ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

第2波に備えて必要なことは、非難ではなく、謙虚さと助け合い

2020年06月28日 | エッセイ

  (パンデミック下の松尾寺)

 「ロマンチック街道と南ドイツの旅」を中断して、新型コロナウイルスについて書くのは3回目だ。少々、気が引ける。

 しかし、私が生まれる1か月前に真珠湾攻撃があり、太平洋戦争が始まった。物心ついたときには、空爆による焼け跡の残る街を、占領軍の兵士がわがもの顔に歩いていた。

 そして、人生の終盤にパンデミックが起きた。世界の感染者数は900万人、死者は47万人。まだまだ増えている。経済の落ち込みも大恐慌以来という。

 こういう歴史的な出来事に遭遇したのだから、一市井の名もなき人間も、多少、思うところを書いていいだろう …… と思うことにした。

 「2度あることは3度ある」とか「3度目の正直」とか言う。もうこれでおしまいにしたい。

   ★   ★   ★ 

< 第1波が通り過ぎて>

 第1波が過ぎて、日本中がとりあえずほっとしている。第2波への警戒心をもちながらも、経済活動に戻り始めている。なりわい = 生業。感染症も怖いが、なりわいがなければ人は生きていけない。

 日本の場合、経済的衝撃の大きさはともかく、パンデミックの第1波は小さかったと言っていい。毎年、インフルエンザで亡くなる人は約3千人と言われる (アメリカでは1万人)。それを思えば、津波が来るぞと警戒警報が出て緊張が走ったが、高さ1~2mほどの津波でおさまったという感じだ。

 この間、テレビの映像をとおして、最初は武漢、続いて欧米諸国の痛ましい光景を目にしてきた。

 例えば、ロックダウンされたイタリアのフィレンツェでは、毎日、男性のオペラ歌手が、定時になると、自宅の窓から外へ向かって朗々とオペラの一節を歌い上げ、町の人々を励ました。家々の窓という窓が開けられ、連帯の拍手が起こった。

 しかし、事態は深刻を極め、医療崩壊した町の中に軍隊のトラックがやって来て、亡くなった人々の遺体を運ぶようになった。肉親も埋葬に立ち会えず、どこへ埋葬されるのかさえわからない。こういう悲惨を目にするようになって、オペラ歌手はもう歌うことができなくなった …… 。

 集中治療室もエクモも日本の2倍の準備があると言われたドイツでさえ、ロックダウンしたにもかかわらず、死者は既に9千人に迫ろうとしている。

 こういう事実を知るにつけ、日本は本当に幸いだったといってよいと思う。

 それでも、集中治療室で死を覚悟しながら奇跡的に生還することができたという方の手記を読み、ただ粛然となり、言葉を失った。今も体は元に戻らず、夜は眠れず、朝、目覚めて、「自分はまだ生きているんだ」と感じる日々だという。「病院の名誉にかけて、あなたを死なせないから」と励ましてくれた医師や看護をしてくれた看護師さんたちのことも書いておられる。

       ★

<未知のウイルスに対して、非難ではなく助け合いを>

 この間、新型コロナウイルスを巡ってさまざまな報道番組があった。しかし、それはしばしば、出演者が不信と不安を煽るだけの内容だった。

 そういう番組が多い中、NHKの報道番組はおおむねきちんとした内容のものが多く、中でもノーベル賞の山中伸弥先生のBS1スペシャル「ビッグデータで闘う」、それに続くNHKスペシャル「山中伸弥が聞く…3人の科学者+1人の医師」は、今年のテレビ大賞を差し上げても良いと思う優れた番組だった。

 この2つの番組を見て、素人である私が得心できたことは次の点である。

 この新型コロナウイルスに関して、世界の専門家・臨床医が発表した論文は既に5万本以上になる。専門家と言えども、これほどの数の論文を読んで活用することは不可能である。

 山中先生はチームを作り、AIを駆使して、このビッグデータを解析した。

 その結果、こういうことがわかった。

 この新しいウイルスについて、3月頃、世界の学者・専門医は、(山中先生も)、人の肺を壊す病気だと認識していた。

 だが、ビッグテータの解析を通じてわかったことは、このウイルスは血管を壊し、その結果、肺だけでなく、体内のいろんな個所や臓器を破壊していく病気だったということだ。

 先生は言う。3月の知見はもう古い。私たちは間違っていたと認めることにやぶさかであってはいけない。私たちは未知のウイルスを相手にしているのだ。知ったかぶり、分かったつもり、偉そうな言い方はやめよう。未知に対して対処するには、「まず謙虚でなければならない」と。

 「まだまだ分からないことが多い。しかも第2波がくる可能性もある。大切なことは、批判や非難ではなく、助け合うことだ」。

      ★

<「怒りと恐怖のウイルス」も感染拡大していく>

 第1波が通りすぎて、頭を一度クールダウンして思うことは、わが国がこの未知のコロナウイルスに対して、相当にうまく対処したということだ。

 もちろん、政府・厚生省、その他の省庁も、地方自治体も、医療機関も、保健所も、あれやこれやと不十分さや失敗があり、かなりよれよれになっていたことは間違いない。しかし、それでも、この未知の相手に対して、よく凌いだと評価すべきであると私は思う。

 客観的事実から出発しよう。このコロナウイルスによる各国の死者数である。

 [ 新型コロナウイルスによる各国の死者数 ] (讀賣6/16の数字)

    ※ (    )は10万人あたりの死者数

 日本 933人(0.74人) / ダイヤモンドプリンセス 13人

 米国 11万5732人(35.4人) / 英国 4万1783人(62.9人)

   イタリア 3万4345人(56.7人)  /フランス 2万9407人(43.9人)

    ドイツ 8804人(10.6人) /スウェーデン 4874人(47.7人)

 ブラジル 4万3332人

 南アフリカ 1480人 / エジプト 1575人

   イラン 8837人 / インド 9520人

   韓国 277人(0.53人) / 台湾 7人(0.30人)

   ベトナム  0人

 第1波に関して、この数字から言えることは明快である。

 ベトナム、台湾、韓国、日本が、新型コロナウイルスの押さえ込みに成功したということである。

 日本が押さえ込みに成功したと言われると腹が立つ人は、一度、議論の外に出てクールダウンすべきである。山中先生の言う「謙虚さ」を失っているからである。

 ビッグデータを使った山中先生の研究チームの1人は脳学者の方で(お名前は忘れた)、その研究成果も紹介されていた。それは、いま、SNSなどで発信されている無数の投稿が、どういう「感情」から発信されているかを分類したものだ。

 その結果、最も多かった感情は、「怒り」の感情であった。

 脳学者の方の解説は次のようなものであった。

 「怒り」の感情は、脳の中の扁桃体という最も原始的な箇所が刺激されて起きる感情で、「怒り」の裏側にある感情は「恐怖」。付属して、「急いで対処せよ!!」というスピード感を求める感情がある。

 だから、山中先生は言う。ウイルスに感染する前に、「怒りと恐怖のウイルス」に感染してはいけない。「怒りと恐怖のウイルス」もまた、どんどん感染拡大していくのだからと。

 政府が緊急事態宣言を発したあと、マスコミの世論調査があった。その問いの中に、「宣言」を出すタイミングが早かったか、遅かったか、ちょうど良かったかを尋ねる問いがあった。

 世論調査の結果は、多数が、「遅い!!」だった。

 「恐怖」と「怒り」の感情はスピードを求める。謙虚さを失い、自分が絶対正しいと思うようになり、怒りっぽくなり、自分の中の矛盾にも気づきにくい。

 もしこの世論調査で私が答えを求められていたら、「わかりません」に〇をしただろう。私ごとき一市井の人間にわかるはずがない。

 しかし、今の時点で聞かれたら、躊躇なく「グッドタイミングでした!!」と答える。

 他国の「ロックダウン」と比べ、わが国の「宣言」は何の強制力も罰則もないのである。「宣言」を出しても、一定数の国民に鼻であしらわれたら、効果がないどころか、もう何の打つ手もなくなるのだ。

 この「宣言」を効果あらしめるためには、手綱を引きに引いて、国民のほぼ全員が「早く出せ!!」と、そのつもりにならなければ意味がないのだ。

 しかし、それは他方で、オーバーシュートの危険性も伴う。タイミングを失すると、悲惨な結果を招く。

   だから、結果的には、これ以上ないという絶妙のタイミングだった。

 人と人との接触を80%減少させるという目標もすごかった。

 首相も最初は躊躇って「70%以上に」と言ったし、自民党の幹事長は「できるわけがない」とつぶやいた。マスコミも本音はそうだったろう。

 だが、80%に近い数値を達成して、短期に収束まで持って行ったのだから、良くやったと褒めてあげるしかないだろう。 

      ★

<韓国や台湾の成功と欧米先進諸国の失敗>

 だが、新型コロナウイルスに対して、政府(厚生省)に準備できていなかったことは明らかである。この間、PCR検査能力はずっと不十分だったし、マスクも消毒液も不足した。医療従事者の防護服も医療用マスクも不足した。

 病院はクラスターの発生場所となり、保健所は手いっぱいで、かなり危機的な状況になっていた。

 それに対して、韓国や台湾はうまく押さえ込んだ。

 ただ、…… WHOで活躍されている進藤奈邦子さんは、こう言っている。

 「中国武漢で新しい感染症が発生したというニュースが流れたとき、サーズやマーズを経験した韓国や台湾では、政府というよりも、国民の反応が素早かった」。

 ということは、サーズやマーズの恐怖にさらされた経験のある国々と比べたら、わが国の政府・厚生省だけでなく、それを批判する国民自身も、…… いや、日本だけではない。欧米諸国も、皆、同様に危機感が薄かったのだ。

 初め、首相も、厚生大臣も、役所の次官ぐらいも、「まあ、関係の部局に任せておけばよい」と考えていたのだろう。実際、サーズやマーズは、日本に上陸しないうちに鎮火してしまったのだから。

 それは他の先進国も同様で、フランスの大統領も夫人と観劇に出かけ、「外出を控える必要はない」「マスクに感染予防の効果はない」「学校は閉鎖しない」と言っていたと、エマニュエル・トッド氏は書いている (讀賣5/31)。 

 だが、上の死者数の数値を見れば、欧米先進諸国は、ブラジルを除くどの発展途上国よりも悲惨な状況になった。まるでアフリカのように。

 最も憂慮されたアフリカは、今のところだが、欧米よりはかなり感染を押さえられている。

 理由はある。第一に、感染症に慣れていること。第二に、日本人医師を含め、感染症対策に慣れた外国人医師団が活躍していること。しかし、一旦、広がれば、医療体制は脆弱である。

 アメリカは早々に中国をシャットアウトし、鮮やかな水際作戦に見えた。日本の有識者たちも、米国の戦略的な危機対応に学ぶべきだと声を高くして言った。一方、日本政府のやり方は兵力の逐次投入の小出し戦法。話にならないと。

 しかし、その米国も、ヨーロッパ経由のウイルスの水際作戦に失敗し、あたかも不意打ちを食らったように対応が泥縄になっていった。今回わかったことは、米国の医療体制が極めて脆弱なことだ。

 いずれにしろ、全世界を危機に陥れた今回の問題の「根底」にあるのは、突貫工事で超大国化を目指して突き進む中国社会のひずみ・矛盾である。ひずみ・矛盾を覆い隠し超大国化に向けて突き進む理由は、中国共産党独裁体制が崩壊し、人民によって自分たちが処断される日がくるのを恐れるからである。民主主義を否定する国の権力者の永遠の恐怖である。

 今回の問題の「背景」には、欧米先進諸国が進めてきた急速なグローバル化がある。しかも、中国が推し進める一帯一路政策の終着駅は西洋だ。武漢ウイルスはヨーロッパを直撃した。

 人の移動が自由で激しくなれば、感染症のウイルスもたちまち移動する。このようなウイルスをとりあえず封じ込めるには、人の移動を止めるしかない。それで、町から出るな、家も出るなと言わざるを得なくなり、EUの基本精神に反して、国境もロックダウンした。

 だが、その時点ではもう手遅れだったのだ。このウイルスの特徴は、極めて見えにくいことである。気づいたときには、もう遅い。

            ★

<「検査!! 検査!! 検査!! 」が良かったのか??>

 ヨーロッパで最初の感染者が発見されたのは、イタリアのローマだった。春節で観光に来ていた無数の中国人観光客の中に体調を悪くした夫婦がいて、調べたら新型コロナウイルスに感染していた。

 中国人観光客の感染者は他にも見つかったが、彼らが本国の命令で引き揚げた後、イタリアは一瞬、静けさに包まれた。

 ところが、突然、イタリア北部の人口1万6千人の町コドーニョに感染者が出た。それから、北部の各地に、とびとびに、次々と、感染者が出た。イタリアの北部はイタリア経済の先進地で、最もグローバル化が進んでいる地域である。

 イタリア政府は非常事態宣言を発し、感染者が出た町や地域を次々とロックダウンした。PCR検査も虱潰しに行っている。対応は早く、徹底しているようにみえた。

 ただ、PCR検査で陰性の結果が出た陽気なイタリア人は、安心して行動した。経済を止めてはならないし、人生を楽しむことも大切だ。

 その一方で、PCR検査の膨大な実施のため、医療従事者は疲弊していった。

 3月頃のイタリアの状況について、ニューズウィークは「検査のし過ぎと、楽天的な国民性と、緊縮政策の結果だ」と報じている。

 メルケルによって押し付けられた「緊縮財政」のため、脆弱な医療体制はすぐに崩壊し始めた。

 感染は抑えられず、北部の中心都市ミラノと北イタリア全部のロックダウンが決まった。

 その朝、多くの人々が一斉にイタリアの中・南部へ向けて移動した。政府はすぐに気づき、各地の飛行場や列車の駅に網をかけたが、遅かった。イタリア全土に感染が広がった。

 政府は、全土をロックダウンし、家を出るなと命じ、やっと国民は政府の言うことを聞くようになった。しかし、医療体制が崩壊すると、もう手の施しようもない。燃え広がる炎の自然鎮火を待つだけとなった。ただ、「家から出るな!!」である。

 イタリアの炎上を対岸の火事と思っていたスペインに引火し、続いて炎はヨーロッパ全土に広がった。

 その波は、米国へ、そして日本には武漢に次ぐ第2矢として飛んで来た。

       ★ 

<ゲルマンの森深くに進軍したローマ軍団の悲惨>

 欧米の大統領や首相の多くは、ロックダウンして「家から出るな」と言った。スウェーデンでは集団免疫獲得戦略という大胆不敵なやり方を取った。

 欧米諸国は民主主義の国ではあるが、いざというときには強いリーダーシップが発揮され、リーダーは家父長的になる。国民も、また、それに従う。

 それはいかにも「戦略的」に見えたし、PCR検査も十分に行った。物量作戦だ。だが、欧米先進諸国はどの国も医療崩壊を起こし、多くの人々が自宅や高齢者施設で成すすべもなく亡くなった。

 先進国である欧米の惨状を映像で見ていると、皇帝アウグストゥスの時代、ライン川を越えてエルベ川までを制圧しようと軍事行動を行っていたローマ軍が、ゲルマンの深い森の中に誘い込まれ、待ち伏せに遭って、精鋭3個軍団を含む3万5千の大軍が全滅した事件を連想する。もし、この時、ゲルマンが大攻勢をかけていたら、ローマ軍は残された2個軍団でライン川を死守しなければならなかった。

 この事件を契機に、ローマの防衛線は、かつてユリウス・カエサルが定めたとおりにライン川まで後退し、エルベ川への制圧作戦は放棄された。

 カエサルは、なぜゲルマンの深い森の手前、ライン川を防衛線にしたのか。その理由が『ガリア戦記』に書いてある。

 「ローマ軍伝統の、軍団旗を先頭にしての堂々たる行軍方式をつづけるならば、ゲルマニアの地勢は、彼ら蛮族の味方でありつづけるだろう」。

 「身を守れそうなところならどこにでも、樹々の間に隠れた谷あいでも、昼なお暗い森の奥の空き地でも、追跡もむずかしい沼地でも、どこでもいいのだ。彼らは、そのような場所に入ったとき、はじめて逃げるのをやめる。これらの場所は、土地の人間である彼らしか知らない」。

 「地勢を味方にする彼らは、たとえ小規模の群れであっても、待ち伏せして襲う勇気には欠けていないし、本隊から離れた部隊を見つけるや、包囲して攻め殺すのなど朝飯前なのである」。(以上、塩野七生『ローマ人の物語Ⅵ パクス・ロマーナ』から)。

 深いゲルマンの森の中に潜み、「本隊から離れた部隊を見つけるや、包囲して攻め殺すのなど朝飯前」 ── このウイルスは、暗い谷や深い樹林の木陰に潜み、次々とクラスターを発生させ、じりじりと敵を消耗させ、追い詰めて、ついには3万5千の精鋭を全滅させるのだ。

 このようなウイルスに対して、欧米のやり方は、力任せの単純でマッチョなやり方だった。鮮やかに制圧して見せようと高をくくって進軍し、全滅してしまった、あのアウグストゥス時代のローマ軍のようだった。

 未知の相手への「謙虚さ」が足りなかったのだ。

   ★   ★   ★

<わが国の取り組みは繊細だった> 

 わが国が、韓国や台湾のようには準備ができていなかったにもかかわらず、第1波をかわすことができたのはなぜだろう?? 

 多くの識者は、よくわからないが、「国民性」のせいだと言う。麻生大臣は「民度が高いから」と言って批判されたが、確かに「国民性」は大きい。

 しかし、それだけで自然にこういう結果になったわけではないだろう。「国民性」という説明で納得し、思考停止してしまうと、謙虚さを失った国民になる。

 厚生省も、他の省庁も、地方自治体も、今回の緊急事態に対して高い能力を発揮したとはとても言い難い。

 だが、日本には、幸いにも世界に誇る感染症対策の専門家たちがいた。

 WHOの最前線で指揮を執ってきた経験豊かな人たちである。

 未知のウイルスが発生すれば、治療薬とワクチンができるまで、感染をできるだけ防ぎとめなければならない。実際、サーズのときも、マーズのときも、ワクチンや治療薬ができる前に鎮火させてしまったのだ。

 未知のウイルスに対しては、今までのやり方では対応できない。それは、「未知」だからである。ペストやスペイン風邪について蘊蓄を垂れても、目の前のウイルスには役に立たない。サーズやマーズも、既に「過去のウイルス」なのだ。

 日本の取り組みを振り返ってみると、欧米諸国とは全く対照的だったことがわかる。未知のウイルスに対して、「ゲルマンの森の奥深く」に踏み込んだ賢い指揮官のように、力まかせにならず、注意深く、繊細に対応した。

 人々が待ち伏せに遭う場所を「三密」という言葉で表現した。この言葉は、今や国際語になりつつある。

 ドイツは他のヨーロッパの国と同様に、多くの検査でコロナを封じ込めたとされる韓国のやり方を参考にした。

 だが、日本経済新聞(5/30)によれば、ドイツのウイルス学の第一人者で、ドイツ政府のコロナ対策に大きな影響力をもつクリスティアン・ドロスデン氏は、今後、第2波を封じつつ経済活動を行っていく上で、日本がロックダウンなしに感染を押さえ込んだやり方を「手本にしなければならない」と語っている。

 ドロスデン氏は、スーパースプレッティングと呼ばれる一部の感染者から爆発的に感染が広がる現象を取り上げ、日本のクラスター対策が感染の第2波を防ぐ決め手になるという考えを示したのだ。 

 或いはまた、別のドイツの研究機関の調査では、比較的早くから公共交通機関や商店でのマスク着用を義務付けた都市と、マスク着用義務が遅れた他の多くの都市とを統計的に比較し、マスク着用は新型コロナウイルスの拡大を4割抑制できると発表した。

 一方、わが国では、早くから、NHKが専門家の協力を得て、マスクなしで発声した場合の飛沫の飛び方と、マスクをして発声した場合の飛沫の飛び方を映像として可視化して見せた。国民にとって、テレビの飛沫の映像は、研究機関の調査報告などより遥かに説得力があった。

 また、その飛沫が、ドアのノブや机やパソコンにいかに残存しているかも、映像化して見せた。

 単純にロックダウンして「外に出るな」というマッチョなやり方と比べて、きめ細やかさが全く違うのである。

 ロックダウンしても、食材を買いにスーパーマーケットに行かねばならない。そこではソーシャル・ディスタンスを取る。しかし、私には欧米人が買い物から帰った後、すぐに家で手を洗っているとは思えない。彼らは、日常、シャワーもたまにしかしないし、下着も替えない。

 日本では、石鹸を付けて、指の間から爪先まで、30秒くらいかけて、こんな風に丁寧に洗わなければならないと、テレビが映像として見せてくれる。お陰で私も、この間、外出から帰ると、石鹸を付けて丁寧に指の1本1本まで洗うようになった。

 「お願い」しかできない特別措置法という伝家の宝刀をここしかないというタイミングで出したのも、実に繊細なタイミングであった。「戦略的」な識者は「遅い!!」と叫んだが、士官学校やエコノミストの初級教科書に書いてある戦法は「過去の戦法」に過ぎない。そのとおりにやっていたら、「全滅する」可能性もあった。

        ★

<韓国とイタリアの違いは何か??>

 韓国の成功が多くのPCR検査によるものだという認識を、私は間違っているのではないかと思い始めている。

 もう一度、WHOの進藤奈邦子さんの言葉を思い出してみよう。こうであった。

 「中国武漢で新しい感染症が発生したというニュースが流れたとき、サーズやマーズを経験した韓国や台湾では、政府というよりも、国民の反応が素早かった」。

 ベトナムや台湾や韓国において、サーズやマーズはそれほど遠い過去のことではない。その恐怖は人々の記憶の中に刻み込まれている。

 ニュースを聞いて、これらの国の人々の中に恐怖が走った。誰に言われるまでもなく、人々はあの当時の行動様式にすばやく戻っていったのだ。

 詳しいことは知らないが、多分、人々は人ごみを避け、人との接触を少なくしようとした。可能な範囲で「自粛」生活に入っていったのだ。人と会っても握手やハグはしない。外出するときはマスクを付け、手洗いもする。大勢の人が触れる物にはうかつに触らない。

 実は、そういうことが決定的に大切だったのではないかと、私は考える。

 検査、検査というが、PCR検査は、ワクチンではないのだ。

 コロナウイルスに対して日本同様に未経験だった欧米では、大量の検査がかえって人々を安心させ、行動抑制とは逆の方向へ向かわせた。

 イタリアをはじめいわゆるラテン系の社会には、おしゃべりが大好きな人が多い。或いは、ハグをし、キスをする。よくホームパーティを開く。カフェなどのテーブルとテーブルの間隔も狭い。それに、ふだんから、冬でも半袖の若者をよく見かける。つまり、「強さ」へのあこがれが強い。アメリカの強いリーダーを意識するペンス副大統領は、人前に出るときマスクをしなかった。ウイルスごときに負けることはないという気概が強すぎるのだ。しばしば手洗いする人は、欧米では神経質な弱虫と思われるだろう。

 もちろん、「人はそれぞれ」を尊重するのが欧米人だ。それでも、そういう傾向があることは確かだ。

 そういう傾向をもつ人々に対しては、きめ細かで具体的な啓発活動が必要だ。だが、欧米の政府や各機関は、このウイルスに対処する行動様式の変容を促す啓発活動をしてこなかった。だから、ウイルスは、人々の中に易々と侵入し、あちこちでオーバーシュートを起こした。事態が深刻化してから、政府や自治体はマスクの着用を義務付けたりした。もっと大切なのは手洗いだ。 

       ★

<第2波に備えて>

   第2波は来るだろう。

 なぜなら、欧米諸国は、明らかに収束を図れないまま経済活動の再開に踏み切った。これ以上、経済がもたないという気持ちはわかる。しかし、これで第2波が来なかったら、よほど幸運に恵まれたと言っていい。

 ただ、幸いにも、経済活動を再開したヨーロッパで、感染者数の増加が抑えられてきている。その要因は、マスクをはじめ、人々の生活様式が変わってきたからではないかと言われている。

 米国の大統領は、相変わらずマッチョだ。

 最初から火事を消そうとさえしないブラジルのような国や、インドのような文化の国もある。

 世界全体から見れば、ウイルスは衰えを見せていない。再度、日本に上陸する可能性は十分にある。

 その時に備えて、研究者の研究も進められているようだ。 

 橋下徹氏や吉村大阪府知事が、最近、阪大の先生が提唱した「K値」を取り上げている。

 K値とは、「最近1週間の感染者数」を「累積の感染者数」で割るというだけの極めて簡単な数式で、計算は小学生でもできる。

 最初の週に5人の感染者が出たとすれば、累計も5人だから、K値は1.0。次の週も5人だったとしたら、分母は10人だから、0.5となる。

 分母はどんどん大きくなるから、K値はどんどん小さくなっていく。グラフは右肩下がりにゼロへと近づいていく。

 そのグラフの傾き具合(下がり具合)で赤信号の判定ができるというのだが、いろいろ試算してみても、得心できなかった。

 極論すれば、1週間に1万人の感染者が出ても、累計がブラジル並みに100万人になっていれば、K値は0.01。即ち1%。グラフはほとんどゼロに近づいている。

 「1万人も感染者は出ていますが、グラフはどんどん下がり、ほぼゼロですから、もう収束しますよ」と、知事は府民に説明するのだろうか?? 

 しかし、週に1万人も感染者が出るということは、クラスターが全国のあちこちで発生しているということであり、国内において、いつ、どこで大爆発が起きるかわからないと考えるのが常識というものだ。もちろん、感染者累計100万人ということは、人口1億人の1%だから、スウェーデン流の「抗体の壁」にもほど遠い。

 もし日本が大統領制だったら、次の大統領に当選するかもしれないほど人気絶頂の知事だが、文系の私にはK値の意味は全くわからなかった。 

 しかし、「讀賣」6/27には、こうあった。

 大阪モデルについて、「府幹部の一人は『科学的な根拠はなく、最後は「えいや」で作った』と打ち明けた」。「だから、修正を余儀なくされる」。

 山中伸弥先生「結果を見てから基準を決める。科学でこれをすると、信頼性が揺らぎます」。

 吉村知事「大阪モデルは科学ではなく、政治判断の基準です」。

 なるほど。気負ってますね。

 今、諸外国に台頭してきているポピュリズム(大衆迎合)型の強権政治家にならないように。

 それよりも、東京大学をはじめとする幾つかの大学の先生の協同で、下水のコロナウイルスの検出量の増減から、危険信号(第2波)を予測する研究が進められているという報道もあった。

 この「猶予期間」には、数字のマジックではなく、こういう確かな根拠のある科学的手法で、このウイルスの「未知」を「既知」へと変えていってほしい。

 とにかく、コロナ騒動が遠くへと去っていき、心穏やかに燗酒を楽しみたいですね。

      ★

「読売歌壇・俳壇」から

〇 測量を せずにトンネル 掘り進む ごとし「緊急 事態宣言」   (成田市/原田浩生さん)

   政治家とは、測量をしても、測量をしても、日々、「測量をせずにトンネルを掘り進むような」仕事だと思います。ただ、そういう人材も尽きようとしているのではないかと危惧します。

〇 時は今 止まったように 流れてく 日毎に赤い 隣家のいちご  (和歌山市/尼寺恵子さん)

 春ののどかな日々。時は 止まったように流れていました。

〇 紫陽花の マスク縫ひたり 紫陽花の 咲く頃にまた 授業できるか (さいたま市/佐藤弥生さん)

選者評) 「授業を再開し、生徒たちと会いたい。その思いを胸に、ウイルス感染予防のマスクを縫う」。

 「紫陽花」のリフレインが印象的です。

    

 (梅雨入りする)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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閑話 …… EUはどこへ行くのか

2017年04月27日 | エッセイ

         ( マドリッドでフラメンコを見る )

 6

 今回は、カテゴリー 「西欧旅行 … 陽春のスペイン紀行」の8編のうち、後半の次の4編の写真を全部入れ替えて、更新しました。

5 うきうきセビーリャ 

6 西ゴード王国の都トレド            

7 マドリッドでフラメンコを見る         

8 圧巻のローマ水道橋・セゴビア 

 アンダルシアから首都マドリッドへ、5月の爽やかな気候に恵まれ、楽しい旅でした。

          ★

 なお、スマホでご覧になる場合は、「最新記事」のあとに、「カテゴリー」が出てきます。

 カテゴリーの中から、「西欧旅行 … 陽春のスペイン紀行⑻」を開き、右上の「古い順」をクリックすると、記事が行程順に並び変わります。

      ★   ★   ★

< 閑話 >

 最近、エマニュエル・トッド 『 問題は英国ではない、EUなのだ 』 (文春新書) を読みました。

 私は、ずっとヨーロッパにこだわり、ヨーロッパを歩き、その歴史や文化に関心を寄せてきました。ヨーロッパは斜陽の国々だと言われますが、それでも、第二次世界大戦のあと、志を抱いてEUという壮大な実験を始めたヨーロッパに、期待をかけてきました。中国は言うまでもなく、アメリカも新興国です。日本と同じように歴史ある西ヨーロッパが、このまま衰退していくのか、古い文化や伝統を大切にしつつ、さらに成熟した魅力ある未来を切り開いていくのか、その姿を見たかったのです。もちろん、日本の未来を重ね合わせつつ。

 そのEUは、今、どこに行こうとしているのでしょうか??

   トッド氏が言うように、( EUの当初の理念が次第に失われ )、レーガン・サッチャーの時代から起こってきた「グローバリズム」に変質・同化してきているのではないかと心配になります。EUのなかが、「勝ち組のドイツ」と「負け組のギリシャ」に分断されたのでは、第二次世界大戦の反省から生まれたEUの意味がありません。EUとは、「市民共同体」のはずです。

 「100万人の難民を受け入れる」とメルケルが言ったとき、私は即座に、無茶だと思いました。難民を受け入れるとは、市民共同体が、包み込むようにして1家族ずつを受け入れていくことであって、目標は市民共同体の1員になってもらうことです。郊外に難民用のマンションを建て、あとはボランティアが入って面倒を見る、というようなやり方で、宗教も文化も価値観も違う人々を受け入れたら、必ず将来に禍根を残すでしょう。すでに、その禍根は顕在化しています。

 統計学者のトッド氏は、ドイツの出生率は日本と同じ1.4で、若年労働者が決定的に足りなくなっている、と言います。人格を持ち、異なる宗教や文化をもった人々を受け入れようとしているのではなく、ドイツは移民・難民を「労働力」としてしか見ていないのだ、と言います。( グローバル化とは、資本、技術、労働力の国境を越えた侵出のことです )。 こんなことをしていたら、今一人勝ちしているドイツも、いずれ破滅的な混乱に陥るだろうと。

 歴史とか、文化とか言いますが、それらは文化遺産や本の中にあるのではなく、市民の暮らしの中に、DNAのように実現しているものだと思います。例えば、今、ヨーロッパの人々のなかに、純粋なキリスト教徒は少なくなっていますが、キリスト教的なものの見方、感じ方、考え方は生活の隅々まで浸透しているはずです。それがヨーロッパというものです。

 キリスト教的なものの見方、感じ方のことだけではありません。公立学校の非宗教化 (非キリスト教化) は、フランス革命以後、市民社会が長い年月をかけて勝ち取ったものです。そこへ、ベールをつけて登校し、これが私たちだと、宗教をふりまわされたら、ヨーロッパ的市民社会は、理念からゆらいでしまいます。

 中東諸国ではイスラム教が人々の暮らしの隅々を支配していますが、ヨーロッパではイスラム教は言うまでもなく、キリスト教も、人々の暮らしを支配することはありません。それはただ、内面の問題としてあるのみです。

 

 

 

 

 

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アメリカの大統領の広島訪問 … Why do we come to this place,

2016年05月29日 | エッセイ

 ( 原爆ドームを訪ねる少年少女 )

 2016年5月27日(金)、オバマ米大統領が広島の平和公園を訪問した。

 大統領は、花束を捧げ、黙祷し、そして、スピーチした。

 スピーチは、人間としての真摯さを感じさせるものであった。

 そのスピーチの中で大統領は言った。「私が生きている間にこの理想 (核兵器が完全に廃絶される世界) を実現させることはできないかもしれない」。

 今、現実世界を見る目をもつ人なら誰でも、「この理想」が、遥か彼方のものであることを知っている。

 それは、20世紀の終わりの頃よりも、一段と遠のいたかに見える。アメリカの大統領がその気になっても、世界の状況がそれ以上に悪化し、理想は地平線の彼方に遠のいてしまった。

 しかし、…… 私が生きている間に、アメリカの現職の大統領が、「原爆死没者慰霊碑」の前に立って、花束を捧げ、黙祷するようなことが起ころうとは、思ってもいなかった。

 だが、それが実現した。

 今、世界に希望はないように思えても、朝、水平線の上に太陽が昇ってくるように、突然、当たり前のことのように、状況は一変するかもしれない。

 世の中、捨てたものではない。そういうことを、思わせてくれた大統領の広島平和公園訪問であった。

 アメリカの大統領の黙祷の前に、死者たちも、自分たちが初めて人間としてリスペクトされたと感じただろう。それだけでも、素晴らしいことであった。

         ★

  ( 原爆死没者慰霊碑 )

 だ円形の御影石の屋根の下に、国籍を問わず、原爆死没者すべての氏名を記帳した名簿が納められた石室(石棺)がある。そして、その前に「安らかに眠って下さい。過ちは繰返しませぬから」の石碑が立つ。その向うには、原爆ドーム。

 石碑の文は、祈りと誓いの言葉である。

 誓いの言葉に主語がない、と言われた。あいまいな日本語!! あいまいな日本人!! だから、日本人はだめなんだ。

  戦後、「日本はだめだ」と言えばハイカラだという風潮が、知識人の中に、つい最近まであった。

 しかし、なぜ、欧米語の文法を日本語に当てはめ、欧米語の文法に当てはまらないからと言って、日本語に劣等感をもつのか?!! 

 日本語に主語は要らない。そもそも、この世の中のことをすべて、「我か彼か」の二元論で説明できると考えるほうが、よほど単細胞であり、言語としても欠陥がある。

 「主語がない批判」は、右からも、左からも、起こった。

 「過ち」ではない。確信犯・アメリカによる「犯罪」ではないか!! これは、右からも左からも出された非難だ。

 左派は、戦争を始めた日本軍国主義者も同罪である!! と叫ぶ。

 「過ちはくりかえしません」ではない。「過ちは繰返させません」とすべきだ、と言う。

 その延長線上に、今回のオバマ大統領広島訪問のニュースに対する中国・王毅外相のコメントがある。「広島は注目を払うに値するが、南京は更に忘れられるべきではない」「被害者は同情に値するが、加害者は永遠に自分の責任を回避することはできない」。

 彼の言う「加害者」とは、日本軍国主義者のことで、今も靖国参拝を繰り返していると、彼は言いたいのだ。

 今、世界の中で、ダントツに軍事費を増やし続けているのは、中華人民共和国である。そのことから人民と世界の目を逸らしたいのだ。

         ★

 そのような批判に対して、碑文を起草し、自らも被爆者であった雑賀忠義広島大学教授(当時)は、自ら英訳として「For we shall not repeat the evil 」と書いた。

 また、歴代の広島市長、例えば、山田節男氏は、「再びヒロシマを繰返すなという悲願は人類のものである。主語は『世界人類』であり、碑文は人類全体に対する警告・戒めである」と述べている。そして、今は、これが公式の見解となっている。

 オバマ大統領は、スピーチの冒頭から二つ目のフレーズで、「我々はなぜこの地、広島に来たのか。それほど遠くない過去に解き放たれた恐ろしい力について思いをはせるためであり、10万人を超える……犠牲者を追悼するために来た」と述べているが、その英文は 「Why do we come to this place, … 」 である。

 先に引用した 「私が生きている間にこの理想を実現させることはできないかもしれない」 の前にも、実は、「我々は、」 があり、「我々は、私が生きている間にこの理想を実現させることはできないかもしれない」 、原文は、「We may not realize this goal in my liferime 」となっている。

 大統領のこのスピーチの中で、we は何度も使われている。

 この「 we 」は、だれを指すのか? あいまいなのは英語も同じである。

 まさか大統領が、大統領に同行してきた付き人を含めて、「我々」と言っているのではなかろう。

 同行する安倍首相と大統領、さっきまで会議していたサミットのメンバー、アメリカ合衆国、アメリカ国民 …… 等であるなら、そう述べたであろう。終始、「 we 」 で通すことはない。

 オバマ大統領もまた、「世界人類」を主語としてスピーチしているのである。

 ただ、中国の王毅と根本的に違うのは、大統領は自分自身を、「世界人類」の主体的一員として認識し、死者に対して真摯に向き合っているという点である。

 「彼ら (原爆の犠牲者たち) の魂は私たちに語りかけている。もっと内面を見て、我々が何者か、我々がどうあるべきかを振り返るように、と。」

   王毅のように、中国共産党史観をふりかざし、「ためにする議論」に原爆を利用することは許されない。

 この問題に、アメリカや、中国や、韓国や、日本のナショナリズムを持ち込むのは、ご免である。

 謝罪を求め、際限のない鬱憤晴らしをしても、自らを貶めるだけで、人類進歩の役には立たないし、彼岸の死者も喜ばない。

 世界人類の一人一人が、20数万人の原爆による死者の前に立ち、「安らかに眠って下さい」と祈り、「過ちは繰返しませぬから」と自分の心に小さな誓いを立てることが、原爆死没者の同胞である我々日本人の願いである。そして、その誓いが世界の大多数の人々の祈りの言葉となる日を、我々日本人は、居丈高にならずに、辛抱強く待ち続けるであろう。

 自ら折った折り鶴を持参したアメリカの大統領に、人間らしい感性と知性を感じた。一方、中国人のレベルは相当に低い。

 国民・一般大衆のことではない。リーダーのことである。

 

         ( 原爆ドームのそばで )

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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台湾の「記憶」、台湾の心 … 台湾映画 『海の向こうの甲子園』を観て

2015年03月12日 | エッセイ

 台湾の映画を初めて観た。『 KANO 1931 海の向こうの甲子園 』。

 戦前の台湾の中等学校野球を描いた、汗と涙の青春ドラマである。

 当時、台湾は日本領だったから、台湾の地方大会を勝ち抜いた1校も、甲子園に出場した。 

 「KANO」とは、台湾州立嘉義農林学校 ( 通称: 嘉農 ) のこと。1919年に創立された中等教育学校である。現在は昇格して国立嘉義大学となり、今も台湾大学野球の強豪校だそうだ。

 しかし、もともとKANO野球部は、台湾の地方大会で1勝もしたことのない弱小チームだった。

 1930年、そのチームに、近藤兵太郎が監督として就任する。

 古武士のようにもの静かな人だが、心に傷を抱いていた。かつて本土で、中等学校野球の強豪校の若き指導者であったとき、指導に失敗してチームを投げ出してしまったという過去を持つ。今、妻とともに台湾に来て職を得ているが、二度と野球にかかわるつもりはなかった。

 ある日、林に囲まれ打ち捨てられたようなグランドで、指導者もいないのに、泥まみれになって、ひた向きに練習するKANO野球部員の姿を見る。その (旧制) 中学生たちの姿に心を打たれた。

 この弱小チームの指導者になって、もう一度甲子園を目指そう。近藤兵太郎の心に火が付いたところから物語は始まる。

 ドラマには描かれていないが、近藤は、彼らのひたむきさに加えて、このチームの部員たちの身体能力の高さやセンスの良さを見抜いたのだと思う。彼らなら、きちんと教え、鍛えれば、彼が良く知っている内地の甲子園に出場するチームにも、決して劣らないようなチームになるだろうと。

 近藤監督は、就任するといきなり「甲子園に行く」と宣言し、以後、絶えず口にする。

 選手たちも口にするが、親や町の人たちは笑っている。まさか?! それより、家の仕事を手伝え。

 監督を信頼し、監督の教えどおりに必死で練習に取り組む選手たちだが、実は彼らも甲子園に行けるとは思っていない。尊敬する監督の手前、そう言えないだけだ。選手たちは、それよりも、練習試合で一度も勝ったことがなく、高見から見下している隣の学校の野球部に勝ちたいのだ。

 かくして、KANO野球部は、日本人監督の下、守備の上手い日本人生徒、強打の漢人生徒、俊足好打の先住民生徒たちが、何の分け隔てもなく一つになって、激しい練習をし、翌1931年、台湾予選を次々に勝ち抜いていくのである。

 1勝するたびに選手は輝きだし、エースはマウンドを守り抜く真のエースとなり、俊足の1、2番は塁を走り回り、それを中心バッターが強打で返し、ピンチになれば球際に強い守備力で守り抜いた。

 KANOが勝ち進むにつれ、町の人々も驚きと喜びに沸き、ラジオの実況放送に集まってくる。

 そして、ついに、台湾予選の決勝戦にも勝ち、1931年の夏の甲子園に、台湾代表として出場するのである。

 舞台は甲子園へ。

 強豪チームの周りにマスコミは集まったが、KANOに注目す記者は誰もいなかった。漢人ばかりか、先住民もいるチームに、差別的な質問を浴びせた記者もいた … これに対しては、日ごろ無口な近藤監督がきちんと反論する。

 最初、誰にも注目されていなかった嘉農だが、当時流行りだした姑息な戦法は取らず、1球たりともおろそかにしない、真摯で、気迫のある、力強いプレーで、次々に強豪チームを倒していく。その姿が、次第に甲子園の野球ファンの共感と感動を呼び、ついにKANOは決勝戦に進む。

 決勝戦では、指に血豆ができ、血を流しながら投げるエースの呉明捷投の奮闘もむなしく、激闘の末、中京商業に敗れる。たが、あの差別的な質問をした記者も、多くの甲子園ファンも、このチームを「天下の嘉農」と呼んで称賛した。

 本当にあった、あつーい野球青春ドラマである。

 映画の終わりの字幕によれば、この映画のもう一人の主人公と言ってもいいチームのエース・呉明捷投手は、その後、早稲田大学野球部で活躍した。そのほかのメンバーも、台湾野球の指導者になったり、学校の先生になっている。

 その後、近藤兵太郎監督に率いられた嘉農野球部は、春、夏併せて計5回、甲子園に出場した。彼らの後輩・呉昌征選手は、のち日本のプロ野球に入り、巨人、阪神でも活躍して、野球殿堂入りしている。

        ★

 金美麗さんによると、台湾では、先年、八田與一(ヨイチ)を描いた映画もつくられた。

 また、最近は、旧制高等学校時代の青春をノスタルジックに描いた映画もヒットしたと聞く。

 『KANO 1931 海の向こうの甲子園』にも登場する八田與一は、土木技術者として台湾に派遣され、東洋一のダムと、総延長距離が万里の長城より遥かに長い水路を張り巡らせて、嘉南平野を大穀倉地帯にした人物である。夫婦の墓は今もダムの畔にあり、土地の台湾人によって、毎年、慰霊祭が行われている。

 注) 司馬遼太郎の『街道をゆく』シリーズのなかで、司馬の思いがあふれ、私がいちばん感動したのは『台湾紀行』である。八田與一のことも書かれている。それに、何よりも、司馬遼太郎と李登輝さんの交流がいい。君子の交わりとはこのようなものかと、感動する。まだ読まれていない方は、ぜひご一読を。

         ★

 それで、『台湾紀行』をパラパラと読み直していたら、嘉義農林学校野球部の、一人の先住民選手のことが書かれていた。以下、その抜粋。

 「台東の野にいる。

 むかしからプユマ族が耕している野である。この野から、むかし、嘉義農林の名選手が出た。

 日本統治時代の名を上松耕一といい、明治38年(1905)にうまれた。いま生きていれば、80代後半になる。

 台東のプユマの社 ( ムラ ) からはるかな嘉義農林に進学したのは、運動能力が抜群だったからに相違ない。(※これは多分、司馬さんの間違い? )

 昭和6年(1931)、上松少年の嘉義農林は甲子園に出場し、勝ち進んで準優勝になった。少年は遊撃手だった。

 卒業後は、横浜専門学校(現神奈川大学)に入り、卒業してから嘉義の自動車会社に入社した。かたわら母校の嘉義農林にたのまれて野球部の指導をした。

 上松耕一は、結婚後、台東にもどって山地人のための学校を多く建てた。戦後、陳耕元という名になった。

 (司馬さんが、泊まったホテルの荷物運びの老人に、「上松さんを知っていますか」 と聞くと、その人は「ああ、『校長先生』のことでしょう」 と答えた。)

 …… ともかくも、昭和初年の甲子園の名選手が、いまなお台東の山野で『校長先生』の名でもってその存在が語り継がれているというのは、すばらしいことだった。

        ★    

 日本統治時代、当時の日本政府は、(台湾でも、韓国でも)、全土を測量して地図を作り、道路をつくり橋を架け、水力発電を起こし、工場を建て、或いは病院をつくって風土病と戦い、全国津々浦々に小学校を建てて義務教育を普及し、交番や郵便局を開設し、中等教育学校を整備し、さらには旧制高等学校や帝国大学もつくった。台北に設けられた帝大は、名古屋や大阪より古い。(韓国・ソウルの帝大は、さらに古い)。

 台湾人の「記憶」のなかで、甲子園を目指した青春の熱気や、弊衣破帽で友と哲学を論じ合った旧制高等学校時代のほのかな恋心が、美しい思い出として、今も郷愁をもって語り継がれるのは、自然の理である。

        ★

 長く会わなかった人から、きみ、忘れたのかい、子どものころ、きみのうちに遊びに行ったとき、裏山に桜の木があって、みんなで花見をしたよ、と言われて、あっ、そうか、そうだね。そうだったねと言って、思わず手を握る。

 日本人は忘れかけているが、台湾人にとって日本時代の記憶は、時に、なつかしい。

 東日本大震災の折、世界でいちばんたくさんカンパを集めてくれたのは、台湾の人たちであった。

 「記憶」は、語り継がれて、歴史になる。

 日本統治時代よりも前の、中国から「化外の地」と言われた時代の「記憶」、日本が去り、入れ替わるように入ってきた蒋介石軍に支配された戦後の「記憶」 … 台湾には台湾の歴史物語がある。

        ★

 映画の最後のシーンは、台湾に帰る船の狭い甲板で、選手たちが草野球をして遊ぶ場面だった。

 その海の上のシーンを見ながら、旅客機のない時代、台湾までの船旅の遠さを思った。… 彼らは甲子園に出場するために、いったい何日かけて、やってきたのだろう

   

    ★   ★   ★

 もう一つの国、韓国でも、日本が戦争に負けて去って行くとき、多くの民衆は、日本について、良い「記憶」を持っていた。少なくとも、李氏朝鮮時代に戻りたいと思っていた人は、一部の両班階級を除いては、あまりいなかったろう。

 今の韓国の反日感情は、戦前の日本の統治の結果ではなく、戦後の「韓国国民」づくりの結果である。

 学校で「日帝の悪」を教え込まれた子どもたちは、家に帰ってそれを話す。母や、祖母が、「日本の統治時代に、そんなことはなかったよ」と言うと、子どもは「先生が教えてくれることに間違いない」と反発する。親たちは、「学校で教えられること」 に対しては、黙って受け入れるしかない。そういう時代になったのだと。

 こうして、韓国人の記憶の中から、甲子園の記憶も、旧制高等学校の思い出も、日本人の子も韓国人の子も差別もなく教えてくれた小学校の日本人教師の記憶も、お隣に住んでいて仲よくしていた日本人一家の思い出も、炎天下、日本人技師に付いて全土を測量し地図を作った記憶も、初めて近代的な橋を架け、ビルを建てた記憶も、交番制度ができ土地の若者が巡査になった記憶も、すべてが消えていった。

 歴史は「修正」される。

 同じ「記憶」をもつはずなのに、一方にとって、それはなつかしい「記憶」、他方にとっては、憎悪の「記憶」。

     ★   ★   ★ 

 終わりに、司馬遼太郎『台湾紀行』から、そのいくつかの文章を書き写す。

 「以下は、ごく最近にきいた話である。大蔵省の造幣局の幹部のひとが、1980年前後、大蔵省から派遣され、財団法人交流協会台北事務所の一員として滞台した。

 仮に、Aさんとする。滞台中、一人で東部の山中を車で駆けていたとき、大雨に遭った。路傍の木陰に、山地人の老人とその孫娘が雨を凌いでいたので、乗せた。

 乗ってきた老人にとって、戦後、日本人に会うのがはじめてだったらしい。このため、話が大ぶりになった。

 『日本人は、その後、しっかりやっているか』

 といったぐあいに、なたで薪を割るような物言いで言う。

 『はい、日本はお国に戦争に敗けたあと、はじめは虚脱状態だったのですが、その後 … 』

 『お国とはどこの国のことだ』

 『あなたの中華民国のことです』

 『いっておくが、日本は中華民国に敗けたんじゃない』

 『敗けたんです』

 変な話になった。

 この老人も、日本が連合国に降伏したということは、知っているはずである。その連合国のなかに、中華民国が入っていた。

 『いや、敗けとりゃせん』

 と老人がいうのは、区々たる史実よりも、スピリットのことをいっているらしい。

 降りるとき、この『元日本人』は、若い日本人に、『日本人の魂を忘れるな』といった。

 孫娘もきれいな標準語をつかっていたそうで、山中と言い、大雨と言い、民話のような話である。

                        ★

 (巻末の司馬遼太郎と李登輝の対談から)

 李登輝)  「司馬さんと話をするとき、どんなテーマがいいかなと家内に話したら、『台湾人に生まれた悲哀』といいました。それから二人で「旧約聖書」の「出エジプト記」の話をしたんです」。

                        ★

 「300年も独力でひとびとが暮しつづけてきたこの孤島を、かつて日本がその領土としたことがまちがっていたように、人間の尊厳という場からいえば、既存のどの国も海を越えてこの島を領有しにくるべきではないとおもった。

 当然のことだが、この島のぬしは、この島を生死の地としてきた無数の百姓(ヒャクセイ)たちなのである。

           ★    ★   ★

 中華人民共和国は、今、中国の歴史上、最大の版図を有し、まさに「帝国」である。抑えつけられた民族の悲鳴が聞こえる。これ以上、不幸を広げることに、反対する。 

 そして、いつの日か、国連が、新しい加盟国として、「台湾国」を承認する日が来ることを、願う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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塩野七生とともに、日本への応援歌

2015年03月03日 | エッセイ

 遠く離れたローマに、私と同じような思いで、日本にエールを送っている人がいる。

 以下、塩野七生 『日本人へ…危機からの脱出編』 (文春新書) の中の「ラストチャンス」から引用する。

    ★   ★   ★

 「短期の滞在の後で成田を発ったのは、参院選の当日だった。 だから選挙の結果は、ローマのスペイン広場に行って買った、一日遅れの日本の新聞で知った。 良かった、と心の底から思った。 これで久しぶりに日本も、安定した政治にもどれるのだと」。

       

(テヴェレ川とサンタンジェロ城/塩野さんのお宅はこの近く)

 「帰国中にはいつものことだが、日本の地方のニュースに注意するようにしている。 それらを見ながら抱く思いは、こうも懸命に生きている日本人一人一人の努力を無駄に終わらせないためにも、政治の安定が必要なのだという一事に尽きる」。

 「新聞の論調を読んでみると、今こそ正念場、ということでは各紙とも同意見のようである。 また、正念場というのが次の選挙までの3年間、ということでも各紙は一致しているらしい。

 だが私は『正念場』には同意しても、それが『次の選挙までの3年間』、というのには同意しない。3年なんて、すぐに経ってしまう。再浮上にとっての絶好のチャンスなのだから、3年なんてケチなことを言わず、10年先まで視野に入れてはどうだろう。そして、その10年だが、安倍プラス石破で小泉につなぐ10年間。この10年で浮上に成功すれば、その後は苦労少なく安定飛行に移行できる。という意味でも、どうしても10年はほしい。10年後には私はもう生きていないにちがいないが、日本は安定飛行に向けて着実に浮上している、と思いながら死ぬのならば悪くない」。   

 「経済力の浮上が最優先と言うと、大新聞あたりからイデオロギー不足などと批判されるかもしれないが、そのような論調は無視してかまわない。明治維新が成功したのは、維新の志士たちも反対側にいた勝海舟もイデオロギー不在であったからだと、私は思っている。それはそうでしょう。 昨日まで攘夷と叫んでいたのが一転して開国になったのだから、終始一貫ということならば彼らの多くが落第である。

 彼らを動かしたのは、危機意識であった。 すぐ隣で起こった阿片戦争によって巻き起こった強烈な危機意識が、彼らを駆り立てた真の力であったと思う。イデオロギーは人々を分裂させるが、危機意識は団結させるのだから。 

    ★   ★   ★ 

 塩野七生は言う。「帰国中にはいつものことだが、日本の地方のニュースに注意するようにしている。それらを見ながら抱く思いは、こうも懸命に生きている日本人一人一人の努力を無駄に終わらせないためにも、政治の安定が必要なのだという一事に尽きる と」。

 私もまた、「国東半島石仏の旅」の間、ずっとそのことを考えていた。

 「私は『正念場』には同意しても、それが『次の選挙までの3年間』、というのには同意しない」。

 新聞やテレビや週刊誌は、つまらないこと(例えば首相のヤジ)を取り上げ、鬼の首でも取ったかのごとく大騒ぎして足を引っ張る。「権力の番人」などとうまいことを言うが、実は発行部数を増やし、或いは視聴率を上げて儲けたいという資本主義的欲求からである。戦前もそういう動機から、政党政治をたたき、軍部の台頭に拍手を送って、日本の針路を誤らせた。戦前、日本に軍国主義を招じ入れたのは、マスコミである。大衆迎合(ポピュリズム)が専制を招き寄せる。

 もちろん、「失われた20年」を取り戻すのに、3年くらいではどうにもならない。アメリカの大統領は8年、中国は10年。3年で賞味期限切れにしていたら、他国に侮られるだけだ。

        ★

 「明治維新が成功したのは、維新の志士たちも反対側にいた勝海舟もイデオロギー不在であったからだと、私は思っている」。

 「国東半島石仏の旅 8」に、「世間は生きている。理屈は死んでいる」という勝海舟の言葉が刻まれた中学校の卒業記念の石碑を紹介し、「これが本当にわかるようになるには、相当の勉強と、経験が必要である」と書いた。

 私も、若いころはイデオロギーに心酔した左翼青年だった。やがて働き盛りになり、政治や思想に興味を失っていった。

 それが大きく変わったのは、日本がデフレに陥って右肩下がりに「縮小」していき、一方で、中国共産党下の中華人民共和国が、天安門事件を契機に社会主義をかなぐり捨て、愛国主義宣伝( =反日宣伝 ) をしながら、すさまじい勢いで経済的・軍事的「膨張」をはじめたからである。中国共産党の、中国共産党による、中国共産党のための政治を、国境を越えて膨張されては、隣国としてはたまらない。それが、私の危機意識である。

 例えば仮に、お隣がEUであって、そのEUがどんどん膨張するのであれば、私は何も心配しない。日本経済が「縮小」していく一方なら、誇りを捨ててEUの庇護下に入ればいいだけだ。しかし、EUと中華人民共和国とでは、全然違う。世界の幸せのためにも、かの国の軍事的膨張はよくない。

 戦後、日本は、「アメリカの力」の蔭で、子どものように平和なときを過ごした。それを、憲法9条のお蔭と言うのは、イデオロギーでしかものを見ない人たちである。

 しかし、世界は変化し、日本を取り巻く状況は本来の姿に戻ってしまった。本来の姿とは、司馬遼太郎が言うように、アメリカと、ロシアと、中国という、覇権国家、或いは、覇権国家を目指す巨大な3つの滝があって、その滝に囲まれた滝壺に、日本という一艘の舟が浮かんでいる、という危うい景色のことである。

 ただ、その危機意識は、今、台湾や、フィリピンや、ベトナムや、インドネシアや、シンガポールや、オーストラリアや、インドと共有している。 アメリカとは、同盟がある。「イデオロギーは人々を分裂させるが、危機意識は団結させる」のである。 

 私は、塩野七生より少し若いが、そろそろ生の終わりを考えてよい年齢になった。大した人生ではなかったが、「親にもらった体一つで」良く生きたと少しは自分を誉めて、死を迎えても良い。

 だが、個人の命と、国の命とは違う。国の衰亡は、断じて受け入れがたい。

 「失われた20年」を終わらせて、もう一度しっかりと前を向いて歩いて行く。多少とも、右肩上がりで。そのためのラストチャンスが今なら、これに賭けるしかない。

  

         (厳島神社で)

 

 

 

 

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首相のヤジについて

2015年03月01日 | エッセイ

 私は、とっくに第一線をリタイアし、社会の片隅でひっそりて生きている人間である。それでも、一寸の虫にも五分の魂という。主権者の一人として、世の中に向かって、ストレートに (つまり、紀行文の形など取らずに) ものを言いたくなることもある。

 ただ、私は政治家でも、エコノミストでも、企業経営者でも、労働組合や農協の役員でもない。故に、難しいことはわからない。それに、私が何を言っても、世の中が1センチでも動くわけではない。

 ですから、安心して、読み捨てていただきたい。

                  ★

 「首相がヤジをとばすなど初めて見た 」と、テレビで悲憤慷慨する複数の政治評論家たちを見た。「… 大平首相は偉かった。反対意見にも耳を傾け、受け入れていた」… そうだ。

 大平さんについて思い出すことは一つ。国会での答弁や記者会見での質問で、「あーあー。うーうー」の連発。長々と時間をかけて、結局、ショート・センテンス一つだけということもしばしばあった。

 憎めないし、老獪だとは思ったが、あれを見て、心に決めた。自分がいつか「一隅のリーダー」になったときには、物事を明快、かつ簡潔に話す、自分の言葉をもったリーダーになりたいと。

 もちろん、一隅であろうとトップに立てば、言えないこと、言ってはいけないこともある。言えないことは、「それは言えません」と言い切ればいいのである。そうすれば、聞いた方も、大概、こういうことは聞いてはいけないことなんだな、と気づく。それを、誤魔化そうとするから、執拗に追及される。

 国際社会で、「もみ手外交の日本人」「いつもあいまいな日本人」「何を考えているのかわからない日本人」と言われていた時代だ。日本的老獪さが、世界に通用するわけではない。

 だが、ヤジや、「あーあー。うーうー」 ぐらいで驚いてはいけない。今では政治評論家諸氏から名宰相であったと評価の高い吉田茂首相は、記者会見のとき、「馬鹿野郎」と言って記者席にお茶をぶっかけた。プライドが高く、短気で、傲慢、孤高の政治家であった。

 でもまあ、それもこれも……、もともと政治や経済は、現実的でなまぐさいもの。道徳の時間ではありませぬ。要は、国民のため、国益のため、現実にどういう利益をもたらしてくれるのか、です。いかにお人柄や風貌が聖人・大夫然としていても、無能であっては困るのです。

 1年ごとにコロコロ代わって機能しなかった日本の政治が、やっと落ち着き、戦略をもって行動し始めたところである。つまらん非難で足を引っ張るポピュリズムはご免、3年や5年は、気長に待ちましょう、と一人で思っている。

 と思っていたら、新聞報道によると、「われ、未だ木鶏たりえず」と、安倍さん、神妙に反省されたとか。吉田茂などより、かなりお上品です。

 でも、時に、ヤジをとばす首相、良いと思いますよ。ただし、正確に的を射て、ね。

 

 

 

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身はいかに / なるともいくさ / とどめけり……昭和天皇の御製歌

2014年09月11日 | エッセイ

 「昭和天皇実録」が公表された。(新聞報道は9月9日)。

 我が家は讀賣新聞だが、その内容を、新聞に書かれているだけ、読んだ。

 そして、改めて、昭和天皇の生涯が、我が国の歴史上のどの天皇よりも、苦難に満ちたものであったことを思った。

 二度と、国を亡ぼすような戦さをしてはいけない。

 傲慢は、国を亡ぼす。 隣国の傲慢さや憎悪(ヘイト) に対して、同じレベルで付き合ってはいけない。安倍首相でも我慢しているのだから。

   国も国民も、「スタンド・アローン」(NHKドラマ「坂の上の雲」の主題歌) でなければいけない。

 と同時に、貧しい国の人々や苦難にあえぐ国の人々から、感謝され、尊敬される、清らかな国にならねばいけない。あの東北大震災のとき、アジアのストリート・チルドレンまでが、小さなお金をカンパしてくれた。涙が出ます。

 大災害にあうことは不幸なことだが、こんなにたくさんの国のたくさんの人々からカンパを受けた国はないということ、そういうことにこそ、誇りをもちたいと思う。

   一旦、敗戦でご破算になってからも、その後もずっと、日本は世界に対して、地味な努力を積み上げてきているのだ。

     ( 野 の 花 )

          ★       

   さて、「実録」 の内容紹介の記事の中に、昭和天皇の御製歌も紹介されていた。そのほんのいく首かを、ここに紹介したい。

 海軍の青年将校らが犬養毅総理を殺害した5.15事件の翌年の歌会始めの歌

 天地の(アメツチノ)  / 神にぞ祈る 

  朝なぎの / 海のごとくに / 波立たぬ世を

 しかし、天皇の願いもむなしく、今度はもっと大規模で血なまぐさいクーデターが起きる。 2.26事件である。

 陸軍の青年将校たちが独断で部隊を動かし、首相以下政府の要人宅を手分けして襲撃・殺害し、東京を制圧した。青年将校たちの気持ちはわかるとして、すぐに鎮圧に動こうとしない陸軍上層部は、天皇に情報も入れず、天皇はやむなく自ら交番に電話をして、事態を把握されたという。そして、許すことのできないクーデター事件として、再三、早期の鎮圧を求めるが、軍部は動かず、天皇は、それなら自ら近衛兵を率いて討伐に向かうとまで言われた話は有名である。

 5.15事件の犯人に対する、軍部の甘い処分が、2.26事件を招いたと言われる。

 事件を起こした青年将校らも、断固として、これを抑えようという気概のなかった将軍たちも、その知性と感情において、井の中の蛙的で(世界からどう見られるかという複眼的視点のなさ=独善性)、若い天皇だけが大人の感覚をもって孤立奮闘しているかのようだ。

          ★            

    (駿河湾の富士山)

 あの8月15日の歌 

 身はいかに / なるともいくさ / とどめけり 

    ただたふれいく / 民をおもひて

   この歌は、

 爆撃に / たふれゆく民の / 上をおもひ

         いくさとめけり / 身はいかならむとも

という歌も含めて、いくつかあったなかで、昭和天皇の歌の先生である岡野弘彦氏に相談されて、「身はいかに」にされたそうだ。天皇の歌としてのちのちまで残るから、無難なものにされるのだろうが、実感としては 「爆撃に」のほうだと思う。

 当時の日本の状況だけでなく、ご聖断のときのやりとりなどを知ると、心に迫るものがある。

 以下、長谷川三千子 『神やぶれたまはず…昭和二十年八月十五日正午』 (中央公論新社)から

 「丘の上には ( 注 : 旧約聖書創世記の「イサク奉献」の話を寓意的に踏まえている)、一億の国民と将兵が自らの命をたきぎの上に置いて、その時を待っている。『日常世界は一変し、わたしたち日本人のいのちを、永遠に燃え上がらせる焦土と化すであろう』、その時を待ってゐる。

 ところが、『その時』は訪れない。奇蹟はつひに起らなかった。神風は吹かず、神は人々を見捨てたまふた … さう思はれたその瞬間、よく見ると、たきぎの上に、一億の国民、将兵の命のかたはらに、静かに神の命が置かれてゐた。

 この『第三の絵図』には、華々しいものはなに一つない。白馬に乗って丘をかけ上る大元帥陛下のお姿もなければ、天からふり下る天使の声もない。海が二つに割れることもない。ただ、蝉の音のふりしきる真夏の太陽のもとに、神と人とが、互ひに自らの死を差し出しあふ、沈黙の瞬間が在るのみである」。

 「歴史上の事実として、本土決戦は行はれず、また、天皇は処刑されなかった。しかし、昭和二十年八月のある一瞬 … ほんの一瞬 … 日本国民全員の命と天皇陛下の命とは、あひ並んでホロコーストのたきぎの上に横たはってゐたのである」。

   このような表現(見方)を昭和天皇が好まれるかどうか、わからない。もし長谷川三千子氏が、このような「とき」を、美しいと思って、かく描いているのなら、昭和天皇の意思に反していよう。

 ただ、国家の終末の切迫感と悲壮感は、よく出ている。

 だからこそ、そのような「とき」を二度と繰り返してはいけない。

 人の命に終わりはある。だが、国は違う。美しかろうが、醜かろうが、そんなことは二の次で、国を滅亡させるような国策は、下の下である。

          ★

 戦後、昭和24年の湯川秀樹博士のノーベル賞受賞は、敗戦に打ちひしがれた国民にとって大きな励ましであった。その報を聞かれて

 うれひなく / 学びの道に / 博士らを 

   つかしめてこそ / 国は栄えめ 

   最後に、昭和天皇還暦のときの歌

   ゆかりより / むそぢの祝ひ / うけたれど

    われかへりみて / 恥多きかな   

 昭和天皇の場合、「恥多きかな」には、あの戦争への重い思いが込められているのであろうが、そういう特別の人の歌としてではなく、ごくごく凡人の歌としても、この歌はいい歌である。

 若いうちは、年をとることを 「悟りを開く」、そこまでいかなくても、「枯れていく」 ことのように思うが、そういうものではない。

 長壽になった今の時代は、還暦よりもう少し後かもしれないが、「われかへりみて / 恥多きかな」という感慨を、いつしかもつようになる。生きるとは、そういうことだ。

 そして、それは、年とともに深まっていく。

  

     ( 美保関灯台 )

  

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日々、生き抜くことを選んだ不撓不屈の人…小野田さん逝く

2014年01月20日 | エッセイ

(写真は、内容と関係ありません)

  小野田寛郎さんが亡くなった。91歳。

  偉人でも、英雄でもない。が、偉い人であったと思う。

  一人の、凛とした日本人であった。 今や、老人の中にも、このような人は滅多にいない。

                   ☆

  30年をジャングルに過ごし、平和を謳歌し、高度経済成長に浮かれる日本に帰ってきた。

   一部政治勢力やマスコミの中には、眉をひそめたり、時代錯誤と憐れんだりする人もいた。「軍国主義(者)」というレッテル貼りが好きな勢力である。

  「私は 『軍国主義の権化』 か、『軍国主義の亡霊』 かのどちらかに色分けされていた。 私はそのどちらでもないと思っていた。 私は平凡で、小さな男である。 命じられるまま戦って、死に残った一人の敗軍の兵である。 私はただ、少し遅れて帰ってきただけの男である」。

  背筋を伸ばし、相手に対してはいつも正対して、謙虚に、しかし、しっかりと応答する人であった。

 (佐原・舟めぐり)

 (川べりに飾られた雛人形)

                   ☆

  自分の生涯と生き方を語っても、明快であった。

  「 後ろを振り向いても仕方ないんですね。 ルバング島はルバング島でそれで終わり。 苦しかろうと何だろうと、その分いろいろな教訓を得ました。 今度は、それを上手く利用していく。あのときはどうしたのこうしたのと、後ろは絶対に振り向かない。 牧場をつくるときは必死で牧場をつくる。 牧場が何とかここまでできたから、次は日本の子供たちのために何か役立ちたいと思って、そのことを懸命にやる 」。

                   ☆

  ブラジルで牧場経営をやっているころの小野田さんを取材した番組があった。

  牧場には水が必要であるが、小野田さんは水源を見つける名人である。 特別な勉強をしたわけではない。 しっかり地形を読めばわかる、と言う。

 周りの人がその地形の読み方を聞くが、わからない。

 30年間もジャングルで生き延びた力は、現代に生きる誰でもが持っている力ではない、と思った。

                    ☆ 

  小野田さんが最も好んだ言葉は、「不撓不屈」。

  今どきの日本人には、重たすぎる言葉である。

  だが、精神力だけではなかろう。 水源の話からもわかるように、注意深い観察力、そして、的確な判断力や、創意工夫する力、それらを束ねているのが、不撓不屈の心だ。

  「 地図ばかり見ていると、迷い子になってしまう 」。

  「 コンパスは方向を教えてくれる。でも、川や谷の越え方は教えてくれない」。

  「今日は食べられなくても、明日も食べられなくても、明後日には何とかなる。 死にはしない」。 

  「戦いは相手次第。 生き方は自分次第」。

  やはり、すごい人だ。

                  ☆

   不撓不屈は、立派なのだ。

  映画『ラストサムライ』で、騎馬の侍たちは大砲の待ち構える政府軍に向かって疾走し、全滅した。 全滅するとわかっていながらの、はかなくも美しい自殺行為である。 「これぞ、サムライの美学」と言いたかったのであろうが、すぐに玉砕し、自決したがる 「サムライ」 像は、平和ボケした江戸時代につくられた「美学」である。

   「サムライ」 は武人、戦う人であって、殿様ではない。 炎の中に消えた「信長様」とは、立場が違う。 大阪夏の陣で、八千人を率いた一軍の長・真田幸村は、最期まで、力尽きるまで戦い抜いたと言われる。

  クリント・イーストウッド監督の 『硫黄島からの手紙』 には、赴任した栗林中将と参謀たちとの対立が描かれている。

  参謀たちは、これまでの日本軍の戦い方どおりに、玉砕を前提とした水際上陸阻止作戦を主張し、司令官に反抗した。 これを行えば、3日で玉砕する。

  合理主義者の栗林中将は、岩山の洞窟に籠っての徹底抗戦を命じる。

  硫黄島は圧倒的な米軍の前に立ちふさがる、国と国民を守る最後の砦である。 彼我の力関係は如何ともしがたく、わが軍は全滅するだろうが、一日長く持たせれば、祖国を一日、長く守ることができる。 うまくいけば、多分、どこかで探られている和平交渉が、多少とも日本に有利な形で成るかもしれない。 「東京」に時間を与えるためにも、一日でも長く戦い続ける。 玉砕はしない、自決は許さない。

   栗林中将が子供宛に色鉛筆で絵を描いた、心優しい手紙が残っている。

  小説 『永遠のゼロ』 の主人公も同じ。 身を焦がす日々の中でも、生き抜き、戦い抜こうとした。 妻子のために。

  妻子のためにも、国民のためにも、結局は同じである。

                 ☆ 

  小野田さんには硫黄島のように、自決を迫る上官はいなかった。

  しかし、30年である。 心折れること、絶望すること、自棄になり、死んでしまおうと思うこともあるであろう。

  だが、小野田さんは、注意深い観察力と、的確な判断力と、創意工夫の力を発揮し続け、不撓不屈に生き抜いた。

  帰国しても、立派に牧場をつくり、晩年は日本の子供たちのために尽力した。

  英雄でも、偉人でもなく、平凡な人かもしれない。 だが、凛として生きた、偉い人である。

 

                (御嶽山遠望)

 

 

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今日よりぞ幼な心をうち捨てて、そして、アッキーの勝ち!

2013年10月28日 | エッセイ

 (桔梗……長い間、次々咲いたが、名残の一輪か)

 読売新聞10月27日(日)から

     ★   ★   ★ 

<その1>誕生日を迎えられた皇后さまへの取材記事 

 「前の御世からお受けしたものを、精一杯 次の時代まで運ぶものでありたいと願っています」。

 「運ぶもの」との表現に、人々のために祈るという伝統を継ぐ営みの重みを感じた、と記者は書いている。

 皇后さまが運ばれたものを、この地上から失われてしまわないよう、受け継いでほしいと願う。

      ★   ★   ★ 

<その2>日曜版 「 名言巡礼 」(文:高野清美)

   萩にあった長州藩藩校「明倫館」。少年時代の吉田松陰も通った。その藩校の跡に立つ萩市立明倫小学校では、81年から、毎朝、児童は松陰の言葉を朗誦する。

 1年生の1学期は、「今日よりぞ/幼な心を/うち捨てて/人と成りにし/道を踏めかし」。

 3学期には、「親思ふ/こころにまさる/親心/けふの音づれ/何ときくらん」。

 柳林浩一校長(55)は、「 今は意味がわからなくても、ある程度の年齢に達したとき、ストンと胸におちるものがあると思います」。

 萩市の小学生では、4年になると、『松陰読本』で吉田松陰の生い立ちや事績を学ぶそうだ。俳優の岡本新八氏(65)は、在校中に配られた初版本を「私の宝物」と言う。

 「今日よりぞ/幼な心を/うち捨てて/人と成りにし/道を踏めかし」。                     

  少子化の今の時代、小学校1年生には厳しいかもしれない。

  三重苦の少女、ヘレン・ケラーは本能のままにただ粗暴に生きていた。家庭教師のサリバン先生の強引な働きかけで、ある日、ついに「言葉」(「水」=ウォーターという言葉)の存在を知る。

 のちに彼女は、あの時(言葉の存在に気づいた時)、自分の暗い魂に突然、太陽の光が差し込んだような感激を覚えたと言っている。そのときから、彼女は「人」として、知性や感性を育みながら豊かに生きていくのである。

 人は、「人」の中で、「文化」を吸収して、「人」=大人に成っていく。

 小学校に入ったら、わがままを捨てて、凛とすることを教えなければいけない。

 甘やかされ、本能のままに、騒いだり、泣いたり、ごねたり、教師にたてついたり、いじめたり、暴力を振るったりする、そういうわがままを、人間らしくない態度や行動であるとして、矯正し、立派な大人になろうと志すようしむけることが、教育の第一歩である。

 そもそもまず親が、子供の心に、そういう心構えをもたせた上で、小学校の入学式を迎えさせるべきである。それが、文化共同体の一員である大人の役目である。個人主義や、自由の基盤には、市民精神がなければいけない。

         ★

 同じ日の、同じ読売新聞の書評欄に岩村暢子という人の『日本人には二種類いる』(新潮新書)という本が紹介されていた。

 その紹介によると、日本の高度経済成長が軌道に乗り始めた1960年の前か後かで、日本人はまったく変わってしまったのだそうだ。

 著者は、カンで言っているのではない。長年に渡って、日本人の食と家族の調査研究を続けてきた結果だそうだ。

 「育児書を読む母親に育てられ、子供中心の思想で幼稚園教育を受け、ハンバーグやサラダなどの洋食を食べる」。

 一言、余計なことを言えば、ハンバーグは日本と同じように料理の伝統のあるヨーロッパの食物ではないから、「洋食」というよりも「アメリカ食」である。

 ともかく、二種類のうちのあとから出てきた日本人。その日本人が親になって育てた、さらにその次の世代の子供たち。その子供たちに対して、上記の小学校では、1981年から、松陰先生の言葉を一つずつ暗唱させるようになった。

 こういうことは、かなりの勇気がいる。その勇気に、拍手を送りたい。

  かつて萩の町を訪れたとき、静かな古い家並みに、維新の青春が匂ってくるような感覚を覚えた。

        ★   ★   ★ 

<その3>「どん底で得た『自然体 』」……安倍昭恵氏 への取材記事

   別の角度から、同じ日の、同じ新聞。

 安倍昭恵氏とは、安倍首相の奥さん。第一次の安倍内閣のときにファースト・レディとしてデビューし、長身で、ちょっと可愛い人という印象があった。アッキーと呼ばれているらしい。

 第一次安倍内閣のときは、ファースト・レディとして、「 日本人女性の代表として批判されないように、ということばかり考えていた」そうだ。

 安倍さんが二度目の首相になったとき、昭恵夫人は居酒屋を始めていた。そのことを新聞、雑誌が書き立てた。何しろ、 ジャーナリズムの半分近くは、韓国、中国を巻き込んででも、とにかく安倍さんを引きずり下ろしたいと思っている。

 2007年の突然の安倍首相退陣のあと、安倍さんも失意の日々だったが(安倍さんの場合、そのつらい日々があって、今日がある)、昭恵夫人も「世間の批判の目にさらされたくないと、家にこもりっきりになっていたこともある。そんななか、知人の誘いに応じて、故郷の下関市で無農薬のコメ作りを始めた 」。

 そのことが、立ち直るきっかけになったそうだ。「主人も私も ”どん底” を見た。ここからが自分の人生だと思った 」。

 今は、東京でも農園の一画を借りて無農薬野菜を作っている。そして、故郷の無農薬のコメや、自分が作った野菜を料理して提供する居酒屋「UZU」を始めた。1年やってまだ赤字だったらやめるという、首相との約束だったそうだが、続けることができるそうだ。

 今は、前回のときのファースト・レディ像ではなく、新境地を探す毎日だそう。

 しかし、賛否は承知で、自然体を貫こうと考えている。

 「窮屈に生きている人が私を見て、『型を破っていいんだ』と思ってくれれば、それはそれで役割を果たしているかな。無責任な形でなければ、『正しい』『やりたい』と思ったことをするのは、間違っていない。あまり恐れず、ガンガンいきたいですね 」。

   ミャンマーに学校を建てるNPOでも活躍している。

 昨夜は、首相公邸で、外国の要人2人を招いて、夕食会をもったそうだ。

 やはり、自分を大切にしながらも、ファースト・レディとしての仕事も考えて、一生懸命がんばっている。

 テレビの映像で見たが、先日の各国の首脳が集まった国際会議の写真撮影の場。韓国の李大統領の横にたまたま昭恵夫人が立ち、さらにその横に安倍首相が立った。そのとき、昭恵夫人は、何の屈託もない笑顔で隣の李大統領に話しかけ、それを見て、首相もにこやかに李大統領の方を見た。

 身長の低い李大統領の表情は一瞬しか見えなかったが、アッキーにつられて笑顔を見せていた。

 「アッキーの勝ち!」 と思いましたね。

 人の上に立つ人は、「晴朗」さを感じさせる人でなければいけない。

 これは、古代ローマ史やヴェネツィア史を通じて、数々の歴史上のトップリーダーを描いてきた塩野七生氏の言葉である。

  安倍さんも、昭恵夫人も、それがありますね。 賢いけど、爽やかです。 (了)

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

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「八重の桜 ─ 鶴ケ城開城」を見て … 70年後の日本の姿が

2013年07月25日 | エッセイ

殿様はなぜ生きたのか?? >

   NHK大河ドラマ『八重の桜 ── 鶴ヶ城開城』を見た。

 会津藩は幕府の要請を断れず、帝の願いもあり、「尊王攘夷」を叫ぶテロリズムから都の治安を守ろうとした。

 だが、「薩長史観」からすれば、会津は尊皇攘夷派の志士たちを弾圧し、さらに長州を京から追放した賊軍であり、憎むべき勢力であった。 

 故に、会津一藩を包囲した会津戦争は、壮絶な戦いになった。

 1日に3000発の砲弾が城に撃ち込まれ、城に立てこもっていた老人、女、子どもたちも死傷した。女性の薙刀隊も銃弾に倒れ、少年たちを組織した白虎隊も自刃し、家老家では家老の母、妻、娘たちまでもが全員、白装束で自決した。

 戦いの後、生き残った旧家臣たちのその後の人生も、悲惨を極めたと言う。

 にもかかわらず、殿様はなぜ生き延びたのか?

            ★

みなは、生き抜いてほしい >

 矢尽き、刀折れ、糧食も尽き、精魂尽き果てて、降参、開城する。

 この一藩滅亡のとき、松平容保は、生き残った家臣たちを前に、「私が至らないために、事、ここに至った。すべて私の責任である」と謝り、「みなは、どうか生きて‥‥生き抜いてほしい」と訴える。

 激動する時代のなか、「藩主」であるという自覚をもって、藩の意思決定をリードしてきた殿様だから、一藩が精魂尽き果てた今、最後は自分の命を引きかえに、生き残った家臣やその家族の命を救うつもりであったのだろう。国は壊滅しても、せめて生き残っている者は、生き抜いてほしい。

 誠実で優秀なリーダーであるがゆえに、或いは、そうありたいと努めるほどに、歴史の渦に巻き込まれていき、いつの間にか歴史の敵役・標的とされ、その優しい心根に反して、藩と家臣・その家族を巻き込んで、一藩もろともに壊滅していく。その悔しさ、無念さ、悲劇性を、綾野剛が好演していた。

         ★

祖国(郷土)防衛戦争 >

 思うに、会津の家臣たちは殿様のために戦ったのではない。女、子どもまでがその運命を引き受けたのは、殿様一己のためではない。

 松平容保という一人の殿様の、その命と肉体、その個人的誇りや、個人的幸福を守るために、多くの家臣とその家族が命を投げ出したわけではない。

 確かに容保は、殿様として仰ぐに足る心根をもった殿様だった。この殿様が中心に居たから、会津は一丸となって戦えた。

 だが、会津の人々にとって、会津戦争は、殿様を守るためだけのいくさではなく、祖国(郷土)防衛戦争であった、と思う。会津が守ろうとしたのは会津であり、「会津の心」であった。

 会津人の一人一人の「心」のバックグランドにあるのは、祖先たちの歴史であり、先祖から伝えられた教えであり、会津の言葉であり、祭りや行事であり、会津の山や川や田や風であり、四季の変化であり、会津の風土であった。

 目に見えるものもあれば、見えないものもある。故に、「会津の心」は、会津の野や山や川に居ます「神々」 のことであると言い換えてもいい。

 会津の「心」を守る戦いは、ふるさとを守る戦いであった。

         ★

会津の山や川や風とともに >

 無数の砲弾・銃弾を受け、いよいよ「降参」し、「開城」するとなったとき、殿様は、「自分が至らぬために、申し訳なかった」と、家臣たちに頭を下げた。

 頭を下げたのは、既に死んでいった者たちへの思いからでもあろう。多くの死者の死を無駄にして降伏し、国を亡ぼすということは … 当然、万死に値する。

 だが、「殿様にだけは生きて、生き抜いてほしい 」というのが、降伏する家臣たちの心だった。

 ふるさとは、今からは敵に占領され、統治される。

 殿様にまで死なれたら、死んでいった者たちは、何のために死んだのか? 全てが無意味になる。 全てが無に帰してしまう。

 会津のために死んでいった、多くの男たちや女たちや年寄りたちや、少年や少女たちの魂はどこを漂うのか?

 声高に主張することはできないだろう。いや、そんなことはしなくてもいい。しかし、殿様が生きて、存在することによって、自分たちが何のために戦い、死んだのかというその証しが、存在することになる。殿様にまで死なれたら、何も残らないではないか!

 … だから、容保は生き続けなければならなかった。そして、生き続けた。

 会津の山や川や風や、美しいふるさとを守って命を捨てた多くの人々の心とともに。

 そのとき、容保は、死んでいった者たちとともに、神となる。

         ★

絶望的な戦いを続けた70年後の日本の姿と >

 ドラマを見ながら、圧倒的な敵軍に対して絶望的な戦いを続ける会津が、その70年後の日本の姿にダブってくる。

 第二次世界大戦における日本もまた、会津を遥かに超えた形で、絶望的な戦いを続け、何百万人という将兵を死なせ、国土を文字通り焦土とし、挙句に、降伏し、「侵略国」のレッテルを貼られ、戦争指導者たちは「A級戦犯」として戦勝国に裁かれ、処刑された。

 戦争を正邪で判断することはできない。 非は会津にもあったろうが、それは薩長と同じくらいに、という意味においてである。

 ただ、戦いに敗れるということは、そういうことである。

      ★   ★   ★

 だが、思うに、日本国民は、A級戦犯として処刑された戦争指導者からも、裁判の前に潔く自決した戦争指導者からも、裁判にもかけられず戦後を生き延びた多くの戦争指導者からも、「事、ここに至ったのは、自分が至らなかったからである」という悲痛な言葉を、ついに聞くことはなかった。

 彼らは、江戸時代の殿様よりも気位は高く、国民への責任感は低かったということであろう。

 彼らはただ、学校の成績において「秀才」であったというだけで指導者となった。ところが、不幸にも、軍人としても、政治家・外交官としても、彼らの力量は世界の中で三流だった。 

 問題は、彼らが自分の力量は三流であるということを自覚していなかったことにある。

 中央政府に対し極秘のうちに謀略を練り、勝手に兵を動かし、突如、満州国を作った関東軍のエリート参謀たち。

 何度も和平を結ぶチャンスがあったにもかかわらず、手柄を立てたくて、中国戦線を拡大していった軍人たち。

 かっこよく啖呵を切って国際連盟を脱退し、あろうことかヒトラーと同盟を結んだ外交官。

 自分たちが「井の中の蛙」と自覚せず、思いあがって、東京を戒厳下においた青年士官たち。

 圧倒的な国力の差を承知しながら、「やむにやまれぬ大和魂」とばかりに対米戦争を開始した軍人指導者。

 いずれも出世主義的で、鼻持ちならないほど自信過剰で、破れかぶれで、驚くほど単細胞であり、国益に反したスタンドプレーである。

 「追い込まれてやむなく起った」のが日本、などというセンチメンタリズムに酔っていてはいけない。防衛線の無秩序な拡大は膨張主義であり、その結果、多くの敵をつくり、追いつめられ、亡国に至ったのである。

 国際関係は力関係だから、国益を守れないときもあろう。 だが、亡国を招いた指導者は、万死に値する。

 会津藩の名誉のために言えば、会津は幕府の要請と帝の願いを受け、都の平穏を守ろうとしただけである。

          ★

 以上は、日本国民の一人として、日本の戦争指導者の、指導者としての「責任」を追及しているのであって、彼らを、戦勝国が、一方的に「戦争犯罪人」として裁き、処刑したという蛮行を、肯定しているわけでは、ない。

 裁判という恰好だけつけてはいるが、戦国時代に立ち戻ったような野蛮な報復主義である。

   

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「自然エネルギー」派の想像力の貧困 … スウェーデンの原発政策

2013年05月07日 | エッセイ

   ローカル線に乗って旅をしていると、山深い日本の風景の中に、突然、見慣れない景色が飛び込んでくる。

 低い山々の連なる尾根の上に、無機質で、巨大な、あの風車が、次々と連なって立つ。それはまるで、日本の山々を上から圧するかのようで、不気味である。

 山の尾根が削り取られ、コンクリートで固められ、その上に巨大な塔が乗る。

 弥生時代以来、キノコ採りやシバ刈りには入っても、鉄やコンクリートによる人工の手は加えられたことがなかった自然が、無残に破壊されている。

 まるでオームのサティアンのように、過疎の、山間部の、国民の目の届きにくいところに、いつの間にか建てられ、日本の自然が破壊されている。

 今は、まだよい。 本気で原発を全廃し、その分をこのような風車や太陽光パネルで埋め合わせるとしたら、 日本列島は、すさまじい自然破壊に見舞われるであろう。その近未来の姿を、「自然エネルギー」を叫ぶ人たちは、想像しようとさえしないのだ。

 景観を損なわないよう、海上遠くに風車を建てるということもできるかもしれない。 しかし、いまは、まだその技術は、ない。その程度の技術もないのに、 性急に、弥生時代以来の自然を破壊してよいのか。

 しかも、その巨大な風車が倒壊するという事件が、すでに2件も起きている。

 そこが誰の所有の山かという、けちな所有権の問題ではない。自分の土地なら、何をしても良いわけではなかろう。 本来、そこもまた、日本の国土なのだ。

     ★   ★   ★

   読売新聞、5月4日。

 世界原子力協会理事長 アグネス・リーシング氏 (女性。専門は放射線防護 ) への、スウェーデンの原発事情に関するインタビュー記事は興味深かった。

  「私たち (スウェーデン人) は環境保護の意識が強い。原発を導入したのはダム建設をやめ、河川の自然を守りたかったからだ。石油依存からも脱したかった」。

── 「脱原発」に転じたのは?

  「1979年の米スリーマイル島原発事故だ。原発の危険性をめぐる議論が起き、翌年の国民投票で2010年までに脱原発すると決めた」。

── それが、再び原発維持へと回帰したのは?

  「その後、原子炉に代わるエネルギー源の議論が始まった。『風力と太陽光で大丈夫』という意見もあった。だが、無理だとわかってきた。‥‥ 国民は政府以上に原子力を支持するようになった」。

── ドイツは、脱原発、自然エネルギーでいくと政策変更しましたが?

 「ドイツは情緒的、感情的な決定をしましたが、やがて、無理だとわかって、引き返してくるでしょう」。

── チェルノブイリ原発事故では、スウェーデンも放射能汚染した。どう対応したのか?

  「福島と似た状況だった。多くの間違いを犯した。政府は非常に厳しい基準を定めた。人々が安心すると考えたからだ。だが、逆効果だった。かえって過剰な不安を募らせた」。

── 日本は、1ミリシーベルトを除染の目標値にしている。

  「厳しすぎる。益より害が多い。‥‥ さまざまな報告を読む限り、福島の放射能レベルは低い。この水準で、今まで健康に影響が出たことはない」。

  「スウェーデンと日本は似ている。どちらもきれい好きだ。きれいな自然を守ろうとする。だから、日本の人々の気持ちも苦しみもわかる。だが、非現実的な措置は、無意味だ」。

     ★   ★   ★  

 未来に向けて、自然エネルギーを取り入れることに、反対する者は誰もいないだろう。

 しかし、だからと言って、あの無機質な風車群と、黒々としたパネル群で、この日本列島を、二度と立ち直れないほどに破壊し、日本の景観を壊して、「これが自然エネルギーです」と言っても、それは通用しない。

 ドイツやオーストリアでは、かつて洪水対策としてドナウ川の川岸をコンクリートで固める護岸工事をやったが、のちに反省して、漠大な費用をかけ、再びコンクリートを全部撤去し、魚や蟹の棲める川岸に戻した。

 国に必要なエネルギーの2割分とか3割分を、自然エネルギーで確保しようとすれば、これは壮大な取り組みとなる。 どこに、どのような技術を使って、太陽光パネルを設置し、風車を建設するか、自然保護との関係をどうするか、そういったことについて、国民的合意と納得を得ながら進めなければならない。

 橋下徹氏も嘉田由紀子氏も、情緒的・感情的脱原発論者である。しかし、仮にも政治を司る人が、国家的な事業に関して、「左翼小児病患者」のようでは困る。 

     ★   ★   ★ 

 もう一つ。

 ドナルド・キーンさんも言っているように、日本人が、自ら、風評被害をばらまくのはやめるべきである。

 福島県の中の定められた地域以外の東北の人が、放射能を恐れて関西に逃げてきて、挙句に逃げてきた自治体に押しかけて、「東北のゴミを受け入れるな!」などと言うのは、いい加減にしてもらいたい。

 福島に踏みとどまって、牧畜や漁業を必死で再興しようと頑張っている人たち、地元産のバターを使って元通りのおいしいケーキ屋さんを再開しようと頑張っている人たちもいる。そのケーキ屋さんの店開きに、地元の人たちが大勢、買いに来ていた。

 1ミリシーベルト以下にするという、民主党政権が定めた除染基準を変えるというのは大変だと思うが、そもそもの風評被害の発生源は、このポピュリズム的な規準である。 政府も、関係する科学者も、タイミングを見て、規準を変えるべきである。

 そして、慎重に、かつ着実に、原発を再稼動させるべきである。未来はともかく、少なくとも今は原発は必要だし、日本がもう一度原発を復興させ、より安全な原発をつくっていくことは、世界に貢献する道でもある。

  エネルギーに不足し( 結局、不足しなかったではないか、などと、ばかなことを言う人がいるが )、化石燃料の大量輸入と大量消費で電気料金が値上がりし、採算が取れず工場を閉鎖したり、海外へ移転したりする企業が増えている。 その結果、新卒者の雇用を保障できないという事態がなかなか克服できない。 こんな状況で、どうして東北の復興が出来よう。

 新卒者の雇用を保障する国になることは、今の日本の最大の急務である。

 

 

 

 

 

 

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若者に職を! 成長していく国に

2013年01月06日 | エッセイ

( 昔、神様が、舟をこいで岩礁のあたりに行き、魚たちと遊んだという。その岩礁を聖なる岩として、海に向けて鳥居が立つ。出雲の国・美保関灯台付近である。)

( 前回の続き‥‥)

読売新聞 ── 曽野綾子氏と橋本五郎氏の対談から

曽野> 

  例えば無農薬野菜。これは「反原発」と同じで、いいに決まっているけど、そう言っている人にいっぺん1個ずつ、春キャベツを植えさせたらいいんです。私もやったことがありますが、朝昼晩と青虫をつぶしても、結局、育てられなかった。涼しい土地とか、冬ならできるのかもしれないが、春はできない。日本人が食べる量のキャベツは無農薬ではまかないきれない。同じ論理ですよ。

 無農薬キャベツしか食べたくないと思う人たちは、冬キャベツ以外は食べないか、農薬で育てたキャベツをよく洗うかすればいい。これで全部OKというのはない。だから、無農薬野菜を食べようと思ったら、実に高くつきます。

 まさに原発をなくす場合も同じです。やってみないから、論理だけ言えるんです。

橋本>

   この世に誰かが100%正しくて、誰かが0なんてものはありえないんです。せいぜい51対49。それが人間の社会だと思う。

曽野> 

 それが人間の原理だということを教えないから、幼稚になる。善だけでやろうと思っても、できない。だから、せめて次善か、次々善の策を取るんです。

          ☆

 … 昨年後半から、反原発のデモが国会に押し寄せ、そのなかには、孫の世代のために参加するという「年金おじさん」も結構混じっていたようだ。

 放射能が怖いと、茨城県あたりから関西に逃げてきて、関西の自治体が東北のガレキを受け入れようとすると、役所に押しかけて「反対!!」を叫ぶ若い母親もいた。

 今の日本は、「ちぢみ志向」と、身勝手なエゴイズムが渦巻いている。

  自身は豊かな年金生活を確保してその上に胡坐をかき、或いは、自分の夫がリストラされる可能性などは全くないと信じきっている。

  何よりも、日本が今程度にはずっと豊かだと、不遜な思いを抱いている人たちだ。 

     ☆    ☆    ☆ 

組閣発表後の安倍首相の記者会見のスピーチから

  最後にくり返しますが、この政権に課せられた使命は、まず強い経済を取り戻していくことであります。

 人口が減少していくから成長はむずかしい。確かにむずかしいでしょう。しかし、成長をあきらめた国、成長していこうという精神を失った国には、未来はないと思います。

 我々は決断し、そして正しい政策を実行していくことによって成長していく。明るい未来を目指して進んでいく、そういう国づくりを国民とともに目指していきたいと考えております。

          ☆

 今、日本の抱えている最大の課題は、新卒者(高卒、大卒者)に対して、(それぞれの力に応じて、ではあるが)、仕事を選択できるだけの求人数を提供できる社会を取り戻すことである。ここ数年、それができていない。( 「3Kの仕事はイヤ」という若者のことは、また別の次元の話である)。

 そのために、経済を建て直すこと。経済が停滞し、国内産業が疲弊し、税収がますます落ち込めば、10%、20%の消費税を上げても、水の泡と消えてしまう。ギリシャがそれを証明している。日本の国家財政は、二度と立ち直れない泥沼に落ち込むだろう。 

 まずは再稼動できる原発は再稼動し、電力を安定的に提供し、経済を活性化して、若者に前を向かせる。経済を活性化しなければ、そもそも東北地方の思い切った復興策も、全く軌道に乗らない。

 脱原発のことは、ゆっくり腰を落ち着けて、取り組んだら良いのです。

 「名もなく、貧しく、美しく」 は、日本人らしい生き方で、私もそのように生きたい。 

   しかし、肉やバターは栄養価が高すぎて健康に良くない。魚は、絶滅するから保護すべきだ。野菜は無農薬でなきゃだめだ、と言っていたら、行き着く先は仙人だ。そういう馬鹿なジイサンや若い母親や、何とかといういきり立った俳優の主張に乗るわけにはいかない。

          ☆ 

 お正月の最後にもう一言。

 あの巨大で、無機質で、低周波を発する風車を、日本列島の山々や海に林立させるのか?

 休耕田を、あの黒々としたパネルで埋め尽くすのか?

 神々のすむ山や、海や、里を、再び田中角栄の「日本列島改造論」のように、破壊するつもりか?

 そういうことをして、何割の電力が賄えるというのか?

 その莫大な費用を、誰が出すのか?

 神々がすむ山や川や海や里だということを、決して忘れてはいけない。 そう簡単にはいかないのです。

  

  

 

 

 

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自分を支えてくれる人がどれだけいるか‥‥リーダー論

2013年01月05日 | エッセイ

           ( 大阪城の梅 )

 読売新聞の元旦号から連載した橋本五郎氏 ( 読売新聞の元論説委員 )と曽野綾子氏の対談は、示唆に富んで興味深かった。

        ☆

橋本> (政治家、リーダーについて ) 一人ではできませんから、自分を支えてくれる人たちがどれだけいるかということが大切です。広い意味で人徳がなければいけない。

曽野> 「お友達内閣」って、いけないんですか? 私はそうは思いません。

橋本> 当たり前じゃないですか。問題はいい友達か、悪い友達か、です。

曽野> だから、首相がどんないいお友達をお持ちかって、試されていますね。野田前首相はあまりにもお友達の質が悪すぎた。

橋本> 民主党政権では、みんなで支えようとする意識がなかった。

曽野> それは民主党の独特の状況なんですか?

橋本> どの党でもありがちですが、民主党は「俺が、俺が」が強すぎた。一方で、支えられるほうも支えられるだけの人格を錬磨してこないと。

曽野> 支えてもらったことをきちんと感じてなきゃいけませんね。

橋本> 民主党が再建できるかどうかは、「自分たちは支えられなかった」「自分は支えられるに値するほどの人間じゃなかった」と反省するところから全てのスタートがある。国を統治するということを簡単に考えすぎていましたね。

        ☆

 これは、政治家だけの話ではない。

 企業でも、病院でも、学校でも、政党でも、これからリーダーになろうとする人は、肝に銘じなければならないことである。また、次世代のリーダーを指名する立場にある人も、よくよく考えなければならない。

 リーダーとして一番大切なものは何か? 先見性だとか、発想力だとか、政策立案能力だとか、組織する能力だとか、いろいろ言われる。しかし、そのような能力は、リーダーを支える部下がもっていれば済むことだ。

 昔も、今も、トップに求められる絶対不可欠なもの、それは、人徳である。

 人徳のある人間なら、皆が支える。

 また、人徳のある人間なら、自分が支えてもらっていることをきちんと感じとることができる。そういうヒューマンな感性が、すなわち人徳でもある。

 リーダーたらんとするものは、支えられるに値する人間になるよう、人格を練磨することだ。

 「俺が、俺が」の組織は、滅びる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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できるだけ長く (安倍さんに期待する 2)

2012年12月30日 | エッセイ

 先日の読売新聞の世論調査によると、安倍内閣の支持率は65%だった。十分である。

 調査では、麻生さんの起用に賛否が分かれ、谷垣さんの起用に否定は少なく、石破さんには大賛成となっている。

 石破さんは、今が旬の政治家。私も大いに期待しているが、まだ首相の品格はない。安倍さんあっての石破さんである。吹く風に惑わされることなく、幹事長として、しっかりやりきってほしい。

 麻生さんの人事は、私は、◎(二重丸)。超ベテランだが、精神が若々しいし、さわやかである。 自民党最後の首相だったが、あのときは自民党そのものの退潮が著しく、持ちこたえられなかった。彼に何の失政もない。国民は、彼を、というよりも自民党を一旦捨てたが、その後の民主党の首相、鳩山、菅、野田と比べてみればよい。器の違いは歴然だ。

 野党時代の自民党を支えた谷垣さんを入閣させたのは、安倍さんの温かさ。「あなたのお蔭で自民党はここまで来られたのだから、ぜひもう少し一緒にやってほしい」という心だ。石原ジュニアに裏切られ(敗れ)、力衰えた今の谷垣さんをつぶすのは簡単だ。だが、先輩を大切にする。それが、真のリーダーというものだ。人間としての器の問題である。これから企業その他の組織でリーダーになろうかという人は、ぜひ、こういう人事を見習ってほしい。

 世論調査では、日米関係は改善方向と見ている。しっかり改善してほしい。

 戦前なら日英同盟。このお蔭でロシアにも負けなかった。その後、ドイツと結んで、日本はおかしくなった。戦後は、日米同盟。アングロ・サクソンとしっかり手をつなぐことだ。

 日中関係の改善は、期待薄である。

 朝貢外交でもやらなければ、誰が首相でも改善しない。

 仮に、関係改善しても、2、3年もすれば、必ず中国はまた反日暴動を意図的に引き起こすだろう。暴動或いは他の手で、進出した日本企業を追い出し、ヒト(技術を与え育てた)、モノ、カネを奪い取る。それが戦前からの彼らのやり口である。中国に行かなくても、いくらでも中国から儲けるやり方はある。多くの賢い日本企業は、今回、そのことを学んで、中国から撤収した。これも、イノベーションである。

 ただし、安倍さんは、硬軟両方の戦術を使い分けるだろう。首相は硬派を演じるが、軟派役もちゃんと配置している。そういうところが、民主党の、真面目なだけのやり方と違うところだ。あれでは舐められる。

 世論調査で一番の注目点は、「安倍内閣にどのくらい続けてほしいか」に対して、「できるだけ長く」が57%。「2年か3年」が23%ある。党派を超えて、8割の国民が、今までのように1年で終わってほしくないと願っている。

 安倍さん、健康に気をつけて、頑張ってほしい。でも、あなたは、今度は、死んでも良いぐらいの気持ちで臨んでいるでしょう。あなたをテレビで見ていると、わかります。

 今、日本には、あなたしかいないのだから、ながーくやってほしい。最低、5年。小泉さんぐらい。

 そうすれば、日本も、光が見えてきて、次のリーダーも、出てくるでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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今、日本を建て直すことのできる唯一の政治家 (安倍さんに期待する 1)

2012年12月29日 | エッセイ

 本当は、このブログで、政治のことに触れたくない。

 もとから自民党支持者であったわけではない。「支持政党なし」の時代もあったし、選挙にさえ行かなかった時期もあった。

 だが、‥‥ 高度経済成長の時代なら、だれがやっても、そこそこ首相は務まった。

 中国が人民服を着て内ゲバをやっている間は、アメリカの庇護のもと、のんびりと内向きに暮らし、平和ボケしていたらよかった。

 しかし、日本国がこれだけ政治的・経済的に疲弊し、一方で隣国・中華人民共和国が社会帝国主義的意図を隠さなくなった今、真にしっかりした政党と首相を選ばなければ、10年後のこの国は危うい、と思う。

 (今回の選挙の結果、選ばれた政治家は自分とせいぜい同世代、多くは年下になったので、以下、「さん」付けで書く。)

 さて、そう思って、自民党、維新の会、みんなの党から、民主党、社民党、日本共産党まで、ぐるっと政界を見回してみる。日本国の首相にふさわしい人物として、だれがいるだろう? 

 結論を言えば、今、日本国の首相としての品格と識見と覚悟をもった政治家は、安倍さん以外にはいない。候補者として誰と誰、ではない。安倍さんが一人、突出し、他にはいない。人生をそれなりに生きてきて、政治に関する考えもいろいろ変わったが、今は、本当にそう思う。

 故に、安倍さんの長期政権を期待する。もう、コロコロ首相が代わるのは、ごめんこうむりたい。アメリカの大統領は8年、中国の身内で選ぶ「お手盛りボス」の任期は10年だ。

 だから、それぐらい長くやってほしい。大臣の失言だとか事務所費がどうとか、或いは、奥さんが居酒屋を始めただとか、そんなことは、日本国にとってどうでもよいことだ。

 くり返すが、安倍さん以外に、今、日本国の首相になる器量をもった人物は、存在しない。

         ☆

 「維新」の橋下さんは、若いが、賢い人だ。突然政治家になった彼は、不勉強のため、自分に一国をリードする国家観や歴史認識がないことを自覚している。だから、トップに安倍さんを担ぎ出そうとし、次善の策として石原さんを担ぎ出した。石原さんと一緒になったのを、損をした、選挙で得をしなかったと言う人もいるが、彼は、国家観や歴史観をもつ人を必要としたのだ。いずれ落ち着いて、ゆっくり勉強できるときも持てるだろう。きちんと自己認識をもてる彼に、改めてその将来を期待したい。だから、「脱原発」などということを、軽々しく言ってはいけない。

 「みんなの党」の渡辺さん。その自己認識において、橋下さんに劣る。まず、「アジェンダ」という耳障りな言葉をやめてほしい。「船中八策」のほうが、ましだ。第二に、ヘアスタイルを変えなさい。橋下さんは、知事選に立候補するに当たって、茶髪を黒くした。渡辺さんのそういう自意識過剰は、言い換えれば、日本国のために命をかけるという覚悟ができていない、ということだ。人気を気にし、若者に媚びる自意識過剰な人物には、首相はおろか、大臣すら任せることはできない。

 民主党の岡田さん、野田さん、前原さんらは、一国を預けるには、幼すぎる。懐の深さがない。これではアメリカや、ロシアや、中国のトップと渡り合うことは、到底ムリ。ただ真面目なだけだ。

 原口や枝野には、その真面目さすら感じられない。口だけ達者。その口先だけで勝負できていると思っているところが、薄い。

  日教組や公務員労組をバックに当選した議員が幅を利かすような政党に、国政は任せられない。この際、学校や役所に帰って、子どもや市民を相手に、まじめに仕事をしなさい。給料もらって、組合活動や選挙運動ばかりやるのは、もうやめることだ。輿石さん、あなたもです。

  日本共産党。かつてこの党は、ソ連共産党、中国共産党と真っ向から闘った。あの気概は今いずこ? 世界を視野に入れる大局観や戦略において、すっかり時代遅れになってしまった。

         ☆ 

  今は、とにかく安倍さんしかいないのだから、この国と、この国の歴史と、この国の文化を愛する私は、安倍さんを支持します。(続く)

 

 

 

 

 

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