ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

「魔法の解けて」 (2024年の春)…読売俳壇・歌壇から

2024年07月23日 | 随想…俳句と短歌

   (早春の山陰)

 読売俳壇・読売歌壇に、2024年の春、掲載された句や歌の中から、心ひかれた作品を選びました。

 春の季節は、句も歌も明るく朗らかで、楽しくにぎわっているように感じました。

 ただし、今は、もう、夏の盛りです。皆様、ご自愛くださいますように。

   ★   ★   ★

<希望の春>

〇 制服の魔法の解けて卒業す(宇陀市/泉尾武則さん)

<正木ゆう子先生評>「高校からの卒業。こちらも女子を想像。今時の制服はお洒落で、実に可憐である。守られた魔法の日々が終わり、人生へと踏み出す春」。

 「卒業」は春の季語。春は、別れがあり、新しい出会いもあり、希望も不安もあって、心ときめく季節です。

 確かに!! ── 制服は魔法ですね。

  (ディズニーランド/ピーターパン)

 あなたは一人立ちするにはまだ少し早い。魔法をかけます。あなたはお姫様です。時が来るまでは、夢を見ていらっしゃい。

 …… さあ、あなた!! 春になりましたよ。その時が来たのです。魔法を解きますからね。元気に、でも、心を引き締めて、旅立って行くのですよ。

      ★

〇 春の風遠くの君へ届く頃 (東京都/関根ともみさん) 

<矢島渚男先生評>「なんと青春性豊かな句だろう。俳句がこうした抒情を失って久しい。この句には季節の喜びが豊かにある。暖かい春がだんだんに北上して行き、思い人へ届く。『私の思いも届けてください』」。

  (5月の陸奥湾)

 矢島先生の「俳句の抒情」という言葉に心ひかれました。

      ★ 

〇 灯台のような学校作らむと離島に赴く新任教師(岩出市/西岡さちよさん)

 なんと爽やかな志でしょう👏💕。

  (大王崎灯台)

 「先生」自身が灯台ではないと思います。家庭的に、或いは社会的に、いろんな環境にある子どもたち。でも、誰もが、学校は面白いよ、と感じている。そんな学校です。

 なぜ?? ── そこにはちゃんとした秩序があり、しかもみなが前を向いて頑張っていて、しかも、お互いを守りあっていると感じられるから。

 先生は、その中心ではありません。学級委員長も副委員長も、各委員も、班長さんや副班長さんたちも、みんな頑張っている。フォロワーたちも、一人一人が存在感を出している。主人公は子どもたち自身。一人一人がいつの間にか、誰でもリーダーになれるように成長してきている。そうなるよう、縁の下で仕組んできたのが先生だ。子どもたちも、実はそのことはわかっていて、先生を尊敬している。

  ★   ★   ★

<旅立ちの春>

〇 あてどなく流れゆく先春の雲(浜松市/久野茂樹さん)

<矢島渚男先生評>「今は旅行に行くときには綿密な予定を立てるが、かつては『あてど』ない旅もあった。そんな旅がしたいもの。いい句だ」。

 矢島先生もロマンティストです。

 (フェリーに乗って)

      ★

〇 土佐は山土佐は海なり春の旅(岡崎市/加藤幸男さん)

 若いころ、田宮虎彦の「足摺岬」を読んで、藪椿の咲く小道をたどり、足摺岬に立ちました。

 また、その後、悠々たる太平洋を見たいと思って、烈風が吹く室戸岬にも立ちました。

 やがて四万十川や仁淀川の清流が有名になりました。

 山から海へと、両方を訪ねてこそ、旅らしい旅ですね。

      ★

〇 クロッカスもうじき咲くか子の部屋に「地球のあるき方」置いてあり (船橋市/矢島佳奈さん)

<俵万智先生評>「直接の関係はないのだが、取り合わせの妙で、クロッカスと子どもの成長が重なって感じられる。部屋を出て海外へ旅する日も遠くなさそうだ」。

 クロッカスについて、ちょっと調べてみました。

 早春にいち早く花を咲かせる。「スプリングエフェメラル(春の妖精)」というそうです。他にカタクリや福寿草なども。花言葉は「青春の喜び」。

 沢木耕太郎『旅する力』から

 「もしあなたが旅をしようかどうしようかと迷っているとすれば、わたしはたぶんこう言うでしょう。

 『恐れずに』

 それと同時にこう付け加えるはずです。

 『しかし、気を付けて』」

      ★

〇 差出人不明の風が届いたら春だと思えスニーカー履く(大和郡山市/大津穂波さん)

 「スニーカー履く」が、旅に出ることを含意しているのかどうかはわかりませんが ……。

 私はかつてポルトガルの、言い換えればユーラシア大陸の最西南端のサグレス岬へ行きました。その旅のことは、当ブログの「ポルトガル紀行」(2017年投稿)に書いています。司馬遼太郎のエンリケ王子を追う旅(『街道をゆく23 南蛮のみち2』)を追体験する旅でしたが、また、沢木耕太郎の『深夜特急』に心ひかれたことも強い動機になっていました。しかし、若くはない私は、路線バスを乗り継いでユーラシア大陸をあてどなく旅した沢木さんのようにはいきません。行程表を作り、見通しをもって出発する必要があります。ところが、リスボンやポルトのことは『地球の歩き方』にも詳しく書いてありますが、サグレス岬については数行しか触れられていません。

 それで、ネットの中に個人の紀行文を探しました。実際に行った人の生きた情報がほしかったのです。すると、意外にも、観光地でも何でもないこの岬へ、何人もの日本の若者たちが、一人旅で、遥々と旅をしていることを知りました。ポルトガルの若者よりも、日本の若者の方が行っているのかもしれないと思いました。そこは、『深夜特急』の沢木耕太郎が1年もバスを乗り継ぐ旅を続けて、とうとうこの最果ての岬に立ち、「これで終わりにしようかな」と思った所なのです。

 『深夜特急』を読んだ若者たちは、自分もバックパーカーの旅に出ることを夢見、そして、旅に出ます。「青年よ、荒野を目指せ」。だが、誰にも諸事情があるから、沢木さんのように1年も旅を続けることはなかなかできません。それで、せめて、主人公が「ここで終わりにしようかな」と思った、ユーラシア大陸の果てには、行ってみたいと思ったのではないでしょうか。

 サグレス岬は、そういう日本の若者の青春の岬でもあったのです。そして、その若者たちの中に、一人旅の日本の若い女性たちもいることを知りました。率直に、すごいなと思いました。

 この歌の作者は多分、女性だろうと思って、書きました。

  (サグレス岬への道)

 サグレス岬にはエンリケ王子がつくったという航海学校(要塞)の跡らしい建造物の一部が残り、そこまでの一本道をひたすら歩きました。ユーラシア大陸の果ては荒涼として、ただ暑かった。沢木さんも、日本の若者たちも、みんなこの道を歩いたのだと思って、年甲斐もなく頑張りました。

 (サグレス岬)

 サグレス岬もまた荒涼としていて、その先は茫々と大西洋が広がっていました。毎日、この海を見て、その果てを極めたいと思っていたエンリケ航海王子のことを思いました。

  ★   ★   ★

<里の春>

〇 氏神の定めしところ蕗(フキ)の薹(トウ) (江別市/北沢多喜雄さん)

 (蕗の薹)

 春は、まず里から。蕗の薹は、クロッカス同様に、いち早く春を告げる「春の妖精」です。

 今は、氏神も、鎮守の神や、地主神や、産土(ウブスナ)の神と同じ神様として認識されています。八百万(ヤオヨロズ)にして一、一にして八百万。所詮、人間が付けた名ですから。

<高野ムツオ先生評>「氏神はここでは土地の守り神であろう。蕗の薹はその使いで、神の思し召しに従って定められたところに顔を出すとの土俗的発想が魅力」。

      ★

〇 初蝶を見る野地蔵に成り済まし(高槻市/村松譲さん)

 初蝶が逃げていかないように、動かない。「われは野地蔵である。この手にとまれ。われの頭にとまれ」。 

 (信濃路にて)

       ★

〇 五歳には五歳の地図のあり春は土手で綿毛を吹いてからゆく(平塚市/小林真希子さん)

 子どもには子どものルーティンがあるのです。

   ★   ★   ★

<物語めく春>

〇 「そう、だね」とフリーレンめく応(イラ)へして過去も未来も遥けき人よ(可児市/阿坂れいさん)

 黒瀬河瀾先生評>「アニメ『葬送のフリーレン』の主人公は、永い時を生き続けるエルフ。その彼女と似た雰囲気の知人がいるのだろう。アニメキャラが現世の人に乗り移ったかのような…」。

 「過去も未来も遥けき人よ」── カッコいい人ですね。

 フリーレンは二千年も生きるエルフ。魑魅魍魎が活動した時代の中欧・北欧??を旅している。

 フリーレンは人ではないから、非情。だが、有情の人間に心ひかれ、行く先々で人間と人間の町を守って、残虐非道な妖怪と戦います。

 唐突ですが、助動詞「けり」を連想しました。「けり」は詠嘆の助動詞ですが、特に、初めて気づいた驚きや感慨を表すとされます。「春は来にけり」、春が来ていたことに気づいた驚き、感慨。「気づき」の「けり」です。

 「そう、だね」というフリーレンの言葉には、このようなときには、人間はこのように感じるのだと気づき、人間の心に共感したときの気持ちが込められているのかもしれない。この歌を繰り返し読んでいて、ふとそう思いました。

 茫洋としていて、ちょっと優しい。ハードボイルドの味があります。

  (中欧の町)

       ★

〇 朧夜に見知らぬ婦人訪ね来る子等の掘りにし筍返しに(福岡市/こよりんさん)

 <栗木京子先生評>「作者の所有する竹林から無断で筍(タケノコ)を掘った子たちがいたのであろう。気付いて返しに来た女性。朧夜(オボロヨ)に現れたことが神秘的で、物語の世界に誘われるような場面である」。

 初句の「朧夜に」が効いています。続く「見知らぬ婦人」で、すいっと引き込まれました。人ではないと思いますよ。

   (竹林)

       ★

〇 今日散ると決めたんですと言うように万代橋に桜がふぶく (船橋市/山本三千代さん)

    黒瀬河瀾先生評>「名前からして立派そうな橋に桜花が降り注ぐ春の景。今日という短い時間を舞い散る桜と、万代という長き時を感じさせる名前の橋の取り合わせが、実に鮮やかです」。

   

 黒瀬先生の評で、よくわかりました。

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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冬はつとめて (2023年の晩秋から冬へ) … 読売俳壇・歌壇から

2024年03月30日 | 随想…俳句と短歌

    いつもの読売俳壇、歌壇からです。2023年の晩秋から24年の2月ごろにかけて、讀売紙上に掲載された作品からです。

 読売俳壇も、読売歌壇も、それぞれ4人ずつの選者の先生がいて、投稿されてきた作品から、お一人が10作品を選ばれます。そして、その中の特に優れた3作品には[評]をお書きになります。

 今回、私がとりあげた作品で、先生方の[評]が付いていたのは、なんと2作品だけでした。

 私には作品として優れているかどうかを判断する力量はありません。私が取り上げたのは、私の感性に響いたかどうか、だけなのです。

 作品が詠んだ対象(例えば旅)を私も好きとか、対象(例えば子ども)のとらえ方が面白いとか、作品の情感にきゅんとするとか ── まあ、そういう感じです。私の個人的な感性が基準なのです。

 感性は、人それぞれです。

 しかし、こうして、句作、作歌に努力している方々の作品に触れると、私にも作品への共感の心が生まれ、そこに新しい発見の喜びがあり、影響を受けて、昨日までとは少し違う新しい感性が生まれてくるように思います。生きるということは、そういうことだと思います。

    ★   ★   ★

<俳壇から>

〇 バレーリーナ 始めましたと 落葉かな (塩尻市/神戸千寛さん)

 秋も深まって、ひらひらと落ちてくる落ち葉たち。擬人法が可愛いですね。

 (フランスのランスの公園で)

 ヨーロッパの秋に紅葉を見ることは少なく、ほとんど黄葉です。でも、それはそれでロマンチックです。

      ★

〇 湖の 晴れて義仲寺 時雨けり (八王子市/徳永松雄さん)

   (義仲寺の門)

 私も、2022年3月に訪ねました。2度目なのですが、昔、車で湖を巡ったときにちょっと立ち寄った1回目のことは、あまり覚えていません。

 受付で、義仲寺(ギチュウジ)の説明書をいただきました。それによると、……

 古くは、琵琶湖に面して建っていたそうです。

 1180年、平家討伐の兵を信濃に挙げた木曽義仲は、北陸路で平氏の大軍を破って、京都に入ります。しかし、翌年、鎌倉に発した源範頼、義経軍と戦い、この地で討ち死にしました。

 それから年月を経て、美しい尼僧が義仲の塚のほとりに草庵を結び、日々供養して過ごしたと伝えられています。

 尼の没後、彼女の庵は、「無名庵」或いは「巴寺」と言われ、また、「木曽塚」「木曽寺」「義仲寺」と呼ばれるようになりました。

 戦国の頃にはすっかり荒廃していましたが、近江国守佐々木氏が「源氏の御将軍の墳墓を荒れるにまかすはしのびない」と、寺を一度、再建したそうです。

 ずっと後世のものですが、寺の庭には、木曽義仲の墓石が整えられています。

  (木曽義仲の墓)

 江戸時代、元禄期、松尾芭蕉はこの寺を(木曽義仲を)愛し、旅から帰るとこの寺を訪ね、再建された無名庵に滞在しました。

 「行春をあふみの人とおしみける」(芭蕉)。

 今、庭には、数多くの句碑が立っていて、さながら芭蕉翁を慕う俳人たちの聖地のよう。

 その一つ。芭蕉の弟子の一人で、伊勢の俳人又玄(ユウゲン)は、無名庵に滞在中の芭蕉を訪ね、共に泊まりました。そのときの作、

 「木曽殿と背中合せの寒さかな」(又玄)。

 1694年、芭蕉は旅の途次、大阪で逝去しますが、遺言により、去来、其角ら門人たちは遺骸を川舟に乗せて淀川を遡り、琵琶湖の畔の義仲寺に運んで、葬儀を挙げ、埋葬しました。

 (芭蕉翁の墓)

 翁堂には、芭蕉や門人の姿を写した木彫が祀られています。

 また、小さな巴塚もありました。

  (翁堂)

 明治・大正を経て、戦前、寺は再び荒廃していましたが、戦後になって再建され、また、境内全域が国の史跡に指定されました。

 さて、冒頭の「湖の 晴れて義仲寺 時雨けり」の句。

 義仲寺は時雨ていたが、参詣を終えて湖に出てみると、琵琶湖の湖面は晴れて明るかったということでしょうか。

琵琶湖

 (琵琶湖と比良の山並み)

 歳時記に、「時雨」は、「山から山へあたかも夕立のように移動しながら降ったり、対岸は日が当たっているくせに、こちら側が降っていたり、なかなかに趣が深い」とあります。

 また、俳句を作る人なら常識なのでしょうが、芭蕉翁の忌日を「時雨忌」と言うそうで、現在は毎年11月の第2土曜日に、このお寺で法要が営まれるそうです。そういうことが、この句には含まれているのでしょう。

      ★  

〇 冬はつとめて 明けの明星 消えるまで (さいたま市/関根博さん)

正木ゆう子先生評)「清少納言の『冬は早朝が良い』という言に、若い頃は『寒いのに』と思ったものだが、今は深く肯(ウナヅ)く。冬の早朝ほど清々しく美しいものはない。金星が太陽の光に消えるまで」。

 今、『光る君へ』が放送されています。平安時代をドラマに映像化するのはムリだろうと危ぶんでいましたが、宮中や貴族の邸宅も、登場人物の衣装、或いは小道具などもうまく作られていて、さすがはNHKと感心しました。これは民放ではムリですね。

 それに、あれこれとデフォルメされてはいますが、人間ドラマとしてもなかなか面白い。

 私は歴史上の人物として、藤原道長にも紫式部にも興味があって、おぼろながらも私なりに人物の輪郭があります。その私のイメージを壊さなければ、歴史的にはわからないことがいっぱいあるので(紫式部など、名さえわからない)、フィクション(虚構)で描いてもらって結構と思っていました。ドラマでは、道長も、紫式部も、私のイメージする人物像なので、安心して、楽しく見ています。

 『蜻蛉日記』を書いた道綱の母も、紫式部のライバル、『枕草子』の清少納言も登場します。 

 清少納言は漢詩文の知識をひけらかしたり、男性貴族をおちょくったりするところがありますが、それでも、彼女の文章のきりっとした美しさは素晴らしく、日本語の最高峰の一つだと私は思います。

 「冬はつとめて。雪の降りたるはいふべきにはあらず、…… いと寒きに、火などいそぎおこして、炭もてわたるもいとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火もしろき灰がちになりてわろし」。 

 西暦1000年頃の世界に、このような繊細で美しい感性は、他にありません。

 話は変わりますが、正木ゆう子先生が読売文学賞を受賞されました。そのことを伝える讀賣新聞のコーナーに紹介されていた正木先生の句。

 兄の死の のちの嫂(アニヨメ) すみれ草

 説明の中に、正木先生に俳句を勧めてくれたお兄さんは49歳の若さで亡くなったとありました。「すみれ草」が愛おしい。

   ★   ★   ★

<歌壇から>

〇 ローカル線に 遍路姿の 異国人 みずほの国の 秋を見つめて (前橋市/西村晃さん)

    (雁)

 日本人以上に、この列島の歴史や、文化、伝統を深く理解し、愛してくれる異国人がいます。

 私たちも異国を旅するとき、その国について最低限の勉強をし、その歴史や文化に敬意をもって、見学したいものです。

      ★

〇 老いるとは 忙しき日々よ 為(ナ)さねばの 半分もなせず 夕陽は沈む (大津市/吉川万代さん)

 本当に、私も日々がそのとおりです。

 でも、生きるということは、前を向いていること。興味・関心があり、何かに面白さを感じて、日々、生きることが一番だと思います。

      ★

〇 まっすぐな 道もジグザク 帰りゆく シジミチョウの ようなランドセル (大和郡山市/大津穂波さん)

 「ランドセル」でとらえた子どもの小さな姿が面白いです。「シジミチョウ」の喩えも素晴らしい。

      ★

〇 初しぐれ ななめに叩く 畦道を 二人っきりの 登校班行く (浜松市/久野茂樹さん)

 畦道を行く「二人っきりの登校班」がいいですね。ちょっと安藤広重の浮世絵が浮かんできました。

      ★

〇 本名で 最期を迎ふ そのことが 逃亡の果ての 願ひなりけり (伊勢原市/佐藤治代さん)

小池光先生評) 「五十年近く逃亡していた連続爆破事件の犯人を名乗る男。本名を告げて、その数日後に病死した。最期に本名を明かしたことはいろいろなことを考えさせるおもい歌」。

 名無しの「我」ではなく、最期は「なにがしの誰べえ」という名をもつ人として、死んでいきたかったのでしょう。

 遠い日、まだ若くて、自分が思っているよりも遥かに他の影響を受けやすかった。にもかかわらず、観念の中で、自我は国を超え、世界に飛翔すると考えていた。

 長い歳月を経て、年を取り、死を前にして、祖先から継承された姓と、親が付けてくれた名をもつ「我」に戻った。

 遠くへ飛翔するのも我。しかし、親が付けてくれた名をもつのも我。

 若者よ、ゆっくりと歩け。いたずらに先走らぬように。

  (大糸線から安曇野)

 

 

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「私の空よ」と (2023夏から秋) … 読売俳壇・歌壇から

2023年12月23日 | 随想…俳句と短歌

 読売俳壇・歌壇からです。今年の夏の終わりから秋の終わりにかけて、讀賣紙上に掲載された作品からです。

      ★

長岡の 花火の乱舞 その合間 「私の空よ」と 月が顔出す (いずみ市/安藤敦子さん)

 花火は夏の風物詩。わが町でも、ささやかながら花火が打ち上げられます。

 しかし、「長岡の花火」は、信濃川の両岸を観覧席とする日本屈指の花火大会だそうです。

 毎年8月2、3日に開催されるようですが、暦を見ると、今年の8月2日は満月でした。…… なるほど‼

  「『私の空よ』と月が顔出す」が、いいですね

 (花火)

       ★ 

ネーミング 「100歳大学」に 魅せられて 米寿の友と 女学生になる (君津市/菅又久子さん)

 米寿には少し遠いですが、私もカルチャーセンターに通って学生をしています。私のもっぱらの関心は日本の古代史(「古事記」や『日本書紀」の時代)とヨーロッパの中世史。そういう時代の方が、茫漠としていて、ロマンがあって、私には面白い。

 コロナの初めの頃は休講になったりしましたが、やがて徐々にオンラインシステムが構築・整備され、今では全国の講座が選り取り見取りで受講できるようになりました。わが家のパソコンで、東京大学の若手の先生のヨーロッパ中世史を拝聴できるのですから素晴らしい。

 それでも、やっぱり出かける方が楽しい。勉強が終わった後、中之島や御堂筋をウォーキングするのが好きです。心身の両方が活性化されます。

 (カフェでひと休み)

      ★

何といふ 事もなけれど 先をゆく 僧の頭に どんぐりの落つ (東大阪市/山本隆さん)

 クスッ

 お坊さんは気が付いたのでしょうか?? 多分、気付かなかったのでしょう??

  「何といふ事もなけれど」がいい

      ★ 

忘れ潮に 小さき命 秋日和 (枚方市/衛藤聡一さん)

 矢島渚男先生評「干潮どきの岩礁の水溜まりには、小魚や藤壺、海藻をはじめ、沢山の命がひしめいている。それを慈しむように眺めて時間を忘れた」。

 秋の日射しの中、ここにも小宇宙があります。

 「忘れ潮」という言葉を初めて知りました。このような言葉を作った古人の言葉のセンスに感心します。日本語は豊かです。

      ★

山の分 少し残して 栗拾ひ (長野県/村田実さん)

 矢島渚男先生評)「『山の分』がいい。鹿や栗鼠(リス)などの具体性よりも漠然がよい。栗も『山』のために働いているのだ。山の栗は柴栗(シバグリ)であろう」。

    今回は、矢島渚男先生が選ばれた作品が多くなりました。

 「山の分」という言葉から日本の山里がイメージされ、矢島先生の解説に尽きると思いました。

 歳時記によると、山栗、柴栗と呼ばれる野生の栗の実は小粒なのだそうです。

      ★

木簡に 鎮兵の文字 彼岸花 (国分寺市/野々村澄夫さん)

  (彼岸花)

 矢島渚男先生評「『鎮兵』と書かれた木簡が出土した。木片に書かれた貴重な記録。奈良・平安初期の鎮守府の兵で家族を同伴できた」。

 改めて新聞記事を探して読みました。

 木簡は福島市の西久保遺跡で発掘。その後、解読作業が進められ、この9月に「鎮兵」の文字が判明して発表されたようです。

 以下は、その記者発表の記事の受け売りです。

 都を警護するために派遣された兵が衛士(エジ)。大宰府の警護に当たったのが防人。そして、陸奥国や出羽国を防備するために派遣されたのが「鎮兵」だそうです。

 各国や各郡は、任地に派遣されていく途中の兵士の病や死に責任がありました。食物や寝る場所を含め、当時の旅は大変だったでしょうから。

 今回の木簡の内容は、下野国で徴兵された兵が出羽国へ行く途中、この地で死亡。当地は使者を立てて出羽国へその経緯を報告しました。木簡は出羽国からの返答で、当地に落ち度はなかった旨を伝えてきた文書だったそうです。

 発掘現場に咲く赤い彼岸花が、遠い歴史と現代とを結んでいるようで印象的です。

 かねてから、機会があれば、鎮守府のあった多賀城を訪ねてみたいと思っています。仙台市の北東にあります。

      ★

深秋や 人の願ひに 立つ地蔵 (知多市/田上義則さん)

 矢島渚男先生評「村々に立つ地蔵さん。あれは村人の素朴な願いを受けとめるために作られてきたものだという。枕草子などから平安時代には普及していたようだ。安産、健康、豊作などすべての願い事を受け入れてくださる有難い菩薩様だった」。

    (村の地蔵)

  (合格地蔵)

 秋深く、村落の道端に立つ地蔵尊。いや、現代でも、石仏は大都会の街中にもあります。そして、誰かが、毎日のようにお世話をして、日本の季節と風土に溶けこんでいます。

 日本人の信仰は御利益主義だと言う人もいます。

 しかし、日本の神や仏は、人の悲しみや願いにそっと寄り添い、ほんの少し力を添えてくれる存在です。 

      ★

異界へと 続く縁側 秋の暮 (甲府市/村田一広さん)

 正木ゆう子先生評)「昔はごく普通に在った縁側も、閉鎖的な家ばかりになった今思えば、どこか非日常的。夜ともなれば、縁側は闇へとつながる入り口であった。子供たちの世界観にも影響したか」。

 (縁側のある古風な家)

 写真は龍神温泉の「上御殿」。紀州の殿様の湯治の常宿でした。

      ★

冬近し 何か忘れて 来たような (神奈川県/中村昌男さん)

                      

  (夕景)

 人は不完全な存在だから、いつも何か心残りを残しながら、今日を生きています。

 

  ★   ★   ★

 今年はこれをもって終わりとします。

 皆様、どうか良い年をお迎えください。そして、初詣では、迎える年が良い一年になるよう、また、世界が平和になるよう、みんなで祈りましょう。

 来年も

      ★

 追伸。前回、このブログに紹介した画家の杉浦孝始さんから、何と!! わが家に水彩画が届きました。わざわざ新幹線に乗って絵画展に来てくれたお礼にと、お手紙が添えてありました。

 1年の終わりに良いことがありました

 

   (杉浦孝始さんの絵)

 

 

 

 

 

 

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季節の風を感じて ( 2023春から夏へ) … 読売俳壇・歌壇から

2023年12月03日 | 随想…俳句と短歌

 (杉浦孝治さんの絵画展から)

<閑話 … 「季節の風を感じて~杉浦孝始 絵画展」に行く>

 先日、新幹線に乗って豊橋へ、「~季節の風を感じて~杉浦孝始絵画展(第24回)」に行ってきました。

 杉浦孝始さんは静岡県にお住いの画家です。

 Face bookで、偶然に、白雪を冠したアルプスの山なみとその下に広がる安曇野を描いた絵を見て、その大きな図柄や精緻な描写に感動し、この方の絵を直接に見たいとかねてから思っていました。今回、思い切って、豊橋の会場まで。

 会場では杉浦さんとお話しする機会を得ましたが、絵から受ける感じのとおり、穏やかで朴訥なお人柄の奥にロマンを感じました。

  (レストラン「ボン・ファン」の会場)

 会場は豊橋で有名なフレンチレストラン。この店のオーナーから声を掛けられ、レストランのパーティー用の一室を提供いただいたそうです。このように杉浦ファンはあちこちにいるのでしょう。シックな会場に安曇野や、故郷の浜名湖や新城市の風景画が掛けられていました。

 帰りの新幹線の時間が気になって一番軽いランチをいただきましたが、「ボン・ファン」のランチは本当に美味しかった。近ければ何度でも行きたいぐらい。

  (「涼風白馬村」) 

 今回出展されていた16点の中で、私の一番のお気に入りは冒頭の絵です。

 杉浦さんの絵は安曇野をはじめとする風景画です。しかし、コロナになってから、信州にも行けなくなったと仰っていました。

 この絵は、アジサイやバラなどの季節の静物の中に、モジリアーニの絵が配されていて、レストランのシックな雰囲気によく似合っていると思いました。これから、こういう絵もどんどん描いていただきたいと、これは1ファンの勝手なお願いです。

  ★   ★   ★ 

 さて、読売俳壇、歌壇から、前回の続きです。今年の春から夏に讀賣紙上に掲載された作品からです。

<夏の句>

〇 風薫る 穂高の町の 美術館 (向井市/福嶋猛さん)

 信州の風薫る季節は空気に透明感があります。

 これは碌山美術館ですね。

 ずいぶん昔のことですが、私が初めて碌山美術館を訪ねた頃、大糸線はまだSL(蒸気機関車)で、客車2両の後ろに貨物車をつないでのどかにコトコトと走っていました。

 夏の終わり、小さな穂高駅に降りると、安曇野は早くも稲穂が頭を垂れて、その向こうに碌山美術館の尖塔が見えました。

  (秋の安曇野)

 1958年に開館したこの小さな美術館は、夭折した安曇野出身の彫刻家・荻原守衛(碌山)の作品や資料を展示しています。美術館の建設に際しては、長野県下の全小中学生を含む約30万人の若者たちが、5円、10円という金額から募金を出し合ったそうです。文字どおり郷土の美術館です。

 チャーチ風の建物は蔦で覆われ、樹木が陰を落とす美術館の前の空き地では、蝉のように真っ黒に日焼けした子供たちが遊んでいました。

  (碌山美術館)

 荻原守衛(碌山)は明治12(1879)年の生まれ。島崎藤村より7歳年下です。穂高の村の農家の三男に生まれましたが、郷土の相馬家に嫁いできた相馬(旧姓は星)良子(黒光)に啓発され、やがて東京に出て美術の勉強を始めます。

 相馬良子(黒光)は明治女学校で島崎藤村先生らの教えを受けた、ハイカラな考えをもつ女性でした。

 上京した守衛は、数え年23歳から足掛け8年、アメリカとフランスの美術学校に学び、帰国後、新宿の角筈にアトリエをもって彫刻の制作活動を始めました。新宿には相馬良子(黒光)が「中村屋」というパン屋を出して成功し、彼女の周りには文学や芸術を志す青年らが出入りしてサロンのようになっていました。明治43(1910)年、守衛はその中村屋にいたとき、突然喀血し、良子らの介護の甲斐なく、2日後に永眠しました。数え年で32歳の若さでした。

 「デスペア」「戸張孤雁像」「爺」「女」など、日本のロダンと言われる彼の作品は碌山美術館で見ることができます。

 昭和50年代になると、日本人もお金持ちになって大観光ブームも起き、大型観光バスが田んぼの中のこの小さな美術館にも立ち寄るようになりました。小さな穂高の駅の周辺も開発されて、家や店が立ち並びました。

 今は、再び、忘れられたような静かな美術館になっています。

 伝説の海の民である安曇氏の穂高神社も近くにあります。

 できたらマイカーではなく、大糸線の各駅停車に揺られて訪ねれば、いっそう趣が感じられます。

      ★

〇 実家売れ 梔子(クチナシ)の花 助手席に(山形県/沼沢さとみさん)

 矢島渚男先生評)「地方の農家だったのだろうか。移住が風潮にもなってようやく買う人が現れて処分した。実家のクチナシの花を乗せて都市の家へ帰る」。

 そのまま空き家として残していたら、固定資産税やら維持費やらで毎年出費がかさみます。「実家売れ」と、ようやく売れたことに少しほっとしています。

 しかし、心にぽっかりと穴があいたような淋しさもあります。売れたのは「実家」なのですから。

 いい人の手に渡り、大切に住み為してくれたら救われるのですが、更地にされたりしたら悲しい。その家の太い柱や梁には、自分の思い出だけでなく、親の一生や、もしかしたら祖父母らの一生もあったのだから。

 建てた人は、子や孫やその次の世代のことに思いを馳せながら、精魂を傾けたことでしょう。

 哀しいことですが、日本は継承していくことがむずかしい社会になってしまいました。

 車の中、ほのかに薫る白いクチナシの花が印象的です。

      ★

〇 余所(ヨソ)行きも 少なくなりぬ 更衣(コロモガエ) (川崎市/多田敬さん)

    宇多喜代子先生評)「かつては余所行きに着替えて出て行くことも多かったが、最近はそれも少なくなった。いささかの淋しさを感じさせる更衣」。

 「更衣(コロモガエ)」は夏の季語。「春の衣服を夏のものに替えること。昔は陰暦4月朔日(注 : 月の最初の日)を更衣の日と定め、その日に袷に替えたものだが、明治以後は一般に随時替えるようになった」(歳時記から)。

 「余所行き」という言葉には、「晴れの日」の装いという語感もあります。

 私も年とともに公の場に出て行くことがなくなり、それはそれで気楽なのですが、そうなると外出するとき誰かの目を気にするようなことも少なくなります。すると、もう「余所行き」と言うよりも、単なる外出着ですね。

       ★

〇 夏帽子 ひとつだけ乗せ 終電車 (宝塚市/武田優子さん)

 ちょっとユーモラスで、印象に残る句です。

               ★ 

〇 森の夏 フランスパンと すれ違う (加須市/萩原康吉さん)

 宇多喜代子先生評)「すれ違ったのはフランスパンを持った人なのだが、その人を省略してパンの方のみを書き留めた句」。

 「森」「夏」「フランスパン」から、軽井沢などの別荘地をイメージしました。ちょっとファンタジックな感じもあって、オシャレな句です。

 私は堀辰雄や詩人の立原道造が好きで、まだ静かだった頃の軽井沢や信濃追分を貸し自転車で文学散歩したことがあります。

 やわらかに薄緑色に芽吹いたカラマツの林と、その間からのぞく浅間山のどっしりした火山の姿が印象的でした。

 

(軽井沢の有島武郎記念館で)

     ★

〇 ヨットゆく 島にぶつかり そうな風 (逗子市/鈴木喜久代さん)

  自分がヨットを操っているのでしょうか。爽快感があります。

 最初、岬などから見た遠景のヨットかなと思いました。目の遠近感の錯覚で、このような景を見ることがあります。

 しかし、風が強調されていますから、やはり自分はヨットの中なのでしょう。

 下の写真はこの句とは関係ないのですが、好きな1枚なので。

 (エーゲ海のロードス島の夕暮れ)

      ★

〇 母といる ごとき法事の 寺涼み (郡山市/寺田英雄さん)

 法事のため、お母様と一緒によく訪ねたお寺なのでしょうか。境内を囲む木陰の風は涼しく、生前の母の存在を感じています。   

  ★   ★   ★

 ここまでは俳句ばかりになってしまいました。少しだけ短歌を。

<短歌から>

〇 南部ふうりん 窓に聴きをり ひとり旅 せし七十路(ナナソジ)の みちのくの風 (枚方市/鍵山奈津江さん)

 七十路のみちのく一人旅。今は、わが家で、旅の記念の南部ふうりんの音を聴いています。

      ★

〇 夏の朝、飯の焚け具合 知らせ来る ぼっちキャンプの 古希の友より (日野市/那須真治さん)

 「七十路」と言い、「古希」と言いますが、今の日本で70歳は高齢とか老人とは言えなくなりました。70歳の多くはまだまだ元気で、旅に出たり、キャンプをしたりもします。旅行社のツアーなど、この年齢もターゲットにしています。

 でも、70歳は、仕事をリタイアして少し年月もたち、かつての知人との交流も少なくなっています。また、子らはとっくに独立していて、孤独なのです。

 まだまだ元気だが、孤独で淋しい。少子高齢化社会には、そういう中高齢者の心もあります。

         ★

〇 じいちゃんの 歯の抜けたるを じっと見て よき歯生えよと 祈る子のあり (青梅市/梅田啓子さん)

  「祈る子のあり」に、孫の存在のうれしさ、いとおしさが表れています。

      ★

孫娘は われに眼鏡を かけさせて 「この本読んで」と 隣に座る (藤沢市/瑞山徳子さん)

 栗木京子先生が「体温の伝わってくる歌である」と評しておられます。幼い孫の体温が伝わってくるのはうれしいですね。

 

 

 

 

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風の峪(タニ) (2023 春の句) … 読売歌壇・俳壇から

2023年11月22日 | 随想…俳句と短歌

   (吉野山の桜)

 讀賣新聞の「読売俳壇」「読売歌壇」に掲載された句や歌の中から、私の心と感性に響いた作品を勝手な感想とともに紹介させていただいています。今回は、今年の前半に紙上に載った作品からです。

  ★   ★   ★

<春の句>

〇 春のカフェ 電車の見える 席が好き(東京都/石田絹子さん)

 (ミニチュアのあるカフェ)

 このカフェが東京ならば、「電車」はJRの山手線や中央線かもしれません。でも、この句から浮かぶ私のイメージは、街路に敷設された線路を走るチンチン電車とかトラムです。

 写真は大阪の阿倍野のカフェの窓辺のカウンター席。

 大きな窓ガラスには、日よけのブラインドが降りていました。その隅っこからでも写真を撮りたいと思ってカメラをいじっていたら、若い女店員さんが下半分を揚げてくれました。ありがとう。ニコニコ笑顔が返ってきました。

 走っているのは、阿倍野から住吉大社や堺の方へ行く私営の阪堺電車。色も型もいろいろで、昭和を思わせるチンチン電車もあれば、ヨーロッパの街中を走っているようなスマートなトラムもあり、見ているだけで楽しい。

 私が学生の頃、東京も都営のチンチン電車が走っていました。大阪の街もそうです。車の走行の邪魔になるというので取っ払われ、その代わりに地下鉄網ができました。でも、ヨーロッパの街角を走る瀟洒なトラムや坂道を上がるチンチン電車を見るにつけ、惜しいことをしたなと思います。日本の狭い道路ではムリなのかも知れませんが、街並みにとけ込んだ風物詩でした。

      ★

〇 この峪(タニ)は 風の道なり 花吹雪(日立市/菊池二三夫さん)

 風に乗って周りの山から無数の桜の花びらが舞い込んでくる峪。「峪」という文字も趣があって、美しいイメージの句です。

 以下は、この句に触発された閑話です。

<吉野川の向こうのこと>

 大和国は大国です。国の形は、縦(南北)に長い長方形。

 その北半分は、周囲を低い山々に囲まれた大和盆地(大和平野ともいう)です。ここは、遥かな古代、日本文明の中心だった時代もありました。

 3世紀の中ごろから、巨大な前方後円墳が次々築かれました。その後、飛鳥文化、白鳳文化が花開き、やがて唐の都をモデルにした藤原京や平城京が築かれました。北から南から盆地の中を流れる清流は全て大和川へ流れ込み、大和川は生駒山系と葛城山系の間の峡谷を抜けて河内国へと流れ、大阪湾から、瀬戸内海を経て、大陸へとつながっていました。500年以上もの間、大和盆地は日本の"まほろば"の地であったと言ってよいでしょう。

 その大和盆地の南辺を区切るのは、東から西へと流れる吉野川です。この川は紀国に入ると、紀ノ川と名を変えます。この川によって、大和国は、北と南に分けられます。

 吉野川より南の地は広大で、面積の上では大和国の半分以上を占めています。

 そこはどんな世界だったのか??

 昔も今も、高く深い山々と谷が、大和国から紀国、伊勢国にまたがって延々と広がっています。住む人は少なく、都から見れば文明から隔絶されたような地。能でいえば、「異界」の地。

 しかし、私たち日本人は、昔も今も、こういう世界に心ひかれてきました。

 吉野山から大峰山系の山上ヶ岳(標高1719m)へ続く深く険しい山々は、7世紀に役行者(エンノギョウジャ)が修験道を切り開いた地です。修験者たちは深山幽谷に分け入って、激しい修行を積み、衆生を救う験力を得ようとしました。

 その西には、高野山があります。平安初期、空海が真言密教を開いた聖地です。

 さらにその南、深く高い峰々と谷が太平洋に向かって落ちていく空間には熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)があって、平安末期以降、極楽浄土を求める人々が遥々と熊野詣でするようになりました。

 近年、これらの全体が「紀伊山地の霊場と参詣道」という名でユネスコの文化遺産に登録されました。今では日本人に負けないくらいの数の外国人バックパッカーが訪ねる地域になっています。一神教に飽き足りなくなってやって来る人たちもいるようです。

      ★

<吉野の文学歴史散歩① … 蔵王権現>

 吉野は学生の頃に行ったのが最初で、仕事をリタイアしてからは何度か訪ねました。ただし、私の場合、吉野の文学歴史散歩が目的でしたから、花見客で混雑する時季は避けてきました。

 それでも、一度くらい吉野の桜を見ておきたいと、仕事をリタイアした直後の4月に出かけたことがあります。それが冒頭の写真です。もう随分前のことで、これ1回きりです。

 吉野山には、修験道の総本山・金峯山寺があります。本堂の蔵王堂は国宝で、木造の建築物としては東大寺の大仏殿に次ぐ世界第2位の大きさを誇ります。

  (蔵王堂遠望)

 金峯山寺の「金峯山(キンプセン)」は、吉野山から大峰山系の山上ヶ岳に到る修験道の山々の全体を言うそうです。

 茫々たる昔、役行者は千日の練行の末、山中深くで、深夜、釈迦、次いで観音菩薩のお姿を見ましたが、自分が追い求めてきた神ではないと感じました。

 「すると、にわかに天地が震動して、恐ろしい荒神が大地から湧出した。『大忿怒大勇猛』の蔵王権現で、これこそ彼が長年求めた新しい神であった。それは自然の猛威を秘めた山岳の表徴であるとともに、古代の山の神の生まれ変わった姿でもあった」(白洲正子『かくれ里』から)。

 役行者は自分が見た恐ろしい蔵王権現の姿を山桜の木に彫らせました。できた巨像を祀るために建てたのが蔵王堂です。

 修験道の世界は、森羅万象の大自然と古神道と仏教とが混然と融合した日本的な宗教世界です。

 いつの頃からか吉野山に参詣する人々は、蔵王権現像の素材となった桜の木を寄進・植樹するようになりました。"花の吉野"は、そういう信仰の結果として生まれたのでした。

      ★

<吉野の文学歴史散歩② … 吉水院など>

 金峯山寺の先に吉水院(今は吉水神社)があります。もとは修験道の僧坊でした。

 源義経が兄頼朝の追っ手を逃れて、静御前や弁慶らと、一時ここに潜んだそうです。しかし、すぐに追手が迫って、さらに大峰山系の奥へと逃れなければなりませんでした。しかし、ここから先は女人禁制。静御前とはここが永遠の別れの地になりました。

 吉野山 峯の白雪 踏み分けて 入りにし人の 跡ぞ恋しき(静御前) 

 この悲話は、のちに能の「二人静」などの素材になりました。

 時代が下って、南北朝の争乱のときには、吉水院は南朝の後醍醐天皇の御座所になりました。今は桜で有名ですが、上の写真に見るように、吉野山の地形は自然の要害でした。

 それらより遥かに古く、壬申の乱の前、大海人皇子が隠れたのも吉野でした。

 吉水院に「義経潜居の間」として展示されている部屋は、室町初期の改築で、現存する最古の書院造りとして日本建築史上貴重なもの。また、「後醍醐天皇玉座の間」も、庭園とともに、桃山時代の様式によるものです。

 吉水院から奥へ、奥の千本と言われる方まで行くと、観光客も少なくなり、吉野水分(ミクマリ)神社が古色を帯びて建っています。まわりは山ばかりです。さらに先へと行くと、吉野山の総地主神を祀る金峰神社があり、そこからしばらく険路を下ると、西行が3年間住んだという庵が復元されています。

 西行庵まで来ると、花の吉野も本当にひっそりとします。やって来るのは、文学歴史好きで、かつ健脚の青壮年の男女ばかりです。

 これらを含めて、吉野山はユネスコ世界遺産の山です。

  (西行庵)

 初めて吉野を訪れたのは学生時代。若く、修験者に劣らぬような健脚で、これらを全て見て回って、さらに吉野川の宮滝まで行きました。

 今では、金峰神社のバス停で降り、そこから西行庵まで行って戻るだけで足が痛くなりました。途中、道を間違えて丁字路を逆方向に歩き、ほら貝を持った修験者に呼び戻されました。

      ★

<吉野の文学歴史散歩③ … 花の散り込む谷の宿>

 さて、上の「蔵王堂遠望」の写真ですが、参詣道が尾根を通っているのがわかります。この尾根を左へ下って谷へ降りると、ちょうど吉水院の下あたりに、「吉野温泉元湯」という小さな宿があります。(もちろん、険路を下らなくても、吉野駅から谷を行く道もあります)。鉄分を含んだ鉱泉が湧き、山を下りてきた修験者が疲れを癒した宿だったそうです。

 2020年の6月。1度目のコロナの緊急事態宣言が解除された直後、自宅に蟄居し続けた息苦しさに耐えかねて、この小さな宿を訪ねました。全国の旅館という旅館が、客足がすっかり絶えて苦しかった時期です。

 たまたまネットで探し当てた宿でしたが、訪ねてみると「島崎藤村ゆかりの宿」でした。

 また、宿の庭には句碑がありました。

 (句碑のある庭)

 (句碑)

 「一山の 花の散り込む 谷と聞く」

 初めて見たとき、ゆかしい句だと思いました。稲畑汀子さんの作とのことでした。俳句を作られる方ならよくご存じなのでしょうが、高浜虚子の孫に当たる方で、『アララギ』を引き継いで主宰されていたそうです。

 毎年の4月初め、この隠れ宿を定宿にして、仲間の皆さんと句会を開いていらっしゃったそうです。宿の若主人が、「子供の頃の私のことも句に詠んでもらっているんです」と仰っていました。

 若主人に尋ねてみましたが、桜の期間はわずか、その間は常連客でいっぱいで、宿泊はムリだそうです。山の上は人でいっぱいでも、ここなら静かでいいかなと思ったのですが。

      ★

<吉野の文学歴史散歩④ … 島崎藤村の青春>

 さて、この宿が「島崎藤村ゆかりの宿」であったということについてです。

 宿のリーフレットに、以下のようなことが記されていました。

 「藤村が訪れたのは明治26(1893)年/22歳の春の3月14日より4月22日までこの元湯に逗留/ちょうど桜の時期で、女学校の教え子との愛に悩み、関西の旅に出た藤村にとって、庭に咲く桜は慰めになったことでしょう」云々。

 宿の庭には枝垂れ桜の大きな古木がありました。

 前回も藤村のことを書きましたが、格別に藤村文学のファンというわけではないのです。学生の頃、明治20年代の青春について、少し勉強したことがあるのです。

 明治10年代の青春は、自由民権運動の政治の季節でした。それに遅れて、北村透谷、国木田独歩、島崎藤村、正宗白鳥らの明治20年代の青春は、キリスト教(プロテスタント)との出会いから始まりました。彼らの多くはのちに棄教しますが、キリスト教との出会いを通して近代の精神に目覚め、明治30年代以降、詩人や作家として日本の近代文学を豊かにしていきました。

 明治政府は欧米から入って来る新知識の配電盤として、東大をつくりました。しかし、日本の近代文学が、東大出の森鷗外と夏目漱石を除けば、「別れろの切れろのは芸者のときに言うものよ」というレベルのものしかないとしたら、寂しすぎるというものです。

 島崎藤村も、若い日に、一番町教会の植村正久から洗礼を受けています。

 それまでの日本の社会では、「男女7歳にして、席を同じくせず」という儒教の教えは疑う余地のない規範でした。普通の若い男女が出会って交際するような場はなく、結婚は本人の意志とは別に家と家との関係の上に成り立ちました。「曽根崎心中」をはじめとする多くの江戸文学や明治初期の読み物に見るとおり、惚れた腫れたの男女の情愛は、遊郭の女性や芸者との関係でした。

 ところが、明治の初めに日本に入ってきたプロテスタントの教会では、男性の席と女性の席はまだ左右に分けられていたようですが、同じフロアのベンチに腰掛け、(三味線ではなく)、オルガンの音が響き、男女が声を合わせて讃美歌を歌うのです。礼拝が終われば、目の前に若い異性がいて、牧師を囲みながら、最初はおずおずとであっても談笑することは自然なことでした。プロテスタント教会は、明治の新青年にとって新知識を得る場でもあり、また、若い異性と知り合う心ときめく場でもありました。明治20年代の進取の気風をもった若者たちは、こぞってプロテスタント教会の門をたたきました。漱石の『三四郎』のヒロインの美禰子も、日曜日にはチャーチに通っていました。

 恋愛は、一個の自立した男子と一個の自立した女子の、互いの人格の尊重の上に成り立つ感情です。「恋愛」という日本語を作ったのは北村透谷でした。

 こういう新しい欧米の文化や精神・思想に出会った青春の中から、新しい言葉や表現形式が生まれ、新しい詩や小説として結実していったのです。

 さて、木曽の田舎から東京に出てきた藤村青年は、明治学院を卒業し、まだ数え年の21歳のときに、新しく設立された明治女学校(私立のミッションスクール)の英語教師になります。女子教育のミッションスクールは新鮮で、明治女学校に入学してきた女子たちの中にもハイカラな気風があったと思われます。また、まだ学制の整っていなかった時代でしたから、生徒の年齢もばらばらで、高等部の女生徒の中には先生の藤村と同年齢、中には年上の女子もいました。

 この頃に同校の女生徒だった相馬良子(黒光)は、当時のことを回想して次のように書き残しています。「明治学院出身の戸川、馬場、島崎先生など、教室に入っていらっしゃると、まず本を机の上に置き、粛然としてお祈りをされてから講義を始められるという風でした」。

 やがて、藤村は教え子の女生徒の一人に恋をします。彼と同じ一番町教会に来ていた22歳の女子でした。既に親の決めた婚約者がいました。若い藤村は勝手にこの女子に恋をし、教え子への道ならぬ恋という「恋の苦悩」をした挙句、学校に辞表を出して、関西への漂泊の旅に出てしまいました。

 学生の頃に明治20年代の青春のことを少し勉強したと書きましたが、藤村がその漂泊の旅で滞在した宿に偶然にも泊まることになろうとは思いませんでした。

  (藤村が滞在した部屋)

 21歳の藤村青年は、いわば恋に恋したのでしょう。しかし、そういうもやもやとした苦しい青春の感情が彼の中で次第に熟していったとき、短歌でもなく、俳句でもなく、まして漢詩でもない、新しい日本の詩(poem)が出来上がっていったのです。

      ★ 

〇 いかんとも しがたく春を 惜しむなり (さいたま市/池田雅夫さん)

   桜も終わり、新芽が萌え出て、季節は風薫る初夏に入っていきます。

 同じように、青春にも終わりがやってきます。

 国木田独歩も、島崎藤村も、正宗白鳥も、現実にないものにあこがれる浪漫的な心情を脱皮し、次第に事と物とをリアルに見る自然主義の作家へと成長していきました。

 それにしても、日本の春と秋。過ごしやすく、かつ、美しい。しかし、良い季節はたちまちに過ぎていってしまいます。

 (続く)

 

 

 

 

 

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風誘ふ … 2022(秋から冬へ) 読売俳壇・歌壇から(2/2)

2023年10月27日 | 随想…俳句と短歌

  (小諸城址・懐古園) 

 小諸城は市街地よりも低地に造られ、穴城とも言われました。

         ★

 ご無沙汰しました

    讀賣新聞の「読売俳壇」「読売歌壇」を、毎週、楽しみにしています。 各選者の先生によって選ばれた秀作ばかりですが、そのなかでも自分の心にストンとおちた句や歌を手帳に書き留めています。 それをここに勝手な感想とともに紹介させていただきました。昨年の後半に紙上に発表された作品です。

  ★    ★    ★

<風誘ふ>

風誘ふままに信州訪ひ来れば小諸は林檎の中にありけり (霧島市/内村としお)

 この歌の作者は島崎藤村の「小諸なる古城のほとり」がお好きで、信州へのあこがれをお持ちなのではと、自分に引き寄せて勝手な想像をしました。

 藤村の「小諸なる」の詩の季節は早春です。「小諸は林檎の中にありけり」という感動は、春浅き信州のイメージが下敷きとしてあってのことかと想像しました。

 「小諸なる古城のほとり/雲白く遊子悲しむ/緑なす繁縷(ハコベ)は萌えず/若草も藉(シ)くによしなし/しろがねの衾(フスマ)の岡辺/日に溶けて淡雪流る」

 私が藤村のこの五七調の詩を知ったのは高校生の頃。それから、ずっと信州の風土に惹かれ、貧乏大学生の頃から今に到るまで、何度も訪ねました。

 「小諸なる古城」の城址は「懐古園」となり、園内をそぞろ歩くと西端は崖となって切れ落ちて、眼下を千曲川が流れていました。戦国の世にあっては、穴城を守るための自然の要害だったのでしょう。

  (眼下の千曲川)

 「暮れ行けば浅間も見えず/歌哀し佐久の草笛/千曲川いざよふ波の/岸近き宿にのぼりつ/濁り酒濁れる飲みて/草枕しばし慰む」

 「岸近き宿」の「中棚荘」は「島崎藤村ゆかりの宿」。季節になるとお風呂に林檎が浮かぶゆかしい温泉宿です。

 同じ信州でも、北アルプスの山麓を大糸線でとことこ走る安曇野は登山家やハイカーが歩く明るいイメージがあり、一方、長野からしなの鉄道で、或いは、日本一標高の高い小海線に乗ってゆく佐久地方は、いかにも「信濃国」という感じがあって林檎畑がなつかしい。

 林檎と言えば、藤村の処女詩集『若菜集』の中の「初恋」。

 「まだあげ初めし前髪の/林檎のもとに見えしとき/前にさしたる花櫛の/花ある君と思もひけり

 やさしく白き手をのべて/林檎をわれにあたへしは/薄紅(ウスクレナイ)の秋の実に/人こひ初めしはじめなり」

 林檎の木は秋にたくさんの赤い実をつけますが、信州のおそい春は4月後半から連休の頃で、透明な空気の中に桜の花びらに似た可憐なピンクの花が咲いて、ああ、これが林檎の実になるんだと納得がいきました。

 懐古園には「小諸なる」の詩碑もありますが、もう一つ、島崎藤村作「惜別歌」と刻まれた歌碑もあります。

  (「惜別歌」の碑)

 もともと、『若菜集』に「高楼」という題で載っていました。嫁ぐ姉と、姉を送る妹の対話型式の詩です。

 私の持っている『日本の詩歌 島崎藤村』(中央公論 昭和42年刊)には、「高殿」の詩について、伊藤信吉氏のこういう説明が付いています。

 「『高楼』は、戦後になって『惜別の歌』という別題を付され作曲されて、若い人たちに広く歌われるようになった。明治30年に作られた詩が、永い年月を隔てて新しいリードとして迎えられたのである。本歌の作者が藤村だということを知らずに歌っている人もある。

 最も愛唱されているのは、『きみがさやけき/めのいろも』に始まる第9連で、この部分だけを切りはなすと、姉と妹の別れというよりも、恋人との別れを惜しむ歌の形になる。それが若い人たちをひきつけるのである」。

 高校生の時、友人たちとよく歌った歌の一つです。藤村の作だと知っていたが、戦後に作曲されたとは知りませんでした。それなら、私たち『青い山脈』の世代の歌です。(『青い山脈』なんて、わかる人にしかわかりませんね。石坂洋次郎という作家の新制高校を舞台にした青春小説で、何度か映画化もされました。先生役を石原裕次郎と芦川いずみとか)。

 「君がさやけき目の色も/君くれないのくちびるも/君がみどりの黒髪も/またいつか見んこの別れ」。

 私たちは無口朴訥な旧制高校生のイメージを思い浮かべて歌っていましたが、もとの藤村の詩の姉妹の歌とするなら、ちょっと官能的ですね。藤村は日本の新体詩を確立した人とされていますが、こういうみずみずしい才があってこそのことなのでしょう。

 「風誘ふ」の歌に触発されて、自分の遠い昔のことを書いてしまいました。

 以下は俳句ばかりです。

      ★

〇 秋風や生きてるだけでいいのかと(東京都/駒形光子さん)

 正木ゆう子先生評>「誰が誰に問うたのか、様々な場面が考えられるし、ニュアンスも違う。でも、どんな場合も、答えはきっと『生きてるだけでいい』」。

 働いている頃は、ささやかながらも何かを成しているように感じていました。

 リタイアして、歳月が経つにつれて、なんにも成していなかったのだと悟るようになりました。

 ゆっくり歩こう、生きていることが素敵なんだからと、人生の後輩たちには言ってあげたい。

 「風立ちぬ。いざ生きめやも」(堀辰雄『風立ちぬ』の冒頭」)。風が吹いた。さあ、残りの生をいとおしみながら生きていこう。

  ★   ★   ★

<秋の暮 そろそろ>

秋の暮そろそろ晩酌良いですか(川崎市/加藤英行さん)

 正木ゆう子先生評>「四時では早い。六時まで待てない。 五時過ぎたからそろそろ飲み始めていいですかと、誰に訊いているのか。 微笑ましく幸せな秋の暮」。 

 正木先生の解説は絶妙。私もお酒好きですから、少しゆっくりする日曜日の午後など、こういうことがよくありました。まあ、自制心とのたたかいですね。

 ヨーロッパのパーティーでは、ディナーを待ちきれない酒好きのために、食前酒の時間があります。ちょっと度数の高い酒を少量たしなむ。食前酒と言えば上品に聞こえますが、ありていに言えば、酒好きの主人(ホスト)や招かれた客が開宴を待ちきれずに一杯ひっかけようということです。さらに、食後酒の時間もある。こういう西洋人のやり方はなかなかのもの。

 私は、年を取って、今は少々の晩酌で満足できるようになってしまいました。それでも、健やかな日も、病のときも、毎夕、少々の晩酌をたしなんでいます

     ★

〇 湯加減を訊く蟋蟀に良しと言ひ(横浜市/杉山太郎さん)

 正木ゆう子先生評>「湯加減は如何(イカガ)と蟋蟀(コオロギ)が訊くので、良いと答えた?? 荒唐無稽と思いつつも、きっと五右衛門風呂、いや、檜風呂かもと思われて、不思議」。

 面白い。 こういう感覚、私も好きですね。

      ★

〇 武蔵野の名月しばし私(ワタクシ)す(武蔵野市/相坂康さん)

 (手持ちで月を撮るのはむずかしい) 

   日本全国のあちらでも、こちらでも、名月を一人占めしている人がいます。私もその一人です

      ★

〇 先延ばし先延ばしつつ冬支度(さいたま市/西村正男さん)

 宇多喜代子先生評>「秋も深まってくると冬支度のことが気にかかりはじめる。あれをしてこれをしてと思いつつ一日が過ぎ二日が過ぎる」。

 作者の意図と離れてしまいますが、この句を読んだとき、常日頃気になっている自分の「終活」のことが重なってしまいました。

 私は、祖父母がそうであったように、また、親がそうであったように、最期はわが家で迎えたいと思っています。

 昔は、年を取ると、わが家で大往生するのは当たり前でした。近所のお医者さんも往診してくれました。大病院に入院されると、家族は看護にも行きにくい。車社会ではありませんでしたから。

 大病院の延命治療もいやですが、私は何よりも、長く暮らしてきたわが家で終わりを迎えたいのです。

 しかし、問題があります。昔は一つ家で二世代、三世代が暮らしていましたが、今はどこの家でもそうですが、私の子らも他郷に暮らしています。

 ですから、往診してくれる医師と看護師、それに、薬局や介護士やヘルパーさんらに頼らねばならないでしょう。

 死後は、家族葬のこと、お墓のこと、その他のあれこれの処理なども、誰かにやってもらわねばなりません。

 そのためには、元気なうちにやっておかなければいけないこと、書いて伝えておかねばならないことが多々あります。ところが、そういう「冬支度」を先へ先へと延ばして、こうしてブログを書いたり、興味をそそられた本を読んだり、日本シリーズをテレビ観戦したり、アニメ「葬送のフリーレン」を見たり、カルチャーセンターの西洋史の講義を聴きに出かけたり、体調が良ければ小さな旅に出たりして、先延ばし先延ばしして日々が過ぎて行きます。

 今日なすべきことを明日に延ばせ。我ながら困ったことです。

 以前、このブログでも取り上げた山口富江さんの句。「 九十六才 日向ぼっこに日が暮れぬ」。正木ゆう子先生の評を読んで、胸をうたれました。「常連の冨江さん。自筆のこの投句葉書を枕元に置いて亡くなったという。『令和を四十七分生きました』とご家族の添え書き」。     

 美しく、とても幸せな最期です。

  ★   ★   ★

<夜長のメルヘン>

〇 眠る児の手に団栗も眠りけり(神奈川県/中村昌男さん)

 歳時記に小林一茶の「団栗の寝ん寝んころりころりかな」という句があり、平易な句だが改めて味わおうとすると句の意味が分からない??? …… と書かれていました。確かに!!。

 しかし、中村さんの句につなげると、一つの解ができあがります。

 ぐっすりと眠っている児の緩んだ手から団栗がころりころりと転がってゆき、静止して、その場所で団栗ももう一度寝入ったのです。

      ★

〇 降る雪や昔ばなしをするやうに(青森市/小山内豊彦さん)

 (湖西線からの雪景色)

 昨年の早春の頃、大阪から「快速」列車に乗って、琵琶湖の周りを一周しました。

 途中、湖西から湖東へ、一カ所で乗り継ぎました。

 湖西は寒々とした雪景色で、比良の山並みが見えました。

 ところが、湖東に来ると景色が明るくなり、春の息吹が感じられました。長浜で降りると、ガラス館にガラスのお雛様が並んでいました。

  (ガラスのお雛様)

 さて、本句は、もっともっと深い雪国の夜です。

 矢島渚男先生評>「降る雪の中で幼い時から繰り返し聞いた話を思い出す。昔噺(ムカシバナシ)ではなく、家族の思い出かもしれない。 優しくときに激しく雪は降り続く。 単純で美しい句だ」。

 三好達治の詩「雪」を連想しました。

 「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。

 次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。」

  ★   ★   ★

 次号も、少し間が開くかもしれません。働いていた頃のように、集中して物事をてきぱきと進めることができません。あれにも、これにも、関心があるのです。でも、また

 

 

 

 

 

 

 

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いち日千歩 … 2022読売歌壇・俳壇から(1/2)

2022年09月18日 | 随想…俳句と短歌

     (空と雲)

 讀賣新聞の「読売俳壇」「読売歌壇」を、毎週、楽しみにしています。選者によって選ばれ掲載された秀作ばかりです。しかし、作品の出来栄えとは関係なく、特に共感し私の心にストンとおちた句や歌を手帳に書き留めています。そして、時々、ここに、勝手な感想とともに紹介させていただいています。私の詞華集です。

   ★   ★   ★

<季節を感じる>

〇 天麩羅の薄きみどりも春隣(千葉市/中村重雄さん)

 「春待つ」という季語は、長かった冬からもうすぐ解放されるといううれしい気持ちを表すそうです。これに対して「春隣」は、そこまで春が来ていると客観的に感じ取った感動をいう季語だそうです。

 日本人は「春隣」をいろんな事象から感じ取ってきました。この句では「天麩羅の薄きみどり」。天麩羅の衣を透かすタラの芽や蕗のとうのみどり、そして爽やかな歯ざわりが伝わってきます。和食はいいですね。

       ★

〇 叡山の雨にうたれて山法師 (みよし市/稲垣長さん)

  (琵琶湖と叡山)

 この3年ばかり、旅に出ても県内や隣接府県に限られるようになってしまいました。

 それでも、そのお陰というのも変ですが、私の場合、司馬遼太郎の『街道をゆく 近江散歩』や『街道をゆく 叡山の諸道』、或いは、白洲正子の『かくれ里』や『近江山河抄』を片手に琵琶湖の周辺を何度もめぐり、独自の歴史と雰囲気をもつ近江路に愛着をもつようになりました。そんなわけで、こういう句に出会うと心ひかれてしまいます。

 「山法師」は、①比叡山延暦寺の僧徒。②ミズキ科の落葉高木の和名で夏の季語。

   (花水木)

 上の写真は「花水木」ですが、「山法師」は花水木に似ていて、しかし、花の咲く時期が2週間ほど遅く5月初旬頃から6月中旬頃まで。花の形も、花水木の花びらの先が丸いのに対し、山法師は先端が尖っているそうです。

 ただし、可憐な「花」に見えますが、実はこれ、「苞(ホウ)」だそうです。でも、ここでは「花」ということに。

 中央の丸い花穂に4枚の白い花びらが付いています。その花穂を坊主頭に、白い花びらを白い頭巾に見立てて、比叡山延暦寺の山法師になぞらえて付けられた名だということです。花の名にも趣があります。

 一応、季節の句の中に入れましたが、私にとって本当は旅の句です。

       ★

〇 新緑の窓いっぱいに降る雨の雨音までも緑に濡れて (青梅市/諸井末男さん)

 あとで紹介します「紅白の梅のつぼみを」の歌と同様、選者の俵万智氏のもとに寄せられるにふさわしい感覚的に優れた歌だと思います。

 俵万智先生の評) 「雨音までが緑に濡れるという表現が新鮮だ。モノではなくオトというところが面白く、圧倒感が伝わってくる」。

   ★   ★   ★

<時世を生きる>

〇 遠くまで行かないけれど春の服 (横浜市/岡田迪子さん)

 閉ざされた冬の季節から解放された、うきうきした春の気分を詠んだ句かもしれません。しかし、それだけの句ではないように感じました。

 「行かない」のは、本当は行きたいのだけれど、自粛して、ずっと行きたい気持ちを抑えているのではないでしょうか。

 遠くへ行ってみたいという気持ちは、あこがれであり、希望の心です。

 高校に入学し、或いは大学生になったばかりの若い人も、そして、高齢者も、この3年間、そういう気持ちを日々抑えて、我慢しながら生きてきました。    

 遠くには行かないけれど、せめては新しい「春の服」を着て、並木の街路を歩いてみましょう。

 密集、密閉、密接を避ければ、戸外で、一人で歩く時に、マスクは不要です。

  (街角で一服)

         ★

〇 三度目のワクチン打てど二度目ほど明日への希望湧かなくなりぬ (東京都/大室英敏さん)

 この歌は、気づかずにいた微妙な気持ちの違いを的確にとらえていて、本当にそのとおりだと思いました。

 「現実」というものは、一歩前進、二歩後退ということも多々あること。そのとき、人は「希望」を見失います。 

 それでも、鬱に陥りそうな気持を乗り越えて、若い方々も、三度目のワクチンの接種を。

 それは自分のためであり、また家族のため、そして、学校や職場の仲間に大きな迷惑をかけないため、さらには、めぐりめぐって、高齢者施設や病院で起きるクラスターを少しでも減らすことにつながるかもしれません。

 まもなく、新しい混合ワクチンも始まるとのことです。

 暑い戸外でマスクするより、まずはワクチンの接種。一歩前進しなければ、三歩後退してしまいます。 

       ★

〇 すきとおる水をあらわす「露」といううつくしい字を血で染めないで (上尾市/関根裕治さん)

 「我々は単独で防衛している。世界最強の軍隊は遠くで見守っている」(ゼレンスキー大統領 /読売新聞から)。

 「私はここで生まれた。私の街なので、逃げるつもりはない」(ハリコフ市の日本語学校の先生/NHKから )

 私たちも、そういう現実を生きるときが来るかも知れません。

   ★   ★   ★

<希望をつなぐ>

〇 目標はいち日千歩風は初夏 (札幌市/松下聡さん)

  (ウォーキングコース)

 1日1万歩と言われたりしますが、それは働き盛りの人のことでしょうと、無視!!。

 それにしても、最近、歩数計を見ると、1日数百歩ということがあるのです。これは良くない、明日は頑張ろうと思うのですが、歩くために歩くというのはなかなか難しい。

    それでも、以前は意識してウォーキングしていたのです。

 きっかけはやはりコロナですね。「不要不急」の外出をしないクセが身に付いてしまいました。身に付くとは、気持ちに付くのですね。

   とにかく、1万里の道も千里から。自然の風景や街角の風景を楽しみながら、もう少し歩くこととしましょう。

 ただし、この句の作者の「いち日千歩」は、私のような横着ではなく、何かご事情があるのかも知れません。

       ★

〇 滑るから気をつけてねと少年は吾通らしむ大寒の朝 (札幌市/中島恵子さん)

 心がぽっと明るくなりました。高齢者にとって、明後日はありません。このような少年は、明日を生きようとする人の「希望」です。ありがとう。

       ★

〇 通院の予定のほかは何もなし手帳を開けば海が広がる (横浜市/森英人さん)

 選者の小池光先生の評) 「年齢を重ねるとだんだん予定がなくなる。スケジュール表を見れば病院のほかは真っ白。それを海が広がると言ったのが新鮮」。

 それにしても、…… 。「手帳を開けば海が広がる」とは、どういうことを表現しているのでしょう…… ?? 

 ただ、茫漠とした気持ちでしょうか??

 リタイアして、歳月を経ていきますと、知人友人と会って会食することもめっきり少なくなります。コロナになって以後は、旅行を計画したり、見聞を広めようと外に出かけることも少なくなり、子や孫と会うこともすっかり少なくなりました。手帳に書き込まれているのは、内科、眼科、歯科、整形外科などの定期的な通院の予定だけ。

 しかし、通院と言っても、自分で通院できるのですから、何か重い病気というわけではありません。

  次の通院まで5日間ある。そう思うと、広がる青い海や白い灯台が心に浮かんできた。せめて海にでも行ってみようか ……。どこの海?? ……。

 たとえば、神話の国の出雲の海とか ……。

 そんなイメージしか、私には浮かんできません。

   (出雲の熊野大社)

   (美保関灯台)

   ★   ★   ★

<夢、ロマン、メルヘンを歌う>

〇 子どもたちの帰ったあとの公園で枯れ葉はようやくブランコに乗る (横浜市/臼井慶子さん)

 ロマンチックというか ……、「枯れ葉」を擬人法で表現したことによって、メルヘンチックな感じがします。

 黒瀬珂瀾先生の評) 「さりげない一首だが、しずかな抒情を感じさせて、心に残る。賑やかな子どもたちの風景と、その後の静寂という対比が印象的」。

 黒瀬先生は、時間の前後を対比させて、より深い鑑賞に導いてくれました。

       ★

〇 紅白の梅のつぼみを手土産に冬の立ち退き打診する春 (東京都/武藤善哉さん)

  (鎌倉の梅)

 俵万智先生の評) 「季節の移り変わりを、アパートの立ち退きのように表現したところが新鮮だ。『手土産』のセンスもいい」。

 この歌も、「春」の擬人化が面白く、興趣のある歌です。「梅のつぼみを手土産に」という発想は見事というほかありません。

       ★

〇 竹の子と子狐つきの林買ふ (津市/中山道春さん)

 五木ゆう子先生の評) 「素敵な買い物。土地ではなく、林を買うのだ。更地にして家を建てたりはせず、ずっと林のままにしておく。竹も狐も子供なので、童話的」。

 

  (竹藪)

 以下は、遠い日の思い出です。小学校へ上がる前の幼い日のこと ……。

 私は地方の都市で生まれ育ちましたが、中国山地で農家をしている父の実家で1週間ほど過ごしたことがありました。

 その間、母と「離れ」で寝起きしました。「離れ」は、「母屋」からあぜ道を通って行き、土壁、藁ぶき屋根の小屋でした。手前に濁った池があり、すぐ向こうは竹藪になっていました。

 同年齢の従兄弟たちと1日遊んで、夕闇迫る頃、お腹を空かせて母の待つ離れまで戻ると、竹藪の奥の方から「コーン、コーン」、しばらく間をおいて、「コーン」という鳴き声が聞こえてきました。誰かから「あれは狐の鳴き声だ」と教えられました。毎日、黄昏時になると、鳴き声が聞こえました。

 何十年かの後、その家のあとを継いだ従兄に会った時、ふとその話をしました。すると、即座に否定されました。従兄は私より10歳も年上で、その当時は既に中学生。しかも、そこで生まれ育ったのですから、記憶は確かです。「あの竹藪に狐はいないし、狐の声など聞いたことがない」。

 そう言われると、そう思うしかありません。しかし、私は確かに、毎日、夕暮れ時になると、狐のちょっと哀しげな鳴き声を聞いたのです。あれは何だったのでしょう。記憶とは、不思議なものです。

 この句から、そんなことを思い出しました。

       ★

〇 木曽殿の御曹司眠る常楽寺をみなは祈る若葉の風に (茅ヶ崎市/山内とみ子さん)

 (滋賀県大津市の義仲寺の庭)

 上の写真の義仲寺は、義仲の墓所近くに草庵を結んだ巴御前が、日々、義仲を供養したことに始まるとされる寺です。

 時代は下って、俳人松尾芭蕉は義仲が好きで、死後、弟子たちによって義仲の墓の横に葬られました。

 写真中央の石碑には、門人の島崎又玄の「木曽殿と背中合わせの寒さかな」の句が刻まれています。

   さて、「木曽殿の御曹司」の歌について、小池光先生の評です。「常楽寺は鎌倉にある。木曽義仲の長男義高の墓がある。青葉若葉に囲まれたその墓に詣でた「をみな」は作者自身だろう。静謐で、きよらかな初夏の風が吹いてくる」。

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を毎回、面白く見ています。木曽義仲の長男義高はまだ少年でしたが、人質として鎌倉に来て、頼朝と政子の間に生まれた幼い大姫と婚約します。大姫は優しい義高を慕っていましたが、義仲の敗死後、頼朝によって殺されてしまいます。

 「をみな」は作者自身だろうと、小池先生はおっしゃっています。

 しかし、もちろん、悲劇の姫・大姫のイメージと重なっています。「をみな」「祈る」「若葉の風」がみずみずしく、きよらかです。

 (奈良・高取の雛祭り)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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海の風山の風 … 2021読売俳壇・歌壇から(3/3)

2021年12月27日 | 随想…俳句と短歌

         (マスクの子ら)

辻邦生『時刻(トキ)のなかの肖像』の中の「季節の中に生きること」から

 「1980年にパリ大学で日本文化論をフランス人学生に講義したとき、改めて年中行事を一つ一つ月を追って説明したが、その優雅な生活の色どりに学生たち以上に、私自身が心を打たれた。新年の若水汲み、お雑煮から始まって、節分、鄙祭、端午の節句、七夕、お月見、そして大晦日の年越そばに到るまで、私たちの祖先は真に生きることを深く楽しむことを知っていた。それは西洋では味わうことのできない生の至福の数々なのだ。歳時記に現れた俳句の季語は世界文学の中でも大きな財産といえるものだ」。

   ★   ★   ★

< 子どもらを詠んだ7句 >

〇 子どもらのマスクの柄も春らしく (熊谷市/間中昭さん) 

   去年の春と違って、親にも心に落ち着きがあります。

            ★

〇 幼な児もみな正座して雛の客 (常総市/渡辺守さん) 

 どこかのお家の雛壇の前。幼な児までもきちんと正座して、可愛いですね。

 調べました。五節句とは、正月7日が「七草の節句」。3月3日は「桃の節句(雛祭)」。5月5日は「菖蒲の節句(端午の節句)」。7月7日は「笹の節句(七夕)」。9月9日は「菊の節句(重陽の節句)」です。

       ★

〇 お母さん受験するのは僕ですよ (栃木県/あらゐひとしさん) 

    春は受験のシーズン。中学の受験でしょうか?? まだ人生の重大事とは思っていない男の子と、一生懸命のお母さんの組合せが可笑しい。 少し余裕をもって見ているのは、お爺ちゃんの作??

  (信貴山/朝護孫子寺)

       ★

〇 ふはふはと嬰の欠伸や風薫る (神奈川県/中村昌男さん)

   「風薫る」は夏の季語。新緑いっぱいののどかな季節感が「ふはふはと」というh音の表現になって、赤ちゃんの欠伸が可愛い。

       ★

〇 けんけんの丸や三角蝉しぐれ ( 神奈川県/新井たか志さん )

 矢島渚男先生の評) 「地面に〇や△を描いて、そこを片足や両足で踏んで跳ぶ遊び。これも幼い日の回想作だろうか」。

 遠い昔に誰かに聞いた話です。

 ある夏のこと。樹々に囲まれた小さな広場で、すっかり日焼けした子どもたちが今日も元気に遊び惚けていました。あたりは蝉しぐれがうるさいほどです。

 そこへひょっこりと見知らぬ小柄な少年が現れました。他の少年たちよりももっと日焼けしていて真っ黒焦げです。「遊ぼ」。「いいよ。入って」。子どもたちは、空が夕焼けに染まるまで、夢中になって遊びました。

 翌朝、いつものように子どもたちが三々五々広場に集まってくると、昨日の小柄な少年はもう待っていました。「遊ぼ」「一緒に遊ぼ」。

 その日も、また次の日も、そしてその次の日も、真っ黒に日焼けした子どもたちは、日が傾くまで夢中になって遊びました。

 1週間もした頃のある朝、その少年は姿を現しませんでした。「あの子、どうしたの??」「誰か知っている??」。その少年のことを知っている子は誰もいませんでした。

 その翌日も、少年は来ませんでした。でも、子どもたちは1日元気に遊びました。

 小さな広場を囲む樹々の一本の木の下の地面に、命を終えた蝉の亡骸が落ちていました、とさ。

           ★

〇 はじめての柘榴とわが子にらめっこ ( 和歌山市/早川均 )

 矢島渚男先生の評) 「ザクロの実は大人でも見ていて飽きない。いろんな形に割れてくると、さらに情趣がある。名句もたくさんあるが、この『にらみっこ』だって面白い。自然観察者の卵かな」。

 わが家のご近所の庭にザクロの木があります。塀の上に高くのぞいて、緑の葉をつけます。秋になると、拳ほどの橙色と茶色のまじった実がなり、熟して裂けると淡紅色も現れて、あたりの緑に映えてやさしいパステル画のような色合いになります。わが家のザクロではありませんが、そのやわらかい色彩感を毎年愛でています。

       ★

〇 鉄棒にマフラーを掛け砂遊び ( 宇都宮市/津布久勇 )

 鉄棒の下の砂場で、子どもたちが砂で家や人形を作って遊んでいます。「けんけん」もそうですが、今はこんな素朴な遊びをする子たちはあまり見かけなくなりました。昭和の風景です。       

   ★   ★   ★

<この国のかたち1首>

〇 米艦と少し間をおく自衛艦横須賀軍港重き静もり ( 横須賀市/木村将さん )

 小池光先生の評) 「結句がいい。日米の軍艦がひっそりと停泊している。一切の動きがないが、どこかしら息詰まるようである。米艦と自衛艦の少しの間も、状況を反映して味わい深い」。

   ★   ★   ★

<風物4句>

〇 片足を武蔵の国に雲の峰 ( 越谷市/小林ゆきおさん )

 宇多喜代子先生の評)「スケールが大きい。両足で踏ん張っている雲が見える」。

 「雲の峰」は積乱雲のことで、夏の季語です。

       ★

〇 風鈴や感動はわたしが決める ( 八戸市/夏野あゆねさん )

  (龍田大社/風鈴祭)

 正木ゆう子先生の評)「何に感動するかは私が自分で決める、という意味だろうが、俳句ではここまで省略が可能。強い内容の割に拍子抜けた季語がかえって良い味を出している」。

 正木先生の評の最後の一文で納得しました。さすが正木先生です。

 句の作者は若い女性でしようか?? カッコいいですね。

       ★ 

〇 海の風山の風くる茅の輪かな (神戸市/吉野勝子さん)

 季語は「茅の輪(チノワ)」で晩夏。陰暦の6月の晦日(ミソカ)の頃は、体力も衰え、疫病も流行しやすく、災厄が多い時期。そこで、神社の鳥居などの結界内に設えられた茅の輪をくぐり、心身を浄め、災厄を祓い、無病息災を祈願します。

 昼は風の中に潮の香を感じ、夕方になると山の風を感じる。明るく心地よい神社なのでしょう。

       ★

〇 先のこと案山子寝かせて考える ( 小諸市/下遠野よし子さん ) 

 「案山子」は実りの秋の季語。

 「先のこと」とは何でしょう??  採り入れを終え、案山子を片付けようとして、ふと考えます。あと何年、田んぼを作れるだろう……とか??

 「案山子寝かせて」に、田舎の景色や生活が現れています。

   (黒田官兵衛の案山子)

   ★   ★   ★

 皆さん、今年もありがとうございました。

 お元気で良い年をお迎えください。ではまた、来年も

 

 

 

   

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夜明くれば… 2021 読売俳壇・歌壇から(2/3)

2021年12月22日 | 随想…俳句と短歌

     (熊野本宮大社・大斎原)

 随分長くご無沙汰してしまいました

 コロナ下でなかなか一献酌み交わす🥃ことができない友人Tさんと、メールでディスカッションしていました。コロナのこと、2020オリンピックのこと、アフガン撤退とアフガン人救出のこと、日本国の防衛のこと、ネットの中の魑魅魍魎のこと、経済のグローバル化と格差のことなどなど。

 しかし、1回、1回が長文になり、にもかかわらず2人で論じても世界が少しも良くなるわけでもなく、少々疲れて、もうお終いにしました。

 そこでブログを再開します。ぼつぼつと急がず進めていきますので、また、よろしくお願いします。

 読売俳壇・歌壇からの2回目です。

    ★   ★   ★

<旅の2句>  

 私のヨーロッパ旅行はエーゲ海のロードス島へ行ったのが最後です。コロナ禍となって、この2年間、遠い旅には行けていません。

 しかし、そうは言っても、未知の世界は身近な所にもあります。コロナの間隙を縫っては、大和の国や近江の国、紀伊の国や伊勢の国を、ひそやかに、かつ、のどやかに遍歴しました。日本の歴史発祥の地の再発見の旅です。

〇 何よりもうれし秋晴れ続く旅 ( 久留米市/佐田麗子 )

 日本の秋は、さわやかで美しい。

 「いい日旅立ち羊雲をさがしに」。

  (「潮騒」の舞台の神島港)

 高校時代から行ってみたかった三島由紀夫の「潮騒」の舞台の神島。

 近鉄特急で鳥羽へ。そこから小さなフェリーに乗って神島へ。半径200m四方を歩いて、同じ船で引き返しました。小さな日帰りの旅でした。 

       ★

〇 後ろからついて行きたし神の旅 ( 東京都/白木静子さん )

 日本列島は山また山です。山と言っても、イベリア半島やバルカン半島のような灌木がまだらに生えているだけの無機質な山ではなく、豊かな緑におおわれています。

 幾筋も谷があり、谷からは霧が湧き出ています。水を集めて流れが始まり、つつましい集落が現れ、その一つ一つで遠い昔から神々が祀られ、伝承と祭りがありました。

 日本の川の流れは急流で、流れを集めてどんどん大きくなり、都市が現れると、すぐに海です。

 四季の変化があり、国土の7割が山という日本列島は、欧米やアラブ・中東のような一神教の国ではありません。八百万の神々の国です。

   (2013 出雲のスサノオを祀る須我神社の奥社へ)

      ★   ★   ★

< 2020オリンピックの歌4首 >

 往年の短距離界の名選手カール・ルイスの讀賣新聞への寄稿の終わり部分。

 「日本はよく大会を開催してくれた。多くの人が今大会の開催に反対したが、アスリートのために、最終的にはやり遂げようと決意してくれた」。「無観客でも、選手たちは大会を開催してくれたことに感謝し、いいパフォーマンスを見せようと全力を尽くした」。「今大会のヒーローは日本の皆さんだ」「本当に心から、感謝の気持ちを伝えたい」。

 閉会式の翌日、帰国のために羽田空港にやって来た各国の選手らを取材した朝日新聞の記事です。朝日新聞は社説でオリンピック開催反対を主張しました。

 コロンビアのジャーナリスト「この五輪は日本だからこそ可能だった。日本の人々の努力に世界が気づいただろう」。

 デンマークの選手「ボランティアの人たちがフレンドリーで素晴らしかった」。滞在中は宿舎と競技場の往復だけだったが、「このような状況では厳しい規則は必要だった。パンデミックが終わったら、必ず日本に来たい」。

 いろいろありましたが、開催できて本当に良かったです

       ★

〇 悔いはない言い切る選手のはるかなる道程思ふ東京五輪 ( 大阪市/大和田芳美さん )

 小池光先生の評) 「試合後のインタビューの一言一言が重くて、こころに残る。ここにくるまでどんな苦労があったことだろう」。

 全競技を通じて一番切なかったのは男子400mリレー。バトンを繋げなかった選手たちの心の苦しさを思いました。多分、映像を見ていた国民の皆が。

 しかし、4人は支え合って事実を受けとめ、耐え抜いたようです。次があるかどうかはわかりませんが、過去のことは過去のこととし、日本を代表するアスリートとして、前を向いて生きていってほしいです

       ★

〇 我の知らぬ面白き競技あまた有りオリンピックの楽しさを知る ( 国分寺市/森田進さん )

 あまり期待していなかった女子バスケットの銀メダルは、一戦、一戦が緊迫した戦いの連続で、手に汗して見入りました。

 テレビ画面に、時折、女子選手を率いる長身の米国人のおじさんが映りました。ホーバス監督。見ていて味があり、面白かった。

 バスケは接触プレーが多く、ファールによるフリースローが付きものですが、ホーバスさんの指導の一つはガードを固め、しかも「絶対にファールをするな」。

 その結果、日本にとって強敵ばかりの試合で、ファールによるフリースローの得点差分、日本が勝ち抜いていきました。なるほど!! すごい監督です

 ホーバスさんは、今度、男子の日本代表監督に就任したようです。 

       ★

〇 スケボーはやんちゃな遊びと思ひしが謙虚なる覇者堀米雄斗 ( あきる野市/小林隆子さん )

 新聞に、堀米雄斗はフィギュアスケートの羽生結弦みたいだと書いてありました。スラリとして、いかにもアスリートと呼ぶにふさわしい若者。まだ22歳です。

 「やんちゃな遊びだ」と思ってテレビを見なかったのですが、男子の金メダルを知って、女子の試合を見ました。すると、なんと13歳の日本人少女が金メダルです。

 各国の代表選手のほとんどが10代で、そのアクロバットな演技にビックリ仰天でした。

 それ以上に新鮮だったのは、彼女たち各国の代表選手たちがまるで一つのチームのように互いをリスペクトし合いながら、競技を進めていたことです。レジェントの演技にも、誰もやったことのない技に挑戦して失敗した選手にも、みなでリスペクトの拍手を送り、称えたり、慰めたりする。私たちの時代のような、「明日は東京に出て行くからにゃ、何が何でも勝たねばならぬ」という悲壮な覚悟を感じさせません。しかも、合言葉は「挑戦」。そんな感じがしました。

 今までのスポーツの世界とは違う、新しい世界が開けていることを感じました。爺さんとしては、孫の世代に拍手です

   ★   ★   ★

<いのちの歌6首と俳句1句>

 コロナ禍で閉じこもりがちになり、人との触れ合いもなくなる中、「いのち」や「生きること」について思いをいたしました。

〇 朝焼けに出会えてしばし合掌すこの安らぎは老いて知りたり (枚方市/鍵山奈美江さん)

 日本人にとって、人は自然の一部です。年齢とともに、そのことをしみじみと感じます。

       ★

〇 何祈るでもなく思わず合掌す一月も最後の今宵満月 (山口県/末広正巳さん)

 上と歌と同じテーマの歌です。2句、4句が字余り。冬の寒空に大きな満月がかかりました。 

       ★

〇 デイの湯や屈まり我が足洗ふ女(ヒト)輪廻転生あらば仕へむ ( 宮崎市/長友育代さん )

 保育や福祉の仕事をする人たちが自分の仕事にプライドを持てるよう、報酬を上げてほしいと願います。

       ★

〇 今日もまた母の空から消えていく浮き雲として母と語らう ( ふじみ野市/古田つむぎさん )

 栗木京子先生の素晴らしい評) 「高齢のためわが子の記憶も曖昧になった母なのだろう。それでも母と語れば心が和む。浮き雲に見立てたことで温もりが出た」。

 和歌としても優れた作品だと感服しました。

       ★

〇 すらすらと出て来ぬ言葉秋の雲 ( 大津市/竹村哲男 )

 突然ですが、これは俳句。

 宇多喜代子先生の評 「ご年配の方であれば説明なしにわかるはず。喉元まで出ているのだけれど、アレ、ほらアレよが多くなる。はるかな『秋の雲』になんとなく救われる」。

 私も、喉元まで出て一生懸命思い出そうとし、何とか思い出せた時期がありました。しかし、今は喉元までも出て来なくなりました。

       ★

〇 夜明くれば八十九歳の誕生日読み継ぐ本に栞はさみぬ (横浜市/梅本敏子さん) 

 小池光先生の評です。「89歳の高齢になって、なお栞をはさみながら本を読む。立派だ。敬意を表したい。夜明くればという導入もよろしい」。

 本当に、「夜明くれば」という何気ない言葉が生きています。

 私もこのようでありたいと心から思います。

 今、コロナ下でも、週に一度くらいは、日本古代史や西洋中世史の講義を聴きに大阪に出かけるか、自宅でオンライン講座を聴きます。

 また、興趣がわけば近くの名所旧跡を訪ねますが、自分にとって新鮮な発見があって楽しく、時には温泉に浸かります。

 そして、こうしてブログを書き、夜は日本酒を少々いただきます。

   (志摩・安乗埼灯台)

 何よりも旅は、小さな旅でも、私にとって若々しさの秘訣です。「岬の外れに 少年は魚釣り 青い芒(ススキ)の小径を 帰るのか」

 

 

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山桜 … 2021読売俳壇から(1)

2021年07月10日 | 随想…俳句と短歌

 月曜日は「読売俳壇」「読売歌壇」が掲載される日で、毎週、楽しみにしています。私自身は句も歌も作りませんが、掲載された作品の中に自分の心にフィットする作品があるとうれしいです。

 ただし、受け手は身勝手で、作り手の感動をそのまま共有するということはなかなかできません。

 というのも、俳句も短歌もいわば世界最小の文学作品ですから、その短い表現を足掛かりに、表現の外の世界へと、受け手のイメージは勝手に広がっていってしまいます。

 ただし、それも結局、受け手の「経験」という枠の中であるように思います。

 ここで言う「経験」とは、人生の中で体験した事柄だけでなく、勉強して得た世界や読書や映画鑑賞で広がった世界などを含む自分の「宇宙」のことです。人はそれぞれに自分の小宇宙をもっています。

 作り手の意図を考慮しつつも、受け手は自分の小宇宙の中で、作り手の意図やイメージからズレていき、相当にズレたところで勝手に感動するということになってしまうこともあります。

 しかし、作り手は、「その解釈、ちょっと違う!!」などと文句を言ってはいけないのです。世間に発表した瞬間から、作品は自分の手を離れて、人々に受けとられ自由に鑑賞されます。その意味では、発表してしまった作品の所有権は読者になってしまいます。

 『去来抄』に、去来の「岩鼻やここにも一人月の客」の句を、師である芭蕉が去来が思いもしなかったような優れた解釈・鑑賞をする話が出てきます。鑑賞は時に作り手を乗り超えてしまうこと、鑑賞もまた創造であることの例としてよく引用される話です。

 芭蕉のような素晴らしい鑑賞はなかなかできませんが、受け手の勝手な想像を、作り手の方もニコニコと、時には、ニヤニヤと、楽しんでいただけたら幸いです。

      ★

<桜の句> 

 まずは桜の句を2句。

 今年の桜も、浮かれることもなく季節とともに去っていきました。来年こそもう少し朗らかな心で桜を眺めたいですね。

〇 風少し雨の少しを山桜 (神奈川県/新井たか志さん)

 桜といえばソメイヨシノ。でもソメイヨシノは明治以後に広がった改良種で、古代から日本人に愛され詩歌に詠まれた桜は山桜だそうです。

 山桜は若葉と同時に開花します。若葉のやわらかい薄緑を映す清楚な山桜の花は、楚々として気品があり、﨟(ロウ)たけた美女の風情があります。歳時記に、「ソメイヨシノよりもこの方を好む人もいる」とあります。 

 選者の宇多喜代子さんの評 ── 「天候不順の中の山桜だが、この少しの風や雨は山桜にとってはなによりのものであったのだろう。日の中の山桜もいいが、しっとりとした山桜もいいものである」。

 山里の風情も感じられて、いい句ですね。

       ★

〇 満開のさくらを永久の別れとす (加須市/松永浮堂さん) 

   この句の「永久の別れ」とは、どのような別れなのでしょうか。そのことが気になり、心に残る一句でした。選者の評もなかったので、自分に引付けて鑑賞するしかありません。少なくとも「満開のさくら」とともに別れるのですから、悲しくても、美しい別れであることはまちがいないと思います。

 随分古い記憶ですが、この句を見た時すぐに、昔、新聞に投稿されていた短いエッセイを思い出しました。ふだん、新聞の読者欄を読む習慣はなかったので、そのエッセイを読んだのは本当に偶然でした。投稿されたのは女性で、亡くなったお母様のことを書いておられました。

 不治の病であった母が最期にどうしても「弘前城の桜」を見たいと言い出し、心配する私を残して旅に出ました。途中で具合が悪くなり、動けなくなってしまったらと心配していた私をよそに、古い友人たちに支えられ、元気に旅をしたようでした。

 母は帰宅し玄関を開けた途端に、「ああ、楽しかった。あんなに美しい桜は見たことがない。行って本当に良かった!!」と言われたそうです。

 それから間もなくしてお母様は心静かに逝かれた、そういう内容でした。

 これを読んだ時の私はまだ働き盛りで、ふだん死のことなど考えたこともなかったのですが、美しい桜のイメージを心に抱いて亡くなったお母様の最期に深く心を打たれました。

 真善美といいますが、日本人は古来から真や善よりも「美」を愛する民族だと言われます。「正しい生き方」よりも「美しい生き方」にあこがれます。

 辻邦生『西行花伝』から。

 「師西行はこうして満月の白く光る夜、花盛りの桜のもとで、七十三年の生涯を終えた。

  願はくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月(モチヅキ)の頃

 (中略) 

  仏には 桜の花を たてまつれ わが後の世を 人とぶらはば」。

 さて、元の「満開のさくらを永久の別れとす」という句に戻ります。

 この句を見た時、すぐに記憶の中から上のエッセイが甦ってきたのですが、「永久の別れ」を青春の日の人との別れとして味わうこともできるように思います。以前にもこの項で書いた詩を思い出します。

 

 「惜別の歌」。原詩は島崎藤村です。

(1番) 「遠き別れに耐えかねて/この高殿にのぼるかな/悲しむなかれわが友よ/旅の衣をととのえよ」

(2番) 「別れと言えば昔より/この人の世の常なるを/流るる水を眺むれば/夢恥ずかしき涙かな」  

(3番) 「きみがさやけき瞳の色も/きみくれないのくちびるも/きみがみどりの黒髪も/またいつか見んこの別れ」

 小林旭の歌が有名ですが、ちあきなおみの歌う「惜別の歌」も、凛として哀愁があり好きですね。

        ★

<旅の句>

 コロナ禍でヨーロッパ旅行にも行けなくなりました。しかし、ヨーロッパ旅行はもうそろそろ終わりにしようかなという気持ちになりかけていたところなので、よいのです。

 でも、国内旅行はまたまだ行ってみたい所があります。

 にもかかわらず、県内や隣県にさえ思うように旅行できないのは、残念無念です。

 せめては旅の句を楽しむとしましょう。

〇 湖西線比良八荒の宿さがし (東京都/吉田貞夫さん) 

 湖西は、比叡山とその北に続く比良山系の山並みが湖岸まで迫っていて、平野が少なく、湖東と比べたらずっと鄙びています。

 若い頃、湖西線に乗って比良登山に出かけました。最高峰は武奈が岳の1214m。標高で言えば千メートルを超えるぐらいの山並みですが、屹立した山容は少しアルペン的な雰囲気も感じさせて、好きな山でした。

 この句の季語は「比良八荒」。それを調べました。

 陰暦2月24日の頃、寒気が戻り、比良山系から湖南の水面をたたきつけるように吹き下ろす強いおろし風のこと。春(仲春)の季語。

 陰暦では1月、2月、3月が春。順に初春、仲春、晩春。太陽暦になおすと、ざっと1カ月遅れ。昔の人の季節感は、今より少し早かったようです。ちなみに2021年の立春(即ち陰暦の正月。1月1日)は2月3日でした。豆まきをする「節分」は大晦日の行事です。

 陰暦2月24日は太陽暦では3月の下旬になり、比良八荒は、湖国に本格的な春の訪れを告げる自然現象でもありますが、その荒れ方はすさまじく、「琵琶湖周遊の歌」で有名な4高のボート部の遭難はこの比良八荒によるものです。

 「比良八荒」という言葉は、もともと「比良八講」からきているそうです。昔、比良明神を祭神とする白鬚神社において、陰暦の2月24日から4日間、比叡山延暦寺の衆徒が法華経8巻を読経し供養したそうです。それで、ちょうどその頃に吹き荒れる嵐を、「比良八荒」というようになったのです。

 今、「比良八講」の法要は再興され、毎年、太陽暦の3月26日に、比良山系の打見山で取水した水を湖上に注ぎ、水難者への供養を行うそうです。 

 昨年、琵琶湖周遊の旅の折、湖岸の白鬚神社にも寄りましたが、そのときはこういうことも知りませんでした。でも、旅で訪ねた経験がこの句によってさらに触発され、勉強しました。

 白鬚神社の祭神は猿田彦とも、白鬚大明神とも、比良明神とも。

 「比良明神も白鬚明神も、共通するイメージは湖畔で釣り糸を垂れる白鬚の老人である。古代人の誰かが、この付近でそういう老人を見かけて、この地の神の化身と思ったのかもしれない」と、昨年のブログに書きました。

 神社の門前からは見えないのですが、自動車道路を横断すれば、そこは湖岸で、湖水に赤い鳥居が立っています。 

  (白髭神社の鳥居)

 「昔は舟に乗って鳥居をくぐり、湖岸の斜面に取り付いて、山の斜面に建てられた白鬚の社に参詣したのではないか。或いは、舟から鳥居越しに比良山を拝んだのではないか。比良は、この地方の『神のすむ山』とするにふさわしい」(ブログから)。

 比良八荒の頃、鄙びた湖西で宿さがしをする。旅の俳人・芭蕉の風韻を感じる句だと思います。

      ★   

〇 花辛夷ここより旅のはじまりぬ (能代市/原田祥子さん)

   白梅、紅梅。やがてモクレンがつぼみをふくらませ、桜が咲きます。関西ではコブシに注目することはあまりありません。

 例の歌からですね。「白樺 青空 南風 こぶし咲くあの丘 北国の ああ北国の春」。

 昔、4月に信濃の国に旅したとき、自然はまだ緑が一つも見当たらない冬枯れの景でしたが、渓谷の向こうの深い雑木林のなかに、二つ、三つ。ぼっと地味な白い花をつけた高木がありました。あれはきっとコブシの花だ、と思いました。

 モクレン科の落葉高木。春、白い花をつける。花はモクレンより小さく、葉に先立って開花する。花弁は10枚ほど。花の下に小さい葉を1枚つける。

 北国の春の旅立ちの花ですね。

      ★

〇 仁淀急四万十の悠麦二葉 (広島市/藤域元さん) 

   旅の句かどうかわかりませんが、私にとって四国は少し遠い。よって、旅の句になります。大きな図柄の句ですね。

 選者の正木ゆう子先生の評。「高知県の清流仁淀川と四万十川。片や急流、片や緩やかなのだろう。流域の麦畑と取り合わせて、多くの情報をきっちりと詠み込んだ」。

      ★

〇 春風やどこまでもゆきたくなりぬ (玉野市/北村和枝さん) 

 同じく選者の正木ゆう子先生の評。「一見ありふれた思いのようだが、考えてみれば人はふつう決して何処(ドコ)までも行ったりはしない。だからこそ春風にふっと憧れが湧くのだ。

      ★

〇 梅雨雲の上に抜け出て旅始まる (神奈川県/中島やさかさん) 

 選者の小澤實先生の評。「梅雨時期の飛行機での旅。梅雨雲の下はうっとうしいが、雲を突き抜けると、その瞬間に陽光が機内に満ち、晴れ晴れする。飛行機を省略したことも鮮やかだった」。

 列車の旅も良いが、高度数千mから見下ろす地形は地図を見ているよう。幾重にも重なる山々も、幾筋もの谷筋も、川も、田園も、この列島こそわがふるさとなのだと実感させられます。

       

     

 

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石蹴りの…読売俳壇・歌壇から

2020年09月21日 | 随想…俳句と短歌

   今年の春から夏、そして初秋にかけて、讀賣新聞の「読売俳壇・歌壇」に掲載された俳句、短歌の中から、私が心を動かされたいくつかの作品を紹介したいと思います。

 いつものとおりですが、ここで取り上げた句や歌は、作品に対する私の評価の結果ではありません。評価どころか、私は句も歌も作れません。ただ、「読売俳壇・歌壇」の掲載される月曜日・朝刊を楽しみにしている一人です。

 作品に即して書いた文章も、鑑賞するに当たってちょっと調べたこと、心に浮かんだ共感などを思いつくままに書いたものです。

 作者の方々に非礼があれば、おわびいたします。

           ★   ★   ★

〇 美しき 人の手にある 椿かな (羽生市/岡村実) 

 シンプルな一句です。どんな人だろう?? どんな場面かな?? … などと考えても、具体的なことは何も表現されていません。

 でも、美しいイメージです。日本人なら誰でも共感できる様式美の一つでしょうか。

   「これは、和服姿の女性ですね。椿に洋装は似合わない」。

 「あんこ椿?? 」。「いや、武家でしょう。『五弁の椿』の岩下志麻とか」。「古いねえ。『散り椿』の黒木華」。

 「この句の作者は現代人だよ」。「でも、この句には、時代を超えた普遍性がある」。

 「それはそうと、この句がピントを当てているのは椿ですね。女性の方は背景です」。「いや、いや。あくまで椿を手にした、控えめな美しい人だよ」。

 以上、独り言でした。

        ★

〇 石蹴りの 石の寂しさ 花ふぶき (蓮田市/千葉玄能さん)

 宇多喜代子評) 「子どもの遊びだけでなく、歩いていて無意識にまたは無聊発散に石を蹴ることがある。花吹雪の中でふと感じる哀愁」。

 初め、「石の寂しさ」という言葉が印象に残りました。

 しばらくして、「寂しさ 花ふぶき」かもしれないと。

 やはり、「花ふぶき」のイメージは華やかで強い。

 作者の意図はわかりませんが、私としては、春の愁い、春愁、青春の孤独感・淋しさ。そういう句と理解することにしましょう。

 「石を蹴る」という動作にも、若さと孤独感を感じます。年を取るとわかりますが、中高齢者は石を蹴ったりしません。

 

 「きみの瞳はつぶらにて きみの心は知りがたし」(佐藤春夫)  

 「きみがさやけき 目の色も / きみくれないの くちびるも / きみがみどりの 黒髪も / またいつか見ん この別れ」(島崎藤村)

 青春の句ですね。

       ★

〇 初蝶や 生は幻 死は現(ウツツ) (千葉市/椿良松さん)

 正木ゆう子評) 「生死は安易には詠めないテーマだが、死生観さえ変わりそうな今、こんな句の生まれるのは自然だろう。『幻』とは、いっときの夢という意味合いか。『初蝶』が明るい。

 「蝶」を歳時記で引くと、「 …… 単に蝶といえば春季になる。他の季節に現れる蝶はそれぞれ季節を示して区別する。…… 春は小型で優美な白蝶・黄蝶が多く、晩春から夏のうちは大きい揚羽蝶(夏)が目につく。初蝶は春になって初めて見る蝶で、春の訪れを早くも知らせてくれる」とある。

 春の訪れを知らせる生まれたばかりの小型の蝶が、ひらひらと花から花へ舞う。意外に俊敏なその動きを目で追いながら、その生もいっときのはかないものに過ぎないと感じている。

 正木ゆう子氏は「死生観さえ変わりそうな今」と仰っているが、私はこの句について、コロナ禍の「今」という風に限定しなくても良いように思います。

 人は死んでしまえば、その状態は永遠に続く。死の長さを思うとき、生はいっときの幻のようなもの。死こそ常態。

 しかし、その死は永遠なのだろうか??

 その人のことを覚えている人が誰もいなくなったとき、人はこの地上に生きていたことさえ忘れられ、無となってしまう。

 その意味で、死もまた、そう長いものではないのかもしれない。

 だから、せめて、ささやかではあっても、父母の法要をすることを子の務めとする。

 そして、やがて自分にも死が訪れる。

 その死の先にあるのは、ただこの国の美しい風土だけ。

 それでよい。

       ★

〇 花筏 堰を越えれば 組み直し(総社市/風早貞夫さん)

 川のほとりの幾本かの満開の桜が、花吹雪となって風に舞う。水の上に散り敷いた無数の花びらは、あちらこちらでたゆたいながらも、連れ立って流れていく。

 そういう日本の春の鄙(ヒナ)の風景。高梁川でしょうか。その上流の支流でしょうか。

      ★

〇 セリヌンティウス 吾にはおらず 桜桃忌 (川越市/横山由紀子さん)

 冒頭の「セリヌンティウス」で、えっ?? 何のこと?? と一瞬、腰が引けました。

 季語は「桜桃忌」で、季節は夏。

 桜桃はサクランボのこと。6月ごろ、紅い実をつける。

 太宰治の忌日は6月19日だそうです。それで、彼の短編小説の題名を踏まえて、その日を「桜桃忌」と名付け、毎年法要が行われるそうです。ファンが多いのですね。

 小澤實評) 「セリヌンティウスは太宰治の小説『走れメロス』に登場するメロスの親友。メロスは彼の命を守るために走った。そんな友人が自分にはいないことを太宰治の忌日に嘆く」。

 「吾にはおらず」…… 。本当にそうです。

 自分の生きてきた歳月のありようを顧み、もっと別の生き方があったのではないかと悔悟の気もちもわいてきます。

 或いはまた、人間とは誰しも、本来、そのような存在なのかもしれないと思い、人間存在の深淵をのぞいたような感慨もわいてきます。

 わずか17文字に、人生が表象されています。

       ★

〇 本棚を しばし見て去る 揚羽かな (所沢市/岡部泉さん) 

 「揚羽」は、「初蝶や」の句のところで歳時記から引用しましたように、夏の季語です。

 外は緑滴るような夏の午後。あでやかな揚羽が部屋の中に侵入してきて、ひとしきり本棚の辺りを飛んで、また去っていきました。

 あれは幻影だったのか。夏の午睡の夢だったのか。妖艶の趣も。

       ★

〇 掌(テ)の中に 蝉鳴かせつつ 児の帰る (久喜市/深沢ふさ江さん)

 日焼けした少年の物おじしない様子が、その小さな手とともに目に浮かぶようです。

       ★ 

〇 太陽系に 河川敷貸す 天の川 (八王子市/徳永松雄さん)

 気宇壮大な句です。その中に、俳味もあって面白い。

 私たちは、天の川の端っこ近くの太陽系、その中の小さな地球に生きています。

 「銀河」や「銀漢」ではなく、「天の川」というと、ロマンチックな感じもあります。秋の季語です。

      ★ 

〇 目礼を して立ち去りぬ 今朝の秋 (青梅市/青柳富也さん) 

 どう解釈したらよいのでしょうか?? 読者にまかされていると考え、素直に、表現どおりに、擬人法として受け取ることにします。

 日中、残暑まだ厳しいのですが、早朝にふと秋気を感じ取った。

 「秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども …」よりも、きりっとしていて、俳句らしい。

   ★   ★   ★

〇 ようやくに 成田へ向かう 機影見て なにか嬉しき 梅雨晴れの空 (山武市/川島隆さん) 

 緊急事態宣言が出たのが4月7日。それより大分前から自粛・巣ごもりの生活が始まり、宣言が解除されたのは5月25日でした。

 解除されても、第2波も予想され、心はなかなか晴れやかにはなりません。

 自由とは、そういうことか…。自分の強い気もちがあればどこへでも、旅立とうと思えば行けること。

 まだまだ、関空から旅立つことはできません。

 唐突ですが、唐突に自分の意志で旅立てぬことになった、巣ごもりの香港人のこれからの憂愁を思います。

 台湾は、台湾人にとっての「核心的利益」。中国には必要のない領土。すでに中国史上最大の版図となった中国に、これ以上一坪なりとも領土・領海を譲る必要はありません。

        ★

〇 北へ行く 座席のやうに 静かなる 診察待ちの 椅子に座りぬ (岐阜市/後藤進さん)

 栗本京子評) 「通常なら込み合う病院の待合室。コロナ禍で診察をひかえる人が増えたためにひっそりとしている。『北へ行く座席のやうに』に歌謡曲の世界を思わせる風情が漂う」。

 「北へ帰る人の群れは誰も無口で … 」。

     (竜飛崎)

 カラオケで、気持ちよく演歌を歌いたいですね。

 いや、巣ごもりを終わりにしたい。

 

 

 

 

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幻となる春の旅 ─ パンデミックに負けず … 読売俳壇・歌壇から

2020年04月18日 | 随想…俳句と短歌

       (安倍文珠院の桜)

 「ロマンチック街道と南ドイツの旅」を連載中ですが、今回は3月、4月の「読売俳壇・歌壇」から、心に響いた俳句と短歌を紹介したいと思います。時も時!! ですから。

 もちろん、この場合の「時」は、パンデミックの状況下という意味です。

 こういう時だからこそ、人間らしい心やユーモアを失いたくないものです。

       ★

 子供の頃、誰からだったか、小学校の担任の先生かもしれませんが、こんな言葉を知りました。「電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのも、みんなあなたが悪いのよ」。何でも、人のせいにする態度を揶揄した言葉ですが、今は「あなた」のところに「おかみ」とか「政府」と入れ替えてみたらよいでしょう。

 「くれない族」という言葉がはやった時代もありました。「△△してくれない」と、不満ばかり言う幼児性を抜け出せない人のことです。

 しかし、「皇帝は親、人民は子」というのは、専制国家です。今は「皇帝」ではなく、「中国共産党」に取って代わっていますが、同じことです。

 福沢諭吉が言うように、民主国家は、「おかみ」がどうこうより、まず国民一人一人が自立し、かつ、社会の一員として主体的に行動できなければ成り立ちません。

 前回のブログの最後に書いたように、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という市民精神の上に、「各自の家の中は各自の勝手」というのが、西洋の個人主義です。

 日ごろ、全く人気のないイタリアの首相やフランスの大統領の下、今、国民は政治的立場を超えて一つになっています。なぜウイルスがこんなに広がったのか?? そういう疑問や不満はあとのことです。今は危機存亡の時、司令官の下に一つになることが勝利のための最初の第一歩だということを、民主国家の国民は知っています。

 戦争のさなかに、国民の一人一人が、まるで自分が司令官のように意見や非難を言い合い、不平不満を言う。それは、民度の低い国民です。

 戦国時代、武田や上杉の軍勢は、いよいよ決戦というとき、全軍がシンと静まって静寂が漂ったそうです。弱い軍勢ほど、決戦を前にすると、興奮して、やたらと騒がしい。静まり返った敵軍を見て、恐怖にかられる。

 政府が、いついつまでに何億枚のマスクを作ってお届けします、とテレビで公約したのに届かないのは、トイレットペーパーのときと同様に、買いだめしている民度の低い国民がいるからです。しかし、この感染症を克服していくためにはマスクは必要ですから、政府はやむなく、洗濯できるマスクを2枚、国民に郵送することにしました。戦時中の配給制ですよ。それをまた、マスコミは非難する。何の役にも立たず、ただ不満を煽るだけの存在が、今の日本のマスコミです。

 お昼のワイドショウを注意深く見ていると、専門家でもない素人のコメンテイターが、局(司会役)の誘導に添って「意見」を述べているのがよくわかります。

 エッセイストだとか、お笑い系の人とか、コロナについては全く素人の弁護士だとか、評論家だとかというワイドショウの「コメンテイター」たちは、テレビ局から出演料をもらい、テレビ局に使ってもらってなんぼの人たちですから、結局、テレビ局の意に沿って発言します。

 そのテレビ局は、人々の不安や不平不満を煽り、「おかみ」を非難して、視聴率を上げようとしているのです。

 戦前、大新聞は、競って政党政治を非難し、非難するほどに発行部数を増やしました。こういう姿勢を大衆迎合(ポピュリズム)と言います。そうやって形成された世論に煽られ、若い軍人がテロやクーデターに走りました。だが、マスコミや国民は彼らの「正義感」に同情的でした。かくして、軍国主義の時代に入っていったのです。軍人がいきなり政治に乗り出したわけではありません。マスコミが発行部数を増やそうと国民を煽ったのです。

 現代は、テレビのワイドショウだけでなく、ネットという闇の世界もあります。まるでうっ憤晴らしのような一方的な意見が大量に書き込まれていますが、それは結局、サイトの広告収入の拡大につながります。

 こうして、多くの人々が不安と不平不満の空間をふわふわと浮遊し始めています。

 それがコロナよりも「脅威」であることに、多くの人は気づきません。

 「ネットという闇の世界」と言ったのは、そこが匿名性の世界だからです。恐ろしいことに、そこで、世論がつくられています。匿名性を良いことに、「魔女狩り」ではないかと思われるようなバッシングもあり、しかも彼らは自分のうっ憤晴らしを正義と勘違いしています。

 しかし、ネットの「世論」は、知らぬ間に他国に操作・誘導されているかもしれません。今、欧米の選挙には偽情報が氾濫し、外国の巨大なサイバー組織が介入してきています。もちろん、非民主国家のサイバー組織です。

 これこそ「事実」と信じ、自分こそ「正義」だと思い込む ── それが実は他国の「サイバー攻撃」よってつくられた世論であったということが、実際に起こりうるのが今の「世界」です。

 戦いの始めは大きな「戦略」を示すべきだ、小出し戦術は失敗のもと、などと政府を批判してきた有識者もいます。最初に大きな「絵」を描いて、戦力を一点に集中し、一気に駒を進めよ、というのは、士官学校の教科書に書いてあることで、どこの国の若い士官でも知っています。しかし、実戦は絵に描いたようにうまくはいきません。トランプ大統領をはじめ、西欧の各首脳も、大きな目標と期間を設定し、一気にウイルスを封じ込めようとしましたが、相手は「未知」の敵です。当初の「絵」のようにはいかず、今はだらだらと延長10回、11回と持久戦を強いられています。ユリウス・カエサルは、戦いながら、相手の出方に対応して、戦術を変化させていきました。本当の戦いは、そういうものです。

 感染症の医者なら、サーズと同じ性質のウイルスだったら、収束までの「絵」が描けます。しかし、相手はサーズとは全く性質の異なる未知のウイルスです。そういう相手に、最初から成功の「絵」を描いて戦いを挑むのは、無謀というものです。

 これは政権の擁護ではありません。今、最前線で頑張っている押谷仁さんや西浦博さんらへのエールです。PCR検査が足りないとか、医師や検査士や看護師やベットが足りないとか、医療用マスクが足りないとか、今、あれこれ批判しても、何の役にも立ちません。戦後日本には、他国のような緊急事態法の名に値する法律もないのです。そういう条件下で、ベターの戦術を編み出していくしかないのです。そういう戦いの最前線に立っているのが、彼らです。少なくとも、私は、彼らに命を委ねます。

 それが何であれ、声の大きな「正義」の主張には用心が必要です。単純明快で、ラジカルな主張に簡単に乗らないようにしたいものです。この世に「絶対に正しいもの」などありません。「どちらがマシか」「こちらの方がマシだ」「でも、こうすれば、もう少しだけマシになる」「立派に聞こえるが、その考えにも必ずリスクがある筈だ。そのリスクをどう乗り越えられるかだ」などを考えるべきです。冷静なリアリズム精神です。

 みなさん、冷静になりましょう。

       ★

 この3か月を経て思うことは、今、必要なのは二つですね。一つ目は、NHK以外の、民放やネットの世界の、意見や非難、不平不満をシャットアウトすることです。NHKが全て良いわけではありませんが、相当にマシです。事の本質や事実に迫る、考えさせられる情報を提供してくれます。ワイドショウや韓国ドラマでお茶を濁す民放は、必要ありません。

 シャットアウトは、各自が鬱にならないためにも必要ですね。スマホを開くのは、百科事典として使うときと、知人との交流のときだけにしましょう。

 二つ目ですが、人間らしい心と体を取り戻しましょう。人の心に共感し、自然の美しさに感動する。本を読み、外を歩き、この世界が美しいことを感じましょう。

 この3か月で、私が得た教訓は以上の二つです。

 俳句や短歌をとおして、人間らしい感性や情感に共感するのは、とても良いことだと思います。今はそういうことも大切です。長期戦ですよ。

 それでは、まず、俳句からです。

       ★

〇 諸事情に 幻となる 春の旅 (横浜市/杉山太郎さん)

 春になったら、旅に出たいと思っていた。旅先で数十年ぶりに旧友にも逢い、一献酌み交わしたいと、年賀状にも書いた。だが …… 1月を経て2月になり、ためらいは日ごとにあきらめに変わっていった。そんな状況でしょうか。

 選者の正木ゆう子さんの評。「どういう事情かすぐに推察できるだろう。諸事情という曖昧で便利な言葉の発見がこの句の鍵。俳諧味もそこに生じている」。

 さすがです。「俳諧味」という解説があって、風雅の人の趣も加わった。

 写真は三朝温泉。橋のたもとの河原に小屋掛けの露天風呂があり、朝も昼も夕も、いろんな年齢層の男性が入りにやってくる。

 旧友と久しぶりに酌み交わし、翌日は温泉で一泊する、というのもいいなあ … などと想像したりします。

                          ★

〇 ともかくも 休校の子に ひなあられ (長岡市/地引永安さん)

 また、正木ゆう子さんの解説がいい。

 「この句では『ともかくも』が鍵となって、この春の混乱を物語る。配された『ひなあられ』のあえかな優しさに救われる」。

 雛の節句は、言うまでもなく3月3日の、別名、桃の節句。歳時記に「雛を飾り、白酒、菱餅、雛あられなどを供え、桃の花を生けて祭る」とある。「ひなあられ(雛霰)」は、「米粒に砂糖蜜をまぶし、加熱してふくらましたもの」。

   千葉県香取市を流れる小野川は利根川の支流だ。江戸時代は利根川流域の水運で栄えた。近くの香取神宮に参拝したついでに、香取市佐原(サワラ)に寄り、舟めぐりをしたことがあった。

 折しも雛祭りの頃で、写真のように、川岸のそこここに木の箱状の棚が置かれ、お雛様が飾られていた。

       ★

〇 九分九厘 春の風邪とは 思へども (神奈川県/中島さやかさん)

 選者の小澤實さんの評です。「九分九厘の確率で春の風邪と自分で見立ててはいるのだが、あと1厘は新型コロナウイルスの可能性を思っている。春という明るいはずの季節なのだが、陰影が深い」。

 この句の気持ちはよくわかる。私も4月の初め、夕方になると喉に少し痛みを感じて、不安な思いをした。もう高齢者と言われる年で、このウイルスには弱いとされる男性で、しかも、ふだん医者にいろいろ薬を処方されている。最近、やっと痛みを感じなくなり、安堵した。

       ★

 ここで川柳を一句。「よみうり時事川柳」からです。

〇 詐欺電に 声が若いと 褒められる (京都/矢吹睦枝さん) 

 むむっ。電話に出た声はまだ若い。息子の真似をすべきかどうか。「ああ、やっぱりお母さんでしたか。私は、息子さんの友達で……」と、役を代える。

 4/16の讀賣の社説には、「神奈川県の80歳代の女性は3月下旬、『コロナ対策の助成金が出る』との電話を受けた。その後、自宅を訪れた金融機関職員を装う男にキャッシュカードを持ち去られ、約50万円を引き出された」などの例が載っている。「水道管にウイルスが付着しているので清掃します」という電話がかかってきたという家も。社説に「感染拡大に乗じた犯罪が増えている。不安な心理に付け込まれないよう、気を付けたい」とある。 

 古い民家やお寺には、鬼門の側に厄除けの鬼瓦。西洋の悪魔と違って、鬼は人間に近く、時に人間を守ってくれる存在だ。

          ★

 次は、「読売歌壇」から。

〇 良いことが ある筈だった 2020年 空欄のまま 二月を切り取る (大津市/松井美枝さん)

 除夜の鐘を聞き、初詣に行ったときは、こんな年になるとは思ってもいなかった。こういう風に事業を展開してみようとか、今年こそ念願の旅行に行こうとか、いろいろ思いはあったのに。むなしく2月のカレンダーを切り取った。

       ★

〇 キャンセルの FAXの束 受け取りて パートの主婦らに 断り入れる (水俣市/角田聖子さん)

 本当に悲しいですね。

 最初は海外から観光客が来なくなり、すぐに国内旅行する人もいなくなって、全国の観光バス会社も、ホテル・旅館も、あっという間に存亡の危機となった。各地の有名レストランも、そこに食材を卸していた農家や酪農家や漁師さんも窮地に陥った。サプライチェーンが途切れて工場の機械も止まったまま。住宅も、電気製品も、車も、売れず、経済は落ち込んでしまった。通勤者も7割をテレワークにということは、実質的な休業要請だ。

 「休業要請するなら休業補償を」と言うが、「休業要請」する前から、既に収入がなくなっている、或いは大幅に落ち込んだという業種・業界は日本国中にあふれている。全国のすべての中小企業や個人営業を等しく公平に支えたいものだ。

 先日、桜井市に近い安倍文珠院に行ってきた。もとは、645年の乙巳の変のあと、安倍一族の氏寺として建てられたそうだ。

 国宝の仏像もあり、桜も美しく、浮御堂は霊宝館で、阿倍仲麻呂や安倍晴明の像が安置され、陰陽道の道具も置かれていた。

 御堂を7周まわって、1回ごとに、各自、七難を除くお祈りをするのだそうだ。それで、私も、7回まわって、徹底的に「新型コロナウイルス退散」を祈った。ここは、安倍晴明の力も動員したい。

       ★

〇 「もういいかい」「まあだだよ」って 休校に 子らはこもりぬ 球根のごと (足利市/坂庭悦子さん)

 「まだ、休校のままだよ。もう少しおうちにいてね」。優しい響きの歌である。

 選者の俵万智さんの評。「休校措置への思いが、かくれんぼの掛け声でうまく伝わってくる。休校と球根の響き合いもいい。こもっている時間が、芽吹きの準備になっていればいいのだが」。

 小さなスミレの花の横に、土の中から伸びてきたのはキキョウの芽。晩夏には凛とした紫の花を咲かせる。

            ★

   こういう状況の中でも、コロナとは関係ない句もたくさん投稿されている。日本人の自然や人情に対する感性は美しい。

〇 雨降れば 雨を愉しむ 桜かな (上尾市/中野博夫さん)

〇 桜散る 地に着くまでも 美しく (秩父市/辺見さん)

 大和郡山城趾の堀端の桜。

 散るときも、ひらひらと風に舞い、最後まで美しい。そのように生きたいものです。

        ★

 パンデミックもいつかは必ず収束する。それまで、十分に気を付けて、生きぬきたいものだ。生きていれば、良いこともある。たとえば、こんな良いことが。 …… 「一円を 拾わんとして 屈みたる 机の下に 百円眠る」(東京都/大室英敏さん)。クスッ(笑)。

 最後は、やはり旅の句で締めくくりましょう。

〇 春怒涛 見に来よ日本 海へ今 (浜田市/大島一二三さん)

 今はまだ無理ですが、必ず「春怒涛」を見に行きます。

〇 駅弁の 包みに民話 春の旅 (熊谷市/田島良生さん)

 「駅弁の包み」「民話」「春の旅」。なつかしい響きです。いやされます。

 山陰のローカルな列車の中。

 次の回は、「ロマンチック街道と南ドイツの旅」に戻ります。

      

 

 

 

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『遥かなノートル・ダム』を手に … 「読売俳壇・歌壇」から

2020年03月02日 | 随想…俳句と短歌

 今回は、'19年後半から'20年にかけて、「読売歌壇」に選ばれ掲載された歌の中から、私が心うごかされた作品をいくつか紹介します。

 まず、子どものことを詠んだ歌です。

〇 年の差が 七十一の 友達よ 隣のゆいちゃん 三才おはよう (四街道l市/須崎輝男さん)

 ゆいちゃん、かわいいですね。ユーモラスで心温まる歌です。

〇 小さき手 幼(オサナ)は合わせ なに祈る われより長く 頭垂れるも (弘前市/竹内正史さん)

 仏壇の前でしょうか?? それとも、小さな神社、或いは、野の仏の前。祖父と孫。微笑ましく、いとおしいですね。

 遠い昔、大学生のとき、一般教養で宗教学の講義を聴きました。キリスト教の話でしたが、講師の先生は、日本人は木でも石でも神様にし、その信仰は「ご利益(リヤク)」主義で、本質的には無宗教だと言いました。そのときはそうなのだろうと思い、西洋文明とキリスト教にあこがれました。

 しかし、当時のその先生よりも年を経た今は、少し違うなと思います。昨今、ヨーロッパを旅してわかるのは、日曜日に礼拝やミサに行く人が少なくなり、かつての大教会が博物館になっていたりすることです。

 一方、日本では、東大寺も春日大社も観光客でいっぱいですが、観光客には見えないところで今も厳しい修行が行われ、敬虔な神事が営まれています。

 今も初詣や七五三、四季の折々に寺社に行く人々は多いし、その祈りは「ご利益」主義と言われるようなものではないと思います。それを一言で言い表せば、「生きとし生けるものの祈り」、だと私は思います。日本の神仏は上から目線ではなく、自然や人々とともにあるのです。

  (ここからは聖なる地を示す注連縄)

        ★

 次は高齢者の気持ちを詠んだ2首です。

〇 予報士の 暑さ対策 聞きながら 今日の一日 ゴロ寝を決める (大和よみうり文芸から/坊農勝畿さん)

 去年の夏は暑かった。テレビの中から、毎朝のように、天気予報士のお姉さんが、高齢者の方はクーラーをかけ、水分をとり、外出はできるだけ控えるようにと言います。で、それを良いことに、私も一日、のんべんだらりとテレビを見て過ごしました。元来、出不精で、横着なのです。

 しかし、大阪の梅田や天満橋にある2、3のカルチャーセンターの教養・歴史講座に通っていて、猛暑であっても、講義のある日は大阪に出かけます。高い授業料を払っていますし、さすがに家に閉じこもってばかりの毎日では、非健康的ですから。

 (カルチャーセンターのビルから)

 午後の90分の講義が終わると、まだ夏の日差しのきついなか、帽子をかぶり、ペットボトルの水をカバンに入れ、梅田から淀屋橋、本町と、御堂筋の人波の中をウォーキングします。また、天満橋から淀屋橋へと、水に映る高層建築のデザインに点数をつけたり、品格ある戦前の橋の風情を楽しんだりしながら、木立の多い中之島の中を歩くこともあります。自宅近くの大和川の堤をウォーキングするのもいいのですが、大都会の街の風景は刺激的で、こういうウォーキングは脳が活性化されるそうです。

 背が汗に濡れ、それでもクーラーは避けて、街角のオープンカフェでアイスコーヒー。

 何気なく歩く人々を眺めていると、御堂筋の信号を渡ってくる美しいマダムと背の高い男性が目につきました。微笑みを浮かべ、風景の中に浮かび上がっているように見える美女は …… おおっ!! 有名な女優さんでした!

 ま夏の昼下がりのウォーキングも、また楽しい。熱中症に対する心構えは必要ですが、時々は戸外へ踏み出しましょう。

〇 免許証 返した後に じわじわと 得体の知れぬ 寂しさおそう (橋本市/若崎喬子さん)

 高齢者は免許証を返上せよ、とキャンペーンを張っているマスコミや警察は、一度でも高齢者のこういう気持ちを想像したことがあるだろうか?? 最近、小さな違反があったときの若い警察官の高齢者に対する態度が、犯罪予備軍に対するように険しかったと聞いたことがあります。 

 読売俳壇には、こういう句も投稿されていました。

 免許返納 これから春と 言うときに (秩父市/浅見三葉さん)

 高齢者の一人として、自分も返納すべきか迷いながら、一方でむしょうに腹も立ち、ネットで調べてみました。

 すると …… 世代別の車の事故率は、10代の単車事故の多さは超別格としても、各世代の中で事故率が明らかに高いのは20代です。

 そして、あとの世代はドングリの背比べです。30代、40代と70代の差はほとんどありません。80代になるとさすがに増えますが、それでも20代ほどではない。

 にもかかわらず、「また、高齢者の事故!!」の見出し。しかし、記事の中を読むと、事故を起こしたのは60代前半。60代前半も高齢者?? …… これはもう明らかに意図的なキャンペーンです。本人たちはペンは剣より強しとか、権力の見張り番などと言っていますが、世の中がおかしくなるのはたいていマスコミからです。 

 先日、高速道路を「逆走!! 」したのは40代でした。

   しかし、高齢者が次々と、高速道路の逆走をし、アクセルとブレーキの踏み間違いをして、ついには子供たちの列に突っ込んだ事故が決定的となりました。高齢者はアクセルとブレーキを踏み間違える危険な人という認識が固定化し、免許の更新検査や研修が厳しくなって、また、高齢者自身の免許の自主返上も増えています。

 確かに、年を取ると、視力は落ち、視角は狭まり、瞬発力も落ちます。そして認知能力も落ちていきます。ですから、認知症の検査は必要であり、問題があれば免許の返上も必要でしょう。

 しかし、レーサーではないのです。

 もう一方で、絶対に逆走させない高速道路のサービスエリアの構造や指示板の徹底的な再検討と再整備、また、アクセルとブレーキの踏み間違いを防ぐ車の開発、そういうことを促すキャンペーンをマスコミはするべきでしょう。「自動運転」の時代ですよ!! 高齢者だけに責任を転嫁しているようでは、日本はいよいよ中国や韓国の技術力に置いて行かれます。

 車を必要とするのは、まず高齢者や障害者だという認識をもってください。

 核家族化し孤立化した高齢者が、「足」まで奪われると、自分で買い物にも行けなくなります。家に閉じこもりがちになり、たちまち体力・気力は失われ、その先に待つのは老人ホームか寝たきりです。

 次の歌は、今朝、「読売歌壇」で見つけた切ない歌です。

 恥じらいの 捨て場を探す 初めての 入浴介助に 体を預けて (大阪市/宮田和子さん)

  私もいつかこうなると思っています。

 しかし、できたら、死ぬ直前まで何とか自立していたい。「立ち枯れ」というか、「弁慶の立ち往生」というか、そういうのが理想です。高齢者なら、誰でもそう願っています。近くに「ぽっくり寺」と呼ばれる寺もあり、昔から参詣者の多い寺です。

 ちなみに、高齢者である私も、免許証の再交付の検査と研修を受けました。自動車教習所で運転させられましたが、終わった後、教官から、「パーフェクトでした」と褒められました。自分でも、そう思いました。かつて通った「母校」の教習所。免許を取ったときより明らかに上達し、余裕があると思いました。レーサーではないのですから。

 迷いながらも、返上はもう少し先延ばしします。やがて、運転できなくなる日が来るでしょうが、今は自分の「世界」を徒歩圏に狭めたくありません。高齢者も自分の世界を広げていたいのです。

 これも、今朝、見つけた歌です。

 改札で 不意に姿を 消した友は 白杖の人を 導きてをり (相模原市/佐藤邦代さん)

  3句目の字余りが効いて、胸を打たれました。何と心やさしい友でしょう。高齢者や障害者が受け容れられる社会であってほしいです。

            ★   

 次に、いつものように旅を詠んだ2首です。

〇 夏休み ひとり旅する 少年の 向日葵(ヒマワリ)のごとき 顔の明るさ (海老名市/山田山人)

 ヨーロッパを旅していると、ヨーロッパを旅するヨーロッパの若者たちをたくさん見かけます。そういう若者のことを、当ブログのカテゴリー「西洋旅行…旅の若者たち」に、3回に渡って書いています。

 昔から、可愛い子には旅をさせろ、と言います。旅は「自立心」を育てます。いつまでも幼いままでいてほしい親心もわかりますが、やはり自立のあと押しも必要です。

 もう一つ大切なことは、ヨーロッパの青少年のように自国(EU圏)を旅して、自国の歴史と文化を知ってほしいということです。細々した知識のことではありません。この日本列島で育くまれてきた文化はどういうものなのか、どういう特色をもつのか、そういうことについて、自分の言葉で語れるようになるということです。英会話を学んでも、語るべき中身がなければ、外国人の尊敬は得られません。自分探しをしたければ、まず自分の根っこを知ることです。海外旅行を積み重ねても、自分が何者であるかに気づかなければ、それは単なる物見遊山です。

〇 森有正の 『遥かなノートルダム』を手に 大聖堂を 仰ぎ見た秋 (横浜市/森秀人)

 (パリのノートルダム大聖堂)

 選者の小池光氏の評です。

 「 名著を持ってヨーロッパを旅した昔があったのだろう。ノートルダムの大聖堂を仰ぎ見た。圧倒的な感動があった。火災で損傷したけれども、一刻も早い復興を願う」。 

 私も若い頃に読んだ本ですが、なかなか難解な本だった記憶があります。

 印象に残っていることは、「わかる」とはどういうことかについて書かれていたことです。著者はそれを「経験」と呼び、「体験」とは区別します。ルーブル美術館の「ミロのビーナス」像について、あれこれネットで知識を得ても、「わかる」わけではありません。

 留学中、毎日のようにルーブルに通い、いろんな角度から「ミロのビーナス」を眺めているうちに、あるとき、突然、天啓のように、これが「古代エーゲ海文明だ!!」と、すとんと腑に落ちたというのです。そういう「経験」を、著者は「わかる」ということだと述べていたように記憶しています。

 キリスト教徒ではない私も、パリのノートルダム大聖堂に入ったとき、感銘を受けました。それはたぶん、歴史の重みを受けとめたからでしょう。ただし、この場合の歴史とは、フランス革命の暴徒による大聖堂への破壊とか、ナポレオンがここで戴冠式を挙げたとか、そういうペダンチックなことではなく── 中世の時代から現代にいたるまでの無数の善男善女の「祈り」の積み重ねを感じたのだと思います。その総和、結晶がノートルダム大聖堂だと …… そのようなことも書かれていたような気がします。

       ★

 「読売歌壇」の選者の一人が俵万智氏です。

 彼女の『サラダ記念日』は鮮烈でした。その若さと、女性であることと、センスの良さが、今までとは違う新しい短歌として、短歌愛好者を増やしました。彼女の短歌の若々しい感性とわかりやすさ(大衆性??)は、明治の石川啄木の歌に似ています。

 映画『男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日』の中で、「旅立って ゆくのはいつも 男にて カッコよすぎる 背中見ている」という俵万智の歌が字幕で出たときは笑いました。渥美清演じる「寅さん」のカッコよさが一層、輝やきました。

 この歌を銀幕で真面目に演じてカッコがつくのは、石原裕次郎だけ。見送るのは浅丘ルリ子。昔の洋画なら、極めつけは『シェーン』のアラン・ラッド。敵を倒し、負傷しながら、夜の荒野を去っていく馬上のシェーン。少年の呼び声。「帰ってきて、シェーン!! お母さんも待っているよ!! 」。そして、彼らにパロディで「対峙」して、笑いと感動を与えることができるのは、役者・渥美清、一人です。

 話をもとに戻しますが、「読売歌壇」の俵万智氏のもとで選ばれた作品を、過去にこのブログで取り上げたのは1首だけです。多くは言葉遊びに終わっていたり、ゼリー菓子のように甘すぎたりで、私には響きませんでした。「学ぶ」は「真似る」ですから、人は誰も敬愛する偉大な歌人の歌を学び、真似をして、上達するのだと思います。しかし、石川啄木と俵万智は真似できないし、しない方がよいと思います。例えば啄木は、歌人になろうと呻吟・苦吟・努力して歌をつくったのではなく、小説を書きたくて書けない情けない思いの中から、言葉があふれ出てきて、歌になったのです。俵万智も言葉が自ずからあふれ出てくるタイプの歌人です。「旅立ってゆくのはいつも」の歌も、普段着のままの平易な歌です。しかし、覚えて、時に口ずさみたくなる魅力があります。

 しかし、今回、俵万智選の素晴らしい2首を見つけました。いずれも男性の作品で、その点もいい。俵万智の感覚に学びながら、独自の素材で、独自の世界を創り上げていると思います。俵万智氏の評も載せました。

〇 たらたりたり たるたれたれ 夜神楽の 笛うつくしき ラ変活用 (新座市/菊地良治さん)

評) 「笛の音を、文法の活用に見立てた。発想としては永井陽子の『べくべからべくべかりべし……』という先行例はあるが、 上二句の句またがりなど独自の工夫が光る」。

 夜神楽といえば神々の里・高千穂が有名です。「たり」活用の音が、夜神楽の、少し神秘的で、楽しいリズムを醸し出して、優れた作品だと思います。

〇 青空の 裾のほつれを かがりゐる 庭師のありて 雪吊り成りぬ (青梅市/諸井末男)

評)  庭師の動きを空に重ねて表現した上の句が、素晴らしい。大きな景色だ」。

高岡市の高岡大仏

    (高岡大仏の前の雪吊り)

 「雪吊り」を改めて調べると、「雪の重みで果樹や庭木の枝が折れないように、幹にそって一本の支柱を立て、それから縄や針金を八方に張りわたして、枝を吊って力を添えてやる」(歳時記)とあります。

 雪吊りの「裾のほつれ」を繕っている庭師が、青空をバックに描かれています。前の歌が音楽的なら、こちらは視覚的です。

 それぞれに感覚的で、かつ独自の「世界」をつくっていて、素晴らしいと思います。

   

 

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むかし話のありさうな… 「読売俳壇・歌壇」から

2020年01月12日 | 随想…俳句と短歌

(「ロマンチック街道と南ドイツの旅」が(2)でストップしていますが、しばらくお待ちください)。

       ★

明けましておめでとうございます。

皆様にとって、今年も佳い年でありますようお祈りいたします。

 私も、例年どおり、元旦は燗酒で新しい年を祝い、1日は龍田大社、2日は信貴山に参拝してきました。

   ★   ★   ★

 さて、昨年後半の讀賣新聞の「読売俳壇・歌壇」に掲載された俳句、短歌から、私が心を動かされたいくつかの作品を紹介します。いつも申すことですが、ここに取り上げる作品はその俳句や短歌に対する私の心の共鳴であって、作品の良し悪しは関係ありません。また、「私の心の共鳴」ですから、作者の意図の説明や解説でもありません。その点、お断りしておきます。

 今回は俳句。まずは農村の風物を詠んだ作品です。

〇 曼殊沙華 むかし話の ありさうな (東京都/林節雄さん)

 秋の田んぼの畔道などに一斉に花開く曼殊沙華を見ていると、メルヘンチックというか、どこか妖しげな、この世ならぬ風情もあり、また、子どもに語って聞かせたい民話の一つも秘めていそうな感じがします。

 こういう雰囲気をもつ花は珍しいと思います。しかし、句そのものがメルヘンチックで、私はこういう句に心ひかれます。

       ★ 

〇 放棄田に 飛ぶ草の絮(ワタ) 義民の碑 (海老名市/山田山人)

 季語は「草の絮」で秋。

 昔、農民たちが命を懸けて守ってきた大切な田んぼが、今は跡継ぎもなく、収穫の秋に草の絮(ワタ)が飛び交うだけの荒廃地になっています。「飛ぶ草の絮」「義民の碑」… 多くの事象の中から選ばれた言葉の着眼が素晴らしいと思います。昭和を経て、平成、令和の時代は、弥生以来3000年の日本列島の社会と文化に大きな変化が起こっている時代なのかもしれません。

       ★

〇 それらしく 山畑にをる 案山子かな (小金井市/小林るり子さん)

  子どもの頃、田んぼに立つ案山子を見て、あれでスズメやカラスが本当に騙されるのだろうかと思ったものです。

 しかし、当ブログ「国東半島石仏の旅」で見た案山子は、民芸品と言ってもよいリアル感をもち、しかもメルヘンチックで面白かった。穫り入れが終わり、一息ついて、こういうものを作って楽しんでいる国東の農家の人々の遊び心に感心しました。

    ★   ★   ★

 次の2つの句のテーマは老い。私も含めて「日残りて、暮るるに未だ遠し」(『三屋清左衛門残日録』)という世代が増えています。

 日本の高齢者は、今、過去の日本の社会の老人とは違う老いの生き方を切り開こうとしているように思えます。自分の親を看取った後、孤独に、それでも背筋を伸ばして、自分の生を自から引き受けて生きようとしています。

〇 迎えるも 送るも一人 門火焚く (旭市/神成田佳子さん)

 「門火(カドヒ)」は、俳句歳時記によると、「迎え火とか送り火ともいう」。「7月13日の夕、祖先の霊を迎えるために門辺で苧殻(オガラ)を焚く迎え火、16日(または15日)の夜、霊を送るために焚く送り火の総称である」とある。

  旧暦の7月13日、16日ですから、今は8月の13日と、16日(または15日)に行われています。京都の風物詩「大文字の火」も送り火です。

 歳時記の「苧殻(オガラ)焚く」の「苧殻」って何だろう?? 広辞苑によると、麻の皮をはいだあとの茎のことらしい。

 私は神社の注連縄(シメナワ)をずっと稲藁だと思っていたのですが、伝統ある古い神社の注連縄は今でも麻縄らしい。由緒正しい注連縄は、麻縄なのだそうです。ところが、戦後、進駐軍が麻の栽培を禁じてから、麻がなかなか手に入りにくい高価な品物になってしまった。お金のない神社は、稲藁の注連縄で代用せざるを得なくなった。

 縄文時代の「縄文」模様。あれは、何の縄か?? まだ稲作が伝わっていない時代だから、稲藁ではない。戸谷学先生は『縄文の神』(河出書房新社)の中で、縄文の縄は麻縄だと言っています。その証拠の一つが今も続いている神社の注連縄です。言い換えれば、神信仰は縄文の時代に始まっており、その伝統が今も伝わる注連縄の麻縄だと書いておられます。

 話は門火に戻りますが、私が子どものころの岡山では、お盆を前に肥え松が売られていました。母とともに焚いた小枝は、肥え松を短く伐ったもので、松脂が多く、暗闇の中でよく燃えました。

 選者の矢島渚男さんの評です。「 盆に帰ってくる子もなく一人で門火を焚き、送り火を焚く。こうした家が多くなっている。淋しいことだが、盆行事を欠かさない習慣が嬉しい。これは先祖を崇める太古からの素朴な民俗行事である」。

 私たちの世代は、家庭で門火を焚く最後の世代でしょう。

 それはいいのですが、次の世代は自分たちの遺骨を海や山や川にバラまくのかもしれないと思うと、イヤな感じがします。1億人のうちの1人、2人がそういうことをするのはともかく、みなが遺灰をそれぞれ勝手に撒き散らすのはいかがなものでしょう。私もやがて自分は日本列島の土に戻ると思っていますが、それは日本の文化と伝統を重んじたやり方でやりたい。空や海にばら撒くというと、一見、いかにもロマンチックに聞こえますが、文明人のすることではありません。

       ★

〇 また来るは 別れの言葉 花八手 (千葉市/中村重雄さん)

 「八手(ヤツデ)」は、葉が「天狗のうちわ」などと言われる常緑低木。晩秋、白い小さな花をつける。こういう地味な庭木があるのは、とにかく古い民家だろう。

 選者の正木ゆう子さんの評。「 若者同士の明るい『また来るね』もあるだろう。しかし私は、老親を訪ねた帰り際に必ずそう言ったことを、心の痛みと共に思い出す。子がまた来るまでの親の寂しさを思う」。

 この句が、そういう場面の句かどうかわかりませんが、自分にも正木さんと同じような思い出があります。生きて、仕事をすることで精いっぱいで、老親の気持ちは知りながら、寄り添う心の余裕がなかった。夏目漱石が言うように、明治以後の近代社会は、ただ忙しい。

    ★   ★   ★

 次に生活の中の句を3句。

〇 梅雨籠(ツユゴモリ) ラジオよりジャズ 流れくる (大和よみうり文芸から/宮西洋子さん)

 梅雨の日曜日。コーヒーを飲みながら、静かに流れてくるジャズの音色を聞くともなく聞くのはいいものです。

       ★ 

〇 雨蛙 のせ開け閉めの 門扉かな (生駒市/中谷ただこさん)

   田んぼが近いせいか、わが家の小さな庭にも、小さな雨蛙があちこちに隠れています。新聞を取ろうと郵便ポストを開けた途端、中から元気よく跳び出してきてびっくりしたことも。蛙も驚いたのでしょう。

       ★

〇 秋晴れや 球審も打つ 草野球 (川崎市/折戸洋さん)

 昔の話です。近くの団地の小さな公園で、小学生たちが軟式ボールで草野球をやっていました。そのうちの一人は息子でした。通りかかった私は、審判を買って出ました。

 「1回だけ打たせて」と頼んで(審判をやったのはこの瞬間のためである)、バッターボックスに立ちました。スカンと、いい手ごたえがあり、ボールはぐんぐん伸びて、公園のフェンスと樹木の上を越え、その向こうの家の2階の屋根にポンと当たり、跳ね返って庭に落ちました。

 「拾って来いよ。家の人にボールを拾わせてください、と言えばいいんだ」「おっちゃんが打ったんやから、おっちゃん、行って来い」「守っているもんが行くんやろ」。

 それにしても、会心の当たりでした。

   ★   ★   ★

 今回も旅の句で締めくくりましょう。

〇 集落の 奥に奥ある 蝉しぐれ (龍ヶ崎市/矢矧千童さん)

 旅の句ではないかもしれませんが、地方の小さな町をゆく一人旅の旅人を思い浮かべました。ま夏。流れ落ちてくる蝉しぐれ。旅人のリュックの背中にも汗がにじみます。

 

   ( 飫肥の町 )

       ★

〇 旅人の われに道訊く 鰯雲 (西宮市/高崎なほみさん)

 海外旅行は3回目で、初めてツアーに入らず一人でパリに行ったときのことです。

 観光しながら街を歩いていたとき、旅人らしい妙齢の女性が近づいてきて、「あの建物は何ですか?」と聞かれ、驚いた。もちろん、外国語だ。多くの人が歩いているのに、こっちはどこから見ても東アジア系の男。何で金髪碧眼の女性が、パリの街中で、なれなれしく私にものを尋ねるんだ??

 ところが、それ1回きりではなかった。2度、3度。小川のほとりの橋で行き会った韓国人の青年からは、おずおずと「写真を写してもらえませんか」とカメラを渡された。

 私はそんなに他人から声をかけやすい顔をしているのだろうか??

 外国語が話せないから、全て自力を心掛けている。それでも、道がわからなくなって、誰かに聞かざるをえなくなった。それで一人で歩いてきた優しそうな女性に思い切って声をかけた。

 そのあとで、悟った。私に尋ねたり頼んだりした人はみんな一人旅だった。一人旅は一人旅に声をかけやすいのだ。自身、道を尋ねようとしたとき、アベックや家族連れには、声がかけにくかった。旅人でなくてもいいが、一人で歩いている人に声をかけやすい。人種、民族、性別を超えて。不思議な人間心理の発見でした。

 余計な思い出話を書いてしまいましたが、この句は、「鰯雲」が旅情を誘います。鰯雲の美しい秋空です。

       ★

〇 無人駅 また無人駅 稲の秋 (下関市/野崎薫さん)

 例えば、石川啄木の生家のある岩手県の渋民村を訪ねたときも、鈍行列車は北へ北へとみちのくの風景の中を走りました。行けど行けど知らない田園風景なのに、なぜかなつかしいものを感じていました。

 そういう旅に、また出かけたいものです。

 

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旅果てて … 「読売俳壇・歌壇」から

2019年06月09日 | 随想…俳句と短歌

< 短 歌 >

 いつもこのブログを読んでくださっている皆様には、1か月以上のご無沙汰をしてしまいました

   その間に、平成は令和になり、さらに季節も移って、もう梅雨に ……

 がんばって、今から再開します。

 今回は、恒例の、「『読売俳壇、歌壇』から」です。この間に「読売俳壇・歌壇」に掲載された作品の中から、私が心ひかれた俳句と短歌を紹介いたします。

         ★ 

 最初の短歌は、「読売歌壇」からではなく、同紙の日曜日に掲載される奈良県版の俳句、短歌、川柳を載せた「大和よみうり文芸」からいただきました。

〇 清(スガ)すがしく新緑映ゆるこのあした

    佳き気配満ちて「令和」はじまる

   ( 三郷/藤本京子さん )

※ 「令和」という元号は、多くの国民に好感をもって受け入れられました。喜ばしい限りです。

 儒教的徳目や儒教的政治思想を意味としてもたず、この国の早春の季節感を表す言葉が選ばれました。そういう選定の仕方も、本当に良かったと思います。

   ( 鎌倉の白梅 )

 日本では、「真」や「善」を追究するよりも、どちらかといえば、「美」を大切にしてきた伝統があります。正しい生き方よりも、美しい生き方を求めてきた民族です。

 「正しい」という言葉には、絶えずうさん臭さがつきまといます。「正しい」は、絶対的なものです。しかるに、「絶対」は、この世に存在しません。

 それに引き換え、美は相対的なもので、美しさは多様です。春には春の美しさがあり、冬には冬の美があります。

 日本は四季の変化に富み、それぞれの季節にそれぞれの趣があって、万葉、古今の時代から人々は季節感の中に美を見出してきました。和歌も俳句も、そのような風土に根ざして生まれた文芸です。

 そういう文芸の伝統の中から、新しい元号が誕生したのです。

 「新緑映ゆるこのあした 佳き気配満ちて『令和』はじまる」 … 「賀の歌」ですね。「佳き気配満ちて」という表現が、お正月のように清々しく、心改まる気持ちです。

 さて、令和に生まれてくる子もいれば、平成から令和を生き、さらにその先の時代にも活躍する世代もあるでしょう。私は、どう考えても、令和を越えることはありません。

 そういう私の今の願いは、この国が、できたら美しい国として、…… いざとなれば美しくなくてもいいから、「存続」しつづけてほしいということです。

 私たちの国の国土は、1万年も続いた縄文文化の範囲とほぼ一致するそうです。

 遠い過去から継承してきたこの美しい島国を、将来においても、しっかり存続させてほしい。それが、新しい時代を迎えての私の祈りです。

         ★

 次は、若者を詠んだ歌です。

〇 がらがらの電車のドアの脇に立つ

  そんな若者だったわたしも

   (狭山市/奥薗道昭さん)

※ 座席はたくさん空いているのに、一人ドアの脇に立っているのは、10代の後半から20歳前後の若者でしょう。実景であり、「わたしも」と、作者は遠い日の自分の姿を重ね合わせています。

 人を求めながら、人の中に入れない。傷つきやすく、孤独な、しかし、ちょっと反抗的で斜交い(ハスカイ)から世を見ている若者です。

 私も、また、遠い遠い昔、そんな時代がありました。「若者たち」という歌が流行りました。

          ★ 

   次の2つの短歌は、これまた、「大和よみうり文芸」掲載の、しかも同じ作者の作品です。もちろん、新聞に載った日は違います。「大和よみうり文芸」の常連の方だと思います。

〇 紀伊山地 群れ立つ山の一山に

  我は生まれし 父母(チチハハ)の郷(サト)

   (御杖/川北泰徳さん )

※ 作者のお名前の前の「御杖(ミツエ)」は、奈良県の宇陀郡御杖村です。

 歌の初めの「紀伊山地」は、三重県、奈良県、和歌山県にまたがって、紀伊半島の脊梁を成し、畿内では、古来より、最も山深いところとされてきました。記紀の時代から神々の里であり、九州から東征してきたイハレビコの一行は、この奥深い山と谷を抜けて大和に到りました。山岳仏教のふるさとであり、神仏混交の霊場であり、今はユネスコ文化遺産の地になっています。

 ( 熊野那智大社の別宮飛龍神社 )

 話は少し横道にそれますが、もう25年も前のこと、初めて秋色に染まるヨーロッパを旅したとき、こんな文章を書いています。

 「ドイツやフランスの自動車道をバスで走破しながら、ひたすら異国の景色に見とれた。

 ドイツは森の国である。アウトバーンは森の中を通っている。シラカバなどの落葉樹が黄色、きみどり色、茶色になり、森の地面は落ち葉で深々とおおわれていた。それが小雨に煙る景色はすばらしい。一つの森が尽きると、目の覚めるような緑の牧草地や黒っぽい耕作地が広がり、赤い屋根と白壁と出窓が印象的な村があり、やがてまた、森に入る。都会に住むドイツ人は、休暇には森に行き、キノコ狩りをして過ごす。高校生たちは長期休暇になると、ワンダーフォーゲルの漂泊の旅に出る。ゴルフ場は造られず、ディズニーランドもできなかった。彼らは森の民である。

 フランスは大地の国だ。なだらかな丘陵もあるが、緑の牧草地や黒っぽい耕作地は地平まで続き、その中を、うっそうとした並木に縁どられた道路がどこまでも延びる。農家の家は石造りで、古色蒼然としている。日本では夕日は隣村との境をなす山の向こうに沈み、フランスでは畑の果ての地平に沈む。地平線に、夕日を背にしたカテドラルの塔とそれをとりまくような村落のシルエットを望むことができる」。

 初めてヨーロッパの風土に対面した旅の感動が表れている文章ですが、何度もヨーロッパに行くうちに、午後、パリとか、フランクフルトとか、アムステルダムから帰国の飛行機に乗って、日は西へ、飛行機は東へ飛んで、時間より早く日没となり、広大なシベリアの大地の上を延々と飛んで、早朝、東の空に朝焼けが見えたとき、あの向こうに私の国がある、本当に日のいづる国なのだと実感しました。そして、日本海はあっという間に越え、日本の上空にさしかかったとき、上空から見ると山また山です。その山々は、イベリア半島やバルカン半島の裸の山々とは違い、樹木に覆われています。山と山の間の無数の谷筋からは、霧が湧き出ていることもあります。そういう光景を見るにつけ、日本列島は、一つ一つの谷に神話や伝承や祭りをもつ「神々の国」なのだと納得しました。無数の谷筋はやがて集まって川となり、下っていくと、もうその先は海、というところでやっと都会が現れます。

 仮に都会に生まれたとしても、わが母なる国である日本列島は「山また山の国」であり、神々の国です。

〇 子どもゐぬ故に泳がぬ鯉のぼり

   山里の空はかくも青きに

    ( 御杖/川北泰徳さん )

※ 今、都会も少子化ですが、山里は過疎が言われるようになって久しい。若い人々は都会に出て行ってしまい、山里に子どもはいない。長い時代を経て根づいてきた伝統も産業も民俗も、その灯が消えようとしています。

 「山里の空はかくも青きに」…… 山と山の間の真っ青な空が空虚です。

         ★

 違った角度から、都会の青空を詠んだ歌をもう一首。        

ビルとビルの間の空がきれいだったと

   胴上げされし駅伝選手

    ( 土浦市/大竹淳子さん )

※ 選者の小池光さんの評を紹介します。

 「アンカーの選手がみなに胴上げされて、その感想をインタビューで聞かれてこう答えた。なかなか気の利いたセリフ。名言といっていいくらい」。(拍手)

         ★

 今の日本で、子どもは宝です。子どもを詠んだ短歌、俳句をいくつか紹介します。

着ぶくれて散歩しをれば 半袖に

   短パンの園児が手を振りてくる

    ( 五条/竹本光治さん ) 

※ これも「大和よみうり文芸」からいただきました。

 あまりに対照的で、いささか気恥ずかしい気持ち。

 私も「着ぶくれ」の年齢です。それにしても、子どもたちがいると、街も、気持ちも、明るくにぎやかになります。     

         ★ 

< 俳  句 >

 上の歌に続いて、子どもを素材にした句3句。川柳ではありませんが、とても可笑しい。俳句には、川柳より面白い句があります。「俳句」とは、その名のとおり、本来、そういう文芸だったのでしょう。元禄の芭蕉や明治の子規が真面目過ぎたのかもしれません。

昼寝覚め 大人ら何か食べており

  ( 東京都/徳山麻希子さん )

※ 3~4⃣歳ぐらいの子どもでしょうか。子どもの目線でユーモラスに作句しています。

 季語は「昼寝」で、季節は夏ですから、食べていたのは西瓜かもしれません。季語の約束事があることによって、解釈鑑賞もより具体的になります。

 「よく寝てたから、起こさなかったのよ。きみの西瓜はここにちゃんとある。泣くんじゃない」。 

おならして笑ふ赤子や うららなる

   ( 東京都/杉中元敏さん )

※ 「笑ふ赤子や」の「や」は切れ字。「うららなる」は春の季語。「うららかな春の日和」が、「おならして笑ふ赤子」と明るく溶け合って、それにしても、可笑しい。

 これは、女の赤ちゃんですね。(私の推量です)。

 赤子が笑ったのは、おならして気持ちが良かったのか、それとも、赤ちゃんなりに、自分でも可笑しいと感じたのか。意外に、後者かも。言葉はわからなくても、可笑しいことは、わかるんだ。

 季節感を含めて、私は傑作だと思います。 

二つ目はおなかの子へと柏餅

    ( 宮城県/梶原京子さん )

 ママになる女性は食欲旺盛。2つ目の柏餅はお腹の赤ちゃんのためと、周りにも、自分にも、言い訳しています。周りは、この際、寛容です。 

          ★

 「旅果てぬ」…… いい言葉です。次の句は、「旅心」を誘う句、或いは、「春愁」の句。今回とりあげた作品の中でも、一番心ひかれる作品です。

   ( 龍飛崎 )

蜂飼いの花追ひ越して旅果てぬ

    ( 東京都/戸井田英之 ) 

※ 選者の正木ゆう子さんの評を紹介します。

 「花を追って北上する養蜂家の旅が実際に花を追い越して終わるのなら、この句は完璧。しかしそうでなくても、詩的表現だとしても、暫し味わっていたい一句の世界である」。

 毎週、讀賣新聞のこの欄を拝読していて、正木ゆう子さんの選んだ俳句に共感することが多い自分に気づきました。寄せられた多くの句の中から、正木さんが選んだ句に心ひかれるのか。或いは、正木さんのところに投稿されてくる句に、私が心ひかれる句が多いのか。…… 同じことかもしれませんが。

九十六才 日向ぼっこに日が暮れぬ

    ( 秩父市/山口富江さん )

※ ほっこりとぬくもりを感じる好きな句ですが、平凡といえば平凡な句ともいえます。でも、次の正木ゆう子さんの評を読んで、胸をうたれました。

 「常連の冨江さん。自筆のこの投句葉書を枕元に置いて亡くなったという。『令和を四十七分生きました』とご家族の添え書きがある」。     

  美しい人生です(涙)。

               ★

旅果てて 家の明るさ柿若葉

    ( 川越市/横山由紀子さん  )  

※ 5月12日にギリシャのアテネとロードス島を訪ねる旅に出て、同月の21日に帰ってきました。しばらくブログに手がつかなかったのは、その旅と、旅の疲れがあったからです。

 西欧旅行も、これが最後になるかもしれないと思いつつ、出かけた旅でした。

 帰宅すると、この句のように柿の葉が緑で、毎年庭に咲く名も知らぬ野の花が、今年もいっぱい花を開いて迎えてくれました。

  ( 野の花 )

 次回から、「エーゲ海の旅」を連載します。たぶん、ぼちぼちと書き進めていきます。どうか写真だけでも、見てください。

 

    (ロードス島の満月)

 

 

 

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