ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

風の峪(タニ) (2023 春の句) … 読売歌壇・俳壇から

2023年11月22日 | 随想…俳句と短歌

   (吉野山の桜)

 讀賣新聞の「読売俳壇」「読売歌壇」に掲載された句や歌の中から、私の心と感性に響いた作品を勝手な感想とともに紹介させていただいています。今回は、今年の前半に紙上に載った作品からです。

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<春の句>

〇 春のカフェ 電車の見える 席が好き(東京都/石田絹子さん)

 (ミニチュアのあるカフェ)

 このカフェが東京ならば、「電車」はJRの山手線や中央線かもしれません。でも、この句から浮かぶ私のイメージは、街路に敷設された線路を走るチンチン電車とかトラムです。

 写真は大阪の阿倍野のカフェの窓辺のカウンター席。

 大きな窓ガラスには、日よけのブラインドが降りていました。その隅っこからでも写真を撮りたいと思ってカメラをいじっていたら、若い女店員さんが下半分を揚げてくれました。ありがとう。ニコニコ笑顔が返ってきました。

 走っているのは、阿倍野から住吉大社や堺の方へ行く私営の阪堺電車。色も型もいろいろで、昭和を思わせるチンチン電車もあれば、ヨーロッパの街中を走っているようなスマートなトラムもあり、見ているだけで楽しい。

 私が学生の頃、東京も都営のチンチン電車が走っていました。大阪の街もそうです。車の走行の邪魔になるというので取っ払われ、その代わりに地下鉄網ができました。でも、ヨーロッパの街角を走る瀟洒なトラムや坂道を上がるチンチン電車を見るにつけ、惜しいことをしたなと思います。日本の狭い道路ではムリなのかも知れませんが、街並みにとけ込んだ風物詩でした。

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〇 この峪(タニ)は 風の道なり 花吹雪(日立市/菊池二三夫さん)

 風に乗って周りの山から無数の桜の花びらが舞い込んでくる峪。「峪」という文字も趣があって、美しいイメージの句です。

 以下は、この句に触発された閑話です。

<吉野川の向こうのこと>

 大和国は大国です。国の形は、縦(南北)に長い長方形。

 その北半分は、周囲を低い山々に囲まれた大和盆地(大和平野ともいう)です。ここは、遥かな古代、日本文明の中心だった時代もありました。

 3世紀の中ごろから、巨大な前方後円墳が次々築かれました。その後、飛鳥文化、白鳳文化が花開き、やがて唐の都をモデルにした藤原京や平城京が築かれました。北から南から盆地の中を流れる清流は全て大和川へ流れ込み、大和川は生駒山系と葛城山系の間の峡谷を抜けて河内国へと流れ、大阪湾から、瀬戸内海を経て、大陸へとつながっていました。500年以上もの間、大和盆地は日本の"まほろば"の地であったと言ってよいでしょう。

 その大和盆地の南辺を区切るのは、東から西へと流れる吉野川です。この川は紀国に入ると、紀ノ川と名を変えます。この川によって、大和国は、北と南に分けられます。

 吉野川より南の地は広大で、面積の上では大和国の半分以上を占めています。

 そこはどんな世界だったのか??

 昔も今も、高く深い山々と谷が、大和国から紀国、伊勢国にまたがって延々と広がっています。住む人は少なく、都から見れば文明から隔絶されたような地。能でいえば、「異界」の地。

 しかし、私たち日本人は、昔も今も、こういう世界に心ひかれてきました。

 吉野山から大峰山系の山上ヶ岳(標高1719m)へ続く深く険しい山々は、7世紀に役行者(エンノギョウジャ)が修験道を切り開いた地です。修験者たちは深山幽谷に分け入って、激しい修行を積み、衆生を救う験力を得ようとしました。

 その西には、高野山があります。平安初期、空海が真言密教を開いた聖地です。

 さらにその南、深く高い峰々と谷が太平洋に向かって落ちていく空間には熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)があって、平安末期以降、極楽浄土を求める人々が遥々と熊野詣でするようになりました。

 近年、これらの全体が「紀伊山地の霊場と参詣道」という名でユネスコの文化遺産に登録されました。今では日本人に負けないくらいの数の外国人バックパッカーが訪ねる地域になっています。一神教に飽き足りなくなってやって来る人たちもいるようです。

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<吉野の文学歴史散歩① … 蔵王権現>

 吉野は学生の頃に行ったのが最初で、仕事をリタイアしてからは何度か訪ねました。ただし、私の場合、吉野の文学歴史散歩が目的でしたから、花見客で混雑する時季は避けてきました。

 それでも、一度くらい吉野の桜を見ておきたいと、仕事をリタイアした直後の4月に出かけたことがあります。それが冒頭の写真です。もう随分前のことで、これ1回きりです。

 吉野山には、修験道の総本山・金峯山寺があります。本堂の蔵王堂は国宝で、木造の建築物としては東大寺の大仏殿に次ぐ世界第2位の大きさを誇ります。

  (蔵王堂遠望)

 金峯山寺の「金峯山(キンプセン)」は、吉野山から大峰山系の山上ヶ岳に到る修験道の山々の全体を言うそうです。

 茫々たる昔、役行者は千日の練行の末、山中深くで、深夜、釈迦、次いで観音菩薩のお姿を見ましたが、自分が追い求めてきた神ではないと感じました。

 「すると、にわかに天地が震動して、恐ろしい荒神が大地から湧出した。『大忿怒大勇猛』の蔵王権現で、これこそ彼が長年求めた新しい神であった。それは自然の猛威を秘めた山岳の表徴であるとともに、古代の山の神の生まれ変わった姿でもあった」(白洲正子『かくれ里』から)。

 役行者は自分が見た恐ろしい蔵王権現の姿を山桜の木に彫らせました。できた巨像を祀るために建てたのが蔵王堂です。

 修験道の世界は、森羅万象の大自然と古神道と仏教とが混然と融合した日本的な宗教世界です。

 いつの頃からか吉野山に参詣する人々は、蔵王権現像の素材となった桜の木を寄進・植樹するようになりました。"花の吉野"は、そういう信仰の結果として生まれたのでした。

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<吉野の文学歴史散歩② … 吉水院など>

 金峯山寺の先に吉水院(今は吉水神社)があります。もとは修験道の僧坊でした。

 源義経が兄頼朝の追っ手を逃れて、静御前や弁慶らと、一時ここに潜んだそうです。しかし、すぐに追手が迫って、さらに大峰山系の奥へと逃れなければなりませんでした。しかし、ここから先は女人禁制。静御前とはここが永遠の別れの地になりました。

 吉野山 峯の白雪 踏み分けて 入りにし人の 跡ぞ恋しき(静御前) 

 この悲話は、のちに能の「二人静」などの素材になりました。

 時代が下って、南北朝の争乱のときには、吉水院は南朝の後醍醐天皇の御座所になりました。今は桜で有名ですが、上の写真に見るように、吉野山の地形は自然の要害でした。

 それらより遥かに古く、壬申の乱の前、大海人皇子が隠れたのも吉野でした。

 吉水院に「義経潜居の間」として展示されている部屋は、室町初期の改築で、現存する最古の書院造りとして日本建築史上貴重なもの。また、「後醍醐天皇玉座の間」も、庭園とともに、桃山時代の様式によるものです。

 吉水院から奥へ、奥の千本と言われる方まで行くと、観光客も少なくなり、吉野水分(ミクマリ)神社が古色を帯びて建っています。まわりは山ばかりです。さらに先へと行くと、吉野山の総地主神を祀る金峰神社があり、そこからしばらく険路を下ると、西行が3年間住んだという庵が復元されています。

 西行庵まで来ると、花の吉野も本当にひっそりとします。やって来るのは、文学歴史好きで、かつ健脚の青壮年の男女ばかりです。

 これらを含めて、吉野山はユネスコ世界遺産の山です。

  (西行庵)

 初めて吉野を訪れたのは学生時代。若く、修験者に劣らぬような健脚で、これらを全て見て回って、さらに吉野川の宮滝まで行きました。

 今では、金峰神社のバス停で降り、そこから西行庵まで行って戻るだけで足が痛くなりました。途中、道を間違えて丁字路を逆方向に歩き、ほら貝を持った修験者に呼び戻されました。

      ★

<吉野の文学歴史散歩③ … 花の散り込む谷の宿>

 さて、上の「蔵王堂遠望」の写真ですが、参詣道が尾根を通っているのがわかります。この尾根を左へ下って谷へ降りると、ちょうど吉水院の下あたりに、「吉野温泉元湯」という小さな宿があります。(もちろん、険路を下らなくても、吉野駅から谷を行く道もあります)。鉄分を含んだ鉱泉が湧き、山を下りてきた修験者が疲れを癒した宿だったそうです。

 2020年の6月。1度目のコロナの緊急事態宣言が解除された直後、自宅に蟄居し続けた息苦しさに耐えかねて、この小さな宿を訪ねました。全国の旅館という旅館が、客足がすっかり絶えて苦しかった時期です。

 たまたまネットで探し当てた宿でしたが、訪ねてみると「島崎藤村ゆかりの宿」でした。

 また、宿の庭には句碑がありました。

 (句碑のある庭)

 (句碑)

 「一山の 花の散り込む 谷と聞く」

 初めて見たとき、ゆかしい句だと思いました。稲畑汀子さんの作とのことでした。俳句を作られる方ならよくご存じなのでしょうが、高浜虚子の孫に当たる方で、『アララギ』を引き継いで主宰されていたそうです。

 毎年の4月初め、この隠れ宿を定宿にして、仲間の皆さんと句会を開いていらっしゃったそうです。宿の若主人が、「子供の頃の私のことも句に詠んでもらっているんです」と仰っていました。

 若主人に尋ねてみましたが、桜の期間はわずか、その間は常連客でいっぱいで、宿泊はムリだそうです。山の上は人でいっぱいでも、ここなら静かでいいかなと思ったのですが。

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<吉野の文学歴史散歩④ … 島崎藤村の青春>

 さて、この宿が「島崎藤村ゆかりの宿」であったということについてです。

 宿のリーフレットに、以下のようなことが記されていました。

 「藤村が訪れたのは明治26(1893)年/22歳の春の3月14日より4月22日までこの元湯に逗留/ちょうど桜の時期で、女学校の教え子との愛に悩み、関西の旅に出た藤村にとって、庭に咲く桜は慰めになったことでしょう」云々。

 宿の庭には枝垂れ桜の大きな古木がありました。

 前回も藤村のことを書きましたが、格別に藤村文学のファンというわけではないのです。学生の頃、明治20年代の青春について、少し勉強したことがあるのです。

 明治10年代の青春は、自由民権運動の政治の季節でした。それに遅れて、北村透谷、国木田独歩、島崎藤村、正宗白鳥らの明治20年代の青春は、キリスト教(プロテスタント)との出会いから始まりました。彼らの多くはのちに棄教しますが、キリスト教との出会いを通して近代の精神に目覚め、明治30年代以降、詩人や作家として日本の近代文学を豊かにしていきました。

 明治政府は欧米から入って来る新知識の配電盤として、東大をつくりました。しかし、日本の近代文学が、東大出の森鷗外と夏目漱石を除けば、「別れろの切れろのは芸者のときに言うものよ」というレベルのものしかないとしたら、寂しすぎるというものです。

 島崎藤村も、若い日に、一番町教会の植村正久から洗礼を受けています。

 それまでの日本の社会では、「男女7歳にして、席を同じくせず」という儒教の教えは疑う余地のない規範でした。普通の若い男女が出会って交際するような場はなく、結婚は本人の意志とは別に家と家との関係の上に成り立ちました。「曽根崎心中」をはじめとする多くの江戸文学や明治初期の読み物に見るとおり、惚れた腫れたの男女の情愛は、遊郭の女性や芸者との関係でした。

 ところが、明治の初めに日本に入ってきたプロテスタントの教会では、男性の席と女性の席はまだ左右に分けられていたようですが、同じフロアのベンチに腰掛け、(三味線ではなく)、オルガンの音が響き、男女が声を合わせて讃美歌を歌うのです。礼拝が終われば、目の前に若い異性がいて、牧師を囲みながら、最初はおずおずとであっても談笑することは自然なことでした。プロテスタント教会は、明治の新青年にとって新知識を得る場でもあり、また、若い異性と知り合う心ときめく場でもありました。明治20年代の進取の気風をもった若者たちは、こぞってプロテスタント教会の門をたたきました。漱石の『三四郎』のヒロインの美禰子も、日曜日にはチャーチに通っていました。

 恋愛は、一個の自立した男子と一個の自立した女子の、互いの人格の尊重の上に成り立つ感情です。「恋愛」という日本語を作ったのは北村透谷でした。

 こういう新しい欧米の文化や精神・思想に出会った青春の中から、新しい言葉や表現形式が生まれ、新しい詩や小説として結実していったのです。

 さて、木曽の田舎から東京に出てきた藤村青年は、明治学院を卒業し、まだ数え年の21歳のときに、新しく設立された明治女学校(私立のミッションスクール)の英語教師になります。女子教育のミッションスクールは新鮮で、明治女学校に入学してきた女子たちの中にもハイカラな気風があったと思われます。また、まだ学制の整っていなかった時代でしたから、生徒の年齢もばらばらで、高等部の女生徒の中には先生の藤村と同年齢、中には年上の女子もいました。

 この頃に同校の女生徒だった相馬良子(黒光)は、当時のことを回想して次のように書き残しています。「明治学院出身の戸川、馬場、島崎先生など、教室に入っていらっしゃると、まず本を机の上に置き、粛然としてお祈りをされてから講義を始められるという風でした」。

 やがて、藤村は教え子の女生徒の一人に恋をします。彼と同じ一番町教会に来ていた22歳の女子でした。既に親の決めた婚約者がいました。若い藤村は勝手にこの女子に恋をし、教え子への道ならぬ恋という「恋の苦悩」をした挙句、学校に辞表を出して、関西への漂泊の旅に出てしまいました。

 学生の頃に明治20年代の青春のことを少し勉強したと書きましたが、藤村がその漂泊の旅で滞在した宿に偶然にも泊まることになろうとは思いませんでした。

  (藤村が滞在した部屋)

 21歳の藤村青年は、いわば恋に恋したのでしょう。しかし、そういうもやもやとした苦しい青春の感情が彼の中で次第に熟していったとき、短歌でもなく、俳句でもなく、まして漢詩でもない、新しい日本の詩(poem)が出来上がっていったのです。

      ★ 

〇 いかんとも しがたく春を 惜しむなり (さいたま市/池田雅夫さん)

   桜も終わり、新芽が萌え出て、季節は風薫る初夏に入っていきます。

 同じように、青春にも終わりがやってきます。

 国木田独歩も、島崎藤村も、正宗白鳥も、現実にないものにあこがれる浪漫的な心情を脱皮し、次第に事と物とをリアルに見る自然主義の作家へと成長していきました。

 それにしても、日本の春と秋。過ごしやすく、かつ、美しい。しかし、良い季節はたちまちに過ぎていってしまいます。

 (続く)

 

 

 

 

 

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