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ドナウ川の白い雲

国内旅行しながら勉強したこと、ヨーロッパの旅の思い出、読んだ本のこと、日々の所感など。

坂上田村麻呂の志波(シワ)城柵を見学する… 陸奥の国・岩手県平泉と盛岡の旅(6)

2025年04月08日 | 国内旅行…陸奥の国紀行

  (志波城柵)

 旅に出る前、どこを見学するかあれこれ調べた。そういうことも、旅の楽しみの一つである。

 そのとき、高校の日本史で覚えた征夷大将軍 坂上田村麻呂 …… 桓武天皇の命で陸奥国の北方まで遠征したあの坂上田村麻呂が築いた古代城柵が復元されていると知った。盛岡市の西の郊外に「志波(シワ)城古代公園」として整備が進められているという。

 陸奥国の政庁は現在の仙台市の北、多賀城に置かれていた。それより奥にはあちこちに城柵が築れかたが、最も北方に築かれた城柵が志波(シワ)の城柵である。

 「柵」というと、私の頭に浮かぶイメージはアメリカ映画の西部劇に登場する、丸太で周囲を囲った騎兵隊の駐屯地。しかし、それより千年も古い古代日本の城柵はどういうものだったのだろう?? よし、行ってみようと思った。

 日程は、旅の4日目の午前に入れた。

 「志波城古代公園」への行き方も調べた。しかし、路線バスを使っても、最寄りの停車場から随分歩く。歩くのはよいとしても、人通りの少ない所で道に迷ったら途方に暮れる。盛岡駅から車で10~15分とあったので、タクシーで行くことにした。

      ★

※ 以下、志波城に関して、ちくま新書『古代史講義』、同『古代史講義[戦乱編]』、小学館『日本の歴史二 ─ 日本の原像』、同『日本の歴史三 ─ 律令国家と万葉びと』を参考にした。

 征夷の「夷」は「蝦夷(エミシ)」のことである。昔、高校で勉強した日本史では、征夷は平安京遷都とともに桓武天皇の業績である。しかし、現代の歴史学では、西暦774年(光仁天皇)に始まる中央政府と「蝦夷」との「38年戦争」の後半に桓武天皇は登場し、嵯峨天皇のときに終了する。桓武天皇による征夷も、3回目の坂上田村麻呂によってやっと成し遂げられた。

 なぜ征夷が困難を極めたかというと、私の理解したところでは理由は2つある。関東や北陸から万を超える兵を動員し、2~3年をかけて準備したが、兵站が難しかった。1万人の兵士を1日前進させれば、1万人分の食料を運ばねばならない。奥へ奥へと入って行けば、兵站の輸送は困難を極めた。二つ目は、情報不足。地理・地形に不案内で、大自然の中に息づく敵の動きが分からない。敵の騎影を見て北上川を遡上していくと、突然、山陰から急襲され、味方の軍勢は大混乱に陥ってしまう。

 天皇は使者を派遣し檄を飛ばすが、結局、どの将軍もほとんど成果を挙げずに帰ってきた。天皇は帰京した将軍に怒りをぶつけるが、詳しい状況報告を聴くと、… ねぎらいの一言も付け加えざるを得ない。確かに難しいのだ。

 桓武になって、1度目の大遠征があり、2度目の大遠征のときには、若い頃からそば近くに仕えさせてその有能さを認めていた坂上田村麻呂を副将の一人に抜擢し、3回目は彼を大将軍に任命して、801年の大遠征で遂に奥六郡を制圧した。

 それは、おそらく後世の関ヶ原の戦いや大阪城炎上のような、双方、敵が明白な戦いがあり、激戦の末に勝利したというのとは少し状況が違う戦いだったのではないだろうか。

 遠い昔、大和が初めて蝦夷の地に東征したことがある。東征を命じられたのは、あの伝説上の英雄ヤマトタケルだった。事実かどうかは別にして、『古事記』には次のように記述されている。「そこ(常陸国)より(陸奥国へ)入りいでまし、悉く荒(アラ)ぶる蝦夷どもを言向(コトム)け、また、山河の荒ぶる神たちを平らげ和(ヤハ)して、還(カヘ)り上りいでましし」。

 坂上田村麻呂は、多分、非常に有能な人で、この遠征が、例えば豊臣家を滅亡させれば終わる、というような戦いでないことを理解していた。そこには人々が住み、暮らしがある。そして、このところ、ずっと反抗が続いている。であれば、武器を交える戦いも必要だろうが、ヤマトタケルがやったような「言向け」や「平らげ和して」ということも、より以上に大切だと心得て、事に当たったのではないだろうか。

 陸奥国が狭義の意味で日本国に統一されるのは、日本の他の全ての地域も同様であるが、明治維新以後である。

 翌802年、桓武天皇は田村麻呂を再び派遣して、衣川の北に胆沢(イザワ)城柵を築かせた。のち、鎮守府が置かれることになる。

 さらに803年、陸奥国最北端の城柵である志波城柵を築かせる。「東夷」ではなく、「北狄(ホクテキ)」に対する城柵であったとされる。現在の盛岡市西郊に位置し、奥羽山脈から東流して北上川に注ぐ雫石川の右岸上に設けられた。

       ★

 タクシーの運転手に「ここです」と言われて、車を降りた。

 広々とした空間で、ちょっととまどった。空は晴れ、人けはない。向こうに長い築地塀があり、その中央に2階建ての門があった。とにかくそちらへ向けて歩いた。 

 

    (志波城柵跡)

 志波城柵は、丸太を打ち込んで囲った砦ではない。840m四方の築地塀で外郭を囲っている。

 (外郭を巡る大溝)

 外郭の築地塀の約45m外側に、大溝と土塁がある。外郭の築地塀を囲む大溝の長さは930m四方。志波城柵は鎮守府の置かれた胆沢城柵を上回り、陸奥国の政庁が置かれた多賀城に次ぐ規模だった。

    (外郭南門と築地塀)

 近づくと、築地は結構高く、人が簡単に乗り越えられる塀ではない。柵の正門の南門も大きい。2階部分は弓矢を持った兵士たちを配置するのに十分な空間である。

 (築地塀の上の櫓)

 築地塀には、60m間隔で櫓が設置されている。何人かの兵士を配置し、上から矢を放つことができる。

 岩手山がくっきりと見えた。

 要するに、これは、平城京、平安京、さらには中国の都城(都市)の小型版なのだ。

  (南大路)

 南外郭門を入ると、幅18mの南大路が政庁の南門へ向って、1町(108m)の長さで延びている。

 大路の周辺には、兵舎、工房などの竪穴建物群が1200~2000棟もあったそうだ。ということは、相当の数の人々が暮らしていたことになる。

 南大路の先にも、築地塀で囲まれた門があった。ここが政庁である。

 (政庁南門)

 この政庁の周囲には、かつて役所の建物群が建っていた。役所街である。

 (説明版/政庁図)

 政庁からも岩手山がよく見える。啄木のふるさとの山は、古代人も見ていたのだ。

  (政庁正殿跡と岩手山)

 築地塀の四角い区画には、東、西、南に門が復元されている。天子は南面するから、正門はいつも南門である。郭の北側から、川(運河)を引き込んでいた。物資の運搬はこの川(運河)を使って行われた。

 150m四方を築地塀で区画された政庁内部には、正殿、脇殿など14棟の掘建柱の建物があった。

 政庁は政務や儀礼の空間である。「城」とか「柵」というと軍事的な区画のイメージだが、平時においては行政施設であり、周辺の蝦夷との交流の場となり、饗宴や交易も行われた。

 だが、この志波城柵は、建置されてわずか8年で移転の議が起こった。雫石川の氾濫によって大きな洪水をこうむったことが考古学的に確認されている。

 移転先は、志波城柵から南に約10㎞で、北上川から約1.5㎞の地点の徳丹城。志波城柵を解体して運んだ資材で建設された。 

 中央でも、桓武天皇は、初め長岡京に都を移そうとし、水害のためその地を放棄して平安京に移転した。宮都も城柵も、古代の国家施設はその造営に当たって水運を活用した。そのため、施設内部に河川を引き込む。だが、それは水害という危険因子を同時に抱え込むことでもある。長岡京は平安京への、志波城は徳丹城への移転が、造営計画の段階からすでに想定されていたとする説もある。

 移転は、太柱を引き抜き、板張りを解体して、水運で運び、組み立て直すのだから、山から樹木を伐採して運び、柱や板に加工しなければならない当初の工事と比べると、かなり簡単だった。

 ちくま新書『古代史講義』に、「桓武朝頃には国際情勢の変化もあり、日本も以前ほど背伸びをする必要もなくなっていた。そのため、桓武以後は国家レベルの都の造営や征討は行われず、桓武はそれを実施した最後の天皇となる。やがて平安京は千年の都となり、蝦夷も811年の陸奥国レベルの征討後は比較的穏便に同化されていく」とある。

 超大国・唐の膨張は、日本にとって脅威であった。それを思い知らされたのが、663年の白村江における大敗である。百済が滅ぼされ、次に高句麗が滅ぼされた。さらに新羅が攻撃される。いずれ、日本にやってくる。飛鳥、奈良の時代は、唐をおそれ、唐に備え、唐に学んで、国づくりが進められた時代である。だが、唐の勢いが止まり衰退へ向かうと、平安遷都後は王朝文化を花咲かせる時代になる。

 歴史の本を読むのと、実際に目の前に復元された姿を見るのとでは、印象度が全く違う。面白かった。ここで、日々、こつこつと調査研究に携わっておられる研究員の方々に感謝したい。

 事務所でタクシー会社の電話番号を聞いたら、「呼んであげます。そこのベンチで休んでいてください」と親切に言われた。

 

 

 

 

 

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