであったとしている。

 今ごろ、そんなことを言っても、おそい!!

 とにかくテンプル騎士団は、フランスの総本部をはじめ、全ヨーロッパの各国本部も解散させられた。だが、多くの国では、騎士に対する異端裁判において無罪とし、弾圧をしなかった。ポルトガルでは、国王が騎士団の逮捕を拒否し、数年足らずのうちに、キリスト騎士団と名を変えて復活させた。本部はやはりトマールのキリスト修道院である。

 それからおよそ1世紀後、キリスト騎士団は団長としてエンリケ王子を迎え、受け継いだ莫大な財産を使って、大航海時代を切り開いていった。

 ポルトガルにおいては、テンプル騎士団は、大海原に乗り出す航海者に変身したのである。

         ★ 

< キリスト修道院を見学する >  

 修道院の東側には、「墓の回廊」がある。エンリケ航海王子が騎士と修道士の墓所として造ったものである。修道院においては、死者の衣服や持ち物はすべて寄贈されるし、墓も簡素である。 

   ( 墓の回廊 )

 「墓の回廊」のさらに東側には、エンリケ航海王子が40年間、居所にしていたという邸宅が、廃墟となって残っていた。

         ★

 南門を入ると、すぐに礼拝堂があった。「テンプル騎士団の聖堂」である。

 テンプル騎士団の聖堂は、エルサレムのソロモン王の神殿及び聖墳墓教会をモデルにして造られる。ゆえに、十字形ではなく、16角形の円堂になっている。

 レコンキスタの戦いのころ、騎士たちはすぐに戦いに行けるように、馬上で中央の塔を回りながらミサに参加したという。

 堂内は大航海時代の16世紀の壁画で飾られ、この大修道院のなかで唯一、絢爛豪華の印象を与える。  

  (テンプル騎士団の聖堂の中央の塔)

         ★

 下の写真は、16世紀に建増しされた主回廊の上部である。黒ずんだ石柱と壁が中世的な雰囲気を漂わせるが、その装飾の船のロープや鎖は、大航海時代の特徴である。  

           ( 主回廊 )

 ホテルのアズレージョに描かれていたマヌエル様式の窓もあった。

 修道士たちの居室のある廊下は、修道院らしい静けさが保たれている。 

  ( 回廊につながる廊下 )

         ★

< エンリケ航海王子とトマールの町 >

 キリスト修道院からトマールの町へ下る途中、トマールの美しい町並みが見渡せた。

 エンリケ航海王子は、ナバオン川の治水を指示し、今日に残るトマールの市街地の設計をしたという。

     (トマールの町)

         ★

 旧市街の中心、レブプリカ広場まで下りてきた。

 広場の東側には、サン・ジョアン教会と鐘楼が建つ。とんがり屋根の鐘楼が、いい感じである。

  (レブプリカ広場の教会と鐘楼)

 教会に向かい合うこちら側には、市庁舎がある。

 並んだポールの上の赤い十字は、キリスト騎士団の徽章だ。この町の至る所にあって、この町がかつてテンプル騎士団やキリスト騎士団の町であったことを、今に伝えている。

 「騎士団にはそれぞれ徽章があり、それらはマントなどに縫いつけられた。テンプル騎士団の場合、きわめて特殊な十字だったが、その徽章こそ『ポルトガル十字』なのである。(司馬遼太郎『南蛮のみちⅡ』)

 テンプル騎士団の徽章は、キリスト騎士団に引き継がれ、大航海時代に騎士が航海者になっても受け継がれた。フランシスコ・ザヴィエルも、帆にこの赤い十字を付けた帆船に乗って、日本を訪れたのである。

         ★

 町にはいくつか教会があるが、この広場のサン・ジョアン教会が、市庁舎と向かい合って、町の中心になる教会と思われる。15~16世紀にゴシック様式で建てられた。

 ちょっと中を覗いてみると、美しい礼拝堂の中で、折しも結婚式の最中だった。

   (サン・ジョアン教会の結婚式)

 広場の一角のカフェテラスで、観光客や地元の人々に交じって、白ワインを飲んで、ひと時を過ごした。

 ヨーロッパの旧市街は、街並みそれ自体が美しいから、散策の後、街並みや人々を眺めながら、ワインを飲んで過ごすひと時は、至福のときである。それに、この小さな町の小さな広場は、どこかメルヘンチックで、印象に残る広場であった。 

  ( 白い雲と鐘楼 )

 

 (レブプリカ広場の像の周りで遊ぶ子ら)

 結婚式が終わったらしく、近くから、或いは遠くから駆け付けた一族郎党・親類縁者、この町の友人たちも、教会の外に出てきた。子どももいる。

 小さいけれどオシャレな教会の建物、美しい広場の石畳、ちょっとよそ行きの服を着た人々の談笑、空は晴れて、午後の日はやや傾き、絵になる光景だった。

  (結婚式から出てきた人々)

        ★

 夜、食事の後、もう一度広場にやってくると、午後とは少し違った物語の世界があった。

 (ライトアップされたサン・ジョアン教会)

 鐘楼は一層メルヘンチックで、サン・ジョアン教会の扉のフランボワイヤン様式の装飾は、ライトアップされて一層シックに見えた。

       ( 鐘楼 )

  ( サン・ジョアン教会の扉 )

 広場の向こうには、暗い丘の上に、キリスト修道院の城塞もライトアップされていた。

   ( 丘の上のキリスト修道院 )

  このポルトガルの旅でいくつかの修道院を見てきたが、ポルトガルの修道院というのは、かつて見て回ったフランスのロマネスクの修道院と違って、すべて、戦う騎士団の城塞として建てられた、騎士団の修道院だった。

 その違いが、歴史というものだと……旅をしながら気づいた。

  

 

 

 

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サグレスからトマールへ列車の旅… ユーラシア大陸の最西端ポルトガルへの旅12

2017年02月03日 | 西欧旅行……ポルトガル紀行

   (トマールのキリスト教修道院の城壁)

 トマールは、大西洋側から内陸部に入った小さな町だ。この町を有名にしているのは、町を見下ろす丘に建つ「トマールのキリスト教修道院」である。世界遺産。

 12世紀、まだ、リスボンがイスラム勢の手中にあったころ、イスラム勢力と激しく戦っていたポルトガルの初代の王・アフォンソ1世は、サンタレンの戦いの勝利に貢献したテンプル騎士団に領地を与えた。

 テンプル騎士団は、そこに要塞兼ねた修道院「キリスト教修道院」を建て、以後、ここを本拠としてイスラム勢と戦った。

 14世紀、テンプル騎士団は、当時のフランス王の陰険な謀略によって、本部のあったフランスをはじめ、各国の支部組織が弾圧・粛清され、壊滅する。しかし、ポルトガルでは、数年後にキリスト騎士団が創設されて、テンプル騎士団ポルトガル支部の莫大な財産を受け継がせた。

 エンリケ航海王子は、サグレスに航海学校を開設した4年後の1420年に、キリスト騎士団の団長に任命され、生涯、その地位にあった。ゆえに、彼はサグレスにいないときには、このトマールのキリスト教修道院を住まいとした。

 実は、世界で初めて大航海時代を切り開いたエンリケ航海王子の大事業の財源は、貧しいポルトガル王室の金庫から出たものではない。キリスト教騎士団がテンプル騎士団から受け継いだ莫大な財産から出ていたのである。

 つまり、ポルトガルの大航海時代は、エンリケ王子という人を得て、キリスト教騎士団の事業として展開されていったのである。

 …… では、そもそも「騎士団」とは何か、と、改めて調べ、調べているうちに、聖ヨハネ騎士団が活躍する塩野七生の『ロードス島攻防記』のことを思い出し、ページをめくっていたらついつい面白くなって再読。あげくの果てに、ロードス島に行ってみたくなって、あれこれと調べているうちに、すっかりブログの方がお留守になってしまった。この2週間ほど、心が、ポルトガルから、東地中海のロードス島へと、ふわふわ漂っていた。

 改めて、気を引き締めて、執筆を再開します

 まだ、サグレス岬にいます。

     ★   ★   ★

 10月1日 

 「明日は早いから」と遠慮していたのに、サグレスの小さなホテルは朝食を用意してくれていた。朝食はいつもちゃんと食べる習慣だから、ありがたかった。

 6時40分、スーツケースを持ってホテルの外に出て、昨日のネットタクシーを待つ。

 まだ夜は明けていない。海の音はここまで聞こえてこないが、近くに大西洋の気配を感じる。

 ずいぶん長く思えたが、5分遅れで、マダムの運転する迎えのベンツがやって来た。ラゴス発の列車に乗り遅れたら、今日の予定が根本的にくるってしまうので、心配した。何しろ、大陸の果てからもう一方の果てへ、たまたまネットでつながっただけの関係だから。

 車の中で、窓の外が明るくなっていった。

         ★

< 「市民」として >

 7時48分始発の鈍行列車が入ってきた。

 リスボンまでは昨日の逆コースで、Tunesまで各駅停車で行き、そこから特急に乗り替える。

 プラットホームには、地元の通勤客と思われる人たちに混じって、海外旅行用の大きなスーツケースを持った旅行者たちもいる。

 私の前を、ヨーロッパのどこかの国から旅してきたのだろう、女子大生と思われる二十歳ぐらいの二人づれの女性が、大きなスーツケースを持ち上げて、列車に乗った。後に続いて、列車のステップに足をかけたとき、驚いたことに、先に上がった女性の一人が、自分のスーツケースを友人に預け、列車の床にズボンの膝をついて、私のスーツケースを上から引っ張り上げようとしてくれたのだ。

 とても綺麗なお嬢さんだった。「ありがとう。大丈夫です」と言って、自分で持って上がった。

 少しばかりのショックと感動があった。

 ヨーロッパの駅のプラットホームは、かなり低い。線路の面から30~50センチぐらいしかないだろう。だから、ホームから線路に「落ちる」というような不安感は全くない。線路に降りるのは簡単だ (降りてはいけないが)。

 その分、入ってきた列車のデッキは高い。海外旅行用の大きなスーツケースを持って、狭く高いステップを上がるのは、結構大変なのである。それも、年齢とともに。

 それにしても、自分がこういうお嬢さんにいたわられるようになったということが、ちょっとショックだった。

 だが、それにもまして、ヨーロッパの若者の、こういう何気ないふるまい方に、感心した。

 日本人の民度は高い。人に迷惑をかけない。人の心を慮ることができる。

 だが、日本人は、見ず知らずの他者に対して、このように躊躇なく、かつ、当たり前のことのように、さっと手を差し伸べることはしない。

 身内(家族や学校や会社や会社の顧客)の「外」の人間に対しては、概して冷淡である。

 日本流でいえば、私は、このお嬢さんたちの「外」の人間である。にもかかわらず、ヨーロッパの、これは何だろう??

 騎士道精神の伝統 …… ではないだろう。騎士道精神なら、お姫様は、「してもらう」人だ。実際、このときの彼女は、旅行用のラフな姿に「身をやつして」いたが、お姫様のドレスも十分に似合う西洋の美女だった。

 多分、ヨーロッパに今も生きる市民精神の伝統ではないか、と思う。「良き家庭」に育った子女は、パブリックな場でそのようにふるまえるようしつけられている。

 実際、ヨーロッパを旅していると、今回のような列車の乗降りでも、或いは、駅の高い階段でも、大きな旅行用スーツケースを持って苦労している中高年の女性がいたら、付近の男性がひょいと手を伸ばして、階段の上まで持って上がってくれる。そういう光景は、よく見かける。

 パリの大きな道路を渡ろうとして信号待ちしていたら、前に、かなり高齢のよぼよぼのおばあちゃんがいた。ヨーロッパの横断歩道の青信号が赤になるのは早い。心配していたら、青信号になった途端、横にいた若い女性がおばあちゃんの手を取って、大勢の人波に抜かれながら、信号が赤になっても、おばあちゃんのペースで堂々と歩きぬいた。そして、横断歩道を渡り終えると、当たり前のことをしただけ、というふうに、おばあちゃんに小さく手を挙げて、別の方向へ別れて行ってしまった。

 街角で『地球の歩き方』の中の小さなマップを開いて思案していると、「何かお手伝いしましょうか?」と声をかけてくれる。振り向くと、買い物籠付きの自転車に乗った品の良いマダムが、自転車を止めて微笑んでいる。

 こういう「市民精神」について、以前にも、当ブログで触れた。私がヨーロッパの旅をしているのは、(及ばずながらではあるが)、「ヨーロッパとは何か」ということを知りたいためであり、それが大問だとすれば、小問の一つが「市民とは何か」「市民精神とは」ということである。

 以前、当ブログに書いたことではあるが、もう一度、部分的に再掲する。

         ★

西欧旅行…フランス・ゴシックの旅」の10「大聖堂はローマ文明の上に、自由は市民精神の上に」から

  フランスの大統領が「実質的な妻」と別れて、別の女性と同居した、などということが報道されても、ふつうのフランス人やパリっ子は、知らん顔だ。 各自の家の中は各自の勝手。人のプライバシーに立ち入ることは、ゲスのすること。 大統領の評価は、政治家として有能かどうかで決まる。

 こういう点において、フランス人は、見事な「個人主義」である。

 だが、フランスの個人主義は、「人に迷惑をかけなければ、何をしても勝手でしょう」 と、ただ自己中心的に生きることではない。

  杖をついた危なかしい足取りのおばあさんが、長い横断歩道を渡ろうとしている。 すると、横を歩いていた若い女性が、すぐにおばあさんの腕をとって、信号が赤になっても、おばあさんのペースでゆっくりと歩き、渡りきる。 おばあさんがお礼を言い、女性はにこっと笑って歩いて行く。 (フランスの横断歩道の信号はすぐに赤になるが、車は歩行者がいる限り発進しない)。

   街角で、東洋人の旅行者がガイドブックを広げて首をひねっている。 買い物かごを乗せた自転車のマダムがピュッと横に自転車を止めて、「何かお手伝いしましょうか?」 。 

   こうした光景は、地方の中都市だけでなく、大都会パリでも見る光景であり、 日本の社会で暮らしている者にとっては、新鮮に映る。

 日本では、誰もがもう少し自分の殻にこもって、「個人主義」で生きているように見える。

 フランスでは、各自の家の中は各自の自由、しかし、一歩家を出たら共同体の一員としての市民の自覚……、そういう精神が、まだ生きているように思う。

 つまり、市民精神の基盤の上に、自由や個人主義は成り立つ。 今もそういうDNAが残っているのが、フランスであり、そして西洋なのだと思う。

 以下、木村尚三郎 『パリ』 (文芸春秋社) から

 「ノートル・ダム大聖堂はパリのなかでも最も高い建物であり、……それより高い建物は認められなかった…。パリの建物が6階ないし7階にそろえられているのも、このためである」。 

 「ちなみに、パリ市内の建築・居住規制は、日本の都市などとは比べものにならないくらいに厳しい。一戸建て住宅は存在せず、大統領・首相以下、誰もがマンション暮しである 」。

 「パリが美しいと感じられるのは、建物による均整美だけではない。 洗濯物がベランダなどにまったく見えないからである。…… ベランダに洗濯物や絨毯を干したりすれば、美観を損ねるとして罰せられる」。

  「たとえ自分が所有する立木一本と言えども、市の許可なく勝手に切ることはできない。これも、中世以来の決まりである 」。

  「それは、パリに生まれ育った人たちにとってだけではなく、世界の誰にも美しいとされる普遍性が追求されているからである。そこに、世界都市パリの面目がある 」。

  「市民共同体の一員として、自ら積極的に公益を実現しつつ生きる、これなくして都市に生きる資格のないことを、パリは教えている 」。

  そして、辻邦生 『 言葉が輝くとき 』 (文藝春秋) から                              

  「そのとき、メトロがぱっとセーヌ川の上に出て、窓からパリの街が見えた。夕日のもとですごく美しかった。私はただたんに、美しいなという感嘆よりも、そこに、その風景を美しくしている意志があるなと感じた。ただ漠然と美しいのではなく、美しくあらしめよう、きちんとした街にしようという激しい秩序への意図があり、さらにそれを実現する営みがある、これがつまりヨーロッパなのだと思った。ここから、私とヨーロッパとの最初の出会いが始まったと思います」

  (セーヌ川のサン・ルイ島付近)

         ★

「西欧旅行 … フランス・ロマネスクの旅」の5「日本のロマンティシズムと永世中立国スイスのリアリズム」から。

 旅行に出る前、にわか勉強で読んだ本の中に、犬養道子『ヨーロッパの心』 (岩波新書)があった。そのなかのスイスの章には、このようなことが書かれていた。

 「九州ほどの山岳国。……22の万年雪の大きな峠、31の小さな峠。無数の非情な谷。… 見た目は緑で美しいが、実は何も産しない痩地草原地帯 (アルプ) にばらまかれた3072の共同体 (ドイツ語圏でゲマインデ、フランス語圏でコンミューン)。例えば、我が家から2キロ先のジュネーブ(市)は、38のコンミューンから成っている。一応、ジュネーブ圏内コンミューンゆえ、住人はジュネーブ人と呼ばれるが…… 」。

 「ジュネーブ市民」という市民はいない。いるのは38の各コンミューンに所属する市民。

 「万年雪の峠」や「非情な谷」に閉ざされて生きてきたスイスでは、「共同体」を作って助け合い、自己完結的に生きていかなければ生きられなかった。各家庭の中は各自の勝手(個人主義)。しかし、一歩家を出れば、そこには共同体があり、生きるために各自がその一員として責任を果たし、助け合う。

 こうして、「スイス人」の自主自立の精神、市民精神が育った。

※ 菅直人の言う西欧型「市民」── 政党や労働組合などの組織に属さず、個人として、反体制、反権力で行動する人、という「市民」イメージとは、かなりかけ離れている。

         ★

「西欧旅行…アドリア海紀行」の1「ヴェネツィアの海へ」から。

 その昔、10世紀の終わりごろから16、17世紀まで、アドリア海は「ヴェネツィアの海」であった。ヴェネツィアの商船や軍船が行き交ったアドリア海を自分の目で見たかったということである。海は海だが、そこには目に見えぬ物語がある。

 なぜヴェネツィアにこだわるのかと言えば、西欧史の中で、ヴェネツィアの歴史がいちばん好きだからである。

 イギリスやフランスやオーストリアなどのような王・貴族と農民という一方的な支配・被支配の関係によって成り立つ封建国家でもなく、フィレンツェのように一見、民主的に見えるが、市民同士の利己がぶつかり合い、絶えず政変・クーデターが起きる内紛の都市国家でもなく、ヴェネツィア800年の歴史には、市民精神(共同体精神)と、時代をタフに乗り切るリアリズム精神が貫ぬいているように思える。      

 (再掲は以上)

         ★

 市民精神は、共同体の延長としての祖国への愛につながっていく。

 ヴェネツィアは都市国家だった。人口20万人足らずの、領土というほどの領土を持たない小国が、通商国家として、大国の横暴に抗して生きていくためにとった政策は、一言で言えば、徹底した「チーム・ヴェネツィア」作戦だった。市民のロイヤリティの高さが、800年の歴史を支えたと言える。 

 3000の自立心の高い共同体から成るスイスは、永世中立国を宣言した。だが、それは美しいだけの宣言ではない。同時に、国民皆兵制度に立ち、精度の高い防衛能力を保持し、侵略国に対しては国土を焦土と化しても戦うこと、仮に侵略国によって全土を制圧されても、亡命政府を樹立し、絶対に降伏することはない、という宣言もしたのである。それは、現在の国民のことだけを考えてのことではない(「敵が攻めてきたら … 、ぼくは逃げる」)。これまでスイスをつくりあげてきた祖先たちに報い、これからこの国を引き継ぐ子や孫のことを考えての宣言であった。

         ★

閑話

 先日、NHK・BSで放映されたドキュメンタリー「激動の世界をゆく/バルト三国 ── ロシアとヨーロッパのはざま/小国のアイデンティティ」を見た。

 ベルリンの壁が崩壊したとき、弱小国のバルト3国は、数百万の人々が手と手をつなぎ、ソ連に向けて「人間の鎖」を作って、静かに独立を訴えた。その人間の列は、バルト3国の大地を貫く1本の線となって、延々と延び、今、その映像を見ても、感動する。

 だが、バルト3国の人々は、今、不安に駆られ、緊張を強いられている。ウクライナ問題のさ中、ロシアは電光石火のごとく、クリミアを併合した。大国ロシアに隣接する小国のバルト3国の立ち位置は、クリミアと同じなのだ。ひとひねりでつぶされてしまう。

 また、国を失うかもしれない、という恐怖感を、どれだけの日本人が共感的に理解できるだろう。

 弱小国バルト3国の軍事力は弱い。

 NATO軍はいる。NATO軍の存在がロシアに対する抑止力になっている。だが、NATO軍といっても、ヨーロッパの各国からの寄せ集めの軍隊で、数か月赴任したら交代する軍隊である。

 さらに、人々を不安に陥れているのはトランプ大統領の登場である。NATO軍の中心であるアメリカは、アメリカ・ファーストの立場からプーチンと取引し、我々を見捨てるかもしれない。

 最近、志願兵制を始めた。銀行を辞めて志願したある若者は言う。「自分たちが本気で自分の国を守ろうとしなかったら、どうして外国の軍隊が命を懸けて、この国を守ってくれるだろう??」。

 敗戦直後、大陸にいた何十万という日本人がシベリアに抑留され、凍りつく寒さと飢えの中、強制労働をさせられて、多くの人々が望郷の思いを抱きながら、死んでいっだ。同じことがバルト3国でもあった。反ソ連の活動をした人の家族が、家族ぐるみでシベリアに連れて行かれ、強制労働をさせられ、倒れ、凍土に葬られた。

 ある老夫婦は、そのようにして50年間をシベリアで生き、ソ連が崩壊してバルト3国が独立したとき、やっと引き上げてくることができた。

 老いた夫はNHKのニュースキャスターに向かって言った。「どうか、記録してほしい。私の父は、ラトビアの土と枯れ葉の下に葬ってほしい、と言って、彼の地で死んだ」。

 また、老いた妻は、ニュースキャスターが、「最後の質問ですが、ラトビアの若い人たちに何か言いたいことがありますか?? 」と聞いたとき、ひとこと、「ラトビアを、愛してほしい」と答えた。

 「自分たちが本気で自分の国を守ろうとしなかったら」

 「ラトビアの土と枯れ葉の下に葬ってほしい」

 「ラトビアを、愛してほしい」

 市民精神 (共同体の精神) とは、そういうことだ。祖国を愛することである。 

      ★    ★    ★

< ただし、いろんな人間がいるのがヨーロッパ >

 TUNESで、特急に乗り換えて、リスボンへ向かう。

 日本で買った特急のチケットは、22号車の、座席は15番。

   「22号車」という車両番号を心配していた。22両も連結しているはずがない。間違えて発行されたのではないか?? 自分の座席は、あるだろうか??

   しかし、ホームに入ってきた特急は数車両しか連結していなかったが、「22号車」の表示の車両は、ちゃんとあった

 座席番号も、不思議だった。日本では、端から1、2、3 … と座席番号をうっている。ところが、ポルトガルの列車の座席番号はアトランダムなのだ。

 席について落ち着いてから、つれづれのままに、何か法則性があるのかと、見える範囲の座席番号を眺めてみたが、アトランダムであることがポルトガル鉄道の規則なのだと、考えるしかなかった。所変われば、である。ちなみに「15番」は一番うしろの座席だった。

  ( 河口に臨むリスボン )

   大都会リスボンに入り、高い所を走る列車から、一瞬、リスボンの町を撮影することができた。大西洋の河口に臨む町であることが、良くわかる写真になった。

 リスボン・オリエンテ駅では、トマールへ行く列車の発車時間まで、ちょうど1時間の待ち時間があった。

 駅構内で、あまり美味しくないサンドイッチを買って食べ、プラットホームで列車を待った。

 ベンチに座りたかったが、どこもふさがっている。

 3人掛けのベンチの一つを、若い女性が一人で占領していた。女子大生の一人旅か? 横向きに、ベンチに両足を上げ、膝小僧を抱え込むようにして、ベンチを占領している。

 端っこが少し空いていたので、あえてそこに座った。すると、両足を少し引っ込め、1人分だけ空けた。「土足の足をベンチに上げるな!!」 と言いたかったが、やめた。異国で、自らトラブルを起こしてはいけない。

 私がヨーロッパを、一人一人が市民精神をもったモラルの高い国々だと、一面的に買いかぶっていると思われたらいけないので、こういうレベルの若者もいることを書いた。

 人種、民族が入り混じって自由に移動し、「身分的な格差」もあり、日本より経済的格差が大きく、モラルの格差も大きいのが、ヨーロッパである。

         ★

 リスボンからトマールへ行くには、各駅停車しかない。だが、各駅停車の、ゆっくりとした旅も楽しい。

 窓から眺めていると、昨日、首都リスボンから南へ向かいながら眺めた景色と、今日、リスボンから北へ向かう車窓風景とは、同じ国とは思えないほどに違う。リスボンの北は、地味が豊かで、人家も多い。

 大西洋に並行して北上していた列車は、やがて東へ進路をとり、いかにも草深い田舎の風景のなかを、所々の駅で停まりながら走った。

 そして、午後3時、地方の小さな駅トマールに着いた。

         ★

 小さな町だから、若ければホテルまでスーツケースを押して歩くのだが、そうもいかず、駅前からタクシーに乗った。

 ホテルは、レプブリカ広場から延びるメインストリートにあった。

 道の正面の丘の上に、キリスト教修道院の城塞のような建物が見えた。

 

(トマールのメインストリートと丘の上のキリスト教修道院)

 

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エンリケ航海王子の苦悩と愛 … ユーラシア大陸の最西端ポルトガルへの旅11

2017年01月21日 | 西欧旅行……ポルトガル紀行

  ( サグレス岬の灯台 )

< サグレス要塞のある岬の尖端へ向かう >

 サン・ヴィセンテ岬発15時5分のバスで、レブプリカ広場に戻った。

 広場からサグレス岬へ向かう。岬にはサグレス要塞がある。そこは、エンリケ航海王子が世界初の航海学校を開設したところである。

 『深夜特急』の主人公は、日の暮れたレブプリカ広場にバスで到着し、この方向に行けばホテルがあると判断して、サグレス要塞への暗い道を歩いた。しかし、行けども行けども人家はなく、野良犬の群れに出会い、引き返した。

 『深夜特急』を読んでここまでやって来た若者たちは、昼、この道を歩いた。向こうに要塞の城壁が見えているのに、行けども行けども近づかない。遠く感じた、と多くの若者がブログに書いている。それでも、どんどん歩けば、20分くらいで城門に着くと。

 若者たちがどんどん歩いて20分なら、30分歩くことを覚悟すれば、まちがいなく行き着くだろうと、歩き始めた。

 若者たちのブログどおり、道は一本道になり、遠くに城壁と城門らしいものが見えてきた。

 暑い。なにしろ、ここの気候は、北アフリカだ。日本を出て5日目。旅の疲れが蓄積している。

 自家用車が横をゆっくりと走り抜けた。一本道だから、同じ目的地に行くヨーロッパの旅行者だろう。手を挙げたら、停まって乗せてくれるだろうか?? 

    (要塞へ向かう一本道)

 蜃気楼のように、走る人が現れた。道路を走らず、露岩と雑草ばかりの荒れ地を走って、体を鍛えようというストイックな人がいるのも、ヨーロッパである。

    (荒れ地を走る人)

     (サグレス要塞の城門)

 「岬がせまくなるままに進むと、やがてそのさきに、城門があった。海への門のように見える」  (『南蛮のみち』)。

 城門の上に、かなり風化しているが、ポルトガル国の紋章らしきものが見えた。

         ★

< サグレス要塞の見晴台に立つ >

 「 (城門を) くぐると、岬の尖端で、ポルトガル語でいうポンテである。突角」 (同)。

 くぐった城門の上は見晴台になっていて、ポルトガル国旗が翻っている。

 ポルトガル国旗の由来については、多少の異説もあるが、旗の緑は誠実と希望を、赤は新世界発見のため大海原に乗り出したポルトガル人の血を表す。中央の紋章は、天測機の中に、イスラム勢から奪い返した7つの城と、打ち破った敵の5つの盾が描かれている、とされる。

 まず、高い所から全体を展望してみようと、見晴台に上がった。 

      ( 見晴台 )

 良く晴れ、「突角 (ポンテ) も、板のようにひらたく」、360度の広大な景色が広がっていた。

 「大学のキャンパスほどの広さがあるだろう」 (同)と司馬遼太郎は書いているが、「大学」とは、この場合、各学部がそろった総合大学のことである。相当に広い。

 近くには、小さなチャペルがある。兵営のような建物もある。

     ( チャペル )

 地面につくられた直径43mの風向盤がある。 

           ( 風向盤 )

 やや遠く、海に近い所に、灯台が建つ。近く見えるが、多分、歩けば、城門が遠かったように、遠いに違いない。

     ( 灯台 )

 その向こうは、大西洋。

   西の方を遥かに望めば、入江をはさんで、先ほど行ったサン・ヴィセンテ岬が見える。先端に灯台がある。 

  ( サン・ヴィセント岬を望む )

 「… 台上にのぼりつめると、あやうく風に吹きとばされそうになった。その高所からあらためて岬の地形を見、天測の練習に仰いだであろう大きな空を見たとき、ここにはたしかに世界最初の航海学校があった、というゆるがぬ実感を得た。

  エンリケ航海王子関係の原史料がほとんど消滅しているために、サグレス岬に設けられた世界最初の航海学校というのも、じつは伝説にすぎない、という説があるのだが、おそらく論者はこのサグレス岬にきて、ここに立ったことがないのではないか。

 ここでは陸でありながら、甲板の上にいるように潮を知ることができる。目の前の海には、沿岸に沿ってゆるやかに流れる沿岸流がうごき、沖にはべつの潮流が流れている。さらに、ここにあっては風に活力がある。生きもののようにたえず変化しており、そのつど、風をどう使えばいいかを、帆を張ることなく体でさとることができる。ここには水もない。水ははるかに運んできて、節水して使わねばならない。そばに、練習用の船を繋船しておく入江もある。この突角 (ポンテ) は、自然地理的でなく、どこを見てもかつての人の営みがこびりついている。ここに航海学校がじつは無かったなどというのは、机上のさかしらのようにおもえてくるのである」 (『南蛮のみち』)。

         ★

< 岬の縁に沿ってサグレス要塞の構内を歩く >

   見晴台を降りて、ちょっとためらったが、やはり歩き始めた。城門までやってくるのにかなり歩き、また同じ道を帰らねばならないが、ここまで遥々と来た以上、灯台のその先の海ぎわまで自分の足で歩き、そこにどんな光景があるのかを確かめておきたかった。

 やはり、遠かった。

  露頭した岩角がゴツゴツし、見たこともない雑草がへばりつくように生えている。

            ( サグレス岬の灯台 )

   灯台までやって来ると、もう少し先に、大西洋に落ち込む断崖があった。

 城壁の一部が残り、錆びた大砲が海に臨んでいる。

 

           ( 大西洋 )

 打ち寄せる波の音を耳にしながら、さらに、断崖の縁をぐるっと、半円を描くように歩いた。

 賽の河原の石積みのように、或いは、山のケルンのように、一面に小石が積まれていた。どういう人たちが、どんな思いで、積んだのだろう。

 その向こうにサン・ヴィセンテ岬が見える。望遠で撮ると、灯台がくっきりと見え、なかなかの風情だ。

            ( 賽の河原の石積み )

     ( サン・ヴィセンテ岬の灯台を望む )

 岬の縁をぐるっと巡って、元の城門付近に戻ってきた。よく歩いた

         ★

< エンリケの悲哀 >

 小さなチャペルに入って、ベンチに座り、一休みする。

 エンリケ王子も、この小さなチャペルで、日に焼け、皺の刻まれた額を垂れて、一人、祈っただろうか?? ………

   国旗の赤の色や紋章からもわかるが、大航海時代は、ポルトガルの歴史において最も輝いた時代であり、その時代を切り開いたエンリケ航海王子は、ポルトガルの誇りであり、英雄なのだ。

 だが、人は生きている限り、喜びのときはほんの一瞬で、その生涯の多くは悪戦苦闘の連続だ。あのエンリケであろうと、それは同じである。取り返しのつかない失敗もするし、後悔に苛まれることもあったはずだ。しかも、悔いや悲哀は、齢を重ねるにつれて重くのしかかり、心に一層深く刻まれていく。

 1437年、エンリケ44歳のとき、彼は、周囲の反対を押し切って、軍を率い、北アフリカのイスラム勢が根城とする町タンジール (タンジェ) に遠征し、攻撃した。だが、戦いは完敗に終わり、大きな犠牲を払う。何よりも、弟フェルナンドが捕虜になった。

 エンリケは周囲から非難された。エンリケの戦闘指揮能力について、疑問が出された。

 途方もない身代金が要求されてきた。フェルナンド王子からは、交渉に応じるな。拒否せよと言ってくる。エンリケは ━━━ 応じなかった。弟フェルナンドは捕虜のまま6年後に死んだ。

 …… あのとき、自分の命を賭して行動していたら、フェルナンドを助けられたかもしれない。自分は臆病だった。…… 異教徒と取引したと非難されようと、どんなに犠牲を払っても、身代金を工面すべきだった。まだ若い弟を見殺しにしてしまった……。

 事実、エンリケは、生涯を通じてキリスト騎士団の団長だったが、この事件以後、2度と、自身が戦いの指揮を執ることはなかった。

 後悔は歳月によって風化されることはない。日中、人々を指揮し、忙しく立ち働いているときは忘れていても、夜になると、心の深い闇の底から浮かび上がってきて、彼を苦しめ、一人、眠られない夜を過ごすことになる。

 人は一人で耐え、祈るしかないこともある。

          ( チャペル )

         ★ 

< エンリケの愛 >

   エンリケ航海王子に愛人がいた、という伝説もある。

 例えば、NHK・BSに『一本の道』という番組がある。NHKのアナウンサーが、現地ガイドと二人で、「一本の古道」を何日もかけて歩く、という旅番組である。タレントを起用せず、若いアナウンサーが旅をするのが新鮮だった。そのシリーズの中に、サグレス岬を目指して歩く旅があった。

 途中、ガイドは、「寄り道したいところがある」と言って、道を迂回した。

 寒村に行き着いた。そのなかの1軒の石積みの小さな家の前で、ガイドは言った。「エンリケ航海王子は、この家の女性に逢うために、サグレスから馬で通っていたという話があるんだ。真偽は不明だけどね」。

 私は、テレビを見ながら、「それはないだろう」と思った。キリスト教騎士団の騎士は、神職と同じである。日常は法衣 (ロープ) を着ているが、一旦、異教徒との間に事起これば、甲冑に身を固めて出撃する。「(エンリケは、) 女性を近づけず、航海というただ一つの目的に熱中した」 と、司馬遼太郎も書いているではないか。

 だが …… 、と思った。どこかのお姫様との物語だけが愛ではない。

 エンリケが 「にぎやかな宮廷を去り、風と波の音しかきこえないこのサグレス岬にきて家を建て」(同) 、航海学校の開設に向けて始動したのは、まだ23歳のときであった。…… それから43年間。66歳で生涯を閉じるまで、一度も女性を愛したことがなかっただろうか??

 それが、先ほどの村の人かどうかはわからない。しかし、伝説は真実を含むものだ。

 人生のある時期、エンリケは、サグレス岬から馬で行けるどこかの村に通っていたかもしれない。それは自然なことではなかろうか。

 その人は、エンリケにとって、風の音や波の音と同じ次元のものだったろう……と思う。

         ★

< 「サグレス岬まできてみると… >

 

        ( サグレス村の白い雲 ) 

   夕方、晩飯を食べるために、ホテルから10分ほどのところにあるレストランへ向かった。

 夕暮れの空に、飛行機雲の残りかもしれないが、本当に久しぶりに白い雲を見た。

         ★

 司馬遼太郎の旅にはスタッフが同行している。その一人が、司馬の紀行文に挿絵を描くために同行している須田画伯である。

 司馬遼太郎の『南蛮のみち』は、以下のようなサグレス岬の印象的な場面で終わる。

 「 (須田画伯は、) 子どものように退屈してきたのか、うつむいてあちこち地面を移動して歩き、小石をひろいはじめた」。

 「ひろいつづけてポケットがいっぱいになったころ、こんどはもとの地面にもどすべく一つずつ落としはじめた。『ヨーロッパが減るといけないから』というのが、理由だった」。

 「画伯の実感は私にも伝わった。16世紀以来、私どもの文化を刺激しつづけてくれたヨーロッパは、それが尽きるサグレス岬まできてみると、もう地面はこれっぽちしかないのかというかぼそい思いがしてくる。」

 「私ども非ヨーロッパ人は、平衡をもった尊敬をこめて、この大陸に興り、いま沸騰期を過ぎつつある文明を大切にあつかわねばならないが、画伯もその気分がつよいのであろう。ともかくも、画伯は小石を捨てた。私どもの旅は、小石がサグレス岬のせまい地面に落ちたときにおわった」。

         ★   

 明日は、リスボンをさらに北へ、地方の小さな町トマールまで、鉄道の旅をする。

 

 

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サン・ヴィセンテ岬に立つ…ユーラシア大陸の最西端ポルトガルへの旅10

2017年01月15日 | 西欧旅行……ポルトガル紀行

   (サン・ヴィセンテ岬) 

沢木耕太郎 『深夜特急 6』 から

 「ふと、私はここに来るために長い旅を続けてきたのではないだろうか、と思った。いくつもの偶然が私をここに連れてきてくれた。その偶然を神などという言葉で置き換える必要はない。それは、風であり、水であり、光であり、そう、バスなのだ。私は乗合バスに揺られてここまで来た。乗合バスがここまで連れてきてくれたのだ……。

 私はそのゴツゴツした岩の上に寝そべり、いつまでも崖に打ち寄せる大西洋の波の音を聞いていた」。

─── 主人公は、「神などという言葉で置き換える必要はない」と言う。「神」とは、キリスト教の神であり、イスラムの神であり、ユダヤの神であろう。そういうものによって説明することを彼はこばむ。そして、「それは、風であり、水であり、光であり」と言い、さらに即物的に、「そう、バスなのだ」と言う。

 日本を離れ、ユーラシア大陸を放浪して1年になるが、主人公の感性は、正真正銘の日本人である。そこが、いい。

    ★   ★   ★

9月30日 

 4泊したホテルを出て、今日は、今回の旅の第1の目的地であるサグレスへ向かう。

 司馬遼太郎の 『街道をゆく 南蛮のみち』 の前半はフランシスコ・ザビエルを追う旅であり、後半はエンリケ航海王子を追う旅である。

 私の旅も、司馬遼太郎とともに、エンリケ航海王子の足跡を求める旅に戻ることになる。

 ポルトガルの国土は、北から南へ、縦に長い長方形の形をしている。その底辺に当たる線の一番西に、サグレスという町(村)がある。大西洋が、ジブラルタル海峡へ向かって西から東へ湾曲する、その湾曲の、西のとっかかりである。そこに、サン・ヴィセンテ岬と、入江を一つ隔てて、サグレス岬がある。ユーラシア大陸の最西南端である。

 この旅のリスボンの初日、ロカ岬へ行った。ロカ岬は、サグレスの二つの岬よりも経度においてやや西にあり、ユーラシア大陸の最西端の岬とされるが、首都リスボンに近く、観光地である。

 一方、サグレスの岬は、首都から遠く、ポルトガルの辺境の地と言っていい。列車はラゴスという町までしか行かない。終着駅からは、乗合バスしかない (この旅では、たまたまネットで見つけたネットタクシーを予約した)。

 エンリケ航海王子は、このサグレスに住まいを置き、気象(天文)、造船、航海術、地図製作術などの専門家を集めて、「航海学校」を開いた。学校と言っても、研究機関の要素を強く持っていただろう。

 もっとも、そこには痕跡らしきものが残っているだけで、文献資料に乏しく、「エンリケ航海王子の航海学校」の存在に異議を唱える学者も多いそうだ。

 だが、こういう伝説は、実証主義に毒された疑い深い学者の意に反して、たいていの場合、「事実」である。私などは、信じて、楽観している。

        ★

< 沢木耕太郎の『深夜特急』とサグレス >

 それにしても、遥々と大陸の東の果てから訪ねていく旅人にとって、そこは辺境の地である。だから、行くにあたってはネットでいろいろ調べた。『地球の歩き方』の記述もごく小量なのだから、ネットの情報が頼りである。

 調べていると、意外にも、一人旅で、ここを訪ねている日本人が結構いることがわかった。その紀行がブログとして掲載されていて、参考になった。若い人たちだ。 (旅行当時の年齢だが)。

   なぜ、彼ら (なかには彼女もいる) は、たった一人で、サグレスを目指したのか その動機も、ブログに書かれている。彼らの冒険心をそそったのは、司馬遼太郎ではない。沢木耕太郎の『深夜特急』である。

 それで、『深夜特急』の最終巻を読んでみた。

 ナイーブで、賢く、思慮深い、バックパッカーの青年が、ユーラシア大陸を路線バスを乗り継ぎ、安宿に泊まり、一期一会の出会いをしながら、一人、旅をしていく。1年も旅をし続けて、もう終わりにしなければならないと思い始めるが、踏ん切りがつかない。

 そういうある夜、リスボンのバイロ・アルト地区を歩いていたとき、酔っ払いの、コワモテ風の、英語を話すおっちゃんにつかまり、レストラン、というより食堂のようなところで、ご馳走になる。イカのフライを食べていると、ビールも注文してくれた。以下、『深夜特急』からの引用である。

        ☆ 

 ラベルに「SAGRES」とある。

 「サ・グ・レ・ス」

 私がそれを読みながら口に出して発音すると、男は頷いて言った。

 「そう、サグレス」

 サグレスとはどんな意味なのか。私は単に話の継ぎ穂にというくらいの気持ちで訊ねた。

 「土地の名さ」

 「サグレスという土地?」

 「岬がある」

 「それはどこですか」

 私は興味を覚えて訊ねた。男はテーブルの周囲を見回した。書くものを探しているらしい。少年 (ウエイターの少年) に言いつけ、注文取りに使うザラ紙とボールペンを持ってこさせた。そこにイベリア半島の概略図を描くと、ボールペンの先で突いた。

 「ここさ」

 印がついたのは、ポルトガルの、というより、イベリア半島の西南の端の地点だった。

 「ここがサグレスだ」

 私はユーラシアの果てはリスボンだと思い込んでいた。しかし、ポルトガルには、当然のことながら、リスボンよりはるかに果ての土地があったのだ。男が描いてくれた地図によれば、サグレスはポルトガルの果てであり、イベリア半島の果てであり、だからユーラシア大陸の一方の果てだった。

 「サグレスというのはどんなところですか」

 「行ったことはないが、きっと何もないところさ」

 それはますます心惹かれる土地だ。ユーラシアの果ての、ビールと同じ名を持つ岬。サグレス。音の響きも悪くない。

        ☆

 こうして、主人公は、サグレスへ向かう。

 サグレスの旅でも危機はあったが、ペンションを経営する青年とその母親に助けられ、主人公はサグレス岬と、サン・ヴィセント岬に立つことができた。そして、……「これで終わりにしようかな」、と思うのである。

 『深夜特急』を読んだ若い読者たちは、自分もバックパーカーの旅に出ることを夢見て、旅に出た。「青年よ、荒野を目指せ」、である。だが、誰にも諸事情があるから、主人公のように1年も旅を続けることはなかなかできない。しかし、せめて、主人公が「これで終わりにしようかな」と思った、ユーラシア大陸の果てには、行ってみたいと思う。

 サグレスの2つの岬は、実は、こういう日本の若者の青春の岬でもあったのである。 

    ★   ★   ★

< 大西洋の港町ラゴスへ、鉄道の旅 >

 朝、7時。呼んでもらっていたタクシーに乗り、リスボン・オリエンテ駅へ。

  ( 人けのないリスボン・オリエンテ駅 )

 ポルトガルは鉄道網が発達しているとは言えないが、リスボンを中心にして、北部のポルトと、南部のファーロの間を特急が結んでいる。ポルトはポルトガル発祥の地であり、ファーロはイスラム勢力を大西洋に追い落として、レコンキスタを終了させた港町である。

 ファーロ行きの特急は10分遅れて、8時35分に出発した。

 「4月25日橋」を渡り、大都会リスボンが尽きると… 、あとは、畑らしい畑もなく、人家もなく、林の中を列車はひたすら走った。

 『南蛮のみち』のなかで、ポルトガル在住の川口実氏が、司馬遼太郎に説明している。「テージョ川から北は、ゆたかな農業地帯で、工業もさかんなんです。しかしテージョ川から南のこのあたりは、降雨量もすくなく、地味がわるいらしいですね。このように、人口も極端に過疎です」。

 ただ、ところどころに、コルクの林があった。

 樹皮を剥ぎ、ワインの栓にする。軽く、伸縮力があり、水はとおさない。ポルトガルの主要輸出品の一つである。

      (コルクの林)

 10時52分、TUNIS駅でファーロ行きの特急を降り、2両編成の鈍行に乗り換えた。あと1時間少々だ。

 人跡の感じられなかった景色に、TUNIS駅を出たあたりから畑や人家が現れた。集落の家々は、ヨーロッパというよりイスラム圏の影響が一層濃く、風土も含めて北アフリカという感じだった。貴族の大邸宅といった感じの家もある。リスボンより北が商人や小規模な農民の世界であるのに対し、南部地方は大土地所有者(貴族)の世界で、なかなか近代化しないと、何かで読んだことがある。

   12時10分、大西洋に臨む港町、ラゴスに着いた。ここで、鉄路は尽きる。

        ★

< サグレスのペンションへ >

 ポルトガルの最初の王朝・ブルゴーニュ王朝のとき、ポルトガルの南端・ファーロでイスラム勢を大西洋に追い落とし、レコンキスタは終了した。

 だが、そのあとも、ポルトガルの商船は、地中海を荒らしまわるイスラムの海賊に苦しめられた。造船においても、操船においても、風を読み羅針盤を操る技術においても、イスラム圏の方がまだ上だった。

 もっとも、地中海の海賊は、アフリカからやって来るイスラムのモーロ人だけではない。モーロ人に負けない航海技術を身につけたヨーロッパ側のジェノヴァの商船も、バイキングも、海賊行為を行った。この時代、海賊行為を行わなかったのは、ヴェネツィア商船だけである。ヴェネツィアは海軍をつくり、定期航路を巡回させ、護送船団方式で、自国の商船を守った。 

 ポルトガル周辺の海賊の根拠地の一つは、アフリカ大陸北岸のセウタであった。セウタは、ジブラルタル海峡をはさんで、ジブラルタルの対岸にある要塞都市である。ヨーロッパに最も近い。

 1414年、ポルトガルの2番目の王朝・アヴィス朝の創始者・ジョアン1世は、数万の軍勢を船に乗せ、このラゴスから船出して、セウタを攻略した。「騎士」はいわば陸軍将校であり、海には不慣れである。ラゴスは、ポルトガル軍が初めて地中海を渡って、アフリカに遠征したという、ポルトガル史に残る港町である。

 この戦いが、21歳のエンリケ王子の初陣であり、この初陣によって、彼は父王から、騎士の称号を与えられた。

        ★  

 ラゴス駅には、ネット・タクシーの運転手がちゃんと待ってくれていた。運転手は、マダムだった。

 普通のタクシーと違って、ネットで宣伝し、ネットで受け付ける。顧客は、インターナショナルだ。私のように、ユーラシア大陸の反対側からも、依頼が来る。顧客の側にとっては、料金体系が明示されているから、安心である。ラゴスから、サグレスのどこでも、〇〇ユーロである。予約制だから、ママさんドライバーにとって、家を空ける時間がはっきりしている。中・遠距離専用だから、1回の出動でそれなりの稼ぎもある。こうして女性の働く場はどんどん広がっていく。ヨーロッパの働き方改革の進展には、学ぶ必要がある。

 30分少々で、サグレス岬の根元に位置する、レプブリカ広場のホテルに到着した。

 家族経営の小さなホテルだが、受付の青年も、その母親らしい年配の女性も、『深夜特急』で主人公が助けてもらった、サグレスのペンションの若い主人とその母親のように、とても感じのいい人だった。

 チェック・インを済ませ、部屋に荷物をおいて、バス停のあるレプブリカ広場に出た。

 明日は、また、ラゴスから列車でリスボンまで引き返し、さらに乗り継いでトマールという町まで行かねばならない。明朝早く、先ほどのネットタクシーのマダムが迎えに来る。遥々とやってきたが、今から日暮れまでの数時間が、サグレス観光の時間である。      

        ★

< サン・ヴィセンテ岬に立つ >

 サン・ヴィセンテ岬へ行くバスは、ラゴスからやってくる。ただし、ほとんどのバスはレプブリカ広場で分かれ、サン・ヴィセンテ岬へ行くバスは、1日2本しかない。その1本が14時25分発である。これを逃すと、自分の足で、片道1時間かけて歩かなければならない。レンタサイクルでも、道が悪く、30分もかかるらしい。

 帰りも、そのバスに乗る。周囲に何もない所だが、サン・ヴィセンテ岬が始発駅だ。行先はラゴスである。そのバスの出発時間は15時5分。サン・ヴィセンテ岬での滞在時間は30分だけである。

 広場の樹木の隙間から海がのぞき、潮騒の音が聞こえた。日差しがきつく、暑い。ここはアフリカだ。

 レブプリカ広場には、海に向かって、エンリケ航海王子の像が建っていた。この旅で見た彼の彫像や絵の中で、一番年を取り、一番それらしい雰囲気があった。

( レブプリカ広場のエンリケ航海王子像)

 突然、日本語で話しかけられた。「バスはここで待っていればいいのでしょうか」。振り向くと、40歳くらい、痩身、一人旅の男である。

 しばらく話した。何と、フランスからスペインのサンチャゴ・デ・コンポステーラまでの巡礼路を歩きとおし、そこからバスを乗り継いでリスボンまで南下。リスボンを観光した後、さらにバスでここサグレスまでやって来たという。

 「時々、こういう旅をして、自分の角(カド)を削ぎ落さないと、生きられなくなりますから」。確かに、話をしていると、時に角がのぞく。だから、きっと、日本の社会のなかで息苦しくなって、思い切って一人旅に出るのだろう。

 それにしても、すごい旅だと、心の内で感心していたら、「そのお年で、よくこんなところまで旅をしようという気になりましたねえ、すごいです」と、ひどく感心されてしまった。

        ★

 歩くと1時間だが、バスなら10分。

 向こうに灯台がぽつんと建っている。バスの停まった野っばらは、すぐ先が断崖である。

 灯台以外、人間のにおいのするものは何もない。荒々しい大自然があるのみだ。

 バスを降りた何人かの人々は、自然に人間のにおいのする人工物・灯台の方へ歩き出す。

  ( サン・ヴィセンテ岬の灯台遠望 )

  ( サン・ヴィセンテ岬の灯台の入口 )

 灯台の構内に入ってみるが、ごく小さな土産店があるばかりで、他に何もない。

 伝説では、ここ、サン・ヴィセンテ岬に、エンリケ航海王子の居宅があったという。そうであるならと、司馬遼太郎は、この灯台の構内で井戸をさがしている。そして、「とても井戸を掘りぬけるような場所ではなさそうで、おそらく邸はこの後方のどこかにあったのにちがいない」と結論付けている (『南蛮のみち』)。

 灯台を出て、むき出しの断崖の方へ向かう。

 「イベリア半島を特徴づけるテーブル状の台地 (メセタ) がつづき、山はない。日本では、山が海に沈んだところが岬だが、ここではまな板のような大地が海に向かっている」 (『南蛮のみち』)。

 「どの断崖も、ビスケットを割ったような断面である」 (同)。

 今日もまた雲一つなく、大地はここに終わり、茫々とした海が、ここから始まる。

   

  断崖の上に、人がいた。夫は背を向けて帰ろうとしているが、奥さんはこわごわ断崖の縁に近づいて、90mの下を覗き、コンパクトカメラで写真を撮ろうとしている。

 夫が振り向いて、写真を撮る妻の様子をパチリ。

 断崖をのぞく奥さんを見ていると、こちらの足もすくんでくる。

  向こうに、サグレス岬が見えた。入江を一つ隔てている。

 エンリケは、あの岬に航海学校をつくった。

 彼は、毎日、そこから、南の海に遥かに思いを馳せた。人々の言うように、そこは、世界の果て、煮えたぎる海なのだろうか

 そんなバカな話はない。

   行ってみるしかない。行動あるのみ。そのために、一つ一つ順を追って、着実に準備していく。昨日よりも今日は、もう一歩遠くへ。

          ( サグレス岬遠望 )

         ★

< エンリケ航海王子のこと ── 司馬遼太郎 『南蛮のみち』 から >

 エンリケ航海王子のことを書く司馬遼太郎の文章は、感動的だ。ここに引用する。ぜひ、味わって読んでいただきたい。

〇 「ジョアン1世が、王位についたときはまだ若く、同盟国の英国の王族から王妃をめとった。彼女は同盟のきずなであっただけでなく、聡明であった。さらに女性にはめずらしく航海術や地理学に強烈な関心をもっていて、息子たちに影響した。

 この英国うまれの王妃は、ほとんどお伽話めくほどに賢い王子を3人生んだ。次男は彼女の地理学好きを伝承した。この次男はヨーロッパの各地を旅行し、マルコ・ポーロの『東方見聞録』をはじめてポルトガルにもたらした。おそらく14世紀に成立したラテン語写本であったろう。『東方見聞録』は、ポルトガルのひとびとに読まれた。なかでも、『黄金の島日本 (チパング)』のくだりが、関心をひいた。この章こそ、おおぜいの航海者を新世界に奔らせるもとになったということは、よく知られている」。

 「三男こそ、母親の航海好きを相続したエンリケであり、のち、ポルトガルが海へ出てゆくためのあらゆる準備をし、指揮をとる人物になる。ついでながら、やがて王になる長男は、法典や制度の準備がすきであった。ポルトガルの黄金時代は、この3兄弟によってひらかれた。むろんかれらに相続争いなどはなく、エンリケは王子のまま生涯を送った」。

〇  「大航海時代の前夜、ポルトガルの宮廷は一つの学院のようであった」

 「思慮ぶかいジョアン1世は、どちらかといえば舞台の暗がりにすわっている。イギリスから輿入れしてきた聡明で、弾むような知的好奇心に富んだ王妃フィリッパが、この空気のつくり手であった。彼女のよき遺伝をうけた3人の息子たちのうち、長男は法律の知識を、次男は地理の知識を、三男エンリケ航海王子は天文、航海、造船に関する知識を吸収し、集積した」。

〇 「かれの性格には、ラテン的な特質が見られない。むしろ母からうけた ── 物に凝るという ── イギリス人かたぎのほうがつよく、ついにはにぎやかな宮廷を去り、風と波の音しかきこえないこのサグレス岬にきて家を建てた。その住居そのものが航海に関する研究所であった。

 日常、法衣 (ロープ) を着、女性を近づけず、航海というただ一つの目的に熱中しながら、しかも組織的な頭脳をもち、それを順序よく実行した。英語よみでヘンリーとよばれるこの航海王子は、古くから英国人に好まれ、「かれは英国人なんだ」と、むりやりにいうむきもあるらしい。なにしろのちの英国海軍といえども、その祖を求めるとすればポルトガル人エンリケになる」。

 (この項つづく)

 

 

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リスボン散策 … ユーラシア大陸の最西端・ポルトガルへの旅 9

2017年01月08日 | 西欧旅行……ポルトガル紀行

 (サン・ジョルジェ城から見たリスボンの街)

9月29日 

 今日も底が抜けたような (こういう形容があるのかどうか??) 青空だ。

 ポルトガルは、夏は雨量が極めて少なく、冬は多い。それで、年間の月ごと降雨量と気温のグラフを見て、9月末~10月初めの時期を選んだ。連日、快晴である。ただ海が近いせいか、少々蒸し暑い。

 今日は、リスボン市内観光の日。まあ、いわば、自由時間の1日である。

 リベルダーデ通りは、リスボンの市街を北から南へ貫いて、パリのシャンゼリゼ通りのように、プラタナスが木陰をつくる大通りである。大通りそのものはレスタウラドーレス広場で終わるが、そこからさらに南へと、幾筋かの楽しいショッピング街が、テージョ河岸のコメルシオ広場まで続く。

 一昨日と昨日のツアーのあとに、この南北を貫く中心街を歩いて、コメルシオ広場に近いホテルまで帰った。

 今日は、この南北の線の東側にあるアルファマ地区を巡り、時間があれば西側のバイロ・アルト地区を歩く予定だ。

          ★

< アルファマ地区とリスボン大聖堂 > 

   リスボンは1755年に大地震があり、火事と大津波にも襲われて、街は壊滅した。現在の美しい街並みは、その後、ボンバル公爵という名宰相のもとで、復興・再建されたものである。

 だが、この大震災のとき、固い岩盤の上に造られていたアルファマ地区だけは、残った。

 だから、アルファマは、古いリスボンを今に残す街で、路地裏があり、洗濯物が干され …… ファドという哀感をたたえた歌が歌われるのも、この街である。

 そのアルファマ地区のとっかかりに、リスボン大聖堂 (カテドラル) はある。

   ヨーロッパのどこかの町を訪れ、そこが司教座の置かれる町であれば、大聖堂には必ず立ち寄る。そこが司教座のない小さな町であれば、小さな町の中心となる広場 ── 広場に面して市庁舎があり、教会と塔が建つ広場 ── の教会に寄ってみる。 

 大聖堂やその町の中心となる教会は、その町の「顔」であり、大切な歴史的文化遺産である。

 そこを訪ねるのは、キリスト教やキリスト教会に対する敬意ということではない。そこには、この町で生きた人々の数百年の思いや心の祈りがある。それらがあってこその歴史的文化遺産である。

 それにもう一つ。テレビの旅番組で、すっかり古ぼけて、もう美しいとは言えないリスボンの大聖堂と、その前を旧式のチンチン電車がゴトゴトと走る光景を見て以来、もしリスボンに行ったら、あれを写真に撮りたいと思うようになった。   

            ( 市電とリスボン大聖堂 )

 1147年、最初のポルトガル王朝を建てたアフォンソ・エンリケス(のちのアフォンソ1世)は、ポルトゥカーレ軍を率い、リスボンに寄港していた第2回十字軍の北ヨーロッパの騎士団の支援を得て、イスラム勢力からリスボンを奪回した。

 そもそもエンリケスの父も、フランスのブルゴーニュ地方からレコンキスタを支援するためにやって来た騎士であったが、スペイン、ポルトガルのレコンキスタが十字軍運動と表裏一体であったことがわかる。

 リスボン大聖堂の建設は、このときのリスボン奪回を記念して始められた。

 後期ロマネスク様式であり、ポルトガルはまだ貧しく、しかもイスラム勢力の反撃に対していつでも要塞として使えるように建てられたから、いかにも武骨である。そこが、興趣深い。

 西ファーサードの上部や、2つの塔の上のギザギザは銃眼である。

   (身廊、側廊)

 内部も極めて簡素で、中世的で、バラ窓のステンドグラスがわずかに彩りを添えていた。

    (ステンドグラス) 

       ★

< ユリウス・カエサル時代からの要塞 = サン・ジョルジェ城 >

 大聖堂前からサン・ジョルジェ城へは、歩くにはやや遠く、何よりも、丘へ向かって登り続けなければならないので、ミニバスに乗った。

 聖ジョルジェ(ジョージ)は、龍と闘った伝説上の騎士で、ヨーロッパを旅していると、あちこちの広場や建物に碑や像が建つ。西洋版スサノオというところか。「スサノオ城」である。

 BC6世紀に遡ることができるというが、本格的に城塞が築かれたのは、ユリウス・カエサルの時代である。以後、西ゴード王国、ムーア人(イスラム教徒)、ポルトガル王国と変遷した。

 ポルトガル王国の王宮があった時代もあるが、今はこれという建造物もなく、リスボンの町や、テージョ川、遠く大西洋の河口を見下ろす展望台となっている。

 「かたはらに 秋ぐさの花 かたるらく 滅びしものは なつかしきかな」(牧水)。

   ( 城壁 ) 

     ( ポルトガル国旗 )

    (城壁の上の兵士の通路)

        ( テージョ川を見下ろす大砲 )

 

          (今はリスボンの展望台)

     (要塞のようなリスボン大聖堂を見下ろす)

                            ★

< 城壁の外の教会 = サン・ヴィセンテ・デ・フォーラ教会 >

 サン・ジョルジェ城からぶらぶら歩いて、広場に出た。

 ポルタス・ド・ソル広場は、市電の走る丘にあって、眺望が良い。もっとも、丘の町リスボンは、眺望の良いところに事欠かない。

 広場のカフェテラスで、チンチン電車を見ながらコーヒータイムにした。

         ( 丘の上のカフェテラス )

 ここから、リスボン名物の市電に乗って、サン・ヴィセンテ・デ・フォーラ教会へ向かう。

 教会の前の広場には、ミニカーのような車が何台も駐車していた。ヨーロッパの古い町では、黒塗りの馬車が観光客を乗せる。ジェロニモス修道院のそばにも、馬車と女性の馭者が待機していた。だが、リスボンの旧市街は急坂が多く、道路も狭い。そこで、路地裏まで入るこの車が大はやりなのだ。ただし、1時間いくら、という制度のようで、料金は結構高い。

 (サン・ヴィセンテ・デ・フォーラ教会)

 サン・ヴィセンテ・デ・フォーラ教会は、やはりアフォンソ・エンリケスがリスボン奪回のときに命じて建てさせた教会だが、その後、建て替えられているから、大聖堂と比べると、ずっと瀟洒な趣がある。「デ・フォーラ」とは「外の」という意味。造られた当時は、リスボンを囲む城壁の外に位置していた。

 教会の横に続く建物はもと修道院。

 入口でチケットを買おうとしたら、「シニアの方ですか」「えっ!! はい、そうです」「では、シニア料金で」。ジュニア (学生) と同じ割引料金で入場できた。

 若いと思っても、一目でシニアに見えるということだ。

 それにしても、EU圏を旅行していると、鉄道もシニア料金で乗れたりして、税金を払っていない外国人旅行者がこんなサービスを受けていいのかと、思わず気がねしてしまう。

 修道院の中は白亜で、壁に青いアズレージョの絵が描かれている所もあり、気品があった。

  ( 修道院の白亜の壁 )

 しかし、この修道院のお目当ては …… またしても、屋上からの眺望。

 屋上に上がると、目の前にテージョ川が広がり、河口の方まで見渡せた。 

          ( 屋上からの展望 )

 眼下に巨大なクルーズ船が停泊している。その近代的な巨船のそばに、メルヘンチックな街並みが、小さく重なって見えていた。  

     ( クルーズ船と街並み )

        ★

< ケーブルカーに乗ってバイロ・アルト地区へ > 

 タクシーで大聖堂近くまで降り、和食レストランで、久しぶりに美味しい和食を食べた。リスボンには日本人経営の和食レストランがいくつかあり、砂漠の中のオアシスのようである。

 ウインド・ショッピングしながらアウグスタ通りを北上して、レスタウテドーレス広場からケーブルカーのグロリア線に乗り、丘の上の街、バイロ・アルト地区に出る。

 リスボンの庶民の足と言われるケーブルカーも、今や観光客でいっぱいで、わずかな乗車時間のために並んで待たねばならない。元気な若者は歩いて登る。しかし、リスボン名物のケーブルカーにぜひ乗りたいというのも、観光客の心だ。

 

         ( ケーブルカー )

 サン・ロケ教会は、イエズス会の教会だ。1584年、天正遣欧少年使節がこの教会に1か月間滞在した。

 外見はささやかに見えたが、中に入るとバロック様式で、これでもか と言わんばかりに、瑠璃やメノウやモザイクで飾り立てられている。これぞ、「ザ・イエズス会」である。

 少年たちは、ただただ、ここが「神の国」であるかのように感動しただろうが、政治好きで、陰謀好きのイエズス会という宗教団体を、太閤秀吉も、大震災からリスボンを再生させたボンバル公爵も嫌い、弾圧した。

 

       ( サン・ロケ教会 )

 この地区の東西に延びる中心街・ガレット通りには、南北に通じる坂道の筋が交差し、その先にテージョ川がのぞく。リスボンを代表する坂の風景である。

    (テージョ川がのぞく)

 カモンイス広場も、リスボンを代表する広場。日が暮れてきて、若者たちで街角が一段と賑わいだした。

               ( カモンイス広場 )

                            ★

< スリにスマホを盗られて警察署に行ったこと >

   1日、歩いて、疲れ切っていたのに、もう1回、市電でリスボンを1周しようと、観光客で満員のチンチン電車に乗った。そして、混んだ車内で押されているうちに、リュックザックからスマホをスリ盗られた。

 ホテルの近くの警察に行くと、「ここではダメ。この道をまっすぐ行って、突当りを左に2ブロック行った所にある警察署に行け」と言われた。

 それから、あちこちで道を尋ね、夜道を(繁華街だが)1時間も歩き回って、やっと目当ての警察署にたどり着いた。へとへとになった。しかも、そこは、あのレスタウラドーレス広場のインフォメーションの隣だった。そう言ってくれれば、地下鉄ですっと来たのに。

 ただ、道を尋ねた店の人も、タクシーの運転手も、学生も、みんなとてもやさしかった。

 その警察署には3か所のデスクがあって、事情聴取が行われていた。さらに待っている被害者 (どう見ても、連行されてきた加害者には見えない) が3人。で、4人目の椅子に腰かけた。みんな白人の、人の好さそうなマダムで、お互いに顔を見合わせて、「やられちゃったわ」「がっくり…」という感じだった。どうやら、ここは、盗難被害にあった外国人観光客のために、英語で事情を聴取し、盗難・遺失物証明書を発行してくれる警察の出張所のようだ。なるほど。

 「リュックからスマホを盗られた 若い人なら、電車の中でもいつもスマホを見ているから、スマホだけは盗られないんですがね(笑)」…… 確かに、日本も同じです

 「では、調書を読み上げます。── 日本の住所と名前を読み上げて ── 日本語って、分かりやすい言葉ですねえ。全然知らない私でも、すぐに読めますよ」。…… 確かに、日本語は、1字の子音に1字の母音。アルファベットを知っていれば、誰でも読める。それにしても、日本語を知らない外国人が、こんなに鮮やかに日本の住所を読み上げるとは、思ってもいなかった。

 結構、楽しい警察官だった

 お蔭で、旅行保険から、おカネはしっかり返ってきた。

 以前、パリで、1眼レフのカメラとレンズを盗られたときも (これは、スマホより遥かに高額だった)、おカネはしっかり返ってきた。旅行保険に入っていて良かった。でも、まず、盗られないように、もう少し気を付けましょう。…… ムリかな。

 

 

  謹賀新年。今年もよろしくお願いいたします。

 

 

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2つの小さな町・ナザレとオピドス … ユーラシア大陸の最西端ポルトガルへの旅 8

2016年12月29日 | 西欧旅行……ポルトガル紀行

  (丘の上の旧市街から見たナザレの海岸) 

< 大西洋のリゾートの町・ナザレ >

 首都リスボンから約120キロ。ナザレは大西洋に臨み、砂浜が続く、リゾートの町である。

 ナザレと言えば、イエス・キリストが成長したパレスチナの村の名で、成長して、イエスは人々から「ナザレの人・イエス」と呼ばれた。

 ポルトガルの西海岸の村がナザレと呼ばれるようになったのは、4世紀に、パレスチナのナザレから、一人の聖職者が聖母マリア像を持ってやって来た、という伝説によるらしい。

 4世紀のパレスチナに「聖母崇拝」があり、像が造られたか、疑わしい。こういうキリスト教にまつわる町や個々の教会の起源伝説は、あくまで伝説として聞き流しておく。ただ、それが真実でなくても、それも含めて人々の歴史であり、文化の一部であるから、聞く耳はもつ。

 町は3つの街(教区)によって成り立っている。海岸の北側と東側の丘 (崖) の上にできた2つの街。もう一つは、海岸沿いの街である。

 最初に人々が住み着いたのは、丘の上。

 なにしろ、19世紀まで、フランス、イギリス、オランダなどからやてくる海賊の襲撃・略奪があったというのだから、ヨーロッパとはどういう所かという一面をうかがい知ることができる。

 

   (丘の上の旧市街の街)

 ドライバー兼ガイドのジョアンくんのバンは、ヘアピンカーブの急坂を上がって、海岸の北側にある丘の上の旧市街へやってきた。

 これが崖の上の街かと、不思議な気がする。ここに、ノッサ・セニョーラ・ダ・ナザレ教会があり、パレスチナのナザレからもたらされたという聖母像が安置されている。

 広場の端にある展望台へ行くと、そこには …… 水平線まで広がる大西洋、赤い屋根の連なるナザレの海岸線、そして緑の丘陵 …… なかなかの絶景だった

 

        ( 展望台から大西洋を望む )

      ( 海岸線のリゾートの街 )   

 車で海岸までおりて、各自、昼食休憩となる。海岸沿いはリゾート客のための街で、レストランと土産店が並び、すでにシーズンオフだが、大勢の観光客が歩いている。

 ジョアン君の薦めてくれた3軒ほどのレストランのなかから、海岸に面した1軒に入り、ポルトガル名物のイワシの塩焼きを頼んだ。

 これは日本人にも合う。粗塩が効いて、美味しかった。ただ1匹が大きく、それが3匹もあって、ジャガイモも幾つか添えられていて、ワインを注文すると、ボトルごとドンと出され、ちょっとしんどかった。値段は安い。

 砂浜は豊かで、海はサーフィンの好適地だ。ハワイなどと並んで、世界大会も開かれる。夏はヨーロッパ中から大勢のバカンス客がやってくる。

 浜の北端に、先ほど立った展望台のある丘が、岬となって大西洋に突き出していた。

  

     ( 砂浜の広がりと旧市街のある丘 ) 

                                                       

     ( ショッピング街と崖の上の街 )

 その丘は、下から見上げると、上にあの旧市街があるとは思えないほどの荒々しい崖で、美しい砂浜の北側に異様な壁として立ちはだかっている。何度見ても、違和感は消えない。やはり、日本とは違う。ユーラシア大陸の西の果て …… 地終わり、海始まる所である。

          ★

< 城壁に囲まれた小さな中世の町・オピドス >

 午後の日は傾いてきたが、日没までにはなお十分に時間がある。

 車はナザレからリスボンの方へ引き返し、ツアーの最後に、オピドスに寄った。

 丘の上に、城壁で囲まれた可愛い町が、瞬時、姿をのぞかせ、ほどなく城壁の外の駐車場に到着する。

 この小さな町は、ローマ時代につくられた。イスラム勢力の統治する時代を経て、レコンキスタによってポルトガル王国の町になる。

 ブルゴーニュ王朝の1210年、アフォンソⅡ世がこの可愛らしい町を、王妃に捧げた。

 また、ブルゴーニュ王朝の最盛期の1282年、ディニス王が結婚に際して、「Wedding Present Town」として、王妃に贈った。

 以来、この可愛い町は、ポルトガルの歴代の王妃の直轄領となり、王妃のリゾート地になった。

 こういうロマンチックな物語があって、今、ポルトガルの観光名所の一つとなっている。人々は物語に惹かれてやって来るのだ。

 城門を入ると、城壁をくぐり抜ける通路は直角に2度曲がって、敵の直線的な侵入を防いでいる。イスラムの城門の、特徴的な構造だ。時代は変わって、そこには、アコーデオン弾きのおじさんが、いつもアコーデオンを弾いている。

  (城壁の門の中のアコーデオン弾き)

 城壁に囲まれた中世の町は、メインストリートといえども、狭い。その両側に綺麗な店が並んで、観光客がたくさん歩いている。

 城壁のなかに住んでいる人は800人ぐらいとか。きっと暮らすには不便なのだろう。ドイツやオーストリアを旅するとよくある、中世風の小さな観光の町だ。

   (メインストリート)

 人々の流れにのってゆっくり20分も歩くと、もう終点のサンタ・マリア広場に着いた。

 正面の石段の上に可愛いサンタ・マリア教会。

 その後ろには、石造りの小さな城塞。今は、「ポサーダ・ド・カステロ」という、ちょっと高級なホテルになっている。ポサーダは、歴史的な建造物を維持していくために、国がホテルにしたもの。「中世のお城で優雅な一夜を。予約は早めに」とPRしている。物語の王妃になった気分で、人気なのだ。

  ( サンタ・マリア教会とお城のホテル )

                             ★

 夕方、やや遅く、リスボンに帰った。

 この夜は、ファドを聞きに行く予定だったが、体調が悪くなって、晩飯も食べられず、ベッドに倒れて、寝た。

 こってりした食事が合わず、睡眠不足が重なって、最近は、旅行中1回はダウンする。まあ、年のせいだ。

 ファドに行けなかったのは悔いが残ったが、翌朝には回復していたので、良しとしよう。

 この日から、1日2食。その2食も、決して食べ過ぎないようにする。注文のとき、少なめにしてくれ、半分でいいと言って、それでも多いときは、遠慮なく残す。料理を残すのは料理人に対して少々申し訳ないが、料理人のために食っているのではない。自分の健康が第一だ、── と言い聞かせた。

 帰国した頃には、日ごろ、目標としていた体重になっていた。

     ★   ★   ★

  みなさん、お元気で、良い新年をお迎えください。

 

 

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ポルトガルの独立の象徴・バターリャ修道院へ… ユーラシア大陸の最西端ポルトガルへの旅 7

2016年12月25日 | 西欧旅行……ポルトガル紀行

   ( バターリャ修道院の回廊 )

 バターリャ修道院は「アルジュバロータの戦い」に勝利した記念として、1388年に建設が開始された。ポルトガルの独立を象徴する建造物である。世界遺産。

      ★   ★   ★

 < 9月28日 >

 リスボンの第2日目も、「少人数バンで行く日帰り現地ツアー」に参加した。

 今日のコースは、昨日より遠い。リスボンから北へ約100キロの辺りに、ポルトガルを代表する名所旧跡が散らばっている。そのうちの4カ所をまわるのがこのツアー。4カ所相互間の公共の交通機関による連絡は弱いから、幾つかまわりたければ、ツアーで行くしかない。

 4カ所とは、① 聖母出現の地・ファティマ  ② 世界遺産のバターリア修道院  ③ 大西洋のリゾートの村・ナザレ ④ 中世のままの小さな町・オピドスである。

 今日もまた、雲一つない青空だ。雲一つない青空は、面白い写真にならない。とは言え、旅人にとって、曇天や雨の日よりずっと心楽しい。

 集合場所は、ホテルから地下鉄に乗って2駅目のレスタウテドーレス広場。ロシオ広場のすぐ北にあって、リスボンの中心街である。

     ( レスタウテドーレス広場のオベリスク )

 広場に記念碑 (オベリスク) が建っている。

 16世紀の後半、隣国スペインは、ハブスブルグ家のカルロス1世、続くフェリペ2世の時代に最盛期を迎え、「太陽の沈まぬ国」と言われた。このころ、ポルトガル王家とスペイン王家の婚姻関係が深まり、また、ポルトガル商人たちの市場拡大の欲求もあって、ポルトガルは超大国スペインの統治下に入る。スペイン・ポルトガル同君連合の時代である。

 この間、フェリペ2世はポルトガルに対して寛大で、ポルトガルの自治を認め、ポルトガル商人に優遇措置を与えて、両国の関係は良好であった。ところが、フェリペ3世の時代になると、ポルトガルに対する抑圧が始まる。

 そして、1640年、貴族、市民たちが立ち上がって、ポルトガルの再独立を勝ち取り、60年続いた同君連合の時代は終わりを告げた。

 このときの勝利を記念して建てられたのが、この広場のオベリスク。ポルトガルの3番目の王朝、ブラガンサ王朝の始まりでもある。

 ただ、ポルトガルが世界史に輝いたのは、大航海時代を切り開いた第2王朝の一時期に過ぎない。隣の大国スペインの圧迫もあったが、海外に植民地を経営する時代になると、もともと人口の少ない小国のポルトガルは、オランダ、続いてイギリスに、追いつき、追い抜かれて、国力は衰えていった。

        ★

< ツアーの参加者たち >

 欧米人はフレンドリーだ。こういうごく少人数のツアーに参加すると、誰からともなく、にこやかに、「私、オーストラリアからよ。よろしく」という程度の自己紹介をしあって、互いに顔ぐらいは覚え、親近感をもって、一日を過ごす。もっとも、最初に口火を切るのはたいていマダムたちで、ムッシュが閉じこもりがちなのは、日本だけではない。

 参加者は、北米、オセアニアが多く、もちろん日本人はマイノリティ。

 日本人の年配者は、最初から日本発のツアーでやって来る。学生など若い世代の個人旅行の日本人は、おカネを節約するから、こういう現地ツアーにも入らない。

 EU圏の人はいない。EU圏の人たちにとって、ポルトガルは国内旅行なのだろう。

 面白いのは、こういうとき、アメリカ人はいつも、例えば「カリフォルニアから来た」と言う。「私たちはカナダよ。よろしく」。「私はカリフォルニア」といったぐあいで、「アメリカから」 とは言わない。USAというのは「人工的」なもので、彼らにとってネイティブなのは、あくまでカリフォルニアなのだろうか。

 時間になったのにツアーはスタートしない。車に入り、めいめい座席に座って待つが、このツアーを主催するドライバー兼ガイドの若者は、車の外に立っている。やがて、15分も遅刻して、若いカップルがやってきた。やっぱり アメリカ人だ

 あのカップル、行く先々で集合時間に遅れたらイヤだなと思って見ていたら、カップルが乗車する前に、ドライバー兼ガイドの若者が注意を与えた。それは、車の窓越しに見て、感じでわかった。「他のお客の迷惑になるから、今日一日、集合時間はぜひ守ってほしい」。客に対する礼を失しないように、しかし、笑顔は見せずに、きっぱりと。あの若者、いい感じだ。

 このあと、行程のなかで3回の集合時間があったが、このカップルを除く全員が、5分~10分前には車に帰って、めいめいの座席についた。

 このカップルは、── 毎回、時間ぎりぎりに帰ってきた。ぎりぎりだが、遅刻はしなかった。

 ドライバー兼ガイド氏は、なかなか姿を現さない2人を心配して、毎回、集合時間が迫ると、付近に捜しに行った。みんなも、心の中ではらはらした。しかし、一度も遅刻しなかったのだから、いい若者たちなのだ。一日が終わる頃には、みんなこのカップルを受け入れていた。

 ドライバー兼ガイド氏は、30代?? 快活でしっかりした好青年だ。「ジョアン」と名のった。5千の市民軍を率いて、3万のスペイン正規軍を打ち破り、推戴されて国王となった、エンリケ航海王子の父、ジョアン1世 …… と同じ名だ。多分、ポルトガルには多い名前なのだろう。

< 聖母出現の地・ファティマへ >

 車は高速道路に入り、1時間半ほどでファティマに到着した。

 旅に出る前、ネットで、このジョアン君のツアーに参加した日本人の感想を読んだ。評価は高い。ジョアン君も好感度大だ。

 ただほぼ全員が、1日に4カ所も回るせわしない日程なのに、ファティマで時間を取り過ぎだ、いや、ファティマはカットして残りの3つに時間を充ててほしかった、などと書いていた。

 私も同感であった。

 しかし、このツアー参加者は、日本人だけではない。中心は欧米人であり、そのなかの相当数の人たちは、ポルトガルまで来た以上、ぜひともファティマに行きたいと思うのだろう。なにしろ、ここファティマはバチカン公認の巡礼の聖地であり、巡礼でここを訪れれば、免罪されて、裁きの日に天国に行くことが約束されるのだから。 (この旅行で、ファティマについて調べるまで、バチカンが未だに「免罪符」を「発行」しているとは、知らなかった。21世紀ですぞ)。

 ここは、もともとオリーブの木が点在する寒村だったそうだ。

 今は、10万人を超える信者が集まる広場があり、広場の中央にキリストの像が立ち、周りには高さ60mの塔やパジリカ (聖堂) が建っている。

 

      ( 塔とパジリカの建つ大広場 )

 しかし、ヨーロッパ旅行で、歴史ある大聖堂や人里離れた所にある鄙びた修道院を見てきた目には、この白っぽく新しい建造物は、まるで新興宗教の聖地のようで、妙な違和感を覚えた。

 以下の話は中世の出来事ではない。…… 20世紀の話だ (念のため)。

 第1次世界大戦中の1917年5月13日、この村に住む3人の子どもたちの前に、聖母マリアが現れた。毎月、13日に、ここで私と会ってほしい。

 映画『汚れなき悪戯』のようなメルヘンチックな話ではない。

 子どもたちと聖母マリアは、それから何回か会い、話はすぐに広がり、多くの人々も、司祭たちも集まり、事の次第はバチカンにも報告された。そういう大騒ぎのなかで、奇跡が起こり、予言があった。 

 3回目の7月13日には、3人の子どもたちは「永遠の地獄」の様子を見らせれ、恐怖に震えた

 10月13日には、噂が広まり、聖母を求めて集まった7万人の群集が、太陽が急降下したり回転するという幻覚を見た。群集の中には整理に当たった警察官も、取材に来た記者たちもいて、報道もされた。 ( 日本の神さまも岩戸の中に隠れて、世界が真っ暗になったこともあるが、あれはあくまで神話の時代の話だ )。

   また、水源のないところから水が湧き、その水を飲むと病が治癒した。

 予言があり、バチカンに伝えられた。

 第一次世界大戦はまもなく終わるが、人間たちが神に背き続け、罪を続けるなら、さらに大きな大戦が起こり、多くの人々が地獄に堕ちるだろう

  ロシアで起こった革命が、世界に誤謬をまきちらし、大きな災厄を起こすだろう。教皇以下全ての信者は、ロシアのために祈れ。

 第3の予言は、1960年まで公表してはいけないとされた。だが、バチカンは1960年になっても秘匿し続け、2005年になってやっと公表した。その内容は、1981年に起こった教皇狙撃事件が予言の中身であり、予言のお蔭で教皇は一命をとりとめ、犯人の背後の組織は壊滅し、核戦争なしに冷戦が終わった。ゆえに、この神の摂理に感謝せよ、というものであった。

 もっとも、バチカンは第3の予言のあまりの恐ろしさに、未だ公表する勇気がなく、公表されたのは実は本当の予言の内容ではない、という声もある。

 とにかく、ローマ教皇庁はこれら全てを奇跡として認め、ファティマを聖地とし、5月13日を「ファテマの記念日」とした。そして、この地に巡礼した者は「免罪」されるとした。 

 こうして、毎年5月13日には、広場は10万人もの信者によって埋め尽くされる。(何しろ、死後、「永遠の地獄」に落とされずにすむのだから、私も参加したいくらいだ )。

 3人の子どもたちが聖母マリアに会った場所には小さな礼拝堂が建てられ、今日もロウソクの灯が絶えず、次々と司祭の説教や証しの言葉が語られている。

     (出現の礼拝堂)

 パジリカに行ってみたが、あっけらかんとして、見るほどのものはなかった。仕方なく広場の片隅の日陰に腰を下ろし、集合時間まで、本を読んで過ごした。

        ★

 < ポルトガル独立の象徴・世界遺産のバターリア修道院 >

  バターリャもごく小さな町で、修道院以外に観光するものはない。

 「戦闘」という意味らしい。英語の「バトル」に通じるのだろう。

 1384年、スペイン軍に包囲されたリスボン市は、アヴィス騎士団団長のジョアンをリーダーにして、スペイン軍を打ち破る。翌1385年、中小貴族やリスボン市民は、ジョアンを王に推戴して、再度やってくるスペイン軍に備えた。

 同年の夏、ジョアン1世は、アルジュバロータで、5千の市民軍を率いて、3万のスペイン軍を打ち破った。世界の戦史上、「アルジュバロータの戦い」として有名らしい。

 アルジュバロータは、修道院から南へ3キロほど行った所にある。

 ジョアン1世の命により、この劇的な勝利とポルトガルの独立を神に感謝し、修道院建設が始められた。

 建設は長期に及び、ある程度の完成を見せたのが130年後の1517年である。携わった建築家は実に15人。この建設の過程を通じて、ポルトガルの建築技術は西欧世界に追いついて行った。

 1502年には、リスボンのジェロニモス修道院の建設が始められ、そちらにに全力を注ぐため、なお未完の部分もあったが、バターリャ修道院の建設は中止となった。

 今は世界遺産であり、ポルトガルの独立を象徴する建造物である。

 車を降りると、青空の下、目の前にバターリャ修道院の威容があった。

 外壁の石灰岩は時の経過とともに黄土色に変色するそうで、風雪を経てさらに黒ずみ、外観からだけでも、歴史の重みが感じられた。

   ( バターリャ修道院の東側全景と騎馬像 )

 広場の騎馬像は、ヌーノ・アルヴァレス・ペレイラ。

 若いジョアン1世の下、全軍を指揮した司令官である。王も若かったが、司令官も、当時、若干25歳だった。その若さで、戦史に残る戦いをやってのけたのだから、ポルトガルの英雄である。

 晩年には、妻に先立たれた後、財産をリスボンのカルモ教会に寄贈し、自らも僧籍に入った。もともと敬虔なキリスト教徒だったのだろう。

         ( 西側正面入り口 )

 西側正面入口を入ると、そこは修道院付属の教会であった。

 訪れる人は少なく、静けさのなかに、奥行き約80m、高さ32m、ポルトガルでは、1、2の規模という空間があった。

 ゴシック様式で、簡素。この点、柱や壁の全面にレースのように彫刻の装飾が施さていれたジェロニモス修道院とは、全く趣を異にする。ジェロニモス修道院は貴婦人のようで、バターリャ修道院は、質実にして力強い騎士のようである。

 内陣の奥にステンドグラスがあり、わずかに彩りを添えている。ポルトガルで最初のステンドグラスだという。

                 ( 付属の教会 )

 付属教会の脇に、もう一つ、やや小ぶり、円形の部屋があり、入り口に警備員が立っていた。「創設者の礼拝堂」と呼ばれるパンテオン形式の礼拝堂で、ジョアン1世の家族の墓所になっている。

       ( 創設者の礼拝堂の棺 )

 窓から差し込む、明るく穏やかな光が空間に満ち、ジョアン1世と、英国から嫁いできた王妃フィリッパの棺が中央に置かれていた。周囲の壁には王子たちの棺も安置され、仲のよい家族が団らんしているような雰囲気があった。

 ジョアン1世の墓には、彼のモットーであった「For the better」という言葉がポルトガル語で繰り返し彫られ、フィリッパ王妃の墓には、彼女がモットーとした「I'm pleased」という言葉が彫られている。それぞれに素晴らしい言葉だ。

 王子たちの棺は、やや小さい。そのなか、エンリケ航海王子の棺をさがしたが、どれかわからなかった。

 修道院建築の華は、回廊である。「ジョアン1世の回廊」(或いは「王の回廊」) は、やはりゴシック様式の簡素な回廊で、格子には、100年後にマヌエル様式の装飾が付け加えられている。

 中庭を隔てて聖堂も見え、いかにも中世的な風景である。

 

    (王の回廊から中庭を望む)

 

    ( 黒ずんだ回廊の壁と中庭 )

 「参事会室」と呼ばれる部屋に入ったとき、一瞬、はっとした。

 人けのない部屋に、兵士が銃をもって左右に立っていた。ここは無名戦士の墓である。この修道院がポルトガルの独立の象徴ならば、無名戦士を葬るにふさわしい。

 この部屋は柱が1本もなく、交差リブヴォールトによって支えられている。そのため、建設当時は、天井が落ちるのではないかと騒がれた。それで、ここを設計した建築家は、この部屋に3日3晩座り続けて、安全を立証しなければならなかったという。

  ステンドグラスが美しい。宗教を超えて、美しい。

        ( 無名戦士の墓を守る兵士 )

 

 (参事室のステンドグラス)

   「未完の礼拝堂」が面白い。

 ジョアン1世のあとは、その長男で、エンリケ航海王子の兄であるドゥアルテ1世が、王位を継いだ。

 彼もまた、この修道院に家族の墓所をつくりたいと、この礼拝堂を建設を始めた。だが、結局、未完に終わり、王と王妃の墓だけがある。

 未完のため、天井がなく、青空が見えているのが、面白い。    

          ( 未完の礼拝堂 ) 

 一巡して、外に出ると、アルヴァレス・ペレイラの騎馬像が、青空を背景にカッコよく立っていた。

  ( アルヴァレス・ペレイラの騎馬像)

 ジェロニモス修道院は「華麗」という言葉がふさわしかった。

 一方、バターリア修道院は、中世的で、簡素で、重厚で、歴史と文化を感じさせ、ジェロニモス修道院よりも、心ひかれるものがあった。ポルトガルの歴史のうちでも、若々しく、颯爽として、未来に向かって輝いていた、そういう時代を象徴する修道院である。

 観光客が列をなすということもなく、静かな雰囲気で鑑賞でき、余韻が残った。 

 

 

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大地の終わる所、ロカ岬に立つ … ユーラシア大陸の最西端ポルトガルへの旅 6

2016年12月14日 | 西欧旅行……ポルトガル紀行

   ( ロカ岬の断崖の上を歩く人 )

 ユーラシア大陸の最西端、ロカ岬に立った。

   雲一つなく良く晴れて、ここで1時間ほど寝転がっていたいと思った。

     ★   ★   ★

< ポルトガル王室の夏の離宮があったシントラ

 ベレン地区を出て、途中、レストランで昼食をとり、ポルトガル王室の夏の離宮があったシントラへ向かった。

 シントラはリスボンから西へ約30キロ、近郊鉄道で行けば40分のところにある。

 首都リスボンに隣接する市だが、大西洋に近く、しかも鬱蒼とした森におおわれ、年中、温暖な気候で、夏の気温は大都会のリスボンより10度も低いという。これは、ドライバー兼ガイドのMさんの英語による説明であるから、まちがって聞いたかもしれない。樹木がいかに大切かということを強調していた。

 町の名は、ローマ時代、この地に、シンシアという月の女神を祀る、月の神殿が造られたことに由来する。

 丘の上に城跡があるが、これは、イスラム時代 (後ウマイヤ朝) の8~9世紀に、ムーア人 (イスラム教徒) によって築かれたものである。天気の良い日には、ここから大西洋を望むことができるという。

     (ムーアの城跡)

 12世紀には、初代のポルトガル王となったアフォンソ1世 (ブルゴーニュ王朝) が、イスラム教徒からシントラを奪還した。 

 その後、平和が訪れると、緑濃い森の中に、王室の夏の宮殿が建てられ、時の流れの中で、王室の避暑地としていくつかの離宮が建てられた。

 これらを含め、「シントラの文化的景観」 として、世界遺産に登録されている。

 リスボンからここまで近郊鉄道があるので、今は、ロカ岬へ行くための拠点でもある。

 我々のツアーは、シントラの街と深い緑の中を走り、シントラで最も標高の高い丘の上に築かれたベーナ宮殿で車を降りた。各自でこの宮殿を見学する。

 ベーナ宮殿は、19世紀に建てられたものだから新しい。しかし、シントラにやって来た観光客には一番人気がある。その外観は、えーっうっそー と驚く奇抜さだ。ディズニーランドも顔負けである。

 (ディズニーランドのようなベーナ宮殿)

 この宮殿を造らせた王様は、ドイツのロマンチック街道の終点にあるノイシュバンシュタイン城を造った「狂気の王様」、ルートビヒ2世と従弟同士の関係だそうだ。2人で競い合ったのかもしれない。

 (ドイツ・バイエルンのノイシュバンシュタイン城)

  ノイシュバンシュタイン城は、白鳥城という名のとおりに、大変美しい。ディズニー映画のモデルになったと言われるが、それは本当だろう。私も含め、日本人観光客には、特に人気がある。

 が、ノイシュバンシュタイン城の中に入るとずいぶん奇抜な部屋もある。例えば、ディズニー映画の「バンビ」の舞台になった森の中を再現したような部屋である。なぜ、部屋の中に森をつくるのか?? 常人には、わからない。

   若きバイエルン王は、この城を造るのにバイエルン王国の財政を傾け、民を苦しめて、ある日、湖に浮かんでいた。事故死とも、国を思う家臣に暗殺されたとも言われる。しかし、今では世界から観光客が押し寄せて、バイエルン地方への経済的貢献は計り知れない。歴史とは皮肉なものである。

 (「ロマンチック街道」の旅はこのブログを始める以前の旅である。写真を中心にして、いつかブログで紹介したい)。

 一方、ベーナ宮殿の王様は、婿としてポルトガル王になったが、特に悪い王様ではなかったようだ。だが、美的センスにおいてはルートビヒ2世にかなり劣る。人民大衆の子どもたちのために「遊園地」をつくろうとしたのならともかく、自分のためにこれをつくったのだから、いかにも趣味が悪い … と私は思う。

 観光客は喜ぶのだろうが、私は「奇岩絶景」や、「謎の〇〇」や、歴史の裏話や、拷問道具の数々などには興味がない。どちらかというと、「ムーアの城跡」の方に行きたかった。

  (ディズニーランドのようなベーナ宮殿) 

 内部は、普通によくある宮殿のしつらえや調度があって、特筆するほどのものはない。ただ、ステンドグラスに面白い色合いがあったので、写真に撮った。何の絵だかわからないが、12、3世紀の教会のステンドグラスとは趣を異にし、現代絵画に近い。

 

 (ステンドグラス)

          ★

< ユーラシア大陸の最西端、ロカ岬に立つ >

 シントラから車で30分ほど走って、この旅のハイライト、ユーラシア大陸の最西端、ロカ岬にやってきた。

  岬の手前には1軒の売店と、大きな駐車スペースがあり、たくさんの乗用車、そして観光バスも1、2台、駐車していた。さすがに観光客も多い。

      ( 岬の突端に石碑が見える )

 岬の突端に、石碑が立っているのが見えたので、その方へ向かって歩く。

 日本で、岬は、山嶺が海に向かって落ちていった所だ。山の延長の峰だから、岬には樹木が繁り、草木が生えている。

 ここは、山ではない。荒涼とした広がりをもつ大地である。果てしなく続くように思われた大地が、思いがけなくも、突然、終わって、足元から海に落ちた、という感じである。

 突端の石碑には、「CABO DA ROCA」と刻まれていた。「ロカ岬」。「CABO」は「岬」だろう。

 ジェロニモス修道院の中のサンタ・マリア教会に、棺が二つ、安置されていた。一つは、ヴァスコ・ダ・ガマ。 もう一つは、ポルトガルを代表する大航海時代の詩人・カモンイスの棺である。「そなたの前には、時至らねば現れぬかもしれないが、海の果てに日本がある。清き白金を生み、神の光に照らされているその島が」と謳った詩人である。

 石碑の「CABO DA ROCA」のすぐ下に、「AQUI … 」で始まる小さな文字列がある。── 「ここに地終わり、海始まる  カモンイス」。

   (カモンイスの石碑)

 大地が終わる、大地が果てる、…… 確かに、そういう感じである。

 石碑を見て、そして、振り返れば、…… 足元の大地が切れ落ちて、高さ140mの断崖。そして、大西洋が始まっている。

   ( 「ここから海始まる」 )

 向うに灯台のあるので、そちらへ向かう。

 お天気がよく、のどかに晴れ、海を望む岬は歩いていて心楽しい。30分で車に帰ってくるように言われたが、1時間くらい、この風に吹かれて、寝そべっていたい気持ちだ。

   ( ロカ岬の白と赤の灯台 )

 先ほどの石碑の方を振り返ると、一点の雲もなく、晴れすぎるほど晴れた青空と、光る海との間に、ロカ岬の最先端の断崖が見えた。  

            ( ロカ岬の断崖に立つ石碑 )

  一方、灯台に近づくにつれて、灯台の立つ巨大な断崖の荒々しさが迫ってくる。

 龍飛岬も荒々しいと思ったが、その比ではない。樹木の育たぬ荒れた大地が、ついにここで尽き果てた、という荒々しさだ。

 龍飛岬や、北海道の岬には、「たどり着いたら、岬のはずれ 」 (石原裕次郎「北の旅人」)   と口ずさみたくなる、人恋しい淋しさ、哀感が伴う。

 ここには、そういう情感や感傷はない。大自然は、人の心を超えて、非情である。

 ユーラシア大陸の西の果てまで来た …。ここは、ユーラシア大陸の終わる所にふさわしい岬だ。

 

 

    (灯台のある岬の断崖)

     ★   ★   ★

< リスボンのショッピング街を歩く >

 今日の行程をすべて終え、車はしばらく海岸線を走ったあと、リスボンへ向かって高速道路に入った。

 この季節のヨーロッパの日没は遅い。

         ★

 少しリスボンの町歩きに慣れておこうと、レスタウラドーレス広場で降ろしてもらって、ホテルまでウインド・ショッピングしながら歩いた。地下鉄に乗れば2駅と少々の距離だが、テージョ川に向かってゆるやかな下りの道である。

 ロシオ駅は、あのシントラへ行く近郊線の出る駅だ。美しい駅舎である。

    ( リスボンのロシオ駅 )

  ロシオ駅のある広場は、リスボンを代表するロシオ広場。中央には初代ブラジル国王となったペドロⅣ世の像が立つ。

    ( リスボンのへそ、ロシオ広場 )

 ロシオ広場から、建物の赤い屋根越しにサン・ジョルジョ城がのぞいていた。

 ユリウス・カエサルの時代に要塞として築かれたのが始まりで、そのあと、2000年の間、歴史の大変動、民族と民族、宗教と宗教の激突を見てきた城塞である。

 今は公園になって、リスボン観光に欠かすことのできない名所の一つだ。  

 (ロシオ広場からサン・ジョルジョ城を望む)

 歩行者天国のアウグスタ通りを歩いて行くと、終点に「勝利のアーチ」がある。アーチの向こうはコメルシオ広場で、テージョ川が大西洋の河口に向かってゆったりと流れている。

 

  (アウグスタ通りから)

 

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ジェロニモス修道院とベレンの塔 … ユーラシア大陸の最西端ポルトガルへの旅 5

2016年12月11日 | 西欧旅行……ポルトガル紀行

      ( コメルシオ広場の「勝利のアーチ」  )

 リスボン中心街のホテルからテージョ川の方へ下っていくと、「勝利のアーチ」と石造りの建造物に囲まれた美しい広場がある。

 コメルシオ広場という。

 広場の端まで行くと、テージョ川の水がひたひたと石畳を浸している。

 ここは、大航海時代の頃からリスボンを代表する埠頭で、東方貿易によってもたらされたばく大な富の数々が陸揚げされた所だ。

     ★   ★   ★

< 銘菓・パステル・デ・ナタ >

 その広場からテージョ川沿いに、市電に乗ってゴトゴト走ると、河口近くの、もう一つの埠頭に出る。大西洋を目前にしたこの埠頭のあたりはベレン地区と名づけられている。

 今回は市電ではなく、現地ツアーの車でやって来た。

 世界からやってきた観光客がいっぱいで遊園地のような界隈だが、その中に3つの行列ができている。

 そのうちの1つはジェロニモス修道院の入場券を買うための行列、もう1つは「ベレンの塔」を見学するために並んだ行列である。いずれも世界遺産。ジェロニモス修道院は、(旅行前のネット調べによる情報だが)、チケットを買うのに時間がかかるらしい。チケットを買ったあと、入場するのにも少し並ぶ。

 そして、3つ目の行列は、カフェ「パスティス・デ・ベレン」で名菓を食べようという行列である。

 ポルトガルにはパステル・デ・ナタという卵菓子がある。なかでも、カフェ「パスティス・デ・ベレン」は、この菓子の生みの親であるジェロニモス修道院の修道士たちが作っていたパステル・デ・ナタの製法を直接に伝授された店である。もちろん、門外不出。それで、リスボンにやってきた世界各国からの観光客たちは、行列に並んでジェロニモス修道院を見学し、見学が終わると、老いも若きも、男も女も、「パスティス・デ・ベレン」で卵菓子を食べるために、また行列をつくるのである。

 

 (カフェ前の大行列とパステル・デ・ナタ)

 もちろん、私、個人で観光していたら、1個の卵菓子のために、この大行列に並ぼうとは決して思わなかったろう。 

 だが、このツアーの行程には、カフェ「パスティス・デ・ベレン」も含まれていて、ドライバー兼ガイドのMさんは、我々を連れ、大行列をしり目にスイッと店の中に入り、テーブル席に案内してくれたのである

 食べてみると、ヨーロッパでは珍しく甘すぎない、ソフトな味の、小さな卵菓子だった。上品で、悪くはないが、もともと家庭で作っていた菓子だから、素朴な味というか、行列して味わうほどの …… しかしまあ、ブランド化とは、こういうことだろう。日本も、大量生産は中国にまかせて、ブランド化で生きていくしかない時代に入っている。

 以前、音楽の都・ウィーンの、オペラ座のそばの、昔、エリーザベト王妃も通ったという貴族趣味のカフェに一人で入り (気持ちの問題だが、入るのにかなり敷居は高かった)、ドレッシーな装いの、体重80キロはありそうなマダムたちのグループの横に遠慮がちに座り、銘菓とされるケーキを食べたことがある。

 決して安物の味ではないが、マダムたちの体型に似て、1個が大きすぎる。それに何よりも、甘すぎた。とにかくヨーロッパは、ケーキでも、朝、出勤の途中、おじさんたちが朝食代わりに寄って食べるバールの菓子パンでも、甘すぎる。

 若き日の体型を保ち続けたエリーザベト王妃を、我が家のご近所のケーキ屋さんに連れて行って、「これが日本で進化させた西洋のケーキですよ」と言って食べさせたら、間違いなく感激しただろう。そうしたら、ご近所のケーキ屋さんも、伝説のブランド店になる。

 パスタとアイスクリームはイタリア、パンはフランス、だが、ケーキは今や日本だ。

※ 私はお酒が好きで、「ケーキ通」ではない。

 「アイスクリームがイタリア」というのは「ローマの休日」以来のことで、あの映画を契機に、イタリアを訪れる世界の観光客が、ローマの街角でアイスクリームを食べるようになった。美味しさとは、舌だけのことではない。人々を幸せな気持ちにさせる何かが必要なのである。

 つまり、ブランド化には、大なり小なり ── ジェロニモス修道院の秘伝だとか、エリーザベト王妃がお忍びで通っただとか、「ローマの休日」のヘップバーンとアイスクリームの名場面とかという ── 伝説・物語が必要なのだと思う。

         ★

< 壮麗なジェロニモス修道院 >

 ジェロニモス修道院は、壮麗な建物である。

  

   ( 壮麗なジェロニモス修道院)

 エンリケ航海王子とヴァスコ・ダ・ガマの偉業を称え、東方へ向けて出帆する船の航海の安全を祈願する大聖堂として、1502年に着工。1世紀以上の年月をかけて完成した。その費用は、1498年、インド航路を発見したヴァスコ・ダ・ガマが持ちかえった富によってまかなわれたという。大航海時代を切り開くことによって、貧しいポルトガル王国は、豊かになったのである。

 司馬遼太郎は、『街道をゆく 南蛮の道2』に、このように書いている。

 「私どもは、テージョ川の河畔に沿って、6キロ、リスボン市街から離れた。

 河口のあたりに、大理石の巨大な建造物がある。ジェロニモス修道院である。

 大航海時代の極東における記念建造物が大坂城であるとすると、その雄大な史的潮流の源であるこのリスボンにおいては、ジェロニモス修道院が代表すべきかもしれない」。

 大航海時代を象徴するものとして、その潮流の源にジェロニモス修道院があり、その潮流の東の果ての結実が大阪湾に臨む大坂城であるという。なるほど 我々は、ともすれば、秀吉だとか、淀君だとか、家康だとか、或いは豊臣と徳川の争いの舞台だとかいう、日本史の枠組の中でしか大坂城をとらえないが、そもそも大坂城は、大航海時代という世界史的背景があって築かれた建造物だったのである。

 その大坂城を陥落させたのも、家康が英国から借りた巨大な大砲の威力であった。歴史は、真田幸村の個人的な知略を超えたところで展開する。だからこそ、幸村も、美しい

 にもかかわらず、徳川政権はその後250年もの間、世界史の片隅に引きこもった。(事の良し悪しを言っているのではない。それはそれで良かったのかもしれない ) 。それでも、この国には、長崎というわずかに開いた戸から、オランダ語を通じて、西洋事情を学び続けた人々がいた。そして、アヘン戦争によって大国・中国が敗れたことを知ったとき、いち早く反応した。

 その結果、例えば、「世界の海援隊をやりたい」という坂本龍馬も登場することになる。高知の桂浜に立つ坂本龍馬像は、サグレス岬で海に向かって立つエンリケ航海王子の十何代目かの子孫のように、似ている。何よりも、海を見る目が似ている。

 ジェロニモス修道院の前には、切符を買うために、世界から訪れた観光客の長蛇の列がつくられていた。だが、我々は、ドライバー兼ガイドのM氏の案内で、並ぶことなく入場した。少々気が咎めたが、現地ツアーに入ったのは、このためでもある。 

  

  (ジェロニモス修道院の中庭と回廊)

 西欧の修道院はどこでも、中庭と回廊があって、静かな空間をつくり出している。修道士たちは、毎日、作業を終わると中庭の泉で手足を洗い、また、決められた時間に回廊で読書をし、祈り、瞑想する。

 ジェロニモス修道院の中庭は1辺が55m。そこを回廊がめぐっている。回廊に入る日差しは柔らかく、微妙な陰影が人の心を瞑想的にさせる。

 

    (回廊の彫刻)

    (回廊を歩く)

 当時の多くの聖堂がそうであるように、この修道院も聖母に捧げられた。ある時期からカソリックは、キリスト教信仰というよりも、マリア信仰のようである。

 「建物はふんだんに装飾されている」。

 「 "聖母" をかざる彫刻群のなかで、海にちなんだモティーフのものが多い。建物が聖母の肉体であるとすれば、それらの装飾は、聖母に対し、かたときもここから出帆して行った船たちの安全をわすれてくださるなと願うためのものであることがわかる」。

 「このことが思いすごしでない証拠に、なかに入ると、挟廊(アーケード)や回廊の壁に、船具や珊瑚が彫られ、海藻まで彫られている。カトリック文化の強烈な具象性がここにもうかがえるし、同時に、建物そのものが潮風を匂い立てているようでもある」。(『 南蛮の道Ⅱ』から)。

 

  ( 修道士たちの食堂 )

 修道院は、たくさんの修道士たちが、日々、祈りと労働に励んだ「生活の場」であるから、さまざまな生活空間がある。その中でも最も大切なのは、ミサを行う教会である。修道院が教会ではない。修道院の中に教会がある。教会は、キリストの身体そのものである。

 ジェロニモス修道院の教会は、サンタ・マリア教会という。

 中に入ると、フランスやドイツのゴシック様式の大聖堂と同じように、柱が天に向かってそびえている。

 ただ、フランスやドイツの大聖堂は、北方の森の民であるゲルマン的な空間であるが、この教会においては、高い柱はヤシの木を模しているという。そして、柱や壁には、ここもまた海や舟をモチーフにした数多くの模様が刻まれている。

 教会の中には、ヴァスコ・ダ・ガマの棺があった。

  (サンタ・マリア教会)

         ★

 ゆっくり見学して、雲一つない外界に出た。

  「ジェロニモス修道院の前は広場になっていて、…… そのむこうが、広大な河口であり、ゆたかに水が流れている。インドをめざすヴァスコ・ダ・ガマが、エンリケ航海王子の死後、1497年7月9日、河口のこの地点から4隻の船隊をひきいて出て行った」。(『 南蛮の道Ⅱ』から)。

 その場所に、帆船を模した巨大な「発見のモニュメント」が建っている。

 1960年、エンリケ航海王子の500回忌を記念して造られた。エレベータで高さ50mまで上がることができるそうだが、今は修復中で、全体に覆いがかぶせられている。

 その前の広場には、大理石のモザイクで世界地図が描かれ、世界各地の「発見」の年号が刻まれている。日本は1541年とある。 

 

 (「発見のモニュメント」の下の世界地図)

         ★

< の立ち姿のような「ベレンの塔」 >

 「さらに河口ちかくまでゆくと、水中の岩礁に美しい大理石の塔が立っている。塔というより小城郭といったほうが正しい。『ベレンの塔』とよばれ、16世紀のものである」。(『 南蛮の道Ⅱ』から)。

 もとはテージョ川を行き交う船を監視し、河口を守る要塞として造られたが、後には税関や灯台としても使われた、と『地球の歩き方』にある。

 ここも長蛇の列があったが、チケットを買うためというより、内部が狭く、混雑して事故が起きるのをおそれて、入場者数を制限しているらしい。我々のツアーは残念ながら「ベレンの塔」の入場観光はない。しかし、ジェロニモス修道院をゆっくり見ることができたから、良しとする。

 

   ( 公女のような「ベレンの塔」 )

 司馬遼太郎は、「眺めていると、テージョ川に佇みつくす公女のようにも見えてくる」と述べているが、白い大理石の建物が、空と海の青に映えて、まことに瀟洒であった。

 命がけの長い航海を終えて無事母港に帰ってきた船乗りたちが、最初に目にするのが、この塔であった。 

 

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大航海時代の幕を開けたテージョ川河口へ … ユーラシア大陸の最西端ポルトガルへの旅 4

2016年12月06日 | 西欧旅行……ポルトガル紀行

     (テージョ川の河口)

 リスボンの町の中心部から車で20分も行けばテージョ川の河口に出る。その先は大西洋

 Rio Tejo (テージョ川)は、スペイン語では Rio Tajo (タホ川) 。

         ★

タホ川からテージョ川へ >

 スペインの中央部に位置する首都マドリッドから、都市間バスで行くと1時間少々のところに、古都トレドがある。

 ローマが滅亡した (476年) 後、イベリア半島に侵入し支配したのは、ゲルマン民族の一部族・西ゴード族であった。彼らは首都をトレドに定めた (560年)。

 トレドは町の三方向をタホ川の渓谷に囲まれ、丘の上に築かれた要塞のような町である。 ( 当ブログ「アンダルシアの旅 = 陽春のスペイン紀行」を参照 )。

  (タホ川の渓谷に守られる古都トレド)

 トレドを囲繞するように流れたタホ川は、スペインの台地を横断して、流れ流れてポルトガルに入り、テージョ川 (Rio Tejo) となって、リスボン郊外で大西洋に注ぐ。

 トレドに都が置かれた時代は長くはなかった。711年、西ゴード族は、アフリカ大陸からジブラルタル海峡を渡ってきたイスラムの軍勢に大敗し、イベリア半島の北の端と、東の端に追いやられた。

 以後、イベリア半島はイスラム教徒によって統治され、彼らの先進的な文明がイベリア半島で花開いた(後ウマイヤ朝)。マドリッドはそのころはまだ、イスラム勢力によって造られた小さな防御施設に過ぎなかった。

 キリスト教徒の反撃 (レコンキスタ = 国土回復戦争) が本格的に始まったのは10世紀である。

 レコンキスタは500年かかり、1492年、アンダルシアの一角、イベリア半島の南端に追いつめられていたイスラム勢力の最後の王国グラナダが陥落することによって終了した。( 当ブログ「アンダルシアの旅 = 陽春のスペイン紀行」を参照 )。

         ★

< レコンキスタのなかから生まれたポルトガル王国 >

 11世紀末、ローマ教皇の呼びかけによって、西欧全土から十字軍がおこり、多くはエルサレムに向かったが、スペインのレコンキスタを助けようとやってきた騎士たちもいた。

 1096年、カスティーリア・レオン連合王国 (スペイン) の国王は、フランスのブルゴーニュからやってきた騎士エンリケ・ド・ボルゴーニュの対イスラム戦争の戦績をたたえ、ドウロ川の流域・現在のポルト周辺に領地を与えて、伯爵とした。

 彼は、故郷のブルゴーニュからブドウをもってきて植えた。今も、ドウロ川流域はブドウの名産地であり、ポートワインとして名を知られている

 伯爵の子、アフォンソ・エンリケスは、さらに南下してイスラム勢を破り、スペイン王及びローマ教皇の承認を得て、1143年、ポルトガル王国を建国し、アフォンソ1世となった 。

 リスボンの大聖堂は、アフォンソ1世がリスボン奪取を記念して建設させたもので、いざというときには要塞として使えるように造られたから、見た目もイカツイ。

 (テージョ川に臨むリスボン大聖堂)

  ポルトガルの歴史では3つの王朝が交代するが、この最初の王朝はブルゴーニュ王朝と呼ばれる。

 その後も南へ南へとレコンキスタを進めていったポルトガル王国は、建国後約100年の1249年、アフォンソⅢ世のときにイスラム勢力を大西洋に追い落として、現在の範囲の国土を確立させた。スペインのレコンキスタ終了よりも250年早かった。

< 番目の王朝・アヴィス王朝の成立 >

  14世紀中ごろ、ポルトガルはペストが流行し、経済は衰え、国は疲弊する。しかも、国王はたった一人の娘をスペイン王に嫁がせたから、国王が死んだあと、スペインはポルトガルを併合しようとした。スペインに嫁いだ亡き王の娘 (新ポルトガル国王) も、摂政 (その母) も、大貴族たちも、スペインへの併合に向けて動いた。

 だが、このとき、ポルトガルを守ろうと、中小貴族とリスボン市民たちが立ち上がった。

 リスボンは、地中海と大西洋・北海方面を結ぶ天然の良港として、イスラム時代に開かれた港町である。レコンキスタののち首都となったが、リスボンの町の主勢力は貴族(大土地所有者)でも、騎士でもなく、船乗りたちや商人たち、すなわち市民であった。リスボン港には、商館が建ち並んでいた。

 ポルトガル王国がスペインに併合されそうになったとき、リスボン市民はこの町に籠城してスペイン軍に立ち向かったのである。彼らは戦いに際し、前王の異母弟で、キリスト教騎士団 (本拠がアヴィスにあったから、アヴィス騎士団ともいう) の団長であった若者を戦いのリーダーに据えた。彼は市民軍を率いて、圧倒的なスペイン包囲軍を撃退した。

 中小貴族やリスボン市民は、次のスペインとの戦いに備えて、この若者・ジョアンを王に立てた。ジョアン1世である。

 翌年、ジョアン1世は、リスボン郊外の野において、5千の市民軍を率いて、2万の騎士と1万の歩兵で構成されたスペイン軍を迎えうって、再度、敗走させた。

 こうして、ポルトガルの2番目の王朝、アヴィス王朝が成立する。

 このあと、ジョアン1世は、大国スペインに備え、英国と同盟を結ぶ。この同盟は、以後600年間、破られることがなかった。彼はまた、英国王族から王妃を迎えた。

 この王朝の特徴は、第一に、王は、中小貴族や市民によって推戴されて王になったということである。第二に、その王を担いだ主勢力が船乗りや商人たちであったということである。ポルトガルは貧しい小国である。海商たちからの税金は、国家 (王室) 財政の大きな財源であった。

 ジョアン1世と英国から輿入れした聡明にして知的探求心の強い王妃フィリッパとの間に生まれた3番目の息子が、のちの「エンリケ航海王子」である。

 なぜ王子エンリケが、自分のロマンと国家の夢を重ね合わせて海洋に乗り出し、ついに「エンリケ航海王子」と呼ばれるようになったのか、という背景がここにある。

 (ポルトの街中で見かけたエンリケ航海王子と白い雲)

     ★   ★   ★

< 9月27日 >

 リスボンでの第1日目は、ネットで日本から申し込んでおいた「リスボン近郊日帰りツアー」に参加した。

 ドライバー (兼ガイド) のM氏は初老の大柄な男性で、このコースの行く先々で、「顔が利く」、という感じの人だった。

 このツアーのコースだが… 、旅の初日に、いきなり旅の佳境に入る。大航海時代の幕開けとなるヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を発見する旅に出たリスボン郊外の埠頭・ベレン地区や、この旅の最重要目的地の一つロカ岬も、この日のコースに入っている

 まず、リスボンの中心街にあるアルカンタラ展望台へ。この展望台は、自力で行くとすれば、リベルダーデ通りという華やかな大通りから、ケーブルカーに乗って上がった高台にある。

 美しい小公園になっていて、リスボンの街並みやテージョ川を望むことができた。このような展望の好い所は、リスボンの街中のあちこちにある。とにかくリスボンは丘の街なのだ。

      (アルカンタラ展望台)

        ★

< 4月25日のカーネーション革命のこと >

 車はリスボンの市街地を抜け、河口の方へ走って、テージョ川に架かる「4月25日橋」を渡った。

 さらに対岸の丘をのぼって行き、「クリスト・レイ」に着く。 1959年に完成した、高さ110mのキリスト像である。

 

   (クリスト・レイ)

 ここから、さっき渡ってきた「4月25日橋」を望むことができる。

   ( 4月25日橋 )

 ドライバー兼ガイドのMさんは、ポルトガル人として、この橋に感動してほしいようだったが、瀬戸大橋を見慣れた日本人の眼には、珍しい景色ではない。ただ、一片の雲もなく晴れて、気持ちが良かった。上を車、下を鉄道が通る。3日後、サグレスへ行くときは、列車でこの橋を渡って、南へ南へ、ポルトガルの最南端を目指すことになる。

 対岸の、橋の左手一帯が、テージョ川の河口近くに開けたベレン地区の埠頭  である。

 旅行に出る前に、ポルトガルを舞台にした映画がないかと探し、1本だけ見つけた。『リスボンの風に吹かれて』。サラザールの独裁体制と闘う学生たちの政治闘争と愛が回顧的に描かれていた。

 1966年の開通時、この橋は「サラザール橋」と呼ばれていた。

 ポルトガルの3番目の王朝は1910年に倒れ、以後、共和制になる。だが、共和制は機能せず、1932年からはサラザールが首相になり、独裁体制を敷いていった。この体制は、隣国スペインのフランコ体制に似て、第二次世界大戦を間にはさんで、40年間も続いた。その間、国内にあっては独裁と弾圧があり、外にあってはポルトガルの植民地ギニアの独立運動に対する戦争が泥沼化し、経済的にも西欧の最貧国になっていった。

 しかし、ついに1974年4月25日におこった青年将校たちによる無血クーデターによって、「20世紀最長の独裁政権」は終わりを告げる。「カーネーション革命」と呼ばれる。新政権は、秘密警察の廃止、検閲の廃止など、矢継ぎ早に民主化政策を実施して、「ポルトガルの春」と呼ばれた。

 こうして、「サラザール橋」は、「4月25日橋」と名を変えた。

        ★

 ドライバー兼ガイドのMさん。正規のガイド資格は持っていないらしく、説明は車の中だけである。

 運転しながら英語でガイドしてくれるのだが、熱が入ると、前方を見ず、後部座席の我々の方を向いて、時には両手を振り回して熱弁をふるう。私には、フロントグラスの向こうに、二人乗りの自転車がふらふらと走っているのが見えて、とても気になる。速度を落としているが、それでも車はどんどん近づく。わからない英語の説明よりも、そちらの方が何十倍も気になって、我慢できず、思わず「アブナイ」と叫びそうになった。

 とはいえ、ヨーロッパのどこの国のタクシーも、時には乗り合いバスでさえも、我々日本人からみれば恐怖のスピードで疾走するのに、Mさんは決してムリな走り方はしない。見学地に着いて車を降りるときなども、客の安全を気遣って、自分が先に降り、必ず客の安全を確保する。

 世界的な現地ツアーのサイトに登録されている、リスボン出発の日帰りツアーの中から選んだのだが、たぶん、そのサイトに登録している一つ一つのツアー商品の多くは、個人営業なのだろう。もし人身事故でも起こしたら、二度と立ち直れない。私がこのツアーを選んだのも、行先がマッチングしていたこともあるが、過去にこのMさんのツアーに参加した日本人が多く、体験談を読むと、評判が評判を呼んでいることがわかるからだ。

 「あれがリスボンのサッカー場だ」。

 「ポルトガル人はみんなサッカーが好きだ。ポルトガルは小国で、大航海時代の一時期を除いて、何も自慢できるものがない。今年、サッカーのヨーロッパ大会で、ポルトガル代表チームが優勝したんだ。あのときは、勝ち上がるごとに、昼も夜も、国民みんなが息をつめるようにして毎日を過ごしたよ。ポルトガルにはサッカーしか、ないんだ」。

 サッカーで大騒ぎするイタリア人やイギリス人やフランス人と違って、息をつめるようにして日々を過ごした小国のポルトガル人に、胸がきゅんとなった。厚かましく、傍若無人な輩はいやだ。

 「サッカーのことは詳しくないが、ロナウドは知っている。長身で、ハンサムで、身体能力が高く、しかも、素晴らしい技術をもっている。なにより、フェアーでクリーンな選手だ。『バルセロナ』にもすごい選手がいるが、『レアル』のロナウドが一番クールだ」と言うと、Mさんは大きくうなづき、「クリスティアーノ・ロナウドはポルトガル代表チームのキャプテンだよ」と言った。

 やがて、川か海か、水際に公園が広々と広がる地域に入った。駐車場スペースは観光バスや乗用車でいっぱいだ。世界からの観光客が駐車場から群れをなして歩き、あるところでは、長蛇の列ができている。ジェロニモス修道院の華麗な姿も見えた。

 ベレン地区の埠頭にやってきたのだ。

 

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ホテルの窓からテージョ川を見る… ユーラシア大陸の最西端ポルトガルへの旅 3

2016年11月28日 | 西欧旅行……ポルトガル紀行

 ホテルの窓を開けると、目の前の小さな公園に1本の大きな木があり、明るい紫色の花が咲き乱れていた。日本ではあまり見かけない花のようだが、何の花だろう。

    ★   ★   ★

 今回の旅の行程は、以下のようである。

< 9月26日 (月) > 

 朝、KLMオランダ航空で出発。アムステルダムで乗り継ぎ、リスボンに現地時間20時05分到着。 (リスボン泊)

< 9月27日 (火) > 

 現地オプショナルツアー「リスボン近郊ツアー」に参加。リスボンのベレン地区 → シントラ → ロカ岬観光(リスボン泊)

< 9月28日 (水) > 

 現地オプショナルツアー「リスボン近郊ツアー」に参加。ファティマ → バターリヤ → ナザレ → オピドス観光(リスボン泊)

< 9月29日 (木) > リスボン市街地を観光。 (リスボン泊)    

< 9月30日 (金) > 

 リスボンから特急と鈍行でラゴスへ。ラゴス駅からタクシーでサグレスへ。サグレス 岬とサン・ヴィセンテ岬観光(サグレス泊)   

< 10月1日 (土) > 

 サグレスからタクシーでラゴス駅。ラゴスから鈍行と特急を乗り継いでリスボンへ。リスボンからさらに鈍行を乗り継いでトマールへ。トマール観光。 (トマール泊)

< 10月2日(日) > 

 トマールから鈍行と特急を乗り継いでポルトへ。 ポルト観光(ポルト泊)

< 10月3日 (月) > ポルト観光(ポルト泊) 

< 10月4日 (火) > 

 朝、ポルト出発。アムステルダムで乗り継いで、 

< 10月5日 (水) >  朝、関空到着。

                        ★

   日本からポルトガルへの直行便はない。

 前回のブログで、大手旅行社の企画するポルトガルツアーは、ルフトハンザ・ドイツ航空を使っていると書いた。ルフトハンザでポルトガルに向かえば、フランクフルトで5、6時間も乗り継ぎ待ちをしなければならず、ポルトガルの空港に着くのは夜中だ。

 そのうえ、復路は、早朝6時発の飛行機に乗らねばならない。

 今回は自力の旅。深夜、知らない異国の空港に大きなスーツケースを持って降り立ち、空港からタクシーに乗って夜更けの見知らぬ大都会を走って、明かりを落としたホテルのフロントに着くのは、できたら避けたい。

 ネットでいろいろ調べているうちに、KLMオランダ航空の月曜日出発便に乗れば、アムステルダムで3時間弱の乗り継ぎ時間、その結果、リスボンにも現地時間の午後8時に到着することを発見した。午後8時なら、ヨーロッパでは宵の口である。

 復路も、ポルトからのアムステルダム行きは、8時40分発だ。

 往復とも、ルフトハンザよりずっと楽で、これなら最終日も、夜までゆっくりとポルトの夜景を楽しむことができる。

 自力の旅の最初の一歩は、ダイヤを調べて乗る飛行機を決めること。往路復路が決まらなければ、計画は立たない。そして、調べれば、ツアーより楽な飛行機が見つかることもよくある。

 KLMオランダ航空には、最近、お世話になる。ルフトハンザやエールフランスよりも少しだけ安いのもありがたい。

    ★   ★   ★  

< 9月26日 >

 10時25分発、KLMオランダ航空で関空を発った。

 以前は、関空からの最初の12時間のフライトが苦痛だった。緊張し、窮屈な座席で腰痛となり、昼間から映画を観ていると頭痛がし、すぐに映画にも飽きて心が倦んだ。ビジネスクラスにも乗ってみたが、休日の一日を朝から晩まで自宅のソファでゴロゴロしているのと同じで、かえって疲労感がたまり、エコノミーの席で姿勢正しく過ごした方がましかもしれないと思った。

 ところが、最近、なぜか、この12時間があまり苦にならなくなった。結構、心も体も元気で、アムステルダム・スキポール空港に降り立つようになったから不思議だ。旅慣れて緊張しなくなったせいもあろうが、年とともに、時間が経つのが速くなったのかもしれない。

        ★

 高度を下げ、着陸態勢に入った飛行機の窓から、オランダの風景が見える。

  (アムステルダム近郊の風景)

 上空から見ると、オランダは本当に水の国である。世界の土地は神が創造したが、オランダの土地はオランダの女たちがつくった、と言われるそうだ。男が生業に携わっている間、女たちは毎日、土方仕事をした。堤防を造り、海を埋め立て、オランダの土地を広げていった。オランダの国土は海面より低い。

 オランダも、フランスも、緑豊かな農業国だ。

 それにひきかえ、スペインは土壌が貧しい。(たぶん、スイスもそうだろう)。

   スペインの大地は荒涼としている。土は大地の表面に薄く貼り付いているだけだ。しかも、そこに無数の石ころがゴロゴロしている。スペインを旅しながら、なるほどこれではオリーブしか育たないと思った。(当ブログ「アンダルシアへの旅」2、4)。

 同じイベリア半島のこと、ポルトガルもそうなのだろうか ……??

         ★ 

 ポルトガルは遠い。

 アムステルダムで乗り継いで、いっそう狭くなった機内に閉じ込められ、さらに3時間。隣に相撲取りのような体型の白人が座り、この3時間は苦しかった。

 日の暮れたリスボン空港に着いたときは、ほっとした。

        ★

 ヨーロッパ旅行の旅の情報は、ひと昔前までは『地球の歩き方』ぐらいしかなかった。今は、ネットをさがせば、生き生きした役に立つ情報が手に入る。

 リスボン空港で待機しているタクシーには乗るな、というのが、リスボン在住の日本人が作成しているブログ、その他からの一致した意見である。

 大なり小なり、ヨーロッパのタクシーに、そういう傾向はある。かつてチェコの首都プラハのタクシーもひどかった。評判を耳にしたチェコの大統領が、試しに空港からタクシーに乗ったら、やはりぼったくられた。国の玄関口で何をするか。激怒した大統領は、徹底的な撲滅を指示し、ぼったくりタクシーは壊滅した。

 リスボンの空港に話を戻し、この空港に慣れた人は、飛行機を降りて、到着ロビー (地上階) に出たあと、そこに待機しているタクシーに乗らず、出発階である2階に上がって、リスボン市内から客を乗せてきたタクシーを拾うそうだ。(ナルホド! すご技! )。

 しかし、一般的な日本人旅行者へのアドバイスとしては、到着ロビーのツーリストインフォメーションに行けば、インフォメーションが契約しているタクシーを呼んでくれる、というのである。市内まで一律料金で、少々高くなるが、ホテルの玄関まできちんと送ってくれて、安心だという。

 もちろん、そのようにした。リスボン到着早々、いやな思いはしたくない。

 インフォメーションのアフリカ系の女性は優しく、長旅に疲れた年配の東洋人旅行者へのいたわりが感じられた。ポルトガルで、最初に出会ったポルトガル人である。その場で料金を払って領収書をもらうと、すぐにタクシーの運転手が迎えに来てくれた。運転手は、終始、穏やかで丁寧であった。 

 リスボンという町は、丘陵にひらけた坂の多い街で、一番低いところをテージョ川が流れている。

 タクシーは、夜の街の大通りを、緩斜面のゲレンデを直滑降で滑るように、川へ向かって下っていく。

 街灯の灯りで、ガイドブックにあったリベルダーデ通りの鬱蒼とした並木が見えたとき、とうとうリスボンまでやって来た … と思った。

         ★

 翌朝、目がさめて、部屋の窓を開けると、テージョ川があった。まるで海を見るように広く、貨物船がゆっくりと動いていた。

 多くの帆船が ── あのフランシスコ・ザヴィエルを乗せた船も ── ここから大航海の旅に出た。東方へ。インドへ。まだ見ぬジパングへ。織田信長に見せてやりたいものだ。

        ★

 「チバングは、東のかた、大陸から1500マイルの大洋中にある、とても大きな島である。住民は皮膚の色が白く礼節の正しい優雅な偶像教徒であって、独立国をなし、自己の国王をいただいている。この国ではいたる所に黄金が見つかるものだから、国人は誰でも莫大な黄金を所有している」。(「東方見聞録」)。

 「そなたの前には、時至らねば現れぬかもしれないが、海のはてに日本がある。清き白金を生み、神の光に照らされているその島が」。(ポルトガルで最も尊敬されている大航海時代の詩人・カモンイスの詩の一節)。

 いずれも、『南蛮の道Ⅱ』(司馬遼太郎)からのまた引きである。

    

  (ホテルの窓から、朝のテージョ川)

 

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旅の初めに (その2) … ユーラシア大陸の最西端の国ポルトガルへの旅 2

2016年11月24日 | 西欧旅行……ポルトガル紀行

(ジェロニモス修道院とポニーテールの女性馭者)

 ジェロニモス修道院は、エンリケ航海王子とヴァスコ・ダ・ガマの偉業 (1498年、カルカッタ到達) を讃えて、1502年から1世紀をかけて建設された。リスボンのテージョ川に開けたベレン地区にある。世界遺産。

         ★

< 旅のもう一つの目的は、エンリケ航海王子のサグレス岬 >

 ユーラシア大陸の最西端の岬は、ロカ岬である。

   従って、「ユーラシア大陸の最西端ポルトガルへの旅」の一つ目の目的地は、ロカ岬である。

 リスボンから西へ、列車で40分のところに、シントラという王家の宮殿が残る美しい町がある。そこを見学してから、シントラ駅でバスに乗り、さらに西へ40分行くと、ロカ岬に達する。2カ所合わせて、リスボンから1日の観光コースである。

 日本の旅行社のポルトガルツアーに参加して、ロカ岬に行かないツアーはない。どこの国からの観光客であろうと、ポルトガルに行けばたいてい訪れる定番のコースである。

 ポルトガルへ行こうと決めてから、旅行社のツアーに申し込もうかと、何度も考えた。ヨーロッパとはいえ、初めて行く、日本からみれば地の果てのような国ポルトガルのことである。遠い。

 ところが、旅行社のツアーの行程表を見ると、フランクフルト空港でなんと5、6時間も乗り継ぎ待ちをして、リスボンに着くのは深夜である。帰りの飛行機も、早朝6時ごろの飛行機に乗るから、その日はホテルを朝3、4時に出発することになる。

 もっと便利な飛行便はないのだろうか??

 南北に細長く、しかも、鉄道網が張り巡らされているとはいえないポルトガルを観光するには、ツアーに入って観光バスで回る方が明らかに効率的だろう。

 だが ……、私には、ロカ岬以外にもう一つ、どんなツアーも行かない、およそ「観光地」の要件を満たさない、荒涼とした、ある岬へのあこがれがあった。

 サグレス岬

 ユーラシア大陸の最西端はロカ岬だが、最西南端は、サグレス岬である。

 そこは、荒涼とした地で、今はほとんど何も残っていないが、15世紀、エンリケ航海王子が世界最初の航海学校(研究所)をつくり、世界の果てに思い馳せた岬である。

 岬の遥か先には、アフリカ大陸の北端がある。そのアフリカ大陸の西岸を進みに進んで行けば、いつかは大陸の南端を回り、インドに行きつくに違いない

 「ユーラシア大陸の最西端ポルトガルへの旅」の二つ目の目的地は、エンリケ王子のサグレス岬である。

 サグレス岬へ行くとしたら、…… 自力で行くしかない。

 迷った末、自力の旅を選んだ。

        ★

< 110点の旅でした >

 今回の旅を評価すれば、この二つの岬に行けたから、それだけで十分満足の80点。

 その他は、プラスアルファで、減点法ではなく、加点法。その他の中では、トマールとポルトがとても良かったから、20点×2で、満点をオーバーして120点。

 それ以外にも、現地の日帰りツアーに入って主な名所・旧跡を回ったし、もちろんリスボン市内も、1日を当てて散策できたから、それらを合わせて、さらにプラス20点。

 ただし、…… リスボンのチンチン電車の中で、ロマのおばさんにスマホをスリ盗られたから (えっ、疲れていて、すっかり油断した!! 悔しい )、 これは減点でマイナス30点。 

 それでも、差し引き110点の、満足すべき旅でした。

 (スマホには黒い皮のカバーを付けていたから、感触からして財布だと思ったに違いない。お互いにがっかりだ)。

 

   (リスボン名物の路面電車)

 ヨーロッパの多くの都市は、環境保護の観点からトラムを復活させ、その瀟洒な姿が街並みに溶け込んでステキである。だが、貧しいリスボンは昔ながらの路面電車。でも、それがかえって人気を呼び、観光客でいつも満員になる。すなわち、スリの活躍の場となる。 

         ★

エンリケ航海王子のこと >

 エンリケ (英語ではヘンリー) 航海王子については、何も知らなかった。遥か昔、高校の世界史で習ったのかもしれない。しかし、ヴァスコ・ダ・ガマは覚えているが、エンリケは知らない。

 知ったのは、司馬遼太郎 『街道をゆく 南蛮の道Ⅱ』 を読んだときである。読んで、エンリケという人に、強く心惹かれた。孤独を愛する、ストイックな男子なら、誰でも彼に心惹かれるだろう。

 今まで、このブログで、司馬遼太郎の文章を何度も引用した。話題が一致すれば、私のつたない文章より、国民的大作家の、簡潔にして豊かな文章力にゆだねたほうが良い。

 だが、今回の旅は、旅の動機そのものが、司馬遼太郎の著作に発する。故に、今回の旅のうち、リスボン及びサグレス岬への旅の部分は、自ずから司馬遼太郎の旅の追体験でもあった。

         ★    

 以下、司馬遼太郎 『南蛮の道Ⅱ』 から。 ※ ただし、(年数) は、ブログ筆者が付けた。 

 「私がポルトガルにきたのは、信じがたいほどの勇気をもって、それまでただむなしく水をたたえていた海洋というものを世界史に組み入れてしまった人々の跡を見るためであったが、この大膨張をただ一人に象徴させるとすれば、エンリケ (1394~1460) 以外にない。かれの死後、艦隊をひきいてインド洋に出て行った (カルカッタ到達 1498年) ヴァスコ・ダ・ガマは、エンリケの結果にすぎない。

 ガマの大航海の結果がやがては日本に対する鉄砲の伝来となり(1543年)、つづいてフランシスコ・ザヴィエルの渡来になる(1549年)。また日本に南蛮文化の時代を招来し、そのうえ南蛮風の築城法が加味された大坂城 (1589年) が出現する契機ともなった。瀬戸内海をへてその奥座敷ともいうべき大坂湾に入ってくる南蛮船に対し、貿易家である秀吉が日本の国家的威容を見せようとしたのが、巨大建造物の造営の一目的だったことは、たれもが想像できる。

 それより前、秀吉以上に南蛮文化の正確な受けとめ手であった織田信長は、近江の安土城 (1576年) にあって大坂の地を欲し、石山本願寺に退去を命じ、これと激しく戦った。ようやくその湾頭の地を手に入れたものの、ほどなく非業にたおれた (1582年)。

   大坂に出るべくあれほどに固執した信長の意図は、想像するに、ポルトガル人たちから、リスボンの立地条件についてきいていたからであろう。リスボンは首都にして港湾を兼ね、世界中の珍貨が、居ながらにして集まるようにできている。信長にすれば、『首都はそうあらねばならない』と思ったにちがいなく、その思想を秀吉がひきうつしに相続した」。

         ★

   「残されている晩年のエンリケの肖像は、山林の修行僧のように内面的な顔をしている。面長で、頬は削げ、手入れした形跡のない口ひげがまばらに生え、眉もうすい。両眼は、どこを見ているわけでもない。偏執的とまでいかなくても、ただ一つのことに集中できる性格をあらわしている。服装は粗末で、つば広の黒い帽子をかぶり、僧が日常着る法衣 (ロープ) のようなものを着ているが、その服装どおり、かれは生涯妻をめとらず、女性と無縁だった。

 (サグレス岬に立つエンリケ航海王子)

   ちなみに、エンリケは航海王子とのちによばれながら、海洋経験は若いころに2度ばかりアフリカに渡っただけのことで、みずから操船したことは一度もなかった。かれは海洋教育の設計者であり、航海策の立案者であり、推進者であった。かれの偉大さは、むしろ海に出なかった、"航海者"であるというところにある」。

          ★

 ふーむ。その気質は、昔、映画で観たイギリス人「アラビアのローレンス」を思わせる。エンリケの母はイギリスの王族で、父である若きポルトガル王に輿入れしてきた。(続く)

  

 

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旅の初めに (その1 ) …… ユーラシア大陸の最西端の国ポルトガルへの旅 1

2016年11月20日 | 西欧旅行……ポルトガル紀行

 3か月近く更新しなかったにもかかわらず、その間も見捨てることなく、多くの方々がこのブログを開いて見てくださいました。心からお礼申しあげます。

 また、これから、ゆっくりとですが、がんばりますので、今後ともよろしくお願いいたします

 さて、9月26日に出発し、10月5日に帰国するという10日間の日程で、ポルトガルに行ってきました。ブログ再開の最初は、「ユーラシア大陸の最西端の国ポルトガルへの旅」です。

       ★

 旅の動機・目的は二つ。

 ヨーロッパのどこかの国から、日本への帰国便に乗る。機内で一夜を過ごし、早朝に窓から日本列島が見えてきたとき、いつもある感慨がわいてくる。…… 私たちのすむ島国は、広大なユーラシア大陸の東の果て、さらにそこから幾ばくかの波濤を超えて、もうこの先には海しかないというところに位置しているのだ、という実感である。いとおしい思いとともに。

        ★

 ユーラシア大陸の西の端にあって、日本と同じように小さな国々の集まりであるヨーロッパ。

 しかも、それぞれが、私たちの国にまさるとも劣らない長い歴史と文化をもち、今も先進国であり続けるヨーロッパ。

 ヨーロッパとは何かを自分なりにきわめたくて、何度も旅するようになった。

 フランス、イタリア、ドイツなどは幾度も、さらにスペイン、オーストリア、チェコ、ハンガリー、スイス、スロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナなどなど …… 。

 旅を重ねていくうちに、日本はユーラシア大陸の最東端の国。それなら、ユーラシア大陸の最西端の国にぜひとも行ってみたいと思うようになった。しかも、その国・ポルトガルの、大西洋の波濤がうち寄せる最西端の岬の断崖の上に立ってみたいと。

 旅の心は、遥けさなのである。

 これが今回の旅の動機の一つである。

       ★

 2012年の冬、「冬のサンチャゴ・デ・コンポステーラ紀行」の旅をした。

 サンチャゴ・デ・コンポステーラはキリスト教の三大巡礼地の一つであるが、もちろん、徒歩による巡礼の旅をしたわけではない。飛行機と列車を乗り継いだのだが、それでも遥々と遠かった。スペインの北西部、ガリシア地方にあり、大西洋に近い。

 連泊して、大西洋が見たくて、フィステリアという漁村まで行ってみた。そこは、スペインの最西端、大西洋に臨む断崖がある地である。

聖ヤコブ大聖堂

  (スペイン/巡礼の地・聖ヤコブ大聖堂)

 

  (スペイン/大西洋に臨むガリシア地方の漁村)

 (スペイン/フィステリアの灯台と大西洋)

  (スペイン/地の果てに立つ)

 冬の大西洋は迫力があり、遥々と、ユーラシア大陸の果てまできた、という感慨がわいた。

 だが、フィステリアは、ユーラシア大陸の北西端ではあっても、最西端ではない。本当の最西端に立ちたければ、ポルトガルに行く必要がある。

       ★

 司馬遼太郎『南蛮の道Ⅱ』の中に、次のような文章がある。

 「私は、パリでカトリーヌ・カドウ嬢に会った夜のことを思い出している。ポルトガル人とスペイン人は似ているか、ときいたとき、

 『性格?』。

 彼女はかぶりをふった。

 『ちがっている。顔も。── ポルトガル人の顔は』。

 彼女は自分の顔に手をそえて、『海にむかっていて、悲しげです』。」 

       ★ 

 今回、ポルトガルを旅していて、「日本人か?」と質問され、「日本人が好きだ」と言われた。

 「いま、いっぱい中国人が観光に来ているが、日本人との違いはわかる。…… 日本語の語感も好きだ。英語は好きでない。『サン・キュー』よりも、『アリガトウ』が好きだ」。

  日本人が「海に向かって、悲しげである」とは思わない。だが、多分、シャイなところ、厚かましくないところは、ポルトガル人と似ているのだと思う。そこが、ポルトガル人と日本人の似ているところで、スペイン人や中国人と違うところかもしれない。

 ちなみに、ポルトガル語の「ありがとう」は、「オブリガード」(男)、「オブリガーダ」(女)。私には、旅の間中、「アリガトウ」と言っているように聞こえた。

        ★

 ユーラシア大陸の最西端、大西洋を望む岬のある国の人々は、ユーラシア大陸の最東端、黒潮洗う国からやって来た旅人に、どこかなつかしさをおぼえてくれるに違いない。  

 ユーラシア大陸の最西端の岬に立ちたい、というのが、この旅の動機の一つ目である。  

 

 

  

 

 

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