ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

山笑ふ … 散歩道 8

2014年04月24日 | 随想…散歩道

 山笑ふ……以前、物知りの国語の先生から聞いた言葉。改めて調べてみた。

 『俳句歳時記  春の部』 (角川書店編) によると、

  山笑ふ……冬山の蕭条たる感じを 「山眠る」 というのに対し、春の山の明るい感じを 「山笑ふ」 という、とある。

  「春山淡冶(タンヤ)にして笑ふがごとく、夏山蒼翠にして滴るごとく、秋山明浄にして装ふがごとく、冬山惨淡として眠るがごとし」 (臥遊録) が出典らしい。

  春は「山笑ふ」、夏は 「山滴る」、秋は 「山装ふ」 、そして冬は「山眠る」 と、 会話の中ですらすら話す先生の知識に感心した。

 世界は言葉によって広がる。

          ★

  桜が散ると、今まで蕭条としていた山が、もこもことふくらんでくる。

 近くで見る樹木が新緑を着けて美しくなるから、山のすべての木々がこのように新緑で装い始め、それで山全体がもこもこという感じに見えるのだろう。

   (大和川の向こうの信貴山)

 大和川の河原も、一面に黄色の花でおおわれる。

          ★

 大和川に架かる橋の上から見下ろすと、流れが変わるあたりの浅瀬に、鯉がたくさん泳いでいる。

 ( 橋の上から望遠で撮影 )

 以前、大和川の水は汚く濁り、その濁った川べりで鯉を釣っている人をよく見かけたものだ。最近は、鯉釣りをする人を見ない。透き通った流れの中で、鯉たちは増え、悠々と遊んでいるように見える。

 

  ( たんぽぽ )

 たんぽぽは、円い綿毛が面白い。

 京生まれ、はんなり美人の女性写真家が、写真技術指導のテレビ番組に出演した時、「写欲をそそる」 という言葉を使って、なるほどと印象に残ったが、たんぽぽの綿毛は 「写欲をそそる被写体」 である。

                             ★

 今日の散歩は、春日神社まで。

 「春日大社」では、ありません。小さな、人けのない、旧村の神社です。

  (春日神社の鳥居)

 社の上の新緑のなかで、鶯が正調で鳴いている。

 小鳥の鳴き声以外には聞こえるものがなく、小鳥が神々のように感じられる。

   

  ( 春日神社の小さな社 )

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

里の春 … 散歩道 7

2014年04月22日 | 随想…散歩道

 4月上旬、桜のシーズンを迎えたときの散歩の写真をいく枚か掲載する。

 うららかな陽気に誘われて、いつもとはちょっとコースを変え、旧村の方へ足を伸ばした。

      ( 畑の桜 )

 あちらにも、こちらにも、椿や桜が咲いて、それが青空に映え、今さらながら「日本の春」はいいなあと思う。

 自宅の家の前の畑で農作業をする人も。

      ( 石垣の農家の桜 )

 江戸時代の庄屋さん級の立派なお屋敷もある。

   ( 立派なお屋敷 )

 先日、近鉄特急に乗って、お伊勢さんに参拝した。その折、上六から伊勢へ向かう車窓風景を眺めていて、思った。

 列車が大都会の大阪から、やがて緑豊かな奈良県に入って、三重県に至るのだが、車窓を流れる大和の農村風景がいかにも豊かなのである。大小の農家の家ものいずれも、構えがしっかりしており、村里、山里のそこここに古木の桜が今を盛りと咲き誇って、目を楽しませてくれた。

 遠い昔、奈良に都があった時代、大和は国のまほろばだった。

 平安時代になって都が山城の国に遷されても、大和の国には朝廷に重んじられた有力寺社が数多く存在し、開明的な土地であり続けた。

 やがて世は武士の時代になったが、大和の国に守護職は置かれず、興福寺がその役を担ったという。

 250年続いた江戸時代も、大和の国は徳川譜代の大名や幕臣によって分割統治されていた。

 平安時代以後、華やかな京都、武士の鎌倉や、町人の大坂、天下の諸大名が邸を構えた江戸の陰に隠れて、大和の国にこれという商業都市は誕生せず、農業と林業と、寺社仏閣に頼って生きてきた国であったが、気候も温暖、災害も少なく、何よりも統治者に恵まれ、経済的にはそこそこ豊かに歩んできたのであろう。 

    ( 山里の満開の桜 )

   桜は、青空を背景に、静かに、うららかに咲いているのが良い。見物者が増えると、俗なるものになる。

 或いはまた、やわらかい緑にも、映える。

       

      ( 竹藪に桜 )      

 桜がなくても、竹林は、透過光をうけて、爽やかだ。

     ( 春の竹林 )

 ぐるっと回って、いつのまにか、いつもの小さな、人けのない神社にやってきた。

     ( 八幡社 )

 神社とは、本来、木々の鬱蒼とした杜であった。社が造られるようになったのは、ずっと後世のことだ。

 里の春は、まことに神々の宿る春である。

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする