ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

大島に渡り、中津宮に参拝する …… 玄界灘に日本の古代をたずねる旅(13 / 13)

2016年07月31日 | 国内旅行…玄界灘の旅

    ( 沖津宮遥拝所 )

 宗像大社・辺津宮に参拝した後、車で神湊 (コウノミナト) 港へ向かう。

 天気は曇天。時折、雨。

 港の駐車場に車を置き、ターミナルビルへ。大きな銅鏡のマークが面白い。

 大島への渡船は、日に7、8便あり、フェリーと旅客船がある。

 「渡船」というから、どんなに心細い船かと思ったが、思っていたより立派な旅客船だった。

 ( 渡船ターミナルの銅鏡のマーク )

  

  ( 神湊の突堤の釣り人たち )

 大島も、その遥かな海上にある沖ノ島も、宗像市の一部である。

 大島港までは約8キロ、25分で着いた。

 大島のフェリーターミナルは島の南端にある。

 

         ( 大島漁港 )

 島の面積は約7㎢、周囲約16㎞。島の西側は玄界灘に臨み、東側は響灘に臨む。

 島の人口は900人。渡船ターミナルをはさんで二つの漁港があり、人家はこの辺りに集中している。

 産業は、遥かな昔から漁業。そのほかに小規模な農業。牧場もある。

 船を降り、歩いて食堂を探したが、結局、渡船ターミナルビルの2階に、ささやかなレストランを見つけた。

         ★

 腹ごしらえをして、早速、宗像大社中津宮へ向かう。ターミナルビルから歩いて10分ぐらいの所だ。

 中津宮の社は、本土の辺津宮に向かい合う形で、海に臨んで建つ。

 島の最高峰の御嶽山 (標高224m) の南側の麓にあり、拝殿の位置からは、御嶽山をご神体としているかのごとくに見える。

 ちなみに、2010年の調査で、御嶽山の山頂付近から数々の祭祀用遺物が発見された。

 中津宮から登山道が分け入り、奥の院の御嶽神社に行くことができる。だが、今日は雨なので、登山はしない。

  ( 中津宮の2番目の鳥居 )

 人口の少ない小さな島の、雨模様の日の神社である。およそ、人けはなく、しんと静まりかえっていた。

 鳥居をくぐり、石段を上がって行くと、拝殿に出た。

   

  ( 中津宮の拝殿 )

 ここにも「奉助天孫而 / 為天孫所祭」の「社訓」が掲げられている。

 

    ( 拝殿の扁額 )

 参拝を済ませ、拝殿を回り込むと、側面から本殿を見ることができる。本殿の屋根の片側が、拝殿の方へぐっと延びている。

  

    ( 拝殿の奥の本殿 )

   御嶽山に降った雨は伏流水となり、中津宮のすぐ上で湧き出している。霊水・「天の真名井」とされ、その水が境内を流れる天の川となる。

 川をはさんで小さな祠が二つ、織女と牽牛が祀られている。

 ( 天の真名井 )

 

  ( 織女神社 )

         ★   

 ターミナルビルに戻って、島を巡回するミニバスに乗り、島の北端に向かった。そこに沖津宮遥拝所がある。今夜の宿は、そのすぐそばの民宿である。

 途中、島の学校があった。

         ★

 民宿に荷物を置き、早速、沖津宮遥拝所へ。

 民宿のおばさんから、「すぐそこだ」と言われ、もう少し丁寧に教えてほしいと思ったが、本当にすぐそこだった。

 雨模様の天候で、沖ノ島は到底見えない。

 民宿のおばさんの話では、お天気でも、この時期 (春) はむずかしいそうだ。

 いつの季節が良いのかと聞くと、冬だ、と言う。

 荒涼とした冬の海に囲まれ、来る日も来る日も吹雪いて、山も森も雑草も凍てついた島を訪ねる困難さを思い、雪が積もるでしょう、と聞くと、暖流に囲まれているから雪は降らん、そうだ。

 本州の太平洋側のように、空気が澄んで、真っ青な冬の青空が広がるのだろうか?? 地元の人がそういうのだから、そうなのだろう。

 沖津宮遥拝所は、北の海に臨み、山の斜面を切り取った一角に建っていた。

     

 

  ( 沖津宮遥拝所 ) 

 石段を上り、石の鳥居をくぐって、建物の中に入ると、入った向こう側が窓になり、遥かに沖ノ島が望めるようだ。ただ、今日は建物も閉鎖されていた。

 沖津宮遥拝所も含めて、世界遺産候補。なかなか雰囲気のある「景色」であった。

         ★ 

 民宿で、軽自動車を借り、島を一周してみる。

 島にはハイカー用の眺めの良い遊歩道もあり、海の見える牧場や御嶽山展望台など、天気が良ければ立ち寄りたい所がいくつかあったが、雨ではいかんともしがたく、今日は1か所のみに。

 大島の北西端、神崎鼻に建つ大島・神崎灯台である。

 岬と灯台が好きで、旅の途中、近くを通れば、立ち寄ることにしている。

  ( 筑前大島神崎灯台/第7管区海上保安庁 )

 ( 雨に煙る神崎灯台の海 )

              ★   ★   ★ 

 翌朝もお天気は悪かった。

 民宿のお姉さんが、大島港まで車で送ると言ってくれたが、旅行用バックだけ頼んで、歩いて峠越えをした。島の北端から南端まで、ぶらぶら歩いて30分。

 中津宮へ下り、もう一度、参拝する。

         ★

 船が出航すると、来るときには気付かなかった中津宮の杜と鳥居が、御嶽山の麓に、海に面して、見えた。ツアーに参加するのではなく、自分の足で旅をすると、普通なら見おとすものが、意味をもって見えるようになる。

  ( 中津宮の杜と鳥居 )

  

  ( 遠ざかる大島 )

         ★

 それから、神湊で車に乗り、博多駅でレンタカーを返した。

 新幹線の時間まで、「中州」というところを歩き、櫛田神社に寄った。

 櫛田神社に参拝しながら、博多の男たちには、今も、胸と肩に龍の入れ墨をした海の男たちの血が流れているのだろう、と思った。

      ★   ★    ★

< 旅の終わりに 

 旅の目的は、最小限にしぼる。ここと、ここへ行きたい、あとは付録、というふうに。

 付録についても、おおよその優先順位は、計画段階で自ずからできる。

 しかし、付録は、旅の道中で切り捨てて良いのである。余裕があって行けたら、ラッキーでしたと、加算法で考える。

 10日間のヨーロッパ旅行なら、目的は2つか3つ。2、3泊の国内旅行なら、1つか2つ。そこを見、味わい、何かを感じることができたら、満足する。あとは付録である。

 あれもこれもと、朝から、日が暮れるまで、観光バスで引きまわされる旅は、いやだ。

 旅の楽しみは、日常性を脱し、新鮮な目でものを見、ものを感じるところにある。途中、漂泊感を感じたら、旅らしい旅である。

 だから、旅の日程に、ゆとりは必須である。

         ★  

 今回の旅の目的は、宗像大社だった。近いうちに世界遺産に登録される可能性が強い。登録されたら、国の内外から観光客が押し寄せる。今のうちに、心静かに参拝したい 。

 付録として、宗像氏と同じ海人族であった阿曇氏の志賀海神社にも行ってみたい。

 また、宗像氏や阿曇氏などの海人族が活躍した玄界灘周辺は、日本列島で最も早く稲作が始まり、弥生文化が花開いた地である。大陸や半島との交流の最前線であった、「奴国」や「伊都国」の地も訪ねてみたい。ここまでが付録である。

 太宰府天満宮や、九州国立博物館、太宰府行政庁跡、水城、竃門神社、そして香椎宮などは、ちょっと時代が下って、付録の付録であった。

 しかし、結果的には、[ 阿曇氏の活躍 → 楽浪郡から邪馬台国へのルート・奴国と伊都国 → 香椎宮 → 沖ノ島における宗像祭祀 → 太宰府、水城、竃門神社 ] と接続して、弥生時代から7世紀に至る日本の古代史の流れを、自分の中で確認する旅となった。

 今回の旅は、付録の付録にも行くことができて、結果的にたいへん良かった。

 ただし、かねてからあった、もやもやした疑問も、ますます鮮明になった。

① 海人族と言われる人たちのグループ相互の関係や系譜??

② 日本列島で最初の「クニ」として登場した奴国や伊都国は稲作民(農民)であろうが、そのクニの王たちと、玄界灘で活躍した海人族・安曇氏らとの関係は?? 同族関係?? それとも、協同関係??

③ 奴国や伊都国をつくった人たちは渡来系弥生人?? そうであるとしたら、以前からそこにいた縄文人は??

④ もともと「倭人」とは、誰を指したのか?? 

 しかし、とりあえず、念願の旅は終わった。

 充実した、良い旅だった。(了)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「海の正倉院」と言われる沖ノ島の信仰 …… 玄界灘に古代の日本をたずねる旅(12)(修正版)

2016年07月27日 | 国内旅行…玄界灘の旅

< 宗像大社・辺津宮の神宝館へ >

 

     ( 神宝館入り口 )

 宗像大社の辺津宮への参拝をすませ、神宝館に入館する。

 入場料500円で、国宝の数々を見ることができるのだから、申し訳ないくらいだ。もっとも、その考古学的価値がわかるわけではなく、ブタに真珠、猫に小判ではあるが ……。

 1階フロアーには、狛犬や石像など、宗像大社に伝わる中世以後の美術工芸品が展示されている。

 メインは2階フロアー。玄界灘の海上の島・沖ノ島で、古墳時代の4世紀後半から、平安時代の9、10世紀まで、実に500年間以上に渡って営まれた国家的な祭祀の、その折々に奉納された数々の宝物が、今は国宝に指定されてここに展示されている。

 3階フロアーには、宗像大宮司家伝来の古文書、扁額などが展示されている。展示の中には、宗像大社の社務日誌もある。

 開かれているページは、明治28年5月27日。そこには、玄界灘に浮かぶ沖ノ島で目にした「日本海海戦」の様子が書かれている。戦闘当事者以外で「日本海海戦」を目撃したのは、世界中で、このとき沖ノ島にいた彼ら2人だけであった。

         ★

 司馬遼太郎の 『坂の上の雲』 の最後の巻 (第8巻) は、「敵艦見ゆ」以下、9章で成っている。その3つ目の章が、「沖ノ島」である。

 「この海域に孤島がある。

 『沖ノ島』

とよばれている。

 歴史以前の古代、いまの韓国地域と日本地域を天鳥船 (アマノトリフネ) などというくり舟に乗って往来するひとびとには、このいわば絶海の孤島をよほど神秘的なものとして印象されたらしく、この島そのものを神であるとし、祭祀した。極東の沿岸で漁労をしている種族は、文字ができてからの名称では、安曇とか宗像とかいっていたらしい」。

 「日露戦争当時、この沖ノ島の住人というのは、神職1人と少年1人で、要するに2人きりである。

 2人とも神に仕えている。

 神職は本土の宗像大社から派遣されている宗像繁丸という主典で、祭祀をやる。少年は雑役をする。宗像大社の職階でいえば『使夫』である。……」。

         ★

 社務日誌には、「間もなく敵の艦隊18隻、水雷艦、駆逐艦合わせて56隻、忽然として4海里の処に現る」に始まり、「其の凄絶、壮絶の感を極む」という戦いから、次第に日本軍が優勢になり、「5時ごろよりは、追撃となりて、本島を遠ざかるが故に、日没とともに見ることえざりし」と書かれている。

         ★

< 宗像族のこと >

 神宝館の展示の初めに、「胸肩一族の動向」と題する説明があった。  

 「宗像」は、「胸形」とも表記されたが、宗像の男たちは、みな、胸と肩に龍の彫り物をしていたと言われ、「胸肩」とも表記された。大社側は、一族について述べるときは、「胸肩」を使っているようだ。

 「宗像本土の遺跡調査が進み、胸肩一族の動向が明らかになりつつある。

 宗像地域の内陸にある生産遺跡からは、一族が外来の先進技術である須恵器や鉄の生産技術を早い時期から享受したことを示す資料が確認され、沖ノ島祭祀と類似する鉄鋌や須恵器も発見されている。

 宗像市神湊(コウノミナト)から福津市宮司(ミヤジ)にかけての海岸線一帯には、胸肩一族の奥津城 (オクツキ。墳墓) とされる古墳群がある。副葬品はすばらしい内容で貴重な渡来品も含み、大和政権からの下賜とみられる優品もある。

 高い航海術を持つ一族は大和政権が行う外交交渉や沖ノ島祭祀の際に助力し、政権との関係を強めて成長した。その関係が確固たることを物語るのが宮地嶽古墳で、天武天皇の第一皇子高市皇子の祖父『胸肩君徳善』の墓と考えられている」。

         ★

 7世紀のころ、宗像氏は娘を大海人皇子 (のちの天武天皇) の妃に出した。2人の間には、大海人皇子の最初の男子が生まれた。高市皇子という。

 壬申の乱の折、高市皇子は近江京からいち早く兵を率いて脱出し、逃避行中の父・大海人皇子の下に駆け付けた。以後、19歳の高市皇子は、最前線の司令官として全軍を率い、大津京を陥落させている。

 母が地方豪族の娘であったため、皇太子になることはなかったが、以後、天武天皇を助け、天皇が崩じて皇后の持統が即位した後も、太政大臣として女帝を支えた。

         ★ 

< 今も継承される沖ノ島の信仰 > 

 沖ノ島は、九州本土から60キロの沖合にある、絶海の孤島である。

 周囲4キロ。最高標高243m。「神宿る島」とされ、島全体がご神体で、一般人の立入を禁ずる。

 神職が1人、10日ごとの交代で島に上陸し、祭祀を行っている。港があり、寝泊まりできる社務所もある。真水が湧き、今は太陽光発電装置や船舶無線も完備している。だが、真冬といえども、毎朝、早朝に海に入り、禊ぎをするところから神職の一日は始まる。

 年に1回、5月27日に、応募で選ばれた200人に限って、海で禊をした上で2時間だけ上陸が許される。

 ただし、女人禁制である。また、1木1草といえども島から持ち帰ることは許されない。

 漁船などが遭難して緊急に上陸することは許されるが、その際も禊ぎをし、また、島で見聞きしたことは一切、話してはいけないことになっている。

 この島の信仰は、このような厳しい禁忌とともに、今も生き続けている。

         ★

< 沖ノ島が「海の正倉院」になったのは? >

 第二次大戦後、宗像市出身の経済人・出光佐三 ( 百田尚樹『海賊と呼ばれた男』) らが中心となって、宗像大社復興期成会が発足し、1954年から1971年まで沖ノ島の発掘調査が行われた。その3次に渡る調査の結果、8万点の祭祀遺物と、2万点の縄文・弥生時代の遺物が出土した。

         ★

 早くも、縄文時代前期には、朝鮮半島、玄界灘、瀬戸内海で漁をする海人たちが、この玄界灘の絶海の孤島を漁業の基地にしていたらしい。

 縄文時代、弥生時代を通じて、海人たちによる祭祀も行われてきたであろう。

 しかし、やがて、この島で、それまでの海人たちによる祭祀や北九州の一豪族が行う祭祀とは根本的に異なる、特別の祭祀が行われるようになる。それは、ヤマト王権がかかわる国家的な祭祀であった。

 始まりは、古墳時代の前期に当たる4世紀の後半ごろと推定されている。(その契機については、あとで述べる)。

 その祭祀は形を少しずつ変えながらも500年以上続き、9、10世紀末ごろに終了した。

 終了したのは、直接的には894年に遣唐使が廃止されたこと、間接的には、世の中から古神道の形が消え、神社神道が確立していったことが原因と考えられる。

 祭祀が行われた場所は、沖ノ島のなかの黄金谷と呼ばれる奥行き100mの谷で、ここには12個の巨岩 (神の磐座) があり、また、無数の岩が散乱しているそうだ。

 ここに奉納された品々 ─── 例えば、数多くの銅鏡、シルクロード経由でもたらされたササン朝ペルシャ伝来のカットグラス、金銅製龍頭、唐三彩など ─── から、ここで行われた祭祀は、宗像氏という一地方豪族による祭祀などではなく、国家的な祭祀であったと推定されるのである。

 これらの祭祀遺物は、今、辺津宮の神宝館に収められ、誰でも見学することができる。

  ( 宗像大社のパンフレットから神宝館の宝物 )

 神宝館の展示品の写真撮影は禁止されているので、いただいたパンフレットの写真を掲載した。  

 写真左下の銅鏡は三角縁神獣鏡。

 写真左上は、金銅製の龍頭。右上の純金製指輪は5世紀の新羅製。その下に、奈良三彩の小壺。

 写真右下の機織り機のミニチュアはたいへん精巧なもので、琴のミニチュアなどもあり、これらは伊勢神宮の神宝と共通するそうだ。

         ★

< 沖ノ島の祭祀の背景にある東アジアの中の日本 >

 以下の記述は、近つ飛鳥博物館の館長・白石太一郎氏の研究報告書「ヤマト王権と沖ノ島祭祀」(平成23年)、その他を参考にした。同報告書はインターネットで簡単に取り出すことができる。興味ある方はどうぞ。

 さて、沖ノ島で500年以上に渡って営まれた祭祀は、4期に分類される。

 第1期は、4世紀後半から6世紀にかけての「岩上祭祀」の時期。神の依代 (ヨリシロ) である巨岩の上で祭祀が行われた。

 出土品は21面にものぼる銅鏡、玉、剣などであり、前期古墳の副葬品と似ている。ただ、九州の古墳から21面もの銅鏡が出土した例はなく、このこと一つを取り上げてみても、この祭祀が国家的なものであったことがうかがわれる。

 なぜ、このような祭祀が行われるようになったのかということについて、白石太一郎氏はおおよそ次のように述べておられる。

 弥生時代中期以降、日本で製鉄が行われるようになる6世紀まで、鉄資源は「朝鮮半島南部の弁辰、のちの伽耶からもたらされていたことは疑い得ない。従って、東アジア情勢の動静如何にかかわらず、倭国と弁辰・伽耶地方との交渉は絶えず続いていた」。

 「4世紀の後半になって、高句麗の南下という東アジア情勢の大きな変化を契機に、百済との接触が始まり (伽耶の仲立ちにより、367年に国交開始)、好むと好まざるとにかかわらず、倭国もまた、東アジアの国際舞台に引き出されることになる (391年半島へ出兵。400年高句麗との戦いなど ) 」。

 こうして、もと、玄界灘沿岸の一在地勢力であった宗像氏の航海の神が、4世紀後半、ヤマト王権も関与する国家的な祭祀の対象になっていったのである。

 宗像三女神が、ヤマト王権の神・アマテラスの娘ということになったのが、いつ頃のことかは、わからない。ただ、祭祀をともに行えば、それは自ずからそうなっていったであろう。

  ヤマト王権において宗像氏がその存在を認められるようになったことを示すように、この時期に初めて、宗像地域に61mの古墳が出現する。

         ★

 沖ノ島祭祀の第2期は、5、6世紀から7世紀にかけての「岩陰祭祀」の時期である。張り出した巨岩の庇の下で祭祀が行われるようになる。

 この時期には、後期古墳の副葬品と同じような装身具や馬具が奉納された。新羅の都・慶州の王墓から出土したものと同じ装身具や、古代イランのカットグラスなどもある。

 倭の五王の一人と想定され、「日本書紀」では勇猛果断な天皇として描かれている雄略天皇が、自ら兵を率いて半島に渡ろうとするのを、宗像の神がいさめたという話が載っている。このエピソードが事実かどうかは別にして、宗像の神が大王の意思決定にかかわった話であり、宗像の存在が大きくなったことを示すエピソードである。

 宗像の海岸に沿って、大規模な前方後円墳が営まれたのも、この時期である。おそらく宗像氏が対朝鮮半島との交渉や交易で大きな役割を果たすようになっていたのであろう。

 やがて、百済との交流が深まり、日本に飛鳥文化が花開く。

 第3期は、7世紀後半から8世紀の 「半岩陰・半露店祭祀」 の時代である。神の磐座(イワクラ)であった巨岩から離れた場所で祭祀が行われるようになる。古墳が消滅する時期にも当たる。

 この時期、日本は大化の改新を経て、白村江の大敗があったが、その後、唐と国交を回復する。

 一方、宗像氏は、一族の娘を、時の天皇の実弟 (大海人皇子) に妃として入れている。

 また、720年に完成した「日本書紀」に、アマテラスの子として、宗像三女神が記述された。

 奉献品としては、金属製ミニチュアの祭器、中国東魏様式の金銅製龍頭、唐三彩の花瓶などがあり、国際色豊かである。

 第4期は、8世紀から9、10世紀の、奈良時代から平安時代に当たり、「露天祭祀」の時期である。巨岩から離れた緩やかな傾斜地で祭祀が行われるようになり、古神道の姿から離れていく。

 第4期の出土品としては、祭祀用の土器、奈良三彩の小壺、貨幣、滑石製の人形、馬形、舟形など国内生産品が主となる。

 やがて、遣唐使が廃止されるとともに、国家的祭祀も終了していく。

         ★ 

 2010年には、中津宮がある大島の山上付近でも発掘調査が行われ、奈良三彩の小壺や、舟や馬をかたどった滑石製品など、沖ノ島の4期と共通する祭祀遺物数千点が発掘された。

 その結果、辺津宮 (高宮祭場) から発見されていた遺物をも合わせて、もともと沖ノ島だけで行われていた祭祀が、この時期に大島の山上でも行われるようになり、やがて麓に社殿を営み、神社神道として三女神を祀るようになった、と推定される。  

          ★

< 世界遺産へ向けて >

 2015年9月2日付け讀賣新聞朝刊から

 「『宗像・沖ノ島と関連遺産群』は、三宮と大島の沖津宮遥拝所、古代祭祀を担った宗像氏の墳墓とされる新原・奴山古墳群の5遺産。…… 推薦書案作成に携わった西谷正・九州大名誉教授 (東アジア考古学) は、『古代の祭祀遺跡がほぼ手つかずで残されてきただけでなく、その信仰の伝統が1500年以上も継承されている点で、世界的にも例がない遺跡だ』とその価値を強調する」。

 「この伝統には、『女人禁制』、『上陸前の禊ぎ』といった禁忌も含まれる。登録に向けた最大の課題は、法的な保全管理よりも今後高まる公開や観光圧力への対処かもしれない」。

         ★

 全てを公開すべきであるという主張とか、女人禁制に対するジェンダーの立場からの抗議もあるらしい。

 歴史ある神社なら、たいていどこの神社でも、一般には公開しない、氏子にも見せない、神職のみによる神事が行われている。

 春日大社に、深夜、神をお迎えし、歓待し、お送りする神事がある。荘重に、また、雅やかに、神をもてなしているのは数十人の神職たち。深夜の杜の中である。一般人は誰もいない。が、松明の明かりの届かない木陰の暗闇に、目が2つ、4つ、6つ。鹿たちが不思議そうな顔をして、じっと神事を見つめている、── 公開されていないが、NHKの映像で記録され、その映像が放映され、私はNHKアーカイブで見た。その雅さ、美しさに、心から感動し、改めて日本の文化に誇りをもった。

 国の内外から観光客が押し寄せ、マスコミが殺到するようになったら、お終いである。見たければ、NHKのアーカイブでどうぞ。

 神社ならどこでも、国籍・民族、主義・信条、性別などを問わず、全ての人を受け入れる。

 神社は神々のおわすところ。手水舎で身を浄め、小鳥の声や風の音を感じながら、拝殿から参拝したらよいのである。

 沖ノ島は、島全体が神域であり、聖なる空間である。それを公開にせよ、というのは、「社殿の中」まで見せろ、神職以外の者にも、社殿の中に自由に入らせよ、と言っているのと同じであり、人の心の中を公開せよ、と言っているのに等しい。

  富士山のような美しい自然も、沖ノ島のような日本民族の文化的遺産も、一度失ってしまったら、取り返しはつかないのである。

         ★

 ジェンダーの主張はわかるが、それを唯一絶対の価値として、何にでも押し通してはいけない。

 原始女性は太陽であった。それは縄文時代の土偶の女性のフィギアーを見ても明らかである。それらの像は妊婦である。女性は産む性であり、それは万物の豊穣をも意味していた。

 海人(アマ) の女は海女(アマ)である。彼女たちも海に潜って、魚や貝類や海藻を採った。

 だが、沖ノ島は玄界灘の荒海の彼方にある。一度、荒天になれば、海人も死ぬ。どれくらいの男たちが、この海で死に、帰って来なかったろう。(「玄界灘の旅(10)」に紹介した「万葉集」3869の歌の詞書を参照。3869番前後の歌はすべて、恋人、夫が帰らない歌である)。

 産む性に死んでもらっては困る。ゆえに、女性が沖ノ島へ行くことを禁じ、禁忌とした。

 そもそもがそういうことで、「女人禁制」にした古人の思いは、縄文人が女性のフィギアーをつくった気持ちと同じである。そう居丈高になることはあるまい。

 女性もロケットに乗って宇宙に行く時代に、ロケットをつくる技術者が、今度こそ必ず成功しますようにと、神社に参拝し祈願する。成功したら、改めて、成功の喜びを報告するために神社に行く。そういうものなのである。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いよいよ宗像大社へ、辺津宮に参拝する …… 玄界灘に古代の日本をたずねる旅(11)

2016年07月21日 | 国内旅行…玄界灘の旅

   ( 宗像大社のパンフレットから )

 翌朝、志賀島から「海の中道」を戻り、北上して、宗像大社に向かった。いよいよこの旅の目的地である。

         ★

< 宗像三女神を祀る海の三宮 >

 宗像大社は、九州本土側の辺津宮 (ヘツグウ) 、その沖合11キロの海上に浮かぶ大島の中津宮、そこからさらに49キロの絶海の孤島・沖ノ島の沖津宮に、それぞれ宗像三女神を祀る。

 全国に6000余あると言われる宗像三女神を祀る神社の総本社。世界遺産の厳島神社もその一つである。

 辺津宮の先にある神湊 (コウノミナト) から大島までは、日に7便の船が出る。

 沖ノ島には定期便はない。まさに絶海の孤島である。

 地図上で、辺津宮、中津宮、沖津宮を結ぶと、その延長線は対馬の北東岸をかすめ、朝鮮半島の釜山に達する。

 もっとも、古代に釜山はない。新羅に編入されるまで、半島南部には伽耶 (任那) があり、そのなかに、現在の釜山近く、金海というクニがあった。

         ★

< 宗像三女神へのアマテラスの神勅 >

  記紀によると、宗像三女神は、アマテラスとスサノオの誓約 (ウケイ) のときに生まれたとされる。「古事記」ではスサノオの子とされるが、「日本書紀」ではアマテラスの子になっている。美しい三女神が、当時、乱暴極まりない男であったスサノオの子というのは、どうもおちつかない。ここはやはり、アマテラスの娘ということに。

 その「日本書紀」には、「 一書に曰く 」 という形で、アマテラスが生まれ出た三女神に対して神勅を与えた、ということが書かれている。

 神勅の内容は、そなたたちは北九州から朝鮮半島への海路 (「海の北の道中 (ミチノナカ) 」) に鎮座して、航路の安全を守り、そのことによって皇孫をお助けし、皇孫からの尊崇を受なさい (「天孫を助け、天孫に祭られよ」) 、というものであった。

 宗像大社の辺津宮の拝殿の正面にも、中津宮の拝殿の正面にも、この日本書紀の一文、「奉助天孫而 / 為天孫所祭」が掲げられている。いわば、会社の社訓、学校の校訓のようなものであろう。

    ( 辺津宮の正面に掲げられた額 )

 歴史書である「日本書紀」が完成したのは西暦720年。そのころ、宗像三女神は、北九州と朝鮮半島を行き来する船の航路安全の神であり、そのことによって朝廷から多大の崇敬を受けていたのである。

 しかし、宗像大社の歴史はさらに350年は遡る。

 沖ノ島で見つかった祭祀の折の奉納品の数々から、この島で、少なくとも4世紀には、特別の祭祀が執り行われており、9世紀の遣唐使廃止までそれは続けられていた、ということがわかっている。

         ★

辺津宮に参拝する  >

 車を置いて、鳥居をくぐれば、神域である。  

      

           ( 辺津宮の鳥居 )

 池があり、石橋を渡ると、手水舎があった。

 神門があり、本殿となる。

     ( 神 門 )

 拝殿も本殿も、16世紀に建てられ、年月を経ている。玄界灘の海人族の神社は素朴で力強く、太宰府天満宮のような都雅の趣はない。

   ( 拝殿・本殿 )

 拝殿の向かって左手の小道を奥へ進むと、神宝館がある。数多い神社仏閣の神宝館のなかでも、この鉄筋コンクリート3階建ての神宝館は特別である。何しろ8万点の国宝が収納されている。だが、そこは後回しにして、右手の小道を奥へと進む。

 杜を隔てて、本殿のうしろに当たる位置に、第二宮と第三宮がある。それぞれ沖津宮と中津宮の分霊を祀り、辺津宮に参拝すれば、合わせて他の二宮にもお参りできるようになっている。 

 こぶし大の石が敷きつめられた白木づくりの簡素なたたずまいは、どこかで見たような風だと思ったら、掲示があり、ここの社殿は、伊勢神宮の式年遷宮のとき、神宮の別宮 (瀧原宮) を移築したものだと書いてあった。

   ( 第二宮と第三宮 )

   ( 第三宮 )

 ( 伊勢神宮の瀧原宮 )

         ★ 

< 日本人の信仰の原初的な姿をとどめる高宮祭場 >

 さらに奥へ奥へと入って行くと、高宮祭場に至る。

 50メートルプールほどの広さの空間に、わずかに石の段と、自然木の神籬 (ヒモロギ) があるのみ。垣の外に、神を祭るための簡素な小屋が立つ。

   「神籬」とは、上古、神祭りのときに、清浄の地を選んで周囲に常盤木を植えて神坐としたもの。後世には、代わりに榊を立てた。

 こここそ、遥か昔、宗像の神が降臨された、聖なる場である。

 宗像三宮のうち、沖ノ島と並んで最も神聖な場所とされている。日本人の信仰の原初的な姿が、ここにある。 

   ( 高宮祭場 )

         ★ 

司馬遼太郎『この国のかたち 5 』から。

 「神道に、教祖も教義もない。

 たとえばこの島々にいた古代人たちは、地面に顔を出した岩の露頭ひとつにも底つ磐根の大きさをおもい、奇異を感じた。

 畏れを覚えればすぐ、そのまわりを清め、みだりに足を踏み入れてけがさぬようにした。それが、神道だった。

 むろん、社殿は必要としない。社殿は、はるかな後世、仏教が伝わってくると、それを見習ってできた風である」。

   「その空間が清浄にされ、よく斎かれていれば、すでに神がおわすということである。神名を問うなど、余計なことであった」。

谷川健一『日本の神々』 から

 「『万葉集』 には神社をモリと訓ませている例がいくつかあるが、そこは鳥居も拝殿も本殿もなく、神の目印となる特定の木さえあればモリと呼んでよかった」。

 「沖縄のウタキは神の依代 (ヨリシロ ) と見られるクバやアザカなどの樹木に囲まれた空き地に、聖域を示す小石が並べてある程度にすぎない。そのウタキも …… さらに古くはモリという言葉を使用したと推定される」。

 「『日本書紀』には、崇神天皇の6年に、大和の笠縫邑 (カサヌイムラ) に天照大神を祀ったが、そのときヒモロギ (神籬) を立てたとある。笠縫邑は檜原神社の境内と考えられている。檜原神社には拝殿も本殿もなく、三輪山が御神体となっている」。

 「ヤシロは祭りのとき仮小屋をたてるための土地のことであるが、それがいつしか神社をあらわす語となった」。

  「神社にたいして宮という言葉もある。ミヤはもともと神祭りをする庭を言った。必ずしも建物を必要としないのがミヤであった。『日本書紀』には、敏達天皇14年8月の条に「王 (キミ) の庭 (ミヤ) 」という語が出てくる。沖縄では、現在も庭をミャーと呼んでいる」。

 「記紀の神々には前史があり、神々の物語の背景には別の物語があったことを否定することはできない。それは日本列島に住み着いた人々が、気の遠くなるような長い時間をかけて、民族の意識の双葉の頃から作り上げた神々の前史であり、物語である。弥生時代の初めから『古事記』や『日本書紀』が編纂された8世紀初頭までは1200年以上の時間を費やしている。それは記紀の時代から20世紀末までの長さに優に匹敵する」。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海人・阿曇氏の志賀海神社へ行く…玄界灘に古代の日本をたずねる旅(10)

2016年07月07日 | 国内旅行…玄界灘の旅

   ( 志賀海神社 )

< ロマンの彼方の海人族 > 

 そもそも海人族が、よくわからない。

 「モノ」を発掘して研究する考古学的手法で、その実態に迫ることは難しいだろう。

 「古文献」といっても、海人族の実態に迫るような、信頼性のある記述は少ない。

 ゆえに、研究者の研究も、茫々としていていて、はっきりしない。

 我々素人には、そういうところが面白いのかもしれないのだが ……。

         ★

 紀元前を遥かに遡れば、海人たちは、黒潮にのって、江南地方から、山東半島、遼東半島、朝鮮半島の西岸や南岸、沖縄、九州から、瀬戸内海にかけて、自在に移動し、魚をとって暮らしていた。彼らは魚とりの名人であり、主に潜水漁法によった。

 彼らは「農」に生きる民ではない。だが、モミと、稲作技法と、そのための道具をもつ人々を、北九州の北岸に運ぶ水先案内人の役割を果たしたのは、彼らかもしれない。彼らがいなければ、水稲耕作をするために日本海の波頭を越えようなどと、思うはずがない。

 一衣帯水、彼らに国境はない。

 やがて、東アジアの各地に古代的な国がつくられていくと、海人たちは次第に社会の片隅の存在になっていった。

 だが、少なくとも、ここ、古代日本において、彼らは堂々とした氏族を形成していった。半島や大陸の国々と違って、「倭」は地続きの国ではないから、航海民の技術がなければ、進んだ海外の文物を手に入れることができなかったのである。当然、彼らが祀る海の神々も尊崇された。

 奴国が漢に使者を送って、金印をもらうことができたのも、玄界灘をわが海とする安曇氏らの活躍が背景にあっただろう。

 弥生時代も後半に入ると、鉄の時代になっていく。朝鮮半島から鉄素材を運ぶために、海人たちの航海術は必要欠くべからざるものであった。この時代、鉄は、豪族たちの権力の源である。

 卑弥呼は半島の楽浪郡経由で、大国・魏に使者を送り、また、魏の使者を迎えた。

 西川寿勝、田中晋作共著『倭王の軍隊』によると、古墳時代、大和や河内に都を置いた大王には、直属する海人たちがいた。淡路島の野島の海人たちである。彼らは大王の命で、各地の豪族たちに古墳づくりの資材を運んだ。各地の王と大王を結ぶルートの一翼を、彼らが担った。

 海人たちは、一旦、事が起これば、好むと好まざるとにかかわらず、戦闘員になった。

 朝鮮半島南端部の倭人の援助に行ったときも、4世紀末に倭国が高句麗と戦ったときも、7世紀に大王軍が日本海側から蝦夷を征討したときも、そして、あの白村江の戦いにおいても、海人たちは軍団の一翼を担った。『倭王の軍隊』(同上)は、彼らを「海兵隊」の側面をもつ集団だったとする。

         ★ 

 だが、彼らの系譜となると、深い霧の中に入ったようで、わからない。

 博多湾から玄界灘に出る出入り口に位置する志賀島を本拠とした阿曇氏と、博多湾の中にあって住吉の神を祀る海人たちとは、どういう関係だったのか??

 同じ玄界灘を本拠とする宗像氏は、阿曇氏とどういう関係にあったのか??

   丹後の大豪族・海部氏や尾張の尾張氏も海人系と言われる。彼らは玄界灘周辺の海人たちと、どういう系譜で結ばれていたのか?? それとも、全く別の一族なのか??

 ほとんど五里霧中である。

                          ★

< 海人族たちが祀った神々の系譜 > 

 「古事記」や「日本書紀」は、阿曇氏が祀った神々(祭神)について、次のように書いている。…… もちろん、「神代」の話である。

 イザナミのいる黄泉の国から帰ってきたイザナギは、汚れを清めるため禊 (ミソギ) をし、その禊の過程で多くの神々を生む。

 そのなかで、海の底に沈んですすぎをしたときに成れる神が、底津綿津見神 ( ソコツ ワタツミノ カミ ) と底筒之男命 ( ソコ ツツノヲノ ミコト )。

 潮の中にもぐってすすぎをしたときに成れる神が、中津綿津見神 (ナカツ ワタツミノ カミ) と中筒之男命 (ナカ ツツノヲノ ミコト)。

 潮の上に浮いてすすいだときに成れる神が、上津綿津見神 ( ウワツ ワタツミノ カミ ) と上筒之男命 ( ウワ ツツノヲノ ミコト) であり、

 この三柱の「綿津見神」は、阿曇連らが祖神として祀る神で、「底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命の三柱の神」は、住江 (= 住吉) の三座の大神である、と説明されている。

 綿津見神は博多湾が玄界灘に臨む島・志賀島に祀られ、住吉の三神は、那珂川が博多湾へ出る出口に祀られた。

 このような記述から考えると、「綿津見神」と「住吉の三神」とは、いわば兄弟であり、とすれば、阿曇氏の一族の中に、北九州の「住吉」の神を祀る人々が、いわば分家のような存在で、いたのかもしれない。

 ( ちなみに、この直後に、イザナギの禊で最後に生まれた神が、アマテラス、ツキヨミ、スサノオであった )。

         ★    

 一方、宗像氏が祀る神は、同じ「神代」の話でも、一世代あとの話で、アマテラスとスサノオが誓約 (ウケヒ) をしたときに、スサノオの太刀から、スサノオの子として、宗像三女神が生まれたとされる。

 田心姫 (タゴリヒメ) は宗像の奥津宮 (沖ノ島) に、湍津姫 (タギツヒメ) は宗像の中津宮 (大島) に、市杵島姫 (イチキシマヒメ) は宗像の辺津宮 (ヘツノミヤ) に祀られた。

 こういう記述からすれば、宗像氏は、阿曇氏に遅れて頭角を現した海人の一族だったのかもしれない。

 宗像氏の本拠である宗像大社は、阿曇氏の本拠である志賀島から直線距離にして30キロの北東に位置し、その向こうは響灘である。

         ★

 時代は下って、奈良時代、聖武天皇のころの話であるが、「万葉集」の巻16に、宗像族の男と、阿曇族の男の、海の男同士の交流をしのばせる詞書がある。3869番の歌の詞書である。

 筑前の国、宗像郡の民・宗像部の津麻呂 (ツマロ) という男が、滓屋 (カスヤ) 郡志賀村の白水郎 (アマ、海人と同じ) の荒雄 (アラオ、「ますらお」と同義 ) のもとにやってきて、「私の願いを聞いてくれないか」と言う。志賀島のますらおは答える。「私たちは、郡を異にするけれども、長年、同じ船に乗って生死を共にした仲である。あなたに対する私の気持ちは、兄弟よりも篤い。あなたが死ぬときには従って死んでもよいと思っている。どうしてあなたの頼みを断ろうか」。

 頼みというのは、太宰府から、対馬の防人たちへ兵糧を輸送するよう命じられた。だが、自分は老いて、対馬までは行けない。代わって行ってくれないだろうか、という頼みであった。男気のある志賀島の「ますらお」は引き受けて船出するが、航海の途中、天候が急変して、遭難死するのである。

 万葉集に載った歌は、遭難死したますらおの妻の歌である。遥かに沖へ舟を出し、海に潜ってあなたを探しても、海底の中でもあなたに逢うことができない、と嘆く歌である。海人は、女も潜水が巧みだったのだろう。

 歌の内容はともかく、志賀島の海の男と、宗像の海の男が、時に兄弟よりも強い関係に結ばれていたことがわかる。

         ★

 同じく海人族と言われる海部氏や尾張氏 (津守氏は尾張氏から出た氏族と言われる) の祖神は、天孫降臨したニニギと同世代で、人間界に近い。

 祀る神々の系譜が異なるだけでなく、阿曇族、住吉族、宗像族が玄界灘に本拠を置いたのに対して、海部氏や尾張氏は、大和の要衝の地である丹波地方や尾張地方を抑える豪族である。

 北九州とは別の勢力、或いは、出雲系の勢力かもしれない。「国譲り」をした出雲系豪族の実力者たちである。

         ★

海人族の長であった阿曇氏 >

 さて、阿曇氏であるが、「日本書紀」の巻10「応神天皇」中に、次のようなくだりがある。

 各地の海人たちがそれぞれに勝手なことを言って、大王の命に従わなかった。そこで、大王は阿曇連が祖、大浜の宿祢を遣わして、これを平らげた。これより以後、阿曇連を海人の「宰 (ミコトモチ) 」とした。

 このような記述からも、阿曇氏が、各地に蟠踞する海人たちを統率する有力氏族であったことがうかがわれる。「連」の姓を与えられていたことも、海人族の中での彼らの力を示していると言えよう。

 阿曇氏が本拠地としたのは、博多湾を囲うように、玄界灘に東から突き出した砂洲、今は「海の中道」と呼ばれる8キロの長い砂洲の先端にある、陸続きの島・志賀島 (シカノシマ) である。

 祀る神は、前述の如く、綿津見三神。

 ちなみに、「魏志倭人伝」に記されている魏から邪馬台国への経路は、朝鮮半島の楽浪郡、狗耶韓国を経て、対馬国、一支国(壱岐)、そして北九州玄界灘沿岸の国々になるが、その対馬、壱岐にも 「和多都美神社」 があり、阿曇氏の勢力圏であったことをうかがわせる。

         ★  

 彼らは、海人の長として、大和の大王の下で活躍したが、それは同時に、藤原氏を中心とした律令体制下に組み入れられ、またある時には、中央の政変のなかに巻き込まれて、次第に没落していくという過程でもあった。

 宗像大社や難波の住吉大社が、大陸・半島への航海の安全を祈願をする神々として、その後も、朝廷から重んじられ、「大社」として尊崇を受けたのに対して、阿曇氏と、綿津見三神を祀る志賀海神社の存在感は、次第に希薄になっていく。

 何がきっかけだったのかはわからないが、彼らは、玄界灘の志賀島に、綿津見三神を祀る総本社を残して、いつのころからか、全国各地に移住していった。その結果として、アズミの名は、全国各地の地名として残ることになる。

 例えば、渥美半島、伊豆の熱海、内陸部の川を遡って信州の安曇野、穂高岳山頂の穂高神社の祭神は綿津見三神である。滋賀県の滋賀も、志賀島の志賀ではないかという説もある。

 そこが海人らしい、と、言えば言える。彼らこそ、海人であった。

 彼らの没落のきっかけはよくわからないが、白村江の敗戦と大将軍・阿曇連比羅夫の戦死は大きかったと思われる。

         ★ 

志賀海神社に参拝する >      

 博多湾を玄界灘の荒波から守って天然の良港にしているのは、博多湾を東側から包み込むように、玄界灘の中へ突き出した「海の中道」と呼ばれる8キロの砂洲である。

 言葉どおり海の中にできた天然の「道」で、狭いところでは幅は500mしかない。満潮時には一部が海水で区切られることもあるという。

 そこに造られた近代的な道路を快調に走り、橋を渡ると、志賀島である。東西2キロ、南北3.5キロ、島を1周して9.5キロ。玄界灘への出入り口に当たる。

 漢が奴国王に与えた金印がこの島から出土したということは、阿曇氏が、奴国の経済と文化を支えていたということを示しているのかもしれない。

 島全体が、阿曇氏が祀る志賀海神社の神域。神の島である。

 全国の「綿津見神社」の総本山。

 鳥居の前に広場があり、玄界灘が広がる。

 今は、のどかな光景だが、鎌倉時代、元寇のときには、ここは戦場となった。

 ( 一の鳥居の前から玄界灘を望む )

 広場の後ろは、鬱蒼とした山である。その鬱蒼とした南国的な樹林の一角に、素朴な二の鳥居が立ち、「志賀海神社」とある。

 海を背に、石を積んだ階段が、上へ上へと、樹林の中を延びる。

 

   ( 二の鳥居 )

  やがて、白木の楼門が迎えてくれる。

     ( 楼 門 )

 拝殿、神殿も、素朴なたたずまいが、好ましい。

 拝殿で参拝していたとき、突然、正装した宮司さんが現れて、驚いた。阿曇氏の末裔であろうか。

      ( 拝 殿 )

 境内の一角に遥拝所があり、海に臨む。そこには亀石が祀られている。

 伝説では、神功皇后出征のとき、安曇氏の祖・安曇磯良 (イソラ) が皇后の前に亀に乗って現れ、船の舵取りをしたという。年を経て、その亀は石となった。

 宮司さんは、ここでも、遥拝された。

  ( 亀石のある遥拝所 )

  そして、舞台を去るごとく、楼門から退場された。

 山の中の、人けのない、素朴ではあるが、2千年の由緒をもつ神社の、幻のようなひとときであった。

  ( 夕方のお祀りを終え、楼門から去る宮司 )

         ★

 その夜は、志賀島の先端部にある国民休暇村のホテルに泊まった。

 窓を開けると、潮の音が鳴りとどろいだ。

 大きな近代的なホテルで、私立の女子中学校の、何かのクラブ合宿かと思われる女子生徒たちが宿泊していた。上級生の統率の下、みんなニコニコ、礼儀正しく、感じが良かった。

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする