( ライン川とケルンの町、そして大聖堂 )
2日目は、8時半にホテルを出発して、ケルン大聖堂へ向かった。
バスがケルン市内に入ると渋滞でなかなか進まなくなったが、ライン川の橋に差しかかったとき、車窓からケルン大聖堂の二つの塔が見えた。雄姿である。
ただ、日本で写真で見ていた時から思い、こうして実物を見ても思うが、排気ガスで黒く汚れてしまった世界遺産はドイツらしくない。パリのノートル・ダム大聖堂のように、洗濯をして、本来の石造りの建物のもつ美しさを取り戻すべきだ。 (自国のことは棚に上げて、無礼なことを申しました)。
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話は、ちょこっと過去の旅行のことに ……。
2013年の秋も深まる季節に、旅心抑えがたくフランスのゴシック大聖堂をめぐる旅に出た。そのときの記録は、当ブログに「フランス・ゴシック大聖堂をめぐる旅」として掲載している。
訪ねた大聖堂は6つ。訪ねた順ではなく、建設に取り掛かった順に古いほうから紹介すると、まず1136年着工のサン・ドニ大聖堂である。サン・ドニはパリ郊外の町で、この教会は代々のフランス王家の墓所だった。今は王家もなくなってしまったが、サン・ドニ大聖堂は最初の美しいゴシック建築として、美術史に名を残している。
シャルトルは、パリから鈍行で1時間ばかり、豊かな田園の広がりの中にある小さな町だ。サン・ドニに続いて、1145年に建てられた初期ゴシック大聖堂は、建てられてすぐ火事で焼失した。だが、焼け残ったファーサード部分を取り込んで、人々はすぐに再建に取りかかった。そして、初期及び前期のゴシック様式を伝えるフランスの至宝が出来上がった。ステンドグラスは「シャルトルの青」と言われ、実に美しい。
次に、1163年に着工したパリのノートルダム大聖堂。昔も今も、花の都パリのシンボルである。建物もステンドグラスも美しい。
1176年にロマネスク様式で着工し、途中からゴシック様式に変えて築造されたのは、ストラスブールの大聖堂。ストラスブールはドイツとの国境近くに位置し、今はEU議会が開かれる国際都市である。だが、もとはライン川沿いに造られたローマの軍団基地だった。
ランスの大聖堂は、1211年に着工した。代々のフランス国王の戴冠式は、この大聖堂で執り行われた。英仏百年戦争の時も、ジャンヌ・ダルクは国王をここに連れてきて即位させ、対英戦争に向かった。
そして、1220年に着工したアミアンの大聖堂は、フランスゴシックで最大規模の大聖堂である。
フランスの北部のフランス王家所領の都市に次々建てられた初期・盛期のゴシック様式の大聖堂を、列車に乗り、地方都市のホテルに泊まりながら、数日かけて見て歩いた旅は、ダウンコートを着ていてもフランスの晩秋の寒さがこたえる日もあったが、テーマ性のある良い旅だった。
( アミアン大聖堂西正面 )
※ その土地の石の性質にもよるが、本来、大聖堂の壁はこのようにやさしい色をしている。
( アミアン大聖堂の北側面 )
その旅のときから、ゴシック建築として最大規模を誇るケルン大聖堂を、ぜひ一度訪ねてみたいと思っていた。
ゴシック建築はフランス王家の所領に始まったが、フランス全土へ、そして、ドイツを始めヨーロッパ各地へ広がっていった。
ケルンはドイツの都市だが、ストラスブール同様、フランス領になったり、ドイツ領になったりした国境の町だ。ストラスブールからライン川を下れば、ケルンである。
ケルン大聖堂の建設が始まったのは1248年で、当然のことながらアミアン大聖堂をお手本として設計された。
途中、宗教改革や財政難で建設が途絶えた。19世紀になってやっと完成したが、その時々の流行りの様式に変更されることなく、一貫して、当初の設計に基づき、ゴシック様式で完成した。
尖塔の高さ157mは、ゴシック建築として最も高い。
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< 都市ケルンとケルン大聖堂の歴史を概観する >
「この都市が後代にケルンと呼ばれるようになったのは、ラテン語では植民都市を意味したコローニアがドイツ語式に転化したにすぎない」。
「ライン河に沿うこの都市の始まりは、ローマの軍団基地が置かれたことで始まったボンやマインツやストラスブールとはちがう」。
「カエサルが、ライン河の東側に住むゲルマン民族のうちでも、ウビィ族が親ローマ派であるのに眼をつけ、彼らをライン川の西側に集団移住させたのが、後のケルンの始まりなのである」。
もちろん、その後、ローマ人も入植して、ライン川の要衝の地としてのケルンが出来上がっていく。
(以上は、塩野七生『ローマ人の物語Ⅳ ユリウス・カエサル ー ルビコン以前 ー』から)。
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この地に初めてキリスト教会が建設され、それが司教座になった時期は、ローマ帝国時代の4世紀だから、かなり早い。
8世紀には司教座が大司教座に昇格し、やがてケルン一帯の地は、大司教の所領になっていく。
つまり、ケルンの大司教は、キリスト教の高位聖職者であると同時に、この地方の行政、徴税、裁判、軍事の権をにぎる諸侯となったのである。
さらに、諸侯としても出世して、神聖ローマ帝国皇帝を選出する7人の選帝侯の一人になる。もっとも選帝侯のうちの3人は聖職者だ。聖職者は妻帯しないことになっているから、一応、世襲しない。そこが重宝されるのだろう。
一方、ケルンの町は、ライン川の水利を生かして商工業を発展させ、富を蓄えていった。
力をつけた市民たちは、やがて封建領主である大司教と、しばしば衝突するようになる。
そして、1288年、両者の対立はついに戦争に発展し、市民側が勝利してしまったのだ。
大司教はボンに逃れ、以後、ボンに城と宮廷を構えた。
もちろん、キリスト教関係の重要な行事があるときには、大司教としてケルン大聖堂にやって来た。ただし、軍隊は連れてこないという条件で。
ケルンはその後も商業都市として発展し、ハンザ同盟にも加盟した。1475年には帝国自由都市の資格を得る。
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< ケルン大聖堂を見学する >
( ケルン大聖堂の西正面 )
ケルン大聖堂の正式名称は、「聖ペテロとマリア大聖堂」である。
ドイツは宗教改革のルターを生んだ地であるが、この大聖堂では現在もローマ・カトリックのミサが行われている。
2015年の大晦日、このケルン大聖堂前広場で、いわゆる「ケルン大晦日集団性暴行事件」が起こった。100万人の難民を受入れると言い、EU各国にも受入れ目標を出させたメルケルが、その方針を縮小せざるを得なくなるきっかけとなった事件である。
しかし、広場はそういう事件はなかったかのごとく、朝の空気のなか、通勤や買い物の市民たちが絶えず行き来し、各国からの観光客たちはカメラに入りきらないほど高くそびえる大聖堂を何とか撮影しようと苦闘していた。
( ケルン大聖堂の西正面扉口 )
西正面扉口から入ると、午前も早いせいか観光客は少なく、ゲルマンの森を思わせるようなゴシックの仰ぎ見る空間があり、正面奥の内陣では小さなミサが行われていた。
( ケルン大聖堂の身廊 )
( 内陣部の礼拝堂ではミサ )
この大聖堂には、ベツレヘムでイエスが誕生した夜に祝いを持って東方からやって来たという3博士の聖遺物がある。
中世の著名な大聖堂は、それぞれに、あれやこれやの聖遺物をもっている。建築してすぐに焼失してしまったシャトルの大聖堂を、もう一度建て直そうとした人々のエネルギー(資金や材料の入手や労働力)はどこからきたのか?? それは、シャルトルが、聖遺物として、聖母マリアが身にまとっていた衣を持っていたからである。その衣が火事で焼失してしまわなかった このことが人々の心に火をつけた、と言われる。
大聖堂の巨大な伽藍は、聖遺物を納めるために必要であり、また、その聖遺物を拝むためにやって来る多くの巡礼者を受入れる空間として必要だったのだ。聖遺物信仰とともに、巨大なゴシック大聖堂は造られた。
中世は、巡礼の時代である。立派な聖遺物があれば、それを拝むためにヨーロッパ中から巡礼者がやってくる。
買い物をすれば、ポイントが貯まる。中世もやり方は同じで、聖遺物にはそれぞれ決められたポイントがあって、巡礼して聖遺物を拝むごとに決められたポイントが得られる。そして、そのポイントの合計点の分だけ、罪が免罪され、天国の門をくぐる可能性が出てくるというのだ。
日本と違って二元論の世界だから、グレーゾーンはない。天国でなければ、永遠に地獄だ。
教会の側からいえば、巡礼が沢山やって来れば、寄付・寄進が増え、大聖堂建設の資金にもなる。もちろん、幾分かは、司教様のポケットにも入るだろうが。
聖遺物として一番価値が高いのは、やはりイエス・キリストに直接かかわるもの。例えば最後の晩餐の時の「聖杯」だとか、イエスが架けられた十字架の木の切れ端だとか、イエスが流した血だとか、イエスがまとっていた「聖衣」だとか。
次は、聖母マリアにかかわるもの。そして、12使徒に関するもの。…… 例えばその遺骸だとか。
三大巡礼地の一つ、サンチャゴ・デ・コンポステーラには、聖ヤコブの遺骸がある…ことになっている。ヴェネツィアのサン・マルコ教会には、マルコの福音書で有名な聖マルコの遺骸がある … ことになっている。
ただし、聖書には、イエスは復活して天に昇ったとあるから、イエスの遺骸は探しても、ない。あったら、おかしいのだ。聖母マリアも、よく絵にあるように昇天したから (「聖母被昇天」)、遺骸はないことになっている。
それにしても、どうしてこんなバカげたことを一人前の大人が2千年間も信じてきたのだろう??と、私などはつくづく思う。
もちろん、大聖堂の建築構造のすごさや、ステンドグラスの美しさ、ふるさびた石造りの建物のもつ温かみや静謐感といったことに心ひかれるが、それはそれ。私が見ているのは、神ではなく、ひとことで言えば「人間の歴史」である。
さて、ケルン大聖堂の聖遺物であるが、それは … 神の子イエスがベツレヘムに生まれたとき、その誕生を知って訪ねてきた東方の博士の、なんと頭蓋骨だ。その頭蓋骨が容れられた容器が、黄金の聖骨箱に納められている。この聖骨箱は、13世紀の装飾技術の粋を尽くして作製されたのだそうだ。
ミサを行っている聖職者の向こうにある金ピカが、それらしい。だが、ミサが行われているために、そばに寄って見ることができなかった。ただ、私はそういうおどろおどろしいものには興味がない。
この旅のあと、たまたま、ある西洋史の講演で、その骨の話が出てきた。
西暦313年にミラノ勅令によってキリスト教を公認し、のちにキリスト教史観によって「大帝」とされたローマ皇帝コンスタンティヌス。その母ヘレナは熱心なキリスト教徒で、神の子イエスに直接まみえた3博士のことを調べさせた。調査団は博士たちの遺骸を発見し、遺骸は、皇帝コンスタンティヌスが建設した新都コンスタンティノーブルの聖ソフィア寺院に納められた。のちに遺骸はミラノに贈られ、それがさらにケルンに譲られたのだ言う。
もちろん、伝説である。
ただし、ヘレナは、バチカンによって「聖人」に叙されている。
ケルン大聖堂と言えば、ステンドグラスが有名である。
内陣奥のステンドグラスの中心に描かれていたのは、やはり幼子イエスを抱くマリアと、これを礼拝する東方の3博士の図柄だった。
ただ、こちらは、理屈抜きに美しい。
( 内陣正面のステンドグラス )
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さて、話は変わって、フランス文学研究者の饗庭孝男の『ヨーロッパの四季Ⅰ』に、こういう記述があった。
「ケルン大聖堂の地下に古代ローマ時代の2世紀の住居があり、ギリシャ神話のディオニソスのモザイクがあるが、案外に知られていない」。
注意していたら、大聖堂の外壁に、一か所、ガラスの窓枠がつくられていた。中を覗くと、地下空間がある。ここが、ローマ時代の邸宅の発掘遺跡であろう。
発掘されたコレクションは、大聖堂のそばのローマ・ゲルマン博物館に納められているそうだ。
( ローマ時代の遺跡 )
暗い大聖堂から、大聖堂前広場に出た。
今回のツアーの添乗員G氏は男性で、なかなかの勉強家である。そのG氏が教えてくれた。
広場の北側の隅に、ローマ時代の邸宅の一部である小さな石造りのアーチがあるのだ。
各国の観光客は、誰も注意を払わない。そこにあるのが当たり前のように、ひっそりと建っていた。
( ローマ時代の石のアーチ )
13世紀から19世紀にかけて造られた大聖堂と、それよりも1100年も遡る古代ローマの小さな石の遺跡。そのローマの小さな遺跡の方が、大聖堂よりもずっと現実感があるように感じられ、不思議な気がした。