ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

圧巻のローマ水道橋 ・セゴビア … 陽春のスペイン紀行 8 (最終回)

2013年06月25日 | 西欧旅行…陽春のスペイン紀行

 

           ( 圧巻のローマ水道橋 )

 セゴビアは人口5万5千人。今は観光だけの、ローカルな町だ。

 海抜1000メートルの高原にあり、途中、バスから雪をいただいた山脈も見えた。

 イベリア半島にローマが乗り出してきたときには、すでに存在していた。早くからローマの協力者となって、町は発展する。その名残がローマ水道橋である。

 ローマの崩壊後、西ゴード王国の時代、イスラムによる支配の時代を経て、1083年に、トレドよりも2年早く、カスティーア王国によって再征服される。

 以後、セゴビアのアルカサルは、歴代のカスティーリア王の居城となった。

     ★   ★   ★      

バスでセゴビアへ >

 5月21日は、この旅の最後の一日。マドリッドから、日帰りでセゴビアを観光する。

 トレドはマドリッドから南の方向へ約100キロ。一方、セゴビアは北西の方向へ約100キロの位置にあり、特急に乗れば30分少々で行ける。

 だが、バスで行く。

 スペインは都市と都市を結ぶ長距離バスが発達していて、バスを使う旅行者も多い。 料金が安いし、列車より便数が多く、意外に便利なのだ。

         ★

 ホテルの近くの地下鉄の駅「オペラ」から1駅で、地下にバスステーションがある「プリンシペ・ビオ」駅に着く。ここからセゴビアまで、直通バスで1時間15分だ。

 バスステーションは、広大な地下空間だ。切符はどこで買ったらいいのか?? セゴピア行きはどこから出るのか?? 混雑した構内でとまどっていたら、「何か、お手伝いしましょうか?」と、日本語が聞こえた。振り向くと、リュックを背負った日本人の青年が立っていた。「 ぼく、待ち時間が1時間もありますから、お手伝いしますよ 」。

  「 ありがとう。セゴビアに行きたいのですが」。 

 すぐに近くのインフォメーションへ行って、スペイン語で聞き、「こちらです」と連れて行ってくれた。広い構内の一番端がセゴビア行きだ。券売機で切符を買うのも手伝ってくれて、「もうすぐ発車ですね。よい旅を」と去っていった。

  30代だろうか。バックパッカーの身なりだったが、社会人らしい落ち着きがあり、仕事でこちらに来ているのかもしれない。

 父親よりも年上のおじさんが、外国人ばかりの混雑したバスステーション構内でうろうろしていたら、助けたくもなろうというものだ。ありがとう。

         ★

< 白雪姫のお城と女王イサベルの戴冠 > 

 セゴビアの旧市街は、2本の小さな川に挟まれた高台にあり、城壁で囲まれている。その町の一番奥に、アルカサルがある。

   バスステーションから、アルカサルまでタクシーに乗った。旧市街は、アルカサル見学後、帰りにバスステーションまで歩きながら、見学したらいい。

 タクシーの運転手は、途中で、「ここがお城の一番の撮影スポットだよ」と言って、車を止めてくれた。感謝して、車を降り、急いで撮影する。

 

   ( エレスマ河畔からのお城の眺め )

 ディズニーの「眠れる森の美女」のモデルになったと言われるお城は、ドイツのノイシュバンシュタイン城。セゴビアのアルカサルは、「白雪姫」のお城のモデルになったということで、人気がある。

   お城の入り口には、若者たちや、中・高校生のグループがいた。

 

            ( お城の入り口 )

   ローマ時代から城砦があり、あとから来た西ゴードも、イスラム勢も、その城砦を補修して使った。

 1083年にカスティーヤ王国がセゴビアを奪還した後、12世紀末にアルフォンソⅧ世がセゴビアを本拠に定めて、城も建て替えた。それが現在の城の基礎となっている。

   城内を見学し、152段の石段を登ると、大塔のテラスに立つことができる。

 のびやかな起伏の向こうに水道橋が見え、別の方角には、雪を頂いた山並みを見ることができた。

  

    ( テラスから大塔を見上げる )

     ( 城からの展望 )

 フランスのお城でも、ドイツのお城でも、外見はロマンチックに見えるが、中に入ると、石の壁に囲まれ、冷え冷えとして、殺風景なものである。日本のお城でも同じだ。

 その石壁の一角に、イサベル女王の戴冠の絵が掛けられていた。聖職者に囲まれ、貴族たちを前にした若い女王の顔だけが、死者のように表情がなく、衣装も顔の色も白くて、異様な感じがした。

      ( イサベル女王の戴冠の絵 )

  1474年、イサベルは、腹違いの兄エンリケの訃報を知ると、すぐにこの城で即位した。そして、結婚していたアラゴンの王子フェルナンドの助けを得て、彼女の王位継承に反対する貴族を制圧していった。

 1479年、夫フェルナンドが、父王の死去に伴いアラゴン王位を継承すると、カスティーリア・アラゴン連合王国、すなわちイスパニア王国が生まれた。

 そして、1492年、宿願としていたナスル朝グラナダ王国を陥落させ、レコンキスタ (領土回復戦争) を完成させる。

 熱心なカトリック信者である。贅沢を好まず、夫を大切にし、子を育て、国民を愛し、慈悲深かった。

 しかし、一方で、( 彼女の意思ではなかったという説もあるが )、イスラム教やユダヤ教の民を追放、殺戮し、また、改宗した者に対しても執拗に異端審問を行い、財産を没収し、追放・処刑した。

 かつて、イスラムの支配するイベリア半島は、ユダヤ教徒にとって、ヨーロッパで最も安心して居住できる地であったが、イサベル以後は、最も住みにくいところとなった。

        ★

 この旅の間、ずっと聞こえていた低音部の旋律がある。文明の衝突の歴史は何に起因しているのであろうか??

塩野七生 『神の代理人』 (新潮文庫)から

 この作品で、塩野七生は、「権力欲と物欲の教皇」と言われ、西欧史においても、キリスト教史においても悪評の高い教皇アレッサンドロⅥ世を、「神」に遠いがゆえに、最も「人間」らしい人物として、逆説的に描いてみせた。

 「( 教皇アレッサンドロⅥ世の言葉 ) 『フロリド、おまえは以前にサヴォナローラ ( ルネッサンスのあとのフィレンツェにおいて、恐怖の「神権」政治によって市民を支配した修道士 ) が、"全世界が滅亡しても自分は屈しない" と言ったことを覚えているかね。この言葉に、人々は感動した。何と真摯な思想だろう。何と潔癖な人柄だろうと言って。だが、私は、そのとき、何と利己的で残酷な男だろうと思ったものだ。私なら、もし自分の思想を貫くために世界が滅亡するならば、そんな思想はさっさと引き下げるがね。これが、理想主義者といわれる人間の恐ろしさだ。自分の主義主張に殉じるという人間の危険さなのだ。私は、これだけは確信している。 世界の滅亡どころか、一民族の滅亡とさえも引きかえに出来る思想などは、絶対に存在しないと確信している』。

 「1492年、スペイン人が異教徒をグラナダから追い出したとき、アフリカへ逃げたイスラム教徒に比べて、行き所のなくなったのがユダヤ教徒だった。彼らを引き取ったのが、法王に即位したばかりのアレッサンドロⅥ世である。法王は、ローマの中心の一画を彼らの居留地と決め、そこに住まわせた。そこでユダヤ人たちは、自分たちのシナゴーグまで持つこともできた。キリスト教徒の本山、法王庁のあるローマで、ユダヤ教徒たちは、他のどこよりも平穏に暮らしている。そのうえ法王は、優秀な医者の評判を得ていた一人のユダヤ人を、何のためらいもなく自らの侍医にした」。

        ★

 一神教は、所詮、絶対神である。神か悪魔か、正義か悪か、光か闇か、神を信じる者かそうでない者か、コーランか剣か …、あれかこれかの観念的な二元論の世界である。

 健全であったころのローマがそうであったように、八百万の神々こそ人間世界にふさわしい。梅雨の時期の、草木の繁茂する世界を見よ。同じ緑といえども、雨に濡れて、無限の濃淡・陰影がある。教皇アレッサンドロⅥ世は、キリスト教界の最高位にありながら、最も異教徒的に、「融通無碍」こそ、世界の真理と心得ていたのだ。

        ★

旧市街を通って、ローマの水道橋へ >

 アルカサルを出て、旧市街の街並の中をぶらぶらと歩いて、バスステーションの方へ向かった。

 町の中央部にマヨール広場があり、カテドラル (大聖堂) があった。

 明るい黄褐色の石材が用いられ、ふっくらと優雅な感じから、「大聖堂の貴婦人」と言われるそうだ。そう思ってみると、そういう気もしてくる。

    ( マヨール広場とカテドラル )

 そこから、さらにぶらぶらと歩いているうちに、旧市街の入り口、アソゲホ広場に到った。

 角を曲がると、目の前の低地に、圧巻のローマ水道橋があった

   ( 角を曲がると、ローマの水道橋 )

 2世紀の初め、5賢帝の一人、スペインのアンダルシア出身の皇帝トラヤヌスの時代に建造された。

 水源の山から17キロの水路を引いている。

 水道橋があるのは、この町の入り口付近で、谷間になっているところ。丘の上の旧市街へ水路を引くために、橋を渡した。

   橋の長さは813メートル。一番高いところが28メートル。8階建てのビルの高さだが、わずかに2層のアーチで、2千年以上も支えられてきた。

 

    ( 高さ28メートルは8階建てのビルの高さ )

 19世紀まで上水道として使われていたが、さすがに現在は、庭園の灌漑などに使われているそうだ。

 橋の端が中世の城壁とつながっているが、ローマの橋のほうが遥かに頑丈そうに見えた。

      ( 中世の城壁と水道橋 )

         ★

マドリッドの街角で >

   バスでマドリッドへ戻り、地下鉄の1駅を歩いて帰った。

 ホテルの近くのスペイン広場には、有名なドン・キホーテの像がある。

  

 (セルバンテスとドン・キホーテ主従)

 この広場のあたりは、今も外務省の安全情報や、ガイドブックに、日本人観光客が何度も強盗被害にあった所だから注意と書いてある。しかし、今は、そういう気配は全くなく、のどかだ。白い雲が浮かんでいる。

  

          ( マドリッドの白い雲 )

     ★   ★   ★

 スペインを独力で回ることができ、充実した、良い旅だった。

 今のスペイン? 西欧の田舎かな?  …… 荒涼とした風土。これという産業もない。新大陸を発見して莫大な富を得たが、ただ浪費しただけで、結果的に何にも生かせなかった、と言われる。

 バルセロナなど、今、経済的に豊かな地域は、貧しい中西部のために税金を払うのはばからしいと、独立したがっている。一国として、なかなかまとまれないという、きびしい現実もある。

 だが、ドイツや北欧諸国などより、遥かに長くて、奥の深い歴史をもつ。一国の歴史というより、一国で人類の歴史を体現しているかのようである。遡れば、アルタミラの洞窟のある国だ。

 頑張れ、スペイン! と言うしかない。

         ★

 「冒険とは、…… 身の回りの小さな目標でもいい。できないと思ってきたことに挑むことだ」。( 三浦雄一郎 )

 睡眠不足や胃腸の疲れが、疲労感となってこたえた。 帰国したら、しばらくは休養を必要とする。

 しかし、また、ヨーロッパ旅行に挑戦したい。( 終わり )

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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マドリッドでフラメンコを見る …… 陽春のスペイン紀行 7

2013年06月23日 | 西欧旅行…陽春のスペイン紀行

         ( フラメンコを見る )

< マドリッドの若者のこと >

 今日は5月20日。 

 トレドからマドリッドは、新幹線でわずか30分。早朝のトレドの空は真っ青だったが、マドリッドもいいお天気だ。暑くもない。

 マドリッド・アトーチャ駅からタクシーに乗った。

  「今、‥‥で、ダリをやっている」。

  大きなスーツケースをトランクに入れてくれる動作が、今風の若者らしくちょっとだるそうで、この旅で出会ったタクシーの運転手とどこか違っていた。「アルバイト風」と言うか ……。それが、走り出して間もなく、英語で話しかけてきた。

 ダリ? 何だろう? スペインの若者の間で評判になっているロックグループか何か? それとも、画家のダリ?

 「… 彼は凄い芸術家だ。…… 。あっ、あれだよ!」

  見ると、街角の広告塔に、ダリ展の大きなポスター。

 「ああ、画家のダリだね」。「ダリはスペイン人?」。「スペインには、素晴らしい芸術家がたくさんいるね」

 「そう。我々は、多くの偉大な芸術家を持つ。ダリ … ピカソ … ガウディ ……」

 多分、スペイン語の発音ではなく、世界普遍語の名前の発音を考えながら、挙げているようだ。

 ダリの話が済むと、車が走っている付近の歴史遺産や観光スポットについて、話してくれる。ガイド風にではなく、大学生が、外国からやって来た友人に話すように。

 やがて、グラン・ビア通りへ入り、スペイン広場近くのホテルに着いた。

     ( マドリッドのグランピア通り )

 「我々は、多くの偉大な芸術家をもっている」 ……  好い言葉だ。

  こういう言葉を、日本の若者も持ってほしい。

   そのためには、まず先生や、親が、自国の歴史と文化に誇りをもつことだ。( ただし、隣国のように、国家によって煽動され、他国に憎悪を抱く、偏狭なナショナリズムはいけません )。

 今、スペインの失業率は27%。若者 (高卒、大卒年齢) の失業率は実に57%と聞く。彼も、大学は出たけれど就職できず、とりあえず、やむを得ずタクシー運転手をやっているのかも知れない。 だとしたら、頑張ってほしい。( ドイツの一人勝ちのEUでは、EUは崩壊しますよ。メルケルさん!! )

           ★

< 首都マドリッドのこと >             

  いわゆる雑居ビルだ。そのうちの6階から8階がホテル。昨日のパラドールの料金で、3泊できるほど安い。

 だが、受付の若い女性は、笑顔で、はきはきして、とても感じが良い。 英語が、こちらほどではないにしろ、一生懸命のカタコトなのも良い。( アメリカ人やイギリス人の英語くらいわかりにくい英語はない !!)。

 マンション風にベランダが付いていた。マドリッドの屋根の向こうに 王宮が見える。

  

              ( 遠くに王宮が見えた )

ベランダに / マドリッドの日差し / 雲浮かび

  長旅に倦んで / しばし爪切る 

 ただ、展望はあるが、ローマのように洗練されたショーウインドが並ぶ感覚的・官能的な街ではない。また、パリのように端正で、どこか哀愁のある、美しい街並みでもない。

 どこかドロくさくて、ヨーロッパの大阪、かな?

 海抜650m。人口300万人。

 歴史的には、イベリア半島の中央部の中心は、ずっとトレドだった。

   1561年、フェリペⅡ世がマドリッドを首都と定めた。

 東京に、中古、中世の歴史がないように、ローマ時代の遺跡もないし、イスラム時代の巨大なモスクも歴史地区もない。

 あるのは、プラド美術館とか、王宮とか …… 。それらは長いスペインの歴史の中ではつい最近のものだし、パリのルーブル美術館や、ウィーンのハプスブルグの王宮と比べられるものでもない。

 町を歩いていると、あちこちにディオールの官能的な広告写真が掲示されており、その1枚に街角が映じていた。

 ( ディオールのポスター )

 久しぶりに和食レストランで寿司を食べた。

          ★

< フラメンコを見る >

 夜、フラメンコを見に行く。

 フラメンコは、グラナダやセビーリャでも見ることができるし、何といってもそちらが本場だが、タブラオはマドリッドが多い。

 わざわざこのホテルを選んだ理由の一つは、「カフェ・デ・チニータス」というタブラオが近くにあったから。夜遅く帰る道の安全を考えて、10分で歩いて帰れるこのホテルにした。

 夜、10時30分から始まる第2部の方が、絶対に盛り上がると思ったが、終了が午前0時になるので、8時30分開始の第1部を予約した。

 踊り手の中に、1人だけ男性がいた。舞台に登場したときから、緊迫感というか、すご味を感じさせ、踊りに切れ味があり、男性アスリートの動きだと思った。客席も息をのみ、拍手も一番多かった。

 

 

 セビーリャではお祭りに参加するため、子どもの時から誰でもフラメンコを踊ると言う。

 子どものときから覚え、10代後半でローカルなコンクールに出場して優勝し、才能を見出される。そこから、プロを目指して日々努力し、最後に到達した人がこういう所で踊っているのだろう。

 メンバーの中では若い、長身の女性ダンサーが、とても美しかった。タップのすごさ、手首や指の動きに、プロフェショナルを感じた。

 この旅も、あと1日となった。

     ★    ★    ★ 

   昨日、富士山が世界文化遺産になったという報道。正式名称は、「富士山 ー 信仰の対象と芸術の源泉」。

 これはうれしい。

 その際、委員会を構成する各国の代表が、次々と、特に時間を割いて、日本の文化としての富士山を賞賛してくれたそうだ。

 世界には、日本人が思っているよりもずっと、日本を好きな人たちがたくさんいることに、日本人は気づくべきである。それだけのことを日本はしてきているし、世界に日本の理解者は多いのだ。隣の2国だけが、世界ではない。

 ( 続く )

 

 

 

 

 

 

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西ゴード王国の都 トレド …… 陽春のスペイン紀行 6

2013年06月21日 | 西欧旅行…陽春のスペイン紀行

  ( タホ川と、アルカサルと、大聖堂 )

紅山雪夫『魅惑のスペイン』(新潮文庫)から。

 「『 もしスペインでたった1日しか時間がなかったら、ためらわずにトレドを見よ』 とよく言われる。まさにそのとおりで、トレドはスペインの歴史と文化が一点に凝縮して出来た町だ。

 ツアーの場合は、まず初めにタホ川のかなたの見晴台へ行き、全市を見渡す。足もとには大きく半円を描いて流れるタホ川の深い渓谷があり、その向こうの高台いっぱいに盛り上がるようにして、トレドの旧市街が広がっている。右手のいちばん高い所には巨大なアルカサルがそびえ、左手には大聖堂をはじめとして、いくつもの教会の塔やドームが天を指さすように並んでいる。これほどよくまとまっていて、しかも強烈に個性的な印象を与える都市の眺めは、世界中のどこにもなさそうだ」。

        ★    ★    ★

< 城塞都市トレドを一望する 「パラドール・トレド」へ >

  5月19日(日) ~ 20日(月)。  

  グラナダ、コルドバ、セビーリャと巡ったアンダルシア地方の旅を終えて、セビーリャ8時45分発の新幹線で、マドリッドへ向かった。

 スペインでは、2004年にマドリッド・アトーチャー駅周辺で、列車に仕掛けられた爆弾が次々に爆破するというテロ事件があり、191人が死亡、2千人が負傷した。 アルカイダ系のテロと言われる。

 それ以後、特急に乗る場合、セキュリティ・チェック (荷物検査) がある。また、プラットホームなどでの写真撮影も禁止だ。文明の衝突は21世紀に持ち越されて、世界の現実は厳しい。

   セビーリャからマドリッドまで2時間半の列車の旅。

          ( オリーブ畑が続く車窓風景 )

 マドリッド・アトーチャ駅で1時間の乗継ぎ時間を経て、今日、2度目のセキュリティー・チェックを受け、特急で30分 …… トレドに到着した。タクシーで 「パラドール・トレド」へ。

 パラドールは、昔のお城や修道院などをホテルに改修した、半官半民の、比較的高級なホテル・チェーン。 

  昨年12月のスペイン旅行でも、巡礼の町サンチャゴ・デ・コンポステーラでパラドールに泊まった。広場に面して大聖堂の横にあり、これ以上ない好立地だった。しかも、若者と60歳以上には割引もある。

 ホテル選びも旅の楽しみの一つである。何よりも大事にするのは、立地である。 値段や快適さもあるが、できるだけ 旧市街の真ん中のホテルを選ぶ。観光バスで名所から名所へと連れて行ってもらうツアー旅行ではないから、立地は大切だ。朝、まだ人気のない歴史地区を散歩したり、昼、見学に疲れたら部屋に帰って一休みしたり、さらに、自分の部屋の窓から名所・旧跡のライトアップを眺めることが出来たりしたら、これはもう私的には最高級のホテルである。

 「パラドール・トレド」 の"売り"も、その立地だ。ただし、旧市街の中ではない。タホ川の渓谷をはさんで、トレドの街を一望できる高台にある。

   トレドでは、街の散策はさっと済ませ、このホテルの部屋の窓から、時間とともに変化する城塞都市トレドを眺めたい。これがこの旅の目的の一つでもある。

          ★               

< トレドの歴史 >

 イベリア半島を、東部から、西の大西洋へと流れる大河が、3本ある。

 北からドゥエロ川、古都トレドを巡るタホ川、そして、コルドバやセビーリャの町を流れるグアダルキビル川である。

 ドゥエロ川は、ポルトガルではドウロ川となり、ポルトガル第2の都市・ポルトで大西洋に注ぐ。また、タホ川は、ポルトガルではテージョ川と呼ばれ、首都リスボンが河口となる。

 リスボンの遥か上流にあるトレドは、イベリア半島のほぼ真ん中に位置し、町の東、南、西の三方をタホ川の渓谷に囲まれた、自然の要害にある。ローマ以前から砦があったらしい。BC190年にローマ軍が占拠し、現在アルカサルがある一画に軍営と役所を置いた。

 ローマ滅亡後、569年に西ゴード王国の首都となって、大きく発展した。現在の旧市街を囲む城壁の大部分は、西ゴード時代に築かれた。

 711年、イスラムの軍勢がイベリア半島に侵入する。これを迎え撃った西ゴード王国は、数の上では数倍の軍勢を擁したが、際限のない内部抗争、挙句にイスラム勢力に内通する者も現れ、いざ戦いが始まると総崩れとなる。そして、態勢を立て直すいとまもなく、ドゥエロ川のさらに北の山岳地帯まで逃げ込み、やっとイスラムの進撃を食い止めることができた。彼らはそこにレオン王国をつくる。

 繁栄を誇った後ウマイヤ王朝は、1031年に度重なる内紛に倒れ、20余りの国に分裂して、キリスト教勢力のレコンキスタ (領土回復運動) によって、次々打ち破られていく。

 すでに10世紀にドゥエロ川まで進んでいたキリスト教勢力は、11世紀から12世紀にかけてタホ川の線まで進んだ。西ゴード王国の首都であったトレドが奪還されたのは、イスラム支配下に置かれてから370年後のAD1085年である。

 13世紀にキリスト教勢力は、グアダルキビル川の彼方まで領土を拡大する。1234年に、イスラム勢の首都であったコルドバが、再征服された。

 そして、1492年、イスラム最後の王朝であるナスル朝が、グラナダを明け渡して北アフリカに去り、レコンキスタが終了した。この年は、コロンブスが新大陸を「発見」し、大航海時代が始まった年でもある。まもなく、スペインは日の沈まない帝国になっていく。

     ( トレドの東側 )

  

      ( トレドの西側 ) 

   深いタホ川の渓谷に囲まれ、さらに高い城壁で囲ったトレドの町の、その向こうは?

   …… 耕地も、牧草の広がりも、人間のにおいのする村らしきものも、ない。視界の及ぶ限り、ただ、荒涼たる平原が広がっているように見える。

 ふと、…… 地平をよぎるあの丘のつらなりに、忽然と、何千、いや、万を超える異教徒の軍勢が現れたとしたら …… と、想像してみる。

 アンダルシアもさることながら、イベリア半島中央部の風土も、そこで繰り広げられた歴史も、やはり厳しい。

           ★

< トレドの街歩き

   タホ川を渡らなければ、トレドに入ることはできない。タホ川に架かる橋は、町の東側と西側の2箇所しかない。

 西側のサン・マルティン橋を渡って、城門をくぐった。城門は、橋の両側にあり、要塞化されている。

 

        ( サン・マルティン橋 ) 

   ( 橋の城門 )

         ★

 サン・マルティン橋からトレドの市街地へと坂道を上がっていくと、「カトリック両王の聖ヨハネ修道院」がある。

    

        ( 聖ヨハネ修道院 )

   現在も生きている修道院で、受付で「静粛に見学してください」と言われた。回廊から見る中庭のオレンジの木が風情があった。

         ( 修道院の中庭 )

 「両王」とは、カスティーヤ王国のイサベル女王と、アラゴン王国のフェルナンド王。 レコンキスタの勢力は、長い年月を経てこの2国に収斂され、この2人が結婚することによって、イスパニア王国が誕生する。

 王子、王女時代から知り合い、イサベルが兄の死を聞き、カスティーリア王国内の反イサベル勢力に対抗して自ら女王位に就いたとき、アラゴンのフェルナンド王子は軍を率いて彼女を支援した。このときの勝利を神に感謝して建てたのがこの修道院で、ここを夫婦の墓所と定めていた。だが、グラナダ陥落後、グラナダのあまりの素晴らしさに感動して、そちらに墓所を置いた。

 イサベルは決断力のある女性だが、終生、夫フェルナンドを敬い、仲は良かったらしい。

          ★

 イスラム時代は、首都のコルドバと同じように、トレドにおいてもイスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒が仲良く共存していた。1085年にキリスト教勢力によってトレドが奪還されたあとも、宗教的寛容政策は受け継がれた。

 イスラム教徒やユダヤ教徒がキリスト教への改宗を迫られ、改宗したと申し開きしても、それが本当か見せかけだけかまで、厳しく調べて、徹底的に弾圧するようになるのは、グラナダ陥落以後のことだと言われている。

 一神教世界において、宗教的・思想的純化は必然のことで、イエスも「汝、狭き門より入れ」と言った。純化は、不寛容の裏返しである。

 古来、日本列島は融通無碍の神々の島で、一神教世界の「神か悪魔か」「善か悪か」「光か陰か」などなどの二者択一の考えには、到底なじめない。

 サンタ・マリア・ラ・ブランカ教会は、その名 (白いマリアの教会) のとおりキリスト教の教会だが、元は12世紀に建てられたユダヤ教のシナゴーグだった。建築に当たったのは、モーロ人(イスラム教徒) の工匠だったという。いろいろあったが、今は元の面影を残すように保存されている。もちろん、生きたシナゴークではない。博物館だ。

 偶像がないのはモスクと同じで、白い柱の林立がすがすがしい。

   

(サンタ・マリア・ラ・ブランカ教会) 

         ★

 曲がりくねった路地のような道に迷いつつ、トレドの中心、カテドラル (大聖堂) へたどり着く。このあたりは観光客でいっぱいで、カテドラルの中も大変な人ごみだった。

 聖ヨハネ修道院やサンタ・マリア・ラ・ブランカ教会と比べ、観光客で賑わってはいるが、このカテドラルも、セビーリャのカテドラルの項で書いたのと同じで、情緒はない。

 近くに城門のある、広場のレストランで、昼食兼夕食を食べた。

    ( 広場のレストラン )

 

       ( 町の門 )

            ★

< 朝の光の中のトレド >

 パラドールの自分の部屋からの眺めは最高だった。

 西に日が傾いたころ、そして、翌朝、東から朝日が当たる時間帯が、特に素晴らしかった。

   ( 東側の橋の対岸を守るサン・セルバンド城 )

       ( アルカサルとタホ川 )

   

      ( カテドラル )

    ( サン・マルティン橋 )

 

 ( アルカサルと、サン・セルバンド城 )

 

         ( アルカサルとカテドラル ) 

 ( 続く )

 

 

 

 

 

 

 

 

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うきうきセビーリャ …… 陽春のスペイン紀行 5

2013年06月19日 | 西欧旅行…陽春のスペイン紀行

       (グアダルキビル川とクルーザー船)

< うきうきセビーリャ >

 5月18日。今日は晴れ

 コルドバから新幹線に乗って45分。大西洋に注ぐ河口まであと100キロというセビーリャヘ着いた。 

 コルドバでは川洲に灌木が生い茂っていたグアダルキビル川も、このあたりまで来ると、川幅は広くなり、水量も豊かで、大河の様相を示している。

 川岸には外洋船が停泊し、街の上の空も広く、旧市街に繰り出しているたくさんの観光客たちも、どこかうきうきとして、明るい。

 ここは、フラメンコの本場だし、闘牛も盛んだった。

 コルドバが都として、政治、文化、学問の中心であったのに対して、セビーリャはローマ時代から、地中海や大西洋に開けた商業・港湾都市であり、経済の中心として発展してきた。

 大航海時代には、新大陸から巨万の富を集めた。スペイン各地の巨大なカテドラルも、あの無敵艦隊も、この町に集積された冨によって造られたと言っていい。

 現在の人口は71万人。今も、アンダルシア地方第一の都会である。

        ★

< セビーリャの歴史 >

 この町の歴史は古い。ギリシャ神話に登場し、イベリア半島にいたという部族の王か王妃のものと思われる、見事なネックレスやブレスレットが発見されているそうだ。

 しかし、そんな伝説的に昔のことはともかくとして、グアダルキビル川に臨むこの町の水運のよさに着目し、このあたりの中核都市としてインフラを整備し、今も、市民から、「セビーリャの開祖」とされているのは、ユリウス・カエサルである。

 一方、セビーリャから7キロ離れたところには、イタリカというローマ時代の都市の遺跡がある。BC2世紀に、カルタゴを破ったスキピオが、退役兵士を入植させるためにつくった。ローマ時代は、セビーリャと併存していた町で、城壁、邸宅、水道、公衆浴場、劇場、円形闘技場などが発掘されている。

   このイタリカこそ、ローマ帝国の5賢帝のうちの2人、トラヤヌスとハドリアヌスが出た町である。

 だが、イタリカは、ローマ崩壊後のヴァンダル族の侵入によって、放棄され、無人化した。廃墟になったため、ローマ時代のものが残って、今、遺跡として出土する。セビーリャは生きて発展した街であるから、長年の間にローマ時代のものは取り壊されて、ほとんど何も残っていない。

 711年、モーロ人がアフリカから侵入して、後ウマイア朝を建てた。この時代に発展したのは、王都となったコルドバの方である。

 セビーリャがローマ時代に次ぐ第2の黄金期を迎えたのは、イスラム時代の1172年に建国されたロワッヒド朝の時代である。この時代に、今、セビーリャのシンボルになっているヒラルダの塔も、アルカサルも造られた。

       ★

< ヒラルダの塔とカテドラル >

 セビーリャの市民が、町のシンボルとするのは、ヒラルダの塔である。高さ97mの塔は、街のどこからでも、少し探せば顔をのぞかせる。

   ( ヒラルダの塔 )

 もちろん、モスクのミナレットとして建てられた。

 レコンキスタ後に、モスクの方は壊されて、跡地にはキリスト教のカテドラル (大聖堂) が建てられた。だが、ミナレットは立派すぎて壊せなかった。16世紀にはキリスト教式に鐘楼が付け加えられる。てっぺんに青銅の像があり、風が吹くと回転する。ヒラルダとは、風見のこと。

 塔には70mの高さの所に展望台があり、昇ることができる。面白いことに、階段ではなく、スロープで昇る。人や荷物を背負ったロバが上がれるようにしたらしい。

 キリスト教の大聖堂の鐘楼に昇るには、狭くて急峻ならせん階段を、何百段も昇らねばならない。膝も腰も痛くなり、1、2度経験すれば、十分だ。しかし、ここはスロープというので、挑戦してみた。

 らせん階段よりも広くて、ゆるやかなスロープは、自分のペースでゆっくり昇ることができ、ずいぶん楽だった。ただ、昇りながら異文化・異宗教を感じる情緒はない。苦役のロバになった気分というか。

 

   ( ヒラルダの塔の鐘 )

  ( 塔から望むカテドラルの屋根と白い雲 )

 セビーリャのカテドラル (大聖堂) は、「後世の人々が、我々を正気の沙汰ではないと思うほど、巨大な聖堂を建てよう」という参事会の決議のもとに建設が開始され、100年後の1519年に完成した。スペイン最大、世界で3番目の大きさを誇る大聖堂である。

   外見は、まるで錆びた鉄で覆われたようで、いかにもイカツい。

  ( 中央がカテドラル、右がヒラルダの塔 )

      ( コロンブスの棺 )

 例えば、フランスの大聖堂に入ると、それが古いロマネスク様式の教会であれば、重々しく古びた石壁や、この辺りの農家の娘をモデルにしたような素朴な顔のマリア像や、柱の上には奇怪な姿の悪魔除けがいたりして、キリスト教徒でなくても、どこか懐かしい鄙びた趣を感じる。それがもしゴシックの大聖堂であれば、その伽藍の大きさと高さ、そして宝石箱をひっくり返したようなステンドグラスの美しさに目を奪われる。

 ところが、レコンキスタ後、大航海時代に、巨万の富を得て造られたスペインの大聖堂は、内部に入っても見通しがきかず、巨大な聖歌隊席や、金ぴかの装飾で飾り立てられた内陣が建ちふさがる。それらはいかにも権力的かつ成金趣味で、大聖堂のもつべき何か、例えば、幾世代にもわたってこの聖堂で祈ってきた無数の人々の生活と苦悩に思いを馳せたり、啓示の家としての荘厳さを感じたりする、そういう永遠性のようなものが感じられない。

 そのような富をスペインにもたらすきっかけをつくったコロンブスの棺を、4人の王たちが担いでいた。

        ★

< アルカサル (城砦) >

 アルカサルは、カテドラルの筋向いにある。1248年に、カスティーリア勢がイスラム勢の守るセビーリャを攻略したときに、激戦の場となった要塞だ。

 だが、現存している建物は、城砦ではない。ペドロⅠ世が造り、のちにイサベル女王やカルロスⅠ世が増築した宮殿である。

 ペドロⅠ世は、モーロ文化に心酔し、当時、カイティーリア王国に臣従していたグラナダ王国から多数の職人たちを派遣させ、イスラム時代の城砦を、イスラム風の宮殿に造り変えた。

   ( 客待ちする馭者とアルカサルの門 )

   アルハンブラ宮殿より素晴らしいと書いている人もいる。だが、やや誇張的に言えばアラビアンナイト風で、アルハンブラ宮殿のもつ端正さ、繊細・優美さ、光と陰の美しさ、晴朗な静謐感は、ここにはないと思った。 

 

      ( アルカサルの宮殿 )

 それよりも、イスラム時代のままという、アルカサルの石積みの巨大な城壁に、遥かな歴史を感じて、心惹かれるものがあった。

    ( 城壁のミュージシャン )

 城壁の下で演奏するミュージシャンのおじさんがいた。

 欧州旅行をしていると、パリでも、ウィーンでも、ストリート・ミュージシャンにはよく出会う。日々の生活費を稼ぐベテランもいれば、音大の女子学生の腕試し、という感じのストリート・ミュージシャンもいる。

 つい最近まで、楽器のケースなどにお金を入れてもらっていた。今は、自分のCDを買ってもらうというスマートなやり方に変わってきている。見ていると、観光客が結構立ち止まり、10人ほども集まると、CDを買う人もいる。

         ★

< グアダルギビル川の遊覧船 >

 良く晴れ、日の光は斜めに傾いて、なお明るい。川沿いのプロムナードをそぞろ歩いていると、遊覧船に乗らないかと客引きされた。歩き疲れたので、乗る。

 

   ( グアダルキビル川沿いのプロムナード )

 船長のおじさんは、スペイン語混じりのカタコト英語。

 その話によると、この数日の雨をもたらした前線がくる前は、なんと40度を越える猛暑だったと言う。「今は、とても涼しいが、すぐにまた暑くなる。それがアンダルシアだ」。夏は50度になるそうだ

 いい時に来て、良かった。

 川沿いに建つ「黄金の塔」も、イスラム時代のもの。当時は対岸にも同じような塔が建っていて、鉄鎖を渡してあり、昼はゆるめて川底に沈め、夜になると水面まで引き上げて、川からの敵の奇襲に備えたという。

 上の細い円筒と円蓋は後世のもの。当時は金色に輝くタイルが壁面に貼り付けてあったから、この名が付いた。 

     ( 黄金の塔 )

 グアダルキビル川は広々として、傾いた太陽光線の陰影が美しく、気持ちが良かった。

 

                  ★

 セビーリャの街は、小道の脇にレストランのテラス席を設けられ、夜になってもたくさんの観光客がそぞろ歩き、飲み、食べて、うきうきしている。

 本場のフラメンコを見に行きたかったが、深夜になるので、自重した。明朝、早い列車に乗らねばならない。明日は、マドリッドまで帰り、さらに乗り継いで、トレドまで行く。

 昨年12月のスペイン旅行では、海外旅行中、初めて体調を崩し、しんどい思いをした。もう若くはない。 

 それにしても、この街は、パリに似て開放感があり、明るい。空が広い。 雲のたたずまいが良い。

   

 (ライトアップされた街を走る馬車)

      ( 早朝のヒラルダの塔とカテドラル )

 ( 続 く )

   

 

 

 

  

 

 

 

 

 

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イスラム時代の古都の風情を残すコルドバ … 陽春のスペイン紀行 4

2013年06月16日 | 西欧旅行…陽春のスペイン紀行

       ( 小雨に煙るモンテフリオの村 )

 果てしなく広がる起伏は、全てオリーブ畑。丘も谷もオリーブの木がうめつくす。

 こんな乾いた、石ころだらけの台地には、オリーブしか育たないのだろう。 

 そう思いながら車窓の風景を眺めていると、突然、三角錐の丘が現れ、そのてっぺんには城砦がでんと建っていた。そして、てっぺんの城塞を目指すかのように、白い家の群れがぎっしりと斜面にへばりついている。

 その光景に目を奪われている間に、車は、また、オリーブの林のなかへ入って行った ……。      

饗庭孝男 『 ヨーロッパの四季Ⅱ 』 (東京書籍)から

  「太陽が台地を焼きつけるときの異常なまでの熱さと、台地を去ったときの極端なまでの寒さ …」

  「内陸部の多くが高原で、しかも岩地であれば、この地はつねに何かに渇いている …」。

    ★    ★    ★ 

< グラナダからコルドバへ >

 5月17日。曇天。小雨が降る。

 ホテルのテレビで天気予報を見ると、イベリア半島だけでなく、ヨーロッパ大陸全体に重い雨雲が垂れ下がっている。

 乾燥したスペインでこういう天気は珍しいのであろうが、その分、涼しい。

 予約していた観光タクシーが、アルハンブラのそばのホテルまで迎えに来て、コルドバへ向かう。運転手は、30台後半だろうか、人柄の良さそうな人で、安心する。

   列車で行くところをタクシーにしたのは、紅山雪夫 『魅惑のスペイン』 に、グラナダからコルドバの間の国道432号線はローマ時代からの旧街道で、いかにもアンダルシアらしい景観に恵まれている、と書いてあったから。

 それに、何よりも、タクシー代が安い。飲みすぎて終電車に乗れず、タクシーで家まで帰ったと思えばいい。

        ★

< モンテフリオの村に寄る >

 グラナダを出発して1時間。モンテフリオという村で、1時間の自由見学タイム。ガイドブックには出ていない、名もない村だ。

 頂上に建つのは城砦ではなく教会だが、今は閉じられているらしい。とりあえず丘の上へと、集落の中の道を歩いて行く。

 村の道は、まるで世界から取り残されたような静けさだった。こんな素朴な村の中を、外国人がもの珍しげに歩いてよいのだろうかとためらわれた。

   だが、たまたま道を尋ねた老人は、「どうだ、良い村だろう」「 頂上の教会は‥‥」 と、スペイン語で説明を始める。もしスペイン語を解するような顔をすれば、滔々とうんちくを傾けられたことだろう。

 「 … 何でも聞いてくれ」。人が良く、親切で、話し好きなのだ。何より、自分の村を愛している。

   頂上の石の教会の扉には鎖が掛けられていた。

 頂上近くの家々は洞窟で、門扉と家の前の部分が、洞窟から張り出している。

         ( 洞窟の家の玄関 )

   頂上からの展望は、見渡す限りのオリーブ畑で、野を越え山を越えて続いていた。

   

   (頂上付近からの遠望)

 麓まで降りてくると、現在も使われている村の教会があった。要塞のような教会だ。

 その下あたり、カフェや商店もわずかにあって、この村の一番の「繁華街」なのかもしれない。

       ( 教会と村 )

 再び車に乗る。グアダルキビル川が流れるイスラム時代の都コルドバが近づくと、オリーブ畑の起伏が消え、土地は肥沃になり、一面の小麦畑となった。緑の中に、小麦の黄色が広がって、パステル画のようなやわらかい色調が美しかった。

        ★

古都コルドバの歴史

 コルドバは、紀元前の時代からローマが発展させた都市であり、ローマ帝国の州都であった。

 西ローマ帝国が崩壊すると、イベリア半島にはゲルマンの一族である西ゴード族が侵出し、王朝を建てた。首都は、イベリア半島中央部のトレド。

 711年、イスラム教徒たちが、ジブラルタル海峡を渡ってやって来て、西ゴード王国を倒し、後ウマイヤ朝を建てた。彼らもコルドバを都とし、この王朝の下、コルドバは空前の繁栄を謳歌する。最盛期には、人口も現在の3倍、100万人を超えたと言われる。

 町には、40万冊を蔵する王立図書館があり、学校 (大学) もあった。古代ギリシャ・ローマ文明を受け継ぎ、学問の最先端を行くこの都市に、西欧キリスト教世界からも留学生たちがやってきた。そのような都市コルドバの、今に残る繁栄の象徴が、壮大なモスクの建物である。「メスキータ」と呼ばれる。

 もっとも、後ウマイヤ朝を人口構成でみれば、アフリカからの到来者は1割程度に過ぎない。多くのキリスト教徒たちは安全を保証され、優れたイスラム文明に同化されつつも、キリスト教信仰を維持し続けた。ユダヤ教徒たちも同様である。

 1031年、内紛によって後ウマイヤ朝は崩壊し、イスラム世界は多数の地方勢力の分立となった。

 このころから、宗教的急進主義が起こり、キリスト教やユダヤ教に対し不寛容になていく。

 そうした宗教的「純化」の徹底に反比例するかのように、軍事的力量は低下していった。1236年、南下してきたキリスト教勢力のレコンキスタによって、コルドバは再占領される。

 キリスト教徒による支配になると、コルドバの壮大なモスク・メスキータは改修され、モスクの建物の内部に、キリスト教教会が造られた。

 ローマ時代 → 西ゴード王朝の時代 → イスラム時代 → レコンキスタ後のキリスト教時代と、幾層にも重なる歴史をもつ都市が、コルドバである。 

樺山紘一 『 地中海 ── 人と町の肖像 』( 岩波新書)から。

 「 西暦800年ころの世界地図をみわたしてみよう。おそらく世界最大をきそう都市が4つある。中国は唐の長安、ビザンチン帝国のコンスタンティノープル、イスラーム帝国アッバース朝のバクダード。そして、おなじイスラーム世界の西方を扼するコルドバ。

 そのひとつであるコルドバ。イベリア半島の南部、アンダルシアのグアダルキビル川の河畔にある 」。

                       ★

< グアダルキビル川とローマ橋 > 

   タクシーは、グアダルキビル川の対岸にあるホテルに到着した。

 小雨が降り、グアダルキビル川の中州は緑に潤っていた。その向こうに、旧市街とメスキータの威容を望む。

 

   ( グアダルキビル川とメスキータ )

 グアダルキビル川は、スペイン南西部のアンダルシア州を流れる大河。「大きな川」を意味する。

 スペインには、タホ川、ドゥエロ川など、イベリア半島の中部を横断して流れる大河があるが、いずれも河口はポルトガル領となり (リスボン、ポルト)、大西洋に出るのはグアダルキビル川しかない。

 すでにローマ時代に、商業用船舶や軍船がコルドバまで遡り、コルドバは州都となった。

 イスラム時代にも、コルドバは、都として栄えた。

 コルドバよりも下流に位置するセビーリャは、今も大型船舶の航行が可能である。イスラム時代に、コルドバを凌いでアンダルシア第一の港湾商業都市に発展をした。大航海時代には海洋交易を独占して、スペイン帝国の経済を支えた。

 グアダルキビル川に架かる最古の橋が「ローマ橋」である。

 「( 紀元前のアウグストゥス帝の時代に )、グアダルキビル川に石製の橋が渡された。この橋は、その後いくども補修が施されながら、今も同じ場所で、川面に陰を落としている 」。 (樺山紘一 『 地中海 ── 人と町の肖像 』)

 

   ( グアダルキビル川とローマ橋 )

   この橋が眺めてきた2千年の興亡を思いつつ、旧市街へ入った。

        ★

< メスキータ (コルドバの大モスク) >

 「メスキータ」は普通名詞でモスクのこと。ただし、固有名詞として使われる場合は、コルドバのモスクを指す。メッカのモスクに次ぐ大きさらしい。ただし、「メスキータ」は、キリスト教徒がこの町を奪回した後の呼称である。

 「免罪の門」を入ると、中庭がある。中庭には水盤があり、イスラム教徒はこの水で身を清めて、シュロの門から礼拝堂へ入った。今は、中庭にオレンジの木が植えられ、水盤は装飾的な泉になってしまった。

 ミナレットと呼ばれる塔が建つ。イスラム時代には、お祈りの時間を告げる塔だったが、今は上部がキリスト教式に改造され、鐘楼となっている。

         ( 中庭と塔 )

 西ゴード時代、この場所にはキリスト教会があった。

 コルドバを占領したモーロ人は、最初、キリスト教徒と話し合い、半分だけモスクとして使った。初期のイスラム教徒は、キリスト教徒にも敬意をもち、教会を力づくで接収するようなことはしなかった。

 その後、コルドバの発展とともに手狭になり、残りの半分も買収した。

 それでもどんどん手狭になり、200年の間に3回も大拡張して、結局、2万5千人を収容できる大モスクになったという。

   礼拝堂の中に入ると、偶像や絵画はなく、850本の石柱の森は、しんと静まっていた。

     (メスキータの礼拝堂内部)

 1234年にコルドバが再征服された後、メスキータはキリスト教会として使われるようになり、中庭も、塔も、礼拝堂の中も、徐々に姿を変えていった。

 本来、モスクの内部は中庭との間を隔てる壁がなく、ミナレット (塔) のある中庭に向かって明るく開かれて、晴朗である。それが今は、四方を壁に囲まれた薄暗いキリスト教会の空間になっている。

 16世紀になって、一人の司教が、この石柱群を取り払って、メスキータの中に聖堂を建てるという企画を、カルロスⅠ世に提案した。この案に対しては、キリスト教徒のコルドバ市民も、キリスト教の聖職者たちさえも、この美しい建物をこわしてはいけないと猛反対した。だが、現地を見たことがないカルロスⅠ世は、これに許可を与えてしまった。

 それでも、工事に当たった建築主任は、メスキータの価値を十分に理解し、被害を最小限にとどめるよう設計した。そのお陰で、石柱は156本しか取り払われず、850本が残された。

 とにかく、この巨大なモスクの中央近くには、全く違う建築原理で建てられたキリスト教の礼拝堂が存在する。のちに、コルドバを訪れたカルロスⅠ世は、メスキータに入って、初めて後悔したという。私のカメラも、そこは避ける。

  

    ( 黄金のミフラーブ )  

   ミフラーブは、モスクの壁に埋め込まれた施設で、メッカの方角を示す。信者はミフラーブのある方向に向かって並び、祈りを捧げる。

   簡素な礼拝堂の中で、ミフラーブとその上のアーチだけは、豪華だった。

       ★

< アルカサル (城砦) >

 アルカサル (イスラム時代の城砦) は、メスキータの西側にある。

 現存するのはレコンキスタ後に造りかえられた13世紀末のもので、15世紀にはグラナダ攻略の拠点になった。

 グラナダ陥落直後、コロンブスはこの城でカトリック両王に謁見して、資金援助を仰いだそうだ。 

     ( アルカサル )

 イスラム勢力を追い払い、大改修しても、モーロ文化の影響は濃く、庭園もモーロ風で美しい。

   

    ( モーロ風の庭園 )    

              ★  

< ユダヤ人街の「花の小道」 >

 メスキータの北側は、昔、ユダヤ人居住地だった。今はその名を残すのみ。

 入り組んだ狭い道に白壁の家々。窓辺には鉢植えの花。アンダルシアらしい風景だ。

 そういう通りの一つに、「花の小道」がある。 路地を入って行くと、行き止まりであることがわかり、振り返ると、鉢植えの花の間からメスキータの塔が見える。路地、花、メスキータ。それで、今ではすっかり観光スポットになってしまった。日本出発の団体ツアーも、ぞろぞろと入り込んでくる。

  

   ( 「花の小道」 )

 コルドバの名物料理にラボ・デ・トロ (牛テールの煮込み) がある。わざわざ「テール」などを食べなくても、と思う。

  「エル・カバーリョ・ロホ」というレストランの名店があって、玄関がなかなかオシャレ。お腹もすいていたし、つい入ってしまった。ここもテールが売り。

  「テールを少々。お腹は空いていないから、少しでいい」。

 繁盛して、たいへん忙しそうだったが、誠実なウェイターは、ちゃんとテール料理を半分にして出してくれた。

 恐る恐る食べてみたら、意外にも、美味しかった。もう少し食べたかった。

        ★

< ビアナ公爵邸のパティオ >

  小雨の中、ユダヤ人街を抜けて、ビアナ邸を目指した。この辺りまで来ると、観光客も減り、瀟洒な家々が並んで、コルドバが古都であることを実感する。 

 ビアナ邸は、14世紀の公爵邸。12もの、それぞれ趣の異なるパティオ (中庭) が造られていて、堪能した。気品があった。

 

              ( パティオの一つ )

                  ★

 1日の見学を終え、歩き疲れてホテルに向かう途中、ローマ橋の向こうに虹が架かった。明日はお天気かな?

 雨 上がり / はつかに虹の / ローマ橋

           ★  

 その夜、ホテルの窓から、グアダルキビル川の向こうに、ライトアップされたメスキータが見えた。 (続く)

 

 

 

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アルハンブラ宮殿の静謐 … 陽春のスペイン紀行 3

2013年06月12日 | 西欧旅行…陽春のスペイン紀行

   (グラナダのカテドラル)

 昨日、アルバイシンの丘から旧市街に下り、カテドラル (大聖堂) を見学した。ステンドグラスが美しかった。

 イスラム時代、アルハンブラの麓の町には、モスク、大学、市場、キャラバンサライ(隊商宿)、浴場などがあり、イスラム文化が花開いて、にぎわっていた。現在のキリスト教の大聖堂は、大モスクを壊した跡に建てられたものである。

      ★   ★   ★

< ホテルを移動する >

 今日は、5月16日。昨夜は雨だったが、今朝は、青空に白い雲!!

 朝、タクシーを呼んでもらい、アルバイシンのホテルからアルハンブラ宮殿のそばのホテルに移動した。

 アルハンブラ宮殿見学の予約時間は朝10時。さらに夜の部 ( 夜の10時からライトアップした宮殿内の見学ができる ) の予約も取っている。夜の部の見学を終えた後、深夜の山道を麓の街まで歩くのは危険。それで、アルハンブラに隣接したホテルをとった。

 だが、この夜、見学を終えて城門を出ると、森に囲まれた広場の街灯の下に、たくさんのタクシーが客待ちしていた。タクシーがあると分かっていれば、ホテルを変える必要はなかった。

 独力で行く異国の旅であるから、出かける前に本やネットでできるだけ下調べするが、微妙なところは結局わからないものだ。

          ★

アルバイシンの丘を望む >

   9時。アルハンブラの、遠くから見るとわからなかったが、そばで見ると、いかにも高くて堅固な城壁の中へ入る。城壁の中には、樹木の繁った美しい庭園と建物があった。

 宮殿内見学の予約時間まで、しばらく待った。気候が良く、空が晴れ、空気が澄んでいた。

     ( アルハンブラの城壁の中 )

 アルハンブラは、ダロ川渓谷に切れ落ちる丘の上にあり、元々はアルカサバ (城砦) と、宮殿と、メディナによって構成されていた。

 これから入る宮殿は、行政庁と、その奥の王宮とから成る。

 メディナとは、町のこと。豪族や、王の家臣のほか、商人や職人も住んでいたが、麓の旧市街や、アルバイシンと比べると、高級住宅街だったらしい。ここにも、モスクや、市場や、浴場などの施設もあった。しかし、今、それらは何も残っていない。

 かつてメディナのあった起伏のある広い敷地には、樹木が茂り、バラを初め種々の花々が咲くイギリス庭園風の花園が造られて、美しい。

 昨日はアルバイシンの丘から、アルハンブラの丘を眺望したが、今日は谷を隔てたアルバイシンの丘を眺望した。下の写真の中央の塔の下が、サン・ニコラス展望台である。  

         ( アルバイシンを望む )

 アルバイシンの丘からさらに右手の方へ延びた丘が、サクロモンテの丘 (聖なる丘) で、防御用の城壁が連なっている。

     ( サクロモンテの丘 )

         ★

< ナスル朝宮殿を見学する >

 アルハンブラ見学の中心は、もちろん王宮である。貴重な世界文化遺産であるから、一度に大勢を入れないよう、予約制で人数制限をしている。

 列に並び、予約時間が来て、宮殿に入った。胸がときめいた。

         ★

陣内秀信、福井憲彦『地中海都市周遊』(中公新書) から。

 「普通、世界中どこでも、宗教建築というのは古いものが残りやすいのですが、こういう世俗の建築、住宅や宮殿というものはあまり残っていないわけです。ですから世界的に見ても稀ですし、イスラム文化の中でも中世の世俗建築は、ほとんどここにしか残っていません。たぶん、西アジアや北アフリカにも素晴らしい宮殿があったに違いないのですが、調べようがないのです。そういう意味でも、ここがイスラム建築の粋を集めた最後の場所で、われわれはイスラム文化の最高潮の結晶を直に見ることができます」。

         ★

 王宮の内部に入ると、そこには、これまでの西欧旅行で見てきた西欧文化とは異なる世界があった。

 コマレス宮の「アラヤネスの中庭」は、この先の「大使の間」に通じている。他国の使節が王に謁見するときに通る中庭である。アラヤネスは天人花。

      (アラヤーネスの中庭)

紅山雪夫『魅惑のスペイン』 (新潮文庫) から 

 「 足元では噴水が円形の水盤の中で水しぶきを上げ、北側の柱廊とその上方にそびえるコマレスの塔とが泉池に映じて、たとえようもなく見事だ」。

 「 ほっそりした石柱に支えられ、端正な幾何学文様の漆喰細工で飾られている (7つの) アーチの列は、微妙なバランスを保って全景を引きしめている」。

        ★

 王宮の中心はライオン宮だ。ここは完全に王の一家のプライベートな空間で、「ライオンの中庭」に面して、繊細華麗な装飾の施された3つの部屋がある。

   

  ( ライオンの中庭 … 昼と夜 )

紅山雪夫『魅惑のスペイン』から 

 「 中庭の中心にはライオンの泉があり、12頭のライオンに支えられた大きな水盤からすずやかに噴水が上がっている」。

 「 中庭の四方にある部屋の中にもやはり水盤と噴水が設けられていて、そこから流れ出した水は十字形の水路を伝ってライオンの足元に集まってくる」。

  「 このように部屋の内部にまで水盤と噴水を設けるのはイスラム建築独特の趣向であって、… それは贅を尽くした王侯の宮殿ばかりでなく、一般の邸宅においてもそうだ」。

   ( 中庭の柱廊装飾 )

  (ライオン宮の室内装飾)

 イスラム文化の粋とも言えるこの宮殿は、キリスト教世界の王宮や大司教の宮殿と比べて、

〇 開放的で明るい

 各部屋は中庭に開かれ、或いは、外界に向けて、テラスがあり、窓が開かれている。ローマの神殿や、日本の神社に似て、清々しく晴朗である。

〇 端正にして、繊細・優美

 権力を誇示する巨大さ・豪華さも、目に鮮やかな色彩はない。

 幾何学的な造形。光と陰。そして水。静謐の世界である。柱も、アーチも、窓も、天井や壁の装飾も、ほっそりと、細やかで、優美・繊細である。 

  ただし、その装飾性は、微に入り、細を穿ち過ぎて、時に過剰となる。その点、日本なら例えば日光東照宮、或いは、江戸小紋の世界に似ている。

〇 上の印象と重複するが、イスラム世界には、偶像、或いは、具象のリアリズムがなく、あるのは幾何学模様や、草花模様のアラベスクである。ライオンの像は例外中の例外。

  キリスト教世界の宮殿・邸宅の壁や天井に描かれた、戦闘場面の絵、聖書を題材とする生々しい写実、ギリシャ神話に由来する裸体女性像の数々、恰幅のいい歴代の王と王妃の肖像画などなど、自己肥大的で、巨大で、権力的で、必ずしもセンスが良いとは言えない西洋美術の世界から遠く離れて、その静謐感は心地よい。

             ★

< アルカサバ (城砦) に上がる >

   元々アルハンブラは、城砦として造られた。

 アルハンブラ宮殿を見学するツアーは、日本からのツアーも、現地ツアーも、時間節約のため、アルカサバの見学をカットするそうだ。だが、ここは要塞であるから、アルハンブラで一番、見晴らしのよいところだ。旧市街を見下ろすこともできるし、アルバイシンの丘も、サクロモンテの丘も、一望できる。そして、雪のシェラ・ネバタ山脈も。

  ( 雪のシェラ・ネバタ山脈 )

 「 夜警の塔 」と呼ばれる塔に昇ると、360度の雄大な眺望が楽しめる。また、城砦全体を見下ろすこともできる。

 兵士の宿所や武器庫などがあった所は、今は基礎部分しか残っていない。

  (夜警の塔から見下ろす)

 そこを歩いているのは、小学生のグループ。 この旅の間に訪れた歴史的文化遺産の町で、いつもこのような小学生、中学生、高校生のグループに出会った。これは西欧のどの国でも同じだ。

 どこの国でも、自分たちの国と、民族の文化と、文化遺産 ( 歴史 = 祖先の物語) に、誇りと敬意をもつことを教えている。

           ★

< ヘネラリフェ離宮を散策する >

  アルハンブラの城壁を出て、糸杉の並木道を歩いて行くと、かつての王の離宮、ヘネラリフェ離宮に至る。残っているのは、そのうちのアセキアの中庭と楼閣である。

 中庭の真ん中に細長い泉池があり、両側の噴水が軽やかな水しぶきを上げていた。シェラ・ネバタから引いてきた水である。

 

  ( 中庭の噴水 )

        ★

陣内秀信、福井憲彦『地中海都市周遊』から。

 「特にアルハンブラやヘネラリフェは水の演出がうまい。噴水というと、ヨーロッパでは吹き上げてしまうのが多いですが、ここでは違いますね」。

 「本当に細い、繊細な水がいくつもクロスして吹き出す演出はみごととしか言いようがない」。

 「その音がまた良いのですね」。

        ★

 ジュネーブのレマン湖の湖岸から、湖の中に造られた噴水の水が天高く吹きあがるを見たとき、アルプスの山々に囲まれたこんな美しい自然の中に、どうしてこんな無粋な物を造るのかと、疑問に思ったことがある。

   

  ( 離宮から宮殿の眺望 )              

            ★

 9時過ぎに入城し、10時から見学を始めて、3時間少々、ゆっくりと見て回った。

 夜の部は、午後10時から、ほのかにライトアップされた宮殿を見学した。

 すっかり堪能した。

 その日の午後、アルハンブラバス (赤いミニバス) に乗って、ダロ川渓谷のヌエバ広場に下り、広場近くにある日本人経営のお寿司屋さん 「 ZAKURO (ザクロ) 」で、昼食とも夕食ともつかない食事をした。

          ( ヌエバ広場付近 )

  飛行機の長旅、時差ぼけによる寝不足、海外旅行の緊張、昨夜のサン・ニコラス展望台近くのレストランの濃い味付けの料理などで疲れたお腹に、野菜サラダ、握り寿司、味噌汁は、砂漠の中で出会ったオアシスのようであった。

  「 陽関を出ずれば、故人なからん 」。グラナダを出ると、マドリッドに帰るまで、和食レストランはない。

  旅をするなら、土地のものを食べるべきだ、食も文化の一部、という考えは承知しているが、観光地に旨いものなし、とも言う。 もう20年もヨーロッパ旅行をしているが、旨いものにはなかなか出会わなかった。量の多さ、味付けの濃さにも辟易することが多い。「冬のサンチャゴ・デ・コンポステーラの旅」では、ついにお腹をこわして苦しんだ。もう若いときのようにはいかない。まずは元気に旅をすること。だから、和食レストランがある場合は、迷わずそちらへ。

  困ったのがスペイン時間だ。フランスやドイツ以上に夜型なのだ。たぶん、シェスタの習慣が残っているからだろう。 レストランは、昼は2時~4時。 夜は8時ないし8時半にならないと開店しない。ペースが合わない。それで、朝はホテルでしっかり食べ、午後3時ごろに昼、夜の「兼食」をするようにした。1日2食である。すると、なかなか体調が良い。 ( 続 く )

                                                                                  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

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落日の都 グラナダ … 陽春のスペイン紀行 2

2013年06月10日 | 西欧旅行…陽春のスペイン紀行

  ( アルハンブラとシェラ・ネバタ山脈 )

 ずっとあこがれていた景色があった。アルバイシンの丘から眺めるアルハンブラ宮殿。その向こうには、雪を頂いたシェラ・ネバタ山脈がある …。

     ★   ★   ★

 昨夕、関空から空路でマドリッドに着き、マドリッド・アトーチャ駅から徒歩で10分というホテルに泊まった。

 ホテルにチェックインしたあと、駅の下見に行った。初めての大きな駅なので、明朝、グラナダ行きの特急が出るホームがわからず、迷うのではないかという不安があった。乗り遅れてはいけないし、大きな駅でうろうろしていたら、スリ、窃盗グループにねらわれる。

 駅からの帰り、にわか雨で少し濡れた。

         ★

スペインの乾いた大地を走る >

 今日は5月15日。 マドリッド・アトーチャ駅発9時05分の特急に乗った。グラナダ行きの午前の便は、これ1本しかない。 

 列車が動き始めてまもなく、美人の客室乗務員が朝食を運んできた。飛行機並みのサービスだ。しかし、昨夜、アトーチャー駅で買った寿司を、朝、ホテルで食べたから、コーヒーだけもらう。

 スペイン鉄道 (RENFE) は、飛行機や都市間バスとの競争が激しく、その分、料金やサービス向上に努めているそうだ。

         ★

 スペインの大地は広々としているが、フランスやドイツの田園風景と比べると、乾いて、荒涼としているように見えた。 

 

           ( 車窓風景 )

 広い大地に、突然のように、丘の盛り上がりがあり、丘のてっぺんには城塞や堅固な教会があって、その下に寄り添うように集落がある。平地に住まず、丘の上で暮らすのは、幾世代に渡って文明の衝突が繰り返されたからであろう。それでも、近代的な新しい町は麓の平地にある。

 断層が現れている個所を見ると、石ころだらけの赤茶けた土の層で、その一番上の薄い表層に草がへばりついている。その表面の草地も、石ころだらけだ。肥沃な土壌とはとても言えず、素人目にも農業で生きていくには悲観的になる。

  4時間半の列車の旅の後、13時30分、グラナダ駅に着いた。

         ★

< イスラム教徒の最後の都、落日のグラナダ >

 グラナダは人口26万人の中都市。

 8世紀の初め、地中海を渡って侵入してきたイスラム教徒たち (モーロ人) は、西ゴード王国を亡ぼし、後ウマイヤ王朝を建て、西欧キリスト教世界を凌駕する優れた経済、芸術、学問を成熟・繁栄させた。最盛期は10世紀である。

 一方、イベリア半島の北端と東端に追い詰められていたキリスト教勢力のレコンキスタ (国土回復運動) は次第に勢いを増し、北のカスティーリア王国と東のアラゴン王国とに統一されて、11世紀にはトレドやマドリッドなどイベリア半島の中央部まで侵出してきた。

 そして、12世紀、カスティーリア・アラゴン連合王国が成立する。

 13世紀初め、カスティーリア・アラゴン連合王国が、モーロ人諸王国の連合軍に決定的な勝利を収め、イベリア半島の南西部のアンダルシア地方にあったモーロ人の都・コルドバも陥落した。

 首都陥落の後、1238年に、モーロ人の最後の王国として建国されたのが、ナスル朝グラナダ王国である。5、60キロも南下すれば地中海という地に追いつめられての建国であった。

 しかし、劣勢は如何ともしがたく、グラナダ王国はカスティーリア・アラゴン王国に臣従して生き延びを図るが、ついに1492年、最後の王ボアブディルは、2年間の籠城戦の末、カスティーリア王国の女王イサベラに城を明け渡し、臣下とともに北アフリカに逃れた。

 イスラム勢力の王朝がイベリア半島に誕生してから、最後の幕を下ろすまで、800年の歳月があった。

 モーロ文化の香り高さを今に伝えるのがアルハンブラ宮殿であり、グラナダはクラッシックギターのもの哀しいトレモロが似合う、落日の都である。

         ★

< アルバイシンの丘からアルハンブラ宮殿を望む >

  グラナダの2泊のうち、1泊目は、ダロ川の渓谷をはさんでアルハンブラ宮殿を望むアルバイシン地区に。もう1泊は、アルハンブラ宮殿のそばにホテルをとった。

 「ここから見るシェラ・ネバタを背景にしたアルハンブラ宮殿は、世界一美しく、そして哀しい」と、『地球の歩き方』 にも記述される。

 ホテルに荷を置くと、まっすぐにサン・ニコラス展望台へ向かった。歩いてたった5分だ。そのために、このホテルを選んだ。

 アルハンブラ宮殿の外観は、宮殿というより、城塞である。

 右側が古く、谷 (旧市街がある) に臨む要塞・アルカサバ。

 左側は、山側に位置するナスル宮殿。

  ( アルハンブラ宮殿全景 )

 (シェラ・ネバタ山脈の雪‥‥望遠レンズで撮影)

 アルハンブラとは、赤い城塞の意。なぜ、「赤い」と形容されたのかは、諸説があって、わからない。ただ、緑のなか、レンガ色の城砦が、雪のシェラ・ネバタ山脈を背景にして、美しく、もの哀しく、印象的だった。

 しばらく、ただ見とれていた。

 観光客がいる広場では、ギター弾きのおじさんが、クラッシックギターの名曲「アルハンブラの思い出」を、甘美に演奏していた。

        ★

< 宿泊した小さなホテル >

  この旅で7つのホテルに宿泊したが、アルバイシンの高台にある、王家ゆかりの修道院の、その一部を改修した小さなホテル「Santa  Isabel  Real 」は、ネット上でも大人気のホテルで、実際、とても感じが良かった。

 サン・ニコラス展望台から徒歩5分と近く、周囲のイスラム風の邸宅はアルバイシンらしい雰囲気があった。

 小さなパテオ (中庭) を囲んで各部屋があり、受付の若い女性も、快活で、フレンドリーだった。

 

    ( アルバイシンのホテルのパテオ )

 ヨーロッパを旅していて思うのは、ホテルのレセプションにいる人の態度、雰囲気、マナーだ。 なぜか両極端で、フレンドリーな笑顔で、快活に、きちんと対応する人と、いつも不機嫌で、ふてくされたような、不快な態度を取る人とがいる。その印象の差は、かなり大きい。言葉の異なる旅人にとって、ホテルの良し悪しは、レセプションで決まると言っていいくらいだ。

        ★

< アルバイシンを歩く >

陣内秀信、福井憲彦『地中海都市周遊』 (中公新書)から。

 「そこから丘をずっと登っていった一帯が、アルバイシンという歴史的な住宅街区です。要するにアルハンブラの丘が上層階級が住むところで、アルバイシンは庶民階級の住むところだったのです。坂が立体迷路のようになっていて、ここを歩くのはすごくエキサイティングです。建物は当然のように、中庭構造が基本になっていますね」。

 「今ももちろん人が住んでいて、非常に居心地の良さそうな住宅地です。しかも斜面ですから、ところどころに眺望の広がった広場、スポットがある」。

 「道の角を曲がると、アルハンブラがパッと目の前に現れたりね」。

        ★

 宿泊したホテルの近くにもちょっとした展望台があり、翌朝、朝の光線を受けるアルハンブラ宮殿を目にすることができた。アルバイシンの白壁の向こうに見えて、やはり美しかった。

 緑の生い茂った中にレモンの黄色い実がのぞいて、いかにも地中海風で、印象的だった。

      

        ( 朝の光のアルハンブラ )

紅山雪夫『魅惑のスペイン』 (新潮文庫)から。

 「アルバイシンは不思議な魅力をたたえている街だ。

 坂道に沿って白壁の家々が並び、曲がりくねった狭い道は突き当りばかりのように見えるけれども、そこまで行くとまた別の横丁とつながっていたり、不規則な形をした小さな広場に出たりする。

 白壁の内側に見える木立は、土地の人がカルメンと呼んでいる独特の中庭だそうだが、入り口には木の扉が付いていて残念ながら道路からはまったく見えない。…」

        ★

 道が狭く、曲がりくねっているのは、防衛上の必要からだ。2年間の籠城戦ののち、アルハンブラにいた王や貴族や家来たちは降伏して、北アフリカへ脱れたが、一般庶民にいたるまでイスラム教徒のすべてが移住できたわけではない。

 なかでも、アルバイシンの住民たちは、最後まで戦ったと言われる。

  

  (アルバイシンの路地)

   

   (アルバイシンの窓)

 ガイドブックや出発前に見た外務省の情報によると、アルバイシンの治安は良くない ( アルバイシンの住民とは無関係 )  から歩かないほうが良いと書かれていた。サン・ニコラス展望台へ行きたいなら、旧市街からタクシーで行って、待たせて、タクシーで帰れとあった。そういうこともあって、歩く距離を短くしようと、サン・ニコラス展望台から5分のホテルに泊まった。 

 だが、ホテルのレセプションの快活な若い女性は、マップをくれて、旧市街のヌエバ広場まで下って行くルートを教えてくれ、治安については何も注意しなかった。それで、気を付けながらも、複雑な路地のなかを歩いて下りた。歩いてみると、危険な雰囲気は少しもなかった。欧米系の観光客も、そぞろに歩いていた。

 帰りは、観光スポットを回る小さな赤い乗合バスに乗った。入り組んだ狭い路地を縫って、見事に走るのに、感心した。

 夜はサン・ニコラス展望台のそばのレストランで食事をした。食事中、夕立のような雨が降り出し、雨に煙るライトアップされたアルハンブラ宮殿になった。ホテルまでの帰路、雨はあがったが、暗闇の5分間は少し緊張した。

        ★

 スペインにおいて、特に日本人 (「金持ち日本人」はその風貌・外見から一目で分かる) の被害は、グループで襲って道路に殴り倒し、カネやパスポートを奪いとるという荒っぽい強盗も含めて、すさまじいものがあったようだ。彼らは、日本人が貴重品をポケットに入れず、首から掛けていることも知っていて、力づくで奪うのだ。

 だが、用心はしたが、この旅の間、大都会のマドリッドも含めて、危険を感じるような人影、人相、そぶりには、ほとんど出会わなかった。

 日本大使館からの数年間にわたる繰り返しの要請と、これを受けたスペイン当局の厳しい取組みが功を奏して、今やパリなどよりも安全な国になったようだ。

 ガイドブックに書かれているタクシーのぼったくりにも出会わなかった。 ( 続く )

  

 

 

 

 

 

 

 

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行程など … 陽春のスペイン紀行 1

2013年06月04日 | 西欧旅行…陽春のスペイン紀行

 ちょうど5か月前、12月14日から8日間で、「冬のサンチャゴ・デ・コンポステーラの旅 」 に出かけた。

 短い旅だったが、カソリック教徒の巡礼の地であるサンチャゴ・デ・コンポステーラの、クリスマスを前にした街のたたずまいと、 スペイン最西端の岬フィステーラの断崖から見た、薄日射す冬の大西洋の波濤は、とても心に残った。

 

    (巡礼の目的地の大聖堂) 

   

     (大西洋を望む)

    ★    ★    ★

  ローカルが先になり、メインがあとになった。

  今回はイベリア半島西南部、地中海をはさんでアフリカ大陸に間近に向かい合うアンダルシア地方 ( グラナダ、コルドバ、セビーリャ) 、 そしてイベリア半島の中央部・首都マドリッド近辺の、トレド、セゴビアという、 スペインの歴史の表舞台となった地方や都市を旅の目的地とする。

  特にアンダルシア地方は、かつてイスラム勢力がイベリア半島を支配していたときに都が置かれた地であり (コルドバ)、キリスト教勢力の反転攻勢に対して、最後まで踏みとどまった地でもある (グラナダ)。暗黒の中世ヨーロッパの中で、最も華やかな文明が花開いた。そして、今もイスラム文化の残り香がかおる地方である。

 白壁の家々、花いっぱいのパティオ(中庭)、アラベスク模様のタイル、回廊や泉、そしてフラメンコ……。

 紀元前、カルタゴの名将ハンニバルは、イベリア半島で兵を養い、ローマへ進撃した。

 カルタゴは、アフリカ大陸の北岸に航海民・フェニキア人がつくった地中海を制する覇権国家だったが、ローマは苦闘の末にハンニバルを破り、カルタゴを倒した。その結果、イベリア半島もローマの支配圏に入る。

 ローマ帝国の時代、イベリア半島は五賢帝のうちの二人を輩出し、パクス・ロマーナを謳歌した。

 西ローマ帝国が崩壊すると、イベリア半島にはゲルマン民族の一族、西ゴード族が侵入して、王国をつくった。

 一方、アラビア半島に興ったイスラム教は、わずか100年で、地中海に臨むアフリカ北岸を席巻・支配し、怒涛の勢いでイベリア半島まて攻め込んできた。西ゴード王国は壊滅する。

 当時にあって、ローマ文明の精髄を最もよく継承していたのはイスラム教徒 (モーロ人) であり、イベリア半島は、彼らの進んだ文明・文化のもとに、キリスト教も、ユダヤ教も信仰の自由を認められて、ヨーロッパ世界で最も学問が花開き、繁栄した。

 やがて、イベリア半島の北方と東方に追い詰められていたキリスト教徒によるレコンキスタ (領土回復戦争) が起こり、数百年の戦いを経て、モーロ人の築いた最後の王国グラナダも陥落させる。

 そして、マルコ・ポーロが新大陸を発見し、大航海時代を経て、世界に植民支配を広げる時代へと進んでいく…。

 このように、イベリア半島は、良くも悪しくも、 異民族が激突し、征服しあい、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教という異なる一神教同士がぶつかりあった歴史を持つ。

 このような文明の激突は、ユーラシア大陸の東の果て、黒潮洗う島国、日本にはない。

     ★   ★   ★

5月14日 (火)  ……  KLオランダ航空で、 関空を出発し、アムステルダムを経由して、マドリッドへ。

                  

5月15日 (水) …… マドリッド 9:05発 、グラナダ13:30着。 

          < グラナダ観光  (アルバイシン)

5月16日(木) …… < グラナダ観光 (アルハンブラ宮殿)

5月17日(金) …… タクシーで 、 グラナダ9時発。途中、モンテフリオに寄り、 14時ごろコルドバ着。 

          < コルドバ観光 > 

5月18日(土) …… コルドバ9:44発 、セビーリャ10:30着。

          < セビーリャ観光

5月19日(日) …… セビーリャ8:45発 、マドリッドで乗り換えて、トレド12:53着。

          < トレド観光

5月20日(月) …… トレド10:25発 、 マドリッド10:58着。

          < フラメンコ観賞

5月21日(火) …… 長距離バスで 、セゴビア往復。

          < セゴビア観光

5月22日(水) ‥‥ マドリッドを10:20に出発し、アムステルダムで乗り継ぐ。

             

   上空からのオランダは、スペインと比べると、いかにも潤い豊かな緑の土地であるように思える。

5月23日(木) ‥‥ 関空着8:30。

       ★

   帰路、1万メートルの上空で、月を見た。ウサギがいた。

  十三夜 / ユーラシア大陸を / ひと跳びに 

 

( 続く )

    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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