ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

最大のゴシック建築・ケルン大聖堂へ … ネーデルランド(低地地方)への旅(2)

2017年10月28日 | 西欧旅行…ベネルクス3国の旅

          ( ライン川とケルンの町、そして大聖堂 )

 2日目は、8時半にホテルを出発して、ケルン大聖堂へ向かった。

   バスがケルン市内に入ると渋滞でなかなか進まなくなったが、ライン川の橋に差しかかったとき、車窓からケルン大聖堂の二つの塔が見えた。雄姿である

 ただ、日本で写真で見ていた時から思い、こうして実物を見ても思うが、排気ガスで黒く汚れてしまった世界遺産はドイツらしくない。パリのノートル・ダム大聖堂のように、洗濯をして、本来の石造りの建物のもつ美しさを取り戻すべきだ。 (自国のことは棚に上げて、無礼なことを申しました)。

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 話は、ちょこっと過去の旅行のことに ……。

 2013年の秋も深まる季節に、旅心抑えがたくフランスのゴシック大聖堂をめぐる旅に出た。そのときの記録は、当ブログに「フランス・ゴシック大聖堂をめぐる旅」として掲載している。

 訪ねた大聖堂は6つ。訪ねた順ではなく、建設に取り掛かった順に古いほうから紹介すると、まず1136年着工のサン・ドニ大聖堂である。サン・ドニはパリ郊外の町で、この教会は代々のフランス王家の墓所だった。今は王家もなくなってしまったが、サン・ドニ大聖堂は最初の美しいゴシック建築として、美術史に名を残している。

 シャルトルは、パリから鈍行で1時間ばかり、豊かな田園の広がりの中にある小さな町だ。サン・ドニに続いて、1145年に建てられた初期ゴシック大聖堂は、建てられてすぐ火事で焼失した。だが、焼け残ったファーサード部分を取り込んで、人々はすぐに再建に取りかかった。そして、初期及び前期のゴシック様式を伝えるフランスの至宝が出来上がった。ステンドグラスは「シャルトルの青」と言われ、実に美しい

 次に、1163年に着工したパリのノートルダム大聖堂。昔も今も、花の都パリのシンボルである。建物もステンドグラスも美しい

 1176年にロマネスク様式で着工し、途中からゴシック様式に変えて築造されたのは、ストラスブールの大聖堂。ストラスブールはドイツとの国境近くに位置し、今はEU議会が開かれる国際都市である。だが、もとはライン川沿いに造られたローマの軍団基地だった。

 ランスの大聖堂は、1211年に着工した。代々のフランス国王の戴冠式は、この大聖堂で執り行われた。英仏百年戦争の時も、ジャンヌ・ダルクは国王をここに連れてきて即位させ、対英戦争に向かった。

 そして、1220年に着工したアミアンの大聖堂は、フランスゴシックで最大規模の大聖堂である。

 フランスの北部のフランス王家所領の都市に次々建てられた初期・盛期のゴシック様式の大聖堂を、列車に乗り、地方都市のホテルに泊まりながら、数日かけて見て歩いた旅は、ダウンコートを着ていてもフランスの晩秋の寒さがこたえる日もあったが、テーマ性のある良い旅だった。

 

   ( アミアン大聖堂西正面 )

 ※ その土地の石の性質にもよるが、本来、大聖堂の壁はこのようにやさしい色をしている。

    ( アミアン大聖堂の北側面 )

 その旅のときから、ゴシック建築として最大規模を誇るケルン大聖堂を、ぜひ一度訪ねてみたいと思っていた。

 ゴシック建築はフランス王家の所領に始まったが、フランス全土へ、そして、ドイツを始めヨーロッパ各地へ広がっていった。

 ケルンはドイツの都市だが、ストラスブール同様、フランス領になったり、ドイツ領になったりした国境の町だ。ストラスブールからライン川を下れば、ケルンである。

 ケルン大聖堂の建設が始まったのは1248年で、当然のことながらアミアン大聖堂をお手本として設計された。

 途中、宗教改革や財政難で建設が途絶えた。19世紀になってやっと完成したが、その時々の流行りの様式に変更されることなく、一貫して、当初の設計に基づき、ゴシック様式で完成した。

 尖塔の高さ157mは、ゴシック建築として最も高い。

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都市ケルンとケルン大聖堂の歴史を概観する >

 「この都市が後代にケルンと呼ばれるようになったのは、ラテン語では植民都市を意味したコローニアがドイツ語式に転化したにすぎない

 「ライン河に沿うこの都市の始まりは、ローマの軍団基地が置かれたことで始まったボンやマインツやストラスブールとはちがう」。

 「カエサルが、ライン河の東側に住むゲルマン民族のうちでも、ウビィ族が親ローマ派であるのに眼をつけ、彼らをライン川の西側に集団移住させたのが、後のケルンの始まりなのである」。

 もちろん、その後、ローマ人も入植して、ライン川の要衝の地としてのケルンが出来上がっていく。

 (以上は、塩野七生『ローマ人の物語Ⅳ ユリウス・カエサル ー ルビコン以前 ー』から)。

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 この地に初めてキリスト教会が建設され、それが司教座になった時期は、ローマ帝国時代の4世紀だから、かなり早い。

 8世紀には司教座が大司教座に昇格し、やがてケルン一帯の地は、大司教の所領になっていく。

 つまり、ケルンの大司教は、キリスト教の高位聖職者であると同時に、この地方の行政、徴税、裁判、軍事の権をにぎる諸侯となったのである。

 さらに、諸侯としても出世して、神聖ローマ帝国皇帝を選出する7人の選帝侯の一人になる。もっとも選帝侯のうちの3人は聖職者だ。聖職者は妻帯しないことになっているから、一応、世襲しない。そこが重宝されるのだろう。

 一方、ケルンの町は、ライン川の水利を生かして商工業を発展させ、富を蓄えていった。

 力をつけた市民たちは、やがて封建領主である大司教と、しばしば衝突するようになる。

 そして、1288年、両者の対立はついに戦争に発展し、市民側が勝利してしまったのだ。

 大司教はボンに逃れ、以後、ボンに城と宮廷を構えた。

 もちろん、キリスト教関係の重要な行事があるときには、大司教としてケルン大聖堂にやって来た。ただし、軍隊は連れてこないという条件で。

 ケルンはその後も商業都市として発展し、ハンザ同盟にも加盟した。1475年には帝国自由都市の資格を得る。

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 < ケルン大聖堂を見学する >

 

  ( ケルン大聖堂の西正面 )

 ケルン大聖堂の正式名称は、「聖ペテロとマリア大聖堂」である。

 ドイツは宗教改革のルターを生んだ地であるが、この大聖堂では現在もローマ・カトリックのミサが行われている。

 2015年の大晦日、このケルン大聖堂前広場で、いわゆる「ケルン大晦日集団性暴行事件」が起こった。100万人の難民を受入れると言い、EU各国にも受入れ目標を出させたメルケルが、その方針を縮小せざるを得なくなるきっかけとなった事件である。

 しかし、広場はそういう事件はなかったかのごとく、朝の空気のなか、通勤や買い物の市民たちが絶えず行き来し、各国からの観光客たちはカメラに入りきらないほど高くそびえる大聖堂を何とか撮影しようと苦闘していた。

 

  ( ケルン大聖堂の西正面扉口 )

 西正面扉口から入ると、午前も早いせいか観光客は少なく、ゲルマンの森を思わせるようなゴシックの仰ぎ見る空間があり、正面奥の内陣では小さなミサが行われていた。

   ( ケルン大聖堂の身廊 )

   ( 内陣部の礼拝堂ではミサ )

 この大聖堂には、ベツレヘムでイエスが誕生した夜に祝いを持って東方からやって来たという3博士の聖遺物がある。

 中世の著名な大聖堂は、それぞれに、あれやこれやの聖遺物をもっている。建築してすぐに焼失してしまったシャトルの大聖堂を、もう一度建て直そうとした人々のエネルギー(資金や材料の入手や労働力)はどこからきたのか?? それは、シャルトルが、聖遺物として、聖母マリアが身にまとっていた衣を持っていたからである。その衣が火事で焼失してしまわなかった このことが人々の心に火をつけた、と言われる。

 大聖堂の巨大な伽藍は、聖遺物を納めるために必要であり、また、その聖遺物を拝むためにやって来る多くの巡礼者を受入れる空間として必要だったのだ。聖遺物信仰とともに、巨大なゴシック大聖堂は造られた。

 中世は、巡礼の時代である。立派な聖遺物があれば、それを拝むためにヨーロッパ中から巡礼者がやってくる。

 買い物をすれば、ポイントが貯まる。中世もやり方は同じで、聖遺物にはそれぞれ決められたポイントがあって、巡礼して聖遺物を拝むごとに決められたポイントが得られる。そして、そのポイントの合計点の分だけ、罪が免罪され、天国の門をくぐる可能性が出てくるというのだ。

 日本と違って二元論の世界だから、グレーゾーンはない。天国でなければ、永遠に地獄だ。

 教会の側からいえば、巡礼が沢山やって来れば、寄付・寄進が増え、大聖堂建設の資金にもなる。もちろん、幾分かは、司教様のポケットにも入るだろうが

 聖遺物として一番価値が高いのは、やはりイエス・キリストに直接かかわるもの。例えば最後の晩餐の時の「聖杯」だとか、イエスが架けられた十字架の木の切れ端だとか、イエスが流した血だとか、イエスがまとっていた「聖衣」だとか。

 次は、聖母マリアにかかわるもの。そして、12使徒に関するもの。…… 例えばその遺骸だとか。

 三大巡礼地の一つ、サンチャゴ・デ・コンポステーラには、聖ヤコブの遺骸がある…ことになっている。ヴェネツィアのサン・マルコ教会には、マルコの福音書で有名な聖マルコの遺骸がある … ことになっている。

 ただし、聖書には、イエスは復活して天に昇ったとあるから、イエスの遺骸は探しても、ない。あったら、おかしいのだ。聖母マリアも、よく絵にあるように昇天したから (「聖母被昇天」)、遺骸はないことになっている。

 それにしても、どうしてこんなバカげたことを一人前の大人が2千年間も信じてきたのだろう??と、私などはつくづく思う。

 もちろん、大聖堂の建築構造のすごさや、ステンドグラスの美しさ、ふるさびた石造りの建物のもつ温かみや静謐感といったことに心ひかれるが、それはそれ。私が見ているのは、神ではなく、ひとことで言えば「人間の歴史」である。

 さて、ケルン大聖堂の聖遺物であるが、それは … 神の子イエスがベツレヘムに生まれたとき、その誕生を知って訪ねてきた東方の博士の、なんと頭蓋骨だ。その頭蓋骨が容れられた容器が、黄金の聖骨箱に納められている。この聖骨箱は、13世紀の装飾技術の粋を尽くして作製されたのだそうだ。

 ミサを行っている聖職者の向こうにある金ピカが、それらしい。だが、ミサが行われているために、そばに寄って見ることができなかった。ただ、私はそういうおどろおどろしいものには興味がない。

   この旅のあと、たまたま、ある西洋史の講演で、その骨の話が出てきた。

 西暦313年にミラノ勅令によってキリスト教を公認し、のちにキリスト教史観によって「大帝」とされたローマ皇帝コンスタンティヌス。その母ヘレナは熱心なキリスト教徒で、神の子イエスに直接まみえた3博士のことを調べさせた。調査団は博士たちの遺骸を発見し、遺骸は、皇帝コンスタンティヌスが建設した新都コンスタンティノーブルの聖ソフィア寺院に納められた。のちに遺骸はミラノに贈られ、それがさらにケルンに譲られたのだ言う。

 もちろん、伝説である。

 ただし、ヘレナは、バチカンによって「聖人」に叙されている。

 ケルン大聖堂と言えば、ステンドグラスが有名である。

 内陣奥のステンドグラスの中心に描かれていたのは、やはり幼子イエスを抱くマリアと、これを礼拝する東方の3博士の図柄だった。

 ただ、こちらは、理屈抜きに美しい。

   ( 内陣正面のステンドグラス )

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 さて、話は変わって、フランス文学研究者の饗庭孝男の『ヨーロッパの四季Ⅰ』に、こういう記述があった。

 「ケルン大聖堂の地下に古代ローマ時代の2世紀の住居があり、ギリシャ神話のディオニソスのモザイクがあるが、案外に知られていない」。

 注意していたら、大聖堂の外壁に、一か所、ガラスの窓枠がつくられていた。中を覗くと、地下空間がある。ここが、ローマ時代の邸宅の発掘遺跡であろう。

 発掘されたコレクションは、大聖堂のそばのローマ・ゲルマン博物館に納められているそうだ。

    ( ローマ時代の遺跡 )

 暗い大聖堂から、大聖堂前広場に出た。

 今回のツアーの添乗員G氏は男性で、なかなかの勉強家である。そのG氏が教えてくれた。

 広場の北側の隅に、ローマ時代の邸宅の一部である小さな石造りのアーチがあるのだ。

 各国の観光客は、誰も注意を払わない。そこにあるのが当たり前のように、ひっそりと建っていた。

 

     ( ローマ時代の石のアーチ )

 13世紀から19世紀にかけて造られた大聖堂と、それよりも1100年も遡る古代ローマの小さな石の遺跡。そのローマの小さな遺跡の方が、大聖堂よりもずっと現実感があるように感じられ、不思議な気がした。 

 

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ケルンまで … ネーデルランド (低地地方) への旅 (1)

2017年10月22日 | 西欧旅行…ベネルクス3国の旅

            ( キンデルダイクの風車群 )

 ベルネクスではない。ベネルクス。ベネルクス(Benelux)とは、ベルギー王国、オランダ王国、ルクセンブルグ大公国の3カ国の頭文字をとったものだそうだ

   旅をすると勉強し、無知が少し知になる。もっとも、年のせいですぐに忘れてしまうが。

 Beneluxの「ne」は、オランダの正式名称「ネーデルランド王国」による。日本語の「オランダ」という国の呼称は、その一州であるホーランド州からきている。ホーランドを国名と誤解してしまったのだ。

 ただし、ネーデルランドは、オランダ1国ではなく、このあたり一帯を指す古い言葉である。「低い地」という意味だ。ライン川などが運んだ土砂の堆積によってできた海面すれすれの湿地帯である。

 その中で一番大きい国のオランダが九州ぐらいで、人口は1700万人。ベルギーの面積は近畿ぐらいで、人口1100万人。ルクセンブルグはわずか54万人だから、日本の県庁所在地ぐらいの国だ。

 いずれも、近世に至るまで独立国であったことはなかった。

 近世に入ると、アントワープ(ベルギー)、続いてアムステルダム(オランダ)が大発展した。

 ネーデルランドは長年、他国の王や大貴族によって支配されてきたから、人々は商売したり、海に出たりする。すると、おのずから見聞も広がり、自分の頭でものを考えるようにもなり、「個人」が成長する。個人が確立していくと、教会や神職の権威を介さず、直接的に神と向き合うことを教えるプロテスタントに改宗するようになる。また、利のために個人と個人が協同してシステマチックに物事を進めるようになり、ついに会社組織を発明した。それは、のち、坂本龍馬のお手本となる。

 ところが、16世紀のネーデルランドを支配していたのは、カソリックの守護者を任じる強国スペインだった。このスペインの正規軍を相手に、市民たちは80年に及ぶ血みどろの独立戦争を戦い、その結果、オランダは独立を勝ち取るのである。

 ベルギーは、フランスに近く、カソリックの信者が多かったため、スペインの支配から逃げ遅れた。そのため、先に栄えていたアントワープから、小都市アムステルダムへ資本が移動し、アムステルダムは大発展をした。

 秀吉や家康によってポルトガルやスペインがしめ出されたあと、遥々と鎖国の日本にやってきて、ヨーロッパの文明・文化を伝え続けてくれたのは、プロテスタント国のオランダであった。もちろん、彼らがやって来たのは親善友好のためではなく、利を求め交易のためにやって来たのであり、これを受け入れた幕府も、長崎を自分の直轄地として、利を求めた。

 時代は移り、独立が遅れたベルギーも、今や首都ブリュッセルはEUの中心となっている。今、ベネルクス3国は、世界で最も豊かで自由な市民国家と言っても過言ではない

         ★

 話を遥かに遡らせる。

 ユリウス・カエサルが軍団を率い、アルプスを越えてやって来た紀元前50年ごろのネーデルランドは、僻地の僻地であった。当時、アルプスより北は、ベルギー、オランダは言うまでもなく、フランスもスイスも、「蛮族(バーバリアン)」の諸部族の蟠踞する地だった

 それよりさらに昔、ローマが今のローマ市のあたりに興り、だんだんと成長して、やがてイタリア半島全体に支配を広げたころのことだ。

 突然、アルプス山脈を越えて、山の向こうの蛮族がなだれ込んできたのである。彼らはあっという間にイタリア半島を南下し、ローマ市の城壁も乗り越え、これまで無敵を誇ったローマ人たちも、ローマの市街地にある丘の上に立てこもって、死にものぐるいの防戦をせざるをえなかった。蛮族は、殺しまくり、奪いまくって、やがてアルプスの向こうへ去っていった。かろうじて生き残ったローマ人たちは、もう一度、一から国を立て直さなければならなかったのである。

 アルプスは、自然の要害ではない …… アルプスの向こう側に対する恐怖は、ローマ人のなかに、遺伝子となって何世代も残った。

 ユリウス・カエサルのガリア(現在のフランス)遠征は、地中海の覇権をにぎるまでに成長したローマが自らの安全保障のため、いつか、誰かが、やらねばならない遠征だった。

 アルプスを越えたカエサルは、フランス中部やスイスの諸部族を平定した後、フランス北東部からネーデルランドの諸部族の制圧にかかった。そこでは、冬営している1軍団が全滅させられるというような手痛い反撃にもあったが、3~4年かかって、制圧に成功した。

 こうしてガリヤ全土を平定したカエサルは、ライン川を、以後のローマの防衛線と定めた。

 「国境」ではない。「防衛線」である。国境は、国と国との間に定められる。

 ライン川の向こうの深くて暗い森に棲むゲルマン民族は、狩猟民族だった。肉を主食とする。森に棲み、ローマ軍が暗い森に踏み込めば、たちまち待ち伏せされる。道路をつくり橋を架け、十分な宿営地を切り開きつつ、兵站を確保しながら進むローマの戦い方では、彼らを制圧するのにどれほどの歳月と犠牲を要するだろう。

 だが、ライン川よりこちら側に棲むガリア人たちは、ローマ人と同じように農耕をする。ローマ人の主食は小麦である。農耕する人々は、同化できる。

 カエサルは、軍事力でガリアを一方的に滅亡させようとしたのではない。

 ゲルマンに対しては、ライン川に沿って軍団基地を配置した。一方、ライン川のこちらに棲むガリアの部族長にはローマ市民の名誉を与え、さらには、有力な部族長をローマの元老院議員として迎えた。多くのガリアの少年たちをローマに留学させ、元老院議員の家にホームステイさせた。街道を造り、橋を架け、全ての道はローマに通じるという政策をおし進めた。カエサルの思想を端的に表している事業が、ローマ市を守る城壁を取っ払ってしまったということだ。都に城壁は要らない。パクス・ロマーナ(ローマによる平和)をつくり出すことが、真の安全保障である。その象徴が、城壁のない都・ローマだった。

 (蛮族を元老院議員にするなど)、自分たちの既得権益が侵されたと感じたプライドばかり高い若い元老院議員たちの剣によって、カエサルは元老院の中で殺害された。

 しかし、その後、彼の意思を受け継いだ人々によって、パクス・ロマーナの時代がつくりだされた。2000年のヨーロッパの歴史は、戦争ばかりの歴史である。そのなかで、最も平和で、人々が幸せだった時代は、この時代である。カエサルによって、ヨーロッパは創られた、と言われる。

 ともかく、ライン川の向こうであるオランダの北部を除いて、ネーデルランドは ローマ世界に組み入れられ、ローマの属州となって、文明化されていくのである。

     ★   ★   ★

旅の初めに >

 2017年9月26日に出発し、10月3日に帰国する8日間のツアーに参加した。ドイツのライン川クルーズと、ルクセンブルグ、ベルギー、オランダをめぐる旅である。

 今回のコースは、自分で計画して、列車で見て回ることのできる地域だった。ライン川クルーズも研究済みだった。にもかかわらず、出来合いのツアーに参加した。

 というのも、昨年の春、ポルトガルへ行き、ユーラシア大陸の西の果ての大西洋を望むロカ岬、さらにエンリケ航海王子の足跡を追って、サグレス岬からサン・ヴィセンテ岬へと旅をした。

 旅を終えて、帰ってから、今までになかった達成感のようなものが気持ちの中に生じてきた。

 旅に出るのも、エネルギーがいる。そのエネルギーは、例えば知りたいという、未知への渇きから生まれる。足りてしまったら、旅へのエネルギーは生まれてこない。もともと出不精な人間だから、蟄居隠棲することは少しも苦にならない。旅に出るには、エネルギーがいる。

 ポルトガル旅行から1年もたって、やっと北海道の5大岬をめぐるという旅行社企画のツアーに参加した。

 そして、今回も、自らに「横着」を許して、8日間のベネルクス3国をめぐるツアーに参加した。 

 この次には、もっと本質的に知りたい旅に出るために、その跳躍台として。

 老い込むには、まだ少し早いから。

         ★

旅のコース

第1日目] KLMオランダ航空で関空からアムステルダムへ。

 アムステルダムからは、バスで国境を越えてドイツのケルンへ。 

第2日目] ケルン大聖堂見学 / ライン川クルーズ

 バスでルクセンブルグへ。

第3日目] ルクセンブルグ観光。

 バスでベルギーのブルージュへ。

第4日目] ブルージュ観光 / ゲントとブリュッセル観光。

第5日目] アントワープでルーベンスの絵を鑑賞。

 バスでオランダに入り、キンデルダイクの風車群見学。

 ハーグで、フェルメールの絵を鑑賞。

第6日目] ナールデン散策 / アムステルダム観光 / レンブランドの絵を鑑賞。

第7日目] KLMオランダ航空でアムステルダム出発

第8日目] 朝、関空着

         ★

 ルーベンス、フェルメール、レンブランドの絵を観るところが、このツアーの一つの特色かもしれない。

 司馬遼太郎の『街道をゆく オランダ紀行』にも、ルーベンス、レンブランド、(そしてゴッホ)のことがかなり詳しく語られている。また、『オランダ紀行』には、ナールデンのこと (五稜郭のスケールを大きくしたような星形の町)、キンデルダイクのこと (この近くの造船所で咸臨丸が造られた) も出てくる。    

   もし司馬遼太郎の『オランダ紀行』をも参考にしてこのツアーが組み立てられているのなら、旅行会社のツアーとしては、なかなかのものである。

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< 第1日目 : アムステルダムからケルンへ >

 いつも乗り継ぐアムステルダムのスキポール空港で、今回は乗り継がず、空港を出て大型観光バスに乗りこんだ。

 このバスで、ドイツ、ルクセンブルグ、ベルギー、オランダと回り、再びアムステルダムへ帰ってくる。

 バスの中は、1人で2席分のゆとりがあった。

 今日は、ドイツのケルンまで270キロ。飛行機は乗り継がないが、ホテルに着くのは、ヨーロッパ時間で午後8時の予定。朝、関空を立って、ホテルに入るのが日本時間なら翌日の午前3時だから、結構、しんどい初日だ。

 いつもは飛行機の上から見る、オランダの美しく区画された畑や牧場は、観光バスの車窓から見ても豊かで美しい。しかし、ドイツへ走る高速道路はしばしば渋滞し、日が暮れていき、どんよりした空模様は、時に雨となった。

 すっかり暗くなって、ケルン郊外のホテルに到着する。 

          ★

 高速道路の脇の安ホテルは、窓が防音になっていない。そのため、窓の下のマクドナルド店の辺りで深夜まで騒ぐ声、それに一晩中車の走る音がして、寝苦しかった。

 自分で企画した旅なら、たとえ安宿でも、こういうホテルに泊まることはない。しかし、これもまた、旅である。明日のケルン大聖堂、それにライン川クルーズがたのしみだ。

 

 

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